どうでもいいですが先週に熱出して寝込んで以来、どうも文章の書き方が自分でも変わってきているような気がします。今までもそういうことがなかったわけじゃないですが、こうも毎日書いているとなぁ。
それで本題に入りますが、さてどっちを向いても不況不況の現在、企業はどこも経費削減を行っておりその一貫としてワークシェアリングや前に私も書いた一時帰休ことレイオフなどの制度導入を議論し始めています。その一方で首切りの真っ先の対象であった派遣社員らとの格差問題に触れ、同一賃金同一労働の議論も一部では行われています。
この同一賃金同一労働の中身というのは、要は単位時間当たり同じ作業を行う人間は年齢、職位、性別、正規雇用か不正規雇用かの区別なく同一の賃金を払うべきだという考え方で、この制度を現在のところ先進国で唯一実施、維持しているのはオランダで、昔見た統計だと確か正社員と非正社員の単位辺り賃金の差が90%と、実際にほとんど差がなく推移しています。なお日本の同じ統計結果では60%くらいだったかな。
言ってしまえばこの制度、当たり前といえば至極当たり前の制度と言えますが、現在の日本では同じマクドナルドの仕事でも正社員とアルバイトでは受け取る給料額に大きな差があるだけでなく、残業代などが真っ当に支払われないことから正社員同士でも職位によってやたらめったらな給料差があり、労働の内容というよりも待遇の違いによって給料が決まってしまう、なんかこう書いてて身分制じゃないかというような社会が続いています。
もちろんこんな社会では社会に活力が生まれるわけもなく、自分でもくどいと思いますが日本の若者が派遣や非正社員といった不遇な立場が見えており、何をしたところで、どんなに頑張ったところで報われないというあきらめの意識からやる気をなくすのも自然なことで、そういう意味で同一賃金同一労働によって、ある程度その労働によって報われる社会を目指そうとするのもあながち方向性としては間違っていません。
しかし私はここで断言しますが、この同一賃金同一労働は不完全な状態ならともかく、完全な状態で実施されることは今後50年間はないでしょう。それはなぜかというと、外国人労働者の問題があるからです。現在派遣切りの問題がクローズアップされてその対策なども各地で行われていますが、私は今最も深刻な状況に追い込まれているのは愛知県や群馬県などで出稼ぎで働いていた外国人労働者たちだと考えています。
彼らは日本国籍がないために日本人に適用される最低賃金枠がないためにそれこそ時給あたりに換算すると奴隷のような待遇で働かされ続けてきましたが、今回の世界的不況のあおりを受けて真っ先に解雇されたのも彼ら外国人労働者たちで、以前の報道で見た内容では帰国費用すらままならないまでに追い詰められている方もおられるそうです。
正直に言えば、私はこの外国人労働者の状況を聞くたびに日本人として非常に申し訳ない気持ちになります。散々安い賃金でこき使った挙句にいらなくなったらぽいっと捨てて、挙句に日本人の派遣労働者みたいに保護や対策も一切為されずにおります。中にはここは日本なのだから日本人を優先して当たり前だと言われる方もおられるかもしれませんが、彼ら外国人は日本語も日本の文化もわからず、生活や家族のために日本の企業に請われてやってきています。そんな状態で職もお金も尽きるとなると、その不安も相当なものでしょう。ましてや外国人であるために再就職をしようともなかなかうまくいかず、行政の援助や支援も全く行われない状況ではもはやどうしようもないでしょう。
こんな風に思うのも、私が留学経験があるからかもしれません。やっぱり外国ではちょっとしたことでもものすごい不安を感じ、感情の起伏が大きくなって急にハイテンションになったかと思えばがくっとやる気をなくすことも留学当初はあり、やはり母国で過ごすのと比べていろいろと大変なことが多くありました。そういった背景があるため在日の外国人に対して強い同情心を覚えているのかもしれませんが、やはり今の状況は見過ごすことが出来ません。
大分話がそれましたが、たとえ今回の不況が去ったとしても今後日本は大量の移民労働者を抱えなければならない事態に遅かれ早かれなることが予想され、そんな時代において国籍までも問わない同一賃金同一労働は達成されることはなく、外国人賃金という一段低い賃金率はますます世の中に横行することが予想されます。
私は日本の事を思ってくれて、実力のある人間ならば正当に平等に評価されるべきだと考えています。しかし日本人の中でも未だに実力通りに正当に評価されない現在においては、そんなことは夢のまた夢なのかもしれません。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年2月5日木曜日
2009年2月4日水曜日
天下りをどう防ぐか
昨日、前日に官僚の天下りは内閣として認めないと発言した麻生首相がそれでは不十分との自民党からの指摘を受け、今後政令で天下り禁止を盛り込むとも明言しました。過程はどうあれこの一連の麻生首相の発言は評価できますが、今更になって認めるのならば渡辺氏の造反前に何故認めなかったのかが少し不可解です。
それはともかくとして今後、一体どんな風にして公務員の天下りを防ぐかですが、その話をする前に天下りがどのような弊害があるのかをちょっとかいつまんで説明しておきます。
まず一番多い天下りのパターンというのは、省庁からその省庁と結びつきのある特別行政法人など、税金で運営されている団体へ官僚が移籍するパターンです。たとえば厚生省からだと年金を管理する財団やら行政法人、国土交通省からだとETCの販売を促進する変な行政法人などといった具合に、次官コースから外れた官僚たちは50歳になったくらいから続々とそのような団体へ天下っていきます。
ここで繰り返しておきますが、それらの団体は別に商売をして自分でお金を稼いでいるわけでなく、大半が国からの税金によって運営されています。そんな団体に突然官僚が代表やらに降りてきたかと思うや、何もしないまま二、三年したらまた別の団体へ行ってしまいます。ですがその二、三年の勤務で、なんと数千万円もの退職金を得て、移った団体でもまた二、三年したら同じように数千万円もの退職金をもらって次々と渡って行きます。くれぐれも言いますが、それらの退職金も国民の税金から出て行きます。
これだけでも毎年数百億もの税金の無駄使いがあるので十分な弊害なのですが、そもそもそのような天下り先の団体自体が官僚が退職金を受け取るためだけに存在しているところも多く、その運営にかかる費用も大半が優先度の低い部門だといわれており、その分の費用をまとめると毎年数兆円に及ぶ無駄遣いがこの天下りという日本独自の制度(中国にはありそうだけど)によって使われているといわれています。
そんなわけで百害あって一利なしのこの制度ですが、天下りを守る側の自民党守旧派の議員からすると、そのようなうまみがなければ優秀な人間は国のために働いてくれないと言うのですが(前に麻生首相も同じことを述べている)、民主党の議員らも言う様に、そもそもこんな天下りにたかろうとする人間が国のために本気で働こうとするのか疑問です。私自身もこんなあからさまな不正をやるくらいだったら、能力は多少少なくとも真面目に働いてくれる人の方が何十倍も官僚として優秀だと思います。
またこれも民主党の議員が言っていましたが、東大の学生が官僚に就職を希望していながらも、天下りがあるから入りたくないと言っていたという話もあり、なにもこんな天下りがあるから優秀な人が集まるという保障はどこにもないといっていいでしょう。
この辺までの議論はよくテレビでもやられていますが、こういうのは行政法人、いわば省庁の中での天下りですが、私はこれら以上に根深いと思っているのは私企業への天下りです。
私企業、それこそ誰もが知っているような大企業に対しても公務員の天下りは頻繁に行われています。前ほどはおおっぴらにはやりませんが、かつて倒産した山一證券に至っては頭取職は東大出、大蔵省OBでなければなれないとまで言われているほどおおっぴらでした。
なんで私企業に官僚が天下りが出来るのかと思われるかもしれませんが、これなんか土木関係に多いのですが、官僚をその企業の役員などに天下りさせるかわりに国の公共工事などの発注がその企業に向かうように仕向けるという、いわば国の税金で官僚を私企業に押し込むという形で天下りが行われます。この行為で何が問題なのかというと、競合入札などせずにいきなり業者を指定するのだから工事や発注にかかる費用が明らかに通常より膨らみ、また市場の競争をさえぎって恣意的な選定が行われるために市場がゆがむ恐れすらあります。
実はかくいう私の親戚も、えらく昔ですが通産省から若くしてSONYに天下ったと聞いています。その後はSONY一本で長く働いていたそうですが、私の友人にこれを話したらSONYは学歴は問わないが天下りは受けるのかと大爆笑してました。
そんな話はおいといて具体的に天下りをどう防ぐかですが、現在政府が考えているのは内閣の下に官僚専用の人事局を作り、そこで省庁の退職後の再就職が不正なものかどうかを監視するという案を出しています。現状ですぐに実行できる案としては確かに効果の望めそうな案で、また退職後の再就職だけでなく全省庁の人事権も握らせることによりこちらも弊害の多い縦割り行政を打破する可能性も秘めており、私もこの案を支持します。
しかし私が懸念しているのは、後で説明した私企業への天下りがこれで完全に防げるかどうかです。というのも行政法人の人事は内閣で把握こそできるものの、普通に退職した後に表面上は面接などの正統な手続きを経て天下り先の企業へ再就職こと天下りをした場合、国からの発注をエサにされてその天下りする官僚を人材として「要請」された場合にそれは不正だと果たして摘発できるかどうか、またどこからどこまでが天下りなのか基準もはっきりしません。
それこそ本当に利害関係なく退職後に私企業に再就職するのは悪いことだとは言えませんが、どうもそういうのを隠れ蓑にしていろいろ官僚はやってきそうに私は思います。じゃあ公務員は退職後に再就職を全面禁止、もしくは数年間禁止にするとしたら、自己都合での退職者などは苦しい生活に追い込まれてしまいます(公務員に失業保険はない)。
ここら辺がネックだと私も前からあれこれ考えていたのですが、先月辺りのテレビタックルで北野たけし氏が面白い事を言っていて、
「いっそ公務員を天下りさせずに、派遣にしたらどうだ」
冗談のようで、なかなか面白い案だと思いました。
内容はこうです。私企業が本当の意味で優秀な人材を自社に迎えたい場合は新設される内閣人事局に必要な人材の条件とともに申請を出し、その申請内容を受けて条件にマッチする人材を企業に選ばせずに人事局が選び、複数の候補者から再就職先として声をかけ、それに応じる人間をその企業へ派遣するという具合です。もちろん民間にあわせて、その私企業から元官僚への給料の30%位は国がピンはねすることによって国庫にもプラスとなります。
この方法だと派遣という形を取るので、一旦再就職した元官僚が将来また元の省庁へ戻ることも出来ます。もちろん元の省庁に戻ることでまたなにかやらかす恐れもありますがその辺はまだ監視できる範囲だと思いますし、なにより真の意味での官民での人材交流が行われ、浮世離れしているという官僚の組織文化を修正するのにはいい薬になるのではないかと思います。
そういうわけで天下りから派遣へ、というのが私の私案です。
それはともかくとして今後、一体どんな風にして公務員の天下りを防ぐかですが、その話をする前に天下りがどのような弊害があるのかをちょっとかいつまんで説明しておきます。
まず一番多い天下りのパターンというのは、省庁からその省庁と結びつきのある特別行政法人など、税金で運営されている団体へ官僚が移籍するパターンです。たとえば厚生省からだと年金を管理する財団やら行政法人、国土交通省からだとETCの販売を促進する変な行政法人などといった具合に、次官コースから外れた官僚たちは50歳になったくらいから続々とそのような団体へ天下っていきます。
ここで繰り返しておきますが、それらの団体は別に商売をして自分でお金を稼いでいるわけでなく、大半が国からの税金によって運営されています。そんな団体に突然官僚が代表やらに降りてきたかと思うや、何もしないまま二、三年したらまた別の団体へ行ってしまいます。ですがその二、三年の勤務で、なんと数千万円もの退職金を得て、移った団体でもまた二、三年したら同じように数千万円もの退職金をもらって次々と渡って行きます。くれぐれも言いますが、それらの退職金も国民の税金から出て行きます。
これだけでも毎年数百億もの税金の無駄使いがあるので十分な弊害なのですが、そもそもそのような天下り先の団体自体が官僚が退職金を受け取るためだけに存在しているところも多く、その運営にかかる費用も大半が優先度の低い部門だといわれており、その分の費用をまとめると毎年数兆円に及ぶ無駄遣いがこの天下りという日本独自の制度(中国にはありそうだけど)によって使われているといわれています。
そんなわけで百害あって一利なしのこの制度ですが、天下りを守る側の自民党守旧派の議員からすると、そのようなうまみがなければ優秀な人間は国のために働いてくれないと言うのですが(前に麻生首相も同じことを述べている)、民主党の議員らも言う様に、そもそもこんな天下りにたかろうとする人間が国のために本気で働こうとするのか疑問です。私自身もこんなあからさまな不正をやるくらいだったら、能力は多少少なくとも真面目に働いてくれる人の方が何十倍も官僚として優秀だと思います。
またこれも民主党の議員が言っていましたが、東大の学生が官僚に就職を希望していながらも、天下りがあるから入りたくないと言っていたという話もあり、なにもこんな天下りがあるから優秀な人が集まるという保障はどこにもないといっていいでしょう。
この辺までの議論はよくテレビでもやられていますが、こういうのは行政法人、いわば省庁の中での天下りですが、私はこれら以上に根深いと思っているのは私企業への天下りです。
私企業、それこそ誰もが知っているような大企業に対しても公務員の天下りは頻繁に行われています。前ほどはおおっぴらにはやりませんが、かつて倒産した山一證券に至っては頭取職は東大出、大蔵省OBでなければなれないとまで言われているほどおおっぴらでした。
なんで私企業に官僚が天下りが出来るのかと思われるかもしれませんが、これなんか土木関係に多いのですが、官僚をその企業の役員などに天下りさせるかわりに国の公共工事などの発注がその企業に向かうように仕向けるという、いわば国の税金で官僚を私企業に押し込むという形で天下りが行われます。この行為で何が問題なのかというと、競合入札などせずにいきなり業者を指定するのだから工事や発注にかかる費用が明らかに通常より膨らみ、また市場の競争をさえぎって恣意的な選定が行われるために市場がゆがむ恐れすらあります。
実はかくいう私の親戚も、えらく昔ですが通産省から若くしてSONYに天下ったと聞いています。その後はSONY一本で長く働いていたそうですが、私の友人にこれを話したらSONYは学歴は問わないが天下りは受けるのかと大爆笑してました。
そんな話はおいといて具体的に天下りをどう防ぐかですが、現在政府が考えているのは内閣の下に官僚専用の人事局を作り、そこで省庁の退職後の再就職が不正なものかどうかを監視するという案を出しています。現状ですぐに実行できる案としては確かに効果の望めそうな案で、また退職後の再就職だけでなく全省庁の人事権も握らせることによりこちらも弊害の多い縦割り行政を打破する可能性も秘めており、私もこの案を支持します。
しかし私が懸念しているのは、後で説明した私企業への天下りがこれで完全に防げるかどうかです。というのも行政法人の人事は内閣で把握こそできるものの、普通に退職した後に表面上は面接などの正統な手続きを経て天下り先の企業へ再就職こと天下りをした場合、国からの発注をエサにされてその天下りする官僚を人材として「要請」された場合にそれは不正だと果たして摘発できるかどうか、またどこからどこまでが天下りなのか基準もはっきりしません。
それこそ本当に利害関係なく退職後に私企業に再就職するのは悪いことだとは言えませんが、どうもそういうのを隠れ蓑にしていろいろ官僚はやってきそうに私は思います。じゃあ公務員は退職後に再就職を全面禁止、もしくは数年間禁止にするとしたら、自己都合での退職者などは苦しい生活に追い込まれてしまいます(公務員に失業保険はない)。
ここら辺がネックだと私も前からあれこれ考えていたのですが、先月辺りのテレビタックルで北野たけし氏が面白い事を言っていて、
「いっそ公務員を天下りさせずに、派遣にしたらどうだ」
冗談のようで、なかなか面白い案だと思いました。
内容はこうです。私企業が本当の意味で優秀な人材を自社に迎えたい場合は新設される内閣人事局に必要な人材の条件とともに申請を出し、その申請内容を受けて条件にマッチする人材を企業に選ばせずに人事局が選び、複数の候補者から再就職先として声をかけ、それに応じる人間をその企業へ派遣するという具合です。もちろん民間にあわせて、その私企業から元官僚への給料の30%位は国がピンはねすることによって国庫にもプラスとなります。
この方法だと派遣という形を取るので、一旦再就職した元官僚が将来また元の省庁へ戻ることも出来ます。もちろん元の省庁に戻ることでまたなにかやらかす恐れもありますがその辺はまだ監視できる範囲だと思いますし、なにより真の意味での官民での人材交流が行われ、浮世離れしているという官僚の組織文化を修正するのにはいい薬になるのではないかと思います。
そういうわけで天下りから派遣へ、というのが私の私案です。
橋本大阪府知事のこの一年
本日を以って、現大阪府知事の橋本氏の人気が一年を経ちました。
ちょうど一年前になるのですが、橋本氏が府知事選で勝利した時に私はあまり望ましくないと、それまでの橋本氏の失言癖を鑑みてきっと失敗するだろうと予想していましたが、この一年での業績を評価するなら一年前の私の予想は杞憂に過ぎなかったようです。
まず率直に言って、私は橋本知事はよくやっていると思います。
大阪府の壊滅的な財政状況に対してメスを入れただけでなく、教育問題でも私の支持する学力テストの結果公開を全国規模の問題にまで大きくし、そして何よりつい最近の近畿地方の大戸川ダム建設計画に対して他の知事らと国にNOを突きつけ、見事に建設計画を撤回させた点は素直に評価できます。また就任当初に私が懸念した失言癖も致命的となる失言はなく、ひとまず安定的に自分の権力基盤を確保したのはまずまずでしょう。
あんまり誉めてばかりいるとちょっと自分でもなんなので敢えて橋本知事の今後反省すべき点を挙げるとしたら、就任前に宣言していた大阪府職員等のリストラが未だ達成されていない点には一言あります。
これは何も大阪府だけに限らず国を含めて、そろそろ日本はこれまで「リストラはない」といわれてきた公務員のリストラを、給与カットにとどまらず首切りを含めてやらなければいけない時期になってきていると私は思います。前にも法学部の後輩と話をして来たのですが大半の日本人は公務員のリストラは法律上出来ないものと考えておられるようですが、田原総一朗氏によると首相権限では現行法でも十分に可能だとされており、またなにも無理やり退職させなくとも、大阪の公務員なら叩けばいくらでも埃が出てくるので懲戒処分で片っ端からクビを切るのもそれほど難しくないように思えます。
確かにこんなことやろうものならものすごい反発に遭うのは目に見えていますが、それでも今この段階でやらなければ後年の禍根になることは間違いなく、橋本知事を含めて全国の行政の代表には強い決断を望みます。
ちょうど一年前になるのですが、橋本氏が府知事選で勝利した時に私はあまり望ましくないと、それまでの橋本氏の失言癖を鑑みてきっと失敗するだろうと予想していましたが、この一年での業績を評価するなら一年前の私の予想は杞憂に過ぎなかったようです。
まず率直に言って、私は橋本知事はよくやっていると思います。
大阪府の壊滅的な財政状況に対してメスを入れただけでなく、教育問題でも私の支持する学力テストの結果公開を全国規模の問題にまで大きくし、そして何よりつい最近の近畿地方の大戸川ダム建設計画に対して他の知事らと国にNOを突きつけ、見事に建設計画を撤回させた点は素直に評価できます。また就任当初に私が懸念した失言癖も致命的となる失言はなく、ひとまず安定的に自分の権力基盤を確保したのはまずまずでしょう。
あんまり誉めてばかりいるとちょっと自分でもなんなので敢えて橋本知事の今後反省すべき点を挙げるとしたら、就任前に宣言していた大阪府職員等のリストラが未だ達成されていない点には一言あります。
これは何も大阪府だけに限らず国を含めて、そろそろ日本はこれまで「リストラはない」といわれてきた公務員のリストラを、給与カットにとどまらず首切りを含めてやらなければいけない時期になってきていると私は思います。前にも法学部の後輩と話をして来たのですが大半の日本人は公務員のリストラは法律上出来ないものと考えておられるようですが、田原総一朗氏によると首相権限では現行法でも十分に可能だとされており、またなにも無理やり退職させなくとも、大阪の公務員なら叩けばいくらでも埃が出てくるので懲戒処分で片っ端からクビを切るのもそれほど難しくないように思えます。
確かにこんなことやろうものならものすごい反発に遭うのは目に見えていますが、それでも今この段階でやらなければ後年の禍根になることは間違いなく、橋本知事を含めて全国の行政の代表には強い決断を望みます。
2009年2月3日火曜日
教育低下と中学受験
ちょっと古いニュースの記憶ですが、今年に私立中学を受験する小学生の数が歴代で最高になったと聞いたことがあります。ちょうど今日は二月三日で、中学受験の山場の最終日(関東では二月の一日から三日に私立中学の受験集中する)ということもあるので、その辺について軽く書こうと思います。
まず最初に断っておきますが、私もかつて中学受験を行い、中高一貫の学校に行った口であります。まぁぶっちゃけあまり楽しくない学校だったので後悔していますが、当時に中学受験を行ったのは三十四人学級の中で私を含めて四人だけで、率にして8%弱でした。しかし去年に見たニュースによると、既に述べたように近年は少子化で子供全体の数は減っているにもかかわらず毎年中学受験を行う小学生の数は過去最高を更新しているようで、都市圏の小学校のクラスによっては半分くらいの児童が受験するとまで聞いています。
ではなぜこれほどまでに受験者数が増えているかですが、単純に言って義務教育での指導要領を減らしたことが原因でしょう。別に義務教育のレベルを落としたところで受験の最終的な本丸に当たる大学受験のレベルが一緒にカクンと落ちるわけじゃないため、指導要領が落とされれば落とされるほど公立校が不利になって私立校が有利になるのは目に見えているので子供を持つ親としては私立校に入れようとするでしょう。
実際に私も今のぺらぺらな教科書見てたら不安になりますし、あまり私立校にいい思い出のない自分ですら今の子を持つ親が私立校を受験させようとするのも理解できます。文部科学省はゆとり教育といっては学習指導要領を減らすことによって子供に時間的なゆとりを与えようとしましたが、結果は学校の後に予備校に行くようになり、ますます子供にゆとりがなくなるという最低な結果となっています。
じゃあ一体何をすればゆとり教育の本来の目的が達成できたのかですが、もし文部科学省の言う通りに勉強に追い立てられて日本の子供がゆとりをもてなかったというのなら、その最大の原因は勉強させられる量というよりも学歴社会といわれるほど出身大学によってその後の人生が左右されるという社会性にあったと私は思います。言うなれば学歴社会という概念がなくなれば、受験戦争の熱を冷ますことになるんじゃないかと思います。
そういうわけで今も中学受験が続いているのは、学歴社会が以前ほどではないにしろ残っているせい、と言えれば単純明快ですが、これはあくまで一つの要因で、他にもいろいろ原因が複合されているのが今の現状でしょう。
最後に学歴社会についてですが、現代は以前よりは確かにこの要素は薄まった分、中途半端な職業の流動化によって「前職がなんだったのか」というのが大きく影響する「職歴社会」という概念が出始めています。前に本屋で「今こそ三流大学に行くべきだ」なんて感じのタイトルで、三流大学での意外に充実した授業や資格をとる生活の方がずっと将来にいいみたいな感じで紹介されていましたが、「Fランク大学の風景」ってのを見ると必ずしもそうもいえないんじゃないかなぁという気がします。そもそも、自分で努力出来るのなら大学に無理していく必要もないんだし。
まず最初に断っておきますが、私もかつて中学受験を行い、中高一貫の学校に行った口であります。まぁぶっちゃけあまり楽しくない学校だったので後悔していますが、当時に中学受験を行ったのは三十四人学級の中で私を含めて四人だけで、率にして8%弱でした。しかし去年に見たニュースによると、既に述べたように近年は少子化で子供全体の数は減っているにもかかわらず毎年中学受験を行う小学生の数は過去最高を更新しているようで、都市圏の小学校のクラスによっては半分くらいの児童が受験するとまで聞いています。
ではなぜこれほどまでに受験者数が増えているかですが、単純に言って義務教育での指導要領を減らしたことが原因でしょう。別に義務教育のレベルを落としたところで受験の最終的な本丸に当たる大学受験のレベルが一緒にカクンと落ちるわけじゃないため、指導要領が落とされれば落とされるほど公立校が不利になって私立校が有利になるのは目に見えているので子供を持つ親としては私立校に入れようとするでしょう。
実際に私も今のぺらぺらな教科書見てたら不安になりますし、あまり私立校にいい思い出のない自分ですら今の子を持つ親が私立校を受験させようとするのも理解できます。文部科学省はゆとり教育といっては学習指導要領を減らすことによって子供に時間的なゆとりを与えようとしましたが、結果は学校の後に予備校に行くようになり、ますます子供にゆとりがなくなるという最低な結果となっています。
じゃあ一体何をすればゆとり教育の本来の目的が達成できたのかですが、もし文部科学省の言う通りに勉強に追い立てられて日本の子供がゆとりをもてなかったというのなら、その最大の原因は勉強させられる量というよりも学歴社会といわれるほど出身大学によってその後の人生が左右されるという社会性にあったと私は思います。言うなれば学歴社会という概念がなくなれば、受験戦争の熱を冷ますことになるんじゃないかと思います。
そういうわけで今も中学受験が続いているのは、学歴社会が以前ほどではないにしろ残っているせい、と言えれば単純明快ですが、これはあくまで一つの要因で、他にもいろいろ原因が複合されているのが今の現状でしょう。
最後に学歴社会についてですが、現代は以前よりは確かにこの要素は薄まった分、中途半端な職業の流動化によって「前職がなんだったのか」というのが大きく影響する「職歴社会」という概念が出始めています。前に本屋で「今こそ三流大学に行くべきだ」なんて感じのタイトルで、三流大学での意外に充実した授業や資格をとる生活の方がずっと将来にいいみたいな感じで紹介されていましたが、「Fランク大学の風景」ってのを見ると必ずしもそうもいえないんじゃないかなぁという気がします。そもそも、自分で努力出来るのなら大学に無理していく必要もないんだし。
2009年2月2日月曜日
相撲界の大麻問題について
・北の湖親方「若麒麟は陽性の報告だった」(日刊スポーツ)
いきなりリンク貼りですが、記事の中には衝撃の事実が書かれています。
既に報道の通りに、残念なことに私も愛する相撲の世界にてまたも大麻吸引を行った力士が現れてしまいました。去年に露鵬や白露山、若之鵬といった名だたる外国人幕内力士が逮捕される事態が起こっておきながらも、今回の事件を起こした若麒麟には怒りを通り越して呆れてしまいます。
今回、若麒麟は大麻は逮捕の前日に始めて吸引したと警察に漏らしているそうですが、現時点で私はこの供述は非常に怪しいとにらんでいます。そう思うのもこれはもうテレビでも報道されていますが、若之鵬が逮捕されたことにより去年に抜き打ちの検査が実施され、その結果として露鵬、白露山の二人も吸引の事実が発覚したのですがその当時より主に週刊誌などで、「日本人力士でも一人、結果が怪しい人物がいたにもかかわらず外国人の二力士だけが精密検査を受けさせられた挙句に追放されることとなった」と報じられていました。
もちろん私も当時は週刊誌の書くことだからと、露鵬と白露山への厳しい処置に同情しつつもそれはないだろうと思っていましたが、今回の若麒麟の逮捕を受けての報道ではどうもそれが事実だったらしく、テレビや新聞の報道では簡易検査キットの結果は一回目、二回目は判別しづらいグレーで三回目で陰性だった相撲協会が発表していると報じられていますが、最初にリンクを貼った日刊スポーツの記事で北の湖元理事長が言うには、どうも一回目、二回目の結果はグレーではなく明らかに陽性だったと述べているようです。
実際に当時の報道を思い起こしても、この簡易麻薬検査キットというのは名前こそ簡易とつきますが検査の精度は相当高いものだと言われており、第一そんなキットで「グレー」という中途半端な結果が出るものか非常に疑問です。もったいぶらずに私の考えを言いますが、現相撲協会は若麒麟が抜き打ち検査で明らかに陽性だとわかっていたにもかかわらず、日本人力士であったために敢えて名前を伏せられ、言うなれば協会にかばわれたのではないかという疑念を持っています。
恐らく相撲協会としては身の潔白を明かすために抜き打ち検査をしたものの、なんとその検査で三人も陽性反応者が出てしまいこれではかえって信用を落とすと考え、いっそ大麻の使用は力士ではなく外国人だったためという風に論点を摩り替えようと、若麒麟のことは伏せられて露鵬と白露山だけが標的にしようとしたのではないかと思います。もちろんこんなの私の一予想ですが、もし事実がこの通りであるのならばこれは相撲協会による明らかな外国人差別において他ならず、いくら相撲ファンの私としてもこの処置には納得いきません。
もちろん大麻を吸っていた露鵬と白露山はその責めを受けざるを得ないことに違いはないのですが、大麻事件は今回が相撲界で始めての事例でもあったことだし、私は若之鵬を含めて謹慎二場所程度で再起のチャンスを与えてやるべきだと思っていました。その後若之鵬は週刊現代の口車に乗って偽の八百長証言をしてしまったのでもうしょうがないのはわかりますが、今日の若麒麟の処分が一番重い除名ではなく解雇とした理由として「25歳の若者にチャンスをあげるべきだ」という言い訳をするくらいなら、先の露鵬と白露山はどうなるのだと、しかも若麒麟はあれだけの大騒動の後にもかかわらず今回も大麻を使用したというのだからなおさらです。
詳細は今後の報道を待たねばいけませんが、場合によっては日本の相撲協会は全国民から信用をなくすことになると私は思います。本来、今回の審議機会では朝青龍のガッツポーズ問題が議論される予定だったと言われますがもはや横綱の品格以上に相撲協会の品格の方が明らかに問題で、もし私の予想したとおりの若麒麟への特別扱いが行われていたというのなら、それはもう相撲ファンとしてではなく一人間として許しがたい暴挙だと怒りを抑えることが出来ません。
ついでに書くと、あれだけ場所前にたたかれておきながら優勝したんだから今回くらいは朝青龍のガッツポーズはいいんじゃないかと、一応口頭でもう駄目だぞと言うくらいで良いと私は思っています。
いきなりリンク貼りですが、記事の中には衝撃の事実が書かれています。
既に報道の通りに、残念なことに私も愛する相撲の世界にてまたも大麻吸引を行った力士が現れてしまいました。去年に露鵬や白露山、若之鵬といった名だたる外国人幕内力士が逮捕される事態が起こっておきながらも、今回の事件を起こした若麒麟には怒りを通り越して呆れてしまいます。
今回、若麒麟は大麻は逮捕の前日に始めて吸引したと警察に漏らしているそうですが、現時点で私はこの供述は非常に怪しいとにらんでいます。そう思うのもこれはもうテレビでも報道されていますが、若之鵬が逮捕されたことにより去年に抜き打ちの検査が実施され、その結果として露鵬、白露山の二人も吸引の事実が発覚したのですがその当時より主に週刊誌などで、「日本人力士でも一人、結果が怪しい人物がいたにもかかわらず外国人の二力士だけが精密検査を受けさせられた挙句に追放されることとなった」と報じられていました。
もちろん私も当時は週刊誌の書くことだからと、露鵬と白露山への厳しい処置に同情しつつもそれはないだろうと思っていましたが、今回の若麒麟の逮捕を受けての報道ではどうもそれが事実だったらしく、テレビや新聞の報道では簡易検査キットの結果は一回目、二回目は判別しづらいグレーで三回目で陰性だった相撲協会が発表していると報じられていますが、最初にリンクを貼った日刊スポーツの記事で北の湖元理事長が言うには、どうも一回目、二回目の結果はグレーではなく明らかに陽性だったと述べているようです。
実際に当時の報道を思い起こしても、この簡易麻薬検査キットというのは名前こそ簡易とつきますが検査の精度は相当高いものだと言われており、第一そんなキットで「グレー」という中途半端な結果が出るものか非常に疑問です。もったいぶらずに私の考えを言いますが、現相撲協会は若麒麟が抜き打ち検査で明らかに陽性だとわかっていたにもかかわらず、日本人力士であったために敢えて名前を伏せられ、言うなれば協会にかばわれたのではないかという疑念を持っています。
恐らく相撲協会としては身の潔白を明かすために抜き打ち検査をしたものの、なんとその検査で三人も陽性反応者が出てしまいこれではかえって信用を落とすと考え、いっそ大麻の使用は力士ではなく外国人だったためという風に論点を摩り替えようと、若麒麟のことは伏せられて露鵬と白露山だけが標的にしようとしたのではないかと思います。もちろんこんなの私の一予想ですが、もし事実がこの通りであるのならばこれは相撲協会による明らかな外国人差別において他ならず、いくら相撲ファンの私としてもこの処置には納得いきません。
もちろん大麻を吸っていた露鵬と白露山はその責めを受けざるを得ないことに違いはないのですが、大麻事件は今回が相撲界で始めての事例でもあったことだし、私は若之鵬を含めて謹慎二場所程度で再起のチャンスを与えてやるべきだと思っていました。その後若之鵬は週刊現代の口車に乗って偽の八百長証言をしてしまったのでもうしょうがないのはわかりますが、今日の若麒麟の処分が一番重い除名ではなく解雇とした理由として「25歳の若者にチャンスをあげるべきだ」という言い訳をするくらいなら、先の露鵬と白露山はどうなるのだと、しかも若麒麟はあれだけの大騒動の後にもかかわらず今回も大麻を使用したというのだからなおさらです。
詳細は今後の報道を待たねばいけませんが、場合によっては日本の相撲協会は全国民から信用をなくすことになると私は思います。本来、今回の審議機会では朝青龍のガッツポーズ問題が議論される予定だったと言われますがもはや横綱の品格以上に相撲協会の品格の方が明らかに問題で、もし私の予想したとおりの若麒麟への特別扱いが行われていたというのなら、それはもう相撲ファンとしてではなく一人間として許しがたい暴挙だと怒りを抑えることが出来ません。
ついでに書くと、あれだけ場所前にたたかれておきながら優勝したんだから今回くらいは朝青龍のガッツポーズはいいんじゃないかと、一応口頭でもう駄目だぞと言うくらいで良いと私は思っています。
2009年2月1日日曜日
貧乏時代の私のエピソード
堅い記事を書いたばっかなので、ちょっと気を抜くがてらに笑い話として私の貧乏時代のエピソードを紹介しようと思います。
私が貧乏な生活を余儀なくされたのは学生時代の初期の頃で、今もそうですが責任感の強い性格が災いして、実家から離れて下宿生活をするなら生活費くらいは自分で稼がねばならないとわけのわからないルールを自分に課して最低限の生活費で如何に生活をするか、それこそ毎日いい方法はないかと考えていた時期がありました。
それでもまだ初期にアルバイト先が見つかっていればあんな馬鹿なことはしないで済んだのでしょうが、学校に入った頃から授業を休んでまでアルバイトはしてはいけないと壮大な決意を持っていたためになかなか時間に都合の効くバイト先が見つからず、お金を稼げない一方で両親からの仕送りだけで生活する自分に強い罪悪感を抱き続けていました。
幸い家賃(当時二万九千円)の方は奨学金でまかなっていたので、ひとまず生活費を削るところまで削らねばと、いろんな部門で徹底的なコストカットを当時に行いました。
まずは単純に食費を削り、当時昼食は学校の食堂で食べていましたが出来るだけ費用を削るため、自分で炊いたお米を毎日タッパーに入れておかずだけ買い、しかもそのおかずも出来るだけ安いのを選ぶので大抵は「ほうれん草のおひたし」か「豆腐」に味噌汁をつけただけで、確か当時の昼食で200円以上払ったことは一度もなかった気がします。もちろんこんなことしてればおなかは減る一方なので、夕食はその代わりに豪華に行こうと、高いおかずは買えないので近くのスーパーで60円のコロッケを買ってはキャベツの千切りに、200円で10パックついてくるインスタントの味噌汁を一食一回使うのを定番のメニューとして、その代わりお米をどんぶりで二杯とか三杯、勢いがあるときは一回の食事で二合(全盛期は三合も食べれた)食べたりして胃をごまかしていました。
次に光熱費で、水道代は初めから先ほどの家賃に加え五千円と決められていたので気にしませんでしたが、ガス代の方は削ればどうとでもなると踏み、調理の際も煮込みなど火を長く使うのを出来るだけさけた結果、安い野菜を調達できた際はいつも炒めて食べ、シャワーを浴びる際もまず一回お湯を身体にかけ、シャンプーをしてから石鹸で身体を拭き、最後にもう一回お湯をかけて全身を一気に洗い流す手段を使って一秒たりとも無駄に流さないように心がけていました。
でもって最後に交際費も削りました。当時は友人らと夕方まで会っていたとしても、友人らは揃って夕食を外食で済ませようとするところを私だけが一人下宿先に帰り、いつも一人で自炊して外食費を浮かせていました。これは結構寂しかったのですが、背に腹は変える事が出来ませんでした。
こんなアホなことをやっていた甲斐もあり、元々痩せ型ですが当時は体重が激減し、なんか中学生の頃の体重にまで一時戻っていました。さすがに夏休みに帰省した際には頬もこけ、親から驚かれていっぱい食べさえてもらってまた体重を戻しましたが、その後も下宿先に戻ればまた体重が減るという繰り返しが続きました。
もっともその後は授業時間に都合の効くバイト先を見つけられたこともあり、多少は自分で生活費を出しているという安堵感から食費にもお金をかけるようになりましたが、それでも当時に作った貧乏性は抜け切れず徹底的に生活費を削減しようと真夏に後輩が下宿先に遊びに来ても、
「先輩、暑いから冷房入れましょうよ」
「アホ、これくらい扇風機で我慢せぇっ!」
と、一顧だにしなかったこともありました。今思うと、冷房くらいつけてあげればよかったです。
私が貧乏な生活を余儀なくされたのは学生時代の初期の頃で、今もそうですが責任感の強い性格が災いして、実家から離れて下宿生活をするなら生活費くらいは自分で稼がねばならないとわけのわからないルールを自分に課して最低限の生活費で如何に生活をするか、それこそ毎日いい方法はないかと考えていた時期がありました。
それでもまだ初期にアルバイト先が見つかっていればあんな馬鹿なことはしないで済んだのでしょうが、学校に入った頃から授業を休んでまでアルバイトはしてはいけないと壮大な決意を持っていたためになかなか時間に都合の効くバイト先が見つからず、お金を稼げない一方で両親からの仕送りだけで生活する自分に強い罪悪感を抱き続けていました。
幸い家賃(当時二万九千円)の方は奨学金でまかなっていたので、ひとまず生活費を削るところまで削らねばと、いろんな部門で徹底的なコストカットを当時に行いました。
まずは単純に食費を削り、当時昼食は学校の食堂で食べていましたが出来るだけ費用を削るため、自分で炊いたお米を毎日タッパーに入れておかずだけ買い、しかもそのおかずも出来るだけ安いのを選ぶので大抵は「ほうれん草のおひたし」か「豆腐」に味噌汁をつけただけで、確か当時の昼食で200円以上払ったことは一度もなかった気がします。もちろんこんなことしてればおなかは減る一方なので、夕食はその代わりに豪華に行こうと、高いおかずは買えないので近くのスーパーで60円のコロッケを買ってはキャベツの千切りに、200円で10パックついてくるインスタントの味噌汁を一食一回使うのを定番のメニューとして、その代わりお米をどんぶりで二杯とか三杯、勢いがあるときは一回の食事で二合(全盛期は三合も食べれた)食べたりして胃をごまかしていました。
次に光熱費で、水道代は初めから先ほどの家賃に加え五千円と決められていたので気にしませんでしたが、ガス代の方は削ればどうとでもなると踏み、調理の際も煮込みなど火を長く使うのを出来るだけさけた結果、安い野菜を調達できた際はいつも炒めて食べ、シャワーを浴びる際もまず一回お湯を身体にかけ、シャンプーをしてから石鹸で身体を拭き、最後にもう一回お湯をかけて全身を一気に洗い流す手段を使って一秒たりとも無駄に流さないように心がけていました。
でもって最後に交際費も削りました。当時は友人らと夕方まで会っていたとしても、友人らは揃って夕食を外食で済ませようとするところを私だけが一人下宿先に帰り、いつも一人で自炊して外食費を浮かせていました。これは結構寂しかったのですが、背に腹は変える事が出来ませんでした。
こんなアホなことをやっていた甲斐もあり、元々痩せ型ですが当時は体重が激減し、なんか中学生の頃の体重にまで一時戻っていました。さすがに夏休みに帰省した際には頬もこけ、親から驚かれていっぱい食べさえてもらってまた体重を戻しましたが、その後も下宿先に戻ればまた体重が減るという繰り返しが続きました。
もっともその後は授業時間に都合の効くバイト先を見つけられたこともあり、多少は自分で生活費を出しているという安堵感から食費にもお金をかけるようになりましたが、それでも当時に作った貧乏性は抜け切れず徹底的に生活費を削減しようと真夏に後輩が下宿先に遊びに来ても、
「先輩、暑いから冷房入れましょうよ」
「アホ、これくらい扇風機で我慢せぇっ!」
と、一顧だにしなかったこともありました。今思うと、冷房くらいつけてあげればよかったです。
個人の幸福追求と社会の幸福追求の一致性について
週末なので久々に力の入った記事でも書いてみようと思います。まずいきなり結論ですが、個人の幸福を追求するのと同時に社会全体の発展を一緒に行うというのは、理想論としてはいくらでも語られてはいるけど実際には一致させるのは非常に難しいと私は思います。
こんな話をするのも最近読んだ本で知ったのですが、なんでも19世紀末から20世紀初頭の資本主義と社会主義が対立するようになったあの時代に、人間はどう生きるべきかということで個人を優先するべきか社会を優先するべきかでいろいろと議論になってたそうです。
話の構図はこうです。産業革命によって急激に発展した欧州では資本主義の発達に伴い、一部の資本家による経済活動によって公害や社会問題が次々と起こされ、段々と個人の幸福の追求(営利活動)は社会に対して必ずしも貢献にならず、むしろ対立するものだと考えられていったそうです。そんな世の中で人間はどのように生きるべきか、言ってしまえば社会のために自分を犠牲にするか、それとも社会のルールとかを無視して自己の幸福を追求するか、この二派閥に分かれて当時の欧州の思想家や学者は激しく対立したそうです。
これまでの日本人的価値観からすると、前者の「社会優先、個人犠牲」を選んで当たり前のように思うかもしれませんが、欧州では伝統的に「個」に対する概念が強いので、自分が不幸になってまで(我慢をしてまで)周りや社会を幸福にさせるということに生き方として意味があるのか、本当にそれで人間は充実した人生を送れるのか、という風に疑問に思うのも無理はない気がします。もっとも現代の日本もこれまで企業や国、政党といったものに個人を犠牲にすることが社会全体、日本人の幸福につながると信じてやってきたものの、失われた十年の経験で必ずしもそうは行かないし、当時に頻発した企業犯罪などでむしろ害を為す加害者に回っていた反省もあるので、中には後者の「個人優先、社会無視」に理解を示す人も増えてきているのかもしれません。
この二派閥の対立はそのまま経済学での論争になり、元ネタをもう出してしまいますが「ケインズとハイエク」(間宮陽介著)の本で書かれているように、当時の資本主義経済学の二代巨頭のケインズとハイエクの対立へと持っていかれたそうです。ケインズというのは少し専門的な話になりますが管理経済学を主張し、何でもかんでも市場に自由にはさせず、政府は規制や税法などを用いてコントロールしていかねばならないと主張したのに対し、ハイエクの方は従来の資本主義同様、市場の競争原理に任せて自由にやらせる方が全体の発展につながると主張し、いわば新自由主義こと今のフリードマン経済学、ひいては竹中平蔵氏の思想の祖先となる主張を行っています。
先ほどの個人と社会の幸福に話をまとめると、どちらも社会を発展させるにはどうすればいいかということを論じてはいるのですが、ケインズの場合は個人の行動や考えを一部制限するのに対し、ハイエクの場合は個人の行動や考えを自由にさせることがその手段として適当だと真っ向から対立する構図となります。もっともハイエクの場合はまだあまり勉強してなくて言うのもなんですが、その主張の根源には「弱肉強食」的な価値観があると言われており、真に実力のある人間が好き勝手にやって何が悪いんだという価値観を持っていたという様に聞いています。
私も日本人なので、やっぱりケインズの価値観の方が正しいんじゃないかなぁと思う一方、これまでの日本の過剰な集団主義によって社会がうまく機能しなかった過去を思い浮かべると、程度の差こそあれハイエクの思想にも共鳴するところもあります。それこそ本当に個人を犠牲にすれば社会は発展するのかも曖昧ですし、それに社会のために皆で自分の幸福を犠牲にし合う世界が本当に幸福な世界なのか、少し悩んでしまいます。
特に日本においては労働に対する美徳が私の目からして強過ぎ、確かに前に書いた「労働の意義」で主張したように労働それ自体は人間の幸福にも社会の発展にもつながるという確信はありますが、あまりに強すぎる日本の労働への価値依存は逆に日本人を生き方として不幸にさせているのではないかと思うことがよくあります。よく就職情報誌では労働は自己実現の場や手段だと謳われていますが、なにかを実現させる一方で失うものもあまりにも多いのが日本の労働現場ではないかと前から疑問に感じます。
社会のため、社会のためと、さもそれが絶対的価値観のようにあちこちで叫ばれていますが、私は個人をあまりにも不幸にさせる過剰な労働などの行為は、本質的には個人にも社会にもよくないものだと考え、共産党政権下の初期の中国やソ連なんてまさにそんな世界だったから否定されているのだと思います。確かに社会の幸福が最終的に個人の幸福にもつながることも数多くあり、そのために個人が我慢しなければならない所もあるとは思います。しかし一切合財に個人の犠牲で成り立つ社会というのは、言い方は悪いですが地獄のようなものです。
現在の日本も新自由主義と旧来のバラ撒き主義でいろいろと対立が起こっていますが、こういう二項対立的な議論より、どこまで個人は我慢して、どこまで社会の発展を追求するのかという議論こそ必要なのではないかと私は思います。日本の労働についても、「実現するもの>失うもの」の数式が成り立つような雇用方法や労働環境についてなど、個人の幸福をどう社会の発展と折り合いをつけるか日本人全体であれこれ考えてみるべきなのかもしれません。
こんな話をするのも最近読んだ本で知ったのですが、なんでも19世紀末から20世紀初頭の資本主義と社会主義が対立するようになったあの時代に、人間はどう生きるべきかということで個人を優先するべきか社会を優先するべきかでいろいろと議論になってたそうです。
話の構図はこうです。産業革命によって急激に発展した欧州では資本主義の発達に伴い、一部の資本家による経済活動によって公害や社会問題が次々と起こされ、段々と個人の幸福の追求(営利活動)は社会に対して必ずしも貢献にならず、むしろ対立するものだと考えられていったそうです。そんな世の中で人間はどのように生きるべきか、言ってしまえば社会のために自分を犠牲にするか、それとも社会のルールとかを無視して自己の幸福を追求するか、この二派閥に分かれて当時の欧州の思想家や学者は激しく対立したそうです。
これまでの日本人的価値観からすると、前者の「社会優先、個人犠牲」を選んで当たり前のように思うかもしれませんが、欧州では伝統的に「個」に対する概念が強いので、自分が不幸になってまで(我慢をしてまで)周りや社会を幸福にさせるということに生き方として意味があるのか、本当にそれで人間は充実した人生を送れるのか、という風に疑問に思うのも無理はない気がします。もっとも現代の日本もこれまで企業や国、政党といったものに個人を犠牲にすることが社会全体、日本人の幸福につながると信じてやってきたものの、失われた十年の経験で必ずしもそうは行かないし、当時に頻発した企業犯罪などでむしろ害を為す加害者に回っていた反省もあるので、中には後者の「個人優先、社会無視」に理解を示す人も増えてきているのかもしれません。
この二派閥の対立はそのまま経済学での論争になり、元ネタをもう出してしまいますが「ケインズとハイエク」(間宮陽介著)の本で書かれているように、当時の資本主義経済学の二代巨頭のケインズとハイエクの対立へと持っていかれたそうです。ケインズというのは少し専門的な話になりますが管理経済学を主張し、何でもかんでも市場に自由にはさせず、政府は規制や税法などを用いてコントロールしていかねばならないと主張したのに対し、ハイエクの方は従来の資本主義同様、市場の競争原理に任せて自由にやらせる方が全体の発展につながると主張し、いわば新自由主義こと今のフリードマン経済学、ひいては竹中平蔵氏の思想の祖先となる主張を行っています。
先ほどの個人と社会の幸福に話をまとめると、どちらも社会を発展させるにはどうすればいいかということを論じてはいるのですが、ケインズの場合は個人の行動や考えを一部制限するのに対し、ハイエクの場合は個人の行動や考えを自由にさせることがその手段として適当だと真っ向から対立する構図となります。もっともハイエクの場合はまだあまり勉強してなくて言うのもなんですが、その主張の根源には「弱肉強食」的な価値観があると言われており、真に実力のある人間が好き勝手にやって何が悪いんだという価値観を持っていたという様に聞いています。
私も日本人なので、やっぱりケインズの価値観の方が正しいんじゃないかなぁと思う一方、これまでの日本の過剰な集団主義によって社会がうまく機能しなかった過去を思い浮かべると、程度の差こそあれハイエクの思想にも共鳴するところもあります。それこそ本当に個人を犠牲にすれば社会は発展するのかも曖昧ですし、それに社会のために皆で自分の幸福を犠牲にし合う世界が本当に幸福な世界なのか、少し悩んでしまいます。
特に日本においては労働に対する美徳が私の目からして強過ぎ、確かに前に書いた「労働の意義」で主張したように労働それ自体は人間の幸福にも社会の発展にもつながるという確信はありますが、あまりに強すぎる日本の労働への価値依存は逆に日本人を生き方として不幸にさせているのではないかと思うことがよくあります。よく就職情報誌では労働は自己実現の場や手段だと謳われていますが、なにかを実現させる一方で失うものもあまりにも多いのが日本の労働現場ではないかと前から疑問に感じます。
社会のため、社会のためと、さもそれが絶対的価値観のようにあちこちで叫ばれていますが、私は個人をあまりにも不幸にさせる過剰な労働などの行為は、本質的には個人にも社会にもよくないものだと考え、共産党政権下の初期の中国やソ連なんてまさにそんな世界だったから否定されているのだと思います。確かに社会の幸福が最終的に個人の幸福にもつながることも数多くあり、そのために個人が我慢しなければならない所もあるとは思います。しかし一切合財に個人の犠牲で成り立つ社会というのは、言い方は悪いですが地獄のようなものです。
現在の日本も新自由主義と旧来のバラ撒き主義でいろいろと対立が起こっていますが、こういう二項対立的な議論より、どこまで個人は我慢して、どこまで社会の発展を追求するのかという議論こそ必要なのではないかと私は思います。日本の労働についても、「実現するもの>失うもの」の数式が成り立つような雇用方法や労働環境についてなど、個人の幸福をどう社会の発展と折り合いをつけるか日本人全体であれこれ考えてみるべきなのかもしれません。
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