先月に日本に帰国した際に以前から読んでいた「キングダム」という漫画の新刊を一気に読んできました。以前から高く評価しておりましたが先日からはNHKでアニメ化を果たしており、非常に読み応えのある作品でどうしてこの作者がこれまでに世に出なかったのが不思議に感じるほどです。
そんなキングダムですが知らない人に簡単に説明すると中国の戦国時代(紀元前3世紀あたり)が舞台で、後に中国を統一する秦で将軍を目指す少年が主人公です。漫画ではやっぱりドラマ性を掻き立てるために戦争で何度も秦が窮地に追いやられたりしますが、実際の歴史では当時の臣はこの後に中国統一するだけあって国力は圧倒的で、ほかの国が束になっても敵わないくらいに強かったです。これまた先日にこの「キングダム」について語られている掲示板で、一体何故当時の秦がそれほどまでに強かったのかという議論があったので、私なりに秦の強さの秘訣を教派解説しようと思います。
・秦(Wikipedia)
まず自体背景から説明すると、封神演義で有名な周王朝が衰退していくと中国では各地域に王が立ち分裂国家となります。この分裂時代の序盤を春秋時代、途中で晋という国が三国に分裂して以降は戦国時代と呼称を呼び分けられているのですが、はっきり言って秦は春秋・戦国時代を通して一貫して強かったです。何かの戦争に絡んだたら大抵は勝ってましたし、常にパワーバランスを握る大国として君臨し続けておりました。何故最初から秦が強かったのか、その理由を箇条書きにすると以下のような点が挙がってきます。
・西の果て(現在の陝西省)という防御に強い地の利に恵まれていた
・常に異民族と戦っていて兵の練度が高かった
・中央の争いにあまり巻き込まれなかった
言ってしまえば三国時代の蜀と同じような具合で、根拠地が圧倒的に守りに強い場所にあったことが大きいです。ただその一方でデメリットもあり、こちらも蜀と同じく食糧生産量は少なく複雑な地形から外征には出辛い国でした。もっともあまり外政にでられなかったことから、国力をじっくり蓄えることもできたとみれますが。
こうした地政学的な利点に加え、秦が最強国となった最大の理由は商鞅の改革にほかなりません。商鞅に関しては世界史でも習うことがありますが法家の代表格ともいうべき人物で、当時はまだ蛮地とみられていた秦で厳しい法制度を敷いた人物です。商鞅の改革は授業では刑罰関連ばかりが取り上げられますが、実際には知行制から俸禄制に切り替えたことの方が影響力としては大きいです。
当時の中国では日本の戦国時代のように、功績のあった人物には土地とその土地に住む住人の支配権を与えることで報酬としておりました。ただこのやり方だと与えられる土地はどんどん減っていくばかりか一度与えた土地は取り返せず、中には王を超えるほどの土地を所有する大貴族も生無ことにもなり王の支配権にもいろいろ影響しておりました。これを商鞅は土地をすべて王の管理下において、その土地から得られる穀物を報酬として与える俸禄制に切り替え、王の実権を高めるとともに実力のある人物を採用しやすくするよう改めました。
この商鞅の改革の結果、秦の貴族は弱っていったのに対し秦王の権力はどんどんと強まっていっただけでなく、俸禄制で気兼ねなく積極的に人材を採用することから有能な人物も次々と集まるようになっていきました。あまりよそでは指摘されておりませんが、秦ではほかの国と比べて圧倒的と言ってもいいほど宰相職に外国人が就任するパターンが多いです。この商鞅もそうでしたし、その後の范雎や李斯も外国出身者で実力主義が非常に浸透していたことも見逃せません。
これまたはっきり言ってしまえば、秦が中国を統一できたのはこの商鞅の変法によるものと言い切っていいでしょう。一応、隣の魏が秦に先駆けて呉起が知行制から俸禄制に切り替えましたが、実権を失ったことを恨んだ貴族たちによって呉起が殺されて後に魏は元の知行制に戻してしまっています。仮にこの時に魏が俸禄制を維持していたら、歴史が変わっていた可能性は高いと思います。また商鞅自身も後に恨んでいた貴族によって殺害されますが、秦は俸禄制をちゃんと維持しました。
この知行制から俸禄制への切り替え、後の中国ではスタンダードになりますが日本では織田信長が初めて大規模に実行しております。結果は言わずもがなですが、やはり戦国時代は実力主義者が強くなる傾向があるようです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2012年10月5日金曜日
2012年7月29日日曜日
日本に影響を残した外国人~ダグラス・マッカーサー
かなり久々となる「日本に影響を残した外国人」の連載ですが、今日は近代日本に最も大きな影響を残したと言ってもいいダグラス・マッカーサーを取り上げようと思います。
・ダグラス・マッカーサー(Wikipedia)
この連載を始めた段階でマッカーサーは取り上げる予定でしたが、書くことが非常に多く実際に書くとなるとなかなか決断に至れませんでした。それが何で今日になって取り上げるのかというと、昨日一昨日は日中は全く家から出ずに夕食も豪華(焼肉と焼き鳥)だったこともあって体力に余裕があるからです。先週までは暑さと取材の多さから疲労でいっぱいでしたが。
まずマッカーサーの来歴について触れますが、彼の父親のアーサー・マッカーサー・ジュニアも軍人であったことからかなり早いうちから軍人になることを意識していたと言われております。家庭内についてもう一つ付け加えておくと、母親のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはかなりの教育ママだったらしくマッカーサーに英才教育を施し、彼が士官学校に入学すると近くのホテルに移り住んでちゃんと勉強しているか見張っていたという逸話もあるくらいです。
そうした父母の薫陶を受けてか在学中のマッカーサーは抜群の成績を残して卒業してます。そして卒業後に、在日アメリカ大使館に駐在することとなった父の副官として東京に滞在していますが、まさか本人も数十年後にまた日本に来ることになるとはこの時は思わなかったでしょう。
比較的初期のキャリアとして有名なのは第一次大戦時のレインボー軍団創設が挙がってきます。これは一次大戦開戦直後のマッカーサー自らが時のウィルソン大統領に提案して実現したもので、各州から兵士を集めて一つの師団を作り、全米一丸となって戦うというプロパガンダを含んだ部隊ですが、これが創設されるやマッカーサー自らが率いて欧州で戦闘を行っております。この例だけでなく日本のGHQ時代の施政といい、なにかと世の中に「見せる」というやり方に長けているような気がしてなりません。ただこの一次大戦後時は華々しい活躍を遂げて最年少で少将にもなりましたが、大戦後はキャリアが伸び悩み、参謀総長を辞してからは旧知のフィリピンへ軍事顧問として赴き、そこでコネクションを利用して私財作りに明けていたようです。
そんなマッカーサーに転機が訪れたのは太平洋における緊張化こと、対日戦が現実味を帯びてきた1941年7月でした。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領ははっきり言ってマッカーサーが嫌いだったようですが(むしろ彼と仲のいい大統領は聞いたことないくらいいつも衝突してるけど)、アジア事情に詳しく実績のある人物はマッカーサーしかいなかったことから現場復帰を要請し、開戦後は大将に昇進しています。
ただ現場復帰を果たしたマッカーサーですが、太平洋戦争初期は日本軍が一気に攻勢をかけてきたことから各地で敗北。しかもその敗因は「たかが日本人」となめてかかった彼自身の戦略ミスも大きいとされ、結局拠点としていたフィリピンも陥落しかけたことからあの有名な「I shall return」と言って逃げ帰る羽目となりました。ただその後の反攻作戦は素人の自分の目から見て状況に適したもので、拠点をつぶしながら北上するのではなく要所要所を落として補給線を壊滅させるという戦略で確実に日本を追い詰めて勝利を得ております。そして日本の降伏後にGHQ総司令官として日本にやってくることとなりました。
日本統治時代初期は当時のアメリカがやや左傾化していたこともあってか農地改革を筆頭に憲法作成など社会主義色の強い政策を次々と打ち出し、五一五事件や二二六事件で反乱を起こした将兵が最も望んでいた地主制農業を崩壊させることに成功し、生産効率などを飛躍的に高めています。ただGHQ内部の権力抗争の結果、いわゆる「右旋回」が起こってからは自衛隊の創設に道筋をつけるなどタカ派的な政策へとシフトしていきます。
ただこの右旋回についてはマッカーサー自身の個人的事情も影響していたとも考えられます。というのも彼は1948年のアメリカ大統領選への出馬する気まんまんだったらしく、本音としては早く日本の非武装化にケリを付けて本国に帰りたかったそうです。ただ予備選でどの州でも1位になれなかったことから結局あきらめてしまい、それからというもの日本の再軍備化を推し進めたり労働争議を叩き潰したり下○事件を起こしたり……と、○山事件はまだ解明されてないですが、ともかく気兼ねなく強攻策を採るようになったと言われております。
そんなマッカーサーにとって再びの転機となったのは1950年の朝鮮戦争です。この時もマッカーサーは諜報から北朝鮮が南進してくる可能性が伝えられていたにもかかわらず一切黙殺するなど、初期対応を誤るというミスを犯しております。ただ例によって反攻作戦を立てるのはうまく、マッカーサー以外が全員反対していた中で強行した仁川上陸作戦を成功させると一気に形成を逆転させております。
しかしこれまた諜報から「人民解放軍が警戒している」と報告されていたにも関わらず調子に乗って朝鮮半島でやたら進軍を続けたせいで、中国の参戦をわざわざ招いて38度線に押し返されるなど、どうも要所要所で状況判断を誤ることが多いです。さらに原爆の使用許可を申請したことが引き金となり、最終的にトルーマン大統領によって解任されることとなりました。
アメリカに帰国後、1952年に再び大統領選出馬を画策していたそうですあ高齢からこれを断念し、その後は特に大きな事件に関わることなく自然死しております。なお息子のダグラス・マッカーサー2世は独立後の日本で駐日大使となり、安保改定に尽力したと伝えられております。
マッカーサーについて寸評を加えるとするなら、どうもこの人はナポレオンと一緒で、自分が将来歴史書に乗る時を意識したような行動や発言が多いです。いわゆる英雄思想が強かったのかもしれませんが、この点について歴史家の半藤一利氏などは、「しょっちゅう嘘をつく奴だ」と評価しており、私個人としても実際には知ってたことをさも知らなかったかのように、またその逆に知らなかった内容をさも知ってたかのように振る舞っていたように見えます。
ただ日本一国に限れば当時の時局と地理の恩恵を受けていたとしても、非常に多くの改革をドラスティックに成し遂げ立派な基盤を作ってくれたと言ってもいいでしょう。そういうことをたまに自虐的に、「戦後最高の日本政治家はマッカーサーだよ」という時もあります。
・ダグラス・マッカーサー(Wikipedia)
この連載を始めた段階でマッカーサーは取り上げる予定でしたが、書くことが非常に多く実際に書くとなるとなかなか決断に至れませんでした。それが何で今日になって取り上げるのかというと、昨日一昨日は日中は全く家から出ずに夕食も豪華(焼肉と焼き鳥)だったこともあって体力に余裕があるからです。先週までは暑さと取材の多さから疲労でいっぱいでしたが。
まずマッカーサーの来歴について触れますが、彼の父親のアーサー・マッカーサー・ジュニアも軍人であったことからかなり早いうちから軍人になることを意識していたと言われております。家庭内についてもう一つ付け加えておくと、母親のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはかなりの教育ママだったらしくマッカーサーに英才教育を施し、彼が士官学校に入学すると近くのホテルに移り住んでちゃんと勉強しているか見張っていたという逸話もあるくらいです。
そうした父母の薫陶を受けてか在学中のマッカーサーは抜群の成績を残して卒業してます。そして卒業後に、在日アメリカ大使館に駐在することとなった父の副官として東京に滞在していますが、まさか本人も数十年後にまた日本に来ることになるとはこの時は思わなかったでしょう。
比較的初期のキャリアとして有名なのは第一次大戦時のレインボー軍団創設が挙がってきます。これは一次大戦開戦直後のマッカーサー自らが時のウィルソン大統領に提案して実現したもので、各州から兵士を集めて一つの師団を作り、全米一丸となって戦うというプロパガンダを含んだ部隊ですが、これが創設されるやマッカーサー自らが率いて欧州で戦闘を行っております。この例だけでなく日本のGHQ時代の施政といい、なにかと世の中に「見せる」というやり方に長けているような気がしてなりません。ただこの一次大戦後時は華々しい活躍を遂げて最年少で少将にもなりましたが、大戦後はキャリアが伸び悩み、参謀総長を辞してからは旧知のフィリピンへ軍事顧問として赴き、そこでコネクションを利用して私財作りに明けていたようです。
そんなマッカーサーに転機が訪れたのは太平洋における緊張化こと、対日戦が現実味を帯びてきた1941年7月でした。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領ははっきり言ってマッカーサーが嫌いだったようですが(むしろ彼と仲のいい大統領は聞いたことないくらいいつも衝突してるけど)、アジア事情に詳しく実績のある人物はマッカーサーしかいなかったことから現場復帰を要請し、開戦後は大将に昇進しています。
ただ現場復帰を果たしたマッカーサーですが、太平洋戦争初期は日本軍が一気に攻勢をかけてきたことから各地で敗北。しかもその敗因は「たかが日本人」となめてかかった彼自身の戦略ミスも大きいとされ、結局拠点としていたフィリピンも陥落しかけたことからあの有名な「I shall return」と言って逃げ帰る羽目となりました。ただその後の反攻作戦は素人の自分の目から見て状況に適したもので、拠点をつぶしながら北上するのではなく要所要所を落として補給線を壊滅させるという戦略で確実に日本を追い詰めて勝利を得ております。そして日本の降伏後にGHQ総司令官として日本にやってくることとなりました。
日本統治時代初期は当時のアメリカがやや左傾化していたこともあってか農地改革を筆頭に憲法作成など社会主義色の強い政策を次々と打ち出し、五一五事件や二二六事件で反乱を起こした将兵が最も望んでいた地主制農業を崩壊させることに成功し、生産効率などを飛躍的に高めています。ただGHQ内部の権力抗争の結果、いわゆる「右旋回」が起こってからは自衛隊の創設に道筋をつけるなどタカ派的な政策へとシフトしていきます。
ただこの右旋回についてはマッカーサー自身の個人的事情も影響していたとも考えられます。というのも彼は1948年のアメリカ大統領選への出馬する気まんまんだったらしく、本音としては早く日本の非武装化にケリを付けて本国に帰りたかったそうです。ただ予備選でどの州でも1位になれなかったことから結局あきらめてしまい、それからというもの日本の再軍備化を推し進めたり労働争議を叩き潰したり下○事件を起こしたり……と、○山事件はまだ解明されてないですが、ともかく気兼ねなく強攻策を採るようになったと言われております。
そんなマッカーサーにとって再びの転機となったのは1950年の朝鮮戦争です。この時もマッカーサーは諜報から北朝鮮が南進してくる可能性が伝えられていたにもかかわらず一切黙殺するなど、初期対応を誤るというミスを犯しております。ただ例によって反攻作戦を立てるのはうまく、マッカーサー以外が全員反対していた中で強行した仁川上陸作戦を成功させると一気に形成を逆転させております。
しかしこれまた諜報から「人民解放軍が警戒している」と報告されていたにも関わらず調子に乗って朝鮮半島でやたら進軍を続けたせいで、中国の参戦をわざわざ招いて38度線に押し返されるなど、どうも要所要所で状況判断を誤ることが多いです。さらに原爆の使用許可を申請したことが引き金となり、最終的にトルーマン大統領によって解任されることとなりました。
アメリカに帰国後、1952年に再び大統領選出馬を画策していたそうですあ高齢からこれを断念し、その後は特に大きな事件に関わることなく自然死しております。なお息子のダグラス・マッカーサー2世は独立後の日本で駐日大使となり、安保改定に尽力したと伝えられております。
マッカーサーについて寸評を加えるとするなら、どうもこの人はナポレオンと一緒で、自分が将来歴史書に乗る時を意識したような行動や発言が多いです。いわゆる英雄思想が強かったのかもしれませんが、この点について歴史家の半藤一利氏などは、「しょっちゅう嘘をつく奴だ」と評価しており、私個人としても実際には知ってたことをさも知らなかったかのように、またその逆に知らなかった内容をさも知ってたかのように振る舞っていたように見えます。
ただ日本一国に限れば当時の時局と地理の恩恵を受けていたとしても、非常に多くの改革をドラスティックに成し遂げ立派な基盤を作ってくれたと言ってもいいでしょう。そういうことをたまに自虐的に、「戦後最高の日本政治家はマッカーサーだよ」という時もあります。
2012年4月4日水曜日
日本に影響を残した外国人~アーネスト・フェノロサ
また大分期間が空いてのこの連載。何か理由があるわけじゃないけど、こっちでも気温が上がってきたから薄着でワッショイしてたら鼻水が止まらなくなった日に再開というのも何かしら運命があるのかもしれません。花粉症ではありませんが、これだから4月は嫌いだ
・アーネスト・フェノロサ(Wikipedia)
そんな鼻水との格闘を続ける中で紹介するのは、日本の美術界、ひいては奈良の観光業界に多大なる貢献を放たしたアーネスト・フェノロサです。個人的な感傷ですが、この人に関しては私自身も並々ならぬ尊敬心を抱いております。
フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治経済学を学んでいたのですが、25歳の時に来日していた大森貝塚で有名なエドワード・モースから哲学を講義出来る優秀な人材との紹介を受けて1888年に来日しました。
話は少し横にそれますが、この時期のお雇い外国人は一応はそれぞれの専門領域を教えるために来日していますが、当時の日本の学術レベルが非常に低い割に指導教授がいなかったこともあり、今で言えば小学校で習うような理科の内容や簡単な世界情勢とかも一緒に講義していたようです。
話はフェノロサに戻りますが、日本にやってきた当初は東大で政治学や哲学などを教えていて昨今知られているような美術との関わりはなかったそうです。ただ以前からボストンの美術学校でデッサンを学ぶなどこの方面にも元々興味はあったようで、来日からほどなくして日本の美術品に興味を示しだし、ちょうど当時フェノロサを師事していた岡倉天心に収集を手伝わせるようになってからは一気に火が吹き、日本画の絵画展で審査員なども務めております。
そんなフェノロサの現代にまで通じる最大の功績はなんといっても、廃仏毀釈によって壊滅的打撃を受けていた仏教美術の再評価です。話せば少し長くなりますが、1868年に明治時代に入った直後、日本政府は神仏分離令といって境界があいまいだった神道と仏教の線引きをはっきりするための通達を出しました。これを受け一部の地域、特に近畿地方ではそれ以前からの反感もあってか仏教に対して「えらそうにしてやがったくせ神道とは別かよ!」っていうようなノリで、暴動に近いほどの排斥が起こるようになりました。
日本の高校レベルの授業ではこういう風に軽く教えられると思いますが、実態的には非常に大きな排斥運動でした。それこそ一部の寺なんかは民衆によって完全に破壊されて跡形もなくこの世から消え去ってしまってますし、歴史的価値の高い仏像や宝物も一切合財破壊されたり燃やされたりもしています。運が良くても、欧米の好事家に買われて国外に流出するケースがほとんどだったと言います。
この廃仏毀釈の被害が最も大きかった地域は神道のお膝元である三重県と、仏教勢力の強かった奈良県だと言われています。勝手な想像ですが、京都の寺なんかはそれとなく有力者と結びついたり、京都人もある程度価値がわかっていたから保存に成功できたのだと思います。
逆に奈良県は徹底的と言っていいほどの破壊が横行し、主要な仏像などはすべて薪の材料として燃やされていったそうです。今も残る奈良の伽藍や塔が何故残ったのかというと、薪として売る価格よりも分解して薪にする手間賃のが高かったためだとされており、そのほか仏像なども処分費用が掛かるからしょうがなく倉庫に保管されていただけであって、こうしたものが現在国宝として珍重されていることを考えるとどれだけの貴重な財産が失われたか想像に難くありません。
こんな混乱の坩堝と化していた近畿地方にフェノロサと岡倉天心は乗り込み、売られようとしていた美術品の保存に努めただけでなくそれらを海外に紹介することで再評価を進めました。仮に当時のフェノロサの運動がなければ、同地域の主要な観光資源となっている寺や仏像のほとんどが失われていた可能性もあり、そういう意味では奈良県はタイガースファンにとってのバースよろしくフェノロサに対してもっと崇めたりした方がいいんじゃないかと思います。
またこの時期のフェノロサと岡倉天心のエピソードとして、法隆寺夢殿の救世観音像にまつわる話があります。この救世観音像は長きにわたって秘仏とされており、像を覆う布を取ったら祟りが下りるとして封印されておりました。しかしそういって公開を拒む法隆寺に対してこの二人は、「祟りなんかどうでもいいからとっとと見せやがれ(#゚Д゚)ゴルァ!!」とかなり強引に迫って、なんでも止める僧侶とかを無理矢理引きはがして夢殿に乗り込んだそうで、僧侶の中には祟りを恐れてその場から逃げだす者までいたそうです。
こうして邪魔者をすべて追い払った二人は悠々と救世観音像とお目見えできたわけですが、この像は聖徳太子を模した像と言われており、一説には一族すべてが殺された太子を慰めるために作られたとも言われています。それゆえ法隆寺の怨霊伝説とか神霊ものには頻出のアイテムであって、自分が昔見た話なんかだと夢殿を写真で撮ったら燃えている写真が出来たというのもあります。
こんな感じで日本で大暴れ、もといかなり楽しそうな人生を送ったフェノロサは1890年に帰国し、ボストン美術館の東洋部長として日本美術の紹介をつづけ、1908年にロンドンで死去しました。
この記事でもそうですが、私がフェノロサを紹介する際は基本的に廃仏毀釈を説明する時です。それ以前からどれだけ価値が知られていようとも、また実際に高い価値が持っていようとも、ちょっとした風向きの違いでこうも簡単に失われてしまうことがあるということをせっかくなので肝に銘じておいてほしいという願いを込めて筆をおかせてもらいます。
・アーネスト・フェノロサ(Wikipedia)
そんな鼻水との格闘を続ける中で紹介するのは、日本の美術界、ひいては奈良の観光業界に多大なる貢献を放たしたアーネスト・フェノロサです。個人的な感傷ですが、この人に関しては私自身も並々ならぬ尊敬心を抱いております。
フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治経済学を学んでいたのですが、25歳の時に来日していた大森貝塚で有名なエドワード・モースから哲学を講義出来る優秀な人材との紹介を受けて1888年に来日しました。
話は少し横にそれますが、この時期のお雇い外国人は一応はそれぞれの専門領域を教えるために来日していますが、当時の日本の学術レベルが非常に低い割に指導教授がいなかったこともあり、今で言えば小学校で習うような理科の内容や簡単な世界情勢とかも一緒に講義していたようです。
話はフェノロサに戻りますが、日本にやってきた当初は東大で政治学や哲学などを教えていて昨今知られているような美術との関わりはなかったそうです。ただ以前からボストンの美術学校でデッサンを学ぶなどこの方面にも元々興味はあったようで、来日からほどなくして日本の美術品に興味を示しだし、ちょうど当時フェノロサを師事していた岡倉天心に収集を手伝わせるようになってからは一気に火が吹き、日本画の絵画展で審査員なども務めております。
そんなフェノロサの現代にまで通じる最大の功績はなんといっても、廃仏毀釈によって壊滅的打撃を受けていた仏教美術の再評価です。話せば少し長くなりますが、1868年に明治時代に入った直後、日本政府は神仏分離令といって境界があいまいだった神道と仏教の線引きをはっきりするための通達を出しました。これを受け一部の地域、特に近畿地方ではそれ以前からの反感もあってか仏教に対して「えらそうにしてやがったくせ神道とは別かよ!」っていうようなノリで、暴動に近いほどの排斥が起こるようになりました。
日本の高校レベルの授業ではこういう風に軽く教えられると思いますが、実態的には非常に大きな排斥運動でした。それこそ一部の寺なんかは民衆によって完全に破壊されて跡形もなくこの世から消え去ってしまってますし、歴史的価値の高い仏像や宝物も一切合財破壊されたり燃やされたりもしています。運が良くても、欧米の好事家に買われて国外に流出するケースがほとんどだったと言います。
この廃仏毀釈の被害が最も大きかった地域は神道のお膝元である三重県と、仏教勢力の強かった奈良県だと言われています。勝手な想像ですが、京都の寺なんかはそれとなく有力者と結びついたり、京都人もある程度価値がわかっていたから保存に成功できたのだと思います。
逆に奈良県は徹底的と言っていいほどの破壊が横行し、主要な仏像などはすべて薪の材料として燃やされていったそうです。今も残る奈良の伽藍や塔が何故残ったのかというと、薪として売る価格よりも分解して薪にする手間賃のが高かったためだとされており、そのほか仏像なども処分費用が掛かるからしょうがなく倉庫に保管されていただけであって、こうしたものが現在国宝として珍重されていることを考えるとどれだけの貴重な財産が失われたか想像に難くありません。
こんな混乱の坩堝と化していた近畿地方にフェノロサと岡倉天心は乗り込み、売られようとしていた美術品の保存に努めただけでなくそれらを海外に紹介することで再評価を進めました。仮に当時のフェノロサの運動がなければ、同地域の主要な観光資源となっている寺や仏像のほとんどが失われていた可能性もあり、そういう意味では奈良県はタイガースファンにとってのバースよろしくフェノロサに対してもっと崇めたりした方がいいんじゃないかと思います。
またこの時期のフェノロサと岡倉天心のエピソードとして、法隆寺夢殿の救世観音像にまつわる話があります。この救世観音像は長きにわたって秘仏とされており、像を覆う布を取ったら祟りが下りるとして封印されておりました。しかしそういって公開を拒む法隆寺に対してこの二人は、「祟りなんかどうでもいいからとっとと見せやがれ(#゚Д゚)ゴルァ!!」とかなり強引に迫って、なんでも止める僧侶とかを無理矢理引きはがして夢殿に乗り込んだそうで、僧侶の中には祟りを恐れてその場から逃げだす者までいたそうです。
こうして邪魔者をすべて追い払った二人は悠々と救世観音像とお目見えできたわけですが、この像は聖徳太子を模した像と言われており、一説には一族すべてが殺された太子を慰めるために作られたとも言われています。それゆえ法隆寺の怨霊伝説とか神霊ものには頻出のアイテムであって、自分が昔見た話なんかだと夢殿を写真で撮ったら燃えている写真が出来たというのもあります。
こんな感じで日本で大暴れ、もといかなり楽しそうな人生を送ったフェノロサは1890年に帰国し、ボストン美術館の東洋部長として日本美術の紹介をつづけ、1908年にロンドンで死去しました。
この記事でもそうですが、私がフェノロサを紹介する際は基本的に廃仏毀釈を説明する時です。それ以前からどれだけ価値が知られていようとも、また実際に高い価値が持っていようとも、ちょっとした風向きの違いでこうも簡単に失われてしまうことがあるということをせっかくなので肝に銘じておいてほしいという願いを込めて筆をおかせてもらいます。
2012年2月25日土曜日
日本に影響を残した外国人~アーネスト・サトウ
前からやりたかったのもあり、今日は幕末から明治にかけて活躍した英外交官のアーネスト・サトウを取り上げます。
・アーネスト・サトウ(Wikipedia)
まず名前からして一見「ハーフなのか?」と疑わせるような苗字していますが、確かにハーフではあるものの父親がドイツ人、母親がイギリス人の歴としたイギリス人で、日系の血は入っておりません。ただ日本になじみ深い苗字であったことから、日本で生活する上では大いに役に立ったと本人も言っております。
早速本題に入りますが、サトウは英外務省に入省すると19歳で通訳生として1862年に来日します。当初は日本語の力量も高くなくていろいろ苦労したそうですが、徐々に上達してくると伊藤博文や高杉晋作といった長州藩士らと交流を深め、幕末の日英外交に深くかかわるようになります。
そんな彼が日本中に一躍名前を知られるようになったきっかけは、当時在日外国人の間で読まれていたジャパン・タイムズに1866年に寄稿した文章でした。その寄稿分というのは「英国策論」といって、主な内容はウィキペディアから抜粋すると以下の三点に絞られます。
・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席に過ぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。従って現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心を持っている。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
読んでもらえばわかりますが、非常に大胆な内容になっております。現代に例えて言うなら「有力な県が政府を倒すべき」と言っているに等しいです。これを読んで狂喜したのはほかでもなく攘夷派の薩摩藩や長州藩でした。著者名も匿名だったのにどっからか漏れたのかサトウだとばれており、本人の意図しないところであちこちで流布され、どうもイギリスと接近していた薩摩藩などでは「イギリスは倒幕を支援していると表明した」と喧伝していたようです。
ただ実際の歴史も嘘から出た誠とというべきか、その後イギリスはパークス公司らによって薩摩藩と完全な協力関係になります。この過程でサトウも西郷隆盛らと親交を深めたと言われ、戊辰戦争の開戦後も明治天皇と謁見するなど日本史の一舞台に立ち会うこととなりました。
明治期に移った後もサトウは外交官として日本に留まり、何度か本国に一時帰国することはあっても長い期間を日本で過ごしております。またこの間、日本人女性の武田兼との間に二人の息子までもうけています。そして1883年に一旦離任してほかの国に移りますが1895年には駐日特命全権公使となり再び日本に戻り勤務を続け、最終的な在日歴は25年にも上りました。晩年はイギリスに戻り、そのまま没しております。
以上がウィキペディアの記述を抜粋してまとめた内容ですが、こっから自分の真価発揮というかかつて映画の「ラストサムライ」公開に合わせて放送された「その時、歴史が動いた」で紹介されていたエピソードを紹介します。それにしても9年前の放送内容をよく覚えているもんだ。
まずは取るに足らないエピソードですが、サトウが日本で「面倒くさいな」と思ったものとして、席順の習慣があったそうです。曰く、「日本人は複数人で集まる際、だれが上座に座るかで揉めてなかなか始められない」だそうです。この話を聞いてから下宿の私の部屋で集まる際、新入りが来る際はわざと机の上に方位磁針を置いて上座を意識するかどうかを試すようになりましたが、みんなちゃんと意識して話題にするあたり同じ日本人です。
もう一つのエピソードは先ほども出てきた西郷隆盛に関するものですが、どうもサトウは西郷に対しては軒並みならぬ親交を持っていたようで、西南戦争に出陣する直前の西郷とも会っていたようです。また勃発後も東京で勝海舟と会い、西郷の助命を嘆願したそうです。ただサトウの助命嘆願に対して勝は、ここで死ぬのが西郷にとっても望みだとして、特に運動はしなかったようです。このエピソードを引いて司会の松平定知氏は、「サトウにとってのラストサムライは西郷だったのかもしれない」といって番組をまとめていました。
幕末の歴史問題でパークスは出てくることはありますが、サトウが出てくることはまずありえません。しかし私は幕末期の志士らの思想に大きな影響を与える文章を発表していることから彼の功績は決して小さくないとみており、もうちょっと大きく取り上げてもらいたいなとかねがね思っております。
・アーネスト・サトウ(Wikipedia)
まず名前からして一見「ハーフなのか?」と疑わせるような苗字していますが、確かにハーフではあるものの父親がドイツ人、母親がイギリス人の歴としたイギリス人で、日系の血は入っておりません。ただ日本になじみ深い苗字であったことから、日本で生活する上では大いに役に立ったと本人も言っております。
早速本題に入りますが、サトウは英外務省に入省すると19歳で通訳生として1862年に来日します。当初は日本語の力量も高くなくていろいろ苦労したそうですが、徐々に上達してくると伊藤博文や高杉晋作といった長州藩士らと交流を深め、幕末の日英外交に深くかかわるようになります。
そんな彼が日本中に一躍名前を知られるようになったきっかけは、当時在日外国人の間で読まれていたジャパン・タイムズに1866年に寄稿した文章でした。その寄稿分というのは「英国策論」といって、主な内容はウィキペディアから抜粋すると以下の三点に絞られます。
・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席に過ぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。従って現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心を持っている。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
読んでもらえばわかりますが、非常に大胆な内容になっております。現代に例えて言うなら「有力な県が政府を倒すべき」と言っているに等しいです。これを読んで狂喜したのはほかでもなく攘夷派の薩摩藩や長州藩でした。著者名も匿名だったのにどっからか漏れたのかサトウだとばれており、本人の意図しないところであちこちで流布され、どうもイギリスと接近していた薩摩藩などでは「イギリスは倒幕を支援していると表明した」と喧伝していたようです。
ただ実際の歴史も嘘から出た誠とというべきか、その後イギリスはパークス公司らによって薩摩藩と完全な協力関係になります。この過程でサトウも西郷隆盛らと親交を深めたと言われ、戊辰戦争の開戦後も明治天皇と謁見するなど日本史の一舞台に立ち会うこととなりました。
明治期に移った後もサトウは外交官として日本に留まり、何度か本国に一時帰国することはあっても長い期間を日本で過ごしております。またこの間、日本人女性の武田兼との間に二人の息子までもうけています。そして1883年に一旦離任してほかの国に移りますが1895年には駐日特命全権公使となり再び日本に戻り勤務を続け、最終的な在日歴は25年にも上りました。晩年はイギリスに戻り、そのまま没しております。
以上がウィキペディアの記述を抜粋してまとめた内容ですが、こっから自分の真価発揮というかかつて映画の「ラストサムライ」公開に合わせて放送された「その時、歴史が動いた」で紹介されていたエピソードを紹介します。それにしても9年前の放送内容をよく覚えているもんだ。
まずは取るに足らないエピソードですが、サトウが日本で「面倒くさいな」と思ったものとして、席順の習慣があったそうです。曰く、「日本人は複数人で集まる際、だれが上座に座るかで揉めてなかなか始められない」だそうです。この話を聞いてから下宿の私の部屋で集まる際、新入りが来る際はわざと机の上に方位磁針を置いて上座を意識するかどうかを試すようになりましたが、みんなちゃんと意識して話題にするあたり同じ日本人です。
もう一つのエピソードは先ほども出てきた西郷隆盛に関するものですが、どうもサトウは西郷に対しては軒並みならぬ親交を持っていたようで、西南戦争に出陣する直前の西郷とも会っていたようです。また勃発後も東京で勝海舟と会い、西郷の助命を嘆願したそうです。ただサトウの助命嘆願に対して勝は、ここで死ぬのが西郷にとっても望みだとして、特に運動はしなかったようです。このエピソードを引いて司会の松平定知氏は、「サトウにとってのラストサムライは西郷だったのかもしれない」といって番組をまとめていました。
幕末の歴史問題でパークスは出てくることはありますが、サトウが出てくることはまずありえません。しかし私は幕末期の志士らの思想に大きな影響を与える文章を発表していることから彼の功績は決して小さくないとみており、もうちょっと大きく取り上げてもらいたいなとかねがね思っております。
2012年1月23日月曜日
日本に影響を残した外国人~シーボルトの子供たち
相変わらず連休真っ只中。今日は午後1時から4時まで昼寝して過ごしました。寝る子は育つというが本当だろうか、ってそもそももう成人しているけど。
さて以前にこの連載でシーボルトを取り上げたことがありますが、彼自身が日本に与えた影響は紛れもなく非常に大きいのですが、彼の子供たちも父親に負けず劣らず様々な方面で日本に対し大きな貢献をしてくれております。そこで今日はシーボルトの子供たちについて、決して暇で時間が有り余っているからじゃないけどちょっとまとめてみることにしました。
・楠本イネ(Wikipedia)
楠本イネはシーボルトが最初に来日した際、長崎の出島で日本人女性のお滝との間でもうけた子供で、当時としては珍しいハーフの女性でした。父親のシーボルト自身は彼女が幼い時に国外追放を受けることとなりましたが彼の弟子たちがイネらの生活を支え、シーボルト流の西洋医学からオランダ語を教えたとされています。なお彼女にオランダ語を教えた人物の中には村田蔵六こと後の大村益次郎もおり、皮肉な運命というべきか大村益次郎が京都で襲撃され落命した際には看護助手としてイネが看取っております。
イネが32歳の1859年、日本が開国したことを受けて父親のシーボルトが再来日し、親子は感動の再会を果たします。またシーボルトが母国で設けた異母弟のアレクサンダー・フォン・シーボルトとも初めて会うこととなります。
彼女自身は当時としては非常に珍しい西洋医学を修めていたことから幕末期には宇和島藩主の伊達宗城などから厚遇を受け、明治初期にも宮内省ご用達の医師として活躍していますが、1875年に医師業を資格制とする医術開業試験制度が始まり、当初この制度は女性医師を認めていなかったことから医療現場の第一線を退くこととなります(その後1884年に女性の受験も認められる)。
・アレクサンダー・フォン・シーボルト(Wikipedia)
アレクサンダーはシーボルトが国外追放を受けオランダに帰国した後に生まれた、彼の長男です。日本には若干12歳の頃に父の再来日に同行する形で初めてやってきて、通訳を行う外交官として幕末の様々な事件処理に数多く関わっております。主だったものを上げると生麦事件、薩英戦争、下関戦争とまさに歴史の大事件に陰ながら関わっているわけですが、1867年のパリ万博の際には幕府名代として派遣された特区側義信の弟である徳川昭武に同行して一時帰欧しております。
その後、1869年に幕府の命令を受ける形で弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトを伴い日本に再び来日します。帰国後は正式に明治政府から任官を受けて通訳兼秘書として様々な人物の下につき、不平等条約改正に取り組んでいた井上薫の秘書として欧州各国政府との交渉にも参加し、これは青木周蔵(駐英公使)の部下だった時代ですが日英通商航海条約の調印にも立ち会っているようです。
アレクサンダーは1911年に死去しますが、それまで明治政府の下で実に40年以上も外交官として働いており、文字通りお雇い外国人として明治期を代表する人物の一人と言って間違いないでしょう。
・ハインリッヒ・フォン・シーボルト(Wikipedia)
ハインリッヒは兄の再来日の際に同行し、既に明治に時代の入った1869年に初来日します。日本でハインリッヒは兄同様に通訳兼外交官として仕事を得て、1873年には兄とともにウィーン万博の日本館の準備に関わって連日の大盛況に導いています。
こうした外交官として活躍する一方、この前紹介したエドワード・モースとほぼ同時期に大森貝塚を発見するなど日本の考古学の発展にも深く寄与しており、骨董品を集めては日本人仲間との間で紹介し合っております。
最終的に彼はオーストリアで没しますが、この時に彼を診ていたのはこれもまた今度紹介したいと思うエルヴィン・フォン・ベルツことベルツ博士です。本当にこの時代の外国人はみんなつながってるなぁ。
さて以前にこの連載でシーボルトを取り上げたことがありますが、彼自身が日本に与えた影響は紛れもなく非常に大きいのですが、彼の子供たちも父親に負けず劣らず様々な方面で日本に対し大きな貢献をしてくれております。そこで今日はシーボルトの子供たちについて、決して暇で時間が有り余っているからじゃないけどちょっとまとめてみることにしました。
・楠本イネ(Wikipedia)
楠本イネはシーボルトが最初に来日した際、長崎の出島で日本人女性のお滝との間でもうけた子供で、当時としては珍しいハーフの女性でした。父親のシーボルト自身は彼女が幼い時に国外追放を受けることとなりましたが彼の弟子たちがイネらの生活を支え、シーボルト流の西洋医学からオランダ語を教えたとされています。なお彼女にオランダ語を教えた人物の中には村田蔵六こと後の大村益次郎もおり、皮肉な運命というべきか大村益次郎が京都で襲撃され落命した際には看護助手としてイネが看取っております。
イネが32歳の1859年、日本が開国したことを受けて父親のシーボルトが再来日し、親子は感動の再会を果たします。またシーボルトが母国で設けた異母弟のアレクサンダー・フォン・シーボルトとも初めて会うこととなります。
彼女自身は当時としては非常に珍しい西洋医学を修めていたことから幕末期には宇和島藩主の伊達宗城などから厚遇を受け、明治初期にも宮内省ご用達の医師として活躍していますが、1875年に医師業を資格制とする医術開業試験制度が始まり、当初この制度は女性医師を認めていなかったことから医療現場の第一線を退くこととなります(その後1884年に女性の受験も認められる)。
・アレクサンダー・フォン・シーボルト(Wikipedia)
アレクサンダーはシーボルトが国外追放を受けオランダに帰国した後に生まれた、彼の長男です。日本には若干12歳の頃に父の再来日に同行する形で初めてやってきて、通訳を行う外交官として幕末の様々な事件処理に数多く関わっております。主だったものを上げると生麦事件、薩英戦争、下関戦争とまさに歴史の大事件に陰ながら関わっているわけですが、1867年のパリ万博の際には幕府名代として派遣された特区側義信の弟である徳川昭武に同行して一時帰欧しております。
その後、1869年に幕府の命令を受ける形で弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトを伴い日本に再び来日します。帰国後は正式に明治政府から任官を受けて通訳兼秘書として様々な人物の下につき、不平等条約改正に取り組んでいた井上薫の秘書として欧州各国政府との交渉にも参加し、これは青木周蔵(駐英公使)の部下だった時代ですが日英通商航海条約の調印にも立ち会っているようです。
アレクサンダーは1911年に死去しますが、それまで明治政府の下で実に40年以上も外交官として働いており、文字通りお雇い外国人として明治期を代表する人物の一人と言って間違いないでしょう。
・ハインリッヒ・フォン・シーボルト(Wikipedia)
ハインリッヒは兄の再来日の際に同行し、既に明治に時代の入った1869年に初来日します。日本でハインリッヒは兄同様に通訳兼外交官として仕事を得て、1873年には兄とともにウィーン万博の日本館の準備に関わって連日の大盛況に導いています。
こうした外交官として活躍する一方、この前紹介したエドワード・モースとほぼ同時期に大森貝塚を発見するなど日本の考古学の発展にも深く寄与しており、骨董品を集めては日本人仲間との間で紹介し合っております。
最終的に彼はオーストリアで没しますが、この時に彼を診ていたのはこれもまた今度紹介したいと思うエルヴィン・フォン・ベルツことベルツ博士です。本当にこの時代の外国人はみんなつながってるなぁ。
2012年1月15日日曜日
日本に影響を残した外国人~エドワード・モース
自分は恐らくほかの歴史好きと共通するでしょうが、子供の頃に歴史漫画を読んだことから歴史に興味を持つように至りました。ちなみに好んで読んだのは編年体ではなく紀伝体というべきか特定の人物にスポットを当てた歴史漫画で、何故かそのころから戦国時代の登場人物を贔屓にして読んでいた気がします。ただ紀伝体の歴史漫画も読み終えるとやはりつまらないもので、仕方ないのでとようやく手に取ったのは確か小学館の「日本の歴史」シリーズだったと思いますが、その第1ページ目に登場したのが今日紹介するエドワード・モースです。
・エドワード・S・モース(Wikipedia)
エドワード・モースはアメリカの動物学者で、明治初期にお雇い外国人として来日を果たした人物です。来日理由は節足動物の標本を集めていたことからこの手の種類が多数生息するという日本に興味を持ったことからだそうですが、彼を現在の日本で有名足らしめたのはこの専門の動物学ではなく、日本考古学の創立者としてでした。
モースは西南戦争の起きた1877年に来日し、明治政府から標本採集の許可を取るために横浜から新橋へ鉄道で移動中、日本初の考古学発掘の現場となる大森貝塚を見つけます。当時の日本人からすればこの貝塚の考古学的価値に気づく人間はいなかったようですが外国人には魅力的に映ったのか、モースのほかにもかのシーボルトの二男であるハインリッヒ・フォン・シーボルトも同時期に発見して発掘に強い情熱を持っていたと言われております。
話はモースに戻りますが、元々モース自体が動物学以外にも考古学にも造詣が深かったこともあり、明治政府に対して正式にこの貝塚の発掘許可を申請しました。無事許可が下りるやモースは東大の学生を引き連れて発掘を行い、土器や人骨など様々な発見をして論文で発表し、重複した土器などを一時離日した際にアメリカへ持ち帰り紹介を行ったようです。その後1878年に再び来日すると今度は出土品を細かく整理した上であちこちで講演し、また論文発表や学会の創設などによってこの分野における開拓にいそしんだとされます。
恐らく通常の日本史だと彼について紹介されるのはここまでで、後はせいぜい「日本で初めて進化論の講義を行った」と書かれる程度でしょう。私自身も彼の名前と功績については強く認めていたもののこれ以上の知識は持ち合わせていなかったのですが、最近になって調べてみると最初の離日の際に東大に対し、「哲学講師が必要ならフェノロサを呼べ」と、なんとあのアーネスト・フェノロサを日本に引っ張り込んだ張本人だったということを知っていろんな意味でしびれました。これはこの時期のお雇い外国人みんなに共通して言えることですが、みんなどこかしこで接点を持っていてそうした縁が数珠つなぎに繋がって来日してきています。
フェノロサについてもこの連載でいつか取り上げる予定ですが、彼がいなかったら今の奈良の観光産業はまず成り立たないことを考えるとその影響度は半端じゃありません。もうこの時点で私にとってのモースの評価は格段に上がったのですが、その後に起きた関東大震災によって東大図書館が全部焼けたと知るや自分の蔵書1万2千冊をすべて東大に寄付するという遺言を残す(モースの死後、実際に寄付された)など、日本の学術分野における彼の功績は計り知れないものがあります。
実はこの連載を始めるきっかけとなったのはこのモースにほかならず、明治のお雇い外国人はみんなどこかしかで接点を持ってその縁が伝手となって来日していることを意識した際、こうやってひとりひとり取り上げてみた方がいいのではと思ったからでした。その上で上記の関東大震災のエピソードも、既に知られている人物でもこうしたまだ知られていない面もあり、特に日本に尽くしてくれたエピソードというものは広く認知させるべきだと考えたのも突き動かす一つの理由となりました。最初の歴史漫画と言い、何かと自分のスタートに縁がある人だとつくづく感じます。
・エドワード・S・モース(Wikipedia)
エドワード・モースはアメリカの動物学者で、明治初期にお雇い外国人として来日を果たした人物です。来日理由は節足動物の標本を集めていたことからこの手の種類が多数生息するという日本に興味を持ったことからだそうですが、彼を現在の日本で有名足らしめたのはこの専門の動物学ではなく、日本考古学の創立者としてでした。
モースは西南戦争の起きた1877年に来日し、明治政府から標本採集の許可を取るために横浜から新橋へ鉄道で移動中、日本初の考古学発掘の現場となる大森貝塚を見つけます。当時の日本人からすればこの貝塚の考古学的価値に気づく人間はいなかったようですが外国人には魅力的に映ったのか、モースのほかにもかのシーボルトの二男であるハインリッヒ・フォン・シーボルトも同時期に発見して発掘に強い情熱を持っていたと言われております。
話はモースに戻りますが、元々モース自体が動物学以外にも考古学にも造詣が深かったこともあり、明治政府に対して正式にこの貝塚の発掘許可を申請しました。無事許可が下りるやモースは東大の学生を引き連れて発掘を行い、土器や人骨など様々な発見をして論文で発表し、重複した土器などを一時離日した際にアメリカへ持ち帰り紹介を行ったようです。その後1878年に再び来日すると今度は出土品を細かく整理した上であちこちで講演し、また論文発表や学会の創設などによってこの分野における開拓にいそしんだとされます。
恐らく通常の日本史だと彼について紹介されるのはここまでで、後はせいぜい「日本で初めて進化論の講義を行った」と書かれる程度でしょう。私自身も彼の名前と功績については強く認めていたもののこれ以上の知識は持ち合わせていなかったのですが、最近になって調べてみると最初の離日の際に東大に対し、「哲学講師が必要ならフェノロサを呼べ」と、なんとあのアーネスト・フェノロサを日本に引っ張り込んだ張本人だったということを知っていろんな意味でしびれました。これはこの時期のお雇い外国人みんなに共通して言えることですが、みんなどこかしこで接点を持っていてそうした縁が数珠つなぎに繋がって来日してきています。
フェノロサについてもこの連載でいつか取り上げる予定ですが、彼がいなかったら今の奈良の観光産業はまず成り立たないことを考えるとその影響度は半端じゃありません。もうこの時点で私にとってのモースの評価は格段に上がったのですが、その後に起きた関東大震災によって東大図書館が全部焼けたと知るや自分の蔵書1万2千冊をすべて東大に寄付するという遺言を残す(モースの死後、実際に寄付された)など、日本の学術分野における彼の功績は計り知れないものがあります。
実はこの連載を始めるきっかけとなったのはこのモースにほかならず、明治のお雇い外国人はみんなどこかしかで接点を持ってその縁が伝手となって来日していることを意識した際、こうやってひとりひとり取り上げてみた方がいいのではと思ったからでした。その上で上記の関東大震災のエピソードも、既に知られている人物でもこうしたまだ知られていない面もあり、特に日本に尽くしてくれたエピソードというものは広く認知させるべきだと考えたのも突き動かす一つの理由となりました。最初の歴史漫画と言い、何かと自分のスタートに縁がある人だとつくづく感じます。
2011年12月16日金曜日
日本に影響を残した外国人~レオ・シロタ
・レオ・シロタ(Wikipidia)
今日紹介するレオ・シロタはその「シロタ」という名字から一見して日本人ハーフかと思われるかもしれませんが、この人はれっきとしたユダヤ系ウクライナ人で親類に日系人関係者はおりません。幕末にイギリス人外交官としてもっと名前が知れ渡ってもいいくらいに活躍したアーネスト・サトウも出生自体は日本と全く関わりがありませんが、世界は広いもので日本語の発音に近い苗字を持った外人は意外に多いようです。
早速解説に入りますがシロタの職業はピアニストで、5歳からピアノを弾き始めると幼少時から神童とも呼ばれ、19歳になってウクライナからウィーンに留学してからはめきめきと腕を上げていき「リストの再来」とまで呼ばれトップクラスのピアニストとして名を馳せました。
そんな世界的ピアニストがどうしてまた日本と関わるようになったのかというと、こちらもまた日本が誇る偉大な音楽家の山田耕筰がシロタのハルビン公演の際に日本への招聘を行ったことがきっかけでした。シロタはこの誘いを快諾して1929年に妻と既に生まれていた娘を伴い日本へ訪れ、当初は半年間の講演旅行で終えるつもりだったところを、山田耕筰の依頼を受けそのまま東京音楽学校ピアノ科教授に就任して日本に留まり続けました。
勘のいい人なら既にお判りでしょうがこの時期には既にドイツ、オーストリアでユダヤ人迫害が始まりつつあり、オーストリアに本拠を持つシロタもそうした背景があって日本滞在を選んだのかと思われます。かくして日本は世界トップレベルのピアニストを指導者として招くことに成功したわけですが、当時はシロタ以外にも東京音楽学校には世界有数の外国人教授が集まっていたようで、日本の音楽史において大きな発展に貢献したと言われております。
その後、日本を含め世界は徐々に戦争期に突入していくわけですが、シロタは延々と日本に滞在し教鞭を取り続けました。ただ1939年に16歳となった娘だけが進学のためにアメリカの女子大へ留学したことになるのですが、太平洋戦争開戦直前の1941年に娘に会うため渡米したシロタは娘から「戦争が始まっては別れ離れになる。このままアメリカに留まろう」と説得を受けることとなります。
たまにゾルゲ事件を取り上げては開戦直前まで日米の一般民衆は戦争が起こるとは考えていなかったと書く奴がいますがこれは明らかな間違いで、むしろ日本側は世論に押されて政府が開戦を決めた節があります。現に情けなさすぎてあまり書きたくありませんが、何故開戦となったのか半藤一利氏の取材で当時の陸軍幹部は「いや、なんとなくそういう空気だったから」と証言してます。
話はシロタに戻りますが、この時の情勢はまさに娘の言う通りと言ってもいい状況であったにもかかわらずシロタは、「東京音楽学校で私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と言い残し、その年の11月に日本へ帰国しました。なおこの時にシロタが乗った船は、アメリカから日本行きの船としては最後の便となりました。そしてこの1ヶ月後、日米は開戦して親子の間の通信は途絶えます。
アメリカに残された娘はシロタからの仕送りがなくなったことを受け、数ヶ国語を操るほどの才能を持っていたことから通信社でアルバイトを開始したのを皮切りに、最終的には戦争情報局で対日プロパガンダ放送を担当する仕事を受け持つようになります。これらの仕事の中で得られる日本側の放送から両親の安否情報を捜していたそうです。
その後、日本が1945年に降伏し、当時働いていたタイム誌の日本特派員から両親は無事で軽井沢にいるという情報を得た娘は何とかして日本に渡ろうと手を尽くし、1945年の12月24日、GHQの民間人用員として厚木に降り立つこととなります。
法学部出身者限定となってしまいますが、勘のいい人なら既にお分かりの通りにこのレオ・シロタの娘こそ日本国憲法草案作成の過程において非常に重要な役割を果たし、現在も存命されているベアテ・シロタその人です。
今回この記事を書くに当たり、非常に情けないのですがほとんどウィキペディアのページから引用しております。本当ならもっといろいろ調べたり、毎日新聞社が「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」という本を出しているからこれを読んだ上で書くべきなのですが、非常に興味深い内容の上に可能な限り早くこのブログでも紹介したいと思ったことから見切り発車でもう書くことにしました。私自身、ベアテ・シロタ氏については法学の授業で習い、子供の頃に日本にいたという事実自体は知ってはいたものの、どうして親子が日本に来たのか、そして別れ離れになったのかについては全く知らなかっただけに強い衝撃を受けたとともに、その父親のレオ・シロタのその功績と人となりについても感動を覚えました。
最後にこの親子の戦後の帰結ですが、当時レオ・シロタ夫妻は軽井沢に強制疎開されており、八方手を尽くした娘からの連絡を受け1945年内に無事再会を果たすことが出来ました。それにしても父親は音楽界、娘は憲法において日本に多大な功績を残してくれたとのことで、真面目にこの親子には感謝で頭が上がりません。憲法に関して一言付け加えておくと、当時において日本国憲法はアメリカの憲法以上に人権、平等思想が強く反映されており、間違いなく世界屈指の憲法に仕上がり、現在にまで機能するというとんでもない代物なだけに、こんなええ娘さんをよう生んでくれたとレオ・シロタに対してしみじみ思います。
今日紹介するレオ・シロタはその「シロタ」という名字から一見して日本人ハーフかと思われるかもしれませんが、この人はれっきとしたユダヤ系ウクライナ人で親類に日系人関係者はおりません。幕末にイギリス人外交官としてもっと名前が知れ渡ってもいいくらいに活躍したアーネスト・サトウも出生自体は日本と全く関わりがありませんが、世界は広いもので日本語の発音に近い苗字を持った外人は意外に多いようです。
早速解説に入りますがシロタの職業はピアニストで、5歳からピアノを弾き始めると幼少時から神童とも呼ばれ、19歳になってウクライナからウィーンに留学してからはめきめきと腕を上げていき「リストの再来」とまで呼ばれトップクラスのピアニストとして名を馳せました。
そんな世界的ピアニストがどうしてまた日本と関わるようになったのかというと、こちらもまた日本が誇る偉大な音楽家の山田耕筰がシロタのハルビン公演の際に日本への招聘を行ったことがきっかけでした。シロタはこの誘いを快諾して1929年に妻と既に生まれていた娘を伴い日本へ訪れ、当初は半年間の講演旅行で終えるつもりだったところを、山田耕筰の依頼を受けそのまま東京音楽学校ピアノ科教授に就任して日本に留まり続けました。
勘のいい人なら既にお判りでしょうがこの時期には既にドイツ、オーストリアでユダヤ人迫害が始まりつつあり、オーストリアに本拠を持つシロタもそうした背景があって日本滞在を選んだのかと思われます。かくして日本は世界トップレベルのピアニストを指導者として招くことに成功したわけですが、当時はシロタ以外にも東京音楽学校には世界有数の外国人教授が集まっていたようで、日本の音楽史において大きな発展に貢献したと言われております。
その後、日本を含め世界は徐々に戦争期に突入していくわけですが、シロタは延々と日本に滞在し教鞭を取り続けました。ただ1939年に16歳となった娘だけが進学のためにアメリカの女子大へ留学したことになるのですが、太平洋戦争開戦直前の1941年に娘に会うため渡米したシロタは娘から「戦争が始まっては別れ離れになる。このままアメリカに留まろう」と説得を受けることとなります。
たまにゾルゲ事件を取り上げては開戦直前まで日米の一般民衆は戦争が起こるとは考えていなかったと書く奴がいますがこれは明らかな間違いで、むしろ日本側は世論に押されて政府が開戦を決めた節があります。現に情けなさすぎてあまり書きたくありませんが、何故開戦となったのか半藤一利氏の取材で当時の陸軍幹部は「いや、なんとなくそういう空気だったから」と証言してます。
話はシロタに戻りますが、この時の情勢はまさに娘の言う通りと言ってもいい状況であったにもかかわらずシロタは、「東京音楽学校で私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と言い残し、その年の11月に日本へ帰国しました。なおこの時にシロタが乗った船は、アメリカから日本行きの船としては最後の便となりました。そしてこの1ヶ月後、日米は開戦して親子の間の通信は途絶えます。
アメリカに残された娘はシロタからの仕送りがなくなったことを受け、数ヶ国語を操るほどの才能を持っていたことから通信社でアルバイトを開始したのを皮切りに、最終的には戦争情報局で対日プロパガンダ放送を担当する仕事を受け持つようになります。これらの仕事の中で得られる日本側の放送から両親の安否情報を捜していたそうです。
その後、日本が1945年に降伏し、当時働いていたタイム誌の日本特派員から両親は無事で軽井沢にいるという情報を得た娘は何とかして日本に渡ろうと手を尽くし、1945年の12月24日、GHQの民間人用員として厚木に降り立つこととなります。
法学部出身者限定となってしまいますが、勘のいい人なら既にお分かりの通りにこのレオ・シロタの娘こそ日本国憲法草案作成の過程において非常に重要な役割を果たし、現在も存命されているベアテ・シロタその人です。
今回この記事を書くに当たり、非常に情けないのですがほとんどウィキペディアのページから引用しております。本当ならもっといろいろ調べたり、毎日新聞社が「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」という本を出しているからこれを読んだ上で書くべきなのですが、非常に興味深い内容の上に可能な限り早くこのブログでも紹介したいと思ったことから見切り発車でもう書くことにしました。私自身、ベアテ・シロタ氏については法学の授業で習い、子供の頃に日本にいたという事実自体は知ってはいたものの、どうして親子が日本に来たのか、そして別れ離れになったのかについては全く知らなかっただけに強い衝撃を受けたとともに、その父親のレオ・シロタのその功績と人となりについても感動を覚えました。
最後にこの親子の戦後の帰結ですが、当時レオ・シロタ夫妻は軽井沢に強制疎開されており、八方手を尽くした娘からの連絡を受け1945年内に無事再会を果たすことが出来ました。それにしても父親は音楽界、娘は憲法において日本に多大な功績を残してくれたとのことで、真面目にこの親子には感謝で頭が上がりません。憲法に関して一言付け加えておくと、当時において日本国憲法はアメリカの憲法以上に人権、平等思想が強く反映されており、間違いなく世界屈指の憲法に仕上がり、現在にまで機能するというとんでもない代物なだけに、こんなええ娘さんをよう生んでくれたとレオ・シロタに対してしみじみ思います。
2011年11月30日水曜日
日本に影響を残した外国人~シーボルト
シーボルトとくれば例のシーボルト事件で有名ですが、意外にもこの人単体で取り上げられることはあまり多くないような気がします。
・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Wikipedia)
まず敢えて先にシーボルト事件についてさらりと説明しますが、この事件は鎖国がされていた江戸時代中期に長崎の出島に来ていたシーボルトが、帰国の際に国防上で重要なことから持出し禁止、というかほとんどの人に対して閲覧禁止となっていた日本地図を持ち出そうとしたことがばれ、当時の幕府天文方・書物奉行の高橋景保らなどが処分され、シーボルト本人も再入国禁止となった事件のことを指しております。
上記の事件の流れからすれば一見シーボルトはオランダ人のように見えますが、何を隠そう彼は生粋のゲルマン民族ことドイツ人です。当時の日本はオランダ以外とは通商をしていなかったためにオランダ人以外が日本に上陸することは本来ありえないことなのですが、なんとシーボルトはドイツ人でありながらオランダの許可を得て、オランダ人のなりすまして日本にやってきていました。
一体何故そこまでして日本に来たかったのかは本人に聞く以外は多分ないでしょうが、こうした特殊ないきさつからシーボルトというのは日本を視察するためにドイツ(地域はヴュルツブルク)から送られてきたスパイだったのではないかという説もあるくらいです。ただシーボルトスパイ説に対して私は、当時神聖ローマ帝国だったドイツが遥か彼方の東洋の一国である日本にまでスパイを送る理由があるとは思えず、ただ単にシーボルト自身が東洋に対して強い興味があったから来ただけなんじゃないかと考えています。
そんな不可解な経緯でもって日本にやってきたシーボルトですが、母国ドイツで大学出の医者だっただけに長崎で大活躍し、高野長英を初めとした後の幕末時代に活躍する蘭学者を数多く育成したほか、現地女性の楠本滝との間に一人娘までもうけました。しかし1828年に帰国する際に高橋景保から贈られた日本地図が見つかり(見つかった経緯については台風による座礁など諸説ある)、処刑こそ免れたものの国外追放処分を受けることとなります。
なおこの時に持ち出そうとした地図ですが、何を隠そうあの伊能忠敬が作った大日本沿海輿地全図の縮図でした。恐らくシーボルト事件の際に渡った縮図は没収されたでしょうが、既にコピーか何かを作っていたのかシーボルトはオランダに帰国してからこの地図をヨーロッパで刊行しており、日本を開国させたマシュー・ペリーにも提供しております。ペリーはそのコピーのコピーともいえる地図を持って日本にやってきたわけですが、実際に一部海岸とその地図を照らし合わせてみると距離などがピタリと一致しており、たかが土民国家とでもなめていたのもあるでしょうがその測量技術の高さに目を見張ったと言われております。
話はシーボルトに戻しますが、帰国後はオランダで働き続けていましたが前述のペリーによって日本が開国されて外国人も出入りできるようになった後、シーボルト事件から実に31年後の1859年に再び日本の地を踏み、日蘭交渉の場などで活躍したとされます。その後はドイツに戻り1866年に70歳で死去しました。
このようにシーボルトは幕末における蘭学者の育成にとどまらず開国に至る過程で重要なキーパーソン役を果たしており、日本に与えた影響は果てしなく大きな人物です。また彼のみならず彼の娘の楠本イネ、またシーボルト事件の後にオランダで設けた長男二男のアレクサンダー・フォン・シーボルトとハインリッヒ・フォン・シーボルトら親族は明治期の日本に外交や研究分野で活躍しており、彼がいたかいないかでは間違いなく日本の歴史は変わっているでしょう。
最後に若き頃のシーボルトのエピソードを紹介しますが、なんか喧嘩っ早い性格だったらしくて、大学在学中になんと33回も決闘をしていたそうです。ガンダムファイターじゃないんだから、そこまでしなくともという気がします。
・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Wikipedia)
まず敢えて先にシーボルト事件についてさらりと説明しますが、この事件は鎖国がされていた江戸時代中期に長崎の出島に来ていたシーボルトが、帰国の際に国防上で重要なことから持出し禁止、というかほとんどの人に対して閲覧禁止となっていた日本地図を持ち出そうとしたことがばれ、当時の幕府天文方・書物奉行の高橋景保らなどが処分され、シーボルト本人も再入国禁止となった事件のことを指しております。
上記の事件の流れからすれば一見シーボルトはオランダ人のように見えますが、何を隠そう彼は生粋のゲルマン民族ことドイツ人です。当時の日本はオランダ以外とは通商をしていなかったためにオランダ人以外が日本に上陸することは本来ありえないことなのですが、なんとシーボルトはドイツ人でありながらオランダの許可を得て、オランダ人のなりすまして日本にやってきていました。
一体何故そこまでして日本に来たかったのかは本人に聞く以外は多分ないでしょうが、こうした特殊ないきさつからシーボルトというのは日本を視察するためにドイツ(地域はヴュルツブルク)から送られてきたスパイだったのではないかという説もあるくらいです。ただシーボルトスパイ説に対して私は、当時神聖ローマ帝国だったドイツが遥か彼方の東洋の一国である日本にまでスパイを送る理由があるとは思えず、ただ単にシーボルト自身が東洋に対して強い興味があったから来ただけなんじゃないかと考えています。
そんな不可解な経緯でもって日本にやってきたシーボルトですが、母国ドイツで大学出の医者だっただけに長崎で大活躍し、高野長英を初めとした後の幕末時代に活躍する蘭学者を数多く育成したほか、現地女性の楠本滝との間に一人娘までもうけました。しかし1828年に帰国する際に高橋景保から贈られた日本地図が見つかり(見つかった経緯については台風による座礁など諸説ある)、処刑こそ免れたものの国外追放処分を受けることとなります。
なおこの時に持ち出そうとした地図ですが、何を隠そうあの伊能忠敬が作った大日本沿海輿地全図の縮図でした。恐らくシーボルト事件の際に渡った縮図は没収されたでしょうが、既にコピーか何かを作っていたのかシーボルトはオランダに帰国してからこの地図をヨーロッパで刊行しており、日本を開国させたマシュー・ペリーにも提供しております。ペリーはそのコピーのコピーともいえる地図を持って日本にやってきたわけですが、実際に一部海岸とその地図を照らし合わせてみると距離などがピタリと一致しており、たかが土民国家とでもなめていたのもあるでしょうがその測量技術の高さに目を見張ったと言われております。
話はシーボルトに戻しますが、帰国後はオランダで働き続けていましたが前述のペリーによって日本が開国されて外国人も出入りできるようになった後、シーボルト事件から実に31年後の1859年に再び日本の地を踏み、日蘭交渉の場などで活躍したとされます。その後はドイツに戻り1866年に70歳で死去しました。
このようにシーボルトは幕末における蘭学者の育成にとどまらず開国に至る過程で重要なキーパーソン役を果たしており、日本に与えた影響は果てしなく大きな人物です。また彼のみならず彼の娘の楠本イネ、またシーボルト事件の後にオランダで設けた長男二男のアレクサンダー・フォン・シーボルトとハインリッヒ・フォン・シーボルトら親族は明治期の日本に外交や研究分野で活躍しており、彼がいたかいないかでは間違いなく日本の歴史は変わっているでしょう。
最後に若き頃のシーボルトのエピソードを紹介しますが、なんか喧嘩っ早い性格だったらしくて、大学在学中になんと33回も決闘をしていたそうです。ガンダムファイターじゃないんだから、そこまでしなくともという気がします。
2011年11月15日火曜日
日本に影響を残した外国人~クラーク博士
私のブログのキラーコンテンツとしてあり続けたのは、歴史カテゴリに含まれる「猛将列伝」という一連の記事でした。この記事は、「実力はあったんだけどいまいちマイナーな武将、指揮官」を取り上げるという内容でしたが、いかんせん書いているうちにネタ切れが目立つようになり、最近ではめっきり書かなくなりました。一応、本気で探せばまだまだ旧日本海軍の小沢治三郎とかもいるんだけど、評価が非常に難しい上に知っている人にはよく知られていて一概にマイナーとは言い切れない人ばかりなため書くに書けず、目下のところ再開の目処が立っていません。
じゃあこれから歴史記事は何を書いてこうかとPSPの「絶体絶命都市3」(クソゲー)しながら考えてたわけですが、前にも一度企画してやらずにいた、外国人に絞った日本史上の人物を取り上げていこうとかと思って今回こうしてまた連載を立ち上げることにしました。
概して日本史は基本的に日本人の視点から語られることが多いですが、その過程では非常に多くの外国人が登場して中には後世に大きな影響を残した人物も少なくありません。そうした外国人らを彼らの生い立ちなどといった背景とともに解説することで、日本史にない世界史の要素も取り込め、何か見えて来るものがあるんじゃないかと密かに考えています。
そんな御託を語った上での第一回目に取り上げる人物として、敢えてクラーク博士を選ぶことにしました。
・ウィリアム・スミス・クラーク(Wikipedia)
日本ではクラーク博士が一般的なのでこれで通しますが、「少年よ、大志を抱け」のセリフで有名な、札幌農学校(現北海道大学)にやってきたいわゆる「お雇い外国人」です。
ウィキペディアによると彼の専攻は園芸学、植物学、鉱物学だったようですが、明治初期の日本はクラーク博士に限らず農業技術関係を専門とする外国人を数多く雇っております。思うに当時の日本の人材レベルでは重工業はおろか軽工業も伸ばせる余力もなく、一次産業系の技術者が重宝されたのだと思います。ただ前にどこかで見た話だと、こうして招聘したお雇い外国人らには専門以外にも理化学、それこそ今の日本が小学校で習うような磁石の性質とか酸素の作り方といった初歩的な内容も指導させていたそうです。
話を戻しますがクラーク博士はアメリカ出身の学者で日本に来る前はアーモスト大学で教授をしていたところ、当時に同じ大学に在学していた新島襄の推薦を受け日本政府の招聘を受けます。こうした日本の招きに応じたクラーク博士は北海道にやってきて8ヶ月だけ滞在して帰国しますが、札幌農学校が出来たばかりということもあってこの間のクラーク博士の指導は強く根付いたそうです。その一つの例としてクラーク博士から直接指導を受けた一期生のみならず後の二期生らも次々とキリスト教に改宗しており、日本プロテスタントの三大源流の一つである札幌バンドという集団へと発展していきます。
ちなみに札幌農学校二期生についてですが、この中には後に不敬事件しょっぴかれることとなる内村鑑三と、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造が入っています。二人は一見すると反体制派と体制派というように後の人生は相反する立場に属したように見えますが、具体的なエピソードは忘れましたが以前に新渡戸の言行録を見た際にこの人も非常に反発心が強い人間のように感じられ、やはり内村鑑三とは根っこを同じくする人間だという印象を覚えたことがあります。
なんだか話が行ったり来たりしますが、クラーク博士はあの有名な「少年よ、大志を抱け」という言葉を残してアメリカへと帰国しました。ただ帰国後についてはあまり取り上げられる、というか語られることが非常に少ないのですが、彼はこの言葉を実践したとでもいうべきかなんとアメリカで鉱山会社を設立するという大きな賭けに撃って出ています。この鉱山会社は当初は儲かったそうですが最終的には破産し、しかもその負債がクラーク博士にも重くのしかかって晩年は裁判で訴えられたりと結構大変だったそうです。
そんなわけで何が言いたかったというと、野心があっても必ずしも幸福な老後を過ごせるわけじゃないと、そんなことを言いたくクラーク博士を選んだわけです。一回目の記事でこんなオチにするのも、なんか妙な感じがしますが。
じゃあこれから歴史記事は何を書いてこうかとPSPの「絶体絶命都市3」(クソゲー)しながら考えてたわけですが、前にも一度企画してやらずにいた、外国人に絞った日本史上の人物を取り上げていこうとかと思って今回こうしてまた連載を立ち上げることにしました。
概して日本史は基本的に日本人の視点から語られることが多いですが、その過程では非常に多くの外国人が登場して中には後世に大きな影響を残した人物も少なくありません。そうした外国人らを彼らの生い立ちなどといった背景とともに解説することで、日本史にない世界史の要素も取り込め、何か見えて来るものがあるんじゃないかと密かに考えています。
そんな御託を語った上での第一回目に取り上げる人物として、敢えてクラーク博士を選ぶことにしました。
・ウィリアム・スミス・クラーク(Wikipedia)
日本ではクラーク博士が一般的なのでこれで通しますが、「少年よ、大志を抱け」のセリフで有名な、札幌農学校(現北海道大学)にやってきたいわゆる「お雇い外国人」です。
ウィキペディアによると彼の専攻は園芸学、植物学、鉱物学だったようですが、明治初期の日本はクラーク博士に限らず農業技術関係を専門とする外国人を数多く雇っております。思うに当時の日本の人材レベルでは重工業はおろか軽工業も伸ばせる余力もなく、一次産業系の技術者が重宝されたのだと思います。ただ前にどこかで見た話だと、こうして招聘したお雇い外国人らには専門以外にも理化学、それこそ今の日本が小学校で習うような磁石の性質とか酸素の作り方といった初歩的な内容も指導させていたそうです。
話を戻しますがクラーク博士はアメリカ出身の学者で日本に来る前はアーモスト大学で教授をしていたところ、当時に同じ大学に在学していた新島襄の推薦を受け日本政府の招聘を受けます。こうした日本の招きに応じたクラーク博士は北海道にやってきて8ヶ月だけ滞在して帰国しますが、札幌農学校が出来たばかりということもあってこの間のクラーク博士の指導は強く根付いたそうです。その一つの例としてクラーク博士から直接指導を受けた一期生のみならず後の二期生らも次々とキリスト教に改宗しており、日本プロテスタントの三大源流の一つである札幌バンドという集団へと発展していきます。
ちなみに札幌農学校二期生についてですが、この中には後に不敬事件しょっぴかれることとなる内村鑑三と、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造が入っています。二人は一見すると反体制派と体制派というように後の人生は相反する立場に属したように見えますが、具体的なエピソードは忘れましたが以前に新渡戸の言行録を見た際にこの人も非常に反発心が強い人間のように感じられ、やはり内村鑑三とは根っこを同じくする人間だという印象を覚えたことがあります。
なんだか話が行ったり来たりしますが、クラーク博士はあの有名な「少年よ、大志を抱け」という言葉を残してアメリカへと帰国しました。ただ帰国後についてはあまり取り上げられる、というか語られることが非常に少ないのですが、彼はこの言葉を実践したとでもいうべきかなんとアメリカで鉱山会社を設立するという大きな賭けに撃って出ています。この鉱山会社は当初は儲かったそうですが最終的には破産し、しかもその負債がクラーク博士にも重くのしかかって晩年は裁判で訴えられたりと結構大変だったそうです。
そんなわけで何が言いたかったというと、野心があっても必ずしも幸福な老後を過ごせるわけじゃないと、そんなことを言いたくクラーク博士を選んだわけです。一回目の記事でこんなオチにするのも、なんか妙な感じがしますが。
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