また電子書籍で先月ドラマ化したからでしょうが「はんなりギロリの頼子さん(半ギロ)」の1巻が無料配信しており読んでみましたが、「ああ、京都人あるあるやな」と思い、多分この本読んでる人の大半は京都の人だろうとニュータイプ的な直感を感じました。内容的には京都に住みながらスライダーの練習したこともあるのでそこそこ馴染みのあるものが多かったのですが、「京都の人はみんな、増えすぎたり飼えなくなった金魚や亀を東本願寺のお堀に逃がしたことがある」というエピソードはこれまで知らず、新鮮に読めました。
なお京都人は上記行為について「捨てた」とは絶対言わないとのことで、まぁそうだろうなと納得します。
さて京都の人にすれば当たり前ですが、本願寺と言ったら現代の阪神タイガースファンに相当するような、戦国時代における一向一揆の総本山なアレです。その本願寺ですが先ほど「東本願寺」と言いましたが、光ある所に影があるように東があるからには西もあり、実際に「西本願寺」は存在します。っていうか東本願寺のすぐ隣です。
すぐ隣にあるのだしどっちも同じ本願寺だから東西両本社体制なのかなと覚える方もいるかもしれませんが、どちらも仏教の浄土真宗系であることには間違いないものの、宗派はそれぞれ東が「真宗大谷派(東本願寺派)」、西が「本願寺派(西本願寺派)」とはっきり分かれており、激しい対立こそしていないものの歴史的にライバル関係にあることには間違いありません。そんな二派ですが、どちらも日本の宗教団体としてはトップ2の規模を誇るというのだからなかなか興味深いです。
なおどっちの方が規模というか檀家数が多いのかはわからないので、もし知っている方いたら教えてください。
一体何故同じ本願寺なのにこのように東西で分かれているのかというと、そのルーツは安土桃山時代にまで遡ります。説明するまでもなく本願寺は当時の本拠地であった現在の大阪市にあった石山本願寺に立て籠って織田信長と対立し、「信長を最も苦しめた」勢力であることには誰も疑問を挟まず、この手の歴史議論にしては珍しくあらゆる方面で意見が完全一致しています。
最終的に天皇家を仲介とした信長との和睦に応じた時の宗主・顕如は石山本願寺を退去しますが、顕如の長男である教如はこの和睦に反対し、付き従う強硬派の面々とともに石山本願寺に残り続けました。
なおこの教如の行動は彼の独断専行との見方が強いですが、信長が和睦の約束を違えて退去した本願寺勢力に攻撃を加える可能性を考慮し、あらかじめ顕如と示し合わせた上でのポーズだけの抵抗だったとする意見もあります。もし約束を違えば再び籠って戦い、約束を守るようであれば退去した勢力が宗門を繋ぐという、いわば関ヶ原における真田家みたいな両面作戦と言ったところです。
現実に教如は威勢よく立て籠もったものの、きちんと和睦の約束を果たすのを確認できたからか半年したらすぐに出ていきました。一応、パパの顕如から教如はその後、蟄居を命じられてますが。
その後、本能寺の変を経て天下人が秀吉の時代になり、秀吉から現在の西本願寺の地(京都市堀川六条)を本拠地として寄進されてこの地を本拠とします。京都に移ってからしばらくしてビッグダディの顕如が入滅するとその後継者には先ほど立て籠もった長男の教如が指名されて彼が宗主の座を継ぎましたが、これに異を唱える声が内部から上がりました。
その声を挙げたのも三男の准如と初めから素直に石山本願寺から退去することを選んだ穏健派たちで、彼らの訴えを聞いた秀吉の裁断もあって教如もすぐ宗主の座を准如に譲り、自らは一兵卒みたいな感じで布教活動を続けました。しかし宗主の座を降りた教如の周りには彼とともに石山本願寺退去に抵抗した強硬派が集まっており、既にこの時点で本願寺は分裂状態にあったと言われています。
そのような火種を抱えていたところ、権力者の代替わりによる転機が起こります。関ヶ原の戦いから2年後の1602年、徳川幕府は隠遁した教如に対して京都烏丸六条の地を寄進します。何故徳川幕府がこうした行為に出たのかというと、かねてから家康に接近していた教如のロビー活動が実ったとか、准如が関ヶ原の折に西軍側についたことを徳川家が良しとしなかったなどいろいろ挙げられていますが、最大の理由は恐らく、半分裂状態の本願寺を完全に分裂させてその勢力を削ぐという狙いがあったという説を私は支持します。家康自身も三河一向一揆に苦しめられた経験があり、本願寺勢力の恐ろしさをよく知っている人物であるということが、この説を支持する大きな理由です。
その後、東西両本願寺が並存する体制が確立され、宗派もはっきりと分かれたことで現在に至ります。なお仏教系の大学としてそれぞれ著名な大谷大学は東本願寺の学寮、龍谷大学は西本願寺の学寮がそれぞれ母体としています。なもんだから早慶戦みたいに両大学の野球の試合は「東西戦」とか「本願寺対決」などと言わないのかなとか気になりますが、この二つの大学出身の知り合いがいないのでよくわかりません。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2018年5月17日木曜日
2018年5月15日火曜日
スルガ銀のシェアハウス問題に関する発表の疑問点
・「シェアハウス関連融資問題」について(スルガ銀行)
かねてから取り上げてきたスルガ銀行のシェアハウス問題ですが、金融庁の調査が入ってもダンマリ決め込んでたのに、今日になってようやく簡単な報告というかプレスリリースを出してきました。でもって結論から言えば、いくつか疑問を感じる報告書です。
以前ならともかく、このところこういう報告書見るのに長けてきました。
1、行員の不正関与
今回発表された報告書は二つ、スルガ銀行自身がまとめた報告書と、弁護士によって構成される調査委員会の報告書なのですが、前者では行員の不正関与について「可能性がある」と濁しているのに対して後者では「後述の1人については資産報告書が偽造されていたことを確実に知っていた」とはっきり指摘しています。何故同時期の発表でありながら内容が異なっているのか、第一、スルガ銀の報告書では行員へのアンケートで不正の認識を尋ねたと聞いていますが、不正調査のプロに前教えてもらいましたが、「不正している人間はやっているかと聞いたら絶対否定する」とのことで、そんなアンケートなんて取るだけ無意味です。むしろ見るべきは、「周りで不正をやっている疑いのある人間はいたか?」でしょう。
もっとも、この件から見えることは一つあります。こうした表現を取るということはやはり不正はスルガ銀全体、恐らく幹部も含めて実行していた可能性が高いということです。自分は不正調査のプロではありませんが、文章表現のプロだと自称しており、そんな自分に言わせれば不自然な表現には不自然な背景が必ず存在します。
ほんと関係ない話ですが、ジャッキー・チェンのなんかの映画でヤクザの治療に失敗した医者が他のヤクザに襲われるや拳法で次々と薙ぎ倒し、「医術は三流だが拳法は一流なんだぞ!」と吠えるシーンを何故か思い出しました。
2、問題規模
スルガ銀の報告書には、「 2018年3月末時点で、シェアハウス案件について当社から融資を受けておられるお客さま1,258名、融資残高は203,587百万円となっております。」と書かれてありますが、肝心の「かぼちゃの馬車」の運営会社ことスマートデイズ社関連の融資額は書かれていません。ご丁寧に、「これは、スマートデイズ社に関わるものに限られません。」とまで書いていますが、だったら言えよ。
この件で私が最も知りたいのは、スルガ銀の内と外でこれから何人殺すのか、何億すっ飛ばすのかという二点こと今回の問題規模です。まさか現時点で上記数字を把握していないなんて言うわけはなく、何故今回このようにして隠したのか、何か意図があると疑います。
私の勝手な推測を述べると、シェアハウス以外のリテール事業でも似たようなことをたくさんやっているからこういう表現になったのではと思います。知ってる人には早いですがスルガ銀行は個人融資ことリテール事業で収益を伸ばしてきた銀行で、今回の問題に飽き足らず報告書でも「それでもリテール事業は縮小しないよ(`・ω・´)ゞ」と書かれてあります。まぁ別にいいけどさ。
ただ、以前から何度も書いているようにこうした金融不正事件は何か一つの不正が明るみになる時点で他にもたくさん爆弾を抱えているという事例が多いというか、むしろそっちの方がデフォルトです。ましてやスルガ銀はリテール事業でのし上がってきた銀行で、尚且つ以前にも書いたようにロードバイクローンの試算例は一目で異常だと感じる内容で、ああいったものを顧客に見せているとしたら相当程度消費者をだましてきているのではと疑わざるを得ません。
だからこそ問題規模について先ほどのように「シェアハウス案件」に限って金額を出してきたのでは、この問題をシェアハウス問題だけに減点するつもりなのではと、穿ちすぎかもしれませんがこんな考えがよぎりました。
3、スマートデイズ社への批判が皆無
これが一番気になった点ですが、報告書全体を読んで問題の持ちかけ側ことスマートデイズ社への批判こと恨み節が一つも見当たりませんでした。私はてっきり、スルガ銀はスマートデイズ社に騙された被害者ぶって批判をかわすのかなと予想してましたが、あまりそう言った論調はありません。
もしかしたら自行が不正融資に関与していることを真摯に反省しているから何も文句を言わなかったのかもしれませんが、それにしても今後の対応などでスマートデイズからの一部債権回収などにも触れないのはやや不思議です。むしろ今回の報告書を見て、スマートデイズ社を庇うかのような印象すら私は覚えました。
仮に庇うとしたら何故庇うのか。自行も不正に関与しているからなのか。スマートデイズ社関係者に弱味を握られているのか。他にも同じような取引相手がまだ存在するからなのか。などと勝手な憶測を巡らせています。
この記事は割と突っ込んだ内容になっていますが、まぁ公のメディアでもない個人ブログだし、憶測であると断っているので自分的にはありです。むしろこうした状況分析や予測においては、どれだけあり得ないと思うような想定も選択肢に入れられるかがその実力を左右するところだと考えているので、そう思う根拠と可能性があるのならどんどん思考を巡らすべきでしょう。
かねてから取り上げてきたスルガ銀行のシェアハウス問題ですが、金融庁の調査が入ってもダンマリ決め込んでたのに、今日になってようやく簡単な報告というかプレスリリースを出してきました。でもって結論から言えば、いくつか疑問を感じる報告書です。
以前ならともかく、このところこういう報告書見るのに長けてきました。
1、行員の不正関与
今回発表された報告書は二つ、スルガ銀行自身がまとめた報告書と、弁護士によって構成される調査委員会の報告書なのですが、前者では行員の不正関与について「可能性がある」と濁しているのに対して後者では「後述の1人については資産報告書が偽造されていたことを確実に知っていた」とはっきり指摘しています。何故同時期の発表でありながら内容が異なっているのか、第一、スルガ銀の報告書では行員へのアンケートで不正の認識を尋ねたと聞いていますが、不正調査のプロに前教えてもらいましたが、「不正している人間はやっているかと聞いたら絶対否定する」とのことで、そんなアンケートなんて取るだけ無意味です。むしろ見るべきは、「周りで不正をやっている疑いのある人間はいたか?」でしょう。
もっとも、この件から見えることは一つあります。こうした表現を取るということはやはり不正はスルガ銀全体、恐らく幹部も含めて実行していた可能性が高いということです。自分は不正調査のプロではありませんが、文章表現のプロだと自称しており、そんな自分に言わせれば不自然な表現には不自然な背景が必ず存在します。
ほんと関係ない話ですが、ジャッキー・チェンのなんかの映画でヤクザの治療に失敗した医者が他のヤクザに襲われるや拳法で次々と薙ぎ倒し、「医術は三流だが拳法は一流なんだぞ!」と吠えるシーンを何故か思い出しました。
2、問題規模
スルガ銀の報告書には、「 2018年3月末時点で、シェアハウス案件について当社から融資を受けておられるお客さま1,258名、融資残高は203,587百万円となっております。」と書かれてありますが、肝心の「かぼちゃの馬車」の運営会社ことスマートデイズ社関連の融資額は書かれていません。ご丁寧に、「これは、スマートデイズ社に関わるものに限られません。」とまで書いていますが、だったら言えよ。
この件で私が最も知りたいのは、スルガ銀の内と外でこれから何人殺すのか、何億すっ飛ばすのかという二点こと今回の問題規模です。まさか現時点で上記数字を把握していないなんて言うわけはなく、何故今回このようにして隠したのか、何か意図があると疑います。
私の勝手な推測を述べると、シェアハウス以外のリテール事業でも似たようなことをたくさんやっているからこういう表現になったのではと思います。知ってる人には早いですがスルガ銀行は個人融資ことリテール事業で収益を伸ばしてきた銀行で、今回の問題に飽き足らず報告書でも「それでもリテール事業は縮小しないよ(`・ω・´)ゞ」と書かれてあります。まぁ別にいいけどさ。
ただ、以前から何度も書いているようにこうした金融不正事件は何か一つの不正が明るみになる時点で他にもたくさん爆弾を抱えているという事例が多いというか、むしろそっちの方がデフォルトです。ましてやスルガ銀はリテール事業でのし上がってきた銀行で、尚且つ以前にも書いたようにロードバイクローンの試算例は一目で異常だと感じる内容で、ああいったものを顧客に見せているとしたら相当程度消費者をだましてきているのではと疑わざるを得ません。
だからこそ問題規模について先ほどのように「シェアハウス案件」に限って金額を出してきたのでは、この問題をシェアハウス問題だけに減点するつもりなのではと、穿ちすぎかもしれませんがこんな考えがよぎりました。
3、スマートデイズ社への批判が皆無
これが一番気になった点ですが、報告書全体を読んで問題の持ちかけ側ことスマートデイズ社への批判こと恨み節が一つも見当たりませんでした。私はてっきり、スルガ銀はスマートデイズ社に騙された被害者ぶって批判をかわすのかなと予想してましたが、あまりそう言った論調はありません。
もしかしたら自行が不正融資に関与していることを真摯に反省しているから何も文句を言わなかったのかもしれませんが、それにしても今後の対応などでスマートデイズからの一部債権回収などにも触れないのはやや不思議です。むしろ今回の報告書を見て、スマートデイズ社を庇うかのような印象すら私は覚えました。
仮に庇うとしたら何故庇うのか。自行も不正に関与しているからなのか。スマートデイズ社関係者に弱味を握られているのか。他にも同じような取引相手がまだ存在するからなのか。などと勝手な憶測を巡らせています。
この記事は割と突っ込んだ内容になっていますが、まぁ公のメディアでもない個人ブログだし、憶測であると断っているので自分的にはありです。むしろこうした状況分析や予測においては、どれだけあり得ないと思うような想定も選択肢に入れられるかがその実力を左右するところだと考えているので、そう思う根拠と可能性があるのならどんどん思考を巡らすべきでしょう。
2018年5月13日日曜日
先天的能力と後天的能力
ストライクフランカーことSu-34を今日は朝から作っていましたが、これめちゃくちゃでかいです。フランカーシリーズはくびれたノーズがエロいと評判だし実際見栄えいいから作ってみようと思いましたが、このあり得ないでかさはかえって興醒めで、やっぱりMig-29が一番だと思いなおしました。
話は本題に入りますがこのところ一人でいて思うこととして、自分は普段の生業においてやや先天的能力に頼りすぎて生きて来たなと思うと同時に、後天的能力をあまり使わない、もとい育てるためにあんま努力してこなかったなと反省し始めてます。
また大分昔の話ですがある日友人に、「どうして花園君は他の人がまずしないであろう話題を突然取り上げるなど、発想力がいいの?何かやってきた?」と聞かれ、「正直なところ先天的な部分が大きいと思う」と答えたら「言うねぇ」と返されました。
気取って言ってるつもりはなく、このブログで取り上げる話題や披露する考え方などに至る発想に関して私自身はやはり先天的な能力に由来すると思います。こう考えるのも割と子供の頃から突飛な発想をしていたり、自分で考えを組み立てる癖が教えられるわけでもなく持っていたからです。同様に集団の違いや時系列での変化等に気付く観察力も、これもまた鍛えたつもりはなく、始めからかなり高い水準で持ってて現在も活用していることから、先天的なものでしょう。
逆と言っては少し違うかもしれませんが、学生時代までこれは自分が鍛えた代物だと思っていたのは知識量でした。大体小学校中学年の頃から「どんな些細なことでも自分と無関係だとは考えず、できる限り覚えよう」という志しを持ってから幅広いジャンルに対して知識量を蓄え、現時点で自分が目指していた水準より遥かに高いレベルまで至りましたが、この知識量に関して子供の頃からの積み重ねだと信じていました。
しかし、結果から言うとこの知識量もとい記憶力に関しても先天的なものだったと今は判断しています。というのも以前書いたように自分はてんかんを持っており、てんかんキャリアの中には実際このように何年前の内容でも昨日のようにすぐ詳細に思い出して話し出す人間は結構いるそうで、私の場合も記憶力がいいというよりかは関連するキーワードは記憶を呼び起こすのに長けており、恐らくこれはてんかん、神経伝達の電圧が極端に高いという症状がなせる技だと思っています。鍛えたからこうなったというものではないでしょう。
このように、普段の活動において私が武器として長所として活用する能力のほとんどが先天的なものに由来し、いったい自分は何に努力してきたんだと我ながら呆れてきたのですが、そこではっと思い出したというか一応これは後天的獲得能力だなと言えるものとして文章力を思いつきました。
本格的に文章を書くようになったのは中学生くらいからで、もうそのころには200ページ超の小説とか普通に書いていました。ただその後、段々と文字数を如何に少なくして内容を抉り出すべきではないかと思い始めてからこうした論評、コラム、記事などを得意とするようになってきて、多分現在なら数百枚の小説とかかえって書けないかもしれません。
その後高校時代は一環として何かしら文章を書き綴っており、大学時代はいろいろ考えがあって敢えて書かなくなり、卒業間際になってこのブログを書き始め、上海で新聞社入って現在に至ります。各段階でそれなりにレベルアップがあって時系列ごとに自分の文章はきれいになりつつ癖を持つようになり、一応今でも素人よりは立派に見える文章を書けると自負しています。
ちなみに一番得意とするのは、難しい内容をわかりやすく説明するような文章です。この方面だったらそこそこ自慢出来るような気がします。
以上まで長々と自分語りをしてきましたがここで何を言いたいのかというと、能力の種類によってその上昇カーブは先天的か後天的か決まるのではと私は思います。具体的には、「勘の良さ」に分類されるようなものはほぼ先天的素質で決まり、練習したところで得られる修正は限られてくるでしょう。
その逆の後天的努力による影響が強い能力に関しては、私の場合は文章力ですが、これ以外あんまり浮かばないのでどういう類がこれに属すかは正直ピンときません。そりゃ体力関連であれば、間違いなくこっちでしょうが。
オチがまた弱いですが、自分の何が先天的な能力なのかを見定めるのは意外と重要な気がします。多かれ少なかれ誰もがそういった先天的素質に頼る面があり、何故頼るのか、ほかに後天的努力で補っているところはないのかを自己分析すると意外と見えてくるものがあります。
話は本題に入りますがこのところ一人でいて思うこととして、自分は普段の生業においてやや先天的能力に頼りすぎて生きて来たなと思うと同時に、後天的能力をあまり使わない、もとい育てるためにあんま努力してこなかったなと反省し始めてます。
また大分昔の話ですがある日友人に、「どうして花園君は他の人がまずしないであろう話題を突然取り上げるなど、発想力がいいの?何かやってきた?」と聞かれ、「正直なところ先天的な部分が大きいと思う」と答えたら「言うねぇ」と返されました。
気取って言ってるつもりはなく、このブログで取り上げる話題や披露する考え方などに至る発想に関して私自身はやはり先天的な能力に由来すると思います。こう考えるのも割と子供の頃から突飛な発想をしていたり、自分で考えを組み立てる癖が教えられるわけでもなく持っていたからです。同様に集団の違いや時系列での変化等に気付く観察力も、これもまた鍛えたつもりはなく、始めからかなり高い水準で持ってて現在も活用していることから、先天的なものでしょう。
逆と言っては少し違うかもしれませんが、学生時代までこれは自分が鍛えた代物だと思っていたのは知識量でした。大体小学校中学年の頃から「どんな些細なことでも自分と無関係だとは考えず、できる限り覚えよう」という志しを持ってから幅広いジャンルに対して知識量を蓄え、現時点で自分が目指していた水準より遥かに高いレベルまで至りましたが、この知識量に関して子供の頃からの積み重ねだと信じていました。
しかし、結果から言うとこの知識量もとい記憶力に関しても先天的なものだったと今は判断しています。というのも以前書いたように自分はてんかんを持っており、てんかんキャリアの中には実際このように何年前の内容でも昨日のようにすぐ詳細に思い出して話し出す人間は結構いるそうで、私の場合も記憶力がいいというよりかは関連するキーワードは記憶を呼び起こすのに長けており、恐らくこれはてんかん、神経伝達の電圧が極端に高いという症状がなせる技だと思っています。鍛えたからこうなったというものではないでしょう。
このように、普段の活動において私が武器として長所として活用する能力のほとんどが先天的なものに由来し、いったい自分は何に努力してきたんだと我ながら呆れてきたのですが、そこではっと思い出したというか一応これは後天的獲得能力だなと言えるものとして文章力を思いつきました。
本格的に文章を書くようになったのは中学生くらいからで、もうそのころには200ページ超の小説とか普通に書いていました。ただその後、段々と文字数を如何に少なくして内容を抉り出すべきではないかと思い始めてからこうした論評、コラム、記事などを得意とするようになってきて、多分現在なら数百枚の小説とかかえって書けないかもしれません。
その後高校時代は一環として何かしら文章を書き綴っており、大学時代はいろいろ考えがあって敢えて書かなくなり、卒業間際になってこのブログを書き始め、上海で新聞社入って現在に至ります。各段階でそれなりにレベルアップがあって時系列ごとに自分の文章はきれいになりつつ癖を持つようになり、一応今でも素人よりは立派に見える文章を書けると自負しています。
ちなみに一番得意とするのは、難しい内容をわかりやすく説明するような文章です。この方面だったらそこそこ自慢出来るような気がします。
以上まで長々と自分語りをしてきましたがここで何を言いたいのかというと、能力の種類によってその上昇カーブは先天的か後天的か決まるのではと私は思います。具体的には、「勘の良さ」に分類されるようなものはほぼ先天的素質で決まり、練習したところで得られる修正は限られてくるでしょう。
その逆の後天的努力による影響が強い能力に関しては、私の場合は文章力ですが、これ以外あんまり浮かばないのでどういう類がこれに属すかは正直ピンときません。そりゃ体力関連であれば、間違いなくこっちでしょうが。
オチがまた弱いですが、自分の何が先天的な能力なのかを見定めるのは意外と重要な気がします。多かれ少なかれ誰もがそういった先天的素質に頼る面があり、何故頼るのか、ほかに後天的努力で補っているところはないのかを自己分析すると意外と見えてくるものがあります。
2018年5月12日土曜日
仕事で伸びる人、伸びない人の特徴と
なんか時間余ってきたから久々に「ウォーシップガンナー2」というゲームを引っ張り出したら一発で時間がなくなりました。もう既に数百時間遊んでいると思いますが、未だに魚雷撃つのが楽しくて仕方ありません。今回は戦闘機の系譜を大体覚えたので空母をガンガン使って攻略するつもりです。
話は本題に入りますが去年に日本へ一時帰国した際に名古屋に左遷されたうちの親父に、「そういえば昔、仕事で能力伸びない人間の特徴として、コピー取らせた時に書類の中身を見るか見ないかで判定してたよな」と言うことを思い出して話しました。ちなみにこの話をされたのは確か私が高校生くらいの頃です。
親父曰く、「これコピー取って」と言って部下に書類を渡す際、コピーを取るついでに書類の中身を確認するかどうかチェックしてたそうです。ちゃんと見てたら及第点、見ないで言われたままコピーするだけだったら落第と、意外と細かいチェックの仕方すんなと当時内心思いました。
ただこの話の起点というか、働いてて伸びる人間と伸びない人間の特徴というか傾向はあるのかという点で去年少し話を煮詰めました。その人が仕事ができるかできないかという議論は日本だと入社時、つまり就活時点の特徴や経歴ばかりが取り上げられて入社後の行動や発言についてはあまり取り上げられない気がするのですが、むしろ普通に考えれば本命はこちらで、入社後にどういったタイプがその後仕事ができる人間になりやすいのか、またはその逆はなんなのかいくつか話しました。
出てきた話題はいくつかあるものの、一つのテーマで語るとしたら「やる気」に関する内容が話しやすいのでこのまま書きますが、私の持論でもありますが周りにやる気を見せる人間ほど脆くて折れやすく、逆にややシニカルな印象を覚えるくらいに距離感を保とうとする人ほど後々その実力を発揮する傾向がある気がします。少なくとも、海外駐在員に関してはこの傾向がはっきり出ます。
具体的な話を述べると、「かねてから中国で働きたいと思っていたんです!」等と言ってこっちへ来る人間ほど途中リタイアこと任期途中の帰国に至るケースが多いです。同様に、現地に溶け込もうとローカルなお店や路地裏とかを着任からすぐ積極的に回ろうとする人も同じです。
その逆に、着任当初は「中国なって絶対来たくなかった」、「嫌っつったのに無理やり派遣された」等と言ってた人ほど、後々物凄い業績を上げたり、地元の中国人も出入りしないようなあり得ないくらいローカルな場所とかうろついたりして、帰任前には「日本に帰りたくない(´;ω;`)ウッ…」などとマジで言い出したりします。
上記の例外としては初めから旅行好きな人は最初から中国への赴任を希望しながらもすんなりと現地に溶け込みます。あとこれは既に実証もされている傾向として、信仰を持っている人も同様です。
恐らく、就活ではやる気アピールが激しい人ほど評価される傾向があると思いますが、私は内心こうした見方に疑問を感じています。金属は硬ければ硬いほど折れやすく、逆に軟鋼な粘りがあるように、やる気がある、見せる人ほど心が折れる時は一瞬で折れることが多い気がします。逆というかやる気があるのかないのかわからない人ほど意外と仕事に粘り強くついていくというか、少々の困難でもへこたれないというか逃げない人がこれまで見てきた中で多かったです。
まぁ最初からやる気が全く見えない人は長続きしないってのは間違いないですが。
仮定のまま進めると、このようなことが起こる背景は何なのか。既に答えは行っていますが私はそれは「距離感」の置き方にあるとみており、前のめり過ぎる人はそのまま前に倒れてしまうのに対し、それほどやる気を強く見せない人はその辺の適切な距離感のバランスが保てるからだと思います。さらに言えばリスク意識もはっきりしているのかもしれません。
さて明日はストライクフランカーでも作ってよ。
話は本題に入りますが去年に日本へ一時帰国した際に名古屋に左遷されたうちの親父に、「そういえば昔、仕事で能力伸びない人間の特徴として、コピー取らせた時に書類の中身を見るか見ないかで判定してたよな」と言うことを思い出して話しました。ちなみにこの話をされたのは確か私が高校生くらいの頃です。
親父曰く、「これコピー取って」と言って部下に書類を渡す際、コピーを取るついでに書類の中身を確認するかどうかチェックしてたそうです。ちゃんと見てたら及第点、見ないで言われたままコピーするだけだったら落第と、意外と細かいチェックの仕方すんなと当時内心思いました。
ただこの話の起点というか、働いてて伸びる人間と伸びない人間の特徴というか傾向はあるのかという点で去年少し話を煮詰めました。その人が仕事ができるかできないかという議論は日本だと入社時、つまり就活時点の特徴や経歴ばかりが取り上げられて入社後の行動や発言についてはあまり取り上げられない気がするのですが、むしろ普通に考えれば本命はこちらで、入社後にどういったタイプがその後仕事ができる人間になりやすいのか、またはその逆はなんなのかいくつか話しました。
出てきた話題はいくつかあるものの、一つのテーマで語るとしたら「やる気」に関する内容が話しやすいのでこのまま書きますが、私の持論でもありますが周りにやる気を見せる人間ほど脆くて折れやすく、逆にややシニカルな印象を覚えるくらいに距離感を保とうとする人ほど後々その実力を発揮する傾向がある気がします。少なくとも、海外駐在員に関してはこの傾向がはっきり出ます。
具体的な話を述べると、「かねてから中国で働きたいと思っていたんです!」等と言ってこっちへ来る人間ほど途中リタイアこと任期途中の帰国に至るケースが多いです。同様に、現地に溶け込もうとローカルなお店や路地裏とかを着任からすぐ積極的に回ろうとする人も同じです。
その逆に、着任当初は「中国なって絶対来たくなかった」、「嫌っつったのに無理やり派遣された」等と言ってた人ほど、後々物凄い業績を上げたり、地元の中国人も出入りしないようなあり得ないくらいローカルな場所とかうろついたりして、帰任前には「日本に帰りたくない(´;ω;`)ウッ…」などとマジで言い出したりします。
上記の例外としては初めから旅行好きな人は最初から中国への赴任を希望しながらもすんなりと現地に溶け込みます。あとこれは既に実証もされている傾向として、信仰を持っている人も同様です。
恐らく、就活ではやる気アピールが激しい人ほど評価される傾向があると思いますが、私は内心こうした見方に疑問を感じています。金属は硬ければ硬いほど折れやすく、逆に軟鋼な粘りがあるように、やる気がある、見せる人ほど心が折れる時は一瞬で折れることが多い気がします。逆というかやる気があるのかないのかわからない人ほど意外と仕事に粘り強くついていくというか、少々の困難でもへこたれないというか逃げない人がこれまで見てきた中で多かったです。
まぁ最初からやる気が全く見えない人は長続きしないってのは間違いないですが。
仮定のまま進めると、このようなことが起こる背景は何なのか。既に答えは行っていますが私はそれは「距離感」の置き方にあるとみており、前のめり過ぎる人はそのまま前に倒れてしまうのに対し、それほどやる気を強く見せない人はその辺の適切な距離感のバランスが保てるからだと思います。さらに言えばリスク意識もはっきりしているのかもしれません。
さて明日はストライクフランカーでも作ってよ。
2018年5月11日金曜日
物欲の科学
電子書籍で「へうげもの」の1から3巻が無料配信していたので購入(つっても0円)して久々に読み返してみましたが、改めて面白い作品だと思え非常に楽しめました。作者の独特な感性と歴史漫画でありながら現代アートに通じるようなデフォルメされた描き方もさることながら、主人公の古田織部(佐介)の物欲全開な活躍というキャラクターには心動かされます。
そんなこの作品を見ていて、よく人間の三大欲求は食欲、性欲、睡眠欲と言われますが、実際にはこれに「物欲」も入って四大欲求とするのが適切ではないかと思えてきました。ネットで見るとさらに名誉欲を加えた五代欲求を挙げる人もいますが、この名誉欲はちょっと外れるのではないかと思え私は支持しません。
少しまじめな話をすると、科学技術の発達していない未開の部族間でも定期的に宝物を交換し合う行為は割とどこでも見受けられ、この「交換」という行為はある意味で物欲というものが人間の生理的欲求に根差していると伺える根拠となるように思えます。同様に教育を受ける前の子供たちを見ても他人が持っているものを欲しがったりする行動が見受けられ、この点もこうした考えを支持するように見えます。
では食欲に対する食べ物の臭いに相当する、物欲を刺激するものとは何なのか。これなんて先ほどの子供の行動を観察すると見えやすいですが、まず「他人が持っているもの」は理由なく物欲を刺激されるポイントと言っていいでしょう。ましてやそれが「自分が持っていないもの」であればなおさらです。
ここでのポイントとして「比較」という現象が働いているのが分かります。例えば同じ種類の物でも、他人の持っている物より自分が持っている物のランクやグレードが高ければ安心しますが、その逆だと不安というか落ち着かなくなり、単純に言って奪いたくなるわけです。少し話の発展が早いですが、ある意味でこれが「嫉妬」の原点かもなとも思え、物欲こそが嫉妬を生む張本人とも思えます。
話を少し戻すと、物欲においては比較という仲介行為が凄い役割を果たしており、これは逆に言えば唯一無二の比較しづらいものだとあまり物欲は刺激されないということとなり、その点で言えば収集を競い合う「同好の士」という存在もまた物欲を刺激する要素となりうるでしょう。
ただ、中には一人孤独にある特定種類の物品収集に精を出す人もいますが、こういう人も考えると次の要素に当たる「コレクション」というか、「完全網羅性」こと全種類を揃えたくなるコンプリート欲求も見えてきます。現在の私を例にとると、時間があるので軍事研究を兼ねて戦闘機のプラモを作り始めたところ、姉妹機がめっちゃ多いフランカーを全種類揃えたくなってきていますが、まさにこう言うコンプリートを自然と目指すのも何かの欲求と見るべきでしょう。
このほか検討を深めればもっといろいろ見えてくるでしょうが、先に話をまとめると意外とこうした物欲に関する研究とか議論はあまり見ないなと思います。私自身以上の考えは今日帰りに歩きながら、あと途中で醤油ラーメン食いながら考えた内容で、多分似たような意見を言う人はいるでしょうが私のようなまとめ方をしている人は絶対いないでしょう。それにしても明後日の方向見ながらラーメン食べてる自分を店員はどう見てたんだろう。
こうした物欲に対する考え方は使い方によってはマーケティングにもすごい活用できると思うし、また「へうげもの」のように人心掌握のツールとしても活用できるはずですが、あまりそうした使い方を提唱する人は見ません。そもそも体系的にまとめようとしている人もいませんし、なんていうかもったいない気がします。
最後にこちらはまだあまり自分の中で検証をしきっていませんが、先ほどの「物欲からくる嫉妬」について、男性は形の無い物、女性は形の有る物に覚えやすい傾向があるのではないかと思います。この男女差はどっから来るのか、また暇になったら考えます。
そんなこの作品を見ていて、よく人間の三大欲求は食欲、性欲、睡眠欲と言われますが、実際にはこれに「物欲」も入って四大欲求とするのが適切ではないかと思えてきました。ネットで見るとさらに名誉欲を加えた五代欲求を挙げる人もいますが、この名誉欲はちょっと外れるのではないかと思え私は支持しません。
少しまじめな話をすると、科学技術の発達していない未開の部族間でも定期的に宝物を交換し合う行為は割とどこでも見受けられ、この「交換」という行為はある意味で物欲というものが人間の生理的欲求に根差していると伺える根拠となるように思えます。同様に教育を受ける前の子供たちを見ても他人が持っているものを欲しがったりする行動が見受けられ、この点もこうした考えを支持するように見えます。
では食欲に対する食べ物の臭いに相当する、物欲を刺激するものとは何なのか。これなんて先ほどの子供の行動を観察すると見えやすいですが、まず「他人が持っているもの」は理由なく物欲を刺激されるポイントと言っていいでしょう。ましてやそれが「自分が持っていないもの」であればなおさらです。
ここでのポイントとして「比較」という現象が働いているのが分かります。例えば同じ種類の物でも、他人の持っている物より自分が持っている物のランクやグレードが高ければ安心しますが、その逆だと不安というか落ち着かなくなり、単純に言って奪いたくなるわけです。少し話の発展が早いですが、ある意味でこれが「嫉妬」の原点かもなとも思え、物欲こそが嫉妬を生む張本人とも思えます。
話を少し戻すと、物欲においては比較という仲介行為が凄い役割を果たしており、これは逆に言えば唯一無二の比較しづらいものだとあまり物欲は刺激されないということとなり、その点で言えば収集を競い合う「同好の士」という存在もまた物欲を刺激する要素となりうるでしょう。
ただ、中には一人孤独にある特定種類の物品収集に精を出す人もいますが、こういう人も考えると次の要素に当たる「コレクション」というか、「完全網羅性」こと全種類を揃えたくなるコンプリート欲求も見えてきます。現在の私を例にとると、時間があるので軍事研究を兼ねて戦闘機のプラモを作り始めたところ、姉妹機がめっちゃ多いフランカーを全種類揃えたくなってきていますが、まさにこう言うコンプリートを自然と目指すのも何かの欲求と見るべきでしょう。
このほか検討を深めればもっといろいろ見えてくるでしょうが、先に話をまとめると意外とこうした物欲に関する研究とか議論はあまり見ないなと思います。私自身以上の考えは今日帰りに歩きながら、あと途中で醤油ラーメン食いながら考えた内容で、多分似たような意見を言う人はいるでしょうが私のようなまとめ方をしている人は絶対いないでしょう。それにしても明後日の方向見ながらラーメン食べてる自分を店員はどう見てたんだろう。
こうした物欲に対する考え方は使い方によってはマーケティングにもすごい活用できると思うし、また「へうげもの」のように人心掌握のツールとしても活用できるはずですが、あまりそうした使い方を提唱する人は見ません。そもそも体系的にまとめようとしている人もいませんし、なんていうかもったいない気がします。
最後にこちらはまだあまり自分の中で検証をしきっていませんが、先ほどの「物欲からくる嫉妬」について、男性は形の無い物、女性は形の有る物に覚えやすい傾向があるのではないかと思います。この男女差はどっから来るのか、また暇になったら考えます。
2018年5月9日水曜日
書評「宿命 警察庁長官狙撃事件 捜査第一課元刑事の23年」
先月、もしかしたら途中で販売中止になるかもと思って文藝春秋の五月号を購入しましたが、正直言って失敗しました。文藝春秋は最近あまりにもつまらな過ぎるから見出しを見て買うかどうかをこのところしており、四月号に至ってはめぼしい記事もなかったことから購入していませんでした。今回の五月号は例の森友問題で自殺した職員の遺族手記について、遺族自体が掲載されるとは聞いてもいないし手記も書いていないと主張したことと、「文書改竄で佐川からのメモが……」と宣伝していたから一応買いましたが、後者に至っては何の根拠もない伝聞による憶測という、よくこんなの宣伝文句にしたなと呆れるレベルの内容でした。
六月号は明日から発売でしょうが、もう見出しを見ることなんてせず、買うこともないでしょう。この雑誌にはもはや何の魅力もありません。
と、言いながらも、五月号に関して一つだけ収穫がありました。元警視庁捜査第一課刑事の原一雄氏のインタビュー記事が載っており、先日出版された原氏の著書「宿命」について触れられていたからです。この本の概要は何なのかというと、あのオウム事件に追われる最中に起こった國松元警察庁長官狙撃事件の犯人について実名入りで全部書かれています。
この事件は発生当初からオウムによる捜査攪乱を目的とした犯行とみられ、オウム真理教に帰依していた元警官も犯行を自供してはいたものの、決定的な証拠がなかったことから立件には至らず、最終的に時効を迎え迷宮入りしています。なお時効に至ったその日の会見で捜査を担当した警視庁は、「それでもオウムが犯人と思われる」という異例の発言を行い、後にオウムの継承団体に当たるアレフから名誉棄損で裁判を起こされ100万円の賠償支払判決が下されています。
通常、一般人ならまだしも警察関係者を狙った事件というのは警察そのものから物凄い恨みを買うこととなり、全力で捜査されてお縄に至ることが非常に多いのですが、この事件に関してはとうとう解決には至りませんでした。もっとも事件発生当初からこの事件は不可解な点が多く、雨天の中で20~30メートル先から日本では入手の難しいコルトパイソンという拳銃で狙撃されるなど、高い狙撃能力を持つ犯人による犯行でありながら、現場には捜査かく乱のための朝鮮人民軍バッジが置かれ、また犯行声明も出されることもありませんでした。
なおこの事件の余波というか、「高い狙撃能力を持つ」という理由からオウムの逃亡犯であった平田信が早くから嫌疑者として指名されていました。後に2011年の大晦日に出頭してきた平田は出頭理由についていくつか挙げながら、この狙撃事件が「時効を迎え自分が犯人にされてしまうことがなくなったから」と、この事件の濡れ衣を着せられる恐れが逃走を続けた理由でもあることを明かしています。
そんなこの事件を長年追い続けていたのが、「宿命」の作者の原一雄氏です。読み終えた感想を述べると、犯人はこの本に書かれている生涯で二度も無期懲役を受け現在も収監されている現金輸送車強盗犯の中村泰以外には考えられないというのが偽らざる本音です。
犯行当日の中村の行動、隠蔽工作、そして動機などについては本の中で詳しく書かれているため敢えてここでは書きませんが、何故中村が犯人だと思うのかというと、本人自身が「私が犯人です」と既に自供している上に銃の入手経路や高い狙撃能力を有し、また秘密の暴露に当たる決定的情報を証言しているからです。
この東大卒のテロリストである中村の生い立ちや思想に関する記述だけでも十分面白いのですが、それ以上にこの本を読んで衝撃だったのが、公安と捜査一課(刑事部)の関係性というか絡みです。この本を読んだ限りだと率直に言って両者の関係はあまりよくなく、公安の立てた筋道と異なる捜査によって、想定と異なる犯人を原氏ら刑事部が見つけてしまったことから、この狙撃事件は立件なく時効を迎えることとなったのが真実だと考えられます。
もっとも途中から公安とも共同で捜査することとなった原氏によると、当初は中村犯人説に疑念を持っていたものの、捜査情報を提供するやすぐに公安も中村犯人説に動き、また時効を迎えた際には検察からも直々にそれまでの捜査を労われ、中村立件に至れなかった点を詫びられたと書かれてあります。
はっきり書けば自分の思想はテロリストに極端に近く、警察関係者にもいい思い出より悪い思い出の方が多いためあまり警察を信用しておらず、っていうか素直に言うと嫌いです。叔父は神戸の公安所属で、規律に厳しいかと思いきやむしろ一般人よりむちゃくちゃなことばっかやる人でかわいがってもらっていましたが。
ただ単純に嫌ってるということもあってか、あまり警察の組織や問題性についてはこれまで気にすることなく研究することもなかったのですが、公安と刑事部でこうも仲が悪いということはこれまで知りませんでした。そしてその捜査手法や特徴も異なっており、特に公安について原氏は、中村の協力者探しに当たって公安の人物割出し能力は抜きんでていたと称賛しています。逆を言えば、その高い割出し能力が刑事部には普段使われていないということになり、縦割り行政の弊害を覚えます。
最後になりますが、単独ソースからの情報にもかかわらず中村が犯人だと信じ切るのはやや危険かと思うものの、この本は非常にお勧めできる内容です。先日後輩に日テレ記者である清水潔氏のノンフィクション本を紹介しましたが、今回もこの本を読んでやはりノンフィクションはやめられないというか面白いと改めて感じさせられた一冊でした。
六月号は明日から発売でしょうが、もう見出しを見ることなんてせず、買うこともないでしょう。この雑誌にはもはや何の魅力もありません。
と、言いながらも、五月号に関して一つだけ収穫がありました。元警視庁捜査第一課刑事の原一雄氏のインタビュー記事が載っており、先日出版された原氏の著書「宿命」について触れられていたからです。この本の概要は何なのかというと、あのオウム事件に追われる最中に起こった國松元警察庁長官狙撃事件の犯人について実名入りで全部書かれています。
この事件は発生当初からオウムによる捜査攪乱を目的とした犯行とみられ、オウム真理教に帰依していた元警官も犯行を自供してはいたものの、決定的な証拠がなかったことから立件には至らず、最終的に時効を迎え迷宮入りしています。なお時効に至ったその日の会見で捜査を担当した警視庁は、「それでもオウムが犯人と思われる」という異例の発言を行い、後にオウムの継承団体に当たるアレフから名誉棄損で裁判を起こされ100万円の賠償支払判決が下されています。
通常、一般人ならまだしも警察関係者を狙った事件というのは警察そのものから物凄い恨みを買うこととなり、全力で捜査されてお縄に至ることが非常に多いのですが、この事件に関してはとうとう解決には至りませんでした。もっとも事件発生当初からこの事件は不可解な点が多く、雨天の中で20~30メートル先から日本では入手の難しいコルトパイソンという拳銃で狙撃されるなど、高い狙撃能力を持つ犯人による犯行でありながら、現場には捜査かく乱のための朝鮮人民軍バッジが置かれ、また犯行声明も出されることもありませんでした。
なおこの事件の余波というか、「高い狙撃能力を持つ」という理由からオウムの逃亡犯であった平田信が早くから嫌疑者として指名されていました。後に2011年の大晦日に出頭してきた平田は出頭理由についていくつか挙げながら、この狙撃事件が「時効を迎え自分が犯人にされてしまうことがなくなったから」と、この事件の濡れ衣を着せられる恐れが逃走を続けた理由でもあることを明かしています。
そんなこの事件を長年追い続けていたのが、「宿命」の作者の原一雄氏です。読み終えた感想を述べると、犯人はこの本に書かれている生涯で二度も無期懲役を受け現在も収監されている現金輸送車強盗犯の中村泰以外には考えられないというのが偽らざる本音です。
犯行当日の中村の行動、隠蔽工作、そして動機などについては本の中で詳しく書かれているため敢えてここでは書きませんが、何故中村が犯人だと思うのかというと、本人自身が「私が犯人です」と既に自供している上に銃の入手経路や高い狙撃能力を有し、また秘密の暴露に当たる決定的情報を証言しているからです。
この東大卒のテロリストである中村の生い立ちや思想に関する記述だけでも十分面白いのですが、それ以上にこの本を読んで衝撃だったのが、公安と捜査一課(刑事部)の関係性というか絡みです。この本を読んだ限りだと率直に言って両者の関係はあまりよくなく、公安の立てた筋道と異なる捜査によって、想定と異なる犯人を原氏ら刑事部が見つけてしまったことから、この狙撃事件は立件なく時効を迎えることとなったのが真実だと考えられます。
もっとも途中から公安とも共同で捜査することとなった原氏によると、当初は中村犯人説に疑念を持っていたものの、捜査情報を提供するやすぐに公安も中村犯人説に動き、また時効を迎えた際には検察からも直々にそれまでの捜査を労われ、中村立件に至れなかった点を詫びられたと書かれてあります。
はっきり書けば自分の思想はテロリストに極端に近く、警察関係者にもいい思い出より悪い思い出の方が多いためあまり警察を信用しておらず、っていうか素直に言うと嫌いです。叔父は神戸の公安所属で、規律に厳しいかと思いきやむしろ一般人よりむちゃくちゃなことばっかやる人でかわいがってもらっていましたが。
ただ単純に嫌ってるということもあってか、あまり警察の組織や問題性についてはこれまで気にすることなく研究することもなかったのですが、公安と刑事部でこうも仲が悪いということはこれまで知りませんでした。そしてその捜査手法や特徴も異なっており、特に公安について原氏は、中村の協力者探しに当たって公安の人物割出し能力は抜きんでていたと称賛しています。逆を言えば、その高い割出し能力が刑事部には普段使われていないということになり、縦割り行政の弊害を覚えます。
最後になりますが、単独ソースからの情報にもかかわらず中村が犯人だと信じ切るのはやや危険かと思うものの、この本は非常にお勧めできる内容です。先日後輩に日テレ記者である清水潔氏のノンフィクション本を紹介しましたが、今回もこの本を読んでやはりノンフィクションはやめられないというか面白いと改めて感じさせられた一冊でした。
2018年5月8日火曜日
その辺のぺがさす
今日ふと何故日本人は自国を過信するようになってきたのかと考えた際、「犯人はプロジェクトXだ」と思い至りました(0.8秒)。せっかちな性格もあって、何かの問いに対しては先に結論出してからそこまでの過程を後から考えることが多いので、決して上の思考過程は誇張ではありません。
では順を追って何故このような結論に至ったのか説明すると、そもそもまず日本人が自国を過信しているかという点については私の目から見た印象ですが、恐らく間違っていないかと思います。未だに大半の日本人は時刻が技術大国だと思っているようですが、既に工業方面でも技術の衰退はかなり進んできている上、学術分野の論文出願数や特許取得数、そして新規技術への対応の点に至っては世界的にもはや遅れている部類に入りつつあると言わざるを得ません。
そもそも何故このとっかかりを得たのかというとMRJのテコ入れに開発している三菱航空の増資を三菱重工が行うつもりという報道を見たからです。MRJも発表当初は優れている点が盛んに喧伝されましたが、延期に延期を重ねたせいで設計が古くなり、もはや優位点はあまり見つからないのにいまだ完成もしていないというデススパイラルに入っています。
話は戻りますがこうした主に技術方面の過信について何が発端なのかと考えた際、民族的なプライドなども浮かんできましたがそれ以上に地味に大きな影響元として、「日本礼賛番組」の存在があるのではと思えてきました。
ネットなどで見ている限りだと最近は減ってきているようですが(それでも一部で話題になっている辺りはあるのだろうが)、2010年代前半はこの手の番組の多さに私自身辟易しました。ちょうど中国から日本に戻って一時滞在していた時期ということもあるでしょうが、チャンネルをいくら回しても「にほんはスゴイ!」的な番組ばかりで、しかもその異様さを誰も指摘していないという状況が私には不思議に思えて仕方なく、その辺は当時のブログにも書き残しています。
もっともこうした違和感は徐々にとはいえやはり広がっていったのかそれからしばらくして私だけでなく、「礼賛ぶりがかえっておかしい」と指摘したり、単純に番組がつまらないという声も増えて言ったように思え、そうした流れもあってかどうもこの手の番組はまだ勘違いしているところを除いては大分なくなったようです。なおこの手の番組を私自身は全否定するつもりもなくたまに見る分なら面白いと思いますが、2010年代前半は明らかに異常なくらいにこの手の番組が氾濫していたように思えます。そして何故この手の番組が氾濫したのかというと、想像ですが背景には2010年前後にあった主にフジテレビを中心とする異常な韓流推しの反動があったためではと推測しています。
話は戻りますがこうした日本礼賛番組が、すべてとまではいかずとも日本人の過信を助長させたとするならば、さらにその源流はどこかと考えたところ出てきたのが「プロジェクトX」でした。番組内容については著名であるためいちいち説明しませんが、この番組自体はよくできているし評価に値しますが、もし「かつての日本の栄光」に浸ることに対して強めのカタルシスを日本人に与えてしまったとするならば、長期的に見て悪影響を及ぼした可能性もある気がします。
特にこの番組について、この番組放送以降にもしかしたら起こっていたのかもと思う変化として、過去の日本の技術礼賛によって過去に取りつかれ、未来を見なくなってしまったのではと思う節があります。そう思う根拠として、ここ数年の日本の報道などを見ていると、新技術に関する解説や評論、礼賛や応援がなんか減ってきているように私には感じるからです。具体的に言えばなんで5Gの解説があんま出てないんだとか、自動運転についてもリスク面の話ばかり出るし、そして何よりさっきのMRJの優位性もかなり専門的な記事を追わないと出てきません。まぁ最後のは最初にも書いた通り既に優位性を失っているだけかもしれませんが。
思い起こすとまだ私が子供だった頃は新技術について、「これからの未来は明るい!」的なノリでもっといろいろ紹介されていたような気がします。特にゲーム関連について言えばプログラムやメモリの発展過渡期だったこともあって機能や画像表現の進歩についていちいち特集されていました。また携帯電話をとってもその通信機能やアプリ機能など、今よりワクワク感に溢れた特集が組まれて紹介されてたように思います。
ただ単に技術の発展過渡期だったとすることもできますが、ここ中国にいると新しい技術やサービスについてよく取り上げられており、これらと比べるとなんか日本は新技術について及び腰というか、むしろ排他的な姿勢にすら感じるところがあります。一方で日本の技術は世界最先端だと完全に信じ切っており、何故そうした発想に至るのかというとやはりプロジェクトXのせいというか、過去の栄光にすっかりとらわれて現実や未来が見えなくなっているのではと、かなりきつい言い方ですがそんな風に覚えます。
その上で私個人の提言として、過去の技術なんて現代では全くお金にならないのだし、もっと新技術に目を向け社会全体で研究開発熱を盛り上げて行くべきであり、日本の技術は最先端だとか一旦そういうのは置いといて、今よりもっといい技術をもっと貪欲に追い続ける姿勢こそが大事だと思います。
それこそ飛行機一つとっても、この際だから脳波で動かすサイコミュ連動型作るとか、ビームライフルの標準搭載を目指すとか、他の国には絶対真似できない三身合体を実現させるとか、あり得ない空想をもっと本気で目指すべきでしょう。もっと夢を語るんなら、ギュネイ・ガスを超える強化人間とかもアリですが。
なお見出しの「その辺のぺがさす」は「草原のペガサス」の空耳版です。一度これ知ってから猛攻としか聞こえません。
では順を追って何故このような結論に至ったのか説明すると、そもそもまず日本人が自国を過信しているかという点については私の目から見た印象ですが、恐らく間違っていないかと思います。未だに大半の日本人は時刻が技術大国だと思っているようですが、既に工業方面でも技術の衰退はかなり進んできている上、学術分野の論文出願数や特許取得数、そして新規技術への対応の点に至っては世界的にもはや遅れている部類に入りつつあると言わざるを得ません。
そもそも何故このとっかかりを得たのかというとMRJのテコ入れに開発している三菱航空の増資を三菱重工が行うつもりという報道を見たからです。MRJも発表当初は優れている点が盛んに喧伝されましたが、延期に延期を重ねたせいで設計が古くなり、もはや優位点はあまり見つからないのにいまだ完成もしていないというデススパイラルに入っています。
話は戻りますがこうした主に技術方面の過信について何が発端なのかと考えた際、民族的なプライドなども浮かんできましたがそれ以上に地味に大きな影響元として、「日本礼賛番組」の存在があるのではと思えてきました。
ネットなどで見ている限りだと最近は減ってきているようですが(それでも一部で話題になっている辺りはあるのだろうが)、2010年代前半はこの手の番組の多さに私自身辟易しました。ちょうど中国から日本に戻って一時滞在していた時期ということもあるでしょうが、チャンネルをいくら回しても「にほんはスゴイ!」的な番組ばかりで、しかもその異様さを誰も指摘していないという状況が私には不思議に思えて仕方なく、その辺は当時のブログにも書き残しています。
もっともこうした違和感は徐々にとはいえやはり広がっていったのかそれからしばらくして私だけでなく、「礼賛ぶりがかえっておかしい」と指摘したり、単純に番組がつまらないという声も増えて言ったように思え、そうした流れもあってかどうもこの手の番組はまだ勘違いしているところを除いては大分なくなったようです。なおこの手の番組を私自身は全否定するつもりもなくたまに見る分なら面白いと思いますが、2010年代前半は明らかに異常なくらいにこの手の番組が氾濫していたように思えます。そして何故この手の番組が氾濫したのかというと、想像ですが背景には2010年前後にあった主にフジテレビを中心とする異常な韓流推しの反動があったためではと推測しています。
話は戻りますがこうした日本礼賛番組が、すべてとまではいかずとも日本人の過信を助長させたとするならば、さらにその源流はどこかと考えたところ出てきたのが「プロジェクトX」でした。番組内容については著名であるためいちいち説明しませんが、この番組自体はよくできているし評価に値しますが、もし「かつての日本の栄光」に浸ることに対して強めのカタルシスを日本人に与えてしまったとするならば、長期的に見て悪影響を及ぼした可能性もある気がします。
特にこの番組について、この番組放送以降にもしかしたら起こっていたのかもと思う変化として、過去の日本の技術礼賛によって過去に取りつかれ、未来を見なくなってしまったのではと思う節があります。そう思う根拠として、ここ数年の日本の報道などを見ていると、新技術に関する解説や評論、礼賛や応援がなんか減ってきているように私には感じるからです。具体的に言えばなんで5Gの解説があんま出てないんだとか、自動運転についてもリスク面の話ばかり出るし、そして何よりさっきのMRJの優位性もかなり専門的な記事を追わないと出てきません。まぁ最後のは最初にも書いた通り既に優位性を失っているだけかもしれませんが。
思い起こすとまだ私が子供だった頃は新技術について、「これからの未来は明るい!」的なノリでもっといろいろ紹介されていたような気がします。特にゲーム関連について言えばプログラムやメモリの発展過渡期だったこともあって機能や画像表現の進歩についていちいち特集されていました。また携帯電話をとってもその通信機能やアプリ機能など、今よりワクワク感に溢れた特集が組まれて紹介されてたように思います。
ただ単に技術の発展過渡期だったとすることもできますが、ここ中国にいると新しい技術やサービスについてよく取り上げられており、これらと比べるとなんか日本は新技術について及び腰というか、むしろ排他的な姿勢にすら感じるところがあります。一方で日本の技術は世界最先端だと完全に信じ切っており、何故そうした発想に至るのかというとやはりプロジェクトXのせいというか、過去の栄光にすっかりとらわれて現実や未来が見えなくなっているのではと、かなりきつい言い方ですがそんな風に覚えます。
その上で私個人の提言として、過去の技術なんて現代では全くお金にならないのだし、もっと新技術に目を向け社会全体で研究開発熱を盛り上げて行くべきであり、日本の技術は最先端だとか一旦そういうのは置いといて、今よりもっといい技術をもっと貪欲に追い続ける姿勢こそが大事だと思います。
それこそ飛行機一つとっても、この際だから脳波で動かすサイコミュ連動型作るとか、ビームライフルの標準搭載を目指すとか、他の国には絶対真似できない三身合体を実現させるとか、あり得ない空想をもっと本気で目指すべきでしょう。もっと夢を語るんなら、ギュネイ・ガスを超える強化人間とかもアリですが。
なお見出しの「その辺のぺがさす」は「草原のペガサス」の空耳版です。一度これ知ってから猛攻としか聞こえません。
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