2016年9月8日木曜日

中国の火砲の運用史

 ちょっとブログ記事で洩らしたところコメント欄でリクエストを求められたので、中国の火砲の運用史について昨夜の一夜漬けの成果をお見せします。

 まずそもそも火砲の定義とは何なのかですが、現在では一般的に「大砲」と同義とされています。ただ火器全般のことを「砲」とも呼び、また広義的には「火薬を使った兵器」とも言えるので、今回の記事では近代的な大砲はそれほど取り扱わずに火薬の発明からそれを用いたごく初期の火薬兵器についてその発展段階を追います。

<火薬の発明>
 まずそもそもの火薬ですが、これは中国四大発明に加えられるほど画期的なもので中国発祥であることは間違いありません。ただ発明時期とその瞬間については諸説あり、時期に関しては大体6~7世紀頃とされ(その時代の資料に火薬らしい物品の説明が登場する)、どうやって発明されたかについては説がたくさん分かれているものの、薬剤師が自前の薬を練っている最中に偶然発見した、っていうか急にパンって破裂してビビったというエピソードが個人的に好きだしありそうな気がします。

<それは爆竹から始まった>
 発明された直後はまだ生産量も少なく品質も悪かったためか民用はおろか軍用にもほとんど使用されなかったものの、大体10世紀の宋の時代辺りから徐々に軍事用途として活用が広がっていきました。ではこの時代の中国でどのように火薬が兵器として使われたのかというと、結論から言ってしまうと当初は爆竹として用いられたもようです。

火槍(Wikipedia)

 この時代の火薬兵器は決して冗談でもなく紛れもない爆竹で、竹筒の中に紙で撒いた火薬を仕込み槍の先につけ、敵に突き出したところで破裂させるというまさに爆竹そのものでした。目の前で破裂させてどないすんねんとツッコミが来そうですが殺傷目的というよりは音響による威嚇目的としての意味合いが強く、使用場所も城壁を登ってくる兵に向かって使ったりしたほか、北から馬に乗ってやってくる異民族の軍団に対してその乗っている馬を驚かす目的で使うことが多かったそうです。
 一応、中には物を詰めることで爆発共に発射させて殺傷する兵器もあったそうですが、火薬を詰める竹が構造上脆いこともあってそれほど強くなく、また火薬が悪かったことから一斉射撃も行えなかったそうです。多分当時の人も、これなら弓の方がずっとマシだと思ったことでしょう。

<てつはうという手榴弾>
 もっとも殺傷目的での火薬運用も全くなかったわけではなく、陶器でできた玉の中に火薬を仕込み導火線をつけ、火をつけた後で敵に向かって投げつけることで中の火薬が爆発し、外側の陶器が割れてその破片が飛び散ることで攻撃する兵器、日本風に言えば元寇時の「てつはう」もこの時代辺りから登場したそうです。この兵器は爆発力こそ現代とは比較になりませんが手榴弾そのもので、実質的に直接攻撃する用途で火薬を用いた兵器としてはこれが最初なのではないかと思います。
 しかしこのてつはうも手榴弾として使うよりかはやはり音響による威嚇効果目的の方が大きく、使う相手としても異民族がメインだったようです。なお外側の衣には陶器のほか鉄を用いた者もあり鉄球の手榴弾も存在したそうですが鉄球と聞くと無性に、「祖先から受け継いだ鉄球ッ!」と叫びたくなります

<モンゴル軍による火薬運用>
 こうして徐々に火薬の兵器利用が進みましたが、宋の時代はあくまで支援兵器的な役割が大きかったもののその宋を平らげた元ことモンゴル軍は火薬兵器に着目し、先程出てきたてつはうなどをより大規模に活用し始めました。また非常に原始的ではあるものの金属製の筒の中に石とか物を詰めて火薬で発射する、現代でいう「銃」もこの頃に中国で発明されましたが、生憎この銃の形態はそれほど発展せずに終わってしまいます。
 モンゴル軍が火薬兵器を活用したことは日本も元寇で体験済みですが、それ以上に影響が大きかったのは西洋世界です。遥かヨーロッパくんだりまで侵略したモンゴル軍によって中東、西欧にも火薬が伝わったことで(アラビア商人が伝来させたという説もあり)、西欧でも火薬の軍事利用がこの後ドンドン広がっていく、というかあっという間に中国を追い抜いて行ってしまいます。

<西洋に対する周回遅れ>
 明の時代に移ると、火薬の生産量も高まってきたことから軍事用にもたくさん使われるようになってきます。特に明を建国した朱元璋は戦闘で火薬を率先して使ったと言われており、火薬に関する軍事指南資料もこの時代によく書かれています。
 ただ火薬を使うと言っても、その推進力を使って弾丸を発射する銃はほとんど全く使われず、どちらかといえば攻城戦の際に城壁を破壊したりするために爆発力を利用するケースがほとんどだった模様です。一応、宋の時代に木製大砲(木砲)、元の時代に青銅製の大砲が出ており、元末から明初期にはこの木砲が反乱を起こした民兵がこぞって大量に使っていたとありますが、西欧ではこの辺の時代からマスケット銃を量産してアメリカ大陸を侵略したりし始めたのと比べるといまいち進化が遅いように感じます。

 実際、明が成立して戦争が減ると中国の火薬の兵器利用は西洋にますます後れを取り、それどころか火縄銃が伝来した日本にすらも運用面で遅れてしまっていたように見えます。実際、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に明軍も戦っていますが、朝鮮軍ともども日本軍が集中的に運用する火縄銃の前に序盤はずっと苦戦しっぱなしでした。

<西洋伝来の大砲で>
 極めつけは明末期、満州族が中原に侵略し始めた際に山海関の防衛戦で袁崇煥という元文官の武将がポルトガルから大砲を取り寄せ防衛を行い、敵軍を散々に蹴散らすという大活躍を収めています。なお満州族を束ね後の清王朝の太祖とされるヌルハチはこの戦闘で負った傷が元でそのすぐ後に亡くなっています。
 この戦闘が示す事実としては、大砲の製造、そして運用面で中国は西洋に対しこの時点で大きく劣っていたということです。自前で作れるのなら輸入なんてしないし、また敵軍である清軍も対抗策がなかったということは中国本土でこのような火砲がほとんど運用されていなかったとも考えることが出来ます。

 非常に残念な話ですが火薬の発明こそ中国であるものの、その火薬の軍事利用においては伝来先の西欧の方が格段に早く進んでしまいました。この理由についてはまた次の記事で書こうかと思いますが、百年戦争を始め軍事的需要が高かったことと、大砲を作る鋳造技術が上回っていたことが大きいのではと思います。
 その後、清によって中国が統一されて平和な時代が訪れるとますます火薬を使った軍事研究が西洋に比べて遅れ、後のアヘン戦争時にはどうにもならないほどの大きな差をつけられることとなったわけです。

2 件のコメント:

  1. わざわざありがとうございます。

    日中戦争時代にはモーゼル小銃のコピー生産、毛沢東時代にはベトナムへ56式を輸出してましたが、最近は中国製の自動小銃がカンボジアやミャンマーなど多くの国で使われるようになってやっと西欧に追いついた感じでしょうね。

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    1.  恐らく期待されているのは現代の人民解放軍の火器についてだとは分かっていましたが、あんまりこっち方面には詳しくなく、また火薬の歴史を追いたかったのでこういう形式にしました。
       解放軍についてはまた今度書きますが、そもそもこいつら総力戦をまだ知らないのではと思う節があり、戦争の出来る軍隊ではないと考えています。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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