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2019年12月28日土曜日

中国におけるレクサス販売の独禁法違反について

中国、トヨタに罰金13.7億円 レクサス販売で独禁法違反(時事通信)

 上の記事について意見を求められたので書きます。
 概要を簡単に書くと、自動車ブランド「レクサス」についてそのメーカーであるトヨタが中国江蘇省内の販売代理店(ディーラー)に対して、最低販売価格を揃えるよう指示、実質的に最低販売価格をメーカー側が設定したことが独禁法違反に当たるとしてこの度、江蘇省市場監督管理局が約13.7憶円の罰金をトヨタに課したそうです
 実際の捜査内容などを見ているわけではないので断言などはできませんが、仮に上記内容が事実であれば監督管理局の措置は至極真っ当と言え、何もおかしいことはありません。ヤフコメでは中国政府の横暴だと批判する連中が多いですが、メーカーによる中間流通業者への価格統制は明白な独禁法違反行為であり、日本にはこれほど世間知らずが多いのかと思うと真面目に未来はないなと思えてきます。まぁそもそも思ってないが。

 このほか、現在トヨタ自身が上記措置に対し反論を行っていないことを考えてみても、事実関係には間違いはないのではないかと見ています。

 以上だけで記事をまとめてもいいのですが、もう少し内容について掘り下げると中国では近年、自動車業界におけるメーカーとディーラーの立場関係について、市場の独立性及び消費者利益の保護を守るためとして、ディーラー側の立場を保護するようになってきています。その代表例と言えるのが2017年に公布された「自動車販売管理弁法」です。

【17-009】間もなく施行される中国「自動車販売管理弁法」について(Science Portal China)

 この政策では自動車ディーラーに対するメーカー側の支配行為について様々な制限を設けており、個人的に面白かったのは「特約契約の禁止」です。これはどういうことか例えると、トヨタと契約しているディーラーがトヨタ以外の車も販売する行為について、トヨタは制限をかけてはならないとする内容です。
 具体的な想定例では、あるホンダ系ディーラーの顧客がトヨタ系の車を欲しいとここに相談した場合、このホンダ系ディーラーがトヨタ系ディーラーと交渉し、契約をまとめて顧客に販売することが可能となります。また単純にそれまでトヨタ系ディーラーだったけど、ホンダ、日産とも契約を締結してこれらのメーカーの車も同時に扱うこともOKで、こうしようとするディーラーの行動についてメーカーが制限をかけたら違反となります。

 これが特に響くのは輸入車で、輸入車ディーラーは取り扱いたいと思ったメーカーの車を自由に輸入できることとなります。またメーカーに対しては、こうしたディーラーの要望に対して販売契約締結の審査を平等に行うよう要求されており、多分一番影響がでかかったのはこっち方面だったと思います。
 それ以外にもアフターパーツの供給などでも不当な差別はしてはならないなどいろいろ規定されてて、非常に細かいと言えば細かいのですが、メーカーのディーラーに対する垂直支配の激しい自動車業界にこそ必要な内容だろうなと呼んでて思いました。

 ちなみになんでこんな詳しいのかっていうと、実はこの弁法は以前に仕事で翻訳したことがあります。今回のトヨタへの制裁はこの弁法が根拠法となっているかまではわかりませんが、中国が自動車メーカーのディーラー支配に対して自由競争保護の立場からいろいろ規制を強めている風潮があるだけに、事件の報を見てすぐにこの弁法を思い出しました。
 その上でこの記事を通して言いたいことがあるのですが、そのまま言ったら角が立つことになるので言えません。言わなくてもわかるだろうけど、この方面でもなんか最近○○だなぁと、翻訳した当時に思ったのを覚えています。

不登校者に対する第三者という意見

 本体半額の上にポイントもつくという二重の割引セールがやっていたので、懐かしいこともあって「機動戦士ガンダム戦記(PS3版)」の漫画四冊をまとめ買いしました。ゲーム版はクソみたいな映画「デビルマン」のようなストーリーで、決してシャレじゃなく全ガンダム関連作品の中でも最低と断言しうるカスみたいなストーリーですが、漫画版は「撃つなラリー!」である意味伝説となった夏元雅人氏が非常に上手く料理しており、原作にあった数々の矛盾点をうまく整合させて見応えがありました。
 なお夏元雅人氏は最近、「ガンバード2」という彼がキャラデザした彩京のシューティングばかりしていることもあって、その絵柄には親近感を覚えます。ただそれ以外にも、ガンダム系の漫画って割と元アニメーターなどの作家が描くこともあり、コマ割が悪くちゃんとMSが動いているように見えない、静止画の連続の様な漫画を描いてくることが多い中、夏元雅人氏はちゃんと動いているように描く上、ミリタリー色のある画風もあって評価できます。

 逆にこの方面でひどいと感じたのは美樹本晴彦氏で、「エコール・デュ・シュエル」読んだ時はこの人、漫画なめてんじゃないのかと本気で思いました。

不登校にも効果!子育てに不可欠「第三者」の力(JBpress)

 話は本題ですが、自分が書いたわけじゃないものの上の篠原信氏の記事は非常に納得感がありました。概要を簡単に説明すると、今と昔の日本における青少年の大きな環境の違いは「無関係な第三者」がいるかいないかだと指摘し、この第三者をきちんと取り巻くことが不登校者の復帰などにも大きいと指摘しています。

 この無関係な第三者とは具体的には、近所のおじさんとかよく通う商店の人々などです。面白いのは友人の両親とか学校の先生などが含まれていない点で、必ずしも必要ではない生活活動の中で会う大人たちを指しています。実際に篠原氏もこうした「第三者」となって不登校などで悩む青少年を自宅にいれ、何もしないでいることがあるそうで、こうした行為の意味と効果について強く語っています。

 実際というか昔と今とで無関係のおっさんが地元の小学生らに注意することは少なくなってるでしょう。またよく通うお店の大人たちとどれだけ会話があるかと言ったら、恐らく私がこどまった時代でもそれ以前の時代と比べれば非常に少なくなっていた気がし、今の時代はそれ以上にさらに少なくなってきている気がします。
 ちなみに私は何故かこの方面の関係づくりは割と得意で、この前も年に4回行くか行かないかの仲良しの床屋にわざわざ中国土産のお茶を持っていきました

 篠原氏はこうした第三者の接触が何故重要なのかという理由について、大人になったら否が応でもそうした第三者たちと数多く交わらざるを得ないためと書いており、これに関して私も同感します。私自身が思うこととしては、第三者の中でも頼るべき人、頼らざるべき人の見極めが子供の頃はまだ不十分で、こうした感覚が養われるにつれてどういった第三者と付き合っていくか立ち回り方を覚えて行った気がします。逆を言えば、こうした感覚が養われていない若者などは第三者すべてに対し交流を避けるところが見えます。

 で、また繰り返しになりますが、篠原氏の言う通りに無関係だからこそ乗れる相談て言うのは実際多いでしょう。医者やカウンセラーなどの専門家はその専門的立場からアドバイスをしてくれますが、結局それは問題を直視する方向にしかならず、問題を避ける、さばく方向には発展しづらいです。無関係且つ全く別の視野を見せてくれるような第三者であれば、家族以上にある意味そういう方向のアドバイスが可能だと言え、篠原氏の言う通りに第三者がより介在する社会の方が私は健全だという気がします。

 もっとも、今後を含めてそんな風にならないと信じ切っているからこんな風に書くわけです。日本の社会性はプライバシーやセクハラパワハラの概念がもはや一線を越えており、実質的には第三者との交流は避ける方がリスクが少ない時代となっています。先日も同僚と、拳骨一つ加えただけでクビが飛ぶ時代にあっては、我々旧人類はそっとその姿を潜ます以外にないなどと、ファンタジーの少数種族みたいな会話をしていました。
 なお余談ですが、私の中学の教師は教科書を忘れた生徒に毎回拳骨一発を食らわせており、この行為に対して私は自らに責があるとわかっており特に不満などは感じませんでした。ただ一回殴られた後、「お前、頭固いな(;´・ω・)」と、妙な誉められ方されたのは素直には喜べませんでした。

2019年12月27日金曜日

小野小町は誰なのか?

 今更ながら「ファイアパンチ」の全巻を買って読みましたが、現在連載中の「チェンソーマン」を読んでても思ってたものの、一読して作者の藤本タツキ氏はやばいな、ほっとくと手が付けられなくなるくらい成長すると率直に思いました。

 さて話は本題ですが、最近歴史記事を書いてないから日本史十大ミステリー~偽りの黒真珠~みたいな企画でも立てようとあれこれ日本史のミステリー案件を考えてましたが、浮かんだものの中で、本能寺の明智光秀動機などと違ってそこそこ著名ではあるものの意外とみんなが意識してないなと思うものとして、「小野小町は一体誰なのか?」説が私の中でピンときました。

 百人一首の「花の色は~」で始まる日本三十六歌仙の一人で、且つ現代でも美人の代名詞とされる小野小町ですが、知ってる人には早いものの、その実在性というか人物の正体については実はほとんどわかっていません。小野姓であることから彼女が生きたとされる同時代の「わたのはら~」でおなじみな参議篁こと小野篁(おののたかむら)の孫、若しくは娘、はたまた姪などと推察されていますが、はっきり言ってどれも根拠がなく、小野姓だからと言って篁の肉親と決めつけるのはさすがにこじつけもいいところでしょう。
 それほどまでに知名度が高いながらその一生はミステリーに包まれていることから、能の「卒塔婆小町」のように醜く年老いて悲劇的な最期を遂げるような創作もなされたりしちゃっています。それだけに実在性にすらも疑念の余地がありますが、少なくとも「小野小町とされる女性」が存在したことは確実だといえます。

 その根拠はというと、小町作とする和歌が大量に残されているからです。またこれらの和歌には在原業平など確実に存在していたとされる人物と贈答した和歌も含まれており、こうした和歌が残されていることからすると、小町と呼ばれる歌人は確実に存在していたと言ってもいいでしょう。
 となる次の問題は小町は誰かではなく、逆説的ですが小町の歌を詠んだのは誰なのかということになってきます。時代的には9世紀中盤で、女性で、相当な実力を持った女流歌人ということになりますが、このうち女性という性別に関しては紀貫之の例もあるだけに、もしかしたら男流(おとこりゅう)歌人が女性の振りして詠んだという可能性を捨てるにはまだ早いでしょう。まぁそうだとしたら、在原業平はおっさん同士で和歌を贈答し合ったことになるが。いや別にこの時代なら珍しくはないけど。

 自分は和歌に関しては全く教養がないものの、小町の例の百人一首の和歌は実は百人一首の中で一番好きで、実際にこの和歌は人気ソングだと聞きます。それほどまで評価の高い和歌を詠んだ人物についてこれほどまで全く実態が掴めないというのは不思議なのですが、当時の女性の地位的にはこんなものなのかもしれません。
 ただどちらにしろ、ある意味日本史中で最も謎に包まれた女性と言っても過言ではないでしょう。今後の研究でその正体に迫れるかと言ったら正直あまり希望はないですが、もう少しこの方面の議論は高まってもいい気がします。

2019年12月26日木曜日

弱気となる世論

 どうでもいいですが以前「アクシズの脅威」というゲームでうかつに敵支配地域に攻め込んだら、思ったより部隊揃えてこられて思わぬ反撃に遭い、「ここは俺に任せて早く逃げろ」的にGP-03デンドロビウムに乗ったレビル将軍が拠点に陣取り、迫りくる敵軍相手にひたすらMAP兵器撃ちまくった記憶が何故か離れません。まぁすぐ落とされて病院送りされたけど。

 話は本題ですが、以前私はこのブログで日本人の中国に対する見方が「嘲り」から「恐怖」に変わりつつあると書きましたが、今はもはや「諦観」に近くなっているような気がします。もっとも中国にいる人間だったら、十年くらい前の時点でこの境地に至っていたかもしれませんが。
 また中国に対する見方だけでなくても、経済や政治、文化に対する見方もすっかり意気消沈している感があります。例えば音楽曲の年間トップ20などについて、私同様に「どの曲も知らない」と書く人が多く、単純に売れる歌がないというのか、誰も記憶に残る歌が出てこないというのか、かえって判断の難しい状況のように見えます。

 景気のいい話と言ったらZOZOの元社長の成金行動くらいな気がしますが、あれは私から見るとなんか必死感があり過ぎて逆に笑えません。なんとなくですが、ああいう行動しないともう生活できないというような追い詰められたようにも見え、下手な気持ちからではなく無理しないでいいよと誰か声かけた方がいいのではと思ってます。

 ではそもそも何故、日本全体でこんなにも世論が消沈しているのか。一発目に浮かぶものとしては「貧しくなったから」がトップに来るでしょうが、昭和の日本は今よりずっと貧しくても社会の空気はもっと明るかっただろうし、中国も2000年代はそんな昭和の日本でした。
 次に来るのは「成長しなくなったから」でこれには確かに納得できる部分もありますが、一方で「成長しているところ」には日本人はあまり目を向けず、そちらへ進出してやろうという意気込みが感じられず、何か別に根本的な理由があるのではないかと思えてきます。

 結論から言うと、地味に弱っているのは日本人の意思ではなく、その意思を報じる連中が弱っているからではないかと、密かに考えています。はっきり言えばマスコミが自分自身の勢いの衰えをはっきり自認してきたから、伝える世論やニュースも後ろ向きなのばかりやるようになってきたのではないかと実は少し考えています。
 先日友人から「これは面白い」と言われて「2050年のメディア」という本を紹介され、「高いからまた今度ね」とスルーして、ようやく年末セールに入ったので先週購入しましたが、この本であのナベツネですら「もうあかん」的なこと言いだした辺り、確かにやばいんだなという実感が私にも湧いてきました。

朝日新聞、「本業」の不動産が利益の8割まで上昇 リストラと非正規社員の活用で高収益 2019年3月期(ダイアログニュース)

 上のような記事にも出ている通り、現代の日本のメディア業は基本不動産なしでは成立しないところまできています。それにしても稼いでこないメディア事業部社員の給与が高いことが、この記事で一番笑える箇所です。

 こういう点を考えると、メディアが実質国営・公営で、どんだけ状況悪くても強気なニュースしか流さない中国はそりゃ世論も明るくなるよなという気がします。無論それはそれで別の問題を孕んでくるわけですが、なんとなく日本人のやる気を奪っているのは、実はほかならぬメディアじゃないのか、なんでかっていうと彼ら自身がものすごい後ろ向きになりつつあるからというのが今日の言いたかったことです。

 何も考えてなくても、こうやって記事にできるいい例になりそうだこの記事。半分まで書いたところで「2050年のメディア」について触れようと思いついたくらいだし。


夜なべした和牛記事

18年ぶりに輸入解禁、中国で和牛の実力は火を噴くか(JBpress)

 っていうわけで今日、正確には日本時間で昨日配信されたのが上の記事です。本当はこのブログ記事も早く書く予定でしたが、Steamのゲームで遊んでて今頃書いています。

 この記事は本来、来年一発目用の記事として準備していました。構想を立てたのは先週土曜、たまたま昼飯に寄った日本食屋で別の日本人が仲間に、「中国ではあまり牛肉はメジャーじゃない」というような会話を耳にして、十分記事ネタとして通用すると考えたことがきっかけでした。
 早速、年末とあって次回分の締め切りが早く設定されていたことから翌日曜日にはリサーチ、執筆を始めたのですが、自動車や家電などと比べると牛肉関連のデータはあまり調査、公開されておらず、思っていた以上にリサーチで苦労しました。特に日本のデータは経済産業省、農水省で消費量から輸入量までバラバラで、正直あまり信用できないデータもあって思い切って切り捨てました。

 特に一番疑問に感じたのは、日本人の一人当たり年間牛肉消費量を約6kgとするデータを多く見ましたが、中国ですら約5.2kgであることを考慮すると、やや少なすぎるような気がします。こんな具合で、意外と市場調査のなってない分野だと今回気が付きました。

 そんなこんだで日曜夜までずっと記事書いて、次の月曜に見直して提出すればいいと思って朝を迎えたら、その月曜に中国が日本国産牛肉の輸入解禁を発表したことでひっくり返りました。
 それまでの想定では解禁は来年になると各所で見込まれていたことから、私の記事でもそのように書いた上で、どちらかと言えばマクロデータ中心の記事としてまとめていました。そしたらいきなり解禁されてしまったので、こりゃヤバイと思って内容を書き換えるとともに、時期を合わせた方がいいと考えて編集部に連絡を取り、繰り上げて掲載することとしました。

 書き直した内容としては、マクロ中心からミクロ意見も取り入れて、あと解禁ニュースに合わせて出てきた追加のマクロデータも加えました。上記の通り牛肉消費関連のデータはあまり公開されておらず、また信用度も低いデータも少なくないだけに、比較的確実なデータを記事内でうまくまとめられたかと思っています。
 ただこの記事、経済記事としては比較的よくまとまっているものの、内容が地味故かアクセスはあまり良くなかったです。この点は私も想定していたとはいえ、業界関係者にうまく届いてくれればいいと願いながら出しています。果たして届いてくれただろうか。

2019年12月24日火曜日

忘年会議論について

ネットに蔓延する怪しい海外ニュースの見分け方(JBpress)

 昨日配信された自分の記事ですが、昨夜は忙しすぎてとても紹介する暇がありませんでした。っていうかキーボードの叩き過ぎなのか右肩が本当に上がらず、上げようとしたらマジ痛い(´・ω・`)
 記事自体も書いててそれなりに楽しかったけど、想定通りではある者のあまり評判は良くありませんでした。ただ今後どっかで何かがきっかけで検索には引っかかるとは思うんだけどね。

中国では10年前から当たり前「忘年会スルー」(JBpress)

 でもってこちらは近藤氏の今日配信された記事です。記事内容の通り中国では会社ぐるみの忘年会はそんな多くないものの、一点だけ補足すると中国人は大勢集まってわいわい騒ぐこと自体は嫌ってはいません。もっとも、地方と都市部でこの考えには差がありますが。

 今日この記事を引用したのは何故かというと、未だに日本で忘年会に出る、出ないの議論があることに強い違和感を感じたからです。出たくなきゃ出なきゃいいだけじゃねーかと私は思うのですが、それでも世間体とか、あと出席させようとする上司が多いとかいろいろあって「忘年会スルー」という言葉が出来たようですが、はっきり言えばこの手の風習自体がもはや滑稽です。

 いろいろ言いたいことあるけどマジで右肩やばくなってきたので一気にまとめると、若手が忘年会に出たがらないというのは少なからず、年配層と距離感を強く感じている、いうなれば話が合わないと思ってるし親近感が持たれていないということです。なので今後参加してもらうには、普段からこの距離感を縮めることが大事だし、それ以前に距離置かれるほど嫌われてるのだから忘年会うんぬんよりそっちをどうにかすることをまず先に考えろよと言いたいです。
 それでも敢えてこの距離感の問題から目を背けて忘年会に参加させたいってんなら、仲が良く上下のない取引先などとの合同忘年会などにして、若手は若手、年配は年配で他社間交流の場の様にすればいいのではないかと思います。若干合コン入ってもいいし、こういう会の方が有意義でいいと思います。

 さて、肩痛いけどゲームするか。

2019年12月22日日曜日

ベヨネッタとニンジャガ

 昨夜アクションゲーム「ベヨネッタ」のSwitch版を、途中までノーマル、後半だけイージーモードでクリアしました。感想は、「買わなきゃよかった」と後悔する出来でした。しかも2も既に買ってるだけに後悔後先に立たずです。
 そもそもなんでこのゲームを買ったのかというと、アクションゲームの傑作として評価されていたからです。しかし実際にプレイしてみたところ不満点が非常に多く、なんでこのゲームが傑作扱いされるのか非常に疑問に感じたため今こうやって記事書いています。

 まずアクションについては、確かにウリとしているだけあってつまらなくはないです。しかしこのゲームの場合、相手の攻撃を直前でよけることで相手の動作が止まり、こちらが一方的に攻撃を仕掛けられる(ウィッチタイム)ようになるのですが、こうした状況を利用することを前提に作られていることが非常に不満でした。具体的に言えば、相手が攻撃してくるのを待って、それを敢えて避けることが非常に重要であり、そのため戦闘では基本「受け身」にならざるを得ません。
 もちろん他のアクションゲームでも相手の攻撃を見切って、攻撃後の隙を一気に叩くというプレイは珍しくありません。しかしベヨネッタの場合、全編にわたってそれが求められ、体力が少なかったら素早い相手に対しこちらから先制的に仕掛けて倒すといったプレイがしづらくなっています。また複数の敵に囲まれると上記のような状況を作らない限りはまともに攻撃できず、最初にともかく避ける、それから殴るというのが非常に強制されます。いわば、戦闘における戦術の幅が非常に狭いです。

 それでも上記の点はそういうゲームデザインだと思って割り切ることはできます。ただどうしても私が割り切れなかったのはこのゲームのストーリー、ひどすぎるというか感性が一体どれくらい古いんだと非常に不満に感じました。
 実際、プレイしていてもちんぷんかんぷん意味わからずで、そもそもなんで天使どもに一方的に攻撃されなきゃいけないのか、でもってなんでこっちは天使を一方的に殴り続けなきゃいけないのか、あと悪魔がなんで味方になってやってこないのかと、この点一つとっても不満この上ありません。

 そうした背景をゲームの合間のストーリームービーで説明しようという意思は感じるのですが、とにもかくにも見せ方が下手で、感覚的にはゲームの合間にクソみたいなサメ映画を無理やり見させられているような感じでした。黒幕にしたって如何にも過ぎる展開で、もうちょっとひねろうとはだれも思わなかったのか、その登場シーンを見て「ああ、やっぱり……」みたいな感じでげんなりしました。

 こんな具合で非常に不満が高く、正直このゲームが売れたのは主人公のビジュアルが良かっただけなんじゃないかと本気で疑っています。敵キャラの天使のデザインにしても、統一しているように見せかけて実は統一感がなく、意匠の美は私には感じられません。また発売自体がやや古いこともあって、当時流行っていた悪名高きQTE(クイックタイムイベント)が豊富に用意されており、クソみたいなサメ映画のようなムービーをスキップ出来ず無理やり見させられ、ほぼ初見殺しなコマンド入力が求められで、このゲームを評価してた人には本気でもっといいゲームがあることを紹介したいです。

 その場合、仮に紹介するとしたら私の中では「ニンジャガ」こと「ニンジャガイデン」です。正確には私がプレイしたのはPS3版の「ニンジャガイデン∑1、2」ですが、未だにこのゲームを我ながらよくクリアできたものだと今でも思います。というのもこのゲーム、非常に難しいことで有名で、あまりの難しさにある人がクレームを入れたら「練習してください」と言い切られたこともある曰く付きのゲームです。
 実際に私もご多分に漏れず非常に苦労したのですが、プレイしていくうちに自然に上達していき、途中進行ルートで迷うところがあることは不満であったものの、ことアクションに関してはどんどんうまくなって、どんどん見栄えが良くなり、非常に難しかったけどノーマルで一応全クリは達成できました。

 特にアクションに関しては使用武器が豊富にあり、状況や相手によって使い分ける楽しさもあれば、受け身中心で戦う敵もいれば、率先して切りかかりすぐに距離を話す一撃離脱が重要な敵もおり、そうした戦術の使い方も楽しかったのを覚えています。
 もっとも中盤のボスの「アルマ重鬼卿」と初めてかちあった時は、何もわからないまま一瞬で殺され、どうすればいいのか軽く絶望しましたが。

 またストーリー(1)に関しても非常に単純明快で、

忍の里を襲ったやつらをぶっ殺しに行く

ついでに復活した魔神もぶっ殺す

最後唐突に出てきたおっさんもついでにぶっ殺す

 という、これ以上説明の必要がないくらい凄いわかりやすさで、アクションゲームに余計な裏設定とか因縁は不要であるというのをまざまざと見せつけてくれました。なお最後に出てくるラスボスのおっさんに至っては、実は1面に出て来た時の方が強いというシュールな設定のされ方がされてあって、最後倒した後はあまりの歯応えのなさに「え、なんなんこいつ(゚Д゚;)」と唖然としたのを覚えています。
 ちなみにこのおっさんに限らなくても、実はこのゲームは1面が最も難しいという変な難易度設定になってます。まぁその分、1面で大分鍛えられるというのはあるけど。

 こんな感じで似たような3Dアクションゲームとしてみた場合、ニンジャガの方がベヨネッタよりはるかに上を行くと私は感じます。もっとも私は遊んでないけど、続編の「ニンジャガ3」はひどい出来だったと酷評されていますが。