・NHK「その時歴史が動いた」が終了(msnニュース)
リンクに貼ったニュースの通りに、NHKの人気歴史番組の「その時歴史が動いた」が今度終了するらしいです。私もこの番組を非常に気に入っており、毎週というわけではありませんが高い頻度でよく見ていただけに非常に残念な気がする一方、既に九年も続いてきたことから題材にする歴史事件も少なくなっていることが予想されることから、今の時期がいい潮時なのかもという気もします。
さてこの番組の醍醐味というと確かによく編成された番組内容もさることながら、やっぱり司会者の松平定友氏のあの見事な解説こそが一番でしょう。私が松平氏の話し方に関心を持つようになったのはある雑誌記事にて、彼は話し方に独特の間を設けるために多くの人を惹きつけるという評論を読んでからで、それ以後注意して聞いてみると確かに他のアナウンサーや司会者と違い言葉と言葉の間の取り方がうまく、人を惹きつける話し方というのはこういうものかと改めて尊敬しました。
私もよく人から滑舌がよいとか話し方がうまいと言われることが多くて結構話し方については自分でも意識しており、どうすればもっとうまく人に聞かせられるかを事ある毎に考えています。そのため、実はここだけの話ですがこの松平氏の話し方もできることならば身につけたいと、テレビ番組を見ては技術を盗まんばかりに研究してはよく真似をしていました。特にさっきも言ったようにあの言葉と言葉の間こと、話の緩急のつけ方こそが松平氏の話し方の一番の魅力だと考えており、それこそただよどみなくつらつら話すだけだったら私でもできるので、この松平氏の間の取り方を一時期は非常によく真似していました。
その結果ですが、最近はあまりないけど以前によく友人からこんな風に言われました。
「花園君ってさ、一気にブワーっと話すかと思ったら突然黙ることがあるよね。あれ、結構怖いんだけど……」
生来、私は話す速度が非常に早い口です。中国人に日本語を教えた時も、「あなたの発音ははっきりしていて聞き取りやすいけど、話すのが誰よりも早い……」と言われたこともあるので折り紙付きです。そんな私が松平氏の物真似を中途半端にするもんだから、先ほどの友人のように緩急が急激な、意味不明な話し方となってしまったようです。
ちなみに私は意識していないのですが、どうやら電話でも同じことをやっているらしく、「電話の時の花園は一味違う」と陰で恐れられていた時期があったそうです。最近はあまり間を取らずに、延々と話してスタミナが切れると急に黙るという話し方が定着しつつあります。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年1月18日日曜日
この不況は一体どれくらい続くのか?
さて年が明けてもう三週間近く経ちますが、依然と世の中は不況の二文字一色で日経平均も先週は一時八千円台を割り込みかけました。そんな状況から「百年に一度の大不況」と今の不況はよく称されていますが、じゃあ一体どれくらいこんな不況が続くのかという予想はあまり聞いたことがないので、ここは一つ各考慮すべき点を挙げつつひとまずの予想を立ててみようと思います。
まず百年に一度と言うだけあり、確かに今回の不況は影響が大きいです。よく不況は何故存在するのかという意見に対し好況があるからだという意見がありますが、まさにこの言葉の言う通りに私は基本的に経済というのは好況の分だけ不況が生まれるものだと考えています。
たとえを出すと、毎年自動車が必要な人に行き渡るのに百台必要なところなぜかその年は二百台受注が来て作ったとします。そして次の年にも同じく二百台を作って販売するのですが、先にも書いたとおり自動車を買う必要がある人は毎年百人で、二年で二百人しかいないのにこの時点でもう四百台も作ってしまっています。すると更にその次の年になると市場にはすでに二百台も余分な車があり、車が必要な人はそっちの余分な二百台のうちから一年で百台ずつ買うので、自動車を作ってきた会社は二年間の間一台も作る必要がなく、また販売もできないので売り上げに困ってしまいます。
かなり大雑把ですが、不況というもののメカニズムは大体こんなもんです。
なので、これまた単純にこれまでの好景気の分だけ不況が続くとするとしたら、98年にロシアがデフォルト(債務不履行)をしたことから世界経済が一時冷え込み、それ以後もITバブルが始めるなどしばらく不調でした。その後、大体2002年から中国経済の躍進が始まりそれ以降は好景気が続いたので実質02~08年までが好景気の期間だとすると約六年間となり、つまることはこの不況も回復まで単純計算で六年かかるとして、2014年までということになります。
もちろんこんな単純に計算できるわけではないのですが一応一つの案として出しときます。これに対し個々の状況を見ていきましょう。
まずかつての1929年大恐慌ではこちらでも発信源のアメリカは延々と不況に苦しみ、その中でニューディール政策などあれこれ対応策が出てきたのですが、最近知ったのですがもし二次大戦が開戦されてなければ、あの時アメリカは不況から脱することができなかったという説があるそうです。これが何を表すのかというと察しのいい人ならわかりますが、つまるところニューディール政策というのは世界的不況(一国でもかな)に対して何の効果もなく、短期間に大量の物資や資源を消費する戦争が起こらない限り不況はすぐには終わらないということです。実際、日本も戦後は朝鮮戦争やベトナム戦争のおかげで立ち直れたんだし。
ただこの世界恐慌の頃と現在で最も違う点は、言うまでもなくネットの発達による資金移動の高速化です。それこそクリック一つで一万ドルが動く時代ともあり、日本単体の経済状況は悪くなかったにもかかわらず一挙に巻き込まれて不景気となりました。あの大恐慌の時代ですら世界全体が深く巻き込まれたことを考えると、単純に日本一国で景気をよくしようとしても周りが悪ければどうしようも抗えないことになります。
また日本は一時は失われた十年の不況から脱したものの、その際は中国やアメリカの好景気に引っ張られたというのが明らかなのに比べると、今の世界全体で悪いことを考えるとあの時代以上に困難な状態だとも言えます。
つまるところ、今の不景気はあの失われた十年以上に事態が深刻なため、あの時代の日本政府の政策ミスなどを考慮しても最低五年、下手すりゃ十年以上の年月が景気回復のために必要なのではないかと予想します。それこそ今では派遣難民の扱いが大きな問題となっていますが、大恐慌の頃は東北地方で娘の身売りが相次いだといいますし、あと数年もすればなんであんなことで騒いでいたのかと思うくらい状況は悪化しているかもしれません。
しかし逆を言えば、景気回復のためにそれくらいの年月が必要だとあらかじめ想定して腰を据えた長期的な政策を用意することで、その際のダメージを最小限に減らすことが出来ます。特に今回は日本一人で頑張ってもしょうがないので、世界全体の様子を見ながら如何に国民生活を破綻させずにしぶとく生き残ることが重要だと思います。
まず百年に一度と言うだけあり、確かに今回の不況は影響が大きいです。よく不況は何故存在するのかという意見に対し好況があるからだという意見がありますが、まさにこの言葉の言う通りに私は基本的に経済というのは好況の分だけ不況が生まれるものだと考えています。
たとえを出すと、毎年自動車が必要な人に行き渡るのに百台必要なところなぜかその年は二百台受注が来て作ったとします。そして次の年にも同じく二百台を作って販売するのですが、先にも書いたとおり自動車を買う必要がある人は毎年百人で、二年で二百人しかいないのにこの時点でもう四百台も作ってしまっています。すると更にその次の年になると市場にはすでに二百台も余分な車があり、車が必要な人はそっちの余分な二百台のうちから一年で百台ずつ買うので、自動車を作ってきた会社は二年間の間一台も作る必要がなく、また販売もできないので売り上げに困ってしまいます。
かなり大雑把ですが、不況というもののメカニズムは大体こんなもんです。
なので、これまた単純にこれまでの好景気の分だけ不況が続くとするとしたら、98年にロシアがデフォルト(債務不履行)をしたことから世界経済が一時冷え込み、それ以後もITバブルが始めるなどしばらく不調でした。その後、大体2002年から中国経済の躍進が始まりそれ以降は好景気が続いたので実質02~08年までが好景気の期間だとすると約六年間となり、つまることはこの不況も回復まで単純計算で六年かかるとして、2014年までということになります。
もちろんこんな単純に計算できるわけではないのですが一応一つの案として出しときます。これに対し個々の状況を見ていきましょう。
まずかつての1929年大恐慌ではこちらでも発信源のアメリカは延々と不況に苦しみ、その中でニューディール政策などあれこれ対応策が出てきたのですが、最近知ったのですがもし二次大戦が開戦されてなければ、あの時アメリカは不況から脱することができなかったという説があるそうです。これが何を表すのかというと察しのいい人ならわかりますが、つまるところニューディール政策というのは世界的不況(一国でもかな)に対して何の効果もなく、短期間に大量の物資や資源を消費する戦争が起こらない限り不況はすぐには終わらないということです。実際、日本も戦後は朝鮮戦争やベトナム戦争のおかげで立ち直れたんだし。
ただこの世界恐慌の頃と現在で最も違う点は、言うまでもなくネットの発達による資金移動の高速化です。それこそクリック一つで一万ドルが動く時代ともあり、日本単体の経済状況は悪くなかったにもかかわらず一挙に巻き込まれて不景気となりました。あの大恐慌の時代ですら世界全体が深く巻き込まれたことを考えると、単純に日本一国で景気をよくしようとしても周りが悪ければどうしようも抗えないことになります。
また日本は一時は失われた十年の不況から脱したものの、その際は中国やアメリカの好景気に引っ張られたというのが明らかなのに比べると、今の世界全体で悪いことを考えるとあの時代以上に困難な状態だとも言えます。
つまるところ、今の不景気はあの失われた十年以上に事態が深刻なため、あの時代の日本政府の政策ミスなどを考慮しても最低五年、下手すりゃ十年以上の年月が景気回復のために必要なのではないかと予想します。それこそ今では派遣難民の扱いが大きな問題となっていますが、大恐慌の頃は東北地方で娘の身売りが相次いだといいますし、あと数年もすればなんであんなことで騒いでいたのかと思うくらい状況は悪化しているかもしれません。
しかし逆を言えば、景気回復のためにそれくらいの年月が必要だとあらかじめ想定して腰を据えた長期的な政策を用意することで、その際のダメージを最小限に減らすことが出来ます。特に今回は日本一人で頑張ってもしょうがないので、世界全体の様子を見ながら如何に国民生活を破綻させずにしぶとく生き残ることが重要だと思います。
2009年1月17日土曜日
失われた十年とは~その二十、エヴァブーム~
確か99年の月刊アスキーの記事だったと思いますが、秋葉原が今のようなオタクの街に変わっていったことについてある記者が、
「それまでは大人のホビー街という雰囲気の秋葉原であったが、大体96年頃の新世紀エヴァンゲリオンのヒットからこのようなオタクとアニメの街へと変わっていった」
と記述していました。
この意見に対して私も同意見で、元々秋葉原は転身の早い街で戦後は問屋街だったのがアマチュア無線ブームの頃に電気街となり、その後エヴァのブーム以降からアニメ、マンガ、ゲームの三大柱を掲げるようになって現在のようなオタクの街へと変貌を遂げています。言うなれば今の秋葉原があるのはエヴァのおかげなのかもしれません。そう考えると、アニメが街を動かしたってことになるのか。
それでもはや語るまでもないほど有名なこのアニメ作品の「新世紀エヴァンゲリオン」はテレビ放映当時の95年は視聴率も振るわず、お世辞にも成功したとは言えない作品でした。しかし最終回の意味不明さが評論家の間で議論されたことから俄かに注目を浴び、再放送された96年に大ヒットしてその後97年の映画公開によって十年後の今にも続く人気を不動にしました。
それこそ当時から一体何故エヴァは成功したのかという議論が行われており、いくつかそこで出たヒットの要素を挙げると単純にキャラクターのデザインとか、世界観、シナリオなどとある中で、今思うと違うなと思う要素には当時に流行していた「癒し系」という言葉とかけて作品のテーマ性に「癒し」が込められているという意見も当時は結構強かった気がします。エヴァの中に「癒し」があるかといったら、ちょっと私にはわかりませんが。
ここまでの「失われた十年」の連載を見てきた方ならここで私が何を言いたいのかというのもわかると思いますが、要するに私はこのエヴァンゲリオンのブームは、この作品の内容が難解であったからではないかと考えています。
このくだりは「その十八、終末思想」で書いていますが、失われた十年の間は何故か「よくわからない」ものほど流行し、作品もヒットしています。確かにこのエヴァンゲリオンはキャラデザから演出効果などでも当時としては画期的に優れた作品ではありましたが、やっぱり大ヒットの最大功労者となると「難解なストーリー」にあったのではないかと思います。
またこの作品の大ヒットは他の作品にも広く影響を与え、前にも書きましたが当時はメンヘラ(自己があまり確立されていないよう)なキャラクターがいろんな作品で量産されていき、そうやってメンヘラなキャラが流行したことによりこれまた私の私見ですが、どうもその後からなにかと刹那的な生き方というものが実社会でももてはやされるようになった気がします。具体的な現象名を挙げると女子高生の援助交際がゴールデンのテレビ番組でも大きく平然と取り上げられるなど、今から考えると随分と滅茶苦茶な時代が展開されていました。なお女子高生の援助交際について私は結構前からあって多分今も全くないということはないでしょうが、少なくとも表立ってあれだけ話題に出来たのは90年代後半から2000年初頭の間だけだった気がします。
とまぁそういうことでエヴァンゲリオンのブームがが社会心理に与えた影響というのは以上までですが、折角なのでエヴァがアニメ業界へ与えた影響についても列記すると、まずアニメ業界の販売業態がこの時期に大きく変わりました。それまではアニメの放送と共に関連する玩具の販売で生計を立てていたアニメ業界ですが、エヴァンゲリオンでは作品内容を納めたビデオの販売が大きな収入源となり、以後のアニメ作品でもそれまでの玩具からビデオ販売をメインの収入源へと変更していきました。凄いのになると、最終回は放送せずに見たければビデオを買えという詐欺のような作品も前にありましたね。
またこのブームと同時期の97年に放送された「剣風伝奇ベルセルク」が深夜時間枠の放送をすることによって、当初懸念されていた放送に当たる残酷描写の問題をパスしたことによりそれ以後深夜時間枠に主だったアニメ作品が放送されるようになりました。
この二つの変動によって何が大きく影響されたかというと、アニメ作品の対象年齢です。それまでは玩具販売がメインであったために小学生くらいの子供が主な対象であったアニメ作品は玩具より比較的高額なビデオの販売を収入源とすることによって対象年齢は上乗せされ、現在に至っては中高生、というよりもう成人を相手に商売やっているようなもんです。まぁちゃんと小学生対象のアニメもワンピースなどを中心に行われているので、むしろ成人対象のアニメも作られるようになったと言うべきでしょうか。
ただこうした対象年齢の変動にはもちろん先ほどのエヴァとベルセルクの影響も大きいのですが、それ以上に少子化という現実こそが主原因でしょう。少子化によって対象の小学生が減ることにより収入が減り、新たに成人を対象に商売をするようになったのがアニメ業界の実情でしょう。
「それまでは大人のホビー街という雰囲気の秋葉原であったが、大体96年頃の新世紀エヴァンゲリオンのヒットからこのようなオタクとアニメの街へと変わっていった」
と記述していました。
この意見に対して私も同意見で、元々秋葉原は転身の早い街で戦後は問屋街だったのがアマチュア無線ブームの頃に電気街となり、その後エヴァのブーム以降からアニメ、マンガ、ゲームの三大柱を掲げるようになって現在のようなオタクの街へと変貌を遂げています。言うなれば今の秋葉原があるのはエヴァのおかげなのかもしれません。そう考えると、アニメが街を動かしたってことになるのか。
それでもはや語るまでもないほど有名なこのアニメ作品の「新世紀エヴァンゲリオン」はテレビ放映当時の95年は視聴率も振るわず、お世辞にも成功したとは言えない作品でした。しかし最終回の意味不明さが評論家の間で議論されたことから俄かに注目を浴び、再放送された96年に大ヒットしてその後97年の映画公開によって十年後の今にも続く人気を不動にしました。
それこそ当時から一体何故エヴァは成功したのかという議論が行われており、いくつかそこで出たヒットの要素を挙げると単純にキャラクターのデザインとか、世界観、シナリオなどとある中で、今思うと違うなと思う要素には当時に流行していた「癒し系」という言葉とかけて作品のテーマ性に「癒し」が込められているという意見も当時は結構強かった気がします。エヴァの中に「癒し」があるかといったら、ちょっと私にはわかりませんが。
ここまでの「失われた十年」の連載を見てきた方ならここで私が何を言いたいのかというのもわかると思いますが、要するに私はこのエヴァンゲリオンのブームは、この作品の内容が難解であったからではないかと考えています。
このくだりは「その十八、終末思想」で書いていますが、失われた十年の間は何故か「よくわからない」ものほど流行し、作品もヒットしています。確かにこのエヴァンゲリオンはキャラデザから演出効果などでも当時としては画期的に優れた作品ではありましたが、やっぱり大ヒットの最大功労者となると「難解なストーリー」にあったのではないかと思います。
またこの作品の大ヒットは他の作品にも広く影響を与え、前にも書きましたが当時はメンヘラ(自己があまり確立されていないよう)なキャラクターがいろんな作品で量産されていき、そうやってメンヘラなキャラが流行したことによりこれまた私の私見ですが、どうもその後からなにかと刹那的な生き方というものが実社会でももてはやされるようになった気がします。具体的な現象名を挙げると女子高生の援助交際がゴールデンのテレビ番組でも大きく平然と取り上げられるなど、今から考えると随分と滅茶苦茶な時代が展開されていました。なお女子高生の援助交際について私は結構前からあって多分今も全くないということはないでしょうが、少なくとも表立ってあれだけ話題に出来たのは90年代後半から2000年初頭の間だけだった気がします。
とまぁそういうことでエヴァンゲリオンのブームがが社会心理に与えた影響というのは以上までですが、折角なのでエヴァがアニメ業界へ与えた影響についても列記すると、まずアニメ業界の販売業態がこの時期に大きく変わりました。それまではアニメの放送と共に関連する玩具の販売で生計を立てていたアニメ業界ですが、エヴァンゲリオンでは作品内容を納めたビデオの販売が大きな収入源となり、以後のアニメ作品でもそれまでの玩具からビデオ販売をメインの収入源へと変更していきました。凄いのになると、最終回は放送せずに見たければビデオを買えという詐欺のような作品も前にありましたね。
またこのブームと同時期の97年に放送された「剣風伝奇ベルセルク」が深夜時間枠の放送をすることによって、当初懸念されていた放送に当たる残酷描写の問題をパスしたことによりそれ以後深夜時間枠に主だったアニメ作品が放送されるようになりました。
この二つの変動によって何が大きく影響されたかというと、アニメ作品の対象年齢です。それまでは玩具販売がメインであったために小学生くらいの子供が主な対象であったアニメ作品は玩具より比較的高額なビデオの販売を収入源とすることによって対象年齢は上乗せされ、現在に至っては中高生、というよりもう成人を相手に商売やっているようなもんです。まぁちゃんと小学生対象のアニメもワンピースなどを中心に行われているので、むしろ成人対象のアニメも作られるようになったと言うべきでしょうか。
ただこうした対象年齢の変動にはもちろん先ほどのエヴァとベルセルクの影響も大きいのですが、それ以上に少子化という現実こそが主原因でしょう。少子化によって対象の小学生が減ることにより収入が減り、新たに成人を対象に商売をするようになったのがアニメ業界の実情でしょう。
2009年1月16日金曜日
ヘタリアについて
・アニメ「ヘタリア」放送中止 「諸般の事情」で(YAHOOニュース)
リンクに貼ったニュースによると、今度アニメ化が予定されていたネットマンガの「ヘタリア」が韓国側の抗議を受けるような形で放映が中止されたようです。実はこのヘタリアは私もずっと前からネット上で楽しんで読ませてもらっていた作品で、去年に単行本化された際はすぐに買った作品です。ただその単行本は買ったものの、その次の日には古本屋へと持っていかれる運命でした。
このヘタリアについてはこれまでにも何度かこのブログで記事を書こうかとしていたのですが、いちおうネットマンガだしあんまり書くべきじゃないかと思っていて伸ばし伸ばしにしていたのですがこの際書いちゃうと、あの単行本は出版した編集者はよほど頭の悪い人なのではないかと、はっきり言って神経を疑うようなひどい出来でした。具体的に言うと、ネットでの閲覧時には元ネタとなっている話や内容を理解するために必要な知識解説が一コマ絵で描かれているのですが、単行本ではそれらの解説が一切合財なしで、多分ネットでオリジナルのマンガを読んでいないと理解できない箇所がいくつも見受けられました。その上単行本化されるのだから何かしらおまけがあるだろうと思っていたのですが、確か書き下ろしは表紙絵だけで、中身のマンガの方はすべてネット上で無料で公開しているのと全く同じで、なんて無駄なものにお金を使ってしまったのだと激しく後悔しました。んでもってすぐ売っちゃいました。
内容については前述の通りに非常に面白く私も気に入って入るのですが、今問題になっているように韓国の描写についてはちょっと私にも意見があります。というのもマンガの中の韓国の設定が日本の2ちゃんねるが持つステレオタイプに書かれているため中国のことを「兄者」と呼ぶなど、中韓の日本なんかと比べ物にならない憎悪関係を知っている私からすると強い違和感があります。大分前にも書きましたが、日中と日韓関係などより、中韓関係はずっとずっと仲が悪くてお互いかなり意識しあって憎み合っています。
さらにアニメ化についてですが、これはあくまで私個人の意見ですがこの作品はあまりアニメにするには向いていない作品のような気がしてなりません。やっぱりアニメ化が向いている作品とそうじゃない作品というのは分かれており、前者であればドラゴンボールとかでヘタリアはやっぱり後者で、これまでのように単行本化などせずにネットマンガとしてやっていく方が内容的にもあっているんじゃないかと私は思います。
なので今回アニメ放映中止の報道を受けて、作品的にはある意味よかったんじゃないかとすら思いました。
今日は日馬富士は負けちゃったか(ノД`)シクシク
リンクに貼ったニュースによると、今度アニメ化が予定されていたネットマンガの「ヘタリア」が韓国側の抗議を受けるような形で放映が中止されたようです。実はこのヘタリアは私もずっと前からネット上で楽しんで読ませてもらっていた作品で、去年に単行本化された際はすぐに買った作品です。ただその単行本は買ったものの、その次の日には古本屋へと持っていかれる運命でした。
このヘタリアについてはこれまでにも何度かこのブログで記事を書こうかとしていたのですが、いちおうネットマンガだしあんまり書くべきじゃないかと思っていて伸ばし伸ばしにしていたのですがこの際書いちゃうと、あの単行本は出版した編集者はよほど頭の悪い人なのではないかと、はっきり言って神経を疑うようなひどい出来でした。具体的に言うと、ネットでの閲覧時には元ネタとなっている話や内容を理解するために必要な知識解説が一コマ絵で描かれているのですが、単行本ではそれらの解説が一切合財なしで、多分ネットでオリジナルのマンガを読んでいないと理解できない箇所がいくつも見受けられました。その上単行本化されるのだから何かしらおまけがあるだろうと思っていたのですが、確か書き下ろしは表紙絵だけで、中身のマンガの方はすべてネット上で無料で公開しているのと全く同じで、なんて無駄なものにお金を使ってしまったのだと激しく後悔しました。んでもってすぐ売っちゃいました。
内容については前述の通りに非常に面白く私も気に入って入るのですが、今問題になっているように韓国の描写についてはちょっと私にも意見があります。というのもマンガの中の韓国の設定が日本の2ちゃんねるが持つステレオタイプに書かれているため中国のことを「兄者」と呼ぶなど、中韓の日本なんかと比べ物にならない憎悪関係を知っている私からすると強い違和感があります。大分前にも書きましたが、日中と日韓関係などより、中韓関係はずっとずっと仲が悪くてお互いかなり意識しあって憎み合っています。
さらにアニメ化についてですが、これはあくまで私個人の意見ですがこの作品はあまりアニメにするには向いていない作品のような気がしてなりません。やっぱりアニメ化が向いている作品とそうじゃない作品というのは分かれており、前者であればドラゴンボールとかでヘタリアはやっぱり後者で、これまでのように単行本化などせずにネットマンガとしてやっていく方が内容的にもあっているんじゃないかと私は思います。
なので今回アニメ放映中止の報道を受けて、作品的にはある意味よかったんじゃないかとすら思いました。
今日は日馬富士は負けちゃったか(ノД`)シクシク
センター試験について思うこと
昔から日本にはカレンダーに書かれていない行事として大学入学試験日というものが毎年あると言われていますが、明日から二日間がまさにこの重要な試験日に当たるセンター試験が行われます。それでこのセンター試験ですが、この前ノーベル賞を取った益川氏や東大名誉教授の宇沢氏を始めとして自由な解答、発想を阻むとして行うべきではないという批判が多いのですが、結論から言うと私は現状の入試制度はそれなりにいいのではないかと考えています。
まず益川氏など教育関係者がセンター試験を批判している点として第一に、解答がマークシートであることが挙げられます。マークシートでは答えは選択肢の中から選ぶ解答が主になり、言ってしまえば過程がわからなくとも大雑把な予想、言い方を変えれば受験テクニックを駆使することで正しい解答が出てしまうこともあり、更には選択問題の特性上作れる問題の幅も狭まってしまいます。問題の幅が狭まるということは言ってしまえば予想が立てられやすくなることで、こちらも受験テクニックによって正解率が動きやすくなるのを誘発します。
こうしたマークシート制ゆえの問題に限らずこちらは宇沢氏がよく批判している点ですが、大学ごとの選抜方式に個性がなくなるという弊害もよく指摘されています。なんだかんだいってどの大学にもそれぞれ独自のカラーというものがあり、そのカラーに合った学生が入学するに越したことはありません。たとえば真面目に静かに勉強したがっている学生と侃々諤々に議論を持ちたがっている学生が一緒になるより、それぞれの傾向がある程度出来ているところに入った方が学生にも指導側にもプラスです。ではどうやってその傾向というかカラーに合った学生を選抜するかですが、選抜する試験の傾向で意外に分別できるそうです。
実際に私の入った大学も試験問題が明らかに他校と傾向が違い、社会科の科目はどの科目も問題が非常に簡単にもかかわらず国語は古典が非常に難しく、また英語の問題に至っては質問自体は簡単なものが多いものの題材とされる英文の長さが一般の受験問題と比べて二倍、三倍くらいに長いという妙な試験でした。そんな妙なのに受かるというだけあり、なんだかんだいって私とその学校は肌が合いましたね。
また最近あまり話題にしなくなった佐藤優氏は同志社大学神学部の試験を受けた際、当時は残っていた面接試験時に何故神学部を受験したのかと質問されたところ、無神論を研究したいからと、キリスト教を信仰している相手に対してそれを否定する学問を学びたいという恐ろしい返答をしたらしいのですが、面接終了時には試験官より、他校に受かっても是非うちに来るようにと言われたそうです。あの大学は今でもそうですが、基本的にアナーキストとか反逆者を好んで引っ張り込んではそれを量産する傾向があります。いい学校だけど。
それはともかくとして、こうした学校のカラーに合った試験がなくなってしまうのは問題だと指摘されているのです。こういうと国公立はセンター以外にも二次試験があるではないかと思われますが、どうも教育関係者たちから話を聞いているとやっぱり国公立の試験はセンター試験の配点が大きいために、大概はセンター試験の結果で決まってしまうものらしいです。たとえば東大の二次試験は意外に簡単でみんな揃って点数が取れてしまい、京大の試験は逆に難しすぎてみんな揃って点数が取れないために差が生まれず、結局センター試験で獲得した点数の差で合格者が決まるようなものらしいです。
こうした批判点は私も確かに問題だと考えており、数学はもとより国語や英語でもやはり記述式の問題でなければ測れない力もあり、またやはり同じテストでばっと測るよりも各大学独自に試験を設けてそれぞれで選抜するやり方の方が学校ごとに個性が生まれてよいと思えます。しかしこうした問題点を推しても、私はやっぱりセンター試験はないよりはあった方がよいと考えています。というのも、地方の受験生の受験環境というものがあるからです。
私なんかは大学受験時は関東の都市圏で生活していたので特に影響は受けなかったのですが、やはり地方の受験生はというと試験のためにわざわざ東京に泊まりで受けに来たりするなど、交通費や宿泊費が都市部の学生より大変多くかかっていると聞きます。それも試験日がまだ集中していればいいものの、多少日が開いてしまえばその度に上京したり、もしくは長期間に渡って受験地に滞在しなければなりません。それこそ北海道や九州の受験生であれば交通費だけでも数万単位のお金が必要になってきます。
ですが現状のセンター試験を用いれば、二次試験のある国公立大学はともかくとして私立大学であれば加入校も増えており、狭き門となることがありますがセンター試験での結果を用いて試験とすることが出来ます。地方の受験生からすればそれで受かってしまえば場合によっては十万円くらい無駄な支出を減らすことが出来、幅広く自由にいろんな大学に合格するチャンスが出来ます。この効果を考えると、現状のセンター試験に問題はあっても廃止するべきではないと私は考えます。
ついでに書くと中国は六月にこのセンター試験に当たる大学入試が行われ、それ一発の成績で入れる大学が全部決まってしまいます。そのためたまたま体調が悪かったりとか事故などで試験に遅れてしまうと、日本みたいに私立大学なんてなくてみんな国立大学なのでその時点でまた来年に強くてニューゲームをしなくてはならなくなります。これ以外にも中国の大学入試はいろいろと問題を抱えており、それらと比べるとセンター試験で落っこっても私立大学が受験生を拾うシステムがある日本はまだマシだと思います。
まず益川氏など教育関係者がセンター試験を批判している点として第一に、解答がマークシートであることが挙げられます。マークシートでは答えは選択肢の中から選ぶ解答が主になり、言ってしまえば過程がわからなくとも大雑把な予想、言い方を変えれば受験テクニックを駆使することで正しい解答が出てしまうこともあり、更には選択問題の特性上作れる問題の幅も狭まってしまいます。問題の幅が狭まるということは言ってしまえば予想が立てられやすくなることで、こちらも受験テクニックによって正解率が動きやすくなるのを誘発します。
こうしたマークシート制ゆえの問題に限らずこちらは宇沢氏がよく批判している点ですが、大学ごとの選抜方式に個性がなくなるという弊害もよく指摘されています。なんだかんだいってどの大学にもそれぞれ独自のカラーというものがあり、そのカラーに合った学生が入学するに越したことはありません。たとえば真面目に静かに勉強したがっている学生と侃々諤々に議論を持ちたがっている学生が一緒になるより、それぞれの傾向がある程度出来ているところに入った方が学生にも指導側にもプラスです。ではどうやってその傾向というかカラーに合った学生を選抜するかですが、選抜する試験の傾向で意外に分別できるそうです。
実際に私の入った大学も試験問題が明らかに他校と傾向が違い、社会科の科目はどの科目も問題が非常に簡単にもかかわらず国語は古典が非常に難しく、また英語の問題に至っては質問自体は簡単なものが多いものの題材とされる英文の長さが一般の受験問題と比べて二倍、三倍くらいに長いという妙な試験でした。そんな妙なのに受かるというだけあり、なんだかんだいって私とその学校は肌が合いましたね。
また最近あまり話題にしなくなった佐藤優氏は同志社大学神学部の試験を受けた際、当時は残っていた面接試験時に何故神学部を受験したのかと質問されたところ、無神論を研究したいからと、キリスト教を信仰している相手に対してそれを否定する学問を学びたいという恐ろしい返答をしたらしいのですが、面接終了時には試験官より、他校に受かっても是非うちに来るようにと言われたそうです。あの大学は今でもそうですが、基本的にアナーキストとか反逆者を好んで引っ張り込んではそれを量産する傾向があります。いい学校だけど。
それはともかくとして、こうした学校のカラーに合った試験がなくなってしまうのは問題だと指摘されているのです。こういうと国公立はセンター以外にも二次試験があるではないかと思われますが、どうも教育関係者たちから話を聞いているとやっぱり国公立の試験はセンター試験の配点が大きいために、大概はセンター試験の結果で決まってしまうものらしいです。たとえば東大の二次試験は意外に簡単でみんな揃って点数が取れてしまい、京大の試験は逆に難しすぎてみんな揃って点数が取れないために差が生まれず、結局センター試験で獲得した点数の差で合格者が決まるようなものらしいです。
こうした批判点は私も確かに問題だと考えており、数学はもとより国語や英語でもやはり記述式の問題でなければ測れない力もあり、またやはり同じテストでばっと測るよりも各大学独自に試験を設けてそれぞれで選抜するやり方の方が学校ごとに個性が生まれてよいと思えます。しかしこうした問題点を推しても、私はやっぱりセンター試験はないよりはあった方がよいと考えています。というのも、地方の受験生の受験環境というものがあるからです。
私なんかは大学受験時は関東の都市圏で生活していたので特に影響は受けなかったのですが、やはり地方の受験生はというと試験のためにわざわざ東京に泊まりで受けに来たりするなど、交通費や宿泊費が都市部の学生より大変多くかかっていると聞きます。それも試験日がまだ集中していればいいものの、多少日が開いてしまえばその度に上京したり、もしくは長期間に渡って受験地に滞在しなければなりません。それこそ北海道や九州の受験生であれば交通費だけでも数万単位のお金が必要になってきます。
ですが現状のセンター試験を用いれば、二次試験のある国公立大学はともかくとして私立大学であれば加入校も増えており、狭き門となることがありますがセンター試験での結果を用いて試験とすることが出来ます。地方の受験生からすればそれで受かってしまえば場合によっては十万円くらい無駄な支出を減らすことが出来、幅広く自由にいろんな大学に合格するチャンスが出来ます。この効果を考えると、現状のセンター試験に問題はあっても廃止するべきではないと私は考えます。
ついでに書くと中国は六月にこのセンター試験に当たる大学入試が行われ、それ一発の成績で入れる大学が全部決まってしまいます。そのためたまたま体調が悪かったりとか事故などで試験に遅れてしまうと、日本みたいに私立大学なんてなくてみんな国立大学なのでその時点でまた来年に強くてニューゲームをしなくてはならなくなります。これ以外にも中国の大学入試はいろいろと問題を抱えており、それらと比べるとセンター試験で落っこっても私立大学が受験生を拾うシステムがある日本はまだマシだと思います。
不思議王国鹿児島の話
・鹿児島・阿久根市長:どの市議に辞めてほしい? ブログで不人気投票 議会と対立激化(毎日jp)
いきなりリンクからですが、これはテレビや新聞で知っている方もいると思われるニュースですが、何でも阿久根市の市長がブログにて「どの市議会議員にやめてもらいたい?」という投票を行ったことから騒動になっているという報道です。
実を言うとうちのお袋がまさにこの阿久根市出身で、私自身もこの阿久根市に何度も母と一緒に帰省して夏休みを過ごした経験があり、あながち全く無関係でもない場所なので昨日はおふくろと一緒にこのニュースで少し盛り上がりました。なお私が生まれたのはこの近くのタンチョウヅルで有名な出水市です。
それでこのニュースですがやっぱり記事とか読んでいると「前代未聞」とか、破格の行動というような報道が目立つのですが、私はというと別に鹿児島だったらこういうこともあるんじゃないかと、取り立てて驚いたりすることなくすんなり受け止めました。というのも、これなんかまんま漫画の鋼の錬金術師じゃないですが、「ありえないことなんてありえない」というのが私の中の鹿児島の位置づけだからです。そこで今日は一つ、私がお袋から聞いた鹿児島のありえない話を紹介しようと思います。
うちのお袋は高校卒業時まで鹿児島で育ったのですが、お袋が高校生の頃、ある日一人の男子生徒が、
「鹿が食いたいなぁ」
と呟いたそうです。
するとその男子生徒は友人一人を誘って学校の体育倉庫から金属バットを借りると、野生の鹿がたくさんいる阿久根大島にフェリーで行って、そのなんというか……なんかバットで鹿を殴り殺して鹿肉を本当に食べたそうです。
私の友達なんかこの話を聞いてもそんなの信じられないと言っていましたが、お袋によるとマジらしいです。ちなみにその鹿を殴り殺して食べた二人はその後片方はヤクザとなって、もう片方は警察官となったそうです。それでヤクザの方が先に死んでしまったようなのですが、身元引受人がいないもんだから警察官となっていた方に引き取ってもらいたいと連絡があったそうですが、さすがに警察官が友人とはいえヤクザの死体は引き取れないと断り、最終的には親族が死体を引き取ったのですが、最後まで面白い二人です。
これ以外にも村長選挙の際は島中が真っ二つに分かれ、支持者同士で本気で殴り合いになる戦争のような選挙戦が繰り広げられる離島とか、「だるまさんがころんだ」とは言わずに「いんどじんのくろんぼう」という妙な遊び文化があったりと、いろいろと鹿児島は変なところだと私は思っています。ただこれは大相撲の元力士寺尾(今の錣山親方)が東京出身にもかかわらず父親が鹿児島出身なので自らも鹿児島出身だと言い張るのと同じくらい、生まれただけで育ちはずっと関東の私も鹿児島に対して強いアイデンティティを持っています。
もっとも、現地の言葉は私にも全然わかりません。なんでも二次対戦中にベルリンが陥落した際、日本大使館ではその事実を本国に電信使用としても暗号機が壊れてしまい、やむを得ず鹿児島出身の者に鹿児島弁で電信を送り本国の鹿児島出身の者に翻訳させたらしいですが、電信を傍受した米英はやっぱり解読出来なかったそうです。
いきなりリンクからですが、これはテレビや新聞で知っている方もいると思われるニュースですが、何でも阿久根市の市長がブログにて「どの市議会議員にやめてもらいたい?」という投票を行ったことから騒動になっているという報道です。
実を言うとうちのお袋がまさにこの阿久根市出身で、私自身もこの阿久根市に何度も母と一緒に帰省して夏休みを過ごした経験があり、あながち全く無関係でもない場所なので昨日はおふくろと一緒にこのニュースで少し盛り上がりました。なお私が生まれたのはこの近くのタンチョウヅルで有名な出水市です。
それでこのニュースですがやっぱり記事とか読んでいると「前代未聞」とか、破格の行動というような報道が目立つのですが、私はというと別に鹿児島だったらこういうこともあるんじゃないかと、取り立てて驚いたりすることなくすんなり受け止めました。というのも、これなんかまんま漫画の鋼の錬金術師じゃないですが、「ありえないことなんてありえない」というのが私の中の鹿児島の位置づけだからです。そこで今日は一つ、私がお袋から聞いた鹿児島のありえない話を紹介しようと思います。
うちのお袋は高校卒業時まで鹿児島で育ったのですが、お袋が高校生の頃、ある日一人の男子生徒が、
「鹿が食いたいなぁ」
と呟いたそうです。
するとその男子生徒は友人一人を誘って学校の体育倉庫から金属バットを借りると、野生の鹿がたくさんいる阿久根大島にフェリーで行って、そのなんというか……なんかバットで鹿を殴り殺して鹿肉を本当に食べたそうです。
私の友達なんかこの話を聞いてもそんなの信じられないと言っていましたが、お袋によるとマジらしいです。ちなみにその鹿を殴り殺して食べた二人はその後片方はヤクザとなって、もう片方は警察官となったそうです。それでヤクザの方が先に死んでしまったようなのですが、身元引受人がいないもんだから警察官となっていた方に引き取ってもらいたいと連絡があったそうですが、さすがに警察官が友人とはいえヤクザの死体は引き取れないと断り、最終的には親族が死体を引き取ったのですが、最後まで面白い二人です。
これ以外にも村長選挙の際は島中が真っ二つに分かれ、支持者同士で本気で殴り合いになる戦争のような選挙戦が繰り広げられる離島とか、「だるまさんがころんだ」とは言わずに「いんどじんのくろんぼう」という妙な遊び文化があったりと、いろいろと鹿児島は変なところだと私は思っています。ただこれは大相撲の元力士寺尾(今の錣山親方)が東京出身にもかかわらず父親が鹿児島出身なので自らも鹿児島出身だと言い張るのと同じくらい、生まれただけで育ちはずっと関東の私も鹿児島に対して強いアイデンティティを持っています。
もっとも、現地の言葉は私にも全然わかりません。なんでも二次対戦中にベルリンが陥落した際、日本大使館ではその事実を本国に電信使用としても暗号機が壊れてしまい、やむを得ず鹿児島出身の者に鹿児島弁で電信を送り本国の鹿児島出身の者に翻訳させたらしいですが、電信を傍受した米英はやっぱり解読出来なかったそうです。
2009年1月15日木曜日
ノンマルトの使者
年末にマンガ「ケロロ軍曹」の単行本をまとめ買いして読んでいると、ある話の中で「ノントルマ」という単語が出てきました。この単語を見て私は相変わらずいいところ選ぶと、改めて作者の吉崎観音氏を見直しました。別にこの例に限るわけでなくこのマンガは他のマンガやアニメのパロディがふんだんに使われている作品なのですが、このノントルマの引用に関しては読んでる私も思わずうなりました。
結論から言うとこのノントルマというのは恐らく、ってか間違いなくウルトラセブンの「ノンマルトの使者」という話が題材でしょう。私自身はこの「ノンマルトの使者」の回、というよりもウルトラセブンを見たことがないのですが、ちょうど二年位前に国際政治関連の授業にて突然講師がこの話を紹介し始めたので知ってたので、この話のあらましを今日はちょっと簡単に私も紹介します。
まず前置きとして、ウルトラセブンは他のウルトラマンシリーズと比べて話が非常に大人向けに作られていると言われています。他のウルトラマンシリーズは勧善懲悪的なストーリーで一貫しているのですが、ウルトラマンセブンだけはアニメのガンダムシリーズのように、善と悪の概念が曖昧なまま話が進むそうです。
それで件の「ノンマルトの使者」ですが、何でも話は海の上で軍艦が次々と落とされる事件が起こり早速ウルトラ警備隊が調査に向かうと、海辺である少年が主人公のモロボシ・ダンことウルトラセブンらに対し、
「海底はノンマルトのものだ。人間は来るな」
といった内容の言葉を言って謎の警告をして立ち去っていきます。
その少年が立ち去った後、ウルトラセブンは突然、自分がM78星雲にいた頃、地球のことをノンマルトと呼んでいた事を思い出します。そして再びその少年が現れると、その少年は自分たちノンマルトは人間が現れる以前から地球にいたのに人間が現れ海底にまで住処を追われたと話し、その海にまで人間は侵略しようとすると非難して再び立ち去ります。
その後、お決まりのように海から怪獣が出てきてセブンやウルトラ警備隊によって退治した挙句、海底にあった怪獣の住処も完全に破壊します。すべて終わってひと段落かと思うと再びセブンの前に先ほどの少年が現れ、
「地球はノンマルトの星なんだ、人間こそ侵略者なのだ」
と言って、姿を消します。
この少年の言葉を受け元々地球をノンマルトと呼んでいたセブンは、自分は宇宙の侵略者たちから地球の人間を守るためにやってきて戦っているが、この地球の元々の居住者は自らをノンマルトと呼ぶあの怪獣たちで、もしかしたら自分は侵略者の人間を助けているのではないかと悩みながら話が終わります。
この回の話を突然授業中に引用したその講師は最後に、この回の脚本を作ったのは沖縄出身の人だと話し、元々国家という概念は民族や文化、宗教などで構成されていると思われがちだがそれらは限りなく根拠のない建前のようなもので、実態は言わば最も強い支配層が力の弱い層に対して服従を強要して成り立っていることが多いと説明し、明治維新後に半ば強制的に日本という国に組み入れられたばかりか二次大戦では戦場とされるなど悉く犠牲にされてきた沖縄の歴史と本土の日本人の意識の差を、その脚本家こと金城哲夫氏は「ノンマルトの使者」に込めたのではないかと話しました。
あとこれは私と友人が話をしている時に出た話ですが、仮に沖縄の人たちが日本からの独立を望むというのなら私はそれを止めることが出来ないと話し、この時の意識は「ノンマルトの使者」の話を聞いてなおいっそう強まりました。
あ、今日は日馬富士が勝ったんだ(n‘∀‘)η
結論から言うとこのノントルマというのは恐らく、ってか間違いなくウルトラセブンの「ノンマルトの使者」という話が題材でしょう。私自身はこの「ノンマルトの使者」の回、というよりもウルトラセブンを見たことがないのですが、ちょうど二年位前に国際政治関連の授業にて突然講師がこの話を紹介し始めたので知ってたので、この話のあらましを今日はちょっと簡単に私も紹介します。
まず前置きとして、ウルトラセブンは他のウルトラマンシリーズと比べて話が非常に大人向けに作られていると言われています。他のウルトラマンシリーズは勧善懲悪的なストーリーで一貫しているのですが、ウルトラマンセブンだけはアニメのガンダムシリーズのように、善と悪の概念が曖昧なまま話が進むそうです。
それで件の「ノンマルトの使者」ですが、何でも話は海の上で軍艦が次々と落とされる事件が起こり早速ウルトラ警備隊が調査に向かうと、海辺である少年が主人公のモロボシ・ダンことウルトラセブンらに対し、
「海底はノンマルトのものだ。人間は来るな」
といった内容の言葉を言って謎の警告をして立ち去っていきます。
その少年が立ち去った後、ウルトラセブンは突然、自分がM78星雲にいた頃、地球のことをノンマルトと呼んでいた事を思い出します。そして再びその少年が現れると、その少年は自分たちノンマルトは人間が現れる以前から地球にいたのに人間が現れ海底にまで住処を追われたと話し、その海にまで人間は侵略しようとすると非難して再び立ち去ります。
その後、お決まりのように海から怪獣が出てきてセブンやウルトラ警備隊によって退治した挙句、海底にあった怪獣の住処も完全に破壊します。すべて終わってひと段落かと思うと再びセブンの前に先ほどの少年が現れ、
「地球はノンマルトの星なんだ、人間こそ侵略者なのだ」
と言って、姿を消します。
この少年の言葉を受け元々地球をノンマルトと呼んでいたセブンは、自分は宇宙の侵略者たちから地球の人間を守るためにやってきて戦っているが、この地球の元々の居住者は自らをノンマルトと呼ぶあの怪獣たちで、もしかしたら自分は侵略者の人間を助けているのではないかと悩みながら話が終わります。
この回の話を突然授業中に引用したその講師は最後に、この回の脚本を作ったのは沖縄出身の人だと話し、元々国家という概念は民族や文化、宗教などで構成されていると思われがちだがそれらは限りなく根拠のない建前のようなもので、実態は言わば最も強い支配層が力の弱い層に対して服従を強要して成り立っていることが多いと説明し、明治維新後に半ば強制的に日本という国に組み入れられたばかりか二次大戦では戦場とされるなど悉く犠牲にされてきた沖縄の歴史と本土の日本人の意識の差を、その脚本家こと金城哲夫氏は「ノンマルトの使者」に込めたのではないかと話しました。
あとこれは私と友人が話をしている時に出た話ですが、仮に沖縄の人たちが日本からの独立を望むというのなら私はそれを止めることが出来ないと話し、この時の意識は「ノンマルトの使者」の話を聞いてなおいっそう強まりました。
あ、今日は日馬富士が勝ったんだ(n‘∀‘)η
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