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2014年1月27日月曜日

八甲田山の悪夢

 このブログを日常的に呼んでいる人なら周知の事実ですが私は極端に寒さに強く、記憶する限り過去四年間で一度もダウンジャケットに袖を通したことがありません。それどころかコートもこの前正装しなきゃいけない時に一回着ましたがそれ以外だとほぼ皆無で、出勤時はパーカー一枚、オフの日はGジャン一枚で元気に走り回ってます。北京でも冗談抜きでGジャン一枚だったし。
 ただそんな自分でも昨日今日の寒さは非常に堪え、直前に気温が上がった反動もあるでしょうが珍しいことに参ってます。個人的な印象ですが寒くなる前に全国各地で雨が降ったことから湿気が増したことから心なしか風が重たく、乾燥している時期に比べて冷たいように思えます。北京なんか空気乾燥しているから気温は氷点下マイナス十度でも日によっては東京より寒くないし。

 このように寒い時期が続くとついつい「寒くてつらいなぁ」などと独り言も出てくるのですがその際に、八甲田山に比べれば」という言葉が同時に浮かんできます。ある程度年齢の高い世代なら何のことか言うまでもないでしょうが私より下の世代は何のことかちんぷんかんぷんでしょうし、今日はひとつ気合入れて日本の冬山遭難史上で最大最悪の事件である八甲田山の雪中行軍遭難事件を紹介しようと思います。

八甲田雪中行軍遭難事件(Wikipedia)

 この事件が起きたのは明治時代、日露戦争を控えた1902年で、結果から話すと遭難した陸軍兵士210人中で生き残って救助されたのはわずか11人(うち6人は救出後すぐ死亡)。生存率はわずか5.2%という凄惨な遭難事件となりました。

 事件の経緯を話すと、当時の日本陸軍内部ではロシアとの戦争が間近であるとの観測から戦場となる寒冷地での訓練の必要性が高まっており、各地で戦術研究を兼ねた訓練が実施されておりました。そうした訓練の一環として、事件の舞台となった八甲田山で冬山での行軍や輸送訓練を計画されたわけです。
 この訓練には青森歩兵第5連隊(210人)と弘前歩兵第31連隊(37人)の二部隊が参加することとなり、このうち遭難することとなったのは青森歩兵第5連隊です。両部隊はそれぞれ別ルートから冬の八甲田山に入って目的とする駐屯地への移動を計画したのですが、映画や小説などと事実は異なり両部隊とも計画や日程の擦り合わせなどは行っておらず、お互いの部隊の存在すら知らなかったそうです。

 話は遭難した青森歩兵第5連隊を中心に進めます。こちらの部隊ではそれ以前からも寒冷地訓練は幾度か行っていたものの本格的な冬山登山の経験はほとんどなく、また以前から訓練を実施してきた指揮官が休養のため離れ、代わりにほとんど経験のなかった神成文吉大尉が訓練中の部隊を率いることとなりました。

 このように訓練前から非常に危なっかしい出だしと言わざるを得なかったのですが、これに拍車をかけたのは天候の急変です。実際の訓練開始前、登山ルートの確認のために数名が登山を行ったのですがこの時の天気は晴天で、特に大きな問題もなく移動を完了したことから部隊間では行軍訓練に対して初めから楽観視されていたと言われます。そうした見方は装備からも見て取れて、大半の兵士は毛糸の外套を着るほかは特別な防寒装備もなく、手袋に関しても軍手程度だったそうです。靴に至っては当時としては珍しいゴム靴などただ一人を除いて持っておらず、革製の軍靴で冬山登山に臨むくらいでした。
 このような無謀と言ってもいい装備で臨んだ訓練当日は猛烈な寒気が周辺地域を多い、地域住民も訓練に臨もうとする部隊に対して決して山に入ってはならないと警告したそうです。それもそのはずというかウィキペディアによるとその日は日本各地で観測史上最低気温を記録するという、歴史上かつてないほど寒い日で、一説によると気温はマイナス20度、吹雪による体感温度はマイナス50度にまで達していたと言われています。このような気候にもかかわらず部隊は当初の計画通りに山へと入り、悪夢のような遭難へと突き進むこととなります。

 遭難一日目。部隊は山に入るや深い雪によってすぐに行軍が困難となり、そりでの移動が難しいと判断したことから食料や燃料といった物資を各兵士がそれぞれ手に持ち移動を始めます。しかし猛吹雪からすぐに前後不覚に陥り、帰路すらままならないことから当日は雪濠こと雪の中に穴を掘って露営することとなりました。
 遭難二日目。部隊の指揮官らはあまりの天候の悪さから訓練を中止してやってきた道を引き返すことを決断したものの、ここが運命の分かれ道となってしまうのですが夜中の二時から行軍を開始してしまいます。何故こんな時間に動き出したのかというと既に凍傷などで動けなくなる兵士が続出しており、急いで山を下り治療を受けさせなければと焦りがあったためだと言われていますが、結果的にまだ日も明けきらぬ暗い時間に動き出したことによって完全に道に迷ってしまい、出口のない遭難へと突き進むこととなってしまったわけです。

 この二日目の迷走について詳細は省きますが、道がわからない中で真偽の取れない情報が錯綜し、不眠不休で絶食していたことからこの日から凍死する兵士も現れて部隊の統制すらままならない状況となったそうです。結局右に左に無為に動いて体力を消耗しただけで最初の露営地からほとんど移動できず、この日も再び露営することとなります。三日目の朝までに部隊の三分の一に当たる約70人が行方不明、または凍死しており、想像するにつけ恐ろしい状況と言わざるを得ません。

 そうして明けた三日目。この日も天候は回復しなかったものの帰路を探して生き残った兵士らは行軍を開始しましたが、途中で断崖に突き当たったところで指揮官の神成大尉が、「天は我々を見放した」と述べた上で、生き残っている兵士らにここで部隊を解散するので各自で帰路を探しだすようにと伝えるに至ります。この解散命令によってそれまで保っていた兵士たちの緊張感というか意識が切れてしまい、生き残った方の証言によると突然裸になって凍死するものや崖下や川に飛び込むなど発狂する人間が一斉に現れたとのことです。
 このあと部隊は神成大尉、またはゴム靴をたまたま持ってきて履いていた倉石大尉らなど主だった指揮官のグループごとに分かれて帰路を目指したのですが、このうち神成大尉のグループにいた後藤伍長が遭難から五日目、いつまでたっても中継地に現れない部隊を心配して出されていた捜索隊に見つかったことによって遭難していたことがようやくわかります。なお後藤伍長は発見された際、雪の中で直立したまま何事かを一人でしゃべっていたほど意識があいまいだったそうですが、救助の甲斐あってこの遭難における生存者の一人となっております。

 後藤伍長の発見後、正式に救助隊が組まれて生存者の救出へ軍や地域住民は動くわけですが、天候は依然として悪いままで救助隊の中でも凍傷になる人間が後を絶たず二次被害が深刻だったそうです。また息のある生存者を見つけても皮膚すら凍っている有様で、治療のために注射しようとしたら針が折れたとの信じられないような話すらあります。そして山の中に置き去りにされた遺体はほぼ例外なく凍っており、無理にでも雪から引き出そうとしたら関節から文字通りポキリと折れることもあり、慎重に周囲の雪を掘りすすめていかなければならないために作業は難航したそうです。
 またこれは遭難中のエピソードですが、みな意識の限界ともいうべき境地にあってふとしたことをきっかけに発狂することが後を絶たなかったそうです。そのためあるグループでは奇声が挙がったらラッパ係にラッパを吹かせてその音によって意識を保っていたものの、極寒の環境からそのラッパ係の唇がラッパに張り付き、そのままはがれてしまったという話も聞きます。

 どれもこれも人の想像力を超えるほどの状況というべきか、この遭難事件は絶望的な状況というよりほかなく、これより何を以って表現すればいいのかわからないほど恐ろしい事件だったと言わざるを得ません。最終的に救出された生存者は最初に述べた通りに11人で、救出後すぐに亡くなった6人を除くとわずか5人しか八甲田山から生きて出ることが叶いませんでした。部隊を指揮した神成大尉は発見時は息があったものの山の中ですぐに亡くなりますが、もう一人のグループを率いた倉石大尉は崖穴の中に避難しながら移動していたところを遭難九日目に救助され、無事に生還を果たしております。
 なお生存者はみな凍傷によってほぼ全員が四肢のいずれか、または全部を切断することとなるのですが、不思議というか奇妙というか、この倉石大尉のみが五体満足な状態で救助されてその後軍隊に復帰しております。倉石大尉は士官であったことから兵卒に比べて装備が充実していたことと、たまたま私物としてゴム靴を持って履いていたことなどが大きかったとも言われていますが、それ以上にこの人自身の体力が図抜けていたことが大きいのではないかと私は見ております。
 しかし人の運命というものはわからないもので、この倉石大尉はこの遭難から三年後、日露戦争中の戦闘で戦死することとなります。それこそ、天は何故彼を二度も死地へと誘ったのかと、いたためれない気持ちにさせられます。

 この遭難事件は作家の新田次郎によって小説にされ、それが高倉健氏の主演で映画化されたのが「八甲田山」です。この映画は多いに当たったことから当時の世代に幅広く事件が知れ渡ったものの、逆にこの映画を見ていない自分くらいの世代は事件そのものもあまり知らないのではないかと思い、ちょっと書いてみる気になりました。
 最後にちょっとした豆知識ですが、この映画で神成大尉をモデルにしたキャラを演じたのは役者の北大路欣也氏で、先程の「天は我々を見放した」という彼のセリフは当時の流行語となったそうです。そんなエピソードをCMプランナーはしっかり把握していたということか、例のソフトバンクのテレビコマーシャルで北大路氏が声優をしている白い犬のお父さんが何故か冬山に昇る回があり、その時のBGMになんと先程の映画「八甲田山」のBGMが使われたそうです。こんなマニアックなつながりなんて誰もわからんだろうにと思いつつも、きちんと実行してくる辺りは感服させられます。

4 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ) さんのコメント...

この事件で注目すべき点は群馬南部出身の福島泰蔵率いる弘前の部隊が無事生還し、秋田出身で
北国の寒さをよく知っている神成文吉率いる青森の部隊がほぼ全滅したことです。
暖かい群馬出身(今日の気温では秋田より8℃気温が高いです)福島泰蔵にとって北国は未知の世界
であり、徹底的に装備・訓練に力を入れました。

それに対して神成文吉には、悪い意味での雪に対する慣れがあったと思われます。彼だけでなく
部隊の多数は東北地方出身のため寒さに対しての慣れがあったのでしょう。 そのため普段着に
毛の生えたような装備で訓練を実施してしまった。 普通の天気ならそれでも何とかなったでしょう
が、運の悪いことに寒気がきて全滅する羽目になってしまいました。

この辺、パソコンには詳しくないために、忠実にマニュアル通りに実行し、結果としてトラブルを
起こさない初心者と、中途半端に詳しいため、ろくにマニュアルを読まずに実行し、大きな失敗を
してしまう中級者に通じる所があります。

花園祐 さんのコメント...

 紙幅の関係で高倉健が演じた福島泰蔵の弘前舞台については省略したのですが、おっしゃる通りに準備や訓練の差が大きく分かれただけに好対照な事例と言えますね。
 それにしても以前からも感じていましたが、パソコンの中級者と初心者がマニュアルを読んでいるかいないかの話といい、片倉(焼くとタイプ)さんは本当にたとえ話がうまいですね。以前の一年戦争時とグリプス戦争時のシャアの対比などはツボにはまり、友人らにも広めております。

すいか さんのコメント...

こちらの記事には、コメントしたいな~と思っているうちに、時間がたってしまいました。
私も若いですが(^^;)この事件のことは知っています。でも、29才の花園さんが「八甲田山に比べれば」と思ってしまうとは、まさに「時をかける青年」です。
この事件が印象に残っているのは、樋口清之氏の「逆・日本史」を読んだとき、「同じ日の新聞に日英同盟と八甲田山雪中行軍についての記事が載っている。この二つの事件が、太平洋戦争敗北への道のりを象徴している。」というようなことが書いてあったからです。
久しぶりに読み返してみました。指揮官の神成中隊長が、行軍の出発は天候が良くなるのを待とうとしたところ、山口大隊長が強引に行軍を指示したそうです。日露戦争の勝利を経て、軍部の慢心、官僚化がすすみ、「まちがった判断にもかかわらず強烈な個性をもった個人の独特な意見が人間関係を重視するあまり受け入れられてしまう」悲劇が、もっとスケールを大きくした形で現れたのが太平洋戦争だそうです。私は、太平洋戦争がなければよかった、と思っているのですが、こんなころから、日本人には避けることのできなかった戦争なのかな、と「逆・日本史」を読んで思ったので、よく覚えている事件です。ただの悲劇としてだけではなく、憲法9条の改正が審議される中、軍部のあり方についても、若い人に参考になる大切な事件なので、さすが「時をかける青年」と思いました。

花園祐 さんのコメント...

 現実世界でもよく、「まるでその時代にいたかのように話すよね」と、臨場感たっぷりな口ぶりで話すことが多いですが、この八甲田山の遭難事件といい山岳ベース事件といい、自分の年齢を考えると明らかに知っていること自体がおかしな事実ほど妙に詳しい気がします。個人的にこういう事件を追おうとするのは単純な興味からで、古い事件とは言え面白いと思えるからこそ調べ、また面白いと思うからこそほかの人にも伝えたいと思えてこうして記事化しています。ただ年齢的にそろそろ、「時をかけるおっさん」になりつつあるのは忍びないですが……。
 「逆・日本史」のお話は面白いですね。自分も日本にとって大きなターニングポイントとなったのは日露戦争だったと考えており、軍部の慢心化はもとより、国民が日本を大国だと意識して傲慢化したことが太平洋戦争につながったと考えています。具体的に述べるとそれはポーツマス条約の内容に不満を持った暴徒が暴れた日比谷焼打ち事件などですが、この辺のくだりも一週間以内をめどに書いていますね。