このブログを読んでいればわかると思いますが、私は基本的に反権力的な思考の人間です。それでなんで私がこんな風になったかと思い起こすと、きっかけはやはり日本の教育に反感を持ったのが原因だと思います。
私が日本の教育に始めて疑問を感じたのは、我ながら呆れますが小学生四年生くらいの頃でした。自分で言うのもなんですが私は傍目にキャラが濃い人間らしく、友人からも「一度会ったら忘れられない」、「夢に出てくる」などといったことをほぼ知り合った人間全員に言われながら今まで生きてきましたが、それだけの強烈な個性というのは日本の社会の中ではやはりマイナスに働くことの方が今までの人生で多かった気がします。
私がそれをはっきりと認識し始めたのがまさに小学四年生くらいの頃で、多少の自意識過剰も入っているかもしれませんがこの頃から周りから思いもよらないやっかみを受けたり、なんの根拠のない陰口などが言われるようになってきたと思います。そしてその原因が隠し様のない私の個性が原因だということも、当時からなんとなく気がついていました。
私としても原因がわかっているのだから何も対処をしてこなかったわけじゃないのですが、多分それでも隠しきれなかったと言うべきか、その後中学から高校へと進学しても周りからの言われのない評価に困らされて続けてきました。
別に私はなにか犯罪をやったり、周囲に対してなにかしら妙な干渉をしてきたつもりはないのですが、恐らく周囲を気にせずに自分が正しいと思うことを自分自身に行ってきたのが周りからは目に付いたのか、むしろ私と何の関わりもない、それこそ一言も話したこともない人間ほど私に対していろいろと言っていたようです。後年に話すようになった中学の友人に言わせると、やっぱりその友人の周囲で私は「変な人間」という風に言われていたそうです。
それこそなにかの拍子に殴り合いとかした相手にいろいろと悪口を言われるのならともかく、今まで何も話したことも接したこともない人間から悪し様に陰口を言われていたというのは今でもよく不思議に思います。
その原因は一体なんなのだろうと、恐らく一番頭使って考えたのは徐々に周りから孤立し始めてきた小学校四年生の夏休みくらいでした。確かその時はそれこそ朝から夕方くらいまで一人で外を自転車で走りながら(友達が本当にいなかったから)あれこれ自分の状況について考えていましたが、その結果思いついたのが日本の教育のせいじゃないかという結論でした。
すでにその頃辺りから、「日本人はもっと自分だけの個性を大事にするべきだ」という教育方針がアメリカから輸入される形で入ってきており、小学校などでも先生がそんなことを言っていたのですが、恐らく大概の日本の子供は、「そうは言っても、周りに合わせないとやっぱハブられるだろ」、と悟っていたところ私だけがアホだからその方針を真に受けて、出来るだけ周りと自分を差別化させるように行動していたので、なんというか右を向けと言われて私一人だけが右向いちゃったような状態だったんだと思います。
現在の私としてもモンスターペアレントの問題のように、何でもかんでも個性として認めるべきではないということは重々承知ですが、集団に流されず自分で自分の行動を思考する独立した自己という意味の個性は未だ日本人には必要だと考えています。ですが既に述べたように日本の教育下ではそうした個性ほど摘み取ろうとする傾向があり、過剰に集団性を強化するところがあるのでいじめ行為や集団万引きといった、冷静に考えるのなら異常な行為が学校現場などで起こっているのだと私は思います。
大体こんな感じの結論に小学校四年生で達した私はどうしたかというと、前述の通りにいくら周りがみんなしてやっている行為とはいえ、明らかに間違っていると自分が思う行為に対してはたとえ自分ひとりになっても一緒にやってはならないという変な原則を作ってしまい、その後の人生で浮いた存在のまま今に至っております。中学高校時代も、制服のYシャツの第一ボタンは必ず留めていたし。
私は別に日本人の集団性が強いことが悪いと言うつもりはありません。中国人の日本人観の一つに、「あいつらは一人一人だと弱っちいが、集団になるととてもじゃないが敵わなくなる」というのがあるように、日本人の団結力はそれはそれでたいしたもんです。
しかし私のように恐らく先天的に個性が強い人間、もといキャラが濃過ぎる人間というのは日本には本当に居場所がありません。今でこそ必死になって猫かぶって自分の個性を抑えながら何とかやりすごして生きてきていますが、知り合いの中でも別にそいつが何か悪いことをしたわけでもなく、むしろ周りに対して思いやりもあって向学心のある人間ほど周囲から奇異の目で見られることによって悩まなくていいことで悩まされてきた人間を数多く見てきています。
私が言いたいのはただ一つ、自分たちにも居場所をくださいということです。個性の強い人間の一人や二人、直接的な迷惑が起こらない限りは追い出そうとせず、こんな奴もいるんだなというくらいに普通の人には見てもらいたいです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年2月20日金曜日
当てにならない評論家たち
友人になにかブログに書くネタはないかと先ほどメールしたら、「無駄な予想をするなと(世の中に)言いたい」という返信が来ました。正直、私自身もこのブログで最近外しまくっている予想ばかり書いているのでドキッとしちゃいました。
この友人の言を私がもう少し解説すると、恐らく世界は不況だ不況だと言われる中でそれこそ二年後には景気は回復するとか先々週あたりに各週刊誌で書かれていた、「二月十三日の金曜日、世界株大暴落」などと根も葉もない、しかもどちらかといえば不安を煽り立てるような予想や評論について、現在は全く先が読めない状況なのだからわざわざそんな不安を煽るような行為はやめろと言いたかったのだと思います。
私としてもちょっとどの記事に書いたか忘れましたが以前に、当たり外れは多少運の要素が絡むので仕方ないが、いい予想というのはきちんと筋道立って説明がされているから外れたとしても状況の理解に役立つものだと言いましたが、そういう目で見たら世の中に氾濫している予想というのはどれも筋道から外れた、それこそ先ほども言いましたが人の神経を煽るようなものばかりで、友人が怒るのも仕方がないことでしょう。
まぁこんなえらそうなことを言っている私もくだらない予想ばかりして周りに迷惑かけていますが、以前に読売テレビで放映されている「たかじんのそこまで言って委員会」という番組にていまや石を投げれば評論家に当たるというくらい、テレビでチャンネルを回すといくらでも素性のわからない妙な評論家が登場していることはいかがなものかというテーマで討論がされていました。
この問題提起がされると番組内では登場しているゲストたちに、「あなたが評価する、もしくは良くないと思っている評論家は誰だ?」という質問がされ、それぞれのゲストがフリップを持ち上げて思い思いに名前を挙げていましたが、確か三宅久之氏と宮崎哲弥氏の二人が揃って、すぐ目の前にいる勝谷誠彦氏の名前を挙げていました。理由は二人とも、勝谷氏はきちんとしゃべればいいのにすぐに下品で過激な話に持っていくとして、さすがにこの二人に言われては勝谷氏も返す言葉がありませんでした。
そして三宅氏は逆に評価する評論家として櫻井よしこ氏と屋山太郎氏を挙げていましたが、この二人については私も話を聞いてて非常に参考になることが多く深く同感しました。
とまぁこの番組で取り上げられていたように、最近は本当に評論家というかコメンテーターがありえないほど溢れている状況です。確かに中には学識もあって立派な方もいるのですが、やはり大半は聞いててあきれるような事を言うばかりか、恐らくテレビ受けさせるために大した信条もないくせにわざと過激で人の不安を煽るようなコメントをする人間も少なくありません。前に愛弟子に進められて「ラストニュース」(原作:猪瀬直樹)というテレビ業界を舞台にしたマンガを読みましたが、この中でもテレビ業界にはカメラの前では威勢のいいことを言うくせにテレビ裏になると急にすぼんだ態度になる人間が出てきますが、やっぱり現実もそんなものなのではないかと思います。
特に私が現在最も見ていて呆れさせられるのは、さきほどのたかじんの番組でゲストの誰かが「良くない評論家」の一人として挙げていた、報道ステーションの古館一郎氏です。そのゲストの言葉を借りると、ニュースの後の彼の解説を聞くたびに彼がどれだけ勉強していないのがよくわかる、と言っていましたがこれについても私は強く同感します。なんていうか、いろいろと関連する問題があって一言で言い切れるわけがない事件や問題についても何が何でも古館氏は一言でまとめようとするので、その結果多くの関係事象が見落とされかねないコメントをするのが私にとっても頭にきますし、今までなるほどと思わせられるようなコメントは一度として彼から聞いたことがありません。
まぁそうはいっても彼ら評論家からするとなにかしらしゃべることが生活の種なので、それこそ問題でもないことでもさも問題性があるように話さなければならないというお家事情があるのは理解できます。かといって、根も葉もない事象から人の不安を煽るような行為にまで至るともはや笑って許せる問題ではなく、報道する側のテレビ局などはそこら辺をぜひ考慮してもらいたいものです。まぁ人の不安を最も煽っている環境問題において、武田邦彦氏のコメントなんかは聞いてて別な意味でいろいろ不安になっちゃいますが。
この友人の言を私がもう少し解説すると、恐らく世界は不況だ不況だと言われる中でそれこそ二年後には景気は回復するとか先々週あたりに各週刊誌で書かれていた、「二月十三日の金曜日、世界株大暴落」などと根も葉もない、しかもどちらかといえば不安を煽り立てるような予想や評論について、現在は全く先が読めない状況なのだからわざわざそんな不安を煽るような行為はやめろと言いたかったのだと思います。
私としてもちょっとどの記事に書いたか忘れましたが以前に、当たり外れは多少運の要素が絡むので仕方ないが、いい予想というのはきちんと筋道立って説明がされているから外れたとしても状況の理解に役立つものだと言いましたが、そういう目で見たら世の中に氾濫している予想というのはどれも筋道から外れた、それこそ先ほども言いましたが人の神経を煽るようなものばかりで、友人が怒るのも仕方がないことでしょう。
まぁこんなえらそうなことを言っている私もくだらない予想ばかりして周りに迷惑かけていますが、以前に読売テレビで放映されている「たかじんのそこまで言って委員会」という番組にていまや石を投げれば評論家に当たるというくらい、テレビでチャンネルを回すといくらでも素性のわからない妙な評論家が登場していることはいかがなものかというテーマで討論がされていました。
この問題提起がされると番組内では登場しているゲストたちに、「あなたが評価する、もしくは良くないと思っている評論家は誰だ?」という質問がされ、それぞれのゲストがフリップを持ち上げて思い思いに名前を挙げていましたが、確か三宅久之氏と宮崎哲弥氏の二人が揃って、すぐ目の前にいる勝谷誠彦氏の名前を挙げていました。理由は二人とも、勝谷氏はきちんとしゃべればいいのにすぐに下品で過激な話に持っていくとして、さすがにこの二人に言われては勝谷氏も返す言葉がありませんでした。
そして三宅氏は逆に評価する評論家として櫻井よしこ氏と屋山太郎氏を挙げていましたが、この二人については私も話を聞いてて非常に参考になることが多く深く同感しました。
とまぁこの番組で取り上げられていたように、最近は本当に評論家というかコメンテーターがありえないほど溢れている状況です。確かに中には学識もあって立派な方もいるのですが、やはり大半は聞いててあきれるような事を言うばかりか、恐らくテレビ受けさせるために大した信条もないくせにわざと過激で人の不安を煽るようなコメントをする人間も少なくありません。前に愛弟子に進められて「ラストニュース」(原作:猪瀬直樹)というテレビ業界を舞台にしたマンガを読みましたが、この中でもテレビ業界にはカメラの前では威勢のいいことを言うくせにテレビ裏になると急にすぼんだ態度になる人間が出てきますが、やっぱり現実もそんなものなのではないかと思います。
特に私が現在最も見ていて呆れさせられるのは、さきほどのたかじんの番組でゲストの誰かが「良くない評論家」の一人として挙げていた、報道ステーションの古館一郎氏です。そのゲストの言葉を借りると、ニュースの後の彼の解説を聞くたびに彼がどれだけ勉強していないのがよくわかる、と言っていましたがこれについても私は強く同感します。なんていうか、いろいろと関連する問題があって一言で言い切れるわけがない事件や問題についても何が何でも古館氏は一言でまとめようとするので、その結果多くの関係事象が見落とされかねないコメントをするのが私にとっても頭にきますし、今までなるほどと思わせられるようなコメントは一度として彼から聞いたことがありません。
まぁそうはいっても彼ら評論家からするとなにかしらしゃべることが生活の種なので、それこそ問題でもないことでもさも問題性があるように話さなければならないというお家事情があるのは理解できます。かといって、根も葉もない事象から人の不安を煽るような行為にまで至るともはや笑って許せる問題ではなく、報道する側のテレビ局などはそこら辺をぜひ考慮してもらいたいものです。まぁ人の不安を最も煽っている環境問題において、武田邦彦氏のコメントなんかは聞いてて別な意味でいろいろ不安になっちゃいますが。
2009年2月19日木曜日
ブログを読む側と書く側の感覚の違い
先日友人から、
「実は俺もブログをやっていたんだよ」
と突然言われました。
なんでも半年くらいは続いていたそうですがやっぱり段々と書くことがなくなって続けられなくなり、そのブログは今じゃ放置状態になっているそうです。
別にその友人がそうだと言うわけじゃないのですが、私の見ている限りまだブログを始めたことがない人なんかは他の人がやっているブログを見て、「こんな簡単そうなの、自分でも出来るだろう」と思う方が多いんじゃないかという気がします。しかし実際に始めてみると読む側と書く側では全然感覚が変わるもので、ちょっと簡単にその辺の部分で私が思うことを書いておきます。
まず私の体験ですが、私は2007年の年末からこの「陽月秘話」をやっていますが、それ以前からもいくつかのブログは読んでいました。それで他の人のブログを見ていてよく思っていたのは、「なんでこいつらはこんなに更新が少ないんだ」ということでした。
やっぱり定期的に人に読ませるなら最低でも一週間に一回、理想なら今の私のペース並に短くともいいから毎日更新しないとついてこないだろうとよく思い、原稿用紙一枚分の四百文字くらいで毎日更新するくらいなら自分なら余裕だろうと思って始めました。結果はとても四百文字じゃ満足できず、アホみたいに毎日長文を書くことになりましたが。
それでこの文字数についてですが、私の感覚だと書く側が大体一時間くらいかけて文章を書いても、言ってて結構無常ですが読む側からすると五分で読まれてしまう量にしかなりません。これだと経済的に見たら文章を書く労力に見合わせるには最低でも二十人に読んでもらわないとペイできません。このように読む側からだと想像し辛いのですが、文章というのは書く側になると恐ろしい時間と労力が必要になってくるので、読んでて自分にも出来そうだと思った方は書き始めるとそのギャップに打ち負かされることが多いんじゃないかと思います。
もちろん技術力の向上次第でその一時間を五十分、四十分にも短縮することができますが、それでもとことん突き詰めても三十分は読む側に五分読ませるのに書く必要があるでしょう。私の場合は調子や書きやすいテーマにもよりますが、やや長めの記事を書くのには一時間くらいはいつもかけています。
ここで強く言っておきたいのですが、文章というのは意外に書けそうで書けないもので、やっぱり自分の思うまま、伝えたい内容を確実に伝えられるように書くには相当な訓練が必要です。個人的に到達段階に当たる訓練量を挙げていくと、まず原稿用紙百枚(四千字)を越える一つの文章を書くと一皮向けて、その後生涯執筆量で千枚(四万字)を越えた辺りからいろいろと面白くなってきます。
なのでブログをやっている方は、ひとまず四万字を越えるくらいまではだらだらしてもいいから続けるべきだと思います。そうすると表現技法などが段々とわかってきて、昔の文章と比べることによっていろいろと成長する実感が湧いてくるでしょう。
そして今度は逆に読む側に伝えたいのですが、見ていて「なんだ、これっぽっちか」と、文章量が短か過ぎると思っても、書く側はその短い量を書くのに凄い労力をかけているので馬鹿にしたりはせずにきちんと見てあげてください。私の場合は自分でも長すぎる気がして、読む側がかえって負担になってるんじゃないかと心配するくらいですが。
補足
これまた私の感覚ですが、手書きで文章を書くとペースは好不調に関わらず一時間で原稿用紙六枚です。キーボードの場合は昔の話だと一時間に十枚くらいが平均的なペースですが、キーボードの場合は頭で文章を組み立てるより早く文字がかけてしまうのでペースが一定でなく、好調の時は十二枚とか行きますが、不調の場合は八枚くらいにまで落ちることがありました。
今このブログで書いている内容は結構頭を使うものも多く、書きながらあれこれ調べたりするのでペース的には一時間当たり六枚くらいじゃないでしょうかね。
「実は俺もブログをやっていたんだよ」
と突然言われました。
なんでも半年くらいは続いていたそうですがやっぱり段々と書くことがなくなって続けられなくなり、そのブログは今じゃ放置状態になっているそうです。
別にその友人がそうだと言うわけじゃないのですが、私の見ている限りまだブログを始めたことがない人なんかは他の人がやっているブログを見て、「こんな簡単そうなの、自分でも出来るだろう」と思う方が多いんじゃないかという気がします。しかし実際に始めてみると読む側と書く側では全然感覚が変わるもので、ちょっと簡単にその辺の部分で私が思うことを書いておきます。
まず私の体験ですが、私は2007年の年末からこの「陽月秘話」をやっていますが、それ以前からもいくつかのブログは読んでいました。それで他の人のブログを見ていてよく思っていたのは、「なんでこいつらはこんなに更新が少ないんだ」ということでした。
やっぱり定期的に人に読ませるなら最低でも一週間に一回、理想なら今の私のペース並に短くともいいから毎日更新しないとついてこないだろうとよく思い、原稿用紙一枚分の四百文字くらいで毎日更新するくらいなら自分なら余裕だろうと思って始めました。結果はとても四百文字じゃ満足できず、アホみたいに毎日長文を書くことになりましたが。
それでこの文字数についてですが、私の感覚だと書く側が大体一時間くらいかけて文章を書いても、言ってて結構無常ですが読む側からすると五分で読まれてしまう量にしかなりません。これだと経済的に見たら文章を書く労力に見合わせるには最低でも二十人に読んでもらわないとペイできません。このように読む側からだと想像し辛いのですが、文章というのは書く側になると恐ろしい時間と労力が必要になってくるので、読んでて自分にも出来そうだと思った方は書き始めるとそのギャップに打ち負かされることが多いんじゃないかと思います。
もちろん技術力の向上次第でその一時間を五十分、四十分にも短縮することができますが、それでもとことん突き詰めても三十分は読む側に五分読ませるのに書く必要があるでしょう。私の場合は調子や書きやすいテーマにもよりますが、やや長めの記事を書くのには一時間くらいはいつもかけています。
ここで強く言っておきたいのですが、文章というのは意外に書けそうで書けないもので、やっぱり自分の思うまま、伝えたい内容を確実に伝えられるように書くには相当な訓練が必要です。個人的に到達段階に当たる訓練量を挙げていくと、まず原稿用紙百枚(四千字)を越える一つの文章を書くと一皮向けて、その後生涯執筆量で千枚(四万字)を越えた辺りからいろいろと面白くなってきます。
なのでブログをやっている方は、ひとまず四万字を越えるくらいまではだらだらしてもいいから続けるべきだと思います。そうすると表現技法などが段々とわかってきて、昔の文章と比べることによっていろいろと成長する実感が湧いてくるでしょう。
そして今度は逆に読む側に伝えたいのですが、見ていて「なんだ、これっぽっちか」と、文章量が短か過ぎると思っても、書く側はその短い量を書くのに凄い労力をかけているので馬鹿にしたりはせずにきちんと見てあげてください。私の場合は自分でも長すぎる気がして、読む側がかえって負担になってるんじゃないかと心配するくらいですが。
補足
これまた私の感覚ですが、手書きで文章を書くとペースは好不調に関わらず一時間で原稿用紙六枚です。キーボードの場合は昔の話だと一時間に十枚くらいが平均的なペースですが、キーボードの場合は頭で文章を組み立てるより早く文字がかけてしまうのでペースが一定でなく、好調の時は十二枚とか行きますが、不調の場合は八枚くらいにまで落ちることがありました。
今このブログで書いている内容は結構頭を使うものも多く、書きながらあれこれ調べたりするのでペース的には一時間当たり六枚くらいじゃないでしょうかね。
今後の政局
大体材料が集まってきたので、そろそろまた政治解説でも始めようと思います。
まず今週最大のニュースとくれば言わずもがなの中川財務相の電撃辞任です。しかもその理由が酔っ払って会見に出たという、宇野宗佑元総理並にくだらない理由ゆえに世論からも大きく批判され、前の日曜日には日テレが恐らく仕込んだ結果でしょうが内閣支持率が9%台と発表されたのを皮切りに、他の報道各社でも10%前半という惨憺たる結果が続き、ただでさえ低い支持率がそれこそ森政権以来の低調ぶりを見せ始めております。
そこへもって小泉元首相の先週の会見です。公然の場ではっきりと、しかもきつい表現を用いて麻生内閣を批判し、その上昨日に至ってはモスクワにてもし二次補正予算案が衆議院で再投票されるのなら棄権すると明言したことにより、小泉氏に続いて麻生政権に反感を持っている自民若手議員も同調することで本当に三分の二可決ができるかどうかも怪しくなってきました。
しかも現実に後藤田正純衆議院議員のように、若手(しかもちょっとイケメン)でありながら公然と麻生総理に禅譲を迫り、代わりの候補としてぶれないという理由から石破茂氏と野田聖子を挙げてくる人物が出てくるなど、無鉄砲さが売りの渡辺喜美氏以外でこんな声も出てくるなんて私も予想だにしませんでした。どうでもいいですが、今朝のテレ朝のニュースでは後藤田氏の発言の中で石破氏を挙げたところでVTRを切り、野田聖子の名前を敢えて出そうとしていませんでした。私もこの人は嫌いなので、思わずグッジョブと思っちゃいました。
また先ほどの後藤田氏ほど直接的でないものの、麻生政権に元から批判的だった山本一太氏ももし選挙前に総裁が変わるのならば小池氏と石原氏を昨日のインタビューにて候補として挙げ、それを受けてか今朝のスポーツ新聞の見出しには「ポスト麻生」と書かれたリストを載せているのがたくさんあったように思えます。
誰かは忘れましたが今年初めの段階で麻生内閣は持たなくなり、選挙前ではあるものの自民はまた総裁を変え、恐らくその際には与謝野馨氏が総理に就任して総選挙になるだろうと予想した評論家がいましたが、現実に自体はこれに近い形で推移してきています。
こうした事態に対して麻生内閣を支える立場の自民党執行部の動きはどうかというと、脇雅史参院国対筆頭副委員長は「小泉元首相発言「笑っちゃう」 自民参院幹部が批判」の記事によると小泉氏の発言を「笑っちゃう」と非難していますが、正直この状況下で笑ってる場合かとこの人の危機意識をすこし私は疑います。
今回の小泉発言が大きく扱われるのも、なんだかんだいって国民が小泉氏の発言に同調する部分が大きいことからだと私は考えています。特に私は小泉氏の発言の中で、
「(自民党)執行部は若手が批判すると後ろから鉄砲を撃つなと批判するが、今の執行部は前から鉄砲を撃っているようなものじゃないか」
と言っていたのには非常に納得させられました。こうした例のように、国民が現政権にもつ苛立ちを理解せずに小泉氏の発言を非難するあたり、やっぱりこの小泉氏の言葉の通りという気がします。
さてこうした事態に対して野党の民主党はどんなものかというと、今日はなかなかいい論説があったのでまずそれを紹介します。
・【政論探求】これぞ「小泉アンコール劇場」だ (産経ニュース)
このところ産経はとんちんかんな事ばかり言っているかと思ったら、今回の論説は非常に内容も鋭く面白いことが書かれています。まずこの記事で小泉氏の発言力の大きさを改めて取り上げ、今回の発言によって再び小泉劇場といわれる政治状態が生まれるのではないかといい、実はそれで一番困るのはキャラ的な主導権を奪われる形となる民主党だと分析しているのには私も納得します。案の定というか、先週の小泉発言以降民主党の報道がめっきり減ってしまっています。
それで最後に今後どのタイミングでまた政局が動くかについてですが、やはり予算案が成立するであろう四月辺りが大きく動く可能性があります。もし自民が延命策をとろうとするのならここで麻生政権を総辞職させて現段階で与謝野氏が最も可能性が高いですが、また新たな総裁を出してくるでしょう。それに対して世間や党内の批判を無視して麻生政権が任期切れまで必死で逃げ切るか、はたまた民主党や自民党内の反乱勢力が押し切り一気に解散総選挙になるか、各プレイヤーの動き次第でしょう。
ちょっと踏み込んだ予想をすると、もし自民党執行部が報道されているように小泉氏が二次補正予算案に欠席することで何かしら党として処分を行おうとするものなら、恐らく小泉氏だったら離党をして、次の選挙で引退を宣言しているので代表にはつかないでしょうが、後見役のような立場で新党を作りかねないのではないかと思います。そうした場合は自民や民主の若手が集まるでしょうし、私としても理想的な政界再編の枠組みが作られる気がします。
まず今週最大のニュースとくれば言わずもがなの中川財務相の電撃辞任です。しかもその理由が酔っ払って会見に出たという、宇野宗佑元総理並にくだらない理由ゆえに世論からも大きく批判され、前の日曜日には日テレが恐らく仕込んだ結果でしょうが内閣支持率が9%台と発表されたのを皮切りに、他の報道各社でも10%前半という惨憺たる結果が続き、ただでさえ低い支持率がそれこそ森政権以来の低調ぶりを見せ始めております。
そこへもって小泉元首相の先週の会見です。公然の場ではっきりと、しかもきつい表現を用いて麻生内閣を批判し、その上昨日に至ってはモスクワにてもし二次補正予算案が衆議院で再投票されるのなら棄権すると明言したことにより、小泉氏に続いて麻生政権に反感を持っている自民若手議員も同調することで本当に三分の二可決ができるかどうかも怪しくなってきました。
しかも現実に後藤田正純衆議院議員のように、若手(しかもちょっとイケメン)でありながら公然と麻生総理に禅譲を迫り、代わりの候補としてぶれないという理由から石破茂氏と野田聖子を挙げてくる人物が出てくるなど、無鉄砲さが売りの渡辺喜美氏以外でこんな声も出てくるなんて私も予想だにしませんでした。どうでもいいですが、今朝のテレ朝のニュースでは後藤田氏の発言の中で石破氏を挙げたところでVTRを切り、野田聖子の名前を敢えて出そうとしていませんでした。私もこの人は嫌いなので、思わずグッジョブと思っちゃいました。
また先ほどの後藤田氏ほど直接的でないものの、麻生政権に元から批判的だった山本一太氏ももし選挙前に総裁が変わるのならば小池氏と石原氏を昨日のインタビューにて候補として挙げ、それを受けてか今朝のスポーツ新聞の見出しには「ポスト麻生」と書かれたリストを載せているのがたくさんあったように思えます。
誰かは忘れましたが今年初めの段階で麻生内閣は持たなくなり、選挙前ではあるものの自民はまた総裁を変え、恐らくその際には与謝野馨氏が総理に就任して総選挙になるだろうと予想した評論家がいましたが、現実に自体はこれに近い形で推移してきています。
こうした事態に対して麻生内閣を支える立場の自民党執行部の動きはどうかというと、脇雅史参院国対筆頭副委員長は「小泉元首相発言「笑っちゃう」 自民参院幹部が批判」の記事によると小泉氏の発言を「笑っちゃう」と非難していますが、正直この状況下で笑ってる場合かとこの人の危機意識をすこし私は疑います。
今回の小泉発言が大きく扱われるのも、なんだかんだいって国民が小泉氏の発言に同調する部分が大きいことからだと私は考えています。特に私は小泉氏の発言の中で、
「(自民党)執行部は若手が批判すると後ろから鉄砲を撃つなと批判するが、今の執行部は前から鉄砲を撃っているようなものじゃないか」
と言っていたのには非常に納得させられました。こうした例のように、国民が現政権にもつ苛立ちを理解せずに小泉氏の発言を非難するあたり、やっぱりこの小泉氏の言葉の通りという気がします。
さてこうした事態に対して野党の民主党はどんなものかというと、今日はなかなかいい論説があったのでまずそれを紹介します。
・【政論探求】これぞ「小泉アンコール劇場」だ (産経ニュース)
このところ産経はとんちんかんな事ばかり言っているかと思ったら、今回の論説は非常に内容も鋭く面白いことが書かれています。まずこの記事で小泉氏の発言力の大きさを改めて取り上げ、今回の発言によって再び小泉劇場といわれる政治状態が生まれるのではないかといい、実はそれで一番困るのはキャラ的な主導権を奪われる形となる民主党だと分析しているのには私も納得します。案の定というか、先週の小泉発言以降民主党の報道がめっきり減ってしまっています。
それで最後に今後どのタイミングでまた政局が動くかについてですが、やはり予算案が成立するであろう四月辺りが大きく動く可能性があります。もし自民が延命策をとろうとするのならここで麻生政権を総辞職させて現段階で与謝野氏が最も可能性が高いですが、また新たな総裁を出してくるでしょう。それに対して世間や党内の批判を無視して麻生政権が任期切れまで必死で逃げ切るか、はたまた民主党や自民党内の反乱勢力が押し切り一気に解散総選挙になるか、各プレイヤーの動き次第でしょう。
ちょっと踏み込んだ予想をすると、もし自民党執行部が報道されているように小泉氏が二次補正予算案に欠席することで何かしら党として処分を行おうとするものなら、恐らく小泉氏だったら離党をして、次の選挙で引退を宣言しているので代表にはつかないでしょうが、後見役のような立場で新党を作りかねないのではないかと思います。そうした場合は自民や民主の若手が集まるでしょうし、私としても理想的な政界再編の枠組みが作られる気がします。
2009年2月18日水曜日
中国留学生の親中嫌韓化
何度もこのブログでも書いていますが、私は中国の北京に一年留学したことがあります。留学中はそれこそ今思い出してもおかしくなるくらい楽しく過ごしていましたが、その中で私が私と同じ日本人留学生に対して強く感じたのが今日紹介する「親中嫌韓」です。
前もって断っておくとこの言葉は私の造語で意味はそのまんま、「中国が好きになって韓国が嫌いになる」という意味です。面白いことに、中国に留学した日本人の大半はこの傾向の意識を多かれ少なかれ持つようになって帰ってくるのです。
以前にも「なぜ中国をかばうのか」という記事で一回書いていますが、中国というのは非常にあくの強い文化を持っている国で、例えるなら東京出身者が関西でしばらく過ごすと関西弁がその後抜けなくなるというように、外からやってきた異邦者をその文化の内側に取り込む作用が強い国であります。
留学生に対してもほぼ同様で、日本人留学生はやってくるとまず対応の悪い学校側や学生寮の手続きなどに辟易して非常に遅れた国だと口々に批判します。しかしある程度生活に慣れる留学して三ヶ月目位に入ると、突然中国に対して「やっぱり歴史の深い国だ」、「日本なんかよりフラットな中国の感覚がいい」などと急に誉めそやすようになります。
まぁこれは中国に限らないようで、留学経験者は大抵留学先の国のことを好きになる傾向があり、特に本国に帰った後に周囲から留学先の国を批判されることで急速にそんな態度が発現しやすくなるそうです。かくいう私は中国に行く前から中国が好きだったので、留学を終えて変わったことといえば相撲が好きになったことくらいです。
こうした中国への親近感が強まる一方、中国に留学する日本人は男女ともに韓国人に対して猛烈に批判的になっていく傾向があります。私は留学中にこれといって韓国人と深く交流をしなかったのでそんなに嫌いになることはありませんでしたが、学生寮で相部屋(大抵相部屋に住まわされる。私のルームメイトはルーマニア人でした)の相手が韓国人だった方に至ってはこの傾向が顕著で、日本人留学生が三人も集まればたちまち韓国人への陰口大会がいつでもどこでも始まるほどでした。
では韓国人のどういうところが嫌われるかですが、韓国人留学生と相部屋だった友人の話を聞くと、
・冷蔵庫にキムチを入れられ、自分の食べ物も全部キムチ臭くなった。
・テレビのチャンネル主導権を握られる。
・夜中まで平気で大音量で音楽を鳴らし続ける。
・夜中でも友人を連れてきて大騒ぎする。
・物を貸すと返す際にいろいろとついてくる。
などで、やはり「周囲を気にしない」ということが日本人と合わず、特に夜に騒ぐことで眠れないと文句を言う人間が多かったです。
更に面白い証言を紹介すると、「韓国人はつかなくともいい嘘を平気でついてくる」と、まるで判を押したかのように同じことを言う日本人留学生が多いので詳しく背景を探ってみると、今の証言を言う日本人留学生は皆韓国人の女の子と一時付き合い、別れた奴ばかりでした。
この中国の留学先で韓国人が嫌われる傾向にあるのは何も日本人の間だけではなく、欧米などといった他の国の人間も同じでした。私と同級生だったフランス人の姐さんなんか、
「この前タクシーに乗ったら運転手が、お前はフランス人だからいいけど、俺は日本人と韓国人は乗せたくないんだと言いやがった。私の知っている日本人はみんな良い人ばかりなのに、本当にひどい奴だったわ。ま、韓国人はしょうがないけどね( ^∀^)」(ごついフランス人の姐さん)
「それを僕の前で言うの?('A`)」(ちょっと気弱な韓国人の男の子)
何故これほどまでに韓国人が中国の留学先で嫌われるかについてですが、原因は単純に韓国人が留学先で圧倒的大多数派になるからだと思います。実は中国では日本以上に韓国との交易関係が強いせいもあって留学生もたくさん来ており、ちょっと細かいデータは失念してしまいましたが確か中国への留学生人口第二位の日本人の二倍もの人数が毎年来ていたと思います。この傾向は中国に限らず、私がイギリスの語学学校にいた時はブラジル人が一番多かったのですが、やっぱりここでもブラジル人が他の国の人から嫌われていました。
なぜ多数派になると嫌われるかですが、まず一つに多数派ゆえのおごりが生じ、同胞人同士で集まると行動が横柄になるというところがあると思います。人数が多ければ行動も起こしやすくなったり、他の外国人を巻き込んで何かを実行するのでも決定力が強まり、更にはいろいろな制度的な面も多数派に合わされやすくなっていくので少数派からすると鼻持ちならなくなるのも自然な気がします。
一応苦言を呈しておくと、この傾向は日本人留学生にも当てはまるところがあります。韓国人には負けても現在中国の留学生人口第二位は日本人で、やっぱり集団で固まっては横柄なところを見せる輩も少なくありませんでした。
更に言えば、中国人社会においてすらも中国における韓国人留学生のマナーが段々と問題視されてきています。韓国人の国民性なのか私が先ほど説明した多数派ゆえのおごりかまではわかりませんが、留学先の大学でたびたび問題行動を起こす韓国人留学生に対して徐々に中国人の視線が厳しくなってきているのもあり、これを対岸の火とさせずに日本人留学生の方も厳に行動を慎み、日本人ばっかりで固まったりせずに中国現地でいろんな人間と交流してほしいと願っております。
前もって断っておくとこの言葉は私の造語で意味はそのまんま、「中国が好きになって韓国が嫌いになる」という意味です。面白いことに、中国に留学した日本人の大半はこの傾向の意識を多かれ少なかれ持つようになって帰ってくるのです。
以前にも「なぜ中国をかばうのか」という記事で一回書いていますが、中国というのは非常にあくの強い文化を持っている国で、例えるなら東京出身者が関西でしばらく過ごすと関西弁がその後抜けなくなるというように、外からやってきた異邦者をその文化の内側に取り込む作用が強い国であります。
留学生に対してもほぼ同様で、日本人留学生はやってくるとまず対応の悪い学校側や学生寮の手続きなどに辟易して非常に遅れた国だと口々に批判します。しかしある程度生活に慣れる留学して三ヶ月目位に入ると、突然中国に対して「やっぱり歴史の深い国だ」、「日本なんかよりフラットな中国の感覚がいい」などと急に誉めそやすようになります。
まぁこれは中国に限らないようで、留学経験者は大抵留学先の国のことを好きになる傾向があり、特に本国に帰った後に周囲から留学先の国を批判されることで急速にそんな態度が発現しやすくなるそうです。かくいう私は中国に行く前から中国が好きだったので、留学を終えて変わったことといえば相撲が好きになったことくらいです。
こうした中国への親近感が強まる一方、中国に留学する日本人は男女ともに韓国人に対して猛烈に批判的になっていく傾向があります。私は留学中にこれといって韓国人と深く交流をしなかったのでそんなに嫌いになることはありませんでしたが、学生寮で相部屋(大抵相部屋に住まわされる。私のルームメイトはルーマニア人でした)の相手が韓国人だった方に至ってはこの傾向が顕著で、日本人留学生が三人も集まればたちまち韓国人への陰口大会がいつでもどこでも始まるほどでした。
では韓国人のどういうところが嫌われるかですが、韓国人留学生と相部屋だった友人の話を聞くと、
・冷蔵庫にキムチを入れられ、自分の食べ物も全部キムチ臭くなった。
・テレビのチャンネル主導権を握られる。
・夜中まで平気で大音量で音楽を鳴らし続ける。
・夜中でも友人を連れてきて大騒ぎする。
・物を貸すと返す際にいろいろとついてくる。
などで、やはり「周囲を気にしない」ということが日本人と合わず、特に夜に騒ぐことで眠れないと文句を言う人間が多かったです。
更に面白い証言を紹介すると、「韓国人はつかなくともいい嘘を平気でついてくる」と、まるで判を押したかのように同じことを言う日本人留学生が多いので詳しく背景を探ってみると、今の証言を言う日本人留学生は皆韓国人の女の子と一時付き合い、別れた奴ばかりでした。
この中国の留学先で韓国人が嫌われる傾向にあるのは何も日本人の間だけではなく、欧米などといった他の国の人間も同じでした。私と同級生だったフランス人の姐さんなんか、
「この前タクシーに乗ったら運転手が、お前はフランス人だからいいけど、俺は日本人と韓国人は乗せたくないんだと言いやがった。私の知っている日本人はみんな良い人ばかりなのに、本当にひどい奴だったわ。ま、韓国人はしょうがないけどね( ^∀^)」(ごついフランス人の姐さん)
「それを僕の前で言うの?('A`)」(ちょっと気弱な韓国人の男の子)
何故これほどまでに韓国人が中国の留学先で嫌われるかについてですが、原因は単純に韓国人が留学先で圧倒的大多数派になるからだと思います。実は中国では日本以上に韓国との交易関係が強いせいもあって留学生もたくさん来ており、ちょっと細かいデータは失念してしまいましたが確か中国への留学生人口第二位の日本人の二倍もの人数が毎年来ていたと思います。この傾向は中国に限らず、私がイギリスの語学学校にいた時はブラジル人が一番多かったのですが、やっぱりここでもブラジル人が他の国の人から嫌われていました。
なぜ多数派になると嫌われるかですが、まず一つに多数派ゆえのおごりが生じ、同胞人同士で集まると行動が横柄になるというところがあると思います。人数が多ければ行動も起こしやすくなったり、他の外国人を巻き込んで何かを実行するのでも決定力が強まり、更にはいろいろな制度的な面も多数派に合わされやすくなっていくので少数派からすると鼻持ちならなくなるのも自然な気がします。
一応苦言を呈しておくと、この傾向は日本人留学生にも当てはまるところがあります。韓国人には負けても現在中国の留学生人口第二位は日本人で、やっぱり集団で固まっては横柄なところを見せる輩も少なくありませんでした。
更に言えば、中国人社会においてすらも中国における韓国人留学生のマナーが段々と問題視されてきています。韓国人の国民性なのか私が先ほど説明した多数派ゆえのおごりかまではわかりませんが、留学先の大学でたびたび問題行動を起こす韓国人留学生に対して徐々に中国人の視線が厳しくなってきているのもあり、これを対岸の火とさせずに日本人留学生の方も厳に行動を慎み、日本人ばっかりで固まったりせずに中国現地でいろんな人間と交流してほしいと願っております。
2009年2月17日火曜日
外国生活でのアイデンティティのぶれ
昨日に中川財務相を擁護した傍からいきなり辞任かよ( ゚д゚) ちょっとだけなのでついでに書きますが、中川氏の後釜には現経済産業相の与謝野氏が据えられる予定らしいですが、中川氏が財務相と金融相を兼務しているので与謝野氏はコレで実に三役も兼務することになります。元々大蔵省が財政と金融を二つ兼ね備えるのが国政上で大きな問題になるとして財務省と金融省分けたのに、経済産業相まで一緒になるのは私にもちょっと不満です。も一つおまけに言うと今桝添氏がやっている厚生労働省も、元々は厚生省と労働省と二つの省が合併して出来ました。しかし一時期は社保庁による年金問題とC型肝炎問題が同時に表面化し、傍目にも過重すぎる任務に当時は桝添氏に私は深く同情し、厚生労働省は分けてしかるべきではと今では考えています。
それでは今日の本題ですが、基本人間というのは母国を離れて外国で生活をすると否応なしにアイデンティティが揺さぶられ、母国にいる時以上に不安を感じやすくなると言われています。心理学などでこの方面はよく研究されていますが、私の実体験としても中国に留学した当初はちょっとのことでも不安に感じたり、気が滅入ったりすることが日本にいる時以上に確実に多くなりました。また日本国内においても、幼少よりずっと育ってきた関東から関西に移って生活をし始めた当初もいろいろと大変でした。
これなんか関東にずっと住んでいる人に強く言いたいのですが、私から見て関東の人はテレビ番組などがやはり東京中心に作られることもあり、自分らの周りの光景が日本全体の一般形と勘違いしやすく、同じ国内でどれほど地域差があるかなどというものへの関心や知識が少ないように思えます。そういう私もそれほど地域差について詳しくはないのですが、少なくとも「関東光景=日本の光景」という前提概念をお持ちの関東の方にはそれをすぐに投げ捨ててほしいです。関東は日本の中でも特殊な方だと私は思っています。
話は戻りますが基本的に外国は文化から生活習慣、果てにはその地域の人たちの考え方などが根本から母国と異なっております。前にも少し書きましたが、その当人が無意識に当たり前と思う世界観が現実の世界に適合していればいるほど人間は安心をし、逆にズレがあればあるほど人間は無闇やたらに不安を感じます。
そういう意味で、外国生活というのは人間が不安を覚えるには絶好の場所ということになります。そのため私が授業を受けた心理学の講師ははっきりと外国に行って全く不安を覚えない人間はいないと断言した上で、例外といえるタイプは二種類あると言いました。その二種類のタイプとは、一つはまさに国際人とも言うべき先天的に環境の変化に対して全くストレスを感じないという人間。そしてもう一つは、なんらかの宗教を熱烈に信仰している人間だそうです。
その講師の説明と私の解釈だと、信仰心が強い人間は自らのアイデンティティを周囲の環境などとは切り離した宗教という概念によって深く保障させるため、ちょっとやそっとの目の前の世界の変化で精神がビクともしないので海外に行っても全然不安にならないそうです。考えてみると戦国時代にイエズス会を始めとしたキリスト教徒のヨーロッパ人がたくさん日本に来たり、三蔵法師こと玄奘がインドに経典を取りに行き、吉備真備といった仏教徒がガンガン遣唐使として中国に行ったのも、この話を聞いた後だとなんとなく納得できます。
逆に言うなら、いわゆる国粋主義的に日本の風土や文化に強くアイデンティティを依存している人なんかは海外に行くと逆に相当なプレッシャーを覚えそうなのですが、新渡戸稲造や内村鑑三なんかは武士道などといった日本古来の伝統的価値観を持ったまま海外で活躍しているので、あながちそうは言えません。
ちょっと蛇足かもしれませんが、私自身の実体験として外国に行くと大抵の人は母国への感情が二極化するような気がします。それまであまり日本に対して誇りを持たなかったのが急に誇りを持ったり、逆に強い自尊心を持っていたのが「日本は遅れている」などと批判するようになったりと、原因はちょっとまだ分析していませんが。
じゃあ私は? ということになりますが、やっぱり周りと比べると留学前から中国の事情についていろいろ勉強していたのが影響したのか、それほど強く中国に飲まれなかった気がします。今じゃあまり信じなくなりましたが前なんかはキリスト教への信仰もわずかながらあったのでそういうのも原因かもしれませんが、私以外の日本人留学生の大半が「親中嫌韓」になるところ私は留学以前と以後で中国に対する親近感は大きく変化しなかったように思えます。北京は好きになったけど。
この辺の話は私が独自にまとめた留学体験記に収めているのですが、折角なので次回は日本人中国留学生に起こる「親中嫌韓」について説明しようと思います。
それでは今日の本題ですが、基本人間というのは母国を離れて外国で生活をすると否応なしにアイデンティティが揺さぶられ、母国にいる時以上に不安を感じやすくなると言われています。心理学などでこの方面はよく研究されていますが、私の実体験としても中国に留学した当初はちょっとのことでも不安に感じたり、気が滅入ったりすることが日本にいる時以上に確実に多くなりました。また日本国内においても、幼少よりずっと育ってきた関東から関西に移って生活をし始めた当初もいろいろと大変でした。
これなんか関東にずっと住んでいる人に強く言いたいのですが、私から見て関東の人はテレビ番組などがやはり東京中心に作られることもあり、自分らの周りの光景が日本全体の一般形と勘違いしやすく、同じ国内でどれほど地域差があるかなどというものへの関心や知識が少ないように思えます。そういう私もそれほど地域差について詳しくはないのですが、少なくとも「関東光景=日本の光景」という前提概念をお持ちの関東の方にはそれをすぐに投げ捨ててほしいです。関東は日本の中でも特殊な方だと私は思っています。
話は戻りますが基本的に外国は文化から生活習慣、果てにはその地域の人たちの考え方などが根本から母国と異なっております。前にも少し書きましたが、その当人が無意識に当たり前と思う世界観が現実の世界に適合していればいるほど人間は安心をし、逆にズレがあればあるほど人間は無闇やたらに不安を感じます。
そういう意味で、外国生活というのは人間が不安を覚えるには絶好の場所ということになります。そのため私が授業を受けた心理学の講師ははっきりと外国に行って全く不安を覚えない人間はいないと断言した上で、例外といえるタイプは二種類あると言いました。その二種類のタイプとは、一つはまさに国際人とも言うべき先天的に環境の変化に対して全くストレスを感じないという人間。そしてもう一つは、なんらかの宗教を熱烈に信仰している人間だそうです。
その講師の説明と私の解釈だと、信仰心が強い人間は自らのアイデンティティを周囲の環境などとは切り離した宗教という概念によって深く保障させるため、ちょっとやそっとの目の前の世界の変化で精神がビクともしないので海外に行っても全然不安にならないそうです。考えてみると戦国時代にイエズス会を始めとしたキリスト教徒のヨーロッパ人がたくさん日本に来たり、三蔵法師こと玄奘がインドに経典を取りに行き、吉備真備といった仏教徒がガンガン遣唐使として中国に行ったのも、この話を聞いた後だとなんとなく納得できます。
逆に言うなら、いわゆる国粋主義的に日本の風土や文化に強くアイデンティティを依存している人なんかは海外に行くと逆に相当なプレッシャーを覚えそうなのですが、新渡戸稲造や内村鑑三なんかは武士道などといった日本古来の伝統的価値観を持ったまま海外で活躍しているので、あながちそうは言えません。
ちょっと蛇足かもしれませんが、私自身の実体験として外国に行くと大抵の人は母国への感情が二極化するような気がします。それまであまり日本に対して誇りを持たなかったのが急に誇りを持ったり、逆に強い自尊心を持っていたのが「日本は遅れている」などと批判するようになったりと、原因はちょっとまだ分析していませんが。
じゃあ私は? ということになりますが、やっぱり周りと比べると留学前から中国の事情についていろいろ勉強していたのが影響したのか、それほど強く中国に飲まれなかった気がします。今じゃあまり信じなくなりましたが前なんかはキリスト教への信仰もわずかながらあったのでそういうのも原因かもしれませんが、私以外の日本人留学生の大半が「親中嫌韓」になるところ私は留学以前と以後で中国に対する親近感は大きく変化しなかったように思えます。北京は好きになったけど。
この辺の話は私が独自にまとめた留学体験記に収めているのですが、折角なので次回は日本人中国留学生に起こる「親中嫌韓」について説明しようと思います。
2009年2月16日月曜日
懐かしい曲で盛り上がること
昨日書いた「懐かしい曲を聴いて思うこと」の記事のコメント欄に新たに私も書き加えていますが、はっきりこそ書きませんでしたが前の記事で私が提起した問題というのは、良い曲に当時の良い思い出が重ねられるのか、良い思い出がその当時の良い曲に重ねられるのかという、卵が先かひよこが先かというような議論でした。ま、人それぞれにどっちもあると思うけど。
まぁそんなことはさておきやっぱり古い曲だと思い起こすことも多く、特に映画やゲームに使われるような曲だと作品のストーリーを一挙に思い出させる力があり、私なんかもゲームのサントラをよく集めていたこともあって時折それら引っ張り出しては悦に入ることがあります。さらに言えば同じ映画やゲームに触れたことがあるもの同士でそれらの曲を聴くと、相乗効果に近いようなものがあるのかいろいろとその母体作品について話に華が咲くことも多い気がします。
私の実体験だと、かつてエニックスが出したスーパーファミコンゲームソフトの「天地創造」のゲームミュージックサントラを私が持っていたこともあり、何故だか知らないけど下宿で友人が遊びに来ている最中に脈絡なく流したらその友人も「天地創造」をやったことがある人間で、「懐かしいなぁ、これ」といってはゲームのエンディングやら内容やらでえらい勢いで盛り上がり、CDのトラックが変わるたびに「この曲の流れるところは……」といっては、そのゲームをやったことのない別の友人を一人置いて始終二人で盛り上がったことがありました。
また「天地創造」以外にも、かつてSNKが出したファミコンソフトの「怒」というゲームについても、友人と何気なくお茶を飲んでいる最中にまたも脈絡なく私が、
「ちゃっ、ちゃっ、ちゃらら、ちゃっ、ちゃっ、ちゃららー、たーららー、らーらー……」
と、メインBGMのメロディーを口ずさむとやっぱりやったことのある友人なら反応を示したりしていろいろと面白かったです。
この手の話をすると本当に際限なく広がってしまうのでいい加減やめますが、その一方でこうした聴き方とは別にちょっと特殊な使い方をしている曲が私にはあります。その曲は只のポップスの歌なのですが、その歌をよく聞いていた時期は私にとって非常に辛い時代で、それこそ毎日家に一人でいてはめそめそ涙を流していた時期でした。なのでその歌を聴くとやっぱりその時代を思い出すのですが、徳川家康が三方原の敗戦後の肖像画を後年に何度も見つめたというエピソードじゃないですが、私も現在に至るまで一週間と間を空けさせずにその歌を聴いては辛かったあの時期を思い出し、当時よりマシな今の境遇に感謝するとともに身体に冷水を浴びせさせるように気を引き締めなおさせています。
まぁそんなことはさておきやっぱり古い曲だと思い起こすことも多く、特に映画やゲームに使われるような曲だと作品のストーリーを一挙に思い出させる力があり、私なんかもゲームのサントラをよく集めていたこともあって時折それら引っ張り出しては悦に入ることがあります。さらに言えば同じ映画やゲームに触れたことがあるもの同士でそれらの曲を聴くと、相乗効果に近いようなものがあるのかいろいろとその母体作品について話に華が咲くことも多い気がします。
私の実体験だと、かつてエニックスが出したスーパーファミコンゲームソフトの「天地創造」のゲームミュージックサントラを私が持っていたこともあり、何故だか知らないけど下宿で友人が遊びに来ている最中に脈絡なく流したらその友人も「天地創造」をやったことがある人間で、「懐かしいなぁ、これ」といってはゲームのエンディングやら内容やらでえらい勢いで盛り上がり、CDのトラックが変わるたびに「この曲の流れるところは……」といっては、そのゲームをやったことのない別の友人を一人置いて始終二人で盛り上がったことがありました。
また「天地創造」以外にも、かつてSNKが出したファミコンソフトの「怒」というゲームについても、友人と何気なくお茶を飲んでいる最中にまたも脈絡なく私が、
「ちゃっ、ちゃっ、ちゃらら、ちゃっ、ちゃっ、ちゃららー、たーららー、らーらー……」
と、メインBGMのメロディーを口ずさむとやっぱりやったことのある友人なら反応を示したりしていろいろと面白かったです。
この手の話をすると本当に際限なく広がってしまうのでいい加減やめますが、その一方でこうした聴き方とは別にちょっと特殊な使い方をしている曲が私にはあります。その曲は只のポップスの歌なのですが、その歌をよく聞いていた時期は私にとって非常に辛い時代で、それこそ毎日家に一人でいてはめそめそ涙を流していた時期でした。なのでその歌を聴くとやっぱりその時代を思い出すのですが、徳川家康が三方原の敗戦後の肖像画を後年に何度も見つめたというエピソードじゃないですが、私も現在に至るまで一週間と間を空けさせずにその歌を聴いては辛かったあの時期を思い出し、当時よりマシな今の境遇に感謝するとともに身体に冷水を浴びせさせるように気を引き締めなおさせています。
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