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2009年2月1日日曜日

個人の幸福追求と社会の幸福追求の一致性について

 週末なので久々に力の入った記事でも書いてみようと思います。まずいきなり結論ですが、個人の幸福を追求するのと同時に社会全体の発展を一緒に行うというのは、理想論としてはいくらでも語られてはいるけど実際には一致させるのは非常に難しいと私は思います。
 こんな話をするのも最近読んだ本で知ったのですが、なんでも19世紀末から20世紀初頭の資本主義と社会主義が対立するようになったあの時代に、人間はどう生きるべきかということで個人を優先するべきか社会を優先するべきかでいろいろと議論になってたそうです。

 話の構図はこうです。産業革命によって急激に発展した欧州では資本主義の発達に伴い、一部の資本家による経済活動によって公害や社会問題が次々と起こされ、段々と個人の幸福の追求(営利活動)は社会に対して必ずしも貢献にならず、むしろ対立するものだと考えられていったそうです。そんな世の中で人間はどのように生きるべきか、言ってしまえば社会のために自分を犠牲にするか、それとも社会のルールとかを無視して自己の幸福を追求するか、この二派閥に分かれて当時の欧州の思想家や学者は激しく対立したそうです。

 これまでの日本人的価値観からすると、前者の「社会優先、個人犠牲」を選んで当たり前のように思うかもしれませんが、欧州では伝統的に「個」に対する概念が強いので、自分が不幸になってまで(我慢をしてまで)周りや社会を幸福にさせるということに生き方として意味があるのか、本当にそれで人間は充実した人生を送れるのか、という風に疑問に思うのも無理はない気がします。もっとも現代の日本もこれまで企業や国、政党といったものに個人を犠牲にすることが社会全体、日本人の幸福につながると信じてやってきたものの、失われた十年の経験で必ずしもそうは行かないし、当時に頻発した企業犯罪などでむしろ害を為す加害者に回っていた反省もあるので、中には後者の「個人優先、社会無視」に理解を示す人も増えてきているのかもしれません。

 この二派閥の対立はそのまま経済学での論争になり、元ネタをもう出してしまいますが「ケインズとハイエク」(間宮陽介著)の本で書かれているように、当時の資本主義経済学の二代巨頭のケインズとハイエクの対立へと持っていかれたそうです。ケインズというのは少し専門的な話になりますが管理経済学を主張し、何でもかんでも市場に自由にはさせず、政府は規制や税法などを用いてコントロールしていかねばならないと主張したのに対し、ハイエクの方は従来の資本主義同様、市場の競争原理に任せて自由にやらせる方が全体の発展につながると主張し、いわば新自由主義こと今のフリードマン経済学、ひいては竹中平蔵氏の思想の祖先となる主張を行っています。
 先ほどの個人と社会の幸福に話をまとめると、どちらも社会を発展させるにはどうすればいいかということを論じてはいるのですが、ケインズの場合は個人の行動や考えを一部制限するのに対し、ハイエクの場合は個人の行動や考えを自由にさせることがその手段として適当だと真っ向から対立する構図となります。もっともハイエクの場合はまだあまり勉強してなくて言うのもなんですが、その主張の根源には「弱肉強食」的な価値観があると言われており、真に実力のある人間が好き勝手にやって何が悪いんだという価値観を持っていたという様に聞いています。

 私も日本人なので、やっぱりケインズの価値観の方が正しいんじゃないかなぁと思う一方、これまでの日本の過剰な集団主義によって社会がうまく機能しなかった過去を思い浮かべると、程度の差こそあれハイエクの思想にも共鳴するところもあります。それこそ本当に個人を犠牲にすれば社会は発展するのかも曖昧ですし、それに社会のために皆で自分の幸福を犠牲にし合う世界が本当に幸福な世界なのか、少し悩んでしまいます。
 特に日本においては労働に対する美徳が私の目からして強過ぎ、確かに前に書いた「労働の意義」で主張したように労働それ自体は人間の幸福にも社会の発展にもつながるという確信はありますが、あまりに強すぎる日本の労働への価値依存は逆に日本人を生き方として不幸にさせているのではないかと思うことがよくあります。よく就職情報誌では労働は自己実現の場や手段だと謳われていますが、なにかを実現させる一方で失うものもあまりにも多いのが日本の労働現場ではないかと前から疑問に感じます。

 社会のため、社会のためと、さもそれが絶対的価値観のようにあちこちで叫ばれていますが、私は個人をあまりにも不幸にさせる過剰な労働などの行為は、本質的には個人にも社会にもよくないものだと考え、共産党政権下の初期の中国やソ連なんてまさにそんな世界だったから否定されているのだと思います。確かに社会の幸福が最終的に個人の幸福にもつながることも数多くあり、そのために個人が我慢しなければならない所もあるとは思います。しかし一切合財に個人の犠牲で成り立つ社会というのは、言い方は悪いですが地獄のようなものです。
 現在の日本も新自由主義と旧来のバラ撒き主義でいろいろと対立が起こっていますが、こういう二項対立的な議論より、どこまで個人は我慢して、どこまで社会の発展を追求するのかという議論こそ必要なのではないかと私は思います。日本の労働についても、「実現するもの>失うもの」の数式が成り立つような雇用方法や労働環境についてなど、個人の幸福をどう社会の発展と折り合いをつけるか日本人全体であれこれ考えてみるべきなのかもしれません。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 個人としての利益が、社会全体の利益になるっていうこともやろうと思えば、できそうですね。しかし、より個人としての利益をもたらそうとすると、全体の利益にはならないのではないかって思います。どちらかを優先させようと思えば、違う方が失われる。個人としての利益と全体としての利益は反比例てきな関係にあるのではないでしょうか?そのちょうど、中間点が一番いいのだろうけど、結局は中途半端な感じになってしまうのではないでしょうか?たとえば、医療保険で自己破産者の医療費無料にしたら、自己破産者にはかなりの利益になりますが他の人の利益にはなりません。医療費を全体的に下げようと思っても、そんなに下げることはできないと思います。  しかし、中には一部の官僚や政治家の思惑で全体の利益かつ個人の利益になることを妨げていることがありますよね。そういうのを改善するって言うのが、一番全体と個人としての利益を底上げすることになると思います。  でもそれは言わずもがなですが、難しいですよね。それでも日本全体の意識がそこに向けば確かにいけるかもしれませんが、それはかなり難しいでしょうね。そんなこんなで僕は、やっぱり個人主義に流れてしまいます。でも、花園さんの言うような社会も見てみたいですね。人間でもそういう社会を作れるんだってところを見てみてい気もします。それが、アムロの言う「人の心の光」なのかもしれません。長々とすいませんでした。

花園祐 さんのコメント...

 本文中にも書いていますが、個人の幸福と社会の発展に対し、どう折り合いをつけるのかが重要だと思います。それこそ経済学における需要と供給の線が重なる箇所が適正価格であるように、両者がちょうどうまいこと盛り上がるラインがどこにあるのか、私のような社会学士や経済学者は考えるべきでしょう。

 なにもこの問題に限りませんが、個人か社会かみたいに、二者択一で物事を選択するのが一番危険だと私は確信しています。言うなれば儒学の中庸思想みたいなものですが、どの按配が個人も社会も立てられるのか、配合を考えるようにこの問題は考えなければならないでしょう。
 私は今の日本社会では明らかに集団主義が強すぎると思う一方、日本の若者の中では逆に個人主義が強すぎると思っています。なのでやや卑怯ですが、あるときは集団を非難したかと思うと次の日には個人を非難するkとがあります。それもこれも、片方の行き過ぎを防ごうという目的からですが、果たしてこの行為が正しいのかは自分でも疑問です。

匿名 さんのコメント...

 僕が、こんなこと言う必要なないかもしれませんが、「正しい」なんてことはないですからね。あるとすれば、自分自身が言いたいことをどれだけ正確に認識して相手に伝えるかだと思います。それが、一人の人としての「正しさ」だと思います。だから、花園さんは、自分自がやるべきだと思うことをすればいいと思います。しかし、花園さんは自分だけを評価しようとはせず、社会全体を捉えようといているので、社会全体の正しさを考えようとしているんですね。しかし、それは人間の能力を超えているような気がして仕方がないんです。人は、所詮自分の認識以外では世界を捉えることはできないと思います。自分の脳みそでしか考えられないと思います。だから、他人の考えることなんてわかりませんし、正確に把握することだって難しいでしょう。ましてや、その対照が社会全体になったら、はたして社会全体の正しさなんて見つかるのだろうかと疑問に思っていしまいます。だから、社会の正しさなんて気にしなくてもいいと思います。「自分はこう思う」だけで止めてもいいと思います。花園さんの考えはすごく面白いですしね。

 しかし、片方の行き過ぎを抑える・・・というのは、僕も賛成です。激しく蛇行しながらも、なんとか少しだけ前に進むことができたら、それだけで評価すべきだと思います。人間の能力ではそれが精一杯だろうと性悪説で考える僕は考えてしまいます。

花園祐 さんのコメント...

 なんだか兄貴にサカタさんも似てきましたね、それはそれで頼もしいのですが。
 サカタさんの言われる内容もよくわかり、社会を良くしよう、変えていこうとあれこれ考え主張するのは驕りじゃないかと自分でもよく思います。ただそれでも自分は、周りから変人扱いされてきた前半生を思い出すにつけて自分だけ良ければいいとは思えず、何とかいい方向に物事を変えていきたいと考えてしまいます。

 しかしそんな自分も大分限界を感じつつあるのは事実で、竹林の七賢じゃないけど世捨て人的な立場になろうかと考える日も増えてきましたね。

ホリ さんのコメント...

社会全体は言い換えれば個の人間になり、一人ひとりの人間が徐々に変わっていけば社会全体が変わっていくものだと考えています。
イメージとしては海で魚を獲るための網です。
無数ある連結部分に人がおり、端から一つずつ動かすことで最終的には全体が動いているというものです。
周りの人に今回のような話をして興味を持ってもらう人を増やしていけば社会は変わっていくのではないでしょうか?
僕はいろいろなひとに話しをして社会を変えようと奮闘しているところです。

花園祐 さんのコメント...

 自分もホリさんと同じで、自分で出来る限りの啓蒙活動をやっています。ただ「これはよくない」、「ああするべきだ」というのは、それもまた一つの強制になるのではないかという疑問が常にあります。言ってしまえば、私が理想とする社会が本当に正しい社会かなんてわからないのだし。

 ただここで言っておきますが、そうした啓蒙活動をなさることを私は人には薦められません。なんだかんだいって、いろいろとしんどいことになるので、私一人でどうにかならないものかと常に自問しています。