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2011年11月15日火曜日

日本に影響を残した外国人~クラーク博士

 私のブログのキラーコンテンツとしてあり続けたのは、歴史カテゴリに含まれる「猛将列伝」という一連の記事でした。この記事は、「実力はあったんだけどいまいちマイナーな武将、指揮官」を取り上げるという内容でしたが、いかんせん書いているうちにネタ切れが目立つようになり、最近ではめっきり書かなくなりました。一応、本気で探せばまだまだ旧日本海軍の小沢治三郎とかもいるんだけど、評価が非常に難しい上に知っている人にはよく知られていて一概にマイナーとは言い切れない人ばかりなため書くに書けず、目下のところ再開の目処が立っていません。

 じゃあこれから歴史記事は何を書いてこうかとPSPの「絶体絶命都市3」(クソゲー)しながら考えてたわけですが、前にも一度企画してやらずにいた、外国人に絞った日本史上の人物を取り上げていこうとかと思って今回こうしてまた連載を立ち上げることにしました。
 概して日本史は基本的に日本人の視点から語られることが多いですが、その過程では非常に多くの外国人が登場して中には後世に大きな影響を残した人物も少なくありません。そうした外国人らを彼らの生い立ちなどといった背景とともに解説することで、日本史にない世界史の要素も取り込め、何か見えて来るものがあるんじゃないかと密かに考えています。

 そんな御託を語った上での第一回目に取り上げる人物として、敢えてクラーク博士を選ぶことにしました。

ウィリアム・スミス・クラーク(Wikipedia)

 日本ではクラーク博士が一般的なのでこれで通しますが、「少年よ、大志を抱け」のセリフで有名な、札幌農学校(現北海道大学)にやってきたいわゆる「お雇い外国人」です。
 ウィキペディアによると彼の専攻は園芸学、植物学、鉱物学だったようですが、明治初期の日本はクラーク博士に限らず農業技術関係を専門とする外国人を数多く雇っております。思うに当時の日本の人材レベルでは重工業はおろか軽工業も伸ばせる余力もなく、一次産業系の技術者が重宝されたのだと思います。ただ前にどこかで見た話だと、こうして招聘したお雇い外国人らには専門以外にも理化学、それこそ今の日本が小学校で習うような磁石の性質とか酸素の作り方といった初歩的な内容も指導させていたそうです。

 話を戻しますがクラーク博士はアメリカ出身の学者で日本に来る前はアーモスト大学で教授をしていたところ、当時に同じ大学に在学していた新島襄の推薦を受け日本政府の招聘を受けます。こうした日本の招きに応じたクラーク博士は北海道にやってきて8ヶ月だけ滞在して帰国しますが、札幌農学校が出来たばかりということもあってこの間のクラーク博士の指導は強く根付いたそうです。その一つの例としてクラーク博士から直接指導を受けた一期生のみならず後の二期生らも次々とキリスト教に改宗しており、日本プロテスタントの三大源流の一つである札幌バンドという集団へと発展していきます。

 ちなみに札幌農学校二期生についてですが、この中には後に不敬事件しょっぴかれることとなる内村鑑三と、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造が入っています。二人は一見すると反体制派と体制派というように後の人生は相反する立場に属したように見えますが、具体的なエピソードは忘れましたが以前に新渡戸の言行録を見た際にこの人も非常に反発心が強い人間のように感じられ、やはり内村鑑三とは根っこを同じくする人間だという印象を覚えたことがあります。

 なんだか話が行ったり来たりしますが、クラーク博士はあの有名な「少年よ、大志を抱け」という言葉を残してアメリカへと帰国しました。ただ帰国後についてはあまり取り上げられる、というか語られることが非常に少ないのですが、彼はこの言葉を実践したとでもいうべきかなんとアメリカで鉱山会社を設立するという大きな賭けに撃って出ています。この鉱山会社は当初は儲かったそうですが最終的には破産し、しかもその負債がクラーク博士にも重くのしかかって晩年は裁判で訴えられたりと結構大変だったそうです。
 そんなわけで何が言いたかったというと、野心があっても必ずしも幸福な老後を過ごせるわけじゃないと、そんなことを言いたくクラーク博士を選んだわけです。一回目の記事でこんなオチにするのも、なんか妙な感じがしますが。

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