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2018年11月2日金曜日

重慶バス転落事故について

中国バス転落、原因は運転手と乗客のけんか 幼児も犠牲(朝日新聞)

 普段あまり中国のニュースはチェックしていない私ですが、この件に関しては事故が発生した28日の段階からしつこく追っていました。

 自己の概要を簡単に説明すると、重慶市で長江に架かる橋の上で公共バスが突然ハンドルを切り、そのまま柵を突き破って橋の下の川底へと真っ逆さまに落ちました。この際、対向車線を走っていた乗用車が衝突しフロント部分が一発で潰れはしたものの、運転していた女性は大きなけがはなく軽症で済みました。
 一方、バスの方は事故発生からすぐに救助隊らが現場に集結して活動を開始しましたが、当初から生存者は絶望視されており、また落下中か水面衝突時に投げ出されたのか2体の遺体がすぐ見つかったほかは乗客が何人乗っていたのかもわからない状態だったそうです。警察は周辺を走っていた車のドライブレコーダーや監視カメラの映像などから乗客の割り出しを行っていたとも報じられていました。

 転落したバスは水深65メートルもの川底にまで沈んだと報じられていましたが、先日になって引き上げられ、今日になってブラックボックス、というか普通に車内の監視カメラに搭載されていたSDカードが復元されて事故当時の映像が公開されたのですが、その内容というのが冒頭のニュースリンクに書かれていた通りでした。



 事故原因は目的の停留所を乗り越した女性乗客がここで降ろせと女性の運転手に詰め寄り、応じなかった運転手に対し殴りかかったことで運転手の気がそらされ、ハンドル操作を誤ったという衝撃的な内容でした。日本の報道にはあんま書かれていませんが、殴りかかった女性は携帯電話を手にもって運転手に殴りかかったと中国では報道されており、この女性が経営していたとされる意匠カーテン店は現在閉められているそうです。

 この件は中国でも大きく報じられており、私も普段見ないスマホ配信ニュースを追ってて、今日昼過ぎに配信された真相報道についてもじっくり読んでしまいました。当初でこそバスが突然制御を失ったことから運転手が気を失ったのではとも思っていましたが、想像を超える真相を受けて何とも言えない気持ちとなりました。少なくとも運転手の運転ミスではないと分かっただけでも、今回監視カメラの映像が復元できてよかったのではないかと思います。

 なお今日同僚とも話しましたが、運転手と乗客が乗り降りについてもめるのは中国だとそんな珍しくありません。今回の事件を受けて中国でもコメントなどで、こうした運転手と乗客のケンカに出くわしたら何が何でも止めようという声が広がっていますが、私もこの件に関しては全く同感というか、 頭のおかしい乗客が騒ぐのを他人事だと思ってみていてはならないというのを自覚しました。
 その上で、運転手を含め犠牲になった14名の乗員乗客に対し深い哀悼の念をこの場で捧げます。なお日本の記事だとあまり写真が出ていませんが、このアドレスの記事の写真を見れば今回の事故現場となった橋がどれだけ高い橋かが見てわかります。こんなところから真っ逆さまに落ちるなんて想像するだけでも辛く、犠牲者に対してはただただ同情の念を覚えます。

2018年11月1日木曜日

国家によるメールの検閲是非

 昨日は調子よかったのにブログは書かず、今日は調子悪いのに何故か書いているのが不思議です。
 さて細々とレッツ監視社会な連載を続けていますが、最初が監視カメラ、次が盗聴・録音について書いて、今回はある意味ホットなインターネットのメールについてです。

 一応、建前上はメールも信書という扱いで通信の秘密が法律とかで保障されていますが、それらはあくまで建前で、メールの検閲を行っていない国家の方が案外珍しいんじゃないかと思います。
 私の住んでいる中国は言わずもがなというか、検閲していることを隠さないというくらいの同道ぶりで、中国人も基本、メールは見られるものという前提の上でやり取りしています。
 では対抗馬の米国はどうかというと、スノーデン氏によってNSAが大っぴらに国民のメール通信を検閲していることがばらされており、恐らくこの検閲は現在も続けられているでしょう。また欧州でも同様の行為は行われているとされており、何もこうした行為は中国に限るわけではありません。中国が隠していないだけでしょう。

 では日本はどうかと言ったところですが、過去のインターネット事件史や操作を見ている限りだと特定実ん物や団体とかならともかく、幅広い検閲まではやっていないんじゃないかという気はします。ただこれはもちろんそう見せかけているだけという可能性も十分考えられ、私に言わせるならば、国民の側がメールが検閲されるはずないと信じ込む方がむしろ問題だと感じます。中国にいる私のように、見知らぬ誰かが自分のメールを見ることもあるという覚悟というか諦観がないという方が、やや平和ボケし過ぎているとすら思います。

 こうした国家によるメール検閲の論点は、第一にそれを認めるか否か、第二に規制の必要はあるか否かです。
 監視カメラと違い、はっきり言ってメールの検閲を行ったところでどれだけ犯罪を食い止められるのかについては未知数であり、またぶっちゃけあまり効果がないようにも思うため、国家によるメール検閲を認めることによる市民のメリットは私はそれほど大きくない気がします。ただ国家としては他人のメールを見たくなるというのもわかるため、こうしたメール検閲行為をどうしてもやりたいってんならルール作りが必要となるか。それとも現在のように建前上は見てないということにして隠れて検閲させ続けるのか、どっちを是とするのかはあらかじめ議論する価値があると考えます。

 体制側としてはやはり後者で、自由と平等と通信の秘密を守るというポーズの下でせっせと検閲したいでしょうが、私個人としてはどうせ検閲するってんなら中国みたくもっと堂々とやれよと言いたいです。ただ世の中の多くの人はそもそも自分がやり取りするメールに検閲される価値がないにもかかわらず見られたくないって人が多いでしょうし、だったらそういう人たち向けに「ここまでは見ないよ」ってラインでも設けたらどうかという風に見ています。
 ではその検閲ラインですが、警察の盗聴捜査のように特定人物や団体へ令状なしでは実施できないとする案、国際通信のみを対象とする案、特定プロバイダーを対象とする案などのように、いくつかライン候補があります。ただこう言っておきながらなんですが、仮にラインを設けたところで体制は容易にそれを踏み越え、必要以上の検閲を実行することとなります。何故ならそれが国家、管理できるなら何でも管理したいという性格の持ち主だからです。

 そういう意味では私はどうしてもメールを見られたくないってんなら専用回線を持つとか、特殊な暗号を普段から用いるなどして自己防衛する方が体制を信じるよりよほどマシだと思います。何度も言いますが、メールは絶対に検閲されないと信じ込む方が逆に危険です。
 そもそもメールというのは体制側からしたら検閲しやすい形態で、手書きの文書の方が検閲の手間も食うなどコストがかかります。そんなメールが流行ってしまった時点で通信の検閲が高まるのは自明だったとしか言いようがないでしょう。

2018年10月30日火曜日

盗聴・録音はどこまで許容されるべきか

 最近税法勉強し始めたけど、社会主義の中国に相続税がなく、資本主義の日本の相続税が重いとか男のギャグだとか思い始めてきました。友人が中国について最近、「社会主義と資本主義のいいとこどりに対し、日本は悪いとこどり」と評しましたが、なんとなく私もそう思えてきました。
 そんな中国のような監視社会についていろいろ考えるこの連載ですが、さっきようやく来週のJBpress記事を送ったのでやっと再開です。前回が監視こと映像録画だったに対し、今回は音声録音についてですが、結論から言うとなるべくなら録音は社会で行わない方がいいという立場をとります。

 監視カメラは現在世の中に溢れていますが、基本的にどの監視カメラも音声を録音する機能はなく、よくある「監視カメラは見た!」的な番組でも無音の映像にナレーションが付けられ解説されます。やりよう、っていうか指向性マイクを付ければ映像とともに音声を録音することも十分可能ですし実際に録音機能の付いた監視カメラも世の中にはあるものの、現在ほとんどの監視カメラに録音機能が備わっていないというのは、コスト上の問題もさることながら音声を録音することの問題性を業界もうすうすわかってやっているのかもしれません。
 何故録音するとまずいのかというと、単純に機密遅漏につながりやすいということ以前に、人間を陥れやすくなってしまうというのが問題だと私は考えます。

 社会学士の立場から言えば、人間というのは自分が正しいとか本気で思っていることしか口にするわけではなく、咄嗟に普段はみじんも考えていない過激な発言や言葉を日常でも多々口にしてしまう存在だとみています。私なんかはほぼ毎日ぶっ殺すとか、ついさっきも友人にチャットで「昨日殺したけどね(蚊を)」などという言葉を念仏のように唱えていますが、私ほどではないにしろ、「あの野郎」とか、「今度罠にはめてやる」などという実際には実行しないけどこうした物騒な言葉を口にすることは誰にだってあるでしょう。
 仮にほぼすべての監視カメラに録音機能がついていた場合、こうした発言はもれなく拾われてしまいます。その結果、こうした発言が殺人企図として取られる可能性もあり、体制側からすれば目障りな奴はこれで片っ端からブタ箱に突っ込めるという優れものになってしまいます。また体制とまでいかなくても、会社の上司とかが自分を殺すという発言をした部下に対してその録音データを元に脅迫、解雇を迫るという可能性も十分ありうるでしょう。

 繰り返すと、人間は普段思ってもないことも口にしてしまう性質上から、たとえ公共の場においても何でもかんでも録音してしまうと他人を陥れやすい社会となってしまいかねません。また仮にそのような録音されることが認知されていたとしても、恐らく多くの人は揚げ足を取られぬよう余計なことは口にしなくなり、友人との会話でも録音されないように小声で会話するようになるため、私の目から見て社会は不健全となっていくことは確実です。
 多分この辺は実感湧く人はいないと思うのですが、私の中国語の恩師が昔の中国に行くとみんな小声でひそひそ話す傾向があったそうです。何故かというと文革期に密告が相次いだため、当時の中国人の間では盗み聞きされないようひそひそ声で会話することが身についてしまっていたらしいです。

 今少し出しましたが、社会のあちこちで録音することは即ち完全な密告社会であり、お互いがお互いを陥れ合う不健全な社会にしてしまう可能性が高いため、監視カメラを置くことについては基本山西ではある者の、社会で音声を録音することは基本的に望ましくはないと私は考えます。特に体制側の録音は厳しく制限されるべきでしょう。
 現在日本では裁判所の承認の下で犯罪につながる可能性の高い被疑者に限り警察が盗聴をすることを認められています。ある意味この辺が体制側による録音の妥協ラインだと思え、きちんとした手続きを踏まえた上での盗聴録音に限り認めるという意味で、現状の制度を私は許容しますし支持します。逆にこうした目的ではなく、手続きを踏まえない警察の盗聴行為(GPSで以前あった)に関しては、やはり厳しく制限し処罰するべきでしょう。
 まぁ許容するとか言いますが、そもそも日本に私はいませんが。

 では体制以外、具体的には個人の盗聴・録音はどうなのか。個人的にはやはり密告社会化する懸念から個人や民間団体も録音は控えるべきだとは思うものの、近年はICレコーダーが発達し、セクハラやパワハラ、浮気の証拠材料として録音されたデータがメディアや裁判に提出される機会が増えています。司法も浮気の証拠を得るためであれば、自宅内で夫婦のいずれかが盗聴器を仕掛け録音することを現在認めており、また先ほどのパワハラなども防衛上やむを得ないと私は考えています。
 許容されるべきラインを考える上のポイントとしては、

1、録音内容が当人に関係している
2、社会通念上認められる目的での録音に限られている
3、録音の対象がはっきりしている(浮気相手、パワハラ上司など)
4、意図的なネット配布など不必要な範囲で公開していない
5、使用目的を果たした後は削除する

 以上が守られるならば胸を張って盗聴してもアリだと私は考えます。
 ただ以上の条件には問題をはらんでおり、というのも浮気調査とかで興信所が音声録音を行ったらどうなるのかという点です。この点に関しては業界の倫理に依存する面が多いですが、無難なやり方としては「問題発生時には責任はすべて依頼者に帰す」という風にすれば、ある程度は制御できるのではないかと思います。また興信所側も、依頼内容を超えた盗聴行為や、録音データの二次配布、長期保存などをした場合は処罰されるようにするのがベターでしょう。

 逆を言えば、相手の見知らぬところで何気ない会話とかを録音したりすることは、刑罰化するまではいかなくても個人と言えども基本認めるべきではないでしょう。その音声が録音されてもよいかは基本的に音声発声者に帰すべきですが、まぁ公人相手とか、先ほどのセクハラパワハラに準ずるような報道価値があるなら、ジャーナリストが無断で録音するのは許容してほしいところです。

2018年10月28日日曜日

焦り、飢え、怒り……

 昨日は会社の催し事があり、自宅には夕方帰ってきましたがその時点でへとへとだったので夕方6時から7時にかけて仮眠取ったのに、夜10時には就寝して、今朝は8時に起きました。
 朝起きてから締め切りが迫っているのでJBpress用の次回原稿として中国自動車市場の記事の準備を始めましたが、あらかじめ情報は集めていたものの、午前中はグラフを作るだけで終わってしまい、正午には外へ昼食を食べに行き、食べた後はニトリで前から欲しかったカーペットを買って帰ってきました。

 でもって午後2時くらいからまた執筆に移りましたが、すぐ書き終わるかと思ったらちょっと分析必要となって書きながらあれこれデータを調べてて気が付いたら夕方6時。おなかもすいてきていたタイミングでしたが、ここにきて自分が取ってきたメーカー別販売台数データがおかしく、データが間違って表示されていることに気が付き、焦っている上にめちゃくちゃ腹減っていたこともあって頭に血が上り、「てめっ、ふざけてんじゃねぇぞこの野郎っ!」と、間違ったデータを公開していたメディアへの怒りから画面に向かってしばらく怒鳴っていました。
 っていうかすっかり季節も秋めいて空気も乾燥してきているから、怒鳴ってまた喉潰したところ普通に乾いた空気が喉に痛かったです。もうこのままじゃ悪循環だと思っていったんまた外に出て夕食を取って再び書き始めましたが、データが変わったことによってまた分析をし直して、ようやくのことさっき書き終えました。

 やっぱーデータという前提が崩れると、記事書いてるこっちとしてはかなりきついです。まぁ見方を変えれば誤ったデータを出す前に気が付いたことを幸運と思わなきゃいけないのですが、先週は水曜、木曜と飲み会がありただでさえ準備時間がなかった上に、昨日土曜も前述のように催し事で潰れたこともあって、記事内容自体は比較的楽だったものの無駄に神経を使う羽目となりました。
 真面目にこのところ体力以前に神経を浪費することによる影響の方が強く、集中力の低下をはじめあちこちに悪影響が出ています。意図的にこうした神経を休ませた後は明らかに調子が良くなるだけに、今のように不安定な状態が続くと非常にきついです。今日買ってきたカーペットで睡眠環境が良くなればベターなのですが。

ダニ対策で床の上に寝るようになって以降、左下のベッドは物置台となりつつある

2018年10月26日金曜日

配信元で異なる電子書籍価格

 一昨日から二日連続飲み会で明日もちょっと食事の用事があり、尚且つ今週末中に次のJBpress原稿をあげなくてはならないという切羽詰まっているので、ぱっぱとかける話題にします。
 それにしても中日は待望のスター選手を獲得できたのに対し、阪神のドラフト戦略はまるで意味が分かりませんでした。あと次の日本シリーズは広島対ソフトバンクで、実質「西日本シリーズだな」と見ています。

ちおちゃんの通学路9巻(Amazon Kindle)
ちおちゃんの通学路9巻(DMM)

 上のリンク先はどちらも同じ漫画の電子書籍販売ページですが、見てもらえばわかるようになんと同じ電子書籍でありながらどちらも税込みでKindleは632円に対し、DMMは702円で売っています。大概の電子書籍は配信元が異なっていても基本的に同じ価格なのですが、たまにこういった値段の変わる本が出てきたりします。

 実体書籍の値段に関しては法律で、地域によって知識の取得が偏らないようにするため全国どこでも日本国内では同じ値段で販売するよう取り決められています。今回の槍玉は電子書籍なため厳密には「データ」の販売となることからこの法律は適用されないでしょうが、個人的には「えっ、なんで?(;´・ω・)」と思う案件なだけにわざわざブックマークして取っておきました。

 これまで見ていた限り。電子書籍のサービスベンダーは販売単価の数十パーセントを次回購入時の割引に使えるポイントを配信することで、ベンダー間で価格競争を行っていました。私はこれ自体は真っ当な競争だし、そもそも電子書籍は印刷、在庫、物流コストもかからず過去の書籍であっても一様に販売できるメリットがあるため、実体書籍より安く販売されてしかるべきだと考えており、こうしたポイント付与については一利用者として好ましく感じていました。
 しかし今回のケースはポイントではなく完全な販売単価がベンダー間で異なっています。出版社との契約内容がどうなっているのかはよくわかりませんが、仮に出版社側でベンダーによって価格を分けているとしたら、なんとなく腑に落ちないというか価格操作的にやややり過ぎではないかと思います。

 一方、もし今回のケースがベンダー側の価格設定による差だとしたら、それはそれで市場競争としてはありではあるものの、なんとなく高い配信元で購入したら損したような気分になるので、やはりなるべくならポイントで差をつけてほしいなというのが本音です。
 どっちにしろ、この「ちおちゃんの通学路9巻」は買うつもりないですが。

2018年10月23日火曜日

監視カメラの配置の是非

 昨日から監視社会の許容範囲についてこれから語っていくと書いたものの、今日は調子悪くてもう家帰ったらブログ書かずにずっと「バレットガールズ」という銃で撃つと女の子の服がどんどん破れるというわけのわからないゲームしてようと思ってましたが、明日は知人と会うためブログ書けないことを思い出し、仕方なく書き始めています。なお本題と関係ありませんが、「嘘だと言ってよバーニィ」って言葉がリアルに出てきました。

 そんなわけで話は本題に入りますが、監視社会の主役と言ったら密告と監視カメラのダブルキャストです。特に監視カメラは電気代を除けばノーコストで人民を監視し続ける上に証拠も残せるという優れもので、「ノーカラテ、ノーニンジャ」ならぬ「ノーカメラ、ノーディストピア」と言っていいくらいに欠かせない代物です。真面目に監視カメラなしでディストピア作ろうなんて、明治維新を起こすより難しい気がします。

 ただそんな監視カメラですが、こと治安に関しては圧倒的な武器にもなりうる代物です。近年は監視カメラの映像が決め手となって検挙起訴に持ち込める案件も多く、通行する自動車のナンバーをすべて読み取って保存してしまうNシステムに至っては、多くのミステリー作品のトリックを破綻させてしまうほどの強力な威力を発揮しています。
 結論から言えば治安面の効果とその低コスト性から私は監視カメラを広げていくことには大賛成です。ただ、いったいどこまで監視カメラを設置すべきかという点についてはやはり今後も議論が必要だと考えます。

 いわゆる左翼系の団体などは監視社会への批判から監視カメラの設置を頭から否定しますが、例えば学校などの教育期間への配置に関してはさすがに立場をわかってか、否定する人は見たことがありません。私なんかは逆に学校には入口付近を除けば子供の自由な活動を阻害しかねない気がするので配置は控えるべきだと思うのですが、これと絡めて述べると、監視カメラは誰が配置するのかによってもその意味合いは大きく異なります。

 学校や一般商店を例にとると、普通設置するのは運営主です。しかしこれが運営主ではなく警察や政府となると、言うまでもなく意味合いは大分異なってきます。それこそ個人商店のような本屋に何故か知らないが警察設置の監視カメラが置いてあるのと、万引き防止のために店主が監視カメラを設置するのでは、やはり感覚的に前者は変じゃないかと思うのではないかと思います。
 一方で、例えば巨大なショッピングモール、あと銀行やホテルと言った公共性の高い私営の建物だったらどうか。私はこちらの場合に関してはなるべくなら運営主が設置して、警察の捜査協力に対し必要に応じて映像を提供するというような具合が望ましいですが、もし費用などの問題で運営主が設置を渋るようであれば、警察や政府が設置するのも認めてもいい気がします。というのもこれらの建物は公共性が高い上に多数の人間が往来し、監視カメラの設置によるメリットはプライバシーの侵害云々を無視できるくらい高いと感じるからです。

 同様に、公園や駅、空港と言った完全な公共スペースに関してはむしろ国主導でガンガン監視カメラを置いた方がいい気がします。そもそもこれらの公共スペースはその「公共」という言葉の通り市民全体が利用するスペースであり、個人のプライバシーはむしろ存在してはならないエリアです。さすがにトイレ内とかは別ですが、こうした場所において個人のプライバシーを主張するのは古い言葉で言えば独占主義者と見ることもできるだけに、犯罪抑止効果を考えると積極的に監視カメラを活用するべき立場をとります。
 何気に上記の公共スペースの中でとりわけ監視カメラを増やした方がいいと思うのは、ほかならぬ駅、というか列車車両です。これは勘のいい人ならわかるでしょうが痴漢犯罪、そして痴漢冤罪の撲滅につながると思うからで、カメラが安くてもいいから車両内を全部映す監視カメラ体制を構築すべきでしょう。

 では逆に監視カメラを設置すべきでない場所はどこかというと、やはりプライベートというか私有な空間で、個人の邸宅等です。ここで一つ議論となるのはマンションの廊下などと言った共有スペースに設置すべきかという点で、これなんか設置場所によってはだれがどの部屋に出入りしているかが全部記録できてしまいます。私はまったく気にしませんがこの点を気にする人は多分いっぱいいると思うのですが、共有スペースでもよくケンカや暴行といった犯罪が起こることを考えたら、なるべくなら設置した方がいいという立場をとります。間を取るならやはり映像管理は管理会社が行い、警察への提出は任意性とする辺りが落としどころかもしれません。
 なお警察への提出は任意と言いながらも、もしある部屋のドアから火星人が出てきたら何をどうしてやってでも私はその映像を手に入れて公開するでしょう。個人のプライバシーより、火星人の発見の方がずっと大事です。

 もう一つ議論のネタを入れておくと、例えば公道なんかはどうなるのかという点で意見が分かれるでしょう。公道も人や車の往来が激しければ監視カメラの設置メリットが絶大になりますが、場所によっては一般住宅の塀、場合によっては庭も映ったりします。何も公道に限らずとも個人が自宅に監視カメラを設置したところ、隣家の一部も映ってしまうということも考えられます。こうした場合はどう処理するのか、設置を認めるべきなのかに関しては、もしかしてもうあるかもしれませんがルールを作っておく必要があるでしょう。
 それこそ先ほどのように人の出入りが分かってしまうドアや窓の中は映してはならないとか、屋根や塀の一部なら勝手に撮影し続けても問題ないとか。もう一つ重要なのは、自宅用の監視カメラと主張して隣家を覗き見し続ける輩の処罰と区分です。こうした監視カメラの悪用に関しても一定の制限はあらかじめ作っておくべきであり、公共スペースであればトイレ内などは禁止、プライベートな空間であればその撮影範囲はその空間内及び隣接する最低限の空間に限るとか。逆を言えばこうしたルールがなければ今後何か問題が起こってきそうな気がします。

2018年10月22日月曜日

監視社会をどこまで許容すべきか

 ここ数年、監視社会によるパノプティコンを描いたジョージ・オーウェルの「1984」という小説が話題に挙がることが増えている気がします。考えられる理由としては村上春樹氏の「1Q84」とか、これを題材にとったとされるゲームの「メタルギアソリッド5」による影響などを候補に入れていますが、それ以上に世界全体でこうした監視社会に対する見方が現実化してきたせいもあるかもしれません。

 現在、世界で最も「1984」の世界に近い国はどこかと言ったら、恐らくは北朝鮮になるでしょう。また私が現在住んでいる中国もこの分野においては世界的にも上位に食い込むことが予想され、このほかだったら有名どころだとロシア辺りが来そうです。
 ただ、こうした監視社会先進国(?)に限らずとも、電子機器とネットワーク社会の発達に伴ってどの国でも監視社会の程度は年々増してきていると言っても過言ではありません。自由の国を標榜する米国ですらNSA(最初、「NSC」と書き間違えた)が通信を傍受していたことがスノーデンに暴露されましたし、またFacebookやtwitterも、ユーザー情報を官公庁に提供というか売り買いしているのもほぼ確実でしょう。っていうかFacebookはユーザーのパスワード情報などを大量に流出させたことがほぼ確実なのに何も補償もせず処分も受けていないのがむかつく。

 ただ、これらの企業を批判しても意味がないというか、現実には報じられたりしないだけでそこら辺にある小さい企業とかでもユーザー情報をガンガン売買しているのが現実です。また売買しなくても、ビッグデータとしてあらゆる行動が観察、収集さているのが現実であり、こうした米国や日本におけるこの現況が監視社会でなければなんだといったところです。

 逆接に逆接を重ねますが、しかし、Facebookのパスワード流出はともかくとしてこうした監視社会の発達は一方で、一般市民にメリットをもたらしている面もあります。一番大きなメリットとしてはやはり治安面で、何も「密着!警察24時間」を見ていなくても、近年は監視カメラの映像が決め手となる検挙が増えていることはほぼ間違いなく、また個人レベルであってもドライブレコーダーの普及によってかつてであれば起訴まで持ち込めなかった案件も起訴に持ち込め、危険な運転や自己責任の実体がかつてと比べるとよりはっきり証明できるようになってきています。
 こうした治安面に限らずとも、ビッグデータの活用による新システムの開発や分析、情報の共有やマーケティング活用など、いわば行動が逐一監視されることによって生活が豊かになっている面を否定することはもはやできないでしょう。

 以上を踏まえた上で私見を述べると、監視社会というと「そんなの良くない(; ・`д・´)」と頭から否定する人間や団体が多いですが、現状既に半ば監視社会へ入っており、ここから監視のない世界に戻ろうとするとデメリットの方が大きくなります。それであればむしろ、社会上のメリットを享受するためには一体どこまでの監視を許容し、逆にどこまでを認めるべきではないのかという区切りを考える方がより建設的だというのが私の見方です。
 先にも述べた通り、現状では既に多くの企業や団体、政府が市民の了解なしに勝手にその行動を監視、収集しており、限度については誰も何も持っていません。いわば無法地帯のような野放し状態なのですが、これについて「ここまでなら無許可での監視OK」というラインを作るべきだと言いたいわけです。

 例えばこの前閉鎖した漫画村についても、既存の法律上ではあれは完全に通信の秘密を侵害しています。しかしああしたサイトを規制することによって表現者のところにお金が回り、文化が進行されることを考えると、やはり規制することが社会にとってはプラスです。
 このように監視範囲と対象、そして規制区分についてもっと、「どこまでならOK」という議論をすべきだと思います。どんなことであれ監視はされたくないというのはもはやナンセンスで、ある意味治安上では危険な概念であると思います。まぁこうして挑発するには私なだけに裏があるわけですが。

 さすがにこのテーマを一回で終わらすのはもったいないので、しばらくこのテーマで思いつくことを書いていこうと思います。