ちょっと古いニュースですが、全国で行われた小中学生を含む学力テストの試験結果を秋田県が市町村別に知事の主導の下で公開したというのが先月にありましたが、結論から言うと私はこのテスト結果は公表してしかるべきであり、秋田県を始めとして公表に積極的な大阪府の橋本知事を応援する立場にあります。
この問題についてはなにも難しいことをいわなくとも、教育を良くするためという一言で公表するに十分な理由になります。というのも、これなんか私が一応社会学士ということもあるからかもしれませんが、比較や議論するデータもなしでどう低下しているといわれる教育を改善しようというのか、全く持って文部科学省の言い分が理解できません。単純に全国の学校のテスト結果を公表して比較することによって、どの学校が行っている教育方法が効果を挙げるか、逆にどの学校が行っている教育法方が問題があるのかが簡単に浮き彫りに出来ます。そうやってデータを刷り合わせることによって、というよりそうしたデータの刷り合わせも行わずに「あの教育法方がいい」とか、「ああいう教え方はよくない」と案が出せるはずなんてありません。
さらに文部科学省(河村官房長官を含む)がデータ開示を否定する理由として挙げているのに、「成績が公開されることによって学校の序列化につながる」と言っており、学校が序列化することによって成績のいい学校に生徒が集中してしまうとか、成績の悪かった学校に生徒は劣等感を抱くなどといい加減なことを言っていますが、私が小中学生だった頃を思い出すと当時はそんな勉強のできるとかできないなんて全然気にしませんでしたし、それよりも運動が出来る出来ないというのがクラス内の発言力を大きく左右させ、勉強が出来る子も確かに尊敬はされますがやっぱり運動のできる子の方が圧倒的に序列が上でした。
更に言えば成績のいい中学校に生徒が集中するといいますが、なんだかんだいって家から近い公立校をみんな選ぶでしょうし、よっぽどいい学校に入ろうとする子やその親は公立校には行かず、間違いなく私立に行こうとするでしょう。むしろそうした学校ごとの成績の良し悪しに一番敏感に反応するのは子供ではなく、その周囲にいる大人たちこそ一番騒ぎ立てている気がして、そういったことこそが子供にも悪い影響があるように思えてなりません。
最後にもう一つ付け加えておきますが、私自身は公立小学校から私立中学、高校へと進学した口ですが、やっぱり小学校でも中学校でも賢い奴もいればアホな奴もおり、出来る人間はどこいっても出来ますし、逆に出来ない人間というのは本人が変わろうと思わない限り、それこそ学校を変えても急に変わることなんてないと思います。極言すればどんな学校へ行こうと、自分が努力しなければ意味がないということです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年1月27日火曜日
結局、今どんな景気対策をやればいいの?
すっかり少なくなった時事ネタを久々にやりますが、本日両院協議会によってとうとう二次補正予算案が通りました。これによって今後は本年度予算案の審議に入りますが、ひとまずは今国会の第一段階は終了したと見ていいでしょう。それでこの二次補正予算案ですが、中身は今もあれこれ議論が続いている定額給付金などいくつか問題のあるものも含まれていますが、中小企業向けの融資拡大や銀行への公的資金注入に関する法律なども込められており、やらないよりは確かにやった方がいい法律ではありますが、それでもこの不況を脱するための政策というよりは急場をしのぐ政策といっていいでしょう。
そこで一つ私から問題提起をしますが、じゃあ一体どんな政策をすることが今の不況に対して有効な手段となるのでしょうか。私の見ている限りでは、残念ながら今の二次補正や政局ついての議論は数多あれども、具体的に効力のある政策は何かというこのような議論はまだあまりなされていないような気がします。もう結論を言ってしまいますが、私は今の段階で日本がやるべきことは何もないと考えています。
まず今回の不況は日本で起こったものではなく、アメリカから発生して世界中に蔓延した不況です。それまでの日本自体は割と好況下であったのに、海外の消費が冷え込んだことによって輸出が落ち込み、挙句には円価が急騰して一挙に国内でも不況に陥り倒産も相次ぐようになりました。
この現況が何を表すかというと、ごくごく単純に今の状態は日本一国の努力ででどうにかなるというレベルではなく、言うなれば日本以外の他国が目下の問題を片付けなければなにも始まらないということです。
そういう意味でアメリカを始めとした他国は現在やるべきことというのははっきりしています。それこそ失われた十年末期の、というよりも竹中経済下の日本と同じように不良債権を抱えまくっている銀行に対して公的資金注入を含めて不良債権の処理を行わせてプライマリーバランスを回復させることです。ついでだから紹介しますが、前々回のサンデープロジェクト内で竹中平蔵氏と金子勝氏が二人でガチンコバトルをした際、大の竹中氏批判者である金子氏がとうとう、竹中氏が主導した「金融再生プログラム2002」は当時必要な政策だったと認めました。これには竹中氏も満面の笑みを浮かべて、ブラックジャック張りに「その言葉が、聞きたかった」と言わんばかりでした。
そんな話はおいといて、こうして欧米を始めとした各国はやるべき対策がはっきりしているのですが、日本はというとそのような竹中氏のヤクザじみた政策を既に実行し終えており、現在の世界の中では唯一といっていいほどにサブプライム損失の影響をほとんど受けないほど金融機関のプライマリーバランスは安定していて、この方面での政策は今更ほとんど必要がないといっていいでしょう。
もしそれでも何かやるべき対策は、と問われるのならば私はちょっと以前に江田憲治氏が述べていた、緊急対策班こと突発的な事態に対してすぐに対応する遊撃隊のような組織を整備し、中小企業向けの融資をそれこそ政府が直接行うなど、いわば前にも私が述べた細く長く行き続けるゲリラ戦のような政策を取るべきだと思います。逆に言えば、現在の日本は主導的に何か目的を持ってそれに向かって突き進むべき対策や政策はほとんどなく、世界経済が出血を止めてある程度落ち着くまでじっと耐える以外やることはないということです。
そういうことなので、今現在で経済に対してあれこれ議論してもなにも出てこないしやることもないのですから、一通りの緊急対策を行った後はこの際他に片付いていない問題、それこそ年金の問題などの議論を今の国会でするべきだと思います。なんだったら、憲法改正とか一院制についても議論してもいいかもしれません。
そこで一つ私から問題提起をしますが、じゃあ一体どんな政策をすることが今の不況に対して有効な手段となるのでしょうか。私の見ている限りでは、残念ながら今の二次補正や政局ついての議論は数多あれども、具体的に効力のある政策は何かというこのような議論はまだあまりなされていないような気がします。もう結論を言ってしまいますが、私は今の段階で日本がやるべきことは何もないと考えています。
まず今回の不況は日本で起こったものではなく、アメリカから発生して世界中に蔓延した不況です。それまでの日本自体は割と好況下であったのに、海外の消費が冷え込んだことによって輸出が落ち込み、挙句には円価が急騰して一挙に国内でも不況に陥り倒産も相次ぐようになりました。
この現況が何を表すかというと、ごくごく単純に今の状態は日本一国の努力ででどうにかなるというレベルではなく、言うなれば日本以外の他国が目下の問題を片付けなければなにも始まらないということです。
そういう意味でアメリカを始めとした他国は現在やるべきことというのははっきりしています。それこそ失われた十年末期の、というよりも竹中経済下の日本と同じように不良債権を抱えまくっている銀行に対して公的資金注入を含めて不良債権の処理を行わせてプライマリーバランスを回復させることです。ついでだから紹介しますが、前々回のサンデープロジェクト内で竹中平蔵氏と金子勝氏が二人でガチンコバトルをした際、大の竹中氏批判者である金子氏がとうとう、竹中氏が主導した「金融再生プログラム2002」は当時必要な政策だったと認めました。これには竹中氏も満面の笑みを浮かべて、ブラックジャック張りに「その言葉が、聞きたかった」と言わんばかりでした。
そんな話はおいといて、こうして欧米を始めとした各国はやるべき対策がはっきりしているのですが、日本はというとそのような竹中氏のヤクザじみた政策を既に実行し終えており、現在の世界の中では唯一といっていいほどにサブプライム損失の影響をほとんど受けないほど金融機関のプライマリーバランスは安定していて、この方面での政策は今更ほとんど必要がないといっていいでしょう。
もしそれでも何かやるべき対策は、と問われるのならば私はちょっと以前に江田憲治氏が述べていた、緊急対策班こと突発的な事態に対してすぐに対応する遊撃隊のような組織を整備し、中小企業向けの融資をそれこそ政府が直接行うなど、いわば前にも私が述べた細く長く行き続けるゲリラ戦のような政策を取るべきだと思います。逆に言えば、現在の日本は主導的に何か目的を持ってそれに向かって突き進むべき対策や政策はほとんどなく、世界経済が出血を止めてある程度落ち着くまでじっと耐える以外やることはないということです。
そういうことなので、今現在で経済に対してあれこれ議論してもなにも出てこないしやることもないのですから、一通りの緊急対策を行った後はこの際他に片付いていない問題、それこそ年金の問題などの議論を今の国会でするべきだと思います。なんだったら、憲法改正とか一院制についても議論してもいいかもしれません。
2009年1月26日月曜日
日本人は個人主義になれるか
昨日は頭痛を起こしてふらふらしながら朝青龍戦を見て、おとといに買った「街道2」というレースゲームをやっている時にふと思いつきました。どうでもいいけどこのゲーム、BGMを自由に作れるサウンドエディタ機能がついているのは別にいいが、そのおまけ機能の説明に説明書の三分の一近くを使い、下手すりゃ本編以上に細かい説明を行っているのは個人的にどうかと思う。別のゲームにして出せばいいのに。
話は戻って思いついた話です。おかげさまで無事終了した「失われた十年とは」の連載のコメントにて、日本はこの時代にそれまでの集団主義という価値意識を喪失し、なおかつこれらの意識は既に時代に適合できなくなっているのだから個々の価値観に基づく独立した個人主義を持つべきだと述べられる方々が多くいましたが、私としてもそれに越したことはないんだけどと思う一方で何か引っかかるものがありました。それが昨日、古い記事の内容を思い出すとともにいろいろと頭の中でその引っかかる内容がまとまりました。
古い記事というのは九月に書いた「権威の失墜と自意識の向上」という記事です。別に意図したわけじゃありませんが、連載の後半で書いた「権威の失墜」とほぼ同じ内容ですが、前回の方ではそれまでその意見に信用がもたれていた集団や職業の権威が堕ちたことによって、他人の意見より自分の意見の方が正しいと信じる人間が増加したことによっていわゆるモンスターペアレントが発生したのではないかと書いています。
ここで私が何を言いたいのかと言うと、もし今の段階で日本人に対して独立した個人主義を持って自分自身で自分の幸福を見つけよと伝えたところで、恐らくその意図する内容を大半の日本人は受け取れないばかりか誤解する人間が大半なのではないかということです。それこそモンスターペアレントのように、自己をはっきり持てといったら他者の都合などお構いなしにただ自分の権利だけを強く主張する人間が続出する恐れすらあります。
そこで何故日本人が欧米人のようなまともな個人主義を持つことができないかということですが、一つの理由として私はどうも日本人は権利と義務の区別がついていないんじゃないかと思います。和製英語で言うと「ノブレスアビゲーション」とでも言うのですか、直訳だと「高貴なる義務」といって、欧米では社会で成功した者は寄付活動などして社会に還元しなければ激しく後ろ指を指されるという習慣がありますが、もちろん日本ではこんなことがありません。
欧米では大量のお金を使用できる権利には、社会に対してそれを行使、還元せねばならないという義務が付きまといます。しかし日本ではホリエモンを始めとしてあまりこういった習慣はなく、お金の問題に限らず憲法上の教育の義務と権利、勤労の義務と権利など、どうも義務と権利の区別のつきづらい環境もあります。その結果、失われた十年によるそれまでの価値意識の喪失に伴い個人主義を主張するものが何人か出てきたところ、「自分の権利を自由に強く主張していい」という意識が生まれたものの、本来義務を果たした上で初めて権利が認められるといういわば当たり前の認識は生まれなかった気がします。
結論を言うと私は日本人はまだ個人主義に移る段階にはないと思います。むしろ個人主義に移るくらいならば、今の価値喪失状態を脱するために以前の集団主義的概念の方がまだ害が少ない気がします。もちろん全く昔に戻れといわれれば私も抵抗感がありますが、ほんの少し二、三歩戻るくらいがいいのではないかと思います。下手に個人主義を訴えたら、お隣の中国みたいになるんじゃないかなぁ。それはそれでにぎやかで私にとっては面白いのですが。
もちろん長期的には欧米のような個人主義的価値観の方が私も日本全体として強くなる可能性が高いと思います。ですがまだその時ではなく、私が中途半端に集団主義を引きずっているのはそういうところにあるのではないかと思います。
話は戻って思いついた話です。おかげさまで無事終了した「失われた十年とは」の連載のコメントにて、日本はこの時代にそれまでの集団主義という価値意識を喪失し、なおかつこれらの意識は既に時代に適合できなくなっているのだから個々の価値観に基づく独立した個人主義を持つべきだと述べられる方々が多くいましたが、私としてもそれに越したことはないんだけどと思う一方で何か引っかかるものがありました。それが昨日、古い記事の内容を思い出すとともにいろいろと頭の中でその引っかかる内容がまとまりました。
古い記事というのは九月に書いた「権威の失墜と自意識の向上」という記事です。別に意図したわけじゃありませんが、連載の後半で書いた「権威の失墜」とほぼ同じ内容ですが、前回の方ではそれまでその意見に信用がもたれていた集団や職業の権威が堕ちたことによって、他人の意見より自分の意見の方が正しいと信じる人間が増加したことによっていわゆるモンスターペアレントが発生したのではないかと書いています。
ここで私が何を言いたいのかと言うと、もし今の段階で日本人に対して独立した個人主義を持って自分自身で自分の幸福を見つけよと伝えたところで、恐らくその意図する内容を大半の日本人は受け取れないばかりか誤解する人間が大半なのではないかということです。それこそモンスターペアレントのように、自己をはっきり持てといったら他者の都合などお構いなしにただ自分の権利だけを強く主張する人間が続出する恐れすらあります。
そこで何故日本人が欧米人のようなまともな個人主義を持つことができないかということですが、一つの理由として私はどうも日本人は権利と義務の区別がついていないんじゃないかと思います。和製英語で言うと「ノブレスアビゲーション」とでも言うのですか、直訳だと「高貴なる義務」といって、欧米では社会で成功した者は寄付活動などして社会に還元しなければ激しく後ろ指を指されるという習慣がありますが、もちろん日本ではこんなことがありません。
欧米では大量のお金を使用できる権利には、社会に対してそれを行使、還元せねばならないという義務が付きまといます。しかし日本ではホリエモンを始めとしてあまりこういった習慣はなく、お金の問題に限らず憲法上の教育の義務と権利、勤労の義務と権利など、どうも義務と権利の区別のつきづらい環境もあります。その結果、失われた十年によるそれまでの価値意識の喪失に伴い個人主義を主張するものが何人か出てきたところ、「自分の権利を自由に強く主張していい」という意識が生まれたものの、本来義務を果たした上で初めて権利が認められるといういわば当たり前の認識は生まれなかった気がします。
結論を言うと私は日本人はまだ個人主義に移る段階にはないと思います。むしろ個人主義に移るくらいならば、今の価値喪失状態を脱するために以前の集団主義的概念の方がまだ害が少ない気がします。もちろん全く昔に戻れといわれれば私も抵抗感がありますが、ほんの少し二、三歩戻るくらいがいいのではないかと思います。下手に個人主義を訴えたら、お隣の中国みたいになるんじゃないかなぁ。それはそれでにぎやかで私にとっては面白いのですが。
もちろん長期的には欧米のような個人主義的価値観の方が私も日本全体として強くなる可能性が高いと思います。ですがまだその時ではなく、私が中途半端に集団主義を引きずっているのはそういうところにあるのではないかと思います。
2009年1月25日日曜日
中国人の好きなタイプ
昼頃から頭痛を起こしてしまい、陽月旦の更新を今日もやろうと思っていたのですが無理そうなので、軽い話を一本紹介します。
さて皆さんは映画の「レッドクリフ」を見たでしょうか。レビューを見ると賛否両論ありますが、三国志に詳しくない人でもある程度理解できる内容になっているのでそこそこいい出来だと私は思います。諸葛孔明役で出ていた金城武はその前の「ラバーズ」という映画から中国でも大人気になり、今回も難しい役ながらなかなかうまく演じていたのには舌を巻きました。
それであの映画に出てきたキャラに「張飛」というのがおります。劉備軍の中でもトップクラスの腕力にもかかわらず短気で酒飲みでしばしば失敗をしてしまう典型的な「パワー馬鹿」キャラですが、実を言うと三国志の人物の中でも中国人からはトップクラスに人気なキャラクターであります(多分トップは馬超だろうけど)。日本人の中でも私のように張飛が好きな人も少なくないのですが、よく評論家からは中国は基本的に皇帝専制のがちがちの法治国家が続いてきたから、ああいう酒を飲んでは暴れてルールを無視するキャラクターに強いシンパシーを覚えるという人がいますが、私もなんだかそんな気がします。なにも三国志に限らずとも西遊記では「孫悟空」、水滸伝では「李逵」と、パワー馬鹿は大抵どの作品にも出てきますし、みんな人気になっています。
では日本人が好きなキャラクターですが、三国志なんかでは「曹操」が割と人気ですが、この人は中国では逆に非常に嫌われている人物です。なもんだから私が「日本じゃ曹操が人気だよ」と言ったら中国人に凄い驚かれてなんでと聞かれたのですが、
「日本人は自分であまり決断をしたがらないので、ああいう風に独断専行でバンバン突き進んでくれる人間の方が好きなんだよ。織田信長もそうだし」
と言ったらなんか納得してくれました。
さて皆さんは映画の「レッドクリフ」を見たでしょうか。レビューを見ると賛否両論ありますが、三国志に詳しくない人でもある程度理解できる内容になっているのでそこそこいい出来だと私は思います。諸葛孔明役で出ていた金城武はその前の「ラバーズ」という映画から中国でも大人気になり、今回も難しい役ながらなかなかうまく演じていたのには舌を巻きました。
それであの映画に出てきたキャラに「張飛」というのがおります。劉備軍の中でもトップクラスの腕力にもかかわらず短気で酒飲みでしばしば失敗をしてしまう典型的な「パワー馬鹿」キャラですが、実を言うと三国志の人物の中でも中国人からはトップクラスに人気なキャラクターであります(多分トップは馬超だろうけど)。日本人の中でも私のように張飛が好きな人も少なくないのですが、よく評論家からは中国は基本的に皇帝専制のがちがちの法治国家が続いてきたから、ああいう酒を飲んでは暴れてルールを無視するキャラクターに強いシンパシーを覚えるという人がいますが、私もなんだかそんな気がします。なにも三国志に限らずとも西遊記では「孫悟空」、水滸伝では「李逵」と、パワー馬鹿は大抵どの作品にも出てきますし、みんな人気になっています。
では日本人が好きなキャラクターですが、三国志なんかでは「曹操」が割と人気ですが、この人は中国では逆に非常に嫌われている人物です。なもんだから私が「日本じゃ曹操が人気だよ」と言ったら中国人に凄い驚かれてなんでと聞かれたのですが、
「日本人は自分であまり決断をしたがらないので、ああいう風に独断専行でバンバン突き進んでくれる人間の方が好きなんだよ。織田信長もそうだし」
と言ったらなんか納得してくれました。
2009年1月23日金曜日
失われた十年とは~最終回、この時代に変化したもの~
とうとうこの連載も最終回です。本当は一ヶ月以内に終わらせるつもりだったのに途中で中だるみして、気がついたら三ヶ月も長々と書く羽目となりました。
自分で言うのもなんですが、連載全体で見るとあまりないようにまとまりがなくあまりいい連載記事だとは思いませんが、元々この連載自体この失われた十年について「言われてみると思い出すけど、ぱっと出てこない記憶」を呼び覚まし、あの時代は具体的になんだったのかを読者の方に考えてもらう機会を作る思いで書いてあり、そのため記事の内容も個々のトピックに絞ったものになったためにまとまりがなくなったというのはまぁ自然の成り行きかと思います。
なおこの時代に起きた大きな変化でありながら敢えて取り上げなかった項目に、「インターネットの発達」があります。何故取り上げなかったかというと、一つにこのIT革命による社会変化については解説本が数多く出ていること、二つにもしこれをやろうとしたら膨大な量の記事をこの項目に割かなければいけないことが予想されたため、やるんだったらあまり他の人が取り上げないことを取り上げようとして敬遠することにしました。書き終わった現在の段階で、やっぱりその判断は正しかった気がします。
それでこの記事は前々回にボーナスステージと書いただけあり、この時代で変化したものを思いつく限りリストアップしようと思います。案外こういうリストって見ないので、そこそこいいものになる自信はあります。なおあらかじめ断っておきますが、個々でリストするものは私の主観で当てはまるもので、決して絶対的なものではありません。
それではまず、前回の記事で書いた権威が変化したものを挙げると、
権威が失墜したもの
・護憲派 ・左翼政党 ・医師 ・警察 ・教師 ・官僚 ・マスコミ ・自動車 ・初等教育 ・大学生 ・銀行 ・松下
権威が向上したもの
・自衛隊 ・改憲派 ・地方公務員 ・独身 ・メーカー ・ソニー
少し解説しておくと、自衛隊が阪神大震災によって大きく見方が変わったことにより憲法意識が球九条維持ではありながらも自衛隊の存在認定に国民の多数派が賛同するようになったのは非常に大きな変化でしょう。あと教育問題で初等教育が大きく信用を損ない、大学生も遊んでばかりと言われるようになり、自動車については「持っているとモテる」から「持っていると金がかかる」に変わったことを反映させました。最後の松下とソニーについては当時の家電業界の勢いです。90年代末期は本当にソニーの時代だったし。
さてこうした権威関係に対し、今度は各項目ごとに失われた十年の以前と以後で変化したものをリストアップして見ます。
・社会指標:学歴社会→職歴社会
・雇用制度:終身雇用→中途半端な流動化
・アニメの対象視聴者層:子供→大人
・日本人は:集団主義(フェミニズム)→個人主義(自己責任)
・小売業:ダイエー→イオン
・治安:安全→危険
・死刑は今後:廃立→維持
・経済学の潮流:ケインズ(介入主義)→フリードマン(自由主義)
若者は……
・政治姿勢:左翼的→右翼的
・物事に:情熱的→しらけ気味
・会社では:出世したい→責任忌避
・雇用は:正社員→フリーターが増加
・娯楽は:スキー→インターネット
・女性は:おとなしい→たくましい
最後のはちょっと冗談入ってます。ただ女性の社会進出は以前と以後で全然変わってきており、なおかつ私の目から見ても最近の女性はとてもたくましく見えます。
とまぁ、ちょっと考えて思いつくものは大体こんなもんです。十年という長い間とはいえ、やっぱりいろいろ変わっているんだなぁと思います。
最後に対象とした失われた十年の期間から現在でもう五年以上経っていますが、あの時に日本人が必死で投げ捨てた「経済大国」や「安全と平和」といった概念のかわりに何が入ってきたか、どんなものが概念として確立されているのかというと、実はまだ全然確立できていないのではないかと私は思います。まずそれまでの終身雇用制にかわって入ってきた成果主義ですが、これについては現在反動が強く起きており、日本人にはやはり合わないといった反発が生まれてきていますし、また国際社会に対しても今後日本はどのような国としてやっていこうかという意識が生まれていませんし、個人の生き方に対しても家族を大事にするのか会社を大事にするのか、はたまた自分自身を大事にしていくのかどうもまだ中途半端で足を引っ張り合っている状態のような気がします。
こうした動きに対して藤原正彦氏のように、武士道を復活させて日本人としての文化と教養を誇りにするべきという新たな概念を提唱するものもいますが、こうした動きはどうにもまだ確立できていません。
しかし逆転した発想で言うと、この時代を貫いても変わらなかった日本人の概念は何かといったら、一つの例として天皇制への意識が挙がってきます。かつてマッカーサーらGHQも日本人は天皇制において不動だと分析しており、他の概念ががたがたになっておきながら天皇は象徴でいいという意識だけはビクともしませんでした。
別に今しばらくは天皇制を軸にせよというわけじゃありませんが、もし天皇制がなかったらあの時どうなっていたのかと思うあたり、自分も日本人なんだなぁと思います。
この失った概念のかわりに何を柱に立てるかですが、友人などはこの際徹底的に日本人は個人主義に走るべきだと主張していますが、私としてはちょっと古い人間ということもありかつて程ではないにしろもうすこし集団主義を強化するべきなのではないかと思います。まぁこの手の議論はやりだすと長くなるのでまた別の記事でやりますが、とにもかくにもようやくこれで連載終了です。また補足があれば追加しますが、ひとまずこの時代については書きたいことは書ききることが出来てほっとします。
自分で言うのもなんですが、連載全体で見るとあまりないようにまとまりがなくあまりいい連載記事だとは思いませんが、元々この連載自体この失われた十年について「言われてみると思い出すけど、ぱっと出てこない記憶」を呼び覚まし、あの時代は具体的になんだったのかを読者の方に考えてもらう機会を作る思いで書いてあり、そのため記事の内容も個々のトピックに絞ったものになったためにまとまりがなくなったというのはまぁ自然の成り行きかと思います。
なおこの時代に起きた大きな変化でありながら敢えて取り上げなかった項目に、「インターネットの発達」があります。何故取り上げなかったかというと、一つにこのIT革命による社会変化については解説本が数多く出ていること、二つにもしこれをやろうとしたら膨大な量の記事をこの項目に割かなければいけないことが予想されたため、やるんだったらあまり他の人が取り上げないことを取り上げようとして敬遠することにしました。書き終わった現在の段階で、やっぱりその判断は正しかった気がします。
それでこの記事は前々回にボーナスステージと書いただけあり、この時代で変化したものを思いつく限りリストアップしようと思います。案外こういうリストって見ないので、そこそこいいものになる自信はあります。なおあらかじめ断っておきますが、個々でリストするものは私の主観で当てはまるもので、決して絶対的なものではありません。
それではまず、前回の記事で書いた権威が変化したものを挙げると、
権威が失墜したもの
・護憲派 ・左翼政党 ・医師 ・警察 ・教師 ・官僚 ・マスコミ ・自動車 ・初等教育 ・大学生 ・銀行 ・松下
権威が向上したもの
・自衛隊 ・改憲派 ・地方公務員 ・独身 ・メーカー ・ソニー
少し解説しておくと、自衛隊が阪神大震災によって大きく見方が変わったことにより憲法意識が球九条維持ではありながらも自衛隊の存在認定に国民の多数派が賛同するようになったのは非常に大きな変化でしょう。あと教育問題で初等教育が大きく信用を損ない、大学生も遊んでばかりと言われるようになり、自動車については「持っているとモテる」から「持っていると金がかかる」に変わったことを反映させました。最後の松下とソニーについては当時の家電業界の勢いです。90年代末期は本当にソニーの時代だったし。
さてこうした権威関係に対し、今度は各項目ごとに失われた十年の以前と以後で変化したものをリストアップして見ます。
・社会指標:学歴社会→職歴社会
・雇用制度:終身雇用→中途半端な流動化
・アニメの対象視聴者層:子供→大人
・日本人は:集団主義(フェミニズム)→個人主義(自己責任)
・小売業:ダイエー→イオン
・治安:安全→危険
・死刑は今後:廃立→維持
・経済学の潮流:ケインズ(介入主義)→フリードマン(自由主義)
若者は……
・政治姿勢:左翼的→右翼的
・物事に:情熱的→しらけ気味
・会社では:出世したい→責任忌避
・雇用は:正社員→フリーターが増加
・娯楽は:スキー→インターネット
・女性は:おとなしい→たくましい
最後のはちょっと冗談入ってます。ただ女性の社会進出は以前と以後で全然変わってきており、なおかつ私の目から見ても最近の女性はとてもたくましく見えます。
とまぁ、ちょっと考えて思いつくものは大体こんなもんです。十年という長い間とはいえ、やっぱりいろいろ変わっているんだなぁと思います。
最後に対象とした失われた十年の期間から現在でもう五年以上経っていますが、あの時に日本人が必死で投げ捨てた「経済大国」や「安全と平和」といった概念のかわりに何が入ってきたか、どんなものが概念として確立されているのかというと、実はまだ全然確立できていないのではないかと私は思います。まずそれまでの終身雇用制にかわって入ってきた成果主義ですが、これについては現在反動が強く起きており、日本人にはやはり合わないといった反発が生まれてきていますし、また国際社会に対しても今後日本はどのような国としてやっていこうかという意識が生まれていませんし、個人の生き方に対しても家族を大事にするのか会社を大事にするのか、はたまた自分自身を大事にしていくのかどうもまだ中途半端で足を引っ張り合っている状態のような気がします。
こうした動きに対して藤原正彦氏のように、武士道を復活させて日本人としての文化と教養を誇りにするべきという新たな概念を提唱するものもいますが、こうした動きはどうにもまだ確立できていません。
しかし逆転した発想で言うと、この時代を貫いても変わらなかった日本人の概念は何かといったら、一つの例として天皇制への意識が挙がってきます。かつてマッカーサーらGHQも日本人は天皇制において不動だと分析しており、他の概念ががたがたになっておきながら天皇は象徴でいいという意識だけはビクともしませんでした。
別に今しばらくは天皇制を軸にせよというわけじゃありませんが、もし天皇制がなかったらあの時どうなっていたのかと思うあたり、自分も日本人なんだなぁと思います。
この失った概念のかわりに何を柱に立てるかですが、友人などはこの際徹底的に日本人は個人主義に走るべきだと主張していますが、私としてはちょっと古い人間ということもありかつて程ではないにしろもうすこし集団主義を強化するべきなのではないかと思います。まぁこの手の議論はやりだすと長くなるのでまた別の記事でやりますが、とにもかくにもようやくこれで連載終了です。また補足があれば追加しますが、ひとまずこの時代については書きたいことは書ききることが出来てほっとします。
失われた十年とは~その二三、権威の失墜~
次で終わりと言って結論まで書いておきながら、書きそびれていた内容があったのでぱぱっと書いちゃいます。
まず前回に書いた結論ですが、私はあの失われた十年は前提としてノストラダムスの予言から来る漠然とした終末思想のようなものが薄く広く日本人の中にあり、そして実際に阪神大震災やオウム事件といった社会を震撼させる事件が起きただけでなくこれまで上昇一辺倒だった日本経済が大きく傾いたことにより、今までの概念を捨てなければこれからについていけない、今のままじゃ駄目だという意識が強まったために、とにかく以前の意識や概念とみなされるものを片っ端から捨てていき、さらにそれら以前の概念を否定するものほど新たな概念として迎え入れようと躍起になるという、一種のモラルパニックが起きていたのではないかというのが私の結論です。
私がこの結論にたどり着くためにまず最初に「経済大国」という自負のあった経済力の崩壊の過程から書き始め、そのあとなんだかわけのわからないものが流行りだしたということを紹介し、社会を震撼させる大事件が起きるに至ってそれまでの概念が崩壊するに至ったという風にこの連載を進めてきました。実はこの過程で一つ抜けていたのが、今回の題となっている「権威の失墜」に当たる箇所です。具体的にどの箇所になるかと言うと、「社会を震撼させる大事件」とほぼ同時期にこれが来て、年代的には大体97~99年くらいの間です。
では具体的にどんな権威が失墜したのかと言うと、十二回目に「左翼の失墜」で説明したように左翼政党を始めとして、警察、医師、教師、官僚、マスコミなどと、それまで強い権威を持っていた集団がこの時期に一挙にその権威を落としてしまっています。
一つ一つ説明していくとまず警察ですが、これは新潟県警や神奈川県警で起きた警察内部の不祥事に始まり、桶川ストーカー殺人事件や栃木リンチ殺人事件、そしてこれは私も過去に取り上げた松本サリン事件での河野義行氏の例などと、ありありとわかるほどの警察の捜査怠慢が次々と明るみに出たことによります。我ながら、よくもこんなに細かい例を覚えているもんだ。
次に医師ですが、先ほどの警察と比べてこれは本当に極一部で行われてしまった問題行動がマスコミによって過大に取り上げられ過ぎていわば無理やりに権威を落とされてしまっただけで、前の警察については確かに問題があるもののこちらの医師については私は非常に同情します。で、そのきっかけとなったのは東京女子医科大学で起きた医療事故で、この事件を皮切りに、現場で頑張っている医師はおざなりにされてマスコミから激しい取材バッシングが行われてしまいました。
でもって今度は教師。これは教育問題が表面化していくとともに一時期流行った(?)教師の盗撮事件がきっかけだと思います。まぁ教師についてはそれまで問題のある教師をほっといたのが最大の原因だろうけど。
そして官僚ですが、こちらは決定的に権威を失墜させたのがあの厚生省の「薬害エイズ事件」と大蔵省で起きた「ノーパンしゃぶしゃぶ」で有名な「官官接待事件」が原因で、社会保険庁の問題などでこちらは現在進行で駄目になっていってます。
最後が、これまた結構皮肉ですが散々よその権威を落としていったマスコミも、決定的に権威が駄目になるのは失われた十年の後からですがこの間ではオウム真理教による「坂本弁護士一家殺人事件」のきっかけとなった「TBSビデオ問題」が明らかになり、その後も私が先ほどの河野義行氏のリンクに張った自分の記事でも書いているように報道被害について世間の理解が進んだことにより、徐々に権威を落としていきました。
あとこれは蛇足かもしれませんが、それまで嘘八百並び立てても売れれば許された芸能関係のゴシップ記事も、この時期くらいから段々と報道される芸能人らに損害賠償請求が行われて敗訴するようになり、徐々に勢いをなくしていきました。なおそういった動きが起きた初期に元巨人のプロ野球選手である清原選手が根拠のない記事を書かれたとして週刊誌を訴え見事に勝訴しましたが、その際に提訴される記事を書いたのはあの永田の偽メールを書いた人物だと以前に聞いたことがあります。問題のある人間はいつまでたっても問題があり続けますね。
一気にまくし立てて書きましたがここで私が何を言いたいのかと言うと、こうしたそれまで尊敬と羨望のまなざしをもたれていた職業や集団が次々と不祥事を起こした挙句に権威を落としたことが、「このままじゃ駄目なんだ」というようなモラルパニックを助長させた一因になっているのではないかということです。
この時期に権威を失った集団は医師を除けば未だにその権威を回復しているとはとても言い切れない状態で、中には官僚のように余計に信用を落としているのまでいます。そのせいか以前に後輩から、「今の時代、何を信じていけばいいんでしょうか」と聞かれたことがありましたが、その後輩の気持ちもわからないでもありません。なおその際には、「難しいかもしれないけど、自分で考えて行動するしかない。そのせいで不利益を被ることとなってもね」と、ちょっと厳しいことを言ってあげたのをよく覚えています。実際、今権威ある集団や職業って何なのかといったらピンと来ないですね。
そういうことで、今度こそ最終回です。それにしても、この記事はウィキペディアのリンクのオンパレードですね。とてもウィキには足を向いて眠れない。
まず前回に書いた結論ですが、私はあの失われた十年は前提としてノストラダムスの予言から来る漠然とした終末思想のようなものが薄く広く日本人の中にあり、そして実際に阪神大震災やオウム事件といった社会を震撼させる事件が起きただけでなくこれまで上昇一辺倒だった日本経済が大きく傾いたことにより、今までの概念を捨てなければこれからについていけない、今のままじゃ駄目だという意識が強まったために、とにかく以前の意識や概念とみなされるものを片っ端から捨てていき、さらにそれら以前の概念を否定するものほど新たな概念として迎え入れようと躍起になるという、一種のモラルパニックが起きていたのではないかというのが私の結論です。
私がこの結論にたどり着くためにまず最初に「経済大国」という自負のあった経済力の崩壊の過程から書き始め、そのあとなんだかわけのわからないものが流行りだしたということを紹介し、社会を震撼させる大事件が起きるに至ってそれまでの概念が崩壊するに至ったという風にこの連載を進めてきました。実はこの過程で一つ抜けていたのが、今回の題となっている「権威の失墜」に当たる箇所です。具体的にどの箇所になるかと言うと、「社会を震撼させる大事件」とほぼ同時期にこれが来て、年代的には大体97~99年くらいの間です。
では具体的にどんな権威が失墜したのかと言うと、十二回目に「左翼の失墜」で説明したように左翼政党を始めとして、警察、医師、教師、官僚、マスコミなどと、それまで強い権威を持っていた集団がこの時期に一挙にその権威を落としてしまっています。
一つ一つ説明していくとまず警察ですが、これは新潟県警や神奈川県警で起きた警察内部の不祥事に始まり、桶川ストーカー殺人事件や栃木リンチ殺人事件、そしてこれは私も過去に取り上げた松本サリン事件での河野義行氏の例などと、ありありとわかるほどの警察の捜査怠慢が次々と明るみに出たことによります。我ながら、よくもこんなに細かい例を覚えているもんだ。
次に医師ですが、先ほどの警察と比べてこれは本当に極一部で行われてしまった問題行動がマスコミによって過大に取り上げられ過ぎていわば無理やりに権威を落とされてしまっただけで、前の警察については確かに問題があるもののこちらの医師については私は非常に同情します。で、そのきっかけとなったのは東京女子医科大学で起きた医療事故で、この事件を皮切りに、現場で頑張っている医師はおざなりにされてマスコミから激しい取材バッシングが行われてしまいました。
でもって今度は教師。これは教育問題が表面化していくとともに一時期流行った(?)教師の盗撮事件がきっかけだと思います。まぁ教師についてはそれまで問題のある教師をほっといたのが最大の原因だろうけど。
そして官僚ですが、こちらは決定的に権威を失墜させたのがあの厚生省の「薬害エイズ事件」と大蔵省で起きた「ノーパンしゃぶしゃぶ」で有名な「官官接待事件」が原因で、社会保険庁の問題などでこちらは現在進行で駄目になっていってます。
最後が、これまた結構皮肉ですが散々よその権威を落としていったマスコミも、決定的に権威が駄目になるのは失われた十年の後からですがこの間ではオウム真理教による「坂本弁護士一家殺人事件」のきっかけとなった「TBSビデオ問題」が明らかになり、その後も私が先ほどの河野義行氏のリンクに張った自分の記事でも書いているように報道被害について世間の理解が進んだことにより、徐々に権威を落としていきました。
あとこれは蛇足かもしれませんが、それまで嘘八百並び立てても売れれば許された芸能関係のゴシップ記事も、この時期くらいから段々と報道される芸能人らに損害賠償請求が行われて敗訴するようになり、徐々に勢いをなくしていきました。なおそういった動きが起きた初期に元巨人のプロ野球選手である清原選手が根拠のない記事を書かれたとして週刊誌を訴え見事に勝訴しましたが、その際に提訴される記事を書いたのはあの永田の偽メールを書いた人物だと以前に聞いたことがあります。問題のある人間はいつまでたっても問題があり続けますね。
一気にまくし立てて書きましたがここで私が何を言いたいのかと言うと、こうしたそれまで尊敬と羨望のまなざしをもたれていた職業や集団が次々と不祥事を起こした挙句に権威を落としたことが、「このままじゃ駄目なんだ」というようなモラルパニックを助長させた一因になっているのではないかということです。
この時期に権威を失った集団は医師を除けば未だにその権威を回復しているとはとても言い切れない状態で、中には官僚のように余計に信用を落としているのまでいます。そのせいか以前に後輩から、「今の時代、何を信じていけばいいんでしょうか」と聞かれたことがありましたが、その後輩の気持ちもわからないでもありません。なおその際には、「難しいかもしれないけど、自分で考えて行動するしかない。そのせいで不利益を被ることとなってもね」と、ちょっと厳しいことを言ってあげたのをよく覚えています。実際、今権威ある集団や職業って何なのかといったらピンと来ないですね。
そういうことで、今度こそ最終回です。それにしても、この記事はウィキペディアのリンクのオンパレードですね。とてもウィキには足を向いて眠れない。
2009年1月22日木曜日
失われた十年とは~その二二、モラルパニック~
とうとう結論部です。思えばここまで長かったもんだ。
それでいきなり結論ですが、私がこの連載の最初の記事にて、「私はこの失われた十年とはモラルパニックの十年と言い換えられる」と言ったように、この時代に日本は一種のモラルパニックが起こっていたのではないかと言いたいのです。そもそもこの「モラルパニック」というのは一体どういう意味の語なのかですが、リンクに貼ったウィキペディアの記事に書いてあるのがきちんとした定義だと、どうも私の言いたい意味とは少し違うような気がします。実を言うとこのモラルパニックという言葉自体を私はあんまりよくわかっていないのに、何故だかこの失われた十年を考えた際にひょいと私の頭に浮かんできたから使っているだけで、実際の意味とは少し隔たりがあるのも当然かもしれません。なんで浮かんできたのかって言うと、そりゃやっぱ「私のゴーストが囁くのよ」としか言えないのですが。
それで具体的な私の定義こと失われた十年についての見解を述べると、それまで戦後一貫して歩んできた高度経済成長の下で作られた、出来上がった日本人の概念というものが一挙に崩壊、または否定されて、根本からとまでは言いませんが様々な概念が引っくり返された時代なのではないかと思います。
まずこの時期にひっくり返った概念で最も代表的なのは、日本は経済大国だという自信と誇りです。バブル崩壊以後の長期不況と就職氷河期によって、「一生懸命働けば必ず報われる」というような、もっと言うなら残業した分だけ報酬がもらえる、期待できるというような概念が崩壊したため、今もなお労働の意義や価値については迷走を続けております。更には就職氷河期の影響を受けて、それまでの「いい大学からいい就職先で定年まで一直線に一安心」という規定されたエリートコースも大きく変わって雇用の流動化が起こっています。
そしてもう一つの大きな概念の変化がちょっと前まで書いていた治安への意識です。「水と安全はタダの国」と言われてきた日本ですが、度重なる大規模災害や犯罪事件によってすっかりこの意識は低下し、ひいては「日本は国際平和のためにある」というような意識にも影響を及ぼしたのではないかと思います。
なにもこれらの基本的な概念に限らず、細かいところでも十年の間とはいえいろいろ変わっており、その中には戦後一貫して持たれてきて発言することすら許されなかった改憲についての意識などもあり、こういった点から私は失われた十年は戦後初めて起きた大きな曲がり角に当たるのではないかと考えるのです。
では何故このような意識の変化が起きたかですが、一つの契機はバブル崩壊です。しかしこれ自体はまだそれほど日本人の意識に強い影響を与えませんでしたが、その後延々と不況が続いただけでなく、阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがす大事件が連続しておき、97年の山一證券破綻によってこれまでの日本はもう別物なのだという風に強く意識されたのではないかと思います。
その結果何が起きたかと言うと、ここからが一番私が伝えたい内容ですが、私が思うに当時の日本はそれこそ明治の頃の廃仏毀釈のように、以前から持っていた概念をとにかく捨てなければ、という風に社会全体で躍起になっていたのではないかと思います。
過程はこうです。それまで日本は戦後一貫として固定した概念を持って成長し続けそれに対して強い自信と自負がありましたが、長引く不況や社会不安によって今起きている問題の原因はそれらの固定した概念だと考え、それらはもう古い、使えないといったように意識するようになり、本当にそれまでの概念が正しいのか間違っているのか、効率的なのか非効率なのかというようなことを考えずただ単に、「それまで持っていた概念だから」という理由でひたすら投げ捨てようとしたばかりか、それらの以前からの概念と対極を為す概念、それこそ経済概念だと欧米を中途半端に真似た成果主義のようなものを好んで取り入れるようになっていったのではないかという具合です。逆を言えば、それまでの概念を否定するものなら何も考えずにどんどんと取り入れようとした節すらあるのではないかと思います。
この例で一番代表的なものは今挙げた成果主義で、そのほかには憲法意識、そして一番大きいものはそれまでの概念をすべて覆して破壊して見せると主張して誕生した小泉政権でしょう。このように過去を断絶させるものにこそ未来があると日本人は考えたのではないかと思い、その一方でそれまでの概念を捨てたものの代わりの概念が今しばらくないため、よくわからないオカルトや文物がヒットしたりしたのではないかとも考えられます。
そしてもう一つ大きく変化したものとして、先が見えない、わからないと強く認識することによって、人生とか生き方に対して刹那的になっていったようにも思えます。未来をどうするかよりも現在をどうするかに強く意識が向かうようになり、女子高生の援助交際が大きく取り上げられたり変な小説が芥川賞に選ばれたりとしたのではないかと思います。更に言えばこれは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏が言っていたことですが、現代に至ると「以前までの自分とはもう関係がない」というように、過去と現在にも意識の断絶が起きているのではないかという主張もあります。
あまり自分でもまとめていないのでわかりにくい記事となっていますが、改めて要約して述べると、要するに失われた十年によって日本人は社会不安を感じ、なんだかよくわからないけど今のままじゃ駄目なんだとばかりに自己否定をやりだした、というのが私の意見で、その自己否定こそがモラルパニックなのではないかということです。
もう何度も変わった変わったと言っていますが、この失われた十年における日本人の意識変化は戦後としては大きな変化ではあるものの、60年前の戦前から戦後への変化に比べればちっぽけなものだと私は思います。それでも一つの歴史の曲がり角としては捉えてもよいのではないかということで、このようなわけのわからない考えを連載記事にまとめたというわけです。
これにてこの連載の主要な解説は終えますが、明日はボーナスステージとばかりにじゃあ一体どんなものが変化したのかを一覧にしてみようと思います。ゲームの「サイレン」も終わっているので後顧の憂いはないし……何気にここ二週間は「サイレン」がやりたくてしょうがなくてブログを書く時間とどう区切るかでやきもきしてました。
それでいきなり結論ですが、私がこの連載の最初の記事にて、「私はこの失われた十年とはモラルパニックの十年と言い換えられる」と言ったように、この時代に日本は一種のモラルパニックが起こっていたのではないかと言いたいのです。そもそもこの「モラルパニック」というのは一体どういう意味の語なのかですが、リンクに貼ったウィキペディアの記事に書いてあるのがきちんとした定義だと、どうも私の言いたい意味とは少し違うような気がします。実を言うとこのモラルパニックという言葉自体を私はあんまりよくわかっていないのに、何故だかこの失われた十年を考えた際にひょいと私の頭に浮かんできたから使っているだけで、実際の意味とは少し隔たりがあるのも当然かもしれません。なんで浮かんできたのかって言うと、そりゃやっぱ「私のゴーストが囁くのよ」としか言えないのですが。
それで具体的な私の定義こと失われた十年についての見解を述べると、それまで戦後一貫して歩んできた高度経済成長の下で作られた、出来上がった日本人の概念というものが一挙に崩壊、または否定されて、根本からとまでは言いませんが様々な概念が引っくり返された時代なのではないかと思います。
まずこの時期にひっくり返った概念で最も代表的なのは、日本は経済大国だという自信と誇りです。バブル崩壊以後の長期不況と就職氷河期によって、「一生懸命働けば必ず報われる」というような、もっと言うなら残業した分だけ報酬がもらえる、期待できるというような概念が崩壊したため、今もなお労働の意義や価値については迷走を続けております。更には就職氷河期の影響を受けて、それまでの「いい大学からいい就職先で定年まで一直線に一安心」という規定されたエリートコースも大きく変わって雇用の流動化が起こっています。
そしてもう一つの大きな概念の変化がちょっと前まで書いていた治安への意識です。「水と安全はタダの国」と言われてきた日本ですが、度重なる大規模災害や犯罪事件によってすっかりこの意識は低下し、ひいては「日本は国際平和のためにある」というような意識にも影響を及ぼしたのではないかと思います。
なにもこれらの基本的な概念に限らず、細かいところでも十年の間とはいえいろいろ変わっており、その中には戦後一貫して持たれてきて発言することすら許されなかった改憲についての意識などもあり、こういった点から私は失われた十年は戦後初めて起きた大きな曲がり角に当たるのではないかと考えるのです。
では何故このような意識の変化が起きたかですが、一つの契機はバブル崩壊です。しかしこれ自体はまだそれほど日本人の意識に強い影響を与えませんでしたが、その後延々と不況が続いただけでなく、阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがす大事件が連続しておき、97年の山一證券破綻によってこれまでの日本はもう別物なのだという風に強く意識されたのではないかと思います。
その結果何が起きたかと言うと、ここからが一番私が伝えたい内容ですが、私が思うに当時の日本はそれこそ明治の頃の廃仏毀釈のように、以前から持っていた概念をとにかく捨てなければ、という風に社会全体で躍起になっていたのではないかと思います。
過程はこうです。それまで日本は戦後一貫として固定した概念を持って成長し続けそれに対して強い自信と自負がありましたが、長引く不況や社会不安によって今起きている問題の原因はそれらの固定した概念だと考え、それらはもう古い、使えないといったように意識するようになり、本当にそれまでの概念が正しいのか間違っているのか、効率的なのか非効率なのかというようなことを考えずただ単に、「それまで持っていた概念だから」という理由でひたすら投げ捨てようとしたばかりか、それらの以前からの概念と対極を為す概念、それこそ経済概念だと欧米を中途半端に真似た成果主義のようなものを好んで取り入れるようになっていったのではないかという具合です。逆を言えば、それまでの概念を否定するものなら何も考えずにどんどんと取り入れようとした節すらあるのではないかと思います。
この例で一番代表的なものは今挙げた成果主義で、そのほかには憲法意識、そして一番大きいものはそれまでの概念をすべて覆して破壊して見せると主張して誕生した小泉政権でしょう。このように過去を断絶させるものにこそ未来があると日本人は考えたのではないかと思い、その一方でそれまでの概念を捨てたものの代わりの概念が今しばらくないため、よくわからないオカルトや文物がヒットしたりしたのではないかとも考えられます。
そしてもう一つ大きく変化したものとして、先が見えない、わからないと強く認識することによって、人生とか生き方に対して刹那的になっていったようにも思えます。未来をどうするかよりも現在をどうするかに強く意識が向かうようになり、女子高生の援助交際が大きく取り上げられたり変な小説が芥川賞に選ばれたりとしたのではないかと思います。更に言えばこれは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏が言っていたことですが、現代に至ると「以前までの自分とはもう関係がない」というように、過去と現在にも意識の断絶が起きているのではないかという主張もあります。
あまり自分でもまとめていないのでわかりにくい記事となっていますが、改めて要約して述べると、要するに失われた十年によって日本人は社会不安を感じ、なんだかよくわからないけど今のままじゃ駄目なんだとばかりに自己否定をやりだした、というのが私の意見で、その自己否定こそがモラルパニックなのではないかということです。
もう何度も変わった変わったと言っていますが、この失われた十年における日本人の意識変化は戦後としては大きな変化ではあるものの、60年前の戦前から戦後への変化に比べればちっぽけなものだと私は思います。それでも一つの歴史の曲がり角としては捉えてもよいのではないかということで、このようなわけのわからない考えを連載記事にまとめたというわけです。
これにてこの連載の主要な解説は終えますが、明日はボーナスステージとばかりにじゃあ一体どんなものが変化したのかを一覧にしてみようと思います。ゲームの「サイレン」も終わっているので後顧の憂いはないし……何気にここ二週間は「サイレン」がやりたくてしょうがなくてブログを書く時間とどう区切るかでやきもきしてました。
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