2026年4月19日日曜日

急に朝倉義景が気になってきた



 先週遊びに行った天津の公園に何故か戦車が置かれていたので写真撮りましたが、二枚目の写真の看板には「軍用機械危険 立入禁止」と書いてますが大人も子供もガン無視していて誰もとがめません。This is 中国。

 話は本題ですが先日ふと、朝倉義景が気になりました。朝倉義景というと浅井長政とともに北陸方面で信長と長く戦った勢力の一角で、事実上、信長包囲網の最前線を担った人物であり、彼らの敗北によって信長は中部から近畿の覇権を確立して事実上天下を射止めたとも言えます。
 そんな朝倉義景ですが世間一般の評価は高くない、というよりほぼ無能という評価で一致しており、信長包囲網が失敗に終わったのは朝倉義景の戦略ミスや判断ミスに起因するとまで言われています。実際に武田信玄をはじめ、「なんでお前肝心な時にばかり撤退すんの?(# ゚Д゚)」と、冬が来るたびに越前こと福井県に引き返すことに詰問した大名は数知れません。そもそもそれ以前に信長が上洛するきっかけとなった足利義昭を最初に保護していたのは朝倉義景でありながら、上洛する意思を見せようとしなかったことから信長の元へ走らせてしまっており、信長と戦うきっかけはここに起因するというのもなかなか味なものがあります。

 どうして朝倉義景が気になったのかというと、少なくとも上記の通り足利義昭が最初に亡命先に選ぶなど、当時としては一定の勢力を持っていたという点です。実際、浅井長政も朝倉家との同盟関係を頼りに六角家と戦っていたともいわれ、当時の滋賀、福井においては大きな勢力を保っていたと考えられます。
 その上で、一体何故浅井長政が信長を裏切り朝倉家についたのかという点でも気になりました。従来は朝倉家寄りである長政の父親の久政によるゴリ押しという説が強かったものの、近年になって長政自身が旗印を変えたともいわれるようになり、この辺の外交というか浅井家にとって朝倉家はどんな存在だったのかという点でも興味を持ちました。

 改めて調べてみたところ前述の通り軍事行動については弁護の余地がなく、姉川の合戦をはじめ戦場ではさしたる戦績は見せず、また牽制として信長に圧力をかけるための軍事行動も本当に肝心な時で勝手に抜け出して包囲網の崩壊を招いています。ただ内政に関してはかなり評価されているようで、当時の敦賀市周辺は京都よりも栄えていたという声もあり、義昭が亡命してきた点からもその通りだったという気がします。
 また失敗の多い軍事行動に関しても、朝倉家家中があまり統一されていなかったという負い目もあったという分析がされています。従兄であり最後に裏切って義景に引導を渡している朝倉景鏡をはじめ、分家筋の勢力の独立心が強く命令にもあまり応じなかったり、義景自身に跡取りとなる息子が夭折しておらず、家中の統制が弱かったことが軍事面の弱点であったと指摘されています。まぁ同じ条件の上杉家では謙信ががっちり統制していたのと比較するとやっぱ義景は無能ってことになりますが。

 あともう一つ弁護するなら、義景の敵勢力であったのが一向一揆だったということでしょう。いまの福井県、石川県に跨るエリアには一向一揆の総本山である本願寺があり、そもそも一向一揆自体が越前から始まっています。この勢力には朝倉義景もかなり手を焼いており、上杉家と組んで挟撃を仕掛けたりもしていますが鎮静化できず、宿敵である信長同様にかなり手を焼いています。もっとも信長包囲網の時に足利義昭の仲介によって和睦していたそうですが。

 以上をまとめると、確かに軍事面での失敗が目に付くものの家中が統一されていなかったなど負い目もあり、また内政に関しては文句なしに大した指導者であった節があります。そう考えると乱世ではなく治世であればそこそこ功績を残せたかもしれない人物で、実際に義景自身も文化振興に対する意識の方が強かったそうです。そういう意味では生まれた時代をやや間違えてきてしまった不幸を彼に対して同情的に覚えます。
 最後に関係ないけど、同じクラスに浅井、朝倉という名字の二人がいたらいいコンビになるような気がしてなりません。音読み順でもかなり近いし。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。