・中国における新会社設立に関するお知らせ(シャープ)
本題と関係ありませんが上記のシャープが出したプレスリリース中にある「当社の幅広い事業や技術、商品企画力を活かし、オールシャープの総合力を発揮すべく」という文言について友人が、「ワン・オブ・ホンハイの間違いじゃね」と身も蓋もない事言ってました。間違っちゃないしむしろこっちの方が正しいけど、こんなの聞いたらシャープ社員泣いちゃうぞ。
・示現流(Wikipedia)
そんなわけで本題に入りますが多少剣道や時代劇にかじった者なら「示現流」という言葉を聞いてすぐピンと来るでしょう。示現流とは薩摩藩だったころの鹿児島で主流となった剣法で、その特徴はとして「初太刀にすべてを懸ける」、というより「二発目なんて甘い事言ってんじゃねぇ、一撃で殺せ!」と言わんばかりに一撃にすべてを懸けるという流派で、それだけに斬撃の威力が凄まじく受け太刀した人間が受け止めた自分の刀ごと切られたり、受けた自分の刀の峰や鍔が頭蓋にめり込んで死んだこともあるという信じ難いエピソードもあります。実際に他流派からも恐れられ、新撰組ですら示現流相手には警戒するよう隊内で訓示を出していたそうです。
そんな示現流の歴史について軽く説明すると、元々は九州地方で盛んだったタイ捨流から独立して成立し、開祖が薩摩藩の初代藩主島津忠恒の師範役に就いたことから薩摩で正統流派として普及するようになります。当主は代々開祖の東郷重位に端を発する東郷家が継承して藩内に多くの門弟を抱えていましたが、四代目の東郷実満は父親が中風にかかったことによって満足な指導を受けられないまま当主となってしまい、高弟たちからはその実力を軽んじられどんどんと門弟は減り、一時は師範役の人も解かれた上に困窮する羽目にもなりましたが東郷家に忠を尽くす高弟たちの努力もあって再び師範役に返り咲いて東郷家のピンチを乗り切ます。
しかしこの四代目実満の後を巡り、後継者争いが勃発します。後継者には人格も実力も周囲から高く評価されていた長男の東郷位照(たかてる)が継ぐと見られていましたがこれに対し異母弟の実勝が猛烈に抵抗して家督への執着を見せたことにより、位照を脱藩に追いやった上に遠島への流罪に処されるまで追い込むことに成功します。しかし兄を追いやったものの家督は位照の息子の実昉(さねはる)が継ぐこととなり、若年で未熟な実昉に代わって高弟の薬丸兼慶が師範役となりました。
面白くないのはもちろん実勝で、彼は甥であり当主の実昉をないがしろにして自らが当主のように振る舞ったことから藩主の怒りを買い、兄と同じく遠島へ流刑されます。時を経て家督を争った位照も実勝も罪を許されて城下に戻ってきますが、何故か実昉は最初は実の父親である位照を受け入れたにもかかわらず叔父で自分をないがしろにした実勝が帰ってくると位照を追放して叔父を受け入れたそうです。なにか弱みでも握られたのか?
しかし道場内では実力も人格も備えた位照を支持する層が常にいたそうで、また生活に困窮した位照は町人などに剣を教えることで生活していたため、真に実力を求めようとする者は位照の元で学ぼうとしたそうです。
そんな位照の元で学んだ者の中に先程出てきた薬丸兼慶の孫の薬丸兼富という人物がおり、この兼富の才能を見出した位照は「俺に教えさせろ」とわざわざスカウトした上で弱冠二十歳前後で免許皆伝まで与えてしまいます。これにより、「示現流の本当の奥義を知る位照から伝授されたのは薬丸家だ」という風に見られ、兼富の養子となり跡を継いだ兼武の代になってついに示現流から独立し、薬丸自顕流という分派が成立することとなります。
ただ薬丸自顕流が独立した際、本流である東郷家の示現流からも弟子が大量に移動するなどして一悶着があり、開祖の薬丸兼武は怒りを買った藩主から遠島に処せられ刑地で没する羽目となっています。しかし時代を経て子の薬丸兼義の代にその実力が藩から認められた薬丸自顕流も剣術師範として認められ、下級武士を中心に大勢が門を叩いたそうです。
そのため、幕末における主な示現流の使い手は薬丸自顕流を学んでおり、騒動や暗殺が起こる度に名声が高まり薬丸自顕流には弟子がどんどんと集まったそうです。しかし弟子の多くは寺田屋騒動、戊辰戦争、西南戦争で大半が亡くなったとも言われます。
前回の「首切り浅右衛門」こと山田浅右衛門とその一族と合わせて何故示現流を取り上げたのかと言うと、やはりこういう武術系は血筋だけでは継承はどうにもならない所があると言いたかったからです。事務作業ならともかく武術ともなれば実力がなければお役目を果たすことが出来ず、だからこそ山田家は優秀な弟子を養子に取るという方法で継承しましたが、示現流の東郷家の場合はなまじっか高い実力を持った位照を放逐したがゆえに薬丸自顕流の分派を招いており、継承でトラブルを起こしています。
現代においてはそんな武術家の継承などはそんな気にするほどでもないですが、何気に「優秀な部外者を養子に取る」というのは最も安定的で効率的な継承方法かもしれません。現代では自動車のスズキが毎回これで継承してきましたが、もっと他の会社でもこういうことあってもいいんじゃないかという気がします。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2016年12月4日日曜日
2016年12月2日金曜日
江戸幕府の死刑執行人一族
これから書く記事はほかの人もたくさん書いているので正直私が書くべきなのか非常に悩みましたが、悩むくらいなら書いた方がいいという結論と、この次に各記事と合わせれば独自性が出せるからありかと割り切り書くことにしました。独自性これ大事。
・山田浅右衛門(Wikipedia)
フランスの死刑執行にはギロチンが使われ、その執行に当たってはサンソン家という一族が代々になっていました。もっとも有名なのはルイ16世を処刑した四代目のシャルル=アンリ・サンソンという人物で、彼に対してパリの人々は畏怖を込めてムッシュ・ド・パリと呼んでいたとされます。
一方、日本の江戸時代においても代々死刑を執行する執行人の一族がおり、それが上記リンク先の山田浅右衛門と呼ばれる一族です。
山田家は元々は刀剣の鑑定を兼ねた試し切りを専門に行う一族でした。当時の試し切りは木や動物ではなく人を直接斬って鑑定することに価値があると見られ、試し切りの対象には斬った所で差しさわりのない罪人が使われるようになり、転じて山田家は死刑執行の業務を担当するようになります。
ただ死刑を執行しておきながらですが山田家は幕府の直参、直接雇用される立場ではなく身分上は浪人のままでした。何故こうだったかについては諸説あり、死刑執行人を直接抱えることが幕府に忌避されたというのが一番有力な説ですが、現代で言えば死刑執行の度に呼ばれるフリーの首切り請負人と言ったところで、なんでもフリーつければいいもんじゃないと書いてて思います。
山田浅右衛門が歴史の舞台に登場するのは八代将軍徳川吉宗の代で、それまで試し切り、死刑執行を担当していた鵜飼十郎右衛門(この人は幕臣)という人物が逝去した後、試し切りの技術を後世に伝えたいと申し出た鵜飼の弟子が山田浅右衛門でした。吉宗は山田の実力を認めたことからその後、山田家が試し切り、死刑執行を専門的に担当するようになり、当主の山田浅右衛門が執行できない際はその弟子が代わりに行うというスタイルが確立されることとなります。
山田家は浪人の家とはいえ生活は武家の中でも非常に裕福であったとされ、その理由としては幕府お抱えの試し切り鑑定家であったため他の大名家からも試し切り、並びに刀剣の鑑定依頼が殺到したことと、死刑を執行した罪人の遺体から肝臓などを持って帰り、漢方の材料として売却して得る収入が大きかったためとされます。この辺はフランスのサンソン家が医師も兼ねていたというところと共通しています。
死刑の執行は山田家が任されていましたが山田家では代々、後継者は当主の子ではなく弟子の中から選ばれていました。やはり当時としても死刑執行人という職への風当たりは強かったらしくどの当主も子供へと継がせることに抵抗を示し、弟子の中から優秀な者を後継者に選ぶというパターンが多かったそうです。
こうした継承の唯一の例外となるのは幕末期、あの吉田松陰や橋本佐内を処刑した七代目山田浅右衛門吉利で、彼だけは自分の長男である吉豊を後継者に指名しています。しかし世の中面白いもんだと言うべきか、真に首切りの才能を持っていたのはこの長男ではなく三男の吉亮だったとされ、八代目当主である兄に代わって明治の時代にあってもバスバスと首を切っていったことからこの三男の吉亮を「九代目」もしくは「閏八代」と呼ぶ声も多いです。そして長男の方は1882年に逝去した一方、件の三男は首切りによる処刑が廃止されてから1911年まで存命して山田家についての証言も残していることから歴代の中でも彼がとりわけ重要な人物であると見て十分でしょう。
彼ら山田浅右衛門一族、ひいてはサンソン家の話から得られる教訓としては、いつどの場所であっても死刑執行人は世間から忌避される存在であったということでしょう。だからこそ一程度の収入や身分が保証された一族が一身に担う必要があり、その死刑に対する技術も脈々と受け継がれていったと考えられます。
現在の日本では絞首刑が行われていますが、件数もそれほど多くないんだし、誰もやりたくないかもしれませんが何だったら専門に刑の執行を行う一族が現代にあってもいいような気もします。ただ死刑執行に限らずとも一族が代々と同じ仕事を受け継ぐということが現代においてはどの分野でも薄れており、そうした所が家族意識にも影響を与えているのでしょう。
なお私の家系は曽祖父の代から何気に代々メディア企業に勤める一族ですが、メディアの中で記事を書く仕事についたのは私一人です。そんなもんだから親父の従弟からは、「君はうちの一族で唯一と言える直系の男子だから、爺さんもおった新聞社に記者として勤めてほしかった」と言われたことがありましたが、多分あの新聞社は思想信条的に私とは相容れないため難しいとやんわり断りました。
・山田浅右衛門(Wikipedia)
フランスの死刑執行にはギロチンが使われ、その執行に当たってはサンソン家という一族が代々になっていました。もっとも有名なのはルイ16世を処刑した四代目のシャルル=アンリ・サンソンという人物で、彼に対してパリの人々は畏怖を込めてムッシュ・ド・パリと呼んでいたとされます。
一方、日本の江戸時代においても代々死刑を執行する執行人の一族がおり、それが上記リンク先の山田浅右衛門と呼ばれる一族です。
山田家は元々は刀剣の鑑定を兼ねた試し切りを専門に行う一族でした。当時の試し切りは木や動物ではなく人を直接斬って鑑定することに価値があると見られ、試し切りの対象には斬った所で差しさわりのない罪人が使われるようになり、転じて山田家は死刑執行の業務を担当するようになります。
ただ死刑を執行しておきながらですが山田家は幕府の直参、直接雇用される立場ではなく身分上は浪人のままでした。何故こうだったかについては諸説あり、死刑執行人を直接抱えることが幕府に忌避されたというのが一番有力な説ですが、現代で言えば死刑執行の度に呼ばれるフリーの首切り請負人と言ったところで、なんでもフリーつければいいもんじゃないと書いてて思います。
山田浅右衛門が歴史の舞台に登場するのは八代将軍徳川吉宗の代で、それまで試し切り、死刑執行を担当していた鵜飼十郎右衛門(この人は幕臣)という人物が逝去した後、試し切りの技術を後世に伝えたいと申し出た鵜飼の弟子が山田浅右衛門でした。吉宗は山田の実力を認めたことからその後、山田家が試し切り、死刑執行を専門的に担当するようになり、当主の山田浅右衛門が執行できない際はその弟子が代わりに行うというスタイルが確立されることとなります。
山田家は浪人の家とはいえ生活は武家の中でも非常に裕福であったとされ、その理由としては幕府お抱えの試し切り鑑定家であったため他の大名家からも試し切り、並びに刀剣の鑑定依頼が殺到したことと、死刑を執行した罪人の遺体から肝臓などを持って帰り、漢方の材料として売却して得る収入が大きかったためとされます。この辺はフランスのサンソン家が医師も兼ねていたというところと共通しています。
死刑の執行は山田家が任されていましたが山田家では代々、後継者は当主の子ではなく弟子の中から選ばれていました。やはり当時としても死刑執行人という職への風当たりは強かったらしくどの当主も子供へと継がせることに抵抗を示し、弟子の中から優秀な者を後継者に選ぶというパターンが多かったそうです。
こうした継承の唯一の例外となるのは幕末期、あの吉田松陰や橋本佐内を処刑した七代目山田浅右衛門吉利で、彼だけは自分の長男である吉豊を後継者に指名しています。しかし世の中面白いもんだと言うべきか、真に首切りの才能を持っていたのはこの長男ではなく三男の吉亮だったとされ、八代目当主である兄に代わって明治の時代にあってもバスバスと首を切っていったことからこの三男の吉亮を「九代目」もしくは「閏八代」と呼ぶ声も多いです。そして長男の方は1882年に逝去した一方、件の三男は首切りによる処刑が廃止されてから1911年まで存命して山田家についての証言も残していることから歴代の中でも彼がとりわけ重要な人物であると見て十分でしょう。
彼ら山田浅右衛門一族、ひいてはサンソン家の話から得られる教訓としては、いつどの場所であっても死刑執行人は世間から忌避される存在であったということでしょう。だからこそ一程度の収入や身分が保証された一族が一身に担う必要があり、その死刑に対する技術も脈々と受け継がれていったと考えられます。
現在の日本では絞首刑が行われていますが、件数もそれほど多くないんだし、誰もやりたくないかもしれませんが何だったら専門に刑の執行を行う一族が現代にあってもいいような気もします。ただ死刑執行に限らずとも一族が代々と同じ仕事を受け継ぐということが現代においてはどの分野でも薄れており、そうした所が家族意識にも影響を与えているのでしょう。
なお私の家系は曽祖父の代から何気に代々メディア企業に勤める一族ですが、メディアの中で記事を書く仕事についたのは私一人です。そんなもんだから親父の従弟からは、「君はうちの一族で唯一と言える直系の男子だから、爺さんもおった新聞社に記者として勤めてほしかった」と言われたことがありましたが、多分あの新聞社は思想信条的に私とは相容れないため難しいとやんわり断りました。
2016年12月1日木曜日
日本の霊能者
なんか歴史ネタ書いてないのですぐかけるオカルトを混ぜた話として、日本における著名な霊能力者を頭に浮かぶ傍から書いてこうと思います。
まず全体的な傾向として日本の霊能者は仏教関連に集中しており、著名な宗派の改組は多かれ少なかれ神秘体験じみた話を持っています。中でも日本屈指というか山岳信仰の開祖である役小角、陰陽道でお馴染みの安倍清明と並んで三大霊能力者に数えられている空海に至っては中国へ渡航するや真言宗の一番偉い人から、「お前を待っていた」と、真言宗の経典から秘儀まで全部伝授されました。この一件によって真言宗の本流は中国から日本に移ったわけですがこれ以外にも空海は敵対する宗派の人間と呪い合戦を繰り広げ、なかなか決着つかないから敢えて自分が死んだという噂を流して相手の気が緩んだスキに呪い殺して「してやったり」と言ってのけたという、宗教者としてそれでいいのかと思うエピソードまであります。
同じく仏教者で私が思い当たる人物としては鎌倉時代に華厳宗を盛り立てた明恵という人がおり、この人は潔癖な人で自分が欲望に負けやすいなどと打ちひしがれて決意の証に片耳を切ってしまうという熱情家でした。空海みたいにぶっ飛んだエピソードこそないものの、「入り口の水がめの中に虫が落ちたから救ってあげなさい」と弟子に行かせたら本当に虫が入ってたとか、自分の死期を正確に予想して当てて見せたというエピソードがあります。
同じく鎌倉時代で言えば日蓮を外すわけにはいかず、この人は行動も発言も過激ですが「国家に大難がやってきて法華経を大事にしない幕府は滅ぶ」という予言は残念ながら外してしまいました。そのかわり国政批判の門で斬首されかけたさいには辺り一円に雷が鳴り響いて刑を執行することが出来ずやむなく遠島に刑を変えられたという話はあり、多分探せばこの人はまだまだ出てくるでしょう。
仏教者以外で霊能者を挙げるとすれば戦国時代の果心居士が有名ですが自分はあまり好きじゃないし実在を疑うので省略します。それ以降の時代、江戸時代だと私の印象では女性に多く、大体が巫術系というか神様や霊を宿してイタコみたいに口寄せするという話が増えてきますが、大体こういう話に出てくる女性霊能力者は早死にすることが多く、大正時代に有名になった御船千鶴子を代表にみんな夭折しています。
西洋における霊能力者だとよく空中浮遊する話が伝わりますが、近現代はともかく近代以前の日本だとあんまりそういう系統の話は聞きません。私が思うに日本で空中浮遊するのは霊能力者ではなく忍者であるためそういった方面の能力開発を霊能力者はやってこなかったのだと思います。まぁ忍者が空飛ぶ能力開発してたか私も知りませんが。
逆に日本だとやはり呪殺とか千里眼系が多く、遠隔地にある出来事や人物を見たり知ったりするような話が霊能力者のエピソードに多いです。一方で物理的に何かを曲げたり発火させたりするような話はほとんどなく、やっぱりこちらも忍者の領域でしょう。
結論として何が言いたいのかと言うと、西洋における霊能力者は日本の霊能力者とはやや異なっているというか、むしろ忍者の概念に近いのではと言いたいわけです。西洋では曲げたり燃やしたり空飛ぶ力を神霊力と称しますが日本の場合は忍術というか修行の成果であって霊的な能力は一切皆無であり、神霊に頼るのはむしろ邪道で西洋の霊能力者はまだまだ修行が足りないのでしょう。
最後にどうでもいいことですが、奈良県の柳生の里近くに忍術学院というのがあり、ホームページは更新されていませんが前に近く言ったら看板があって近所の人曰く結構本格的だとのことで、なんか親父が親父の従弟と共にやってみようかと真剣に検討してました。
2016年11月29日火曜日
蛇頭は何処に?
この前に上司とした会話に、「中国人ってやたらフード被りたがるよね(室内でも)」という一言があったのですが、その際に「アサシンクリード」という単語を思い浮かべていたことは口にしませんでした。フードっつったらもはやこれでしょ。
話は本題に入りますがその上司とは別の機会に、
「そういや蛇頭(じゃとう)って最近どうしてるんすかね?」
「だよね。最近聞かないよね」
というのもあり、ちょっと気になる意味も込めて今日記事にします。
・蛇頭(Wikipedia)
蛇頭についてはその上司に限らず、その前にも中国に詳しい人とも話題になり、何故か二人して「あいつらどこいったんだ?」と軽く盛り上がりました。そもそも蛇頭とは何なのかですが、端的に言って福建省辺りを中心とした中国マフィアで、主なシノギは人身売買を含む密航ブローカーと言われている組織です。現代において日本で中国マフィアといったら中国残留孤児二世や三世を中心に形成された「怒羅権(どらごん)」が最も有名ですが、90年代末辺りで中国マフィアといったら誰が何と言おうと蛇頭しかなく、新宿歌舞伎町周辺を題材に取ったルポや小説、漫画には必ずと言っていいほど彼らが登場していました。
なお自分が読んだルポだと、作者とタイトル忘れちゃいましたが取材者が蛇頭の構成員に飯屋で取材してたら突然テーブルに置いていた時計にナイフを突き立てられて、「あんま火遊びするなよ」的なこと言われたりしてて、なんや中国人ってこわそやなぁと思った十五(当時中三)の夜でした。
話を本筋に戻しますが、蛇頭というのは一応は中国マフィアって括りですがその実態については諸説あり、日本の山口組の様にトップが強い権力を持つ上意下達のがっちりした組織ではなく個々の反社会組織がシノギのために緩い連帯で連合を組んでいる組織ではないか見られています。そのため蛇頭に属す、かかわりのある組織や構成員はどれだけいるのかわからず、実態としては組織ではなく業界団体的なものではという見方が強いです。
その蛇頭が日本で一番話題に上がっていた時期は上記の通り90年代末の頃で、場所も上記の通り新宿歌舞伎町周辺でした。具体的に蛇頭が何をしていたのかというと中国人の日本への密航斡旋で、日中の賃金格差が今とは比べ物にならないくらいの時代もあって日本でしこたま稼ごうとする中国人密航者を日本へと運び仕事を斡旋し、稼いだ金を日本へ送るという頭の先からしっぽまでをカバーするフルな密航サービスを展開していました。
密航者を扱うということから基本ブラックなことに関わることが多く、特に大きいのだと殺人の請負というのもあったそうで、密航者にわずか数万円の報酬を渡す代わりに日本人(主に暴力団)から依頼を受けてターゲットを殺害させるということもよくやってたそうで、これには日本の暴力団も、「あいつら常識がなくやることなすこと無茶苦茶だ」と相当まいってたそうで、当時の裏社会系ルポではよく蛇頭を含む中国人マフィアについて「黒船」と表現し、組の垣根を越えて奴らに対抗しようなどと明治維新みたいな論調で「日本(の裏社会)を外敵から守れ」と書かれてました。なんていうか今こうして書いててすごく懐かしい。
しかし、そうした蛇頭を含む中国人マフィア関連の話は大体00年代中盤辺りからほとんど聞かれなくなりました。一番大きな要因だと考えられるのはやはり暴対法の思考で、中国人マフィアはおろか日本の暴力団も厳しく規制されたことにより活動し辛くなったというのが何よりも大きいでしょう。そしてもうひとつ考えられる要因としては、中国が急速な経済成長を遂げたことによって国内でもそこそこ収入が上がり、日中の賃金格差も劇的に縮まり、単純に日本へ密航してくる旨味がなくなってしまったことから自然消滅したのではないかと私は睨んでいます。
とはいえ、いなくなったらいなくなったで寂しいというかあんだけ一時期ブイブイ言わせてたのに今だと本当にもういなくなったのかと気になります。そんなこともあって最近やたらと、「蛇頭ってどうしてるのかな」と周囲に聞きまわっているのですが、傍から見るとやっぱ変な人に見られてそうです。
そこで、日本国内の情報はこの際置いといて本国である中国ではどうなのか先程調べてみたところ、いくつかヒットするニュースがありました。それらニュースによると一応まだ健在だそうで、韓国へ中国人不法就労者を送ろうとしたり、港湾付近の違法案件で捕まった中に蛇頭関係者数人が混ざっていた等と報じられるている中、少し気になったのは「欧州内の難民移動で蛇頭が50億米ドル儲けている」というニュースもあり、この辺はさすが密航ブローカーなだけあるというか日本を飛び越えワールドワイドに活動している模様です。
しかし、全体としてはこういう蛇頭関連のニュースはやや少ないように感じました。「蛇頭」と検索してもマフィア関連でヒットするのはわずかで、大半は「草むらから突然蛇の頭が飛び出してきた」とか、「蛇の頭を切り落とした後で胴体が動いてびっくり!」みたいな生物としての蛇関連のニュースが多く、期待してたより蛇頭の実態に迫るような報道や解説はありませんでした。
マフィアが減るってことはもちろん素晴らしいことですが、減ったのではなく目に見えなくなっただけであれば逆に危険です。そういう意味でこうした方面の情報にはたまに気を配る必要があると思うと共に、文字通り命はってこういう裏社会ネタを取材する記者たちには強い敬意を覚えます。自分なんて絶対こういう取材はやりたくないし、ネット使ってちまちまデータ弄る取材の方が性に合っています。
話は本題に入りますがその上司とは別の機会に、
「そういや蛇頭(じゃとう)って最近どうしてるんすかね?」
「だよね。最近聞かないよね」
というのもあり、ちょっと気になる意味も込めて今日記事にします。
・蛇頭(Wikipedia)
蛇頭についてはその上司に限らず、その前にも中国に詳しい人とも話題になり、何故か二人して「あいつらどこいったんだ?」と軽く盛り上がりました。そもそも蛇頭とは何なのかですが、端的に言って福建省辺りを中心とした中国マフィアで、主なシノギは人身売買を含む密航ブローカーと言われている組織です。現代において日本で中国マフィアといったら中国残留孤児二世や三世を中心に形成された「怒羅権(どらごん)」が最も有名ですが、90年代末辺りで中国マフィアといったら誰が何と言おうと蛇頭しかなく、新宿歌舞伎町周辺を題材に取ったルポや小説、漫画には必ずと言っていいほど彼らが登場していました。
なお自分が読んだルポだと、作者とタイトル忘れちゃいましたが取材者が蛇頭の構成員に飯屋で取材してたら突然テーブルに置いていた時計にナイフを突き立てられて、「あんま火遊びするなよ」的なこと言われたりしてて、なんや中国人ってこわそやなぁと思った十五(当時中三)の夜でした。
話を本筋に戻しますが、蛇頭というのは一応は中国マフィアって括りですがその実態については諸説あり、日本の山口組の様にトップが強い権力を持つ上意下達のがっちりした組織ではなく個々の反社会組織がシノギのために緩い連帯で連合を組んでいる組織ではないか見られています。そのため蛇頭に属す、かかわりのある組織や構成員はどれだけいるのかわからず、実態としては組織ではなく業界団体的なものではという見方が強いです。
その蛇頭が日本で一番話題に上がっていた時期は上記の通り90年代末の頃で、場所も上記の通り新宿歌舞伎町周辺でした。具体的に蛇頭が何をしていたのかというと中国人の日本への密航斡旋で、日中の賃金格差が今とは比べ物にならないくらいの時代もあって日本でしこたま稼ごうとする中国人密航者を日本へと運び仕事を斡旋し、稼いだ金を日本へ送るという頭の先からしっぽまでをカバーするフルな密航サービスを展開していました。
密航者を扱うということから基本ブラックなことに関わることが多く、特に大きいのだと殺人の請負というのもあったそうで、密航者にわずか数万円の報酬を渡す代わりに日本人(主に暴力団)から依頼を受けてターゲットを殺害させるということもよくやってたそうで、これには日本の暴力団も、「あいつら常識がなくやることなすこと無茶苦茶だ」と相当まいってたそうで、当時の裏社会系ルポではよく蛇頭を含む中国人マフィアについて「黒船」と表現し、組の垣根を越えて奴らに対抗しようなどと明治維新みたいな論調で「日本(の裏社会)を外敵から守れ」と書かれてました。なんていうか今こうして書いててすごく懐かしい。
しかし、そうした蛇頭を含む中国人マフィア関連の話は大体00年代中盤辺りからほとんど聞かれなくなりました。一番大きな要因だと考えられるのはやはり暴対法の思考で、中国人マフィアはおろか日本の暴力団も厳しく規制されたことにより活動し辛くなったというのが何よりも大きいでしょう。そしてもうひとつ考えられる要因としては、中国が急速な経済成長を遂げたことによって国内でもそこそこ収入が上がり、日中の賃金格差も劇的に縮まり、単純に日本へ密航してくる旨味がなくなってしまったことから自然消滅したのではないかと私は睨んでいます。
とはいえ、いなくなったらいなくなったで寂しいというかあんだけ一時期ブイブイ言わせてたのに今だと本当にもういなくなったのかと気になります。そんなこともあって最近やたらと、「蛇頭ってどうしてるのかな」と周囲に聞きまわっているのですが、傍から見るとやっぱ変な人に見られてそうです。
そこで、日本国内の情報はこの際置いといて本国である中国ではどうなのか先程調べてみたところ、いくつかヒットするニュースがありました。それらニュースによると一応まだ健在だそうで、韓国へ中国人不法就労者を送ろうとしたり、港湾付近の違法案件で捕まった中に蛇頭関係者数人が混ざっていた等と報じられるている中、少し気になったのは「欧州内の難民移動で蛇頭が50億米ドル儲けている」というニュースもあり、この辺はさすが密航ブローカーなだけあるというか日本を飛び越えワールドワイドに活動している模様です。
しかし、全体としてはこういう蛇頭関連のニュースはやや少ないように感じました。「蛇頭」と検索してもマフィア関連でヒットするのはわずかで、大半は「草むらから突然蛇の頭が飛び出してきた」とか、「蛇の頭を切り落とした後で胴体が動いてびっくり!」みたいな生物としての蛇関連のニュースが多く、期待してたより蛇頭の実態に迫るような報道や解説はありませんでした。
マフィアが減るってことはもちろん素晴らしいことですが、減ったのではなく目に見えなくなっただけであれば逆に危険です。そういう意味でこうした方面の情報にはたまに気を配る必要があると思うと共に、文字通り命はってこういう裏社会ネタを取材する記者たちには強い敬意を覚えます。自分なんて絶対こういう取材はやりたくないし、ネット使ってちまちまデータ弄る取材の方が性に合っています。
2016年11月28日月曜日
美濃加茂市長の高裁逆転有罪判決について
年休消化のため今日から、というより一昨日から丸まる一週間休みな上に、ビザ更新のために必要な住所証明を今日ようやくGET出来てテンションが変な感じに上がり頭痛を起こしてました(多分寝過ぎが原因、土曜は12時間寝てた)。っていうか長寧区はすぐ住所証明ぽんとくれるのに閔行区は何故ああも厳しいんだろうか。
そんな感じでちょっと精神的におかしいからブログ書くのやめようかなと思っていた矢先、また大きなニュースが来たもんです。
・美濃加茂市長に逆転有罪=贈賄供述「信用できる」-浄水設備汚職・名古屋高裁(時事通信)
よくもまぁこんな判決出せたものだと呆れる一方、もし仮に日本にいたら徒党を引き集め名古屋高裁に抗議デモへ繰り出していたところです。もっとも私が声かけても一人も集まらないでしょうが。
この美濃加茂市長を巡る裁判については過去にもこのブログで記事にしていますが、誰がどっからどう見たって冤罪でこれが有罪となるならこの世でなんでも有罪にできてしまうかのような杜撰極まりない事件です。市長が逮捕されること自体おかしかったですが一審ではさすがにまともというか常識的に判断されて無罪になりましたが、今回は上記の報道の様に執行猶予付きとはいえ有罪となり、決して誇張ではなく真面目な話、この判決を下した裁判官と検察官は業務に支障をきたすレベルの判断力しか明らかに持ち合わせていないため直ちにやめさせるか、社会的に抹殺するかした方がいいと思いますマジで。
一審の審議内容についてはもう語りつくしてこれ以上語りたくもないのが本音なので二審のおかしな点についてだけ述べますが、結論から言ってひとつ、一審の段階から何も新たな証拠や証言が出ていないにもかかわらず一審で否定された贈賄者とされる詐欺師のおっさんの与太話が二審では真実と認められた点です。
そもそもの証言内容自体が胡散臭い上に供述内容も二転三転(例:二人で会った→実は三人で会った)している時点でまともに耳貸す馬鹿はカスだとわかるのですが、一審で真実と認められなかったのが二審で改めて真実だと認めるに至った証拠や説明が全くされていません。これは論理から言ってもおかしなことこの上なく、決して日本の司法は元からまともではありませんが、それにしてもここまでおかしな判断となると私の中では御殿場事件くらいしか浮かびません。
それにこの事件の論法で行けば、「金を渡した」といえば渡ったお金が存在しなくても誰でも有罪にできかねません。試しに私も今回の判決を下した裁判官と捜査した警察と検察官に「有罪にしろと言って金を渡した」とでも言ってみようかなと思くらい奇妙な判決で、藤井美濃加茂市長に置かれましてはここでくじけず、最高裁までどうか頑張ってもらいたいというのが私の意見です。
そんな感じでちょっと精神的におかしいからブログ書くのやめようかなと思っていた矢先、また大きなニュースが来たもんです。
・美濃加茂市長に逆転有罪=贈賄供述「信用できる」-浄水設備汚職・名古屋高裁(時事通信)
よくもまぁこんな判決出せたものだと呆れる一方、もし仮に日本にいたら徒党を引き集め名古屋高裁に抗議デモへ繰り出していたところです。もっとも私が声かけても一人も集まらないでしょうが。
この美濃加茂市長を巡る裁判については過去にもこのブログで記事にしていますが、誰がどっからどう見たって冤罪でこれが有罪となるならこの世でなんでも有罪にできてしまうかのような杜撰極まりない事件です。市長が逮捕されること自体おかしかったですが一審ではさすがにまともというか常識的に判断されて無罪になりましたが、今回は上記の報道の様に執行猶予付きとはいえ有罪となり、決して誇張ではなく真面目な話、この判決を下した裁判官と検察官は業務に支障をきたすレベルの判断力しか明らかに持ち合わせていないため直ちにやめさせるか、社会的に抹殺するかした方がいいと思いますマジで。
一審の審議内容についてはもう語りつくしてこれ以上語りたくもないのが本音なので二審のおかしな点についてだけ述べますが、結論から言ってひとつ、一審の段階から何も新たな証拠や証言が出ていないにもかかわらず一審で否定された贈賄者とされる詐欺師のおっさんの与太話が二審では真実と認められた点です。
そもそもの証言内容自体が胡散臭い上に供述内容も二転三転(例:二人で会った→実は三人で会った)している時点でまともに耳貸す馬鹿はカスだとわかるのですが、一審で真実と認められなかったのが二審で改めて真実だと認めるに至った証拠や説明が全くされていません。これは論理から言ってもおかしなことこの上なく、決して日本の司法は元からまともではありませんが、それにしてもここまでおかしな判断となると私の中では御殿場事件くらいしか浮かびません。
それにこの事件の論法で行けば、「金を渡した」といえば渡ったお金が存在しなくても誰でも有罪にできかねません。試しに私も今回の判決を下した裁判官と捜査した警察と検察官に「有罪にしろと言って金を渡した」とでも言ってみようかなと思くらい奇妙な判決で、藤井美濃加茂市長に置かれましてはここでくじけず、最高裁までどうか頑張ってもらいたいというのが私の意見です。
2016年11月27日日曜日
創業家列伝~宗次徳治(壱番屋)
ココイチでおなじみのカレーチェーンの壱番屋を創業した宗次徳治氏は1948年の生まれで、出身地は石川県とされています。宗次氏が語る最も古い記憶は四歳か五歳の頃に母に手を引かれて夜逃げするところというのっけからデンジャラスなシーンから始まるのですが、それからしばらくして父親のDVに耐えかねた母親は出ていき、子育てを全く省みようとしない競輪狂いの父親と二人で過ごすこととなります。
当時について宗次氏は、父親からは食事の世話をしてもらうこともなくもっぱら学校の給食を主要な栄養源として、どうしてもお腹がすいた時は河原で草を食べるという毎日を過ごしてたそうです。その父親も生来の荒れた性格から何度も住居を引っ越すというか夜逃げしており、当初は宗次氏に同情した周囲の人も段々と避けるようになっていったそうで、その父親からは宗次氏も何度も折檻を受けていたと話しています。
もうこれだけでも十分物語が成立する宗次氏の人生ですが、十五歳の頃に高校入学準備のため戸籍謄本を取り寄せた時、自分が養子であったという事実を初めて知ります。それまで宗次氏は自分の名前を「基陽(もとはる)」と思っていましたが実の名は「徳治」で、実の両親の名前は全く身に覚えのない名前だったそうです。
この時、胃癌で入院していた父親に話を聞くと三歳の頃に孤児院から引き取ったという事実を明かし、名前を変えた理由は「ギャンブルで負けが続いていたから」ということも教えてもらいました。その時について宗次氏は、「お前はもらってきてやったんだ」とよく言われていたのは事実だったんだなと思ったそうです。なんていうか、ツッコみどころそこなんだという風に思える言葉ですが。
実の両親の存在を知った宗次氏ですが、その両親を探そうという気持ちは全く出てこなかったそうです。本人曰く、出生に関心がなかったそうで、養父の入院、そして死去後は養母と暮らし、高校卒業後は名古屋の不動産販売会社に就職しました。そして結婚後、独立して不動産仲介業を営みだしたころ、奥さんと話し合い事務所近くで喫茶店を運営することにしました。運営は奥さんにまかせるつもりでしたが初日に手伝ったところ、「こっちのが面白いじゃん」と思うに至ったそうで、翌日にはもう不動産業をやめてしまい喫茶店専業で働きだすことにしました。
喫茶店業について宗次氏は、名古屋喫茶店ではモーニングサービスが無料で盛り沢山ついてくる文化があるにもかかわらず経営した「バッカス」という喫茶店では一切そういうのはやらず、小皿のピーナッツにすら30円のお金を取る料金形態としたそうです。これには客から文句が来るどころか銀行の融資担当からも反対されましたが、お客専用のカップを保管しておく「マイカップサービス」などほかのサービス面で差をつけ、開店から十ヶ月後にはもう二店舗目をオープンするなど繁盛したそうです。
そうして喫茶店を経営するうち、奥さんが作っていたカレーを提供してみたところこれがまた売れに売れたので、相変わらずの切り替えの早さというかすぐまた「カレーハウスCoCo壱番屋」を作ってカレー専門店を経営するに至ります。この「ココイチ」で画期的だった点はご飯の量はおろかルーの辛さも五段階で選べるようにして、それをきちんと料金に反映させたことだと宗次氏自らが胸を張って述べていますが、さすがに当時は生きてはいなかったのでほかのカレー屋はどうだったのかわかりますが、現在ではこうしたココイチのオーダーシステムがカレーチェーンにおいてスタンダードになっていることを考えると確かに画期的だったのではと思う偉大な一歩です。
ただココイチ一号店はオープンさせたものの、宗次氏曰く、「一日の売上げが六万円を越えたら二号店を出そうと思っていたのだがk路絵が大変な苦労だった」と述べ、二号店が出せたのはそれから一年後だったそうです。一年で二店舗目を出す辺り相当早いと思うのですが、この人のスピード感覚じゃそれでも遅かったのでしょう。この辺にやっぱ元不動産屋らしい臭いを感じます。
その後あれよあれよといううちに世界規模でココイチは拡大を続け、あまりの忙しさに子供の口に哺乳瓶突っこんでから家を出たこともあったそうでこの時のことについて、「危ないことをしていた」と語る辺りなんとなく余裕が感じられます。ただ、ココイチが拡大する中にあっても徹底的な現場主義的意識を持っていたとのことで、店舗に寄せられる「お客様の声」は毎日全通を宗次氏が読んでいたそうで、一日千通を超えると三時間以上かかるから朝五時に出社して読んでいたというエピソードまであります。
宗次氏についてはその激しい少年時代を送っていたこともさることながら、個人的には各インタビューでまるで他人事のように話すのが特徴的だと感じます。普通、こういう苦労話は多かれ少なかれ自慢めいて苦労したことが強調されるのですが、各雑誌などに寄せられるインタビュー記事を読んでも全くそうした話し方はせず、淡々と語っているのが非常に不思議に感じます。
そうした淡々とした、というよりは拘泥しない姿勢は経営引継ぎにも現れており、株式上場を決めた1998年に社長から会長に移った際の後釜の社長には奥さんがなりましたが、2002年には二号店のオープン時に19歳でアルバイトで入ってきた現社長(浜島俊哉氏)に社長職を引き継がせ、完全に経営から身を引いています。普通こういう会社の場合、自分から子供へ直接引き継ぐパターンが多いのですが、実際の行動としては全くそうした行動はとられておらず、上にも書いた通り全くこだわりというものがこの人には見えません。
経営者としては上でも少し書いたように、桁違いの体力とスピード感はまさしく昭和の一代創業型経営者の典型といえるものでしょう。高度経済成長期に出発しているとはいえ不動産やから喫茶店、喫茶店からカレー屋へと至る過程は非常にスピーディで、なおかつ店舗拡大の速度も明らかに異常です。更に言えばその後の90年代以降の不況期にあっても競争激しい外食業界の中で着実に成長を続けたその手腕は見事というよりほかありません。
なお家族についてですが、なんでも一昨年に知らない司法書士から連絡があり、遺産相続放棄を求められたそうです。その時になり実の父親が死んだことを初めて知ったそうですが、言われるままに放棄したそうです。
最後にどうでもいい余談ですが、ココイチは中国でも出店しておりますが以前に記事で書いたように中国でも味は全く同じでかえって不気味さを覚えます。最近は行っていないのですが、日本で最後にココイチ行ったのは2013年の7月辺りで、当事無職でプータローしてたので自転車で行ってなんとなくいつもより店内で居心地悪かったのを何故か覚えています。頼んだのは野菜カレー(3辛)だったと思いますが、味はやっぱり上海の店と同じだなー、早く職見つけたいとか思いながら食ってました。
当時について宗次氏は、父親からは食事の世話をしてもらうこともなくもっぱら学校の給食を主要な栄養源として、どうしてもお腹がすいた時は河原で草を食べるという毎日を過ごしてたそうです。その父親も生来の荒れた性格から何度も住居を引っ越すというか夜逃げしており、当初は宗次氏に同情した周囲の人も段々と避けるようになっていったそうで、その父親からは宗次氏も何度も折檻を受けていたと話しています。
もうこれだけでも十分物語が成立する宗次氏の人生ですが、十五歳の頃に高校入学準備のため戸籍謄本を取り寄せた時、自分が養子であったという事実を初めて知ります。それまで宗次氏は自分の名前を「基陽(もとはる)」と思っていましたが実の名は「徳治」で、実の両親の名前は全く身に覚えのない名前だったそうです。
この時、胃癌で入院していた父親に話を聞くと三歳の頃に孤児院から引き取ったという事実を明かし、名前を変えた理由は「ギャンブルで負けが続いていたから」ということも教えてもらいました。その時について宗次氏は、「お前はもらってきてやったんだ」とよく言われていたのは事実だったんだなと思ったそうです。なんていうか、ツッコみどころそこなんだという風に思える言葉ですが。
実の両親の存在を知った宗次氏ですが、その両親を探そうという気持ちは全く出てこなかったそうです。本人曰く、出生に関心がなかったそうで、養父の入院、そして死去後は養母と暮らし、高校卒業後は名古屋の不動産販売会社に就職しました。そして結婚後、独立して不動産仲介業を営みだしたころ、奥さんと話し合い事務所近くで喫茶店を運営することにしました。運営は奥さんにまかせるつもりでしたが初日に手伝ったところ、「こっちのが面白いじゃん」と思うに至ったそうで、翌日にはもう不動産業をやめてしまい喫茶店専業で働きだすことにしました。
喫茶店業について宗次氏は、名古屋喫茶店ではモーニングサービスが無料で盛り沢山ついてくる文化があるにもかかわらず経営した「バッカス」という喫茶店では一切そういうのはやらず、小皿のピーナッツにすら30円のお金を取る料金形態としたそうです。これには客から文句が来るどころか銀行の融資担当からも反対されましたが、お客専用のカップを保管しておく「マイカップサービス」などほかのサービス面で差をつけ、開店から十ヶ月後にはもう二店舗目をオープンするなど繁盛したそうです。
そうして喫茶店を経営するうち、奥さんが作っていたカレーを提供してみたところこれがまた売れに売れたので、相変わらずの切り替えの早さというかすぐまた「カレーハウスCoCo壱番屋」を作ってカレー専門店を経営するに至ります。この「ココイチ」で画期的だった点はご飯の量はおろかルーの辛さも五段階で選べるようにして、それをきちんと料金に反映させたことだと宗次氏自らが胸を張って述べていますが、さすがに当時は生きてはいなかったのでほかのカレー屋はどうだったのかわかりますが、現在ではこうしたココイチのオーダーシステムがカレーチェーンにおいてスタンダードになっていることを考えると確かに画期的だったのではと思う偉大な一歩です。
ただココイチ一号店はオープンさせたものの、宗次氏曰く、「一日の売上げが六万円を越えたら二号店を出そうと思っていたのだがk路絵が大変な苦労だった」と述べ、二号店が出せたのはそれから一年後だったそうです。一年で二店舗目を出す辺り相当早いと思うのですが、この人のスピード感覚じゃそれでも遅かったのでしょう。この辺にやっぱ元不動産屋らしい臭いを感じます。
その後あれよあれよといううちに世界規模でココイチは拡大を続け、あまりの忙しさに子供の口に哺乳瓶突っこんでから家を出たこともあったそうでこの時のことについて、「危ないことをしていた」と語る辺りなんとなく余裕が感じられます。ただ、ココイチが拡大する中にあっても徹底的な現場主義的意識を持っていたとのことで、店舗に寄せられる「お客様の声」は毎日全通を宗次氏が読んでいたそうで、一日千通を超えると三時間以上かかるから朝五時に出社して読んでいたというエピソードまであります。
宗次氏についてはその激しい少年時代を送っていたこともさることながら、個人的には各インタビューでまるで他人事のように話すのが特徴的だと感じます。普通、こういう苦労話は多かれ少なかれ自慢めいて苦労したことが強調されるのですが、各雑誌などに寄せられるインタビュー記事を読んでも全くそうした話し方はせず、淡々と語っているのが非常に不思議に感じます。
そうした淡々とした、というよりは拘泥しない姿勢は経営引継ぎにも現れており、株式上場を決めた1998年に社長から会長に移った際の後釜の社長には奥さんがなりましたが、2002年には二号店のオープン時に19歳でアルバイトで入ってきた現社長(浜島俊哉氏)に社長職を引き継がせ、完全に経営から身を引いています。普通こういう会社の場合、自分から子供へ直接引き継ぐパターンが多いのですが、実際の行動としては全くそうした行動はとられておらず、上にも書いた通り全くこだわりというものがこの人には見えません。
経営者としては上でも少し書いたように、桁違いの体力とスピード感はまさしく昭和の一代創業型経営者の典型といえるものでしょう。高度経済成長期に出発しているとはいえ不動産やから喫茶店、喫茶店からカレー屋へと至る過程は非常にスピーディで、なおかつ店舗拡大の速度も明らかに異常です。更に言えばその後の90年代以降の不況期にあっても競争激しい外食業界の中で着実に成長を続けたその手腕は見事というよりほかありません。
なお家族についてですが、なんでも一昨年に知らない司法書士から連絡があり、遺産相続放棄を求められたそうです。その時になり実の父親が死んだことを初めて知ったそうですが、言われるままに放棄したそうです。
最後にどうでもいい余談ですが、ココイチは中国でも出店しておりますが以前に記事で書いたように中国でも味は全く同じでかえって不気味さを覚えます。最近は行っていないのですが、日本で最後にココイチ行ったのは2013年の7月辺りで、当事無職でプータローしてたので自転車で行ってなんとなくいつもより店内で居心地悪かったのを何故か覚えています。頼んだのは野菜カレー(3辛)だったと思いますが、味はやっぱり上海の店と同じだなー、早く職見つけたいとか思いながら食ってました。
2016年11月26日土曜日
かつて努力した日々
今度名古屋に左遷されたうちの親父が上海に来る際、親父の東京勤務時代の元部下とも会うこととなりました。その元部下の名前を見た際、「ああ、あの修正液の人か」と一目見て思い出しました。
事の起こりは私が中学三年生の頃で何の気もなしに、「親父、修正液欲しいんやけど買ってくれへん?」と聞いたところ、「それやったら会社から取ってきてやる」といって後日、大量に修正液を持ってきてくれました。ただその修正液、どれもシールにハンコされた名字らしき二文字がついており、「これなんなん?」って親父に聞いたら、当時の部下の名前とのことで、その修正液もその部下の机にあったものをかっぱらって持ってきたものだということを教えてくれました。
親父のせこい悪行はともかく何故当時の私が修正液を欲しがったのかというと、小説の新人賞に応募するための原稿を書く際に必要だったからです。当時、フロッピーでの応募は一部認められていましたが応募原稿は基本的にはワープロで書いた原稿の印刷版か、原稿用紙にボールペン書きしたものしか求められておらず、中学三年生の当時はまだブラインドタッチもおぼつかなかったので毎日必死になって手書きでガリガリ書いていました。
しかも当時からそそっかしい所は変わらず書く傍から誤字脱字が頻出したため、手持ちの修正液はあっという間に切らしたことから追加で大量に必要となったわけです。夏休みなんかほぼ毎日3時間以上は原稿書いてたので、当時の自分の手は常に修正液で汚れていてあの独特の臭いを醸し出していました。
多分手書きだったら今もそんなに変わらないと思いますが、執筆速度は400字詰め原稿用紙に対しほぼ一時間当たり六枚で、三時間かけても十八枚というゆったりペースでした。これが中学三年の後半からパソコン使って書くようになると一時間当たり十枚に上がり、なおかつ原稿用紙代を始めとした諸々の諸経費もかからなくなって随分と助かりました。というのも当時、原稿用紙は毎回自分で買っており、といっても教材用に親からもらった金をちょろまかして買ってましたが地味に出費が苦しく、指折り数えながら書いてたのをまだ覚えています。
ただそれだけ、当時はかなり真面目且つ真摯に文章を書く努力を続けてはいました。あのころにいろんな表現の練習を続けていた甲斐もあって現在にあってもそこそこ自慢できる表現力を身に着けることが出来たと言っても過言ではなく、同時に日本の作文教育では致命的に書かせる量が不足しているなと痛感するに至りました。
なおその後について述べると、高校時代は高校一年の頃はよく書いていましたが高二の頃は周囲の人間が足を引っ張ったこともあってあまり活動できず、高三時は受験であんまかいてませんでした。大学時代は最初はバンバン書こうかなと思いましたがなんか思ったより熱が挙がらなかったというか、むしろ教養を身に着けるべき時期だと考え書かず、大学を卒業する間際になってこのブログを始めてからまた猛烈に執筆量が増えるに至りました。そう考えると、本気で表現力を磨いた時期ってのは紛れもなく中学時代で、これから作家なり記者なり目指す人はやはりこれくらいの頃に毎日、なるべく手書きで数時間書くことをお奨めします。
事の起こりは私が中学三年生の頃で何の気もなしに、「親父、修正液欲しいんやけど買ってくれへん?」と聞いたところ、「それやったら会社から取ってきてやる」といって後日、大量に修正液を持ってきてくれました。ただその修正液、どれもシールにハンコされた名字らしき二文字がついており、「これなんなん?」って親父に聞いたら、当時の部下の名前とのことで、その修正液もその部下の机にあったものをかっぱらって持ってきたものだということを教えてくれました。
親父のせこい悪行はともかく何故当時の私が修正液を欲しがったのかというと、小説の新人賞に応募するための原稿を書く際に必要だったからです。当時、フロッピーでの応募は一部認められていましたが応募原稿は基本的にはワープロで書いた原稿の印刷版か、原稿用紙にボールペン書きしたものしか求められておらず、中学三年生の当時はまだブラインドタッチもおぼつかなかったので毎日必死になって手書きでガリガリ書いていました。
しかも当時からそそっかしい所は変わらず書く傍から誤字脱字が頻出したため、手持ちの修正液はあっという間に切らしたことから追加で大量に必要となったわけです。夏休みなんかほぼ毎日3時間以上は原稿書いてたので、当時の自分の手は常に修正液で汚れていてあの独特の臭いを醸し出していました。
多分手書きだったら今もそんなに変わらないと思いますが、執筆速度は400字詰め原稿用紙に対しほぼ一時間当たり六枚で、三時間かけても十八枚というゆったりペースでした。これが中学三年の後半からパソコン使って書くようになると一時間当たり十枚に上がり、なおかつ原稿用紙代を始めとした諸々の諸経費もかからなくなって随分と助かりました。というのも当時、原稿用紙は毎回自分で買っており、といっても教材用に親からもらった金をちょろまかして買ってましたが地味に出費が苦しく、指折り数えながら書いてたのをまだ覚えています。
ただそれだけ、当時はかなり真面目且つ真摯に文章を書く努力を続けてはいました。あのころにいろんな表現の練習を続けていた甲斐もあって現在にあってもそこそこ自慢できる表現力を身に着けることが出来たと言っても過言ではなく、同時に日本の作文教育では致命的に書かせる量が不足しているなと痛感するに至りました。
なおその後について述べると、高校時代は高校一年の頃はよく書いていましたが高二の頃は周囲の人間が足を引っ張ったこともあってあまり活動できず、高三時は受験であんまかいてませんでした。大学時代は最初はバンバン書こうかなと思いましたがなんか思ったより熱が挙がらなかったというか、むしろ教養を身に着けるべき時期だと考え書かず、大学を卒業する間際になってこのブログを始めてからまた猛烈に執筆量が増えるに至りました。そう考えると、本気で表現力を磨いた時期ってのは紛れもなく中学時代で、これから作家なり記者なり目指す人はやはりこれくらいの頃に毎日、なるべく手書きで数時間書くことをお奨めします。
登録:
投稿 (Atom)