この記事でようやく経済学的な失われた十年の分析は終わりです。もともとここまでの内容は他でも行われているので敢えて私がやる必要もなく、本音を言うと次回辺りから書き始めるこの時期の社会状況の方が書く側としても非常に楽しみです。
前回では失われた十年における「平成不況」において、日本の景気を決定的に悪化させるに至った97年の転機について解説しました。その後の日本の経済状況についてはリストラ、合併の嵐で、構造的にも97年から大体03年までの間に日本の社会構造は大きく変換を余儀なくされました。その代表例の一つともいえるが日本の銀行で、今のアメリカの金融機関のように生き残りをかけて各銀行はこの時期にお互いに合併を繰り返した結果、現在において三大メガバンクと呼ばれる三つの銀行に主要行としての機能がほぼ集約されるようになりました。それで、その現三大メガバンクがどのように構成されたのかを列記すると、
・みずほ銀行 (第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行)
・三菱東京UFJ銀行 (三菱銀行・東京銀行・三和銀行・東海銀行)
・三井住友銀行 (住友銀行・さくら銀行)
と、こうして書いて見るとほんのちょっと前まで日本にはたくさん銀行があったことがわかります。今でこそ思いますが、以前の日本人はこんなに銀行があるのにどうやって振込とか送金とかしていたんだろう。非常に面倒くさそうな気がするのですが。
他の業界でもこの銀行業界のように合併が繰り返され、その度に吸収される会社の側では大幅な人員カットことリストラが行われたと言います。その結果失業率も増えるなどして一時的に日本社会は大きく暗く落ち込みましたが、敢えて前向きに取るならこの時の苦しみの経験が今のまだマシな状況を作ったのだと亘がるのなら、決して無駄な時代ではなかったと思えます。
それでこの平成不況がいつ、どのようにして終わったかですが、これについては私が以前に書いた「竹中平蔵の功罪~陽編~」(http://imogayu.blogspot.com/2008/08/blog-post_02.html)の中で書いてあるので、そちらをご覧ください。正直言ってこの記事は恐らく一番私も力を入れて書いた記事なので、本音を言えばもっと高く評価されてもいいと思ってます。
ここまででこの平成不況の大まかな概要はほとんど書き終えているのですが、それでは何故これほど長い間日本で不況が続いたのかがまだ疑問として残ります。これまでの記事の中にもちょっとずつその原因を挙げてはいるのですがここで簡単にそれをまとめると、まず第一に政府の政策ミスが挙がってきます。政府としてはバブル崩壊以後の企業の業績不振を単純に、「個人消費の停滞」と判断し、個人消費を浮揚させるために散々公共事業を行いましたがこれは根本的な間違いであり、現在において実際の不況の原因は信用不安にあったとほぼ断定されております。
この信用不安とはちょうど今アメリカで起こっている経済問題がこれで、お金を貸しても物を売っても、その企業がお金を自分のところに返すか払う前に潰れてしまうのではないかと互いに尻込み、資金の流通が滞ってしまうことを指しています。日本の場合はそれまで資金融資の担保となっていた土地に代表される不動産の価格が大きく目減りしてしまい、金融機関としても損失を明るみにさせないために無理やり融資した資金を取り立てずに不良債権をどんどんと抱え込んだのが不況を長引かせた原因とされています。なので竹中氏がこの不良債権を徹底的に減らした途端に、まぁ中国の景気に引っ張られたのもありますが日本の景気も復活したわけです。
こうした不況原因の特定ミスともう一つ、この不況を長引かせた原因となったのは根強かった日本経済への楽観論でしょう。
当初、バブル期は異常ではあったがしばらくすればまた日本の景気はよくなるだろうという楽観論は非常に強かったと思います。その根拠として、当時の各政策決定者たちも不況が始まった当初から不良債権を問題視していたのですが、ひとまず公共事業をやって景気が落ち着いてから対処しようと、皆が皆この問題を先送りにしていた事実があります。この時の状況をたとえて言うなら、火事が起きているのに火元を消さず、自分の周りにだけ水を撒いているようなもんですね。
何故こうした楽観論が根強かったのか私の考えを言わせてもらうと、やはりバブル期以前に経済大国としての地位を固めたことにより日本人全体で経済に対して強いうぬぼれが生まれた気がします。逆を言えば相当に自信を持っていたために、現実の経済として通用しないことがはっきりした97年の転機によって今度はものすごい自信を失って日本式経営への批判が急に巻き起こっています。そこら辺は次回で解説しますが、こういったことから不況になった当初、真面目に不況対策を考えていなかったのが裏目に出たのだと私は考えています。
そして最後に、これなんかまんま私の持論なのですが、この連載の「その六、ポストモダンとデフレ」で書いたように日本においてポストモダン化現象が起きたのも原因として考えてもいいと思います。結構さらりと書いてはいますが我ながらなかなか重要なポイントを突いていると自信をもって公開してはいるものの、反響が少なく一人で落ち込んでおります。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年11月7日金曜日
筑紫哲也氏の死亡報道について
今日また例によって知り合いの上海人からこのネタに書いてほしいとリクエストを受けたので、ちょっと思うところを書いて見ます。
・筑紫哲也氏が死去 「NEWS23」メーンキャスター(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081107-00000583-san-soci)(YAHOOニュース)
相変わらずこっちではリンクが貼れません。いい加減、とっととFC2の方に本拠地移そうかな。
それで本題ですが、いきなり結論から入ると、私は今でも何故この筑紫氏が著名なニュースキャスターとしていられたのか不思議でしょうがありません。ちょっと調べてみると80年代に若者論を出して一気に有名になったということなのでその時代を知らない私だからこういう感想を持つのかもしれませんが、少なくともまだ「ニュース23」に出ていた頃の、番組後半に筑紫氏が時事問題について自分の意見を紹介する多事総論を見ていて参考になったことは、私においてただの一回もありませんでした。
敢えて筑紫氏の発言や意見を私なりに分析すると、こういうのもなんですが毎回非常に曖昧な結論に終わることが非常に多かったように思えます。なんか他でもあれこれかかれていますが、どうもこの人はしっかりとした意見なんてものは持っておらず、その場その場で周りに都合のいい意見ばかり言っていたんじゃないかとすら思います。それで自分の意見を言う際には、どこにも角が立たないようにそれこそどっちとも取れるように言葉で濁してたんだと思います。
しかし言うまでもなく、それは言論人としてはなはだしく恥ずかしいことです。あまり一つの意見に偏りすぎるのも問題ですが、基本的に言論人は自分の考えを提示することで視聴者に対して物事を見るモデルを与えるのが仕事です。にもかかわらず筑紫氏はモデルを提示しないあまりか、時局によってころころ意見を変えるなどもってのほかです。
生前にも何故こんな人間がマスコミの大御所気取って存在していられるのか、怒りまでは覚えませんでしたが世の中は変に出来ているなとは前から感じていました。それならばもっと他にもいいキャスターもたくさんいますし、特に「ニュース23」に至ってはこの筑紫氏が引退して今のキャスターの後藤謙次氏に代わって非常にいい番組になったとすら思います。何気にテレビニュースはTBSが一番幅広く、バランスよくやってくれるので結構重宝してます。フジテレビは深くニュースを解説してくれるますが分野は幅広くはなく、日テレに至っては論外ですし。
・筑紫哲也氏が死去 「NEWS23」メーンキャスター(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081107-00000583-san-soci)(YAHOOニュース)
相変わらずこっちではリンクが貼れません。いい加減、とっととFC2の方に本拠地移そうかな。
それで本題ですが、いきなり結論から入ると、私は今でも何故この筑紫氏が著名なニュースキャスターとしていられたのか不思議でしょうがありません。ちょっと調べてみると80年代に若者論を出して一気に有名になったということなのでその時代を知らない私だからこういう感想を持つのかもしれませんが、少なくともまだ「ニュース23」に出ていた頃の、番組後半に筑紫氏が時事問題について自分の意見を紹介する多事総論を見ていて参考になったことは、私においてただの一回もありませんでした。
敢えて筑紫氏の発言や意見を私なりに分析すると、こういうのもなんですが毎回非常に曖昧な結論に終わることが非常に多かったように思えます。なんか他でもあれこれかかれていますが、どうもこの人はしっかりとした意見なんてものは持っておらず、その場その場で周りに都合のいい意見ばかり言っていたんじゃないかとすら思います。それで自分の意見を言う際には、どこにも角が立たないようにそれこそどっちとも取れるように言葉で濁してたんだと思います。
しかし言うまでもなく、それは言論人としてはなはだしく恥ずかしいことです。あまり一つの意見に偏りすぎるのも問題ですが、基本的に言論人は自分の考えを提示することで視聴者に対して物事を見るモデルを与えるのが仕事です。にもかかわらず筑紫氏はモデルを提示しないあまりか、時局によってころころ意見を変えるなどもってのほかです。
生前にも何故こんな人間がマスコミの大御所気取って存在していられるのか、怒りまでは覚えませんでしたが世の中は変に出来ているなとは前から感じていました。それならばもっと他にもいいキャスターもたくさんいますし、特に「ニュース23」に至ってはこの筑紫氏が引退して今のキャスターの後藤謙次氏に代わって非常にいい番組になったとすら思います。何気にテレビニュースはTBSが一番幅広く、バランスよくやってくれるので結構重宝してます。フジテレビは深くニュースを解説してくれるますが分野は幅広くはなく、日テレに至っては論外ですし。
2008年11月6日木曜日
失われた十年とは~その七、転換点~
久しぶりの連載記事です。前から書こう書こうと思っているのですが、別の記事を片付けていると途端にものすごい疲労感があってこの三日間は手が出せませんでした。別に何かで忙しいとかそういうことはないのですが、ぶっちゃけ今も疲労がものすごくてへとへとになりながら書いてます。
それでは今日は失われた十年全体において、その年を以って前期後期と分けるような象徴的な一年となった97年について解説します。
この連載の四回目の「個人消費」についての記事で私は、失われた十年の前半期は企業業績が全般的に落ち込みながらも、世界的にも歴史的にも珍しく当時の日本では個人消費はなかなか下降しなかったと解説しました。そしてこの経済の中で唯一好調だった個人消費が落ち込むことでこの時代の平成不況は本格的に深刻さを表してくるのですが、ちょうどこの97年が個人消費が落ち込み始めるようになった年であるのです。
では何故97年に個人消費が落ち込み始めたのかですが、以前の記事で解説したように世帯ごとの貯金が減っていったなどの継続的な理由もありますが、やはり一番の引き金となったのはこの年より施行された消費税のそれまでの3%から5%への引き上げです。これによって日本全体で物価が底上げされて個人消費が激減したことにより、日本は企業業績が悪化する一方で物価は上がる「スタグフレーション」という、名実ともに底なしの不況へと突入していきました。
政治界でもこの消費税増税による反発によって自民党の支持が急激に減ったためにこの年の参議院選挙で自民党は大敗し、当時の橋本龍太郎首相も退陣を余儀なくされています。もともとこの消費税の増税は世界中の経済学者が時期的に不適当だと批判されながらも橋本首相が強行した政策であり、結果的には橋本氏のそれが命取りとなったのですから皮肉なものです。なお私自身の橋本元首相への評価をここで紹介すると、彼の在任中の業績は言われているほど低くはなく、特にこちらも強行して取り組んだ行政改革は日本の政治史においても大きな成果であり、これがなければ後年の小泉改革により一時的な成功もなかったものと私は確信しています。もっとも既に書いたように消費税の増税のタイミングは本当に最悪のタイミングであり、この増税を実行したことについての非難はやむを得ないでしょう。
何はともあれこの年になるとしばらくすればまた景気は回復するだろうとの楽観論も完全に消えうせ、社会全体で先が見えない暗い雰囲気が立ち込め始めてきました。企業の方も上がらない業績に徐々に経営が追い詰められ、データで見てもリンクが貼れないのでアドレスだけ紹介すると東京商工リサーチ(http://www.tsr-net.co.jp/new/zenkoku/transit/index.html)のデータで、92年から96年までは企業倒産数は14000件台から15000件台の間にあるのが97年には一万六千件台に入り、その後も小渕政権でありえないくらいのバラ撒きが行われた99年を除いて18000件台から19000件台という非常に多い数字が2002年まで続きます。にしても、東京商工リサーチはいいデータを公開してくれている。帝国データバンクとは大違いだ。
そしてこの年の倒産といえばなにより、察しのいい人はもう勘付いていると思いますが、あの山一證券の倒産を抜きにして語ることは出来ないでしょう。
それまで野村、日興、大和と並んで四大証券と呼ばれ、日本を代表するエリートが集まると言われた大企業の一つ、山一證券がこの年に破綻をして本当に跡形もなくこの世からなくなってしまいました。この時に私は中学生でしたが、未だに当時の野澤正平社長が泣きながら記者会見で、
「みんな私たちが悪いんであって、社員は悪くありませんから! 善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います。優秀な社員がたくさんいます。ひとりでも再就職できるように応援してください」
と、思わず全文を引用してしまうほどの重みを持った訴えをしたのが目に浮かんできます。それほどまでにこの山一證券の破綻は日本社会に大きな影響を与え、もはや大企業といえども安心ではないと、この日を境に社会の空気が一変したと、当時の私ですら感じました。
また大企業の倒産と言えばこの山一證券が破綻した11月22日のほんの五日前、11月17日にはこちらもエリート街道まっしぐらと言われた北海道拓殖銀行が破綻しております。
このように、かつては誰もがうらやむ就職先と言われた大企業の連続した破綻が、日本人はもとより世界中にこの不況はただ事じゃないと強く知らしめました。そして本当に景気が申告に悪化していったために続々と中小企業も倒産してゆき、生き残った企業も合併や所有部門の売却、そして後で解説する社員のリストラの実行とタダでは生き残れない厳しい時代を歩むことになりました。
このように、全体の景気においても社会の空気においても、失われた十年においてもっとも重要な転換期に当たるのがこの97年、更に言えば山一證券が破綻した11月22日がすべての転換点に当たるとして、便宜上これ以前を前期、これ以降を後期として私は失われた十年の期間を二分しております。
前期はこれまでも語ってきたように「変なものが流行ったりしてなんとなくおかしな感じだけどまだまだ余裕」な頃で、後期は「皆で後ろ向き、フォーエバー!」ってな頃だと勝手に解釈しております。
不思議と、書き終わってみると書き始めの頃より元気になっています。
それでは今日は失われた十年全体において、その年を以って前期後期と分けるような象徴的な一年となった97年について解説します。
この連載の四回目の「個人消費」についての記事で私は、失われた十年の前半期は企業業績が全般的に落ち込みながらも、世界的にも歴史的にも珍しく当時の日本では個人消費はなかなか下降しなかったと解説しました。そしてこの経済の中で唯一好調だった個人消費が落ち込むことでこの時代の平成不況は本格的に深刻さを表してくるのですが、ちょうどこの97年が個人消費が落ち込み始めるようになった年であるのです。
では何故97年に個人消費が落ち込み始めたのかですが、以前の記事で解説したように世帯ごとの貯金が減っていったなどの継続的な理由もありますが、やはり一番の引き金となったのはこの年より施行された消費税のそれまでの3%から5%への引き上げです。これによって日本全体で物価が底上げされて個人消費が激減したことにより、日本は企業業績が悪化する一方で物価は上がる「スタグフレーション」という、名実ともに底なしの不況へと突入していきました。
政治界でもこの消費税増税による反発によって自民党の支持が急激に減ったためにこの年の参議院選挙で自民党は大敗し、当時の橋本龍太郎首相も退陣を余儀なくされています。もともとこの消費税の増税は世界中の経済学者が時期的に不適当だと批判されながらも橋本首相が強行した政策であり、結果的には橋本氏のそれが命取りとなったのですから皮肉なものです。なお私自身の橋本元首相への評価をここで紹介すると、彼の在任中の業績は言われているほど低くはなく、特にこちらも強行して取り組んだ行政改革は日本の政治史においても大きな成果であり、これがなければ後年の小泉改革により一時的な成功もなかったものと私は確信しています。もっとも既に書いたように消費税の増税のタイミングは本当に最悪のタイミングであり、この増税を実行したことについての非難はやむを得ないでしょう。
何はともあれこの年になるとしばらくすればまた景気は回復するだろうとの楽観論も完全に消えうせ、社会全体で先が見えない暗い雰囲気が立ち込め始めてきました。企業の方も上がらない業績に徐々に経営が追い詰められ、データで見てもリンクが貼れないのでアドレスだけ紹介すると東京商工リサーチ(http://www.tsr-net.co.jp/new/zenkoku/transit/index.html)のデータで、92年から96年までは企業倒産数は14000件台から15000件台の間にあるのが97年には一万六千件台に入り、その後も小渕政権でありえないくらいのバラ撒きが行われた99年を除いて18000件台から19000件台という非常に多い数字が2002年まで続きます。にしても、東京商工リサーチはいいデータを公開してくれている。帝国データバンクとは大違いだ。
そしてこの年の倒産といえばなにより、察しのいい人はもう勘付いていると思いますが、あの山一證券の倒産を抜きにして語ることは出来ないでしょう。
それまで野村、日興、大和と並んで四大証券と呼ばれ、日本を代表するエリートが集まると言われた大企業の一つ、山一證券がこの年に破綻をして本当に跡形もなくこの世からなくなってしまいました。この時に私は中学生でしたが、未だに当時の野澤正平社長が泣きながら記者会見で、
「みんな私たちが悪いんであって、社員は悪くありませんから! 善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います。優秀な社員がたくさんいます。ひとりでも再就職できるように応援してください」
と、思わず全文を引用してしまうほどの重みを持った訴えをしたのが目に浮かんできます。それほどまでにこの山一證券の破綻は日本社会に大きな影響を与え、もはや大企業といえども安心ではないと、この日を境に社会の空気が一変したと、当時の私ですら感じました。
また大企業の倒産と言えばこの山一證券が破綻した11月22日のほんの五日前、11月17日にはこちらもエリート街道まっしぐらと言われた北海道拓殖銀行が破綻しております。
このように、かつては誰もがうらやむ就職先と言われた大企業の連続した破綻が、日本人はもとより世界中にこの不況はただ事じゃないと強く知らしめました。そして本当に景気が申告に悪化していったために続々と中小企業も倒産してゆき、生き残った企業も合併や所有部門の売却、そして後で解説する社員のリストラの実行とタダでは生き残れない厳しい時代を歩むことになりました。
このように、全体の景気においても社会の空気においても、失われた十年においてもっとも重要な転換期に当たるのがこの97年、更に言えば山一證券が破綻した11月22日がすべての転換点に当たるとして、便宜上これ以前を前期、これ以降を後期として私は失われた十年の期間を二分しております。
前期はこれまでも語ってきたように「変なものが流行ったりしてなんとなくおかしな感じだけどまだまだ余裕」な頃で、後期は「皆で後ろ向き、フォーエバー!」ってな頃だと勝手に解釈しております。
不思議と、書き終わってみると書き始めの頃より元気になっています。
技術者不足を解消するには
なんかこのところ、ブログを書き始めると毎日のように激しい疲労を憶えます。一番の原因は本店のブロガーの方で未だにリンクが貼れない事にイライラするからだと思いますが、それを推しても異様な疲労感です。なんかほかにあるのかな。
それで本題に移りますが、既にもう何年も前から、日本では若者の理系離れが問題視されています。近年は以前と比べて理系の学部、学科に進学する学生数が減る一方で、さらに団塊の世代の大量退職を迎えてこれまで世界に高く評価されてきた日本の技術の継承が行われずに失われてしまうと懸念されています。
そのため政府としてもなんとしても現役高校生の理系離れを食い止めるためにいろんなイベントを催したり、税金の無駄遣いと言われながらも東京都内に三つも科学博物館を作るなどしてこの流れに歯止めをかけようとしていますが、効果は一向に現れずに現在に至っても理系への進学者は減る一方で、また現役世代への技術の継承もうまくいっていないとも伝えられています。
まず政府の対応ですが、こういうのもなんですが真面目にやっているのか非常に疑わしいです。現在においても文系卒者と理系卒者で生涯年収には大きな開きがあるといわれ、また俗に言われるポストドクター職の人間が有り余りすぎて問題になるほど人材をうまく社会に転用できていないなど、システム上の問題を解決しないで現役世代に理系に進むようにといってもそうはうまくはいかないに決まってます。
ちょっと本気で疲労感がやばいのでもう結論出しちゃいますが、私はこの際現役の高校生に理系教育を施すより、既に現役世代として社会人をやっている、文系の既卒者に対して高等教育を再び施すべきだと考えています。こう言うのも実はゆとり教育が背景にあり、以前に私塾経営者の方に聞いたのですが、以前の高校生と比べて近年の高校生は驚くほど数学の能力はもとより、計算能力でも劣っているという話を聞いており、基礎学力の観点からも現在の高校生、しかもあまり理系学部に興味を持たなくなった世代に理系高等教育を施したところで、果たしてうまく技術の継承が行えるのかという疑問があります。
それならば年齢的にも老、壮年層に当たる世代に近い上に詰め込み型教育を受けてきた世代の文系既卒者の中から技術系職転向を目指す者を集め、また一から鍛えなおした方が技術継承を行う上では適当だと考えています。
そういう意味で、まだ割と新しいにもかかわらずすっかり社会に定着した法科大学院ことロウスクールなどよりも、文型既卒者でも気軽に入れて徹底的に鍛えなおす理科大学院のような教育施設を設置することの方が社会的価値は高い気がします。そしたら名前は理科=サイエンスだから「サイスクール」とでも言うのかな、それとも技術=テクニックで、「テックスクール」かな。こっちだとなんか情報系の専門学校にしか聞こえないけど。
それで本題に移りますが、既にもう何年も前から、日本では若者の理系離れが問題視されています。近年は以前と比べて理系の学部、学科に進学する学生数が減る一方で、さらに団塊の世代の大量退職を迎えてこれまで世界に高く評価されてきた日本の技術の継承が行われずに失われてしまうと懸念されています。
そのため政府としてもなんとしても現役高校生の理系離れを食い止めるためにいろんなイベントを催したり、税金の無駄遣いと言われながらも東京都内に三つも科学博物館を作るなどしてこの流れに歯止めをかけようとしていますが、効果は一向に現れずに現在に至っても理系への進学者は減る一方で、また現役世代への技術の継承もうまくいっていないとも伝えられています。
まず政府の対応ですが、こういうのもなんですが真面目にやっているのか非常に疑わしいです。現在においても文系卒者と理系卒者で生涯年収には大きな開きがあるといわれ、また俗に言われるポストドクター職の人間が有り余りすぎて問題になるほど人材をうまく社会に転用できていないなど、システム上の問題を解決しないで現役世代に理系に進むようにといってもそうはうまくはいかないに決まってます。
ちょっと本気で疲労感がやばいのでもう結論出しちゃいますが、私はこの際現役の高校生に理系教育を施すより、既に現役世代として社会人をやっている、文系の既卒者に対して高等教育を再び施すべきだと考えています。こう言うのも実はゆとり教育が背景にあり、以前に私塾経営者の方に聞いたのですが、以前の高校生と比べて近年の高校生は驚くほど数学の能力はもとより、計算能力でも劣っているという話を聞いており、基礎学力の観点からも現在の高校生、しかもあまり理系学部に興味を持たなくなった世代に理系高等教育を施したところで、果たしてうまく技術の継承が行えるのかという疑問があります。
それならば年齢的にも老、壮年層に当たる世代に近い上に詰め込み型教育を受けてきた世代の文系既卒者の中から技術系職転向を目指す者を集め、また一から鍛えなおした方が技術継承を行う上では適当だと考えています。
そういう意味で、まだ割と新しいにもかかわらずすっかり社会に定着した法科大学院ことロウスクールなどよりも、文型既卒者でも気軽に入れて徹底的に鍛えなおす理科大学院のような教育施設を設置することの方が社会的価値は高い気がします。そしたら名前は理科=サイエンスだから「サイスクール」とでも言うのかな、それとも技術=テクニックで、「テックスクール」かな。こっちだとなんか情報系の専門学校にしか聞こえないけど。
2008年11月5日水曜日
オバマ氏の当選について
まだ本店の方でリンクが貼れなくなったことに怒りが収まらないのですが、本日アメリカで次期大統領選挙が行われて各地の予想通りにオバマ候補が当選しました。
友人の上海人などはこれまでのブッシュ政権は日本寄りであったから、アジア政策について中国寄りだといわれる民主党の候補が勝った事に素直に喜んでいます。実際にオバマ次期大統領は日本に対する言及は選挙期間中にも少なく、逆に中国については北朝鮮政策などにおいて重要なパートナーとなるなどと多く発言しており、私としても今後のアメリカのアジア政策には転換が起こるだろうと予想しています。
それよりも、本当はここでリンクを貼らなければいけないのですが何度も言っているようにそれが出来ないので文面で書くと、かなり以前の私の記事で、現在のアメリカの人口で白人とその他の有色人種の比率が既に6:4まで来ているらしいです。それで当時はこのまま行くと移民もどんどんとやってきて、また社会的に貧困層が多い有色人種の家は多産の傾向があり、あと数十年以内に人口比で過半数を逆転するだろうと予想しました。そしてそうなった際、人口の影響で議会に送り込まれる代議士も有色人種の意見を代表する者が増え、アメリカ世界の主導権も逆転するのではと書き、それに対してWASPこと白人有力者層はきっと選挙区の配置をいじるなどして恐らく主導権を譲ることに抵抗を見せるだろうと書いたのですが、まぁこの予想はいろんな意味で外れて、最高権力者に今回いきなり有色人種出身のオバマ氏が来てしまいました。
個人的な意見を言わせてもらうと、今回の選挙はアメリカにとっても非常に大きな転機になると思います。日本で言うのならそれこそ在日韓国人の方や在日中国人のような人が総理大臣になるようなもので、人種的な壁を乗り越え、実力者が相応の地位に就くべきというアメリカの精神がついに政治権力にまで及んだといえるでしょう。
恐らく批判される方もおられるでしょうが、私は外国人だろうと宇宙人なんだろうと、本当に日本のことを考えてくれ実力を持つ方ならば相応の地位につくべきだと考えており、現在日本でも問題になっている、在日韓国人などに代表される外国籍永住者の方の地方参政権については認めるべきだという立場におります。こういうのも、そもそも私自身が一般的な日本人の姿から外れていることからこれまで相当に社会的に痛めつけられた経験からの僻みも原因でしょうが、日本人の中だけで果たして本当に優秀な人材を確保できるのかという疑問があるからです。現在の政治問題にしろ社会の情勢を見ていても、この人だったらどんな問題でも解決してくれるのにとはっきりと確信させてくれるような人材が全く見当たりません。
そんな状況下で、私は日本人という枠にこだわっている場合ではない気がします。かつての歴史でも、出身にこだわらずに優秀だとわかる人材を抜擢して言った人間はその後成功しております。そして地域社会においても、投票ができるかどうかというのは当該社会の団結においても非常に大きな役割を持っております。アメリカはよく人種問題で取り上げられる国ですが、それはこの問題に真正面から取り組んできたことの現れであり、この問題を避け続けた日本とは違うからでしょう。
折も折で、日本も本当に、真剣に移民について議論しなければならない時期に来ています。外国人の社会の扱いについて、以前に書いた二重国籍の問題と合わせて考えを深めねばならない時に来ているでしょう。なんせいざ実際に日本が大変になった時に、「僕はムーンレイスなんですよー!」って言う人も出てくるかもしれないんだし。
友人の上海人などはこれまでのブッシュ政権は日本寄りであったから、アジア政策について中国寄りだといわれる民主党の候補が勝った事に素直に喜んでいます。実際にオバマ次期大統領は日本に対する言及は選挙期間中にも少なく、逆に中国については北朝鮮政策などにおいて重要なパートナーとなるなどと多く発言しており、私としても今後のアメリカのアジア政策には転換が起こるだろうと予想しています。
それよりも、本当はここでリンクを貼らなければいけないのですが何度も言っているようにそれが出来ないので文面で書くと、かなり以前の私の記事で、現在のアメリカの人口で白人とその他の有色人種の比率が既に6:4まで来ているらしいです。それで当時はこのまま行くと移民もどんどんとやってきて、また社会的に貧困層が多い有色人種の家は多産の傾向があり、あと数十年以内に人口比で過半数を逆転するだろうと予想しました。そしてそうなった際、人口の影響で議会に送り込まれる代議士も有色人種の意見を代表する者が増え、アメリカ世界の主導権も逆転するのではと書き、それに対してWASPこと白人有力者層はきっと選挙区の配置をいじるなどして恐らく主導権を譲ることに抵抗を見せるだろうと書いたのですが、まぁこの予想はいろんな意味で外れて、最高権力者に今回いきなり有色人種出身のオバマ氏が来てしまいました。
個人的な意見を言わせてもらうと、今回の選挙はアメリカにとっても非常に大きな転機になると思います。日本で言うのならそれこそ在日韓国人の方や在日中国人のような人が総理大臣になるようなもので、人種的な壁を乗り越え、実力者が相応の地位に就くべきというアメリカの精神がついに政治権力にまで及んだといえるでしょう。
恐らく批判される方もおられるでしょうが、私は外国人だろうと宇宙人なんだろうと、本当に日本のことを考えてくれ実力を持つ方ならば相応の地位につくべきだと考えており、現在日本でも問題になっている、在日韓国人などに代表される外国籍永住者の方の地方参政権については認めるべきだという立場におります。こういうのも、そもそも私自身が一般的な日本人の姿から外れていることからこれまで相当に社会的に痛めつけられた経験からの僻みも原因でしょうが、日本人の中だけで果たして本当に優秀な人材を確保できるのかという疑問があるからです。現在の政治問題にしろ社会の情勢を見ていても、この人だったらどんな問題でも解決してくれるのにとはっきりと確信させてくれるような人材が全く見当たりません。
そんな状況下で、私は日本人という枠にこだわっている場合ではない気がします。かつての歴史でも、出身にこだわらずに優秀だとわかる人材を抜擢して言った人間はその後成功しております。そして地域社会においても、投票ができるかどうかというのは当該社会の団結においても非常に大きな役割を持っております。アメリカはよく人種問題で取り上げられる国ですが、それはこの問題に真正面から取り組んできたことの現れであり、この問題を避け続けた日本とは違うからでしょう。
折も折で、日本も本当に、真剣に移民について議論しなければならない時期に来ています。外国人の社会の扱いについて、以前に書いた二重国籍の問題と合わせて考えを深めねばならない時に来ているでしょう。なんせいざ実際に日本が大変になった時に、「僕はムーンレイスなんですよー!」って言う人も出てくるかもしれないんだし。
2008年11月4日火曜日
史実としての三国志
なんか今日のこの「ブロガー」は妙です。通常、記事を書く際の画面ではリンクボタンとか文字を太字にさせるボタンがあるのに今日は表示されません。まぁ使う予定がないからいいけど、何してんだグーグルは。
それでは本題ですが、昨日の史記の話を書いたところ三国志にはフィクションが多いと聞いたがという質問をコメントで受けましたが、これは実際かなり多いです。
まず基本知識として一般に三国志と呼ばれる書物には二種類あり、三国時代が終結した直後に陳寿によって書かれた歴史書の「三国志」がすべての原典で、これはもう一つの三国志と分けるために一般には「正史三国志」と呼ばれています。これに対して十四世紀に羅慣中によって脚色をふんだんに入れて書かれたのが「三国志演義」といって、通常三国志という場合はこっちの方を指します。フィクションが多いと言われるのもちろんこっちの方です。
それでは演義にどれくらいフィクションがあるかなのですが、現地中国においても清代の歴史学者の章学誠が、「七分が真実で三分が虚構」と評しており、書かれている内容の大半は確かに真実なのですがその中にちょびっとずつフィクションが入っているために非常に読者は混乱するとも先ほどの章学誠は述べています。実際に私から見ても大体この割合で演義は書かれており、そのためよく三国志を知っている方でもフィクションと知らずに実際の歴史だと思い込んでいるということが多々あります。
では具体的にどの辺がフィクションかですが、やっぱり代表的なのは今映画が公開されている「レッドクリフ」の題材となっている赤壁の戦いの辺りでしょう。演義の中では諸葛亮が風を呼んだり周喩を馬鹿にしたりなど鬼人の如き活躍を見せ、戦いも派手な火計で一挙に総崩れともなるほど大掛かりな戦闘となっていますが、現在の研究によるとこの赤壁の戦いで曹操軍が負けた最大の原因は疫病にあるとされ、また実際の戦闘でも諸葛亮はほとんど何もせず、実質周喩一人で曹操軍を蹴散らした戦いのようです。これは周喩に限るわけじゃありませんが、やっぱり諸葛亮が人気なために彼と相対する人間は相対的に実際の歴史より低く見積もられて書かれてしまいます。曹操軍についても同じように、特に夏候淳や夏候淵らは短慮な武将としてかかれ、実際は優秀な武将であったにもかかわらず引き立て役にされてしまっています。さすがに、張遼は悪く書かれていないけど。
この張遼ですが、私の中学時代の後輩なんかはこいつが一番好きでゲームでも贔屓して使っていました。この張遼は魏軍の中で呉との最前線に立って守り続けた武将で活躍のシーンも有り余るほどなのですが、彼の場合は非常に珍しく、演義でも活躍しているのに実際の歴史ではもっとすごい活躍をしています。
何でも呉軍が十万の軍勢を引き連れてきた際には自ら奇襲をかけ、なんと七百人の兵隊で追い返したらしいです。しかもその際に逃げ遅れた部下を見つけるや再び敵軍に突撃し、部下を拾ってから帰還したというのですから化け物です。
しかしそれにしても、一番演義で悪く書かれてしまって損を食ったのはまず間違いなく魏延でしょう。演義では劉備の元に初めてやってくるなり諸葛亮に、こいつは反骨の相があるからいつかきっと裏切るから殺してしまえとまで言われてしまいます。ちなみにこのシーンでは「ジョジョの奇妙な冒険」の名セリフがパロディされて、
「くせぇー、こいつは反骨の臭いがプンプンするぜっ! 早いとここいつの首を切っちまいな、劉備さん!」
というネタがあり、一人で大爆笑してしまいました。
実際にはこの魏延は劉備に深く信頼された知友兼備の武将で、劉備の絶頂期に魏から要衝の漢中を奪った際には皆劉備の義弟の張飛が太守となるだろうと思っていたところ、なんと劉備はこの魏延を大抜擢してその地を守らせています。しかし実際の歴史でも諸葛亮が死んだ際に魏に裏切ろうとして処刑されたため、演義では徹底的に腕力はあるが短慮な武将、たとえるならミニ張飛とも言うべき役柄に不当にもされてしまっています。
そして極めつけというべきか、私が現代日本三国志の一つのスタンダードとなっている横山光輝氏による漫画版三国志を友人に貸したところ最も多かった感想が、
「魏延、普通じゃんっ!」
っていうものでした。
というのも、近年一挙に三国志が広まるきっかけとなったゲームの「三国無双」シリーズで魏延は変な仮面を被って片言の言葉しかしゃべれない世にも奇妙なキャラクターにされてしまい、これから入った友人らはてっきり魏延は異民族などの出身者かと思っていたそうです。まぁ実際、初めて見た時に私もこれはひどいと思いました。「戦国無双」の上杉謙信は石原良純の顔にしか見えないし……。
それでは本題ですが、昨日の史記の話を書いたところ三国志にはフィクションが多いと聞いたがという質問をコメントで受けましたが、これは実際かなり多いです。
まず基本知識として一般に三国志と呼ばれる書物には二種類あり、三国時代が終結した直後に陳寿によって書かれた歴史書の「三国志」がすべての原典で、これはもう一つの三国志と分けるために一般には「正史三国志」と呼ばれています。これに対して十四世紀に羅慣中によって脚色をふんだんに入れて書かれたのが「三国志演義」といって、通常三国志という場合はこっちの方を指します。フィクションが多いと言われるのもちろんこっちの方です。
それでは演義にどれくらいフィクションがあるかなのですが、現地中国においても清代の歴史学者の章学誠が、「七分が真実で三分が虚構」と評しており、書かれている内容の大半は確かに真実なのですがその中にちょびっとずつフィクションが入っているために非常に読者は混乱するとも先ほどの章学誠は述べています。実際に私から見ても大体この割合で演義は書かれており、そのためよく三国志を知っている方でもフィクションと知らずに実際の歴史だと思い込んでいるということが多々あります。
では具体的にどの辺がフィクションかですが、やっぱり代表的なのは今映画が公開されている「レッドクリフ」の題材となっている赤壁の戦いの辺りでしょう。演義の中では諸葛亮が風を呼んだり周喩を馬鹿にしたりなど鬼人の如き活躍を見せ、戦いも派手な火計で一挙に総崩れともなるほど大掛かりな戦闘となっていますが、現在の研究によるとこの赤壁の戦いで曹操軍が負けた最大の原因は疫病にあるとされ、また実際の戦闘でも諸葛亮はほとんど何もせず、実質周喩一人で曹操軍を蹴散らした戦いのようです。これは周喩に限るわけじゃありませんが、やっぱり諸葛亮が人気なために彼と相対する人間は相対的に実際の歴史より低く見積もられて書かれてしまいます。曹操軍についても同じように、特に夏候淳や夏候淵らは短慮な武将としてかかれ、実際は優秀な武将であったにもかかわらず引き立て役にされてしまっています。さすがに、張遼は悪く書かれていないけど。
この張遼ですが、私の中学時代の後輩なんかはこいつが一番好きでゲームでも贔屓して使っていました。この張遼は魏軍の中で呉との最前線に立って守り続けた武将で活躍のシーンも有り余るほどなのですが、彼の場合は非常に珍しく、演義でも活躍しているのに実際の歴史ではもっとすごい活躍をしています。
何でも呉軍が十万の軍勢を引き連れてきた際には自ら奇襲をかけ、なんと七百人の兵隊で追い返したらしいです。しかもその際に逃げ遅れた部下を見つけるや再び敵軍に突撃し、部下を拾ってから帰還したというのですから化け物です。
しかしそれにしても、一番演義で悪く書かれてしまって損を食ったのはまず間違いなく魏延でしょう。演義では劉備の元に初めてやってくるなり諸葛亮に、こいつは反骨の相があるからいつかきっと裏切るから殺してしまえとまで言われてしまいます。ちなみにこのシーンでは「ジョジョの奇妙な冒険」の名セリフがパロディされて、
「くせぇー、こいつは反骨の臭いがプンプンするぜっ! 早いとここいつの首を切っちまいな、劉備さん!」
というネタがあり、一人で大爆笑してしまいました。
実際にはこの魏延は劉備に深く信頼された知友兼備の武将で、劉備の絶頂期に魏から要衝の漢中を奪った際には皆劉備の義弟の張飛が太守となるだろうと思っていたところ、なんと劉備はこの魏延を大抜擢してその地を守らせています。しかし実際の歴史でも諸葛亮が死んだ際に魏に裏切ろうとして処刑されたため、演義では徹底的に腕力はあるが短慮な武将、たとえるならミニ張飛とも言うべき役柄に不当にもされてしまっています。
そして極めつけというべきか、私が現代日本三国志の一つのスタンダードとなっている横山光輝氏による漫画版三国志を友人に貸したところ最も多かった感想が、
「魏延、普通じゃんっ!」
っていうものでした。
というのも、近年一挙に三国志が広まるきっかけとなったゲームの「三国無双」シリーズで魏延は変な仮面を被って片言の言葉しかしゃべれない世にも奇妙なキャラクターにされてしまい、これから入った友人らはてっきり魏延は異民族などの出身者かと思っていたそうです。まぁ実際、初めて見た時に私もこれはひどいと思いました。「戦国無双」の上杉謙信は石原良純の顔にしか見えないし……。
2008年11月3日月曜日
孟嘗君と馮驩
大分以前に友人に中国の歴史書の史記の話をしたところ、黙々と非常に面白がって聞いてくれたのでこのブログでもちょっと紹介してみようと思います。今回紹介するのは私が史記の中でも特に好きな話の一つである、孟嘗君(もうしょうくん)についてのエピソードです。
この孟嘗君というのは中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)における有名な四公子(公子というのは王の一族という意味)の一人で、食客と呼ばれる流浪の学者や武術家を3000人も養っていたといわれる人物です。
「夜を込めて 鳥のそら音をはかるとも 夜に逢坂の 関は許さじ」
この和歌は枕草子で有名な清少納言が作った和歌で、百人一首にも列せられている歌です。清少納言自体は随筆はうまくとも和歌は非常に下手で、何でも歌集の選者に自分の歌をねじこむのを頼みに行ったというエピソードがあるほどですが、この和歌はなかなかリズム感も良い出来のいい和歌だと思えます。
さてこの和歌の意味は置いとくとして、和歌の中の「夜を込めて鳥のそら音をはかるとも」という言葉ですが、これがまさに孟嘗君のエピソードに題を取った内容です。
孟嘗君は当時から非常に優秀な人物と名高い人物であったことから、すでに強国となり後に中国を初めて統一する秦国に出身地の斉国の使者として出向きました。そこで当時の秦王(始皇帝ではない)は孟嘗君の才を認めるのですが、かえって危機感を抱いてこの際殺してしまおうと考えました。その秦王の意を途中で察した孟嘗君でしたが、逃げようにも屋敷は既に兵隊に取り囲まれてどうすることも出来ませんでした。
そこで、秦王のお気に入りの妃に口添えしてもらおうと使者を出したところ、その妃は秦王に孟嘗君が謙譲した毛皮のコートをくれるならと条件を出します。しかしそのコートはすでに秦の国庫の中、さてどうしたものかと思っていたところに一緒に連れてきた食客たちのなかから一人が出てきて、
「なんなら、自分が盗んできましょう」
と言い出してきたそうです。
孟嘗君は先ほども言ったとおりに3000人もの食客を雇っており、それこそ一芸に秀でるなら誰でも片っ端から養ったので、中には「盗みなら任せろ」とか、「私は物まね名人です」という怪しい人間もいました。するとこの時に先ほどの盗みの達人が自ら声をあげ、その食客は見事に国庫からコートを盗み出してきて妃に献上し、その妃の口添えで孟嘗君たちは屋敷の包囲を解いてもらって秦を脱出することに成功しました。
しかし国境に着いた所、間を管理する関所が夜中のために閉じられており思わぬ足止めに遭いました。当時は朝にならないと関所は開かないことになっており、このままでは追っ手に追いつかれるとやきもきしていると、先ほどの今度は物まね名人が出てきて、鶏のまねをしてみようと孟嘗君に献策しました。早速やらせてみたところ、その食客の鳴き声に他の鶏も次々と呼応して鳴き声を出し、時計のない当時はその鶏の声を一日の始まりとしていたことから関所の役人たちもやけに早いと思いながらも関所を開け、こっちでも無事に孟嘗君は脱出に成功しました。
このエピソードは鶏鳴狗盗といって、これを題材を取ったのが先ほどの清少納言の和歌で割りとこの話は日本でも知られていますが、孟嘗君には実はもう一つあまり知られていない面白いエピソードがあります。
秦から無事に孟嘗君らが斉に帰国してしばらくすると、ある日馮驩(ふうかん)という男が現れて食客にしてほしいと訴えてきました。何か特技はと聞いたところ、「何もありません」と答え、さすがの孟嘗君も奇妙には思いましたが結局彼を雇い入れました。
その後孟嘗君は食客を養う経費を得るために自分の領地で農民にお金を貸して利息を取っていたのですが、今のアメリカのサブプライムローン問題のように貸した資金が焦げ付き、なかなか返済を受けないという事態になってしまいました。そこで孟嘗君は一つここはあの変な食客に取り立てをやらせて見ようと思って、馮驩もそれを承諾して早速領地へと派遣されました。
領地に着くや馮驩は債務者を一度に一箇所に集め、一人一人と面談して貸付額と返済状況を仔細に尋ねました。そして返済能力ありと見た者には返済期限を延ばし、逆にないと見た者にはその借金の証文を次々と預かっていきました。そして全員の面談を終えると、なんとみんなの見ている前で預かった証文を一気に火にくべて燃やしてしまいました。そして唖然とする債務者たちを前にして、
「今回預かった証文の借金はお前たちの生業資金として主人が与えてやったのだ。感謝しろよ」
とだけ言って、とっとと馮驩は孟嘗君の元へと帰っていきました。しかし貸した金の返済を取り立てるどころか勝手に帳消しさせたことを知った孟嘗君は激怒して、一体どういうつもりだと馮驩に強く問い詰めたのですがそれに対して馮驩は、
「私はまず債務者を一同に集めました。これは見知ったもの同士を集めてその場で嘘をつけないようにさせるためです。そして私は返済できると見た者には返済期限を伸ばして、できない者の借金はご存知の通りに帳消しさせました。
もし孟嘗君様が返済能力のない者に対して無理やり借金を取り立てたところで、追い詰められた農民は返済をせずに夜逃げを図って逃げていくだけです。そうなった場合、貸した金は返ってこず他の住民もなんとひどい殿様だと思い、孟嘗君様に対する汚名だけ残ります。私は何の役にも立たない借金の証文を燃やすことによって孟嘗君様が如何に領民を愛しているのかということを示し、彼らに恩義を売りつけてやったのです」
このように馮驩に言われた孟嘗君もはっとして思い直し、改めて馮驩を重く取り立てたそうです。
ホリエモンと佐藤優氏という、獄中に繋がれた人間二人が獄中で読んで非常に史記にハマったということを聞きます。別に獄中に繋がれなくともこのように非常に面白いエピソード満載で十分に楽しめる歴史書なので、私としても一読をお勧めする本です。
この孟嘗君というのは中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)における有名な四公子(公子というのは王の一族という意味)の一人で、食客と呼ばれる流浪の学者や武術家を3000人も養っていたといわれる人物です。
「夜を込めて 鳥のそら音をはかるとも 夜に逢坂の 関は許さじ」
この和歌は枕草子で有名な清少納言が作った和歌で、百人一首にも列せられている歌です。清少納言自体は随筆はうまくとも和歌は非常に下手で、何でも歌集の選者に自分の歌をねじこむのを頼みに行ったというエピソードがあるほどですが、この和歌はなかなかリズム感も良い出来のいい和歌だと思えます。
さてこの和歌の意味は置いとくとして、和歌の中の「夜を込めて鳥のそら音をはかるとも」という言葉ですが、これがまさに孟嘗君のエピソードに題を取った内容です。
孟嘗君は当時から非常に優秀な人物と名高い人物であったことから、すでに強国となり後に中国を初めて統一する秦国に出身地の斉国の使者として出向きました。そこで当時の秦王(始皇帝ではない)は孟嘗君の才を認めるのですが、かえって危機感を抱いてこの際殺してしまおうと考えました。その秦王の意を途中で察した孟嘗君でしたが、逃げようにも屋敷は既に兵隊に取り囲まれてどうすることも出来ませんでした。
そこで、秦王のお気に入りの妃に口添えしてもらおうと使者を出したところ、その妃は秦王に孟嘗君が謙譲した毛皮のコートをくれるならと条件を出します。しかしそのコートはすでに秦の国庫の中、さてどうしたものかと思っていたところに一緒に連れてきた食客たちのなかから一人が出てきて、
「なんなら、自分が盗んできましょう」
と言い出してきたそうです。
孟嘗君は先ほども言ったとおりに3000人もの食客を雇っており、それこそ一芸に秀でるなら誰でも片っ端から養ったので、中には「盗みなら任せろ」とか、「私は物まね名人です」という怪しい人間もいました。するとこの時に先ほどの盗みの達人が自ら声をあげ、その食客は見事に国庫からコートを盗み出してきて妃に献上し、その妃の口添えで孟嘗君たちは屋敷の包囲を解いてもらって秦を脱出することに成功しました。
しかし国境に着いた所、間を管理する関所が夜中のために閉じられており思わぬ足止めに遭いました。当時は朝にならないと関所は開かないことになっており、このままでは追っ手に追いつかれるとやきもきしていると、先ほどの今度は物まね名人が出てきて、鶏のまねをしてみようと孟嘗君に献策しました。早速やらせてみたところ、その食客の鳴き声に他の鶏も次々と呼応して鳴き声を出し、時計のない当時はその鶏の声を一日の始まりとしていたことから関所の役人たちもやけに早いと思いながらも関所を開け、こっちでも無事に孟嘗君は脱出に成功しました。
このエピソードは鶏鳴狗盗といって、これを題材を取ったのが先ほどの清少納言の和歌で割りとこの話は日本でも知られていますが、孟嘗君には実はもう一つあまり知られていない面白いエピソードがあります。
秦から無事に孟嘗君らが斉に帰国してしばらくすると、ある日馮驩(ふうかん)という男が現れて食客にしてほしいと訴えてきました。何か特技はと聞いたところ、「何もありません」と答え、さすがの孟嘗君も奇妙には思いましたが結局彼を雇い入れました。
その後孟嘗君は食客を養う経費を得るために自分の領地で農民にお金を貸して利息を取っていたのですが、今のアメリカのサブプライムローン問題のように貸した資金が焦げ付き、なかなか返済を受けないという事態になってしまいました。そこで孟嘗君は一つここはあの変な食客に取り立てをやらせて見ようと思って、馮驩もそれを承諾して早速領地へと派遣されました。
領地に着くや馮驩は債務者を一度に一箇所に集め、一人一人と面談して貸付額と返済状況を仔細に尋ねました。そして返済能力ありと見た者には返済期限を延ばし、逆にないと見た者にはその借金の証文を次々と預かっていきました。そして全員の面談を終えると、なんとみんなの見ている前で預かった証文を一気に火にくべて燃やしてしまいました。そして唖然とする債務者たちを前にして、
「今回預かった証文の借金はお前たちの生業資金として主人が与えてやったのだ。感謝しろよ」
とだけ言って、とっとと馮驩は孟嘗君の元へと帰っていきました。しかし貸した金の返済を取り立てるどころか勝手に帳消しさせたことを知った孟嘗君は激怒して、一体どういうつもりだと馮驩に強く問い詰めたのですがそれに対して馮驩は、
「私はまず債務者を一同に集めました。これは見知ったもの同士を集めてその場で嘘をつけないようにさせるためです。そして私は返済できると見た者には返済期限を伸ばして、できない者の借金はご存知の通りに帳消しさせました。
もし孟嘗君様が返済能力のない者に対して無理やり借金を取り立てたところで、追い詰められた農民は返済をせずに夜逃げを図って逃げていくだけです。そうなった場合、貸した金は返ってこず他の住民もなんとひどい殿様だと思い、孟嘗君様に対する汚名だけ残ります。私は何の役にも立たない借金の証文を燃やすことによって孟嘗君様が如何に領民を愛しているのかということを示し、彼らに恩義を売りつけてやったのです」
このように馮驩に言われた孟嘗君もはっとして思い直し、改めて馮驩を重く取り立てたそうです。
ホリエモンと佐藤優氏という、獄中に繋がれた人間二人が獄中で読んで非常に史記にハマったということを聞きます。別に獄中に繋がれなくともこのように非常に面白いエピソード満載で十分に楽しめる歴史書なので、私としても一読をお勧めする本です。
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