何故かは不明ですが使用しているブログソフトのBloggerの管理画面の表示言語が今日から突然英語になりました。横文字苦手やというのに。なのに何故か「リンク」だけは日本語のままなのが笑えます。
あと昨夜は次のJBpress用の経済記事を準備していていろいろおかしくなりました。っていうかあの内容をリサーチから執筆まで1日でこさえるってのはおかしすぎる。普通に朝から晩まで家にこもって調べ続け書き続け、終わった時には夜の11時回っていてさまようよろいみたく何故かコンビニ行ってクリームパン買ってました。
話は本題に入りますが三国志における関羽、特にその「千里行」は非常に有名です。これは進退窮まりやむなく下った曹操の元から、居場所が分かった旧主の劉備の元へ駆けつけるために曹操の許を離れ、計五つの関所を破り千里の道を進んで劉備に馳せ参じたエピソードです。このエピソードは中国に留まらず日本でも大いに喧伝され、理想の忠義の姿として紹介され続けました。
しかし、依然読んだある評論でこのことについて、「関羽は彼自身が高潔だったということより、主である劉備が礼を尽くしたからこそその忠義を見せたのだ」という意見を述べている人がいました。これはどういうことかというと、関羽も千里行でその忠義を見せたが、何故そうしたのかという主の劉備も関羽を信頼し、手厚く取り立てたからこそであり、部下に対して大した愛情を見せずに「お前らも関羽を見習え」なんていう輩はけしからん的な内容がその評論で述べられていました。
言うこと全くその通りで、部下に対してなすべきこと、やるべきこと、果たすべきことをせずにやれ忠義を見せろ、無給で働けなどというのはただ服従を敷いているだけに過ぎません。報いがあるからこそ部下も忠義を見せるのであって、「御恩と奉公」じゃありませんが一方通行な忠義を要求するのはほぼ例外なくクズでしょう。
なお某居酒屋チェーンを見ているとこのエピソードをよく思い出すことが多いです。
ただ和民に限らずとも日本の指導者、経営者、管理職を見ていると、自分たちは一切の報いを提供せずに忠義を要求する、いうなれば服従を要求する人間は少なくない気がします。何故そうなるのかというと最大の要因はこうした人間らにクズが多いということ以前に、大半の日本人が抵抗せずに我慢し続けてしまう、おかしいと思う扱いされてもおかしくないと自己納得しようとするからだと思います。
逆におかしいと思うこと、間違っていると思うことに対し決してこのブログだけじゃなくリアルな現実でも堂々と言ってやたら抵抗するからこそ、自分は日本社会からはじかれる要因になっていると断言できます。別に今信仰を持っているわけじゃないけど、プロテスタント系の学校に通って居心地良いと感じたのはこういう点かもしれません。
少々話がずれましたが、忠とは御恩をはじめとする報いがあって初めて成立する行為です。そうした報いなき従属はただの服従に過ぎず、私みたいに抵抗を見せることはせずとも、忠がないとかそういうことは考える必要はありません。
8 件のコメント:
ちょっと前、神田・神保町にある老舗飲食店「いもや」が閉店しました。週プレNEWSが
いもやの閉店に関して『人情経営の限界』という記事を書いていました。
いもやでは原材料費が上がっても価格に転嫁せず、長時間労働をすることでしのいでいた。
だが店員が高齢化したためついに営業の継続を断念したという内容でした。
いもやの経営は本来ならばやっていけない状況でしたが、店長の『喜んでいるお客さんの
気持ちを裏切れませんよ』という人情によって支えられていました。
人情といえば聞こえはいいですがその実態は ただ働きに限りなく近いです。いわば
御恩がないのに忠義に励むようなものです。 それが高齢化によって続けられなくなった。
最近日本では人手不足が大きな問題になっています。今までは労働者の御恩なき忠義に
よって成り立っていた部分が少子高齢化によって成り立たなくなったのだろうと思って
います。
自分もその見方に同感です。
なんだかんだ言いつつ競争市場による経済合理性、需要供給バランスという概念は便利なもので、「継続できるあるべき形」というものを自然と作ってくれるものだと感g萎えています。労働と賃金などその典型で、その労働に対して適した賃金が対応することで継続出来る形ができるのであって、今の日本は「苦しい今の時期だけ……」といって昇給や採用を抑えた結果、継続できないガラクタを大量に作ってしまった状態でしょう。
前回の記事のコメントで自分は仁義と言いましたが、礼と忠も確かにそうですね。関羽の千里行に例えるとは流石は花園さんです。
君は君たり、臣は臣たりもできていないので、しっかりとお互いが自覚してほしいものです。昨今の社会ではパワハラやモラハラが騒がれて、若者を守る事ばかりに目が行きがちですが、忠孝仁義の考えも教えていかないと組織的にも個人的にも弱くなるのではないかと心配になります。若者を守ることにより弱くすることばかり行うのではなく、鍛えることにより、強くする必要があるのではないかと思います。また、上司達にはマネジメントも必要ですが、人心掌握術としての仁義や礼の考え方を学ばせるべきではないかと思います。
そう考えると意外と儒教って経済合理性に適う学問って思えてきますね。中国でもよく議論されていますが、論語の訓読とか今の時代もやっとくべきかもしれません。
何度もコメントすいません。
〉大半の日本人が抵抗せずに我慢し続けてしまう。
僕もそれは同感で、日本人の良さでもあり悪さでもあるのかなと思います。日本人は、上司は正直誰でも機能すると思います。日本人は民度が高いので、他の人が残業すれば気にしたり、上司の指示がないとなにもできない集団ではなく、自分達で考えて行動できるからです。しかし、一方で無理な事をいう上司の無理な要求も、我慢して聞いてしまう傾向もありますよね。
少し飛躍しますが、GHQ体制から日本が未だになかなか独立できない事もこれと同じであるのではないかと思います。メディアが政府批判しかできなかった時代、その名残が未だに日本にはあるのではないかと思います。
話は変わりますが、今日また毘沙門道で孔子の記事を書きました。お時間あれば見にきてください。
コメント回数は気にしないので思うことあればどんどん書いてください。
基本的に戦前から指揮官三流、兵隊一流っていうのが日本人なので、なかなか変えることはできないでしょう。大分前に書いてますが、そうした民族性ならある意味、外国人に支配されている方が日本人は幸福になれるかもと、日産とマツダの外国人社長、並びにマッカーサーの例を取り上げました。
見方を変えれば集団を引っ張るエリートを自分たちで養成できればそれに越したことはないのですが、なんとなく日本のエリート教育論を見ているとやや足元がふらついた意見ばかり見られ、多分カチっとした教育方法すら確立できないとみています。結局のところ日本の場合、突然変異的に生まれるリーダー気質の人間か、ある程度社会の偏見や差別を受けて独立心を持たざるを得ずに育った人間に期待するほかないでしょう。
「ひとつの本屋で起きたこと。」のブログ記事から、この話を思い出しました。
本屋での退職をめぐる出来事の記事で、仕事に対する現場と本部の認識のずれが書かれています。
実際、現場と本部の断絶はどうしようもないのでしょうか。現場が、アルバイトが求められる仕事以上に頑張ることは無駄なことなのでしょうか。
シビアに見たらバイトが賃金以上に勝手に頑張っていただけの出来事かもしれないです。
やりきれない気持ちが生まれます。
挙げられているブログ記事を読みましたが、まさにその手の典型ですね。自分もあまり人のこと言えませんがもらっている賃金以上の仕事をしてしまうとかえって物事はおかしくなることが多く、上記のケースだと「アルバイトが優秀過ぎて無能な店長を本部が評価してしまった」という事態を引き起こしたのだと思います。まぁ誰が一番悪いかとなったらまともに評価できない本部でしょうが。
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