・「社会的常識欠けた医者多い」=麻生首相、全国知事会で発言(YAHOOニュース)
本日行われた全国知事会議において、上記のリンクに貼ったニュースに書かれているように首相の麻生太郎が「社会的常識がかけた医師が多い」と発言したことが報じられました。生憎ビデオ画像などがないので現時点で発言したと断定するのもなんですが、もし事実だとしたらたとえどのような理由があろうと許せない発言です。
このブログでも既に何度も取り上げて今すが、「医師は高給」というのは既に昔の話で、長時間の労働に加え最近では医療不作為や妊婦問題などで叩かれ、人によっては裁判に訴えられる方までいるという過酷な仕事環境です。おまけに国は現状のように人口に対して医師が不足することが予測できていたにもかかわらず、今年になってようやく医学部の定員が増加させられましたが、これまでは一貫として減らし続け、現在のような混乱した医療現場を自ら作り出した責任があります。また医療費についても、これまた一貫として下げ続けたため、医師個人の給料はもとより病院経営も成り立たなくなり、医療行為の中には治療に必要な薬品代や人件費が国からもらえる報酬を上回る、やればやるほど赤字となる治療すらあるようです。
そのため病院の経営を支えることが出来ず、今年に経営を畳んだ病院はここ数十年で最多となったそうです。これが何を表すかわざわざ言うまでもないのですが、病院が減ったことにより残った病院の負担が大きくなり、医師の仕事環境はますます過酷となり、病院内のベッド数もすぐに満杯となって急患を受け入れられなくなるという今の状況となっていったのです。
それを言うに事欠いて医師に社会的常識がないとは、そっちこそ医療問題の常識がないと私は言い返したい思いです。7時のNHKのニュースにてこの発言の件をインタビューされている映像がありましたが、その際にははっきりと発言したとは明言しなかったものの、「まぁ、まともな医師が不快な思いをしたら申し訳ない」と述べていたので、恐らく発言したのは事実でしょう。
なんでこんなのが日本の首相をやってるんだろう。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年11月19日水曜日
2008年11月18日火曜日
現代の若者は打たれ弱いか?
なんか最近この手の若者論の話ばかり書いてて、連載とかにしたほうが良かったかなとすら思ってきます。記事を集めたタグもそろそろ作り直さなきゃいけないし、ちょうどいい機会なのでまた今度これまでの連載記事を含めてパッケージしてタグを作り直そうと思います。
それで早速ですが、よく世の中では「最近の若者は打たれ弱い」、「ちょっとの言葉ですぐ傷つく」という若者論を聞きますが、ひねくれものの私からするとやっぱり腑に落ちない論評だと思います。
確かに私から見ても今の若者は以前と比べるとキツイ言葉を少しかけた途端に挙動不審なくらいに慌てますし、私も一応若者に属しますが自分でも星一徹みたいな人間を相手にすると考えたらすごく気が落ち込みますし(誰でもそうだろうけど)、その私からしても二、三年下の後輩と話していても、こちらが意識する以上に非常に私の言葉を重く受け止め、ちょっとの注意で落ち込んでしまう子が増えている気がします。
しかしその一方、先ほどと同じ言葉を重ねますが最近の若者を相手にしていて思うことは、やっぱりこっちの言葉や態度を非常に重く受け止める傾向があり、先ほどの例とは逆にこちらが大して意識していないものに対して非常に感謝したり、ある日突然心を開いてきたりするようなところもあるように思えます。ネットの掲示板で見ていても、会社員の方の言葉で最近の新卒は最初は非常によそよそしいくせに、ちょっと教えたり仕事を手伝ったりすると急に心を開いてくるといった話があり、この話に私自身もなんとなく得心します。
ここまで言えばわかると思いますが、現代の若者は打たれ弱いと言うよりも、他人の言動や行動を大きく受け止める傾向があるのではないかと思います。ドラクエに例えるのなら、ホイミをかけると通常30ポイント回復するところが60ポイントも回復する一方、ギラを喰らうとこちらも30ポイント位のダメージを受けるという具合に、影響を受けるプラスマイナスの増減がこれまでの二倍になっているような感じだと私は言いたいのです。
では何故現代の若者がこうなってしまったのかと言うのが一番大事な点ですが、これについては、
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
/⌒ヽ / '''''' '''''' ヽ
| / | (●), 、(●) |
| | | ,,ノ(、_, )ヽ、,, |
| | | `-=ニ=- ' |
| | ! `ニニ´ .! 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!
| / \ _______ /
| | ////W\ヽヽヽヽ\
| | ////WWWヽヽヽヽヽヽヽ
| | ////WWWWヽヽヽヽヽヽヽ
E⊂////WWWWWヽヽヽヽヽヽヽ
E//// ヽヽヽヽヽヽヽ
| | //WWWWWWWヽヽヽヽヽヽヽ
, ;,勹
ノノ `'ミ
/ y ,,,,, ,,, ミ
/ 彡 `゚ ゚' l
〃 彡 "二二つ
| 彡 ~~~~ミ ……………
,-‐― |ll 川| ll || ll|ミ―-、
/ |ll | ヽ
/ z W`丶ノW ヽ
/ \\ / / |
/ 天 \`i / / 狗 |
という具合だったら非常に話が早くて私も助かるのですが、さすがにこんな結論で終えることは出来ません。
仮にこうした議論をすると原因として、まず最初に上がってくるのは教育でしょう。最近の教育がうんたらかんたらという話で、これも結論に持ってきたら非常に話が早い分あまり分析的に面白くないです。そんな結論なら誰でも出せるので、一体何故重く受け取ってしまう若者を生む教育になったのか、そういった背景まで求めてみたいものです。
なんか先ほどから非常に回りくどいから私の結論をもう言うと、まず一つの原因として社会での責任が大きく問われるようになったからだと思います。それこそ今では被害者が出ていなくとも食品の賞味期限の改ざんくらいで社会全体揃ってパッシングが行われるような時代で、かつての雪印や日ハムが起こした食中毒問題と比べると問題性は瑣末な割に、企業などが被る打撃というのは私見ながら大きくなっているように思えます。
無論、企業にとどまらずほかのすべての方面でも社会的責任だけが大きくなり、その中で青春期を育ってきた今の若者などはこの影響を受け、社会的制裁を避けるために相手の発言や行動に対して注意深く対応するようになったという具合で、言ってしまえばいじめ問題などでも槍玉に上がる集団心理的な拘束が強まった結果ではないかと私は考えます。
一例を上げると、これなんかまさに私の例ですが一銭も儲けはなく、いわば私的に書いてネット上でただ公表しているだけのブログでも、何か一部の人間の意図に反する内容の記事を書いただけで激しく批判され、ひどい例などはアドレスをさらされた挙句に散々な罵倒を受ける可能性があります。私としては確かに情報を売ってお金をもらっているマスメディアなどが誤報を流した場合は批判されても仕方がないと思うのですが(嘘という夢を売っている東スポは除きます)、こうしたブログに対して議論的価値のある批判ならともかく、感情をぶつけるだけの批判をするなんて批判者にとってもブログを書く側にとってもあまり意味がない気がします。そんなに嫌な情報なら見なきゃいいだけだし。
しかしそんなブログでも、昨今では書いた側も思わぬところで持ち出され、批判の対象になってしまいます。もちろん最近流行のミクシでの犯行自供などはこの例に当てはまらず自業自得ですが、何かの発言の門で批判されるということについては、ネット上のほうが規模が大きい分、案外実社会より危険性は高いのかもしれません。
この辺は「監視社会」の話と組み合わせるともっといろいろ話が広がるのですがそれはまた別にして、少し話がそれましたが、こうした社会的責任の増大が現代の若者のなんでも重く受け止める傾向を作ったのではないかと思います。折も折で教育現場でも、「相手の立場を思いやること」というのが私の時代でも非常に重視されていましたので、そういった影響もあるのではないかとも思います。
ではこの現状にどうすればいいかですが、私としてはやはりあまりいい現状とは思えず、早急に改善策を図るべきだと思います。というのも、「燃え尽き症候群」といって、人生に一度や二度しかない重要な生き死にの場面に毎日何度も遭遇する看護士の方などが、ある日突然うつ病のような症状を出すということを聞いたことがあり、人間の行動意欲というものには個人個人に限りがあり、何かに気にかければかけるほど行動意欲は減って行き、一定のキャパシティを越えるとやる気などがガクンと削がれるのではないかと考えるからです。
これまた今の若者は何事にも意欲がないとも言われており、この背景には対人関係や周囲の目に対して今の若者が非常に気を配りすぎていて、自分の限られた行動意欲を無駄に使い過ぎて自分独自の行動を起こせずにいるのではないかと思います。
では改善策は何かですが、これまた先ほどの「燃え尽き症候群」の予防策ですが、やはり周囲に対して過度に親身になったりはせず、所詮は他人事と思ってある程度割り切ることが良いそうです。やはりタフな看護士というのはこれが出来るらしく、私の家の近くの看護士のおばさんなんか、「あの患者、まだくたばんないのよ」といつも放言していましたが、私的に勉強を続けて今ではある大学にて介護学の正教授を務めています。
もっとよい好例を出すとしたら、去年前半にベストセラーとなった渡辺淳一氏が提唱した「鈍感力」です。渡辺氏によると気を配る必要のある対象には気を抜かず、逆にその必要のないものには過度に気を配るなということで、いわば自分の神経を集中する方向をきちんと定めろということが主張されており、その例として他人の意味のない批判や暴言に対しても気にしなければ気にしない方がいいという例も本の中で書かれています。
しかし、このような改善策を提唱しながらもこれを実行するのは私はとても難しいと思います。というのも最初に述べたように今の日本社会は周囲に対して過度に気を配ることを強制しているからです。カスタマーサービスなどでもちょっとでも気を抜けば、「心がこもっていない!」等と批判され、注文の対応が少しでも遅ければすぐに怒鳴られたり、モンスターペアレントなどの問題が拡大するなどこの流れに歯止めはかかっていません。なのでもし本気でこうしたものを改善しようものなら、社会全体で寛容さを持つようにと訴えるとともに、先ほどの渡辺淳一氏のように鈍感力などと言葉を作って文化として広めるしかないと思います。
ここまで書いといてなんですが、「この言葉はまさに君のためにある」と、この鈍感力を持つようにと言われるほど私は周りから気を配り過ぎだと見られているようです。
それで早速ですが、よく世の中では「最近の若者は打たれ弱い」、「ちょっとの言葉ですぐ傷つく」という若者論を聞きますが、ひねくれものの私からするとやっぱり腑に落ちない論評だと思います。
確かに私から見ても今の若者は以前と比べるとキツイ言葉を少しかけた途端に挙動不審なくらいに慌てますし、私も一応若者に属しますが自分でも星一徹みたいな人間を相手にすると考えたらすごく気が落ち込みますし(誰でもそうだろうけど)、その私からしても二、三年下の後輩と話していても、こちらが意識する以上に非常に私の言葉を重く受け止め、ちょっとの注意で落ち込んでしまう子が増えている気がします。
しかしその一方、先ほどと同じ言葉を重ねますが最近の若者を相手にしていて思うことは、やっぱりこっちの言葉や態度を非常に重く受け止める傾向があり、先ほどの例とは逆にこちらが大して意識していないものに対して非常に感謝したり、ある日突然心を開いてきたりするようなところもあるように思えます。ネットの掲示板で見ていても、会社員の方の言葉で最近の新卒は最初は非常によそよそしいくせに、ちょっと教えたり仕事を手伝ったりすると急に心を開いてくるといった話があり、この話に私自身もなんとなく得心します。
ここまで言えばわかると思いますが、現代の若者は打たれ弱いと言うよりも、他人の言動や行動を大きく受け止める傾向があるのではないかと思います。ドラクエに例えるのなら、ホイミをかけると通常30ポイント回復するところが60ポイントも回復する一方、ギラを喰らうとこちらも30ポイント位のダメージを受けるという具合に、影響を受けるプラスマイナスの増減がこれまでの二倍になっているような感じだと私は言いたいのです。
では何故現代の若者がこうなってしまったのかと言うのが一番大事な点ですが、これについては、
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という具合だったら非常に話が早くて私も助かるのですが、さすがにこんな結論で終えることは出来ません。
仮にこうした議論をすると原因として、まず最初に上がってくるのは教育でしょう。最近の教育がうんたらかんたらという話で、これも結論に持ってきたら非常に話が早い分あまり分析的に面白くないです。そんな結論なら誰でも出せるので、一体何故重く受け取ってしまう若者を生む教育になったのか、そういった背景まで求めてみたいものです。
なんか先ほどから非常に回りくどいから私の結論をもう言うと、まず一つの原因として社会での責任が大きく問われるようになったからだと思います。それこそ今では被害者が出ていなくとも食品の賞味期限の改ざんくらいで社会全体揃ってパッシングが行われるような時代で、かつての雪印や日ハムが起こした食中毒問題と比べると問題性は瑣末な割に、企業などが被る打撃というのは私見ながら大きくなっているように思えます。
無論、企業にとどまらずほかのすべての方面でも社会的責任だけが大きくなり、その中で青春期を育ってきた今の若者などはこの影響を受け、社会的制裁を避けるために相手の発言や行動に対して注意深く対応するようになったという具合で、言ってしまえばいじめ問題などでも槍玉に上がる集団心理的な拘束が強まった結果ではないかと私は考えます。
一例を上げると、これなんかまさに私の例ですが一銭も儲けはなく、いわば私的に書いてネット上でただ公表しているだけのブログでも、何か一部の人間の意図に反する内容の記事を書いただけで激しく批判され、ひどい例などはアドレスをさらされた挙句に散々な罵倒を受ける可能性があります。私としては確かに情報を売ってお金をもらっているマスメディアなどが誤報を流した場合は批判されても仕方がないと思うのですが(嘘という夢を売っている東スポは除きます)、こうしたブログに対して議論的価値のある批判ならともかく、感情をぶつけるだけの批判をするなんて批判者にとってもブログを書く側にとってもあまり意味がない気がします。そんなに嫌な情報なら見なきゃいいだけだし。
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この辺は「監視社会」の話と組み合わせるともっといろいろ話が広がるのですがそれはまた別にして、少し話がそれましたが、こうした社会的責任の増大が現代の若者のなんでも重く受け止める傾向を作ったのではないかと思います。折も折で教育現場でも、「相手の立場を思いやること」というのが私の時代でも非常に重視されていましたので、そういった影響もあるのではないかとも思います。
ではこの現状にどうすればいいかですが、私としてはやはりあまりいい現状とは思えず、早急に改善策を図るべきだと思います。というのも、「燃え尽き症候群」といって、人生に一度や二度しかない重要な生き死にの場面に毎日何度も遭遇する看護士の方などが、ある日突然うつ病のような症状を出すということを聞いたことがあり、人間の行動意欲というものには個人個人に限りがあり、何かに気にかければかけるほど行動意欲は減って行き、一定のキャパシティを越えるとやる気などがガクンと削がれるのではないかと考えるからです。
これまた今の若者は何事にも意欲がないとも言われており、この背景には対人関係や周囲の目に対して今の若者が非常に気を配りすぎていて、自分の限られた行動意欲を無駄に使い過ぎて自分独自の行動を起こせずにいるのではないかと思います。
では改善策は何かですが、これまた先ほどの「燃え尽き症候群」の予防策ですが、やはり周囲に対して過度に親身になったりはせず、所詮は他人事と思ってある程度割り切ることが良いそうです。やはりタフな看護士というのはこれが出来るらしく、私の家の近くの看護士のおばさんなんか、「あの患者、まだくたばんないのよ」といつも放言していましたが、私的に勉強を続けて今ではある大学にて介護学の正教授を務めています。
もっとよい好例を出すとしたら、去年前半にベストセラーとなった渡辺淳一氏が提唱した「鈍感力」です。渡辺氏によると気を配る必要のある対象には気を抜かず、逆にその必要のないものには過度に気を配るなということで、いわば自分の神経を集中する方向をきちんと定めろということが主張されており、その例として他人の意味のない批判や暴言に対しても気にしなければ気にしない方がいいという例も本の中で書かれています。
しかし、このような改善策を提唱しながらもこれを実行するのは私はとても難しいと思います。というのも最初に述べたように今の日本社会は周囲に対して過度に気を配ることを強制しているからです。カスタマーサービスなどでもちょっとでも気を抜けば、「心がこもっていない!」等と批判され、注文の対応が少しでも遅ければすぐに怒鳴られたり、モンスターペアレントなどの問題が拡大するなどこの流れに歯止めはかかっていません。なのでもし本気でこうしたものを改善しようものなら、社会全体で寛容さを持つようにと訴えるとともに、先ほどの渡辺淳一氏のように鈍感力などと言葉を作って文化として広めるしかないと思います。
ここまで書いといてなんですが、「この言葉はまさに君のためにある」と、この鈍感力を持つようにと言われるほど私は周りから気を配り過ぎだと見られているようです。
2008年11月17日月曜日
失われた十年とは~その十、リストラ~
今回の連載もようやく二ケタ台。あとどれだけ続くだろうな。
さて前回では長引く不況に日本式経営の権威がこの失われた十年の間に大きく失墜したと書きましたが、その中でも最も大きなトピックスとなるのがこのリストラです。このリストラという言葉は元はリストラクチャリング、再構築という英語から来ていますが、実質的には従業員数のカットということで、それまでの日本式経営の柱の一つである終身雇用がこのリストラによって大きく否定されることになりました。
97年の山一證券の破綻によって不況が深刻になる中、企業も利益の減益どころか大企業であろうと赤字を出すようになり、早急なコストカットを図らねば簡単に倒産することが当時は目に見えていました。そのため、そこそこ支払い給料額も大きくなり、必要な人材とそうでない人材がはっきりとわかり始めるようになった40歳以上の中年世代の社員がこの対象となり、この時期に不要と判断された人間は容赦なく首を切られていきました。
私自身がこのリストラの現場を目の当たりにした経験は一回だけあり、中学生だった私は今の個別指導型の予備校に通っていたのですが、そこでは一人の教師に対して二人生徒がついており、毎週私は自分より一つ年上の高校生の方と一緒に勉強していました。毎週会うもんだから互いに気心も知れて、帰るときには談笑し合うくらいの仲だったのですが、ある日突然その人が来なくなりました。
どうしたものかと先生に聞いたところ、何でもその人の父親がリストラにあって失職し、高校は続けるものの予備校は費用の問題から辞めざるを得なくなったということだったようです。
当時、このような話は日常茶飯事でした。テレビでは毎日リストラの問題を取り上げはするものの、人員カットを行わねばならぬほどどの企業も追い詰められているというのが常識であったことから、それほどリストラを行った企業に対しては批判が起きていなかったように思えます。唯一社民党だけが「リストラの全面禁止」を主張して選挙戦を行いましたが、「そんなことやって企業本体が潰れたらどうするんだ」という逆批判に遭い、これもこの後に細かく解説していきますがそのまま左翼政党の失墜へと続いていきます。
ただこのリストラについては、私の友人のように余計な同情論は無用と言う人も当時から少なからずおりました。というのも日本式経営のもう一つの柱である年功序列制のためにバブル期以前には同期の給料を一律に引き上げるため、無駄なポストを無理やり作っては実権のない中間管理職を日本企業は量産しており、そのコストに見合うだけの効果をほとんど発揮せずに無駄金を使い続けていたという実態がありました。またそのような環境のために実力のあろうとなかろうとそうして出世、給与アップが行われていたため、朝会社に来てから新聞を読むだけで何も働かない人間、いうなれば会社に寄生する人間も数多くいたと私は聞いています。
確かにリストラされた方の大半は真面目に働いてきた方ばかりでしょうが、組織的にも無駄なポストを量産していたと言うのは紛れもない事実であり、いわば日本式経営の負の側面の清算という意味でもこのリストラは行われたと言うべきでしょう。
そして極めつけですが、これは友人の言ですが、少なくともリストラされる人間は40代で、会社に入ってから20年もの時間があり、その間に何かしら会社に必要とされるような資格、技術を取ろうと努力せずに首を切られたのは個人の責任だと常々述べています。この意見に、多少厳しいかなと思いながらも一理あると私も同感しています。
聞くところによると韓国では儒教思想が強く、このリストラが行われるにしても日本とは逆で老人を残すために若手社員から切られていったそうです。それに比べれば社会的にも将来的にも、日本の中年を切るリストラの方が良かったのではと、今の韓国の若者が置かれている劣悪な状況を見るにつけ思います。しかし残された若手社員こと若者も決してこのリストラによってタダでは済まず、人員が減った分一人当たりの仕事量が増えて猛烈な過労状態が各業種で行われるようになっていきました。何もこうした日本の過労傾向はこの時期からではないですが、先ほども言ったように人件費のカットがこの時期に次々と行われ、あらかじめ決められた一定残業代を給料に組み込むことでどれだけ残業しても残業代がもらえない「見なし残業込み給料」と言うものが普及し、残業時間が労働時間に計測されず、また給料上昇も非常に抑えられて日本の労働環境がいろいろおかしいことになり始めたのもこの時期です。
そういう具合で、この次には当時の若年労働者の状況こと、就職氷河期について解説します。おまけとして、当時に大流行りした綾小路きみまろのネタを載せておきます。
「会社のために手となり足となり、クビとなり」
さて前回では長引く不況に日本式経営の権威がこの失われた十年の間に大きく失墜したと書きましたが、その中でも最も大きなトピックスとなるのがこのリストラです。このリストラという言葉は元はリストラクチャリング、再構築という英語から来ていますが、実質的には従業員数のカットということで、それまでの日本式経営の柱の一つである終身雇用がこのリストラによって大きく否定されることになりました。
97年の山一證券の破綻によって不況が深刻になる中、企業も利益の減益どころか大企業であろうと赤字を出すようになり、早急なコストカットを図らねば簡単に倒産することが当時は目に見えていました。そのため、そこそこ支払い給料額も大きくなり、必要な人材とそうでない人材がはっきりとわかり始めるようになった40歳以上の中年世代の社員がこの対象となり、この時期に不要と判断された人間は容赦なく首を切られていきました。
私自身がこのリストラの現場を目の当たりにした経験は一回だけあり、中学生だった私は今の個別指導型の予備校に通っていたのですが、そこでは一人の教師に対して二人生徒がついており、毎週私は自分より一つ年上の高校生の方と一緒に勉強していました。毎週会うもんだから互いに気心も知れて、帰るときには談笑し合うくらいの仲だったのですが、ある日突然その人が来なくなりました。
どうしたものかと先生に聞いたところ、何でもその人の父親がリストラにあって失職し、高校は続けるものの予備校は費用の問題から辞めざるを得なくなったということだったようです。
当時、このような話は日常茶飯事でした。テレビでは毎日リストラの問題を取り上げはするものの、人員カットを行わねばならぬほどどの企業も追い詰められているというのが常識であったことから、それほどリストラを行った企業に対しては批判が起きていなかったように思えます。唯一社民党だけが「リストラの全面禁止」を主張して選挙戦を行いましたが、「そんなことやって企業本体が潰れたらどうするんだ」という逆批判に遭い、これもこの後に細かく解説していきますがそのまま左翼政党の失墜へと続いていきます。
ただこのリストラについては、私の友人のように余計な同情論は無用と言う人も当時から少なからずおりました。というのも日本式経営のもう一つの柱である年功序列制のためにバブル期以前には同期の給料を一律に引き上げるため、無駄なポストを無理やり作っては実権のない中間管理職を日本企業は量産しており、そのコストに見合うだけの効果をほとんど発揮せずに無駄金を使い続けていたという実態がありました。またそのような環境のために実力のあろうとなかろうとそうして出世、給与アップが行われていたため、朝会社に来てから新聞を読むだけで何も働かない人間、いうなれば会社に寄生する人間も数多くいたと私は聞いています。
確かにリストラされた方の大半は真面目に働いてきた方ばかりでしょうが、組織的にも無駄なポストを量産していたと言うのは紛れもない事実であり、いわば日本式経営の負の側面の清算という意味でもこのリストラは行われたと言うべきでしょう。
そして極めつけですが、これは友人の言ですが、少なくともリストラされる人間は40代で、会社に入ってから20年もの時間があり、その間に何かしら会社に必要とされるような資格、技術を取ろうと努力せずに首を切られたのは個人の責任だと常々述べています。この意見に、多少厳しいかなと思いながらも一理あると私も同感しています。
聞くところによると韓国では儒教思想が強く、このリストラが行われるにしても日本とは逆で老人を残すために若手社員から切られていったそうです。それに比べれば社会的にも将来的にも、日本の中年を切るリストラの方が良かったのではと、今の韓国の若者が置かれている劣悪な状況を見るにつけ思います。しかし残された若手社員こと若者も決してこのリストラによってタダでは済まず、人員が減った分一人当たりの仕事量が増えて猛烈な過労状態が各業種で行われるようになっていきました。何もこうした日本の過労傾向はこの時期からではないですが、先ほども言ったように人件費のカットがこの時期に次々と行われ、あらかじめ決められた一定残業代を給料に組み込むことでどれだけ残業しても残業代がもらえない「見なし残業込み給料」と言うものが普及し、残業時間が労働時間に計測されず、また給料上昇も非常に抑えられて日本の労働環境がいろいろおかしいことになり始めたのもこの時期です。
そういう具合で、この次には当時の若年労働者の状況こと、就職氷河期について解説します。おまけとして、当時に大流行りした綾小路きみまろのネタを載せておきます。
「会社のために手となり足となり、クビとなり」
2008年11月16日日曜日
右翼と左翼、どっちがいいの?
ちょっと今朝に怒鳴りすぎてへとへとなので、さらっと書きます。いやね、高速バスを予約しようと思ってJRのバス予約ページに行ったらログイン時に、「そのIDは有効期限が過ぎているのでまた登録しなおしてください」とか言われてムカッときて、しょうがないから同じIDで再登録しようとしたら「そのIDは既に使われています」とか抜かしやがって、だったら使わせろよってんで一時間くらい「アホ!」とか「ボケっ!」とか言って怒鳴り続けました、近所の皆さんごめんなさい。おまけにIDを一新して予約をしたら、支払い方法に何故か説明にあるコンビニ決済がない。電話で確認したら、「あ、そのバスはコンビニ決済が出来ないんですよ」とか言われて、クレーマーにならないように電話を切ってからまた一人で怒鳴り散らしてました。もう二度とJRバスは使わないぞ。
さて本題ですが、以前に「二変数で見る国家の主義、体制」の中で右翼と左翼の二項対立的な見方は非常に危険だと私は書きましたが、では主義的にはどんなものを持てばいいのか、右翼でも左翼でもないと言うのは一体なんなのという風なことをよく聞かれた上に、「じゃあ君は一体どんな立場なの?」とも聞かれるので、ここで私の立場を表明すると、敢えて言うなら変動型中道派です。
私だけかもしれませんが、あまり日本では中道派という言葉は政治的スタンスとしてそれほど使われていないような気がします。これはそのまんま右翼でも左翼でもないと言う立場ですが、まぁ日本でこれを主張している連中が非常に中途半端な奴ら(公明党、社民党)が多いからだというのもありますが、基本的な定義としては右翼、左翼のどっちにも与せずにバランスの取れた政策を標榜する集団と言う定義になります。しかしこんないいとこりしようったってうまくいくはずもなく、なんとなく日本でこれの標榜者は毎回政策がころころ変わるだけで、むしろ根っこのない政治集団ほど中道を主張していますね。
そういう私も一応はこの中道派に属することになるのですが、まぁ自分で言うのもなんですが非常に奇妙なポジションを主張しています。なお、普段の言動では学校の授業中に、「あなた、右翼でしょ」と言われるくらい過激です。
まず私はこれまでの歴史を振り返ってはっきりと言えることに、極右、極左が支配する社会が最も不幸だという概念を持っています。前者は戦前の日本とナチスドイツで、後者は過去の中国と今の北朝鮮、スターリン時代のソ連です。両方とも一つの思想に凝り固まって、正常な思考判断が社会全体で行えなくなる可能性が非常に高くなります。
私個人として、何があってもこのような左右どちらにも極端な社会思想が支配する状況だけは避けたいと考えています。ではどうすればいいかですが、単純に両者の真ん中である中道を叫び続ければいいかと言えば、私はこれには疑問を感じます。というのも、ちょうどシーソーを真ん中でキレイに釣り合わせるというのが難しいように、理想的な中立状態と言うのは現実に作ることは非常に難しいですし、また今の段階でどんな状態がその理想中立状態なのかもわかりませんし、往々にしてこうしたモデルは時代々々によって変化しやすいものです。
ならばとばかりに私が考えたのは、社会で右翼勢力が強くなってきたと感じたら左翼に属し、左翼が強くなってきたと感じたら今度は右翼に属すというように、常にマイノリティーの側に属してバランスを保たせるようとする方法です。先ほどのシーソーの例で言えば、ちょうど真ん中のあたりで左右にぐるぐる走り続けるのが私のポジションと言うことです。
私自身も未熟ではありますが、その未熟な思考の中でも社会風潮の動きを見てその都度ポジションを替えるようにしています。古くは中学生時代、当時に日本史における自虐史観が強かったことからかなり右翼的な発言ばかりをしていましたが、現在では労働組合を筆頭に左翼勢力がめっきり弱くなって労働問題が頻発していると見ており、左翼的な発言を意識的に多くしております。
見る人によっては「この蝙蝠野郎!」とか、「地に足がついていない」などと批判をされるかもしれませんが、私の最大優先事項は「社会を極端な思想に持ってこさせない」と言うことにあり、先ほどの批判も甘んじて受けるつもりです。
結論を言うと、「猶過如不及」こと、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、右翼も左翼も究極的には思想的にどちらが優れているということはないと思います。如何に時代々々にあわせて、両者を使い分けるかが最も大事だと思います。
さて本題ですが、以前に「二変数で見る国家の主義、体制」の中で右翼と左翼の二項対立的な見方は非常に危険だと私は書きましたが、では主義的にはどんなものを持てばいいのか、右翼でも左翼でもないと言うのは一体なんなのという風なことをよく聞かれた上に、「じゃあ君は一体どんな立場なの?」とも聞かれるので、ここで私の立場を表明すると、敢えて言うなら変動型中道派です。
私だけかもしれませんが、あまり日本では中道派という言葉は政治的スタンスとしてそれほど使われていないような気がします。これはそのまんま右翼でも左翼でもないと言う立場ですが、まぁ日本でこれを主張している連中が非常に中途半端な奴ら(公明党、社民党)が多いからだというのもありますが、基本的な定義としては右翼、左翼のどっちにも与せずにバランスの取れた政策を標榜する集団と言う定義になります。しかしこんないいとこりしようったってうまくいくはずもなく、なんとなく日本でこれの標榜者は毎回政策がころころ変わるだけで、むしろ根っこのない政治集団ほど中道を主張していますね。
そういう私も一応はこの中道派に属することになるのですが、まぁ自分で言うのもなんですが非常に奇妙なポジションを主張しています。なお、普段の言動では学校の授業中に、「あなた、右翼でしょ」と言われるくらい過激です。
まず私はこれまでの歴史を振り返ってはっきりと言えることに、極右、極左が支配する社会が最も不幸だという概念を持っています。前者は戦前の日本とナチスドイツで、後者は過去の中国と今の北朝鮮、スターリン時代のソ連です。両方とも一つの思想に凝り固まって、正常な思考判断が社会全体で行えなくなる可能性が非常に高くなります。
私個人として、何があってもこのような左右どちらにも極端な社会思想が支配する状況だけは避けたいと考えています。ではどうすればいいかですが、単純に両者の真ん中である中道を叫び続ければいいかと言えば、私はこれには疑問を感じます。というのも、ちょうどシーソーを真ん中でキレイに釣り合わせるというのが難しいように、理想的な中立状態と言うのは現実に作ることは非常に難しいですし、また今の段階でどんな状態がその理想中立状態なのかもわかりませんし、往々にしてこうしたモデルは時代々々によって変化しやすいものです。
ならばとばかりに私が考えたのは、社会で右翼勢力が強くなってきたと感じたら左翼に属し、左翼が強くなってきたと感じたら今度は右翼に属すというように、常にマイノリティーの側に属してバランスを保たせるようとする方法です。先ほどのシーソーの例で言えば、ちょうど真ん中のあたりで左右にぐるぐる走り続けるのが私のポジションと言うことです。
私自身も未熟ではありますが、その未熟な思考の中でも社会風潮の動きを見てその都度ポジションを替えるようにしています。古くは中学生時代、当時に日本史における自虐史観が強かったことからかなり右翼的な発言ばかりをしていましたが、現在では労働組合を筆頭に左翼勢力がめっきり弱くなって労働問題が頻発していると見ており、左翼的な発言を意識的に多くしております。
見る人によっては「この蝙蝠野郎!」とか、「地に足がついていない」などと批判をされるかもしれませんが、私の最大優先事項は「社会を極端な思想に持ってこさせない」と言うことにあり、先ほどの批判も甘んじて受けるつもりです。
結論を言うと、「猶過如不及」こと、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、右翼も左翼も究極的には思想的にどちらが優れているということはないと思います。如何に時代々々にあわせて、両者を使い分けるかが最も大事だと思います。
2008年11月15日土曜日
非正規雇用型社会モデル
以前の記事のコメント欄に、日本は国としての社会保障が不十分だから企業がそれを負担してきたのに、いまや企業も社会保障に金をかけずに非正社員を多く雇用して問題があるという意見があり、ちょうど以前から用意していたネタがあるので、ここで紹介しようと思います。
まず実現可能かどうかを別として、私は日本の被雇用者が全員、正社員ではなくなるという社会について考えてみたいと思っています。
現在、日本の雇用状況は全体の約四割が長期雇用を前提として労働権もある程度認められている正社員ではなく、権利も立場も不安定な非正規雇用、いうなれば派遣、パート、アルバイトで占められています。かつては労働者の九割近くが正社員であったのと比べると、これは日本社会上での大きな変動と言っていい上に、社会システム上でも問題ある状況です。
というのも、先ほどのコメント欄の意見の言う通りに日本の社会は労働者、ひいては一家の大黒柱となる戸籍上の家父長に当たる、父親や夫という立場の男性が、すべて正社員であることを前提にシステムが作られているからです。
まず一つは戸籍制度で、これは家父長を中心に作っているので男性が誰と結婚してどの子を生むかというように、家父長に対してどのような変化があるかという具合で作られていきます。そのため、以前に問題となった離婚後90日以内の子供の戸籍問題など、いろいろややこしいものができるのです。
次に代表的なのは税法です。日本の国家財政の取材源は直接税こと所得税ですが、これは正社員の人間の給料から直接天引きする税金で、言い換えれば正社員が減れば減るほどこの主財源の取り口が減っていくことになります。
そして一番問題なのは、何を隠そう保険と年金制度です。
これは両方とも正社員の場合は会社と本人の給料の折半になりますが、もし正社員でない場合は掛け金を全額丸ごと払わなくてはならず、しかも年金の場合は正社員の厚生年金と分けられ国民年金となり、将来の受給額にも差が生まれます。これも言い返すと、正社員でなければいろんな面で個人の負担が大きくなるということです。
このように、社会保障から税体系まで何もかもが正社員の家父長がいることを前提に日本の社会システムが出来ており、逆に正社員になれないとするとこうした社会保障を受けづらくなるということです。もともと日本の社会保障政策は先進国としては非常に低いレベルにあるといわれており、最初に挙げた意見の通りに日本はその分の埋め合わせとして企業が独自に年金を設けたり、自宅購入のローンを組んであげたり、ミニマムなのだと毎年の健康診断の費用も負担してきました。
しかし近年は企業も人件費削減の名目でこうした支出を減らしており、雇用比率も正社員の割合が年々下がったことにより社会補償問題が次第に表面化してきたと言っていいでしょう。
なお企業が社員保障を減らした一例を上げると、標的にして申し訳ないが松下が以前に業績悪化を理由に退職社員の企業年金額を減額しています。まぁそっくりなくすわけじゃないし、実際にあの時の松下は経営状況が非常にやばかったので私も理解し、裁判にもなりましたがやはり合法と見なされました。
今ニュースで取り上げられている問題の大半はまさにこういったシステム不全が原因として起きています。国家歳入の低下から医療問題、果てには貧困問題と、すべて現実の状況が変化しているのに社会システムがそのままなために起きております。根本的な事を言うと、こうした問題を解決する方法は二者択一で、システムに現実を合わすか現実にシステムを合わすかです。無論、後者ができるとしたらその人はいろんな意味で神様です。
ではシステムをどう現実に合わせて変えるかですが、まず以って現実に起きている現象は非正規雇用の増加です。この変化にどう社会システムを合わすかといったら、一番多く主張されているのは企業の雇用に対して規制を設けるという案で、非正規雇用の雇用者に限界割合を設けるとか、一定の雇用期間を越えて雇用する場合は正社員にしなければならないという期間を現行の三年以上からもっと短くするなどの案が提唱されています。
しかしこれらの意見など中国人に言わせれば「上に施策あれば、下に対策あり」で、現実にこの前中国でも労働法が改正されて一定期間後の正規雇用が厳しく義務付ける法律が出来たら、施行される直前にある企業では職員すべてを一斉に解雇し、次の日にまたすべて再雇用することで雇用義務が発生する期間を下回らせるという荒業をしてのけています。多分、今の日本の企業だったらおんなじことをする可能性があります。
じゃあどうすればいいかですが、先ほどまでの「非正規雇用を正規雇用へと変えさせる」案に対してここで私が提唱する案は、「今の正規雇用をみんな非正規雇用の立場に変える」という逆説的な荒唐無稽な案です。
まずは最初にやるのは所得税を九割方廃止します。所得税は年収が1000万円を超える世帯(確か今の日本でこれに当たるのは5%以下)を除き一銭もかけなくします。こうすることによって所得税の算出、徴税に必要な膨大な人員と費用を削減できます。
では代わりの財源は何にするかですが、ここで消費税を20%に上げます。大分前の記事でも書きましたが、税の三要素で見るのなら消費税は所得税より遙かにハイパフォーマンスです。もちろんこの場合は食料品などの生活必需品には課税せずにするのが条件で、いうなれば所得税と消費税の比率を逆転させる案です。
こうして税体系を大転換しつつ社会保障についてもこの際現行の目的税にして独立して採算を図ったりずに、すべて一般会計に組み込みます。では現行の企業が負担する社会保険料や年金の掛け金はどこから持ってくるかですが、これは法人税に組み込みます。ただしこれまでのように雇用人員によって算出するのではなく、単年度の売り上げに合わせて変動するようにして、いくら社員を雇用しようと徴税額に変動が起きないようにしておきます。こうすることによって、社員の新規採用に当たって企業が新たに負担する費用は給料だけになるので、事実上現行より負担が減るので新規採用も行いやすくなります。
そして一番肝心なのが、正社員と非正社員の区別を完全になくすことです。既に先ほどまでの税体系の変更で企業が負担する社会保障額に違いはなくなっていますので、あとは雇用期間やリストラをどうするかですが、これはこの際野球選手みたいに年俸制にしたり、3年契約みたいに雇用期間をあらかじめ双方で決めたりする制度に変えてみるというのが今の私の考えです。敢えて社員の流動性を高めることにより、後進にもチャンスを与えることが出来るので、少なくとも今の身分制のような雇用体系よりはマシなんじゃないかと思います。もちろん、この流動性を実現するには失業後の社会保障がしっかり出来ていることが最低条件ですが。
ちょっと予想以上に話が長くなりましたが、最初にも言ったとおりに実現するかどうかは別として、正社員という概念がない世界をどうやって作り、回らせるかというのを考えるのは非常に現状を見る上で参考になる案が出てくると思います。私自身、今の日本の社会システムはもともと戦後の混乱期に作ったシステムがそのまま援用されている過ぎず、早くに現状に即したものへと変更するべきだと思います。ちょっと書ききれなかったのですが社会保障が充実することによって将来の不安がなくなり、日本人の世界的にも異様に多い貯蓄も消費へ回るので政策的にも理にかなっています。
ちなみにイギリス人学者のロナルド・ドーア氏は戦後直後の日本に来て、「日本は社会保障が全然充実していない」と言わしめており、それが今も続いていること事態日本の社会システムが欠陥を持っている最大の証拠だと思います。
まず実現可能かどうかを別として、私は日本の被雇用者が全員、正社員ではなくなるという社会について考えてみたいと思っています。
現在、日本の雇用状況は全体の約四割が長期雇用を前提として労働権もある程度認められている正社員ではなく、権利も立場も不安定な非正規雇用、いうなれば派遣、パート、アルバイトで占められています。かつては労働者の九割近くが正社員であったのと比べると、これは日本社会上での大きな変動と言っていい上に、社会システム上でも問題ある状況です。
というのも、先ほどのコメント欄の意見の言う通りに日本の社会は労働者、ひいては一家の大黒柱となる戸籍上の家父長に当たる、父親や夫という立場の男性が、すべて正社員であることを前提にシステムが作られているからです。
まず一つは戸籍制度で、これは家父長を中心に作っているので男性が誰と結婚してどの子を生むかというように、家父長に対してどのような変化があるかという具合で作られていきます。そのため、以前に問題となった離婚後90日以内の子供の戸籍問題など、いろいろややこしいものができるのです。
次に代表的なのは税法です。日本の国家財政の取材源は直接税こと所得税ですが、これは正社員の人間の給料から直接天引きする税金で、言い換えれば正社員が減れば減るほどこの主財源の取り口が減っていくことになります。
そして一番問題なのは、何を隠そう保険と年金制度です。
これは両方とも正社員の場合は会社と本人の給料の折半になりますが、もし正社員でない場合は掛け金を全額丸ごと払わなくてはならず、しかも年金の場合は正社員の厚生年金と分けられ国民年金となり、将来の受給額にも差が生まれます。これも言い返すと、正社員でなければいろんな面で個人の負担が大きくなるということです。
このように、社会保障から税体系まで何もかもが正社員の家父長がいることを前提に日本の社会システムが出来ており、逆に正社員になれないとするとこうした社会保障を受けづらくなるということです。もともと日本の社会保障政策は先進国としては非常に低いレベルにあるといわれており、最初に挙げた意見の通りに日本はその分の埋め合わせとして企業が独自に年金を設けたり、自宅購入のローンを組んであげたり、ミニマムなのだと毎年の健康診断の費用も負担してきました。
しかし近年は企業も人件費削減の名目でこうした支出を減らしており、雇用比率も正社員の割合が年々下がったことにより社会補償問題が次第に表面化してきたと言っていいでしょう。
なお企業が社員保障を減らした一例を上げると、標的にして申し訳ないが松下が以前に業績悪化を理由に退職社員の企業年金額を減額しています。まぁそっくりなくすわけじゃないし、実際にあの時の松下は経営状況が非常にやばかったので私も理解し、裁判にもなりましたがやはり合法と見なされました。
今ニュースで取り上げられている問題の大半はまさにこういったシステム不全が原因として起きています。国家歳入の低下から医療問題、果てには貧困問題と、すべて現実の状況が変化しているのに社会システムがそのままなために起きております。根本的な事を言うと、こうした問題を解決する方法は二者択一で、システムに現実を合わすか現実にシステムを合わすかです。無論、後者ができるとしたらその人はいろんな意味で神様です。
ではシステムをどう現実に合わせて変えるかですが、まず以って現実に起きている現象は非正規雇用の増加です。この変化にどう社会システムを合わすかといったら、一番多く主張されているのは企業の雇用に対して規制を設けるという案で、非正規雇用の雇用者に限界割合を設けるとか、一定の雇用期間を越えて雇用する場合は正社員にしなければならないという期間を現行の三年以上からもっと短くするなどの案が提唱されています。
しかしこれらの意見など中国人に言わせれば「上に施策あれば、下に対策あり」で、現実にこの前中国でも労働法が改正されて一定期間後の正規雇用が厳しく義務付ける法律が出来たら、施行される直前にある企業では職員すべてを一斉に解雇し、次の日にまたすべて再雇用することで雇用義務が発生する期間を下回らせるという荒業をしてのけています。多分、今の日本の企業だったらおんなじことをする可能性があります。
じゃあどうすればいいかですが、先ほどまでの「非正規雇用を正規雇用へと変えさせる」案に対してここで私が提唱する案は、「今の正規雇用をみんな非正規雇用の立場に変える」という逆説的な荒唐無稽な案です。
まずは最初にやるのは所得税を九割方廃止します。所得税は年収が1000万円を超える世帯(確か今の日本でこれに当たるのは5%以下)を除き一銭もかけなくします。こうすることによって所得税の算出、徴税に必要な膨大な人員と費用を削減できます。
では代わりの財源は何にするかですが、ここで消費税を20%に上げます。大分前の記事でも書きましたが、税の三要素で見るのなら消費税は所得税より遙かにハイパフォーマンスです。もちろんこの場合は食料品などの生活必需品には課税せずにするのが条件で、いうなれば所得税と消費税の比率を逆転させる案です。
こうして税体系を大転換しつつ社会保障についてもこの際現行の目的税にして独立して採算を図ったりずに、すべて一般会計に組み込みます。では現行の企業が負担する社会保険料や年金の掛け金はどこから持ってくるかですが、これは法人税に組み込みます。ただしこれまでのように雇用人員によって算出するのではなく、単年度の売り上げに合わせて変動するようにして、いくら社員を雇用しようと徴税額に変動が起きないようにしておきます。こうすることによって、社員の新規採用に当たって企業が新たに負担する費用は給料だけになるので、事実上現行より負担が減るので新規採用も行いやすくなります。
そして一番肝心なのが、正社員と非正社員の区別を完全になくすことです。既に先ほどまでの税体系の変更で企業が負担する社会保障額に違いはなくなっていますので、あとは雇用期間やリストラをどうするかですが、これはこの際野球選手みたいに年俸制にしたり、3年契約みたいに雇用期間をあらかじめ双方で決めたりする制度に変えてみるというのが今の私の考えです。敢えて社員の流動性を高めることにより、後進にもチャンスを与えることが出来るので、少なくとも今の身分制のような雇用体系よりはマシなんじゃないかと思います。もちろん、この流動性を実現するには失業後の社会保障がしっかり出来ていることが最低条件ですが。
ちょっと予想以上に話が長くなりましたが、最初にも言ったとおりに実現するかどうかは別として、正社員という概念がない世界をどうやって作り、回らせるかというのを考えるのは非常に現状を見る上で参考になる案が出てくると思います。私自身、今の日本の社会システムはもともと戦後の混乱期に作ったシステムがそのまま援用されている過ぎず、早くに現状に即したものへと変更するべきだと思います。ちょっと書ききれなかったのですが社会保障が充実することによって将来の不安がなくなり、日本人の世界的にも異様に多い貯蓄も消費へ回るので政策的にも理にかなっています。
ちなみにイギリス人学者のロナルド・ドーア氏は戦後直後の日本に来て、「日本は社会保障が全然充実していない」と言わしめており、それが今も続いていること事態日本の社会システムが欠陥を持っている最大の証拠だと思います。
最近なくなったコールドスリープの話
週末なので、適当な記事でもバンバン書く気力があります。というより、ここ数日は細かいニュース解説が多くてちょっと疲れ気味だったのもありますが。
それで本題ですが、90年前後のSF作品にはよくあったのに最近はすっかり見かけなくなった話の類型として、今回タイトルに上げた「コールドスリープ」があります。これは人間を意図的に極低温状態に置くことで生命を維持したまま生体活動を停止させ、時間をおいた後で文字通り再び解凍による再蘇生をすることで、若さ(肉体年齢)を保ったまま解凍時の世界に舞い戻るという技術です。俗に言う、浦島太郎物のSF技術ですね。
これを題材に取った歴史的に古い漫画作品というと、まず上がってくるのは手塚治虫氏の「火の鳥」の、確か未来編だったかな。この作品では宇宙船にて航行する搭乗員が通常の航行中はこのコールドスリープで眠り続け、交代で宇宙船を操作する場面が描かれています。他の作品も大体こんなパターンでこのコールドスリープを使っており、長い宇宙航行の間に年齢を重ねないための手段としてよく使われていました。
こういったパターンに対して、より浦島太郎の話に近づけたパターンとして、過去の超技術があった時代にコールドスリープをした人間が移籍発掘などで掘り出され、何千年も後の現代に蘇るというような話もよくありました。
しかし、大してチェックとかしてる訳じゃないけど、なんか最近こういったコールドスリープが出てくる話を急に見なくなった気がします。ちなみにこのコールドスリープが出てくる話というのは、そのほとんどが悲劇的な結末に終わっていることが多く、これは恐らく話の原型となっている浦島太郎の話がアンハッピーエンドで終わることが影響していると思われ、大体の話の結末は無事蘇ったものの目覚めた世界は自分の暮らしてきた世界とは大きく変わっており、そのギャップにさい悩まされるという具合になっています。一番それをストレートに書いているのは、藤崎竜氏の短編漫画作品の「WORLDS」かな。
そういったアンハッピーエンドが多い中、唯一これに対抗したのが光原伸氏のこれまた漫画作品の「アウターゾーン」でしょう。これなんか自分より下の年齢の人にはもうほとんどわからないであろう作品でしょうが、この作品は一話完結形式の作品で、その中ででコールドスリープが出てきた回での主人公はまさにこのコールドスリープの研究者で、現在治療できない病気患者を未来の技術に託すために研究をしていたのですが、ある日同僚の研究者に騙され、自ら人体実験を申し出たことにされてコールドスリープの機械に入れられて研究の功績はおろか、恋人までも奪われてしまいました。
そうして数十年後、眠りに入った当初はまだ不確実だった再蘇生の技術が確立されたことによって主人公も未来の世界で再び目覚め、すわ復讐とばかりにかつての同僚の前に立ちます。しかし既に年老いた元同僚は貧相な生活をしており、彼が言うには主人公がコールドスリープをした後に主人公の恋人を奪ったものの、実はあの女はスパイで、研究功績を奪われた挙句自分は罪を着せられ今はこのようなヨレヨレの生活をしている、それでもいいなら自分を殺しても構わないと言い、それを聞いた主人公も今更どうしようもないと結局何もせずに別れました。
そうして冷静になったとはいっても、知人も何もないこの未来の世界でこれからどうして生きていこうと悩む主人公に、同じくコールドスリープから再蘇生したばかりの少女が話しかけ、スリープ以前に不治の病を抱えたがある薬品会社がその病を完治させる薬を新開発したので再蘇生し、以前の病気も治ったことを伝えます。その薬品会社というのも、主人公が生前に株式を購入していた会社で、いまや巨大な企業となっていることから、それこそ寝ている間に思わぬ財産を主人公は得ていたのです。こうした事態を受け、またもう一度やり直そうと主人公は再び生きる気力を持ち始める、というハッピーエンドで終わっています。
作者の光原伸氏もよく自分の作品解説で述べていますが、どう考えたってアンハッピーエンドで終わる話を無理やりハッピーエンドに持ってくることを心がけていたそうです。何もこの話だけじゃなく、割とホラータッチのおどろおどろしい話が多い中、このアウターゾーンは読後が非常に気持ちよくなるハッピーエンドで必ず終わるようになっており、現在でも話作りの際に私が最も参考にする作品です。
それで本題ですが、90年前後のSF作品にはよくあったのに最近はすっかり見かけなくなった話の類型として、今回タイトルに上げた「コールドスリープ」があります。これは人間を意図的に極低温状態に置くことで生命を維持したまま生体活動を停止させ、時間をおいた後で文字通り再び解凍による再蘇生をすることで、若さ(肉体年齢)を保ったまま解凍時の世界に舞い戻るという技術です。俗に言う、浦島太郎物のSF技術ですね。
これを題材に取った歴史的に古い漫画作品というと、まず上がってくるのは手塚治虫氏の「火の鳥」の、確か未来編だったかな。この作品では宇宙船にて航行する搭乗員が通常の航行中はこのコールドスリープで眠り続け、交代で宇宙船を操作する場面が描かれています。他の作品も大体こんなパターンでこのコールドスリープを使っており、長い宇宙航行の間に年齢を重ねないための手段としてよく使われていました。
こういったパターンに対して、より浦島太郎の話に近づけたパターンとして、過去の超技術があった時代にコールドスリープをした人間が移籍発掘などで掘り出され、何千年も後の現代に蘇るというような話もよくありました。
しかし、大してチェックとかしてる訳じゃないけど、なんか最近こういったコールドスリープが出てくる話を急に見なくなった気がします。ちなみにこのコールドスリープが出てくる話というのは、そのほとんどが悲劇的な結末に終わっていることが多く、これは恐らく話の原型となっている浦島太郎の話がアンハッピーエンドで終わることが影響していると思われ、大体の話の結末は無事蘇ったものの目覚めた世界は自分の暮らしてきた世界とは大きく変わっており、そのギャップにさい悩まされるという具合になっています。一番それをストレートに書いているのは、藤崎竜氏の短編漫画作品の「WORLDS」かな。
そういったアンハッピーエンドが多い中、唯一これに対抗したのが光原伸氏のこれまた漫画作品の「アウターゾーン」でしょう。これなんか自分より下の年齢の人にはもうほとんどわからないであろう作品でしょうが、この作品は一話完結形式の作品で、その中ででコールドスリープが出てきた回での主人公はまさにこのコールドスリープの研究者で、現在治療できない病気患者を未来の技術に託すために研究をしていたのですが、ある日同僚の研究者に騙され、自ら人体実験を申し出たことにされてコールドスリープの機械に入れられて研究の功績はおろか、恋人までも奪われてしまいました。
そうして数十年後、眠りに入った当初はまだ不確実だった再蘇生の技術が確立されたことによって主人公も未来の世界で再び目覚め、すわ復讐とばかりにかつての同僚の前に立ちます。しかし既に年老いた元同僚は貧相な生活をしており、彼が言うには主人公がコールドスリープをした後に主人公の恋人を奪ったものの、実はあの女はスパイで、研究功績を奪われた挙句自分は罪を着せられ今はこのようなヨレヨレの生活をしている、それでもいいなら自分を殺しても構わないと言い、それを聞いた主人公も今更どうしようもないと結局何もせずに別れました。
そうして冷静になったとはいっても、知人も何もないこの未来の世界でこれからどうして生きていこうと悩む主人公に、同じくコールドスリープから再蘇生したばかりの少女が話しかけ、スリープ以前に不治の病を抱えたがある薬品会社がその病を完治させる薬を新開発したので再蘇生し、以前の病気も治ったことを伝えます。その薬品会社というのも、主人公が生前に株式を購入していた会社で、いまや巨大な企業となっていることから、それこそ寝ている間に思わぬ財産を主人公は得ていたのです。こうした事態を受け、またもう一度やり直そうと主人公は再び生きる気力を持ち始める、というハッピーエンドで終わっています。
作者の光原伸氏もよく自分の作品解説で述べていますが、どう考えたってアンハッピーエンドで終わる話を無理やりハッピーエンドに持ってくることを心がけていたそうです。何もこの話だけじゃなく、割とホラータッチのおどろおどろしい話が多い中、このアウターゾーンは読後が非常に気持ちよくなるハッピーエンドで必ず終わるようになっており、現在でも話作りの際に私が最も参考にする作品です。
ハリー・モットーシリーズ
このまえ自転車に乗りながらふとこんなことを思いつきました。
・ハリー・モットーと移籍の意思
・ハリー・モットーと徹子の部屋
・ハリー・モットーと江夏の囚人
・ハリー・モットーと炎の特訓
・ハリー・モットーと不滅の巨人軍
・ハリー・モットーと阪神のプリンス(新庄)
・ハリー・モットーと球界の至宝(イチロー)
こんなことばっか考えて運転するから、危ない乗り方になるんだろうなぁ。
・ハリー・モットーと移籍の意思
・ハリー・モットーと徹子の部屋
・ハリー・モットーと江夏の囚人
・ハリー・モットーと炎の特訓
・ハリー・モットーと不滅の巨人軍
・ハリー・モットーと阪神のプリンス(新庄)
・ハリー・モットーと球界の至宝(イチロー)
こんなことばっか考えて運転するから、危ない乗り方になるんだろうなぁ。
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