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2021年12月13日月曜日

頭文字Dでトランスセクシャルしたら……

石原氏、参与の給与辞退 勤務4日、日当2万6千円(共同通信)

 おばかさん( ^ω^ )


 岸田首相は必ず心変わりすると言った翌日に早速これで、なんかあまりにもすぐ予想が当たってしまい自分自身も逆になんだかなという気にさせられます(;´・ω・)
 それにしても岸田首相の風見鶏ぶりは想像以上です。もっともこれまでは他の首相と比べると自分が支持する方向へいい感じに変わっているのであまり敵意は感じませんが、本当にこれほど主体性のない総理も珍しい気がします。元祖風見鶏の中曽根なんかはまだ方針はっきり持ってたし。

 あとまた本題と関係ないけど、買って着てみたところ冬なのにやたらダニに噛まれることとなったふわふわもこもこのパジャマを洗濯した上で昨夜久々に着てみたところ、やっぱりめちゃくちゃ噛まれまくりました。残念ながらこの真冬のダニ騒動の犯人はこのパジャマであると断定せざるを得ません。200元もしたけど、このまま捨てざるを得ないのか……。

 ようやく話は本題に入りますが、今日次の歴史記事にどんな題材を選ぼうかと帰宅途中で考えていたところ、「頭文字Dのキャラクターがトランスセクシャル(性転換)したらどうなるのだろうか?」という方向に考えがぶれていきました。
 具体的には頭文字Dのキャラクター全員が男女逆転するという形式ですが、主人公の藤原拓海はそのまま女性の名前でも通用しそうな感じです。でもって高橋兄弟改め高橋姉妹は弟が高橋啓子、兄が高橋涼子になって、そそっかしい妹に理論派でお姉さまキャラな姉という構図がやけにしっくりきます。セリフとかも書き起こすと、

「曲がる、曲がってよ私のハチロク!!」
「なんですって、慣性ドリフト!?」
「私はバトルがしたいのよ。ついてきなさい、ハチロク」
「あの子は進化している。シミュレーションを少し修正する必要があるわね」
「ハチロクなんて、アウトオブ眼中だわ!」
「私は勝負するつもりなんかない。いわば、これはセミナーよ!」
「私……メカのこと、よくわかんなくて」
「1万1千回転まで、きっちり回しな」(だみ声)
「見えなければいいのよ。さっき私がやられたみたいに、今しかない」(ライトオフ)

 こうやってセリフ書き起こしていて、なんか無性に見てみたいぞこんな作品みたいな感情を覚えてきました。っていうか拓海と涼介(涼子)のやり取りは完全に「エースをねらえ」になりそう。
 なんていうか艦これといいガルパンといい加齢臭漂うおっさん趣味な題材であればあるほど、少女キャラを主体にすることで妙なブーストかかる気がします。

 っていうわけで上記以外で女子ばかりにしたら売れそうなおっさん丸だしな題材は他にないかと少々思案してみましたが、戦闘機なんかまだありかもしれないけどストライクウィッチーズが一部既にやっています。あと三国志は既に美少女ゲーム化されてるし、パチンコもこっちで絶賛連載されてるし、麻雀に至ってはむしろ最近おっさんばかり登場する作品の方が少ない気すらします。
 では逆に女性の趣味をおっさんがやりまくる作品だとどうか。裁縫、茶道、カーリング、ピアノ、バレエなどありますが、「漢のバレエ」とかだったら逆にアリかもと思うけどそれ以外だとなんか絵面が汚くなるイメージしか浮かんできません。ならメイク漫画だったらアリかって思ったけど、メイク漫画は女性主体でもなんか色物に走り勝ちが気がするので、結局そうなるしかないでしょう。

2021年12月12日日曜日

十万円現金一括給付に関するごたごた

 わざわざ私が言うまでもなく、次の十万円を現金一括で給付するか、半分をクーポンにするかと言えば、前者の方が圧倒的に効率がいいに決まっています。にもかかわらず何故政府はクーポンにこだわるのかと言うと、どう考えたって間に入る中抜き業者を潤わす理由以外ないでしょう。でもってこの中抜き業者はクーポンにこだわる公明党系、っていうか創価学会系の関係者が関わる企業と見ても間違いないでしょう。


 それだけに維新の会が主張するように、自民党内でもクーポンを混ぜることについては疑問視する人間も少なくないようです。とはいえ上の西村氏の発言は、政権中枢にいる人間なだけになかなか驚く発言ですが、彼のような立場の者がこういうくらいなんだから、自民党内としてもこの件に関して不満を持っている層が少なくないのでしょう。

 一応政府としては既に、「自治体がやりたいのなら全部現金でも構わない。但しその場合、お金渡すのは6月以降な」と、露骨な嫌がらせともいえる措置を発表しています。ただ上の西村氏の発言で風向きは変わってくると思え、制限なしの現金一括給付に方針を改めるようになるのではないかと自分は見ています。
 特に今の首相は心変わりが早いことで有名な岸田首相なだけに、身内からもとやかく言われればすぐに方針を変えるという点で、変な意味で期待が持てます。心変わりが早い人間は正直あまり信頼がおけませんが、この現金給付に関してはクーポンを織り交ぜるなんて無駄を通り越し、中抜き業者を喜ばす以外に何もないだけに、早いところ心変わりすることを内心祈っています。

 自分は民主主義においては、一定の税金の無駄遣いは必要コストだと割り切ってはいます。しかしこのクーポン案については許容できるレベルの無駄遣いではなく、真面目にこの案を押し通そうとする人間はこの世にいない方が世の中のためだとまで感じます。
 かねてから日本政府は様々な方法でいろんな中抜きをやってきていますが、なんとなく最近見ていて、その中抜きのやり方が杜撰になってきた、というより前みたいにばれないようにじゃなく堂々と中抜きするようになってきているようにも見えます。そういう意味では本当に、中抜きこそが日本のガンなのかもしれません。

2021年12月10日金曜日

奥行きがない漫画の「化物語」

 大暮維人氏が作画を手掛ける漫画版の「化物語」を読み始めた当初、さすがは大暮氏だと思うほどその作画には美麗さを感じたのですが、ある時から途端に、その絵に違和感を感じるようになりました。具体的なタイミングは「傷物語編」が始まってバトルシーンが多くなってきた辺りですが、最初はその違和感の意味が分からず、よくわからないけど妙な君の悪さを感じてました。

 その違和感の意味に気が付いたのは、このところこのブログでプッシュしている「瞬きより迅く!」という空手漫画を読んでからでした。この漫画は以前にも紹介した通り、直線的動きの多い空手という競技で、視点や効果線が非常に効果的に使われていることで異例なくらいに立体感のある動きを漫画で表現していると自分は感じています。これ以前に漫画の立体感についてはあまり意識していなかったのですが、この漫画を読んでからというもの3Dゲームの視点じゃないですが、視覚をどう運用して見せるかがどれだけ重要かが少しわかった気がします。

 話を戻すと、この「瞬きより迅く!」を読んでわかったこととして、大暮氏の漫画版「化物語」は致命的なくらいに絵に奥行きがないということに気が付きました。この点はバトルシーンに特に顕著で、対峙する二人のキャラクターを横側から水平上に描くコマが非常に多いです。敢えて例えればスト2などの2D格闘ゲーム画面みたいな構図が多く、奥行きを感じさせられる斜めからの視点、並びにコマ間の動きの見せ方が非常に少なく、ほとんどのコマが2D画面っぽい構図になっているような気がします。
 しかも大暮氏の場合、背景の作画に関しても主線をはっきり描く傾向があり、その結果、遠近法が全く働かずというか全く使用していないため、余計に絵に奥行きが感じ辛くさせているようにも見えます。

 こうした作画パターンのためか、1枚1枚の絵を見る時間が「瞬きより迅く!」と比べて非常に短いです。というのも絵に動きがあまり感じられないため、サクッと見終わっちゃうためです。さらについでに書くと、大暮氏はバトル中の顔面ドアップも多い気がします。
 改めて他の格闘漫画と比較すると、やはりこの絵の奥行きが非常に重要である気がします。視点を動かしたり効果線を付けたりすることで動きを表現しつつ、立体感を作るということがこのジャンルでは特に重要である気がして、1枚1枚の絵は非常に美麗ながら、あまりにも動きの表現がない大暮氏の特徴に気が付いた時にはなんかいろいろ思うところがありました。

 逆に、「瞬きより迅く!」の動きの見せ方は秀逸そのもので、前にも書いたけど後ろ回し蹴りのコマは何度も見返すくらい非常に綺麗に描かれていてびっくりします。一体どこでこういう技法を学んだのか、真面目にどっかで聞いてみたいくらいです。

 なお動きのある絵に関していうと、その表現力でずば抜けていたと感じるのはやはり「頭文字D」のしげの秀一氏です。車などの静物を走っているように描くのは非常に難しいと言われ、実際に他のレース漫画を見ても全然迫力が感じられないのですが、「頭文字D」に関しては全く違和感なく車が走っている条件が読んでて浮かべられ、その表現技法は真面目にこの分野でトップであるという気がします。
 その走っているように見せる表現ですが具体的にいうと、まずは「ギュォォオン!」などの効果音を鳴らす、次に車体の輪郭をぼかして書く、でもって最後に効果線を描くというのが非常に役割として大きい気がします。この点、さっきの大暮氏の背景じゃないですが、輪郭を明確に描き過ぎるというのは動きのある絵にする上ではかなりマイナスになるのかもしれません。

 そのしげの秀一氏の今連載されている「MFゴースト」では最新のシビックタイプRが出たそうですが、今の時代はスポーツカーも少ないから車種選ぶのも大変そうな気がします。レース描写のよかった「カウンタック」という漫画では欧米系スーパーカーをガンガン出してたけど、公道レース的にはスーパーカーだとちょっとなぁ(´・ω・)

2021年12月9日木曜日

三菱、日産の軽自動車生産停止報道について


 上の車はBYDの「漢」というEVですが、マジこれは格好いいと思います。写真だと伝わり辛いけど車体はかなりでかく、これまでのやや安っぽい感じしたBYDの車とは一線を画してて、良い物を作ってきたなとひたすら感心しています(*´Д`)ハァハァ
 ちなみに搭載している電池は、構造体としても使用できるというBYD自主開発の「ソードバッテリー」です。中二病っぽいネーミングだけどBYDのセンスは良くなってきているという感じします。


 それで本題ですが、今日昼頃より読売など一部メディアから、三菱と日産の共同開発車である軽自動車3車種(「eKスペース」、「eKクロススペース」、「ルークス」)が今月より生産、販売を停止していたようです。停止理由について実際に生産を担当する三菱自動車側は取材に回答しなかったと報じられていましたが、一読してまた不正を行っていてバレたのではないかと疑いました。
 理由としては三菱がこの手の常習犯、というわけじゃなく、理由を明かさずに停止している車種がekシリーズ(ルークス)だからです。

 現在、ヤリスが売れまくったかと思ったら今度はカローラクロスが売れまくっているトヨタと違い、三菱と日産がまともに売れる車と行ったらガチで軽自動車しかなかったりします。ほかにもラインナップを揃えていますがぶっちゃけ本当に「揃えているだけ」で、毎月安定的な販売台数を見込める車と言ったらこの軽自動車シリーズしかありません。
 無論、軽自動車だと利幅がやや限定されますが(それでも昔に比べたら価格上昇によりかなり大きくなっている)、一定程度の台数を稼ぐことは工場の稼働率維持の上では非常に重要であるのと、川下のディーラーに現金を流す上で不可欠です。いわば軽自動車は今や三菱と日産の大動脈に当たると言っても過言ではなく、これ止めるっていうことはガチで動脈止めるのとほぼ同義です。

 なお三菱の場合は本当に軽自動車以外は物好きしか買わない車しかないです。日産に関してはノートとセレナはまだ一定の販売が見込めるかなとは思うものの、軽自動車なかったらディーラーの家系はかなりきついと思います。

 話を戻すと、上記のような事情から三菱と日産にとっては軽自動車は何が何でも生産販売を維持しなければならない車種であると自分は考えていました。それだけに生産販売停止と聞いて、最近話題の半導体不足による理由の可能性は低いと当初から見ていました。なぜなら、調達した半導体を優先的に回してでも生産しなければならない車種だからです。
 案の定、続報にて停止は部品不足などによる者ではないと報じられていました。となると、もう残っているのはやっぱり不正で、生産販売停止理由を明かさない上にリコール発表がないということは、前回の三菱の燃費不正事件同様にカタログスペックでなにかやらかしたのではないかと疑いました。

 そう思っていた矢先に日経の報道によると、衝突試験データが基準未達だったという続報が入ってきました。詳細に関してはメーカー側の発表を改めて確認する必要はあるものの、きちんと詳細を明らかにしない妙な態度からみて、日経側の報道が真実なのではないかと思われます。となると次は、基準未達は誰のせい?って話になってきますが、前科的にも開発担当的にも、やっぱ三菱なんじゃねと疑わざるを得ません。

 ちなみに今年3月に出した記事でも書いていますが、マジで三菱自動車は1日でも早くこの世から消滅してほしいと本気で願っています。ランエボの名でSUVで出すとかわけわかんないこと口にしだしたこともさることながら、前回記事でも取り上げた2000年頃のリコール隠し事件の集団的隠蔽行為はやはり許しがたく、こんなクソみたいな連中のために何人も死んで、何人も人生狂わされたのかと思うと本当にやるせないです。しかもあれだけの事件起こしておきながら、2016年にも燃費不正を起こし、内部通報まで握りつぶしていた経緯まで見ると、根っこから腐っているとしか言いようがないです。
 昔、三菱車が大好きだっただけに辛いことこの上ないですが。

 ちなみに上記内容を先月も久々に遭った知り合いに居酒屋で語り始めたら、「声でかい(;゚Д゚)」と止められました。けど、「(三菱自動車関係者が)いるんだったら出てこい!さっさとくたばれって直接言ってやる!俺が言ってやる!(# ゚Д゚)」などと吠えてました。

 どれだけ対策しても、自動車に関しては不具合による死亡事故が発生してしまうのはその利便性を鑑みるに仕方のない部分があるかと思います。しかし空飛ぶタイヤ事件に関しては、確実に事前に防げたと言い切れる不具合であり、またその後の顛末で自殺に追い込まれたディーラー関係者も少なくなかったと聞くだけに、これ以上犠牲者生む前に早く死んでくれと、今回の事件が不正であるかどうかに係らず三菱自動車に対しては願っています。

2021年12月7日火曜日

「など」と「等」はどっちを使えばいい?

 最近しょうもないことばかり書いているのでたまには世のため役に立つことでも書くことにします。ちなみになんでしょうもないことばかり書いてるのかというと、ガチで最近ゲームで忙しいせいです。詳細は言えないけど、多分自分の一生の中で最高のゲームを遊んでいるという気がします。

 話を本題に移すと、たまに「など」と「等」、この単語はひらがなと漢字のどちらを使えばいいのかという質問を受けることがあります。結論から書くと、ひらがなの方が有利だと自分は考えています。

 この「など」は具体名は出さないけど手前の名刺単語に類する、近い意味の名詞に相当する単語がその後に続くことを示す単語です。また手前の単語が例えとして出した単語であるということを示す意味でも使われます。日常生活の口語においても使用頻度が高い単語なのですが、日本語文章での表記では「など」と「等」という具合でひらがなと漢字での表記が両方とも存在しており、どっちかを優先して使うような指針も特にないため、個人や状況によってどちらを使うかは完全に裁量に任せられています。

 私自身、言葉というのはたとえ同じ意味であろうと、よっぽど混同しやすかったり表記し辛くない限りはなるべく幅が広い方がいいと考えており、「こういう時はこっちを使わなきゃ」なんて偉そうに言って表現の幅を狭めようとする輩は殺したいくらい嫌いです。ただこの「など」に関してはあまりにも指針がなく、どっち使う方がいいのとガチで聞かれるくらい曖昧なところがあるのと、冒頭でも語った通りひらがなの方が表現上で有利であることから、漢字を使っても別にいいけどひらがなの方が有利であるということはここではっきり示します。

 では何故ひらがなの方が有利なのかというと、これもあんま表立って教えられていませんが、日本語文章はひらがな部分で文節や単語を区切ることが多く、読み手に文章における区切りを意識させやすいからです。
 これは一体どういうことかというと百聞は一見に敷かずなので具体例を出すと、

・東京法制局局長級幹部会議は午後開かれる予定。

・東京法制局の局長級幹部会議は午後に開かれる予定。

 敢えて漢字でいっぱいな短文を入れましたが、動詞の「開かれる」を除くと使われているひらがなは「の」、「は」、そして「に」だけです。
 日本人はあんま意識していませんが、単語と単語がどこで区切るのかというと間にひらがなが入っているかどうかで判断する傾向があります。逆に、漢字が続いているとその漢字の末端までを一単語として捉えがちです上の文章だと「東京法制局局長級幹部会議」が一単語に見えます。しかし間に「の」が入る下の文だと、「東京法制局」、「局長級幹部会議」という二つの単語に分かれ、でもって読み手としては多分こっちの分割版の方が読みやすいし誤読することも少ないのではないかと思います。

 ついでに書いておきますが、私の感覚では漢字が連続する単語をさらっと読み取れるのは5文字まで、ギリ許されるのは6文字までだと思います。7文字以上も漢字が続くと明らかに読み辛くなり、読み手に負担がかかるため、分割が可能であれば上の例のように間に「の」を入れるなどして5文字くらいの二単語に分けた方が読み手にやさしいです。
 逆を言えば、あんま細かく読まれたくない箇所は意図的に長めに漢字を繋げるというテクニックもああります。

 話を「など」に戻すと、「カレーなどのインド料理のように」といった比喩表現で使う場合ならあまり影響ないですが、並列表現で使う場合だと上記の「漢字とひらがなの境目で区切る」が大きな意味を持ちます。早速具体例を出すと、

・火星、水星、木星など惑星は常に公転している。

・火星、水星、木星惑星は常に公転している。

 一見してわかる通り、漢字の「等」を使うとその前後の「木星」と「惑星」の二単語がそのまま漢字で連結されて、一読して読みにくい印象を受けます。逆に上のひらがなの「など」を使ったバージョンでは、その直前までは並列として挙げられている単語だということがはっきりわかり、その並列対象を総括する単語が「惑星」であることがはっきりわかって見やすいです。
 一応、漢字のバージョンも「~等の」という風に「の」を入れることで見やすくすることはできますが、それでも「木星など」と「木星等の」だったらやはり前者の方が速読とかしたりするうえでは有利な気がします。並列表現では単語がずらっと並んで漢字が多くなりがちなだけに、このようにひらがなの「など」を使う方が単純に有利かなと思います。ついでに書くと「等の」だと発音する場合は音の数も多くなってしまうし。

 逆に漢字の「等」はどんな時に使うのかですが、はっきり言えば文字数が制限されてたり、パワポなどで入力欄が制限されている場合にだけ自分は使っています。もしくは前述のように、読み手に深く読んでもらいたくない箇所を漢字で目いっぱいにする時くらいかな。

 ちなみになんでこんなことに意識を配るのかというと、やはり中国語で苦労しているというのが大きいです。仕事の傍ら、中国語文章を翻訳する機会も多いのですが、中国語の場合だと全部が全部漢字で、この手の単語同士の区切りを探すのがかなり難しかったりします。下手したら名詞と動詞すら判別できず、前の単語の漢字を変に混ぜて読んでしまって誤読したりすることも多いだけに、日本語の単語や文節の区切りでひらがなは重要だという風に気が付きました。
 マジで中国語はその辺、句読点でしか区切り部分を示す手段がないしなぁ。

 最後に、最初に表現は広い方がいいと言いながらですが、「遵守」と「順守」に関してはどっちかに統一してほしいですマジで。両者とも意味はほとんど同じなうえに発音も一緒で、なのに漢字だけ違うので、無駄に紛らわしいことこの上ないです。どっちがいいかというと中国語でも「遵守」が同じ意味で使えるので、「遵守」に統一した方がいいと密かに願ってます。
 逆に「敷衍」って単語が日本語と中国語で全然違う意味になり、中国語だと「ごまかす」、「やり過ごす」という意味で頻繁に使われるのが結構意外です。

2021年12月6日月曜日

ゲーム規制記事の裏側

ゲームの代わりにTikTok?厳しすぎる中国ゲーム規制で起きたこと(JBpress)

 さて「来襲のサザエさん」の時間じゃないですが定期的な自分の記事紹介ですが、あんま今回はアクセスは奮ってないようです。

 記事内容は見出しの通りに最近日本でもよく取り上げられている「厳し過ぎる中国のゲーム規制」について報道目的で書きました。この辺のゲーム業界ネタはガチな業界人の友人がいてくれるおかげで取材に困らないため記事を書くだけなら楽でしたが、改めて読み返すとやや文章のリズムが良くなく、折角の取材内容を自分が料理しきれなかった感があります。

 仮に紙幅が余っていたら、民主的なプロセスを経ていない点で共通する香川県のゲーム規制条例と絡めたことも書きたかったのが本音です。記事中にも書いていますが、中国だとゲームをやらなくなった代わりにTikTokなどの動画サービスに子供が流れているようで、ただゲームを規制したところで他の娯楽に流れるだけというのを若干強調したかったです。要するに、勉強に向かわせたいのならゲームとかを断つのではなく、勉強をする楽しさとか意義を知らしめるべきだと訴えたかったのですが、多分この手のメッセージは文章が稚拙だっただけに伝えきれてないでしょう。
 ちなみに中学受験時に親にスーファミとサターン隠されて、泣く泣く自分は埃被ってたバーコードバトラーⅡを引っ張り出して遊んでました。マジシュールだった。

 敢えて今回の記事の良いところを出すなら、取材で友人が教えてくれた、規制によって中国文化の掘り下げが進んでいるという事実を報じた点だと思います。日本でもゲームから歴史や文化の掘り下げ、普及が進んだという事例は少なくなく、メイド文化なんかまずそれだし、また艦これなどによる二次大戦におけるミリタリーネタの掘り下げも案外馬鹿にならない水準だったと思っています。そういう意味ではこのところの中国のゲーム規制は、デメリットだけじゃなくメリット面にも目を配らなければと改めて感じました。

 ちなみに今思いついたけど、ゲームやアニメ発で歴史や文化の理解や普及が進む例といったら信長の野望や三国志などコーエーのゲームがありますが、改めて考えるとヨーロッパ史を題材にしたものはかなり少なく、二次大戦以外だとない気がします。ドイツ30年戦争辺りは十分ゲーム化とかできると思うのですが、この辺になると小説とかもあんま出てないので、単純になじみが浅いだけかもしれません。
 個人的には前から中世イタリア史を学びたいと考えていたのを思い出したので、また今度本読んでその辺で記事でも書こうかな。

2021年12月5日日曜日

30歳からの終活

 自分が「終活」という単語を初めて見たのは、当時いた新聞社でアジア各国の高齢者の「終活」を比較しながら取り上げようという企画に関わった時でした。日本本部から出された企画で、各地の支局に高齢者夫婦を見つけて話聞いてこいというお触れが届いたので、たまたま知り合いの両親に話を聞けそうだったから自分が中国分を担当しました。
 なおこの時に友人の両親に話を聞いた後、「君んちの両親は仲良さそうだね」と友人に行ったところ、「そりゃ人前では仲良さそうにするよ」と、中国人らしい妙なリアル感のある言葉を口にしました。

 話を戻すと、仮に自分の中での終活という話になれば、自分は30歳から既に始めています。30歳から老後の生活とか預貯金とかを考えるようになった、というわけではなく、30歳からもう必死に生きるのやめて、のんびりとした余生を過ごそう、でもってなるべく早く死のうという風に考え、そのように動いています。

 なんで30歳から終活始めたのかというと、端的に言ってやりたいこと全部やり終えたからです。元々小さい頃から血の気が多かったから20歳までは生きられないだろうと十代の頃からガチで考えていましたが、想定が外れて20歳を超えてしまった時、なら30歳までにとりあえず起業を目標に頑張ってみようと方針転換し、何もせずじまいだったけど起業を一回やって、一応悲願成就となりました。
 そんな感じで30歳をアラサーしたころ、もう完全に自分の想定寿命をぶっちぎった上にやることもないので、死なない程度に生きて、死ぬべき時が来たらすぐ死のうという風に考え、なるべく楽な仕事選んでのんびり余生を過ごすことに決めました。そうして選んだ日本での仕事が、「これ、むしろ存在しない方がいい仕事だよね」というくらいくだらないもので、ぶっちゃけ社会の足を引っ張るだけの仕事内容に呆然としたものです。

 自分自身としてはなるべくのんびり野心なく生きたかったのですが、既に当時の時点で日本にはまともな精神ではやれる仕事はないとはっきりわかり、こりゃなにがなんでもまた中国に戻らないと、のんびりどころじゃなく頭やられると考え、すぐまた中国に戻れる仕事を探すようになりました。そんなこといろいろやって、中国でまた更に転職したりして今に至りますが、根っこのところでは今も余生を過ごしているというはっきりした自覚を持っており、「いないよりいた方がいいから」という理由で今の仕事も続けています。少なくとも、社会の足は引っ張ってないつもり。

 こうした価値観について知り合いに話したところ、「大きな仕事を成し遂げたり、偉大な記事やルポを書き残したいという欲求はないの?」と聞かれ「ない」と即答しました。自分にできる仕事で頼まれるならやってもいいですが、わざわざ自分から率先して成り上がったり、何かしたりしたいというのはなく、過剰なストレス感じない範囲で適当に仕事してお金もらって食いつなぎ続けて、どっかのタイミングで交通事故とかで余計な事何も考えずに死ねればいいと今でも思っています。
 果たしてこれが終活と呼べるのか自分でも意味わからないですが、死んでもいいという覚悟に至ることが終活と呼ぶなら、30歳くらいからもう自分は始めています。

 ただ、今年に関しては無駄に途中で死なずに生きながらえて本当に良かったと思える出来事として、野球での大谷翔平選手の活躍が見られたことが挙がってきます。彼に関しては本当に同時代にその活躍を見ることができて、本当に幸運だったと感じるほどの活躍ぶりで、この点に関しては途中で無駄死にせず本当に良かったと思います。
 このほか今年あったいい出来事を挙げると、やっぱ元寇の記事あげたことかなぁ。強敵集うようになったJBpressで久々の大型ヒット記事になったし。これに限らず今年はアクセス数を狙った記事では確実にアクセス取れてて、大谷選手みたく狙ったところにホームラン打てたような年でした。