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2008年12月27日土曜日

減給の理由、あれこれ(*^ー゚)b

警察署長“セクハラ”で処分(NHKニュース)

 リンクに貼ったニュースは、いわき中央警察署の署長ともあろう者があろうことか複数の女性警察官に対して何度もセクハラを行っており、その署長が今回正式な処分が発表されるのを受けて自ら願いを出して辞職したという事件を報道したニュースです。まぁニュース自体はよくあるセクハラ事件なのですが、この事件で私がちょっと気になったのはこのセクハラ署長への国家公安委員会からの処分です。結局本人は処分を受けずに退職したのですが、なんと課された処分内容は「減給十分の一、一ヶ月」との事で、これだけセクハラに対して世間が厳しい目を持つ時代になったにもかかわらずちょっとこの処分は甘すぎるんじゃないかと思いました。

 そりゃ一回のお触り程度だったらこの処分でもまだ妥当ですが、報道によると今年四月から数ヶ月の間に何人もの女性警察官にセクハラを行っており、状況と行動から察するに恐らくそれ以前からもやってきているであろうことを考慮に入れ、本来このような事例を取り締まるべく警察署長という身分を考えると一発退場レッドカードでも問題はない気がします。少なくとも、減給処分であれば一ヶ月なんて言わず一年以上は必要ではないでしょうか。

 と、こんな風に言うだけだったらわざわざ記事にしません。実はもう一つ、「減給十分の一、一ヶ月」というキーワードにつなげられる話を仕入れてきていたので、合わせてこのようにして記事にしようと思ったのです。
 これは私の知り合いのいる会社の話なのですが、何でも昨今の不景気を受けてその会社では既に役員報酬が下げられてはいたのですが、とうとう影響は一般社員にも及び、課長級以上は来年度以降の給与が一律10%カットされることが告げられたそうです。まぁこんな時代ですし早めの対応と前向きに見る以外はしかたがないのですが、給料カットが行われる期限については言及されておらず当面は不定期に続けられる予定との事です。

 ここで、最初の例と冷静に比べて見ましょう。
 片方はセクハラをして一ヶ月の減給、もう片方は真面目に働いているが社会的な影響を受けて不定期の減給。減給額はどちらも10%。なんていか、こう並べてみると物凄く後者が不憫に思えて仕方ありません。
 やっぱりいろいろ聞いていると、今どこの会社でもこのような社員への減給は行われており、そう考えると最初の警察署長への処分なんて本当に意味があるのか疑問に思えてきます。そんなだから私はこの処分はちょっと甘いのではないかと思った次第なのですが、結構恐いこといっちゃいますが、現在国の財政は文字通り火の車で私企業はどこも減給をやってるのだから、公務員も全体で課長級以上は給料を一律10%カットとかするべきじゃないのでしょうか。

 ちょっと政治の話にも関わってきますが、もし消費税などの増税を行おうものなら、民間人の側からするとそういった公務員切りをやらないととても納得できないでしょう。田原総一朗氏も首相権限でいつでも公務員のリストラは出来るのだから早々にやるべきだと主張しており、私も業務内容を見る限りでは首切りなりコストカットなり、もっとやるべきことはたくさんある気がします。

 にしても婦警さんのセクハラかぁ。制服好きだろうとやっちゃ駄目だろ(・A・)イクナイ!!

出版不況について思うこと

 今月はせめて投稿記事本数を四十本にしておきたいので、残り五日ですがちょっとスパートをかけていきたいと思います。

 さていきなりですが、「180円」と言われて一体何の価格かすぐにピンと来る方はいるでしょうか。実はこの価格、私が子供だった頃のマンガ雑誌「少年ジャンプ」一冊の値段です。ちょっとウィキペディアで調べてみるとこの値段は1989年頃の価格との事で、恐らくこのくらいの頃に私は初めてジャンプを買ったのだからこの値段をしつこく覚えていたのだと思います。
 それに対し、現在のジャンプの値段はというと実際に店頭で確認していないのですが同様にウィキペディアの記事を読むとなんと「240円」との事で、実にこの十数年で三分の四倍も値上げされていることになります。

 それを言い出すと1970年の発売当初は90円なのでこうした値上げも時代の変遷によるもの、といえば集英社を初めとした出版社は簡単かもしれませんが、私はこの値上げに対して率直に強く疑問を覚えます。というのも70年代から80年代の間は日本が高度経済成長期にあり、また90年度初頭も消費税の導入があったのでこの間に徐々に値段が上げられていったというのは理解できるのですが、90年代の後半は失われた十年の間ともあり、この時代を象徴する経済現象のデフレの影響を受けて様々な物の物価がどんどん下がっていった時代でありました。いくつか例を上げますと、90年代中盤まで三十万円はくだらなかったパソコンの値段は2000年に入る頃には十万円前後にまで下がり、飲食店もさすがに今は落ち着いてきましたが一時期はマクドナルドや牛問屋の値下げ競争が進んで大幅に下がっていました。

 そんな中、私が身の回りで購入する物の中で唯一一貫して値段が上がっていったものというのが先ほどの少年ジャンプも含むマンガ雑誌を初めとする書籍です。
 実際にどれくらい上がっているのかと、ちょっとあまりこういったデータを普段は取り扱わずやや苦手なのですが、国の統計局(社会学をやってたら知ってなければいけない機関)のホームページから年別の消費者物価指数のデータを出して見てみたのですが、正直驚きを通り越して呆れました。この消費者物価指数というのは、「家計を基準に、その商品やサービスを購入するのに必要な支出の割合」を商品ごとにまとめたデータで、簡単に言えばそのモノの物価がどれだけ上がっているのかを調べるデータのことです。

 結果から言わせてもらうと、やはり書籍の物価指数データは異常な数値をはじき出しています。文房具や建築ブロックなどはそれこそほとんど変動がないのですが、家電なんかは見ていて気の毒になるくらい物価が落ちており、その他もやはり生活物資などはどれも低下しています。しかしこれが書籍になると話は違い、少年雑誌で見ると91年の消費者物価指数90.5に対して07年度は99.6と、10%程度も上昇しており、更に書籍全体で見ると91年の69.7に対し07年度は101.8と、なおも上昇を続けている傾向にあります。

 日本では出版不況といわれ始めて既に久しくあります。大体95年くらいから「本が売れなくなってきた」という話がちらほら聞こえるようになってきて、それが現在にまで続いているのでは既に十年以上も言われ続けていることになります。そんな状況なもんだから、「ハリーポッターシリーズ」が出た際には「出版会の救世主」とまで言われたのですが、結果から言えば「ハリポタブーム」の後には何も続きませんでした。

 さてここでクエスチョンです。本が売れないにもかかわらず、何故出版会社は値段を上げていったのでしょうか。出版関係の会社にいる人間とよく会っているうちの親父に言わすと、「本が売れないから利益が出ず、それで仕方なく上げているらしい」と返ってきたのですが、私に言わせると実態は逆で、値段を上げているから本が売れてないんじゃないかという気がします。
 そりゃ高度経済成長期のインフレ真っ只中なら上がっていくのも自然ですが、なんでもってデフレ下で消費者物価指数にもはっきり表れるくらいに値段が上げられていったのかとなると明らかに不自然です。特に少年ジャンプを初めとする少年マンガ雑誌に至っては、毎月の少ない小遣いで購入してくれる小中学生がメイン購読者層なのに値段をこれほどまでに上げていくのは常軌を逸しているのではないかとすら思います。ついでに書くと、単行本のジャンプコミックスもこの前私が買った「クレイモア」の十五巻は420円でした。これも私が小学生の頃はダイの大冒険とか390円だったのに。

07年の一人当たりGDP、日本19位 G7で最下位(NIKKEI NET)

 リンクに貼ったニュースに書かれてあるように、かつてはルクセンブルクに次いで二位であった日本の一人当たりGDPは現在、見るも無残なまでに低下の一途を辿っています。それほどまでに個人の収入が先細っている中で何故出版会社はこれほどの値上げを行ってきたのか、言い方は悪いですが馬鹿なんじゃないかとすら思います。出版不況とかなんとか抜かしては被害者ヅラしていますが、コスト削減などの経営努力を真面目にやってきた姿を私は見たことがないですし、挙句の果てには一部の出版社なんか「最近の日本人は知的好奇心が少なくなってきた」と、暗に日本人の知性が下がったことが原因だなどと言い出すのもいますが、それは体のいい責任逃れな発言にしか思えません。そういった知性の低下にどう立ち向かうのかが、出版社の一つの役割なんだし。

 おまけに、私はどうも最近の書籍は値段の割に中身が異常にくだらない本が多過ぎな気がします。ハードカバーの本を買おうものなら2000円近くは取られますがそのくせ中身はぺらぺらで、それならばまだ実際によく売れている新書の本の方が内容にも優れていることが多々あります。そんなわけで私がよく買うのは新書なのですが、この新書でも必ずしもいい本が手にとれるわけではなく、いい本だったときには素直にラッキーと思うしかありません。前に買った野球の新書なんて滅茶苦茶つまらなかったし……。
 マンガでも同様です。かつてジャンプの値段が200円だった頃に連載されていたマンガに対し、今対抗できる連載マンガはどれほどあるのか非常に疑問です。値段も高くなる一方で質は下がる一方、こんな悪循環で本なんて買う馬鹿いませんよ。

 何も書籍に限るわけではないのですが、最近の一部の商品やサービスに対してどうも値段に見合わないものが多くあるような気がします。その一方でこの前私が買った1TBのハードディスクなんて一万四千円で、「本当にこんな値段で買っていいものか」と、逆に不安になった値段もあります。後者はともかく前者に対しては、もう少し適正価格について調査なり検討なりをするべきだと思います。特に書籍は先ほども言った通りに国民全体の知性に関わる分野なのですから、もう少し使命感を持って企業努力もはっきり見えるくらいにやってもらいたいものです。

  参考サイト
総務省統計局

2008年12月26日金曜日

多様性を壊す存在

 私がよく人にする話に、アッシリア帝国とアケメネス朝ペルシアの対比があります。
 どちらも古代オリエント地方を統一した王国ですが、アッシリアは異民族に対して圧政を敷いて統一後まもなく反乱を招いて崩壊した王国で、後者は逆に異民族に対して融和的な政策を取り自治も認め、マケドニアのアレクサンドロス大王が責めてくるまで数百年もの長い間維持した王国です。

 この話で私が何を言いたいのかというと、歴史的に民族同士の異文化や違いに対して寛容な社会ほど安定し、長持ちするという事実です。何もこの例に限らず歴史的に国民や異民族、異宗教に対して圧政や弾圧を行った君主(ローマのネロや秦の始皇帝など)は批判され、逆に宥和政策を取った君主(アイユーブ朝のサラディンなど)は高く評価される傾向があり、社会的にも後者の宥和政策を取る国の方が反乱も少なく、また治世と呼ばれるほど安定した社会を築いていることが多いです。

 このブログでも私はあれこれ社会問題などをよく取り上げていますが私がそうして訴えていく中で社会や読者に何を一番求めているのかというとずばり、「社会を安定させることへの重要性」で、私は安定した社会において初めて人間は自身の幸福を追求、実現できるものだと考えております。
 ちょっと話が抽象的なのでいくつか例を出すと、たとえば戦争や紛争、法律の形骸化が起きてしまえば大抵の人間は人生設計を行うことが出来なくなります。戦争に至っては、学校で勉強して好きな職業につきたいと若者が願っても男性の場合は無理やり徴兵されたり、女性でもいろいろな面で生活で苦労を強いられることになり、このように社会が安定しなければ人間は自らが望む行為を一切実現出来なくなります。まぁぶっちゃけ、社会が安定していることに越した事はないと考えてください。

 では社会をどのように、またはより安定させるにはどうすれればいいかですが、政治や啓蒙活動をしっかり行うのはもとより個人単位でそれを最も大きく左右させるものはといったら私は「慣用性」、つまり自分とは違うものに対してどれだけ許容できるかという腹の太さが一番影響すると考えています。
 根拠は、と言われたら実は結構曖昧で、先ほどの歴史的事実の例くらいしかありません。ただ皆が皆して似たような人間ばかりで構成される社会に対して、いろんな人間がいろんな意見を持ち合い。共有するといった社会の方が傍目にも活力があるように思え、またそんな社会ほど幸せそうな気がします。

 ちょっと力の入った説明を行いましたが、要するに私は様々な意見、文化を持ついろんな種類の人間が相互に認め合って協調していける社会を理想としており、その理想の社会のことを「多様性のある社会」と称して日々周囲の人間へとその社会の有用性と実現方法の啓蒙活動を行っております。

 この「多様性のある社会」に何故先ほどの「慣用性」が関わってくるのかというと、たとえば日本人の感覚からしたら韓国人が食事中に肘を突くのを「無礼だ」とか思うかもしれませんが、韓国人、もしくは韓国の文化からするとそれはごく自然な行為です。こうした差異に対して、「相手は相手なんだし、自分は自分なんだ」と互いに軽く流し、食事中にそれぞれのマナーを認め合っていられることこそ多様性があると言え、相手に対して自分のマナーや文化を押し付けず、逆に許容する慣用性が必要となるからです。
 まぁさすがに、あからさまに周囲に対して実害を生みかねず、社会に対して害しか生まない「生贄」や「報復」といった文化、悪習までは許容する必要はないですが。

 私が何故こんな社会を目指すのかというと、一つには絶対多数の幸福の実現で、もう一つは私自身が周囲とははっきりとわかるくらいに毛色の違う人間ゆえにこれまで様々な面で差別されてきたと認識しており、自分が有利に生きれる社会に実社会を持っていくためと、自分のように変わっているだけで辛い思いをする人間をこれ以上出したくないとの願いから来ています。

 そんな私にとって、今回の記事の題となっている「多様性を壊す人間」というのは不倶戴天の最大の敵であります。
 この多様性を壊す人間というのは具体的にどのような人かというと、単純に言って些細な違いすらも認めず自らの流儀や価値観を他者に強制的に押し付けようとする人間です。たとえば特定の地方や学校の出身者であるだけでほかの人間と差別したり、特に実生活に影響を及ぼすことでもない意見の違いから徹底的に相手を批判したり実力行使を行う人間のことです。
 私の体験だと、高校生の頃の学級会で文化祭に何を出すのかと案を皆で募集していたので私が一つの意見を出すと、「お前なに言ってんだ!」と怒鳴られたことがあります。これなど、意見を決定する段階でもないにもかかわらず他者の考えを否定する典型的な例でしょう。

 細かい根拠までは言いませんが、このような人間こと固定した価値概念を持ち他者の意見や価値観を認めない人間が増えればまず間違いなく多様性は薄まり、非常につまらなくてまた安定性のない社会になると私は確信しています。そのため、相手の価値観や違いを出来るだけ認めろと言っておきながら我ながらやや矛盾したような意見となるのですが、私はこのような人間を可能な限り排除することこそ自分の使命だと考えています。

 ここでようやく前回の記事の話に戻ります。前回の記事で私はしつこく私に自らの入っている宗教に入信しろという元友人に絶交をしたと書きましたが、私は元友人と最後に会った段階で、「彼はきっと、彼の宗教に入信しないでいる私の存在を許容出来ないのだろう」と認識しました。言ってしまえば、彼は彼の信じるものを信じ、私は私で信じるものを信じ続けることが、お互いの付き合いになにも影響を与えるように思えませんし、この程度の相手の価値観を認め合うことはそれほど難しいことではないと思います。
 しかし元友人はそれが出来ませんでした。こんな瑣末な意見や価値観の違いすら認められず、あくまで自己の宗教を相手に押し付けようとする行為はまさに多様性を壊す存在でしかありませんし、会う度に自己の宗教の正当性を怒鳴られ続けて私ももはやこれ以上相容れることは出来ないと感じ、絶交するに至りました。

 私は別に宗教が何でもかんでも悪いというわけではありませんし、勧誘することも宗教の存在理由上からあってしかるべきだと思っています。
 今はどうだかわかりませんが、京都の東本願寺では門の前に大きな看板に、
「バラバラで一緒」
 という文字が長い間書かれており、私の理想はまさにこの通りです。極論を言えば、宗教家にとって何が重要なのかといったら相手の宗教をきちんと認める態度です。相手の宗教を認めた上で自分の宗教ではこんなだが、もしよければやってみないという具合で勧誘が出来ないのであれば、それは相手の価値観を根本から見下した態度ではないかと思います。元友人に私は、それを感じました。

2008年12月25日木曜日

失われた十年とは~その十四、フェミニズム~

 さていよいよ中盤の山場というか、書いてて敵ばかり作りそうなフェミニズムの項目です。結論から言うと、私は失われた十年に当たる90年代こそ日本で最もフェミニズムが強く、また暴走した時代だったと考えています。

 まずこのフェミニズムですが、スタート的にはやはり女性の権利獲得運動から始まりました。今でも活躍なされている田島陽子氏もこの時期からテレビに出るようになり、90年代初頭は男女同権運動の元で女性の権利、地位向上の名目でフェミニズムの正当性が強く叫ばれ、私自身も小学校時代にその辺を強く言い含められた記憶があります。
 誤解しないでほしい点として、私は当時の女性の権利運動は意義深かったと考えています。というのも確か90年ごろですがヨーロッパでテレビコマーシャルの品評会があり、どっかの国が作った明らかに日本人と思しき飛行機の乗客がスチュワーデスにセクハラをする映像のコマーシャルが大賞を取り、日本のどっかの団体がこれに抗議したところ他国から、「いや、実際によくあることじゃないか」と一蹴されたようです。この例のように、当時はよく文物でも描写が書かれていたようにセクハラが日常的に行われていたと私は考えています。そしてもしそうだとしたら、少なくとも私の目の前で現在セクハラが行われなくなっただけ当時の女性運動は実を結んだといっていいでしょう。

 またこれは私の高校時代の女性教師の話ですが、その先生は生徒時代に勉強もよく出来て本人としては京都大学に進学したかったものの、先生の両親が女性は勉強するべきではないという観念の元に結局御茶ノ水女子大に進学させられたという話をしたことがあり、当時と比べて現在では女性でも好きな職業に就けるのだからもっと女子生徒は挑戦をしてほしいという話をしたことがありました。実際に一昔前の女性は職業選択の面で大幅に制限を受けており、現在でも女性は一般的に男性と比べて就職に不利だとは言われておりますが、それでも当時に比べれば随分と前進をしたと言えるでしょう。

 それが何故、最初に私が表現したように暴走するようになったのでしょうか。
 一つは前回の言葉狩りの記事で書いたように、途中からわけのわからず観念的なものに対して言いがかりのような平等の押し付けが行われるようになったからです。この平等の押し付けですが、一番大きく問題となったのは表現上の問題で、作家の筒井康隆などは自身の小説が癲癇患者の差別に当たると言いがかりをつけられ一時断筆宣言を行っております。
 このように一部の障害者、被差別団体が中心になり文物に対して表現規制を訴えてきました。また出版社の側もこのような社会的批判を恐れ、自主規制の名の元で様々な表現に対して封印を行うという事例も数多く報告されています。

 ここでちょっと注意してもらいたいのは、先ほど一部の障害者、被差別団体と私は表現しましたが、私の見方だとこれらの団体の多くは真っ当に活動を行っていると思いますが、やはり中には自分たちが差別の被害者であることを錦の御旗のようにして不当な要求を行ってきた団体も少なくありません。一例を上げると数年前に発覚した奈良市の被差別団体に属していた市職員が不当な要求を何度もし側に対して行っていた事件があり、非常に悲しいものですがこういった事例は何も奈良市に限らず、全国あちこちで多かれ少なかれ行われているという話を私も聞きます。

 一見すると明らかに不当かつ横暴な要求が何故このように通ったりしたのか、一言で言えば前にも少し書きましたが当時の日本には被害者であれば何をしても許されるというある種ずれた観念が強く渦巻いていたことが原因でしょう。こうした空気が何故醸成されたかですが、厳しい意見、もとい安直な結論かもしれませんがやはり当時のマスコミが何でもかんでも弱者(とされるもの)を祭り上げて不当な要求であろうと被害者側をなんでもかんでも強く応援する姿勢があったことに尽きます。恐らく見ている視聴者の側も内心では、「こりゃこっちの方が悪いんとちゃう」とか思うような報道もあったと思いますが、マスメディアを持つマスコミがある程度情報を押さえつけていた時代であったのでそういった声はあまり出てこなかったのでしょう。

 最初に挙げた女性運動も、90年代の後半に至る頃には当時の私からしても首をかしげるようなおかしな要求を掲げる団体が現れるようになりました。いくつか挙げるとしたら、社会で女性は虐げられているのだから公共施設の使用料を女性には安くしろ無料にしろだとか、母子家庭は大変なのだから現状以上に自治体からの財政補助を増やせなどという要求が公になされているのを私は見ています。後者の要求に至っては、現在も母子家庭には補助がありますが父子家庭にはないという問題があり、明らかに的を外した意見だと考えています。

 何故フェミニズム運動がこのように暴走していったのか根本的な原因を言うとすれば、それはやはり被差別、不平等の是正すべきだという空気を一部の邪な団体が利用し始めたに尽きます。そして社会の側、といってもこれはマスコミとかそういった団体を応援していた左翼政党だけだったかもしれませんが、それらの要求が真に正当性があるのかを考えずに応援し続けたのが更に助長させていったのだと思います。いうなれば、「被害者は何をしても許される」という何度も私が使っているこの観念がこうした物を作ってしまい、自分が被害者を装うことで好き勝手するのフェミニズムが格好の化けの皮と認識されたがゆえに、本来の目的から外れた不当な要求を行う手段となってしまったのでしょう。

 さてここまで言えば察しのいい人ならわかるように、個人が直接情報を発信できるインターネットの登場によってこの流れはせき止められました。前述したようにやっぱり私のように見ていておかしいと思っていた人間は潜在的に多かったのか、今ではネット上で「フェミニズム」という言葉が出てくると中には激しい批判が集まるサイトも数多く、またこれに「左翼」という言葉がついたりすれば大抵は荒れに荒れます。そして実社会上でもフェミニズムへの関心は非常に薄れ、私が見ているところ元々のフェミニズム団体も名前を「ジェンダーフリー」に鞍替えしてこうした批判を避けようとしているように見えます。くれぐれもいいますが、真っ当な団体は真っ当な活動を至極真面目に行っていると私は考えています。

 また同様に、ってかこの辺は前にも書いた私の「ネット右翼」の論文で詳しく分析されているのですが、マスコミの側でもこうした動きに対応してこのような話題を近年はほとんど取り上げなくなった気がしますし、先ほどの奈良市の市職員の事件など、逆に公然と批判や取材をするところも増えてきています。結論としてはやはり、間違ったことをすればいずれ返ってくるといった所でしょうか。

2008年12月23日火曜日

企業内における少子高齢化

 以前に恩師と会った際、こんな話を聞きました。

「よく学部生とかは卒業論文で非常に悩むでしょ。そういう時には教授があれこれ指導をするよりも、ほんの一年や二年前に同じように悩んだ大学院生が指導してあげる方が体験も近いからずっといいんだよ」

 言われて見るとなるほど、確かに人から何かを教わる際には大先輩と呼ばれるような年齢の離れた人よりもまだ年齢の近い人間の方が教わりやすい気もしますし、逆に自分が教える際も、小学生に勉強を教えるのなら自分が中学生だった頃の方がうまく教えられたような気がします。
 実際に今月初めから後輩の卒業論文を私もあれこれ指導しましたが、やっぱり教えてて「自分もここで詰まったなぁ」とかいろいろ思い当たったり気づく点も多かったと思います。

 ここで話は変わりますが、現在の日本企業はどこも社員全体割合で年齢別ピラミッドを作ると、見事に三十台社員の層だけがぽっこりと穴が空くように薄くなります。これはなぜかというといわゆる就職氷河期の間にどの企業も採用を絞ったせいで、この氷河期時代に学校を卒業した世代の多くが企業社会に入ることが出来なかったせいです。 
 そして氷河期が去った現在ですが、再来年度の就職戦線は早くも不安視されていますがそれでもここ数年は売り手市場とまで言われるほど就職率が高まった年代でした。それにもかかわらず新卒就職者の五割は三年以内に辞職してしまうという、なんだか聞いててアンバランスな話がよく出てくるのですが、最初の話を聞いた時にもしかしたらこれが影響しているのではないかと素直に思いました。

 つまりどういうことかというと、現在どこの企業も三十歳前後の社員が不足しているため、いざ新人が入ってきたとしても新人ゆえの悩みを共有、相談できる直近の先輩社員がいないため、そのような悩みが解消されずに若者は辞職してしまうのではないかということです。しいて言うとしたら、これは企業組織レベルにおける少子高齢化問題といったところでしょうか。

 やはり何にましても年齢別人口バランスというのは整っていることに越したことはありません。こうした企業内における少子高齢化の問題を解消するにはやはり、企業体験こそもっていないものの三十歳前後の社員を企業は率先して雇っていくことだと思います。まぁなにも、こんだけ派遣切りが行われている今に言うことではないのですが。

ヴァンパイアハンターとヴァンパイアセイヴァーについて

 前に書いた「ゲームのヴァンパイアシリーズについて」の記事の中で書いたように格闘ゲームのヴァンパイアシリーズが全部入った「ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション」を私は買ったのですが、この記事の中でも書いた様にこのシリーズで私は「ヴァンパイアハンター」をセガサターン版で昔に買って一番やりこんでいるのですが、何故だか当時はその後に出た次回作の「ヴァンパイアセイヴァー」にはあまり食指が伸びませんでした。何度かゲームセンターではやったものの、家庭用とかで買ってやろうとかそういう気持ちにはなりませんでした。
 そうしたら案の定、今やってみてその理由がわかりました。

 結論から言うと、「ハンター」と比べて「セイヴァー」は非常に面白くありませんでした。リリスとかバレッタとか魅力的な新キャラが入っていてなんで当時にハマらなかったんだろうとか思ってたのですが、改めてやってみるとやっぱり全体のゲームバランスが「ハンター」と比べてとてつもなく低下しており、なんというかとても同じゲーム会社が作ったとは思えない出来になっています。

 私自身は格闘ゲームについてそんな語れるほどやりこんでいるわけではないのですが、あくまで素人の側からの意見としてどうも「セイヴァー」は「ハンター」と比べてバランスが悪いように思えて仕方ありません。元々このシリーズ自体が各キャラのクセが強くて使い慣れるのに非常に手間取るゲームですが、まだ「ハンター」の時だったらどのキャラでも使い慣れればそこそこ戦っていけるようになったのですが、「セイヴァー」だとこのキャラごとのクセが前以上に強くなり、使えるキャラと使えないキャラの差が歴然としてきています。敢えて例えて言うなら、「セイヴァー」は初代ストⅡのザンギエフのようなキャラばっかで占められて、リュウとかガイルのような万能キャラがほとんどない格闘ゲームということです。

 その上、これはあくまで私の実感なのですが、どうもボタン操作の反応がハンターより鈍い気がします。パンチボタンを押しても即座にパンチを出さず、パンチを出すまでのモーションが遅くて隙が多く、見ていてスローモーションを再生しているような感じで、相手もそんな感じだから見ているこっちの反応からするとイライラします。まだ「ハンター」だったらこういうこともなかったのに。

 そんなわけで、今日ちょっとバレッタというキャラでプレイしていたら滅茶苦茶てこずり、しこたま不平不満を怒鳴ったせいでまだ声が枯れています。あとタンスの角を八つ当たりで思い切り殴ったせいで手首の辺りが裂けて、なんか刃物で切ったような血のにじんだ痕まで出来てしまい、自業自得ですが散々な一日になりました。大体、あのベレッタが使い辛いんだよ。

 でまぁ、最終的にどうしたかですが、ここが一番のミソなのですがどうも「セイヴァー」の対コンピューター戦で一番の攻略法は何かというと、ただ相手の動きに合わせて強キックを出すだけなのです。フェリシアというキャラを使った時なんてほんとにこの強キックだけで全部ストレート勝ちしちゃったし、下手にあれこれ動かすよりよっぽど確実に勝てます。

 なんていうか、2D格闘ゲームが衰退していったのがよくわかったような気がします。

男女が異性に求める理想像のすれ違い

 昨日、一昨日と久々にブログをサボっていました。理由は忘年会が続いて帰宅時間が遅くなり書く暇がなかったのですが、昨日はリンクを結ばせてもらっている「フランスの日々」のSophieさんとゆっくり話す機会があり、非常に有意義な一日を過ごしていました。

 さて本題に戻りますが、今もし仮にお金があるのなら私がやってみたい調査の一つに、「男女は異性に対してどんな理想像を持っているのか?」という調査テーマがあります。何故こんなものを調べたいのかというと、どうも私が見ている限り、男女間で異性にモテる同性像、または好みの異性像というイメージにすれ違いのような隔たりがあるように思えて仕方がないからです。

 この疑問を最初に持ったのは知り合いに勧められて斜め読みしてみた、確か「小悪魔な女の子になる方法」というそこそこ女性に売れた本からでした。この本によると「小悪魔な女の子になって、好きな男の子をめろめろにしちゃえ、キャハッ」ってな感じで小悪魔系ギャルとやらにになる指南が書かれているのですが、その中に書かれている一つの指南に、

「相手のまつげを触りながら話すと、相手の男の子は好感度アップ!」

 という記述があり、なんていうか一見してこんな女は相手にしたくないと私は思いました。普通にまつげなんて触られたら、目をえぐられそうで怖いだろ(;゚Д゚)

 とまぁこんな風に疑問を持って以降、やはり巷で聞いている、言われているいわゆる「モテるイメージ」というのは男女間、ひいては同性間でも大きな隔たりがあり、それが現在のような晩婚少子化を引き起こしているのではないかというわけです。たとえば男性の側に属しますが一般人とはかなりずれている私に言わせると、好みの女性のタイプはやはり地味、素朴、素直の三拍子が揃って浪費癖のない女性で、外見面では化粧の濃い女性など以っての外です。また性格面では素直で優しい性格に越したことはないのですが、いざマウンドに立つと内角をえぐるシュートをガンガン投げ込むような大胆な面もあればなおよいです。実際にシュートが投げれなくともいいから。

 更に言うと、やはり男性陣はネットの掲示板などを見ていると女性に対して純粋さを求める割合が強いと思います。私で言うと先ほどの素直さなどで、逆に言うと最初の小悪魔系は逆に嫌われるタイプのように思えて仕方ありません。にもかかわらず小悪魔系は一つのジャンルとして成立し、先ほどの本も古本屋に並ぶ程度には売れるというから不思議です。

 という具合の内容を昨日にSophieさんに話したら、こうした異性に求めるイメージのずれが起きる原因の一つとして、ファッション系商業界の影響があるのではと指摘がありました。言うまでもなく、化粧品会社は化粧品を使ってもらって売り上げ増やして何ぼです。では使ってもらうにはどうすればいいかといえば単純に、「化粧を多く使えば相手の男性は振り向く」と言うに決まっています。また服のファッションや先ほどの本でも、たとえ男性人の女性に求めるイメージの実態からかけ離れているものであっても、「こうすればモテる」と言って販売促進が行われることは大いに考えられます。もちろんこういった現象が起きるのは女性に限らず、男性の側でも十分に起きていることでしょう……といっても、やっぱり女性の方がこういうプロモーションが強いけどね。

 また、再び男性の側である私の意見を言わせてもらうと、一体どんな男性像を女性が求めているのか、どうも情報が錯綜しすぎてわからない気がします。どうも私が聞いていると、女性が男性に求める条件としてまず年収が一千万あるとか、スポーツをやっているとか、家事をするとかいろいろありますが、中には現実離れしたものもあり一体本当にこんなイメージ像を持っているのか、また何を一番重要視しているのかも判断しづらいです。

 こうした男女間で「モテるとされる同性像」と「求める異性像」に大きな隔たりがあり、言っちゃなんですが互いにちぐはぐなことをやり合って恋愛が生まれず、ひいては社会問題となっている少子化までもが起きているのだと思います。そのすれ違いを起こさせている主犯は先にも言ったとおり、わけのわからないものを流行らせようとするファッション業界の各企業で、こうしたイメージのずれを是正するためにも少子化を解消するためにも、「何をすれば異性にモテるのか」を測る調査というものをやってみたいものです。金のある研究所とかやらないかな。