昨日は久しぶりにブログの更新をサボってしまいましたが、それには実は深いわけがあり、今日のこの記事を書くための準備をひそかに友人と二人で進めておりました。その準備というのも、現役国会世襲議員の世襲割合を調べるという調査です。
以前に私も行った田原総一朗氏の講演会で田原氏も、「現実に世襲出身の国会議員がこうも情けないんだから、議員の世襲について日本は考える必要がある」と言っていただけあり、このところニュースとか政治家の発言を見ているとこの国会議員の世襲が話題になることが増えているように思えます。
特にここ最近のニュースだと、民主党の鳩山幹事長が世襲議員が続くことによって国会議員の役職が固定的になるとして、父親などがすでに国会議員に就いている人間が国政選挙に出馬する際、自分のように父親とは違う地盤からしか出馬できないように法律で制限すべきだという意見を出したことに、ネット上でも賛否が別れました。
鳩山家は弟の邦夫氏は父親の地盤に近い東京から現在も選挙に出馬していますが、兄の鳩山由紀夫氏は前述の通りに、父親の地盤とは関係ない北海道の選挙区から初出馬して現在も続けております。
以上にように、本来身分を固定させないために選挙という制度を設けてはいるものの、選挙運動の費用かかったり、政党内での候補指名過程などで徐々に日本の国会議員は世襲色が強まっているのではないかという意見が私見から言って徐々に一般世論の中でも高まっているのではないかと思います。そこで、じゃあ本当のところどうなんだということで、一つ世襲議員の実数を私が数えてみようじゃないかと調査を始めることにしました。
基本的な調査概要は以下の通りです。
調査対象:現役衆議院議員、1986年時第38回衆議院銀選挙当選者
情報源:ネット上で主にWikipediaなどで公開されている議員情報
世襲議員の対象範囲:その議員と配偶者の三親等以内に国会議員、地方議員、地方首長のいずれかを経験した者がいる
細かい調査内容を解説すると、調査対象に現役議員はともかくとして、1986年時の衆議院議員選挙当選者を比較対照に選んだのは、55年体制時と現在を比べるためです。
次に情報源ですが、これはネット上で公開されている情報を元に判断しました。先に断っておくと、現役議員に関してはWikipediaに全員の個人ページがありましたが、1986年時の当選者については主に野党の議員を中心に97名の当選議員については全く情報がありませんでした。しかし親族に議員がいる場合は何かしら関連ページが作られている可能性があり、また世襲議員の多い与党の自民党ならともかく少ない野党に不明議員が多いということも考慮し、情報不明議員についてはすべて非世襲扱いにしました。
そして肝心要の世襲議員の対象範囲ですが、これは祖父や叔父を含める範囲にするために三親等以内とし、また大物政治家の娘婿となって地盤を引き継いでいる例も数多いことから議員本人とその配偶者からと設定しました。なのでたとえば自民党の永岡桂子議員のように、世襲議員でなかった夫の後を継いで当選した方は世襲にはカウントせず、また大叔父が有名な後藤田正晴氏を大叔父に持つ後藤田正純氏もカウントしていません。そして前述の鳩山由紀夫氏も、地盤を変えているとはいえ国会議員であった父を持つことから世襲議員にカウントをしています。
今回の調査は可能な限り実数に近づけるものの、「最低限、これだけ世襲議員がいる」というのを測るのを目的にしているために情報不明の議員はカウントしませんでした。また親戚に地方議員経験者がいるかどうかも詳細に調べればもっといるかもしれませんが、その点もあえて見逃すことにします。
以上の点を踏まえ、早速結果をどうぞご覧ください。
・現役衆議院議員
全議員数 世襲議員数 世襲率
自民党 304人 124人 40.8%
公明党 31人 2人 6.5%
民主党 113人 26人 23.0%
共産党 9人 1人 11.1%
社民党 7人 0人 0.0%
その他 16人 9人 56.3%
総合計 480人 162人 33.8%
まず全体結果から見ると、世襲率が33.8%なので国会議員の三人に一人は世襲議員だということになります。そして政党別で見るとやはり圧倒的に自民党の割合が高く、次いで民主党が高くてほかの政党にはほとんどいないということになります。。
なお「その他」の属性には無所属議員や国民新党といった、自民党から出て行った渡辺喜美議員のような議員が多く入っているので、少ないながらも世襲議員が多くなるという結果となっています。
これに対して、1986年時の当選議員の世襲割合はどんなものでしょう。
・第38回衆議院議員選挙当選議員
全議員数 世襲議員数 世襲率
自民党 302人 128人 42.1%
社会党 89人 6人 6.7%
民社党 26人 6人 15.4%
公明党 56人 0人 0.0%
共産党 26人 0人 0.0%
その他 13人 6人 46.2%
総合計 512人 144人 28.1%
こうして比べてみると、与党自民党内だけの世襲割合は以前の42.1%から現在の40.8%で、増えるどころか減っているということがわかります。ただ現在の衆議院議員は2005年の9.11郵政選挙で主に選出されていることもあり、当時に大量に当選した一年生議員こと小泉チルドレンの影響も考慮し、現役自民党議員の中から一年生議員を差っ引いて改めて世襲率を計測したところ42.5%と、思った以上に世襲率は伸びたりしませんでした。いちおう一年生自民党議員の中でも世襲率を測ると36.1%でしたので、さもありなんです。
とはいえ全議員の割合で見ると28.1%から33.8%と有意に増えており、この増加分は野党民主党の世襲率が増加しているということが原因でしょう。ただ1986年時の野党はほぼすべて左派であるのに対し、民主党が右派であることを考えたら一概に野党の中で増えたとは言い切れないところもあり、このデータ上ではっきりといえるのは左派政党は世襲の割合が低いということくらいでしょう。また何度も言いますが、1986年のデータは情報不明議員が97名もいることからこの世襲率の割合は実態より幾分低くなっている傾向があります。まぁ変動するとしても3%以上も増減することはありえないと思えますが。
という感じで、全体では増えているものの自民党内ではそれほど世襲議員は増えていないというのが私の今回の調査の結論です。さすがにいろいろとやって疲れたので、細かい解説などはまた明日に書きます。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年3月21日土曜日
2009年3月19日木曜日
外国人への間違ったイメージ像について
現在ではインターネットが発達し、たとえ現地に行かなくとも海外の事情や情報も簡単に入手できる時代となりましたが、ほんの十数年前はそうした外国の情報というのはやはり限られており、そのため外国人に対して実態とは異なったイメージを日本人全体で持つことも少なくなかったと思います。
特にこれは外国人のイメージに限るわけじゃないですが、人間というのは「複雑だけど真実に近い情報」よりも「簡単だけど真実に必ずしも近くない情報」の二つを与えられると、やっぱり簡単そうな後者の情報を受け取りやすい傾向が多く、とっつきやすい情報から自己の中で物事を組み立てていってしまいます。
そんなもんだから昭和末期から平成初期に至るまで、特に子供たちの間では国によってはとんでもないイメージを持っていたところも少なくなかったように思えます。そしてそれらのとんでもないイメージというのは彼らにとってとっつきやすいところこと、漫画やゲームから作られていました。そこで今日は、そうしたとんでもないイメージを作ってしまったのではないかと私が考えるキャラクターたちをいくつかここで紹介しようと思います。
1、ラーメンマン(筋肉マン)
「中国人って言ったら、辮髪だろ」
すいません、本当にこんなことを小学四年生くらいまで私は信じていました。
さてラーメンマンといったら漫画「筋肉マン」の正義超人たちの中でも随一の技巧派で、その人気ゆえに「闘えラーメンマン」という独立した連載まで作られた人気キャラです。そんなラーメンマンの特徴ですが、まず第一にその辮髪。長い髪をお下げにして垂らす満州人独特の髪型ですが、中国なんて当時はそんなに行き来する人も今ほど多くなかったから普通にこういう人たちはまだいるんだと私も子供の頃は信じていました。
この辮髪もさることながら、ラーメンマンが強烈な印象を残したゆえに日本人のイメージに焼きついているのはその顔の特徴の「糸目」、「ちょび髭」でしょう。実際の中国人、それも北方の人は日本人並に目の大きな人もいるのですが、やっぱり今でも漫画とかで描かれる中国人は細目にかかれてしまっています。まぁ地域によっては決してはずれじゃないんだけど。
そしてこちらは逆に廃れてしまって今じゃジャンプで連載中の「銀魂」の神楽しか言いませんが、セリフの語尾に「~アル」とつくように中国人が描かれたのも、このラーメンマンのせいでしょう。なんで作者のゆでたまご氏がこんな口癖をつけたのかはわかりませんが、昔に友人が言っていたこの「~アル」の語源は、戦後日本に不法入国してきた中国人は大抵が麻薬の密売人で、慣れない日本語で「麻薬アルヨ」と言っていたことからだという、ちょっと信じたくなるような冗談みたいな説を紹介してくれました。
2、ダルシム(ストリートファイター2)
「ヨガをすれば、手足が伸びて火を吹ける」
何をどう解釈してカプコンはこんなキャラクターを作ったのかまではわかりませんが、さすがにこんな奴はいないだろうと思いつつも、ヨガというのは底知れぬ修行をするのだろうと子供心に畏怖していました。
インドも私は言ったことがありますが、まだあまり日本人が行かない国ということでとにかくインド人は不思議人たちなんだと、大人はわかりませんが当時の日本の子供たちはみんな信じていたと思います。どうでもいいですが、初期のシリーズでヨガテレポート中に気絶させたら画面からダルシムが消えるという現象がありました。
3、マザーのキャラたち
「アメリカはこんな国なのか……」
任天堂の名作「MOTHER」シリーズですが、言わずもがなでこのゲームはアメリカの田舎町を舞台にしていますが、小さい頃にこれをやった私は非常にアメリカは恐い国なんだなと思いました。
というのも主人公の初期の武器が「ボロのバット」で、出てくる敵は「おにいさん」とか、「おじさん」、果てには「ゾンビ」などと、身近過ぎてかえって不気味だと思えるような敵キャラをバットで次々と撲殺する光景を想像してはアメリカは恐いところだと思い、絶対に行くもんかと心に誓っていました。
4、シャーロックホームズ(ファミコンのゲーム)
「イギリス人は地下に入ったり、蹴ったりするのか」
これも子供の頃に遊んだファミコンのゲームですが、主人公のシャーロックホームズがいきなりノーヒントでロンドン中を走り回り、通行人へ脈絡なく蹴り攻撃を放っては金を奪うという破天荒な内容でした。ちなみにプレイステーションの伝説的なクソゲーの「ノットトレジャーハンター」でも主人公のイギリス人は蹴り攻撃がメインでした。イギリス人紳士は手を振り上げないのだろうか。
特にこれは外国人のイメージに限るわけじゃないですが、人間というのは「複雑だけど真実に近い情報」よりも「簡単だけど真実に必ずしも近くない情報」の二つを与えられると、やっぱり簡単そうな後者の情報を受け取りやすい傾向が多く、とっつきやすい情報から自己の中で物事を組み立てていってしまいます。
そんなもんだから昭和末期から平成初期に至るまで、特に子供たちの間では国によってはとんでもないイメージを持っていたところも少なくなかったように思えます。そしてそれらのとんでもないイメージというのは彼らにとってとっつきやすいところこと、漫画やゲームから作られていました。そこで今日は、そうしたとんでもないイメージを作ってしまったのではないかと私が考えるキャラクターたちをいくつかここで紹介しようと思います。
1、ラーメンマン(筋肉マン)
「中国人って言ったら、辮髪だろ」
すいません、本当にこんなことを小学四年生くらいまで私は信じていました。
さてラーメンマンといったら漫画「筋肉マン」の正義超人たちの中でも随一の技巧派で、その人気ゆえに「闘えラーメンマン」という独立した連載まで作られた人気キャラです。そんなラーメンマンの特徴ですが、まず第一にその辮髪。長い髪をお下げにして垂らす満州人独特の髪型ですが、中国なんて当時はそんなに行き来する人も今ほど多くなかったから普通にこういう人たちはまだいるんだと私も子供の頃は信じていました。
この辮髪もさることながら、ラーメンマンが強烈な印象を残したゆえに日本人のイメージに焼きついているのはその顔の特徴の「糸目」、「ちょび髭」でしょう。実際の中国人、それも北方の人は日本人並に目の大きな人もいるのですが、やっぱり今でも漫画とかで描かれる中国人は細目にかかれてしまっています。まぁ地域によっては決してはずれじゃないんだけど。
そしてこちらは逆に廃れてしまって今じゃジャンプで連載中の「銀魂」の神楽しか言いませんが、セリフの語尾に「~アル」とつくように中国人が描かれたのも、このラーメンマンのせいでしょう。なんで作者のゆでたまご氏がこんな口癖をつけたのかはわかりませんが、昔に友人が言っていたこの「~アル」の語源は、戦後日本に不法入国してきた中国人は大抵が麻薬の密売人で、慣れない日本語で「麻薬アルヨ」と言っていたことからだという、ちょっと信じたくなるような冗談みたいな説を紹介してくれました。
2、ダルシム(ストリートファイター2)
「ヨガをすれば、手足が伸びて火を吹ける」
何をどう解釈してカプコンはこんなキャラクターを作ったのかまではわかりませんが、さすがにこんな奴はいないだろうと思いつつも、ヨガというのは底知れぬ修行をするのだろうと子供心に畏怖していました。
インドも私は言ったことがありますが、まだあまり日本人が行かない国ということでとにかくインド人は不思議人たちなんだと、大人はわかりませんが当時の日本の子供たちはみんな信じていたと思います。どうでもいいですが、初期のシリーズでヨガテレポート中に気絶させたら画面からダルシムが消えるという現象がありました。
3、マザーのキャラたち
「アメリカはこんな国なのか……」
任天堂の名作「MOTHER」シリーズですが、言わずもがなでこのゲームはアメリカの田舎町を舞台にしていますが、小さい頃にこれをやった私は非常にアメリカは恐い国なんだなと思いました。
というのも主人公の初期の武器が「ボロのバット」で、出てくる敵は「おにいさん」とか、「おじさん」、果てには「ゾンビ」などと、身近過ぎてかえって不気味だと思えるような敵キャラをバットで次々と撲殺する光景を想像してはアメリカは恐いところだと思い、絶対に行くもんかと心に誓っていました。
4、シャーロックホームズ(ファミコンのゲーム)
「イギリス人は地下に入ったり、蹴ったりするのか」
これも子供の頃に遊んだファミコンのゲームですが、主人公のシャーロックホームズがいきなりノーヒントでロンドン中を走り回り、通行人へ脈絡なく蹴り攻撃を放っては金を奪うという破天荒な内容でした。ちなみにプレイステーションの伝説的なクソゲーの「ノットトレジャーハンター」でも主人公のイギリス人は蹴り攻撃がメインでした。イギリス人紳士は手を振り上げないのだろうか。
WBCの日本代表と原監督について
現在行われている野球の国際対抗戦ことWBCにて、本日のキューバ対日本の試合は見事日本は勝利を飾ることが出来ました。前回の韓国戦で敗北したことで、「さすがに二度もキューバには勝てないだろう」というあきらめムードの中でさすがは仙台の「理想のお父さんランキング」で一位を取った岩隈投手、ここぞというところで完璧な投球を見せていただき、あの強打のキューバ打線を見事交代した杉内投手とで完封に抑えてくれました。
実際の試合を私はリアルタイムで見たわけでなくニュースでのVTRだけですが、本人も言うだけあって今日の岩隈投手のフォークは恐ろしくキレていて、怪我さえしなければという評判通りの大エースぶりでした。
さてそんなWBCですが、今日はようやくヒットが出ましたがここ数試合のイチロー選手の不調ぶりに原監督はともかく周囲は厳しく見ていたようで、なんでも「イチローを使うな」という手紙や意見があちこちから寄せられていたそうです。
私が思うに、ここ一週間ほど原監督にとってはそうした周囲の声との板ばさみで相当大変だったんじゃないかと考えています。というのも明らかにイチロー選手は不調ではありましたが、ここでスタメンから外してもしその試合で負けようものなら、「イチローを使わなかったから負けたんだ」と言われ、逆に今日の試合みたいにスタメンで使ってまたもノーヒットで負けてもいたら、「あんだけ不調のイチローをなんで代えなかったんだ」と、こっちでもあれこれ文句を言われていたと思います。
そういった状況の中で、あくまでイチローを固定し続けた原監督の胸中はいろいろ複雑であったのではないかと想像し、それだけに今日の勝利は日本人として喜ぶ一方、原監督に対して「本当によかったね」と、ほっとした気持ちを強く覚えました。前回の北京五輪での星野監督もそうでしたが、チームの全責任を担う立場ゆえにいろいろと気苦労が見ていて多いのではないかと心配しています。
思えばこのWBCが開催される以前も、選出されたメンバー中に巨人の選手が最多であったことからある週刊誌などは「自チームへのえこ贔屓だ!」などと強く批判していましたが、この点も私は致し方なかった決断だと考えています。というのもプロ野球チームは今はどこもキャンプのシーズンで、この時期に主力選手がチームを離れてWBCに参加するというのは選手個人の調整はもとより、チーム全体でも相当な悪影響を及ぼすことはまず確実です。おまけに前回のWBCでソフトバンクの川崎選手に起こったように、もしも試合中に選手が怪我などしたら所属チームはたまったもんじゃないでしょう。
これがまだ非現役の監督であるのならまだしも、今回の原監督のように現役監督であればそのような問題が起きれば陰謀論とか責任論が大きくなるのは目に見えています。そのため選手離脱による他チームからの批判を受けないためにも、手本とする形で巨人の選手を一番多く招集したのではないかと私は思い、またもしこのような決断であれば見事な決断だとも思います。
とはいえ今日の勝利といい、今大会の模様は不況で暗いニュースばかりの今の日本にとって数少ない明るいニュースで、今日もネット速報で日本の勝利が伝えられるや私と私の周囲にいた人間もみんなで大喜びしました。社会というのは、特に現代のように情報伝達が早い時代において流通するニュースが明るいか暗いかで大きく性格を変え、私も連載で紹介した「失われた十年」においては暗いニュースが蔓延したことが経済的にも社会的にも目に見える形で日本人は余計な損失を出してしまったような側面もありました。
そういう意味で、今大会は久々に日本人を元気付けるいい契機となっており、一日本人として明日の勧告線を含めて強く応援して行きたいと考えています。とはいえあんまりにも期待をかけ過ぎて負けてしまった場合に強く批判するのはよくないので、冷静さと落ち着きを持って日本人には熱烈に応援してもらいたいと思います。
実際の試合を私はリアルタイムで見たわけでなくニュースでのVTRだけですが、本人も言うだけあって今日の岩隈投手のフォークは恐ろしくキレていて、怪我さえしなければという評判通りの大エースぶりでした。
さてそんなWBCですが、今日はようやくヒットが出ましたがここ数試合のイチロー選手の不調ぶりに原監督はともかく周囲は厳しく見ていたようで、なんでも「イチローを使うな」という手紙や意見があちこちから寄せられていたそうです。
私が思うに、ここ一週間ほど原監督にとってはそうした周囲の声との板ばさみで相当大変だったんじゃないかと考えています。というのも明らかにイチロー選手は不調ではありましたが、ここでスタメンから外してもしその試合で負けようものなら、「イチローを使わなかったから負けたんだ」と言われ、逆に今日の試合みたいにスタメンで使ってまたもノーヒットで負けてもいたら、「あんだけ不調のイチローをなんで代えなかったんだ」と、こっちでもあれこれ文句を言われていたと思います。
そういった状況の中で、あくまでイチローを固定し続けた原監督の胸中はいろいろ複雑であったのではないかと想像し、それだけに今日の勝利は日本人として喜ぶ一方、原監督に対して「本当によかったね」と、ほっとした気持ちを強く覚えました。前回の北京五輪での星野監督もそうでしたが、チームの全責任を担う立場ゆえにいろいろと気苦労が見ていて多いのではないかと心配しています。
思えばこのWBCが開催される以前も、選出されたメンバー中に巨人の選手が最多であったことからある週刊誌などは「自チームへのえこ贔屓だ!」などと強く批判していましたが、この点も私は致し方なかった決断だと考えています。というのもプロ野球チームは今はどこもキャンプのシーズンで、この時期に主力選手がチームを離れてWBCに参加するというのは選手個人の調整はもとより、チーム全体でも相当な悪影響を及ぼすことはまず確実です。おまけに前回のWBCでソフトバンクの川崎選手に起こったように、もしも試合中に選手が怪我などしたら所属チームはたまったもんじゃないでしょう。
これがまだ非現役の監督であるのならまだしも、今回の原監督のように現役監督であればそのような問題が起きれば陰謀論とか責任論が大きくなるのは目に見えています。そのため選手離脱による他チームからの批判を受けないためにも、手本とする形で巨人の選手を一番多く招集したのではないかと私は思い、またもしこのような決断であれば見事な決断だとも思います。
とはいえ今日の勝利といい、今大会の模様は不況で暗いニュースばかりの今の日本にとって数少ない明るいニュースで、今日もネット速報で日本の勝利が伝えられるや私と私の周囲にいた人間もみんなで大喜びしました。社会というのは、特に現代のように情報伝達が早い時代において流通するニュースが明るいか暗いかで大きく性格を変え、私も連載で紹介した「失われた十年」においては暗いニュースが蔓延したことが経済的にも社会的にも目に見える形で日本人は余計な損失を出してしまったような側面もありました。
そういう意味で、今大会は久々に日本人を元気付けるいい契機となっており、一日本人として明日の勧告線を含めて強く応援して行きたいと考えています。とはいえあんまりにも期待をかけ過ぎて負けてしまった場合に強く批判するのはよくないので、冷静さと落ち着きを持って日本人には熱烈に応援してもらいたいと思います。
2009年3月18日水曜日
満州帝国とは~その六、満州事変
本当は昨日に腹をくくって書こうと思っていたのですが、件のFC2の件(まだ解決していない)で書く時間がなくなり今日になってしまいました。
そういうわけで、本連載の折り返し地点でありながら前半の最後を飾る、満州帝国の発足に至らせるために起こされた、近代日本史上でも非常に重要な事件である満州事変を今日は解説します。
既にこれまでの連載で説明しているように、日本は日露戦争後に帝政ロシアが中国から許可を得て経営していた東清鉄道とその鉄道周囲の付属地の権利をそのままを譲り受け、中国東北部において他の列強を排して満州鉄道を大動脈とするほぼ独占的な権益を確保しました。しかし中国東北部こと満州にて大きな権益を握ってはいたもののあくまで保有していた領地は鉄道付属地のみで、世界恐慌の影響を受けて国内でも大きな経済的混乱状態にあった日本政府や日本陸軍はかねてより、この際鉄道付属地だけとは言わずに満州全土を占領するべきという野心を持っていました。
そうした野心はこの満州事変以前にもあり、日本政府や軍は大陸浪人や清朝の再興を願う旧臣などと同床異夢ではありながら協力して満州全土の支配を画策したり、満州地域で力を持った軍閥を応援することで自身の権益の拡大を図ってきました。そんな中で日本陸軍、というよりも満州鉄道の守備隊として設置され、その後対ソ国境部隊としての役割を持ったことから軍備の増強を受け、当時の日本国内で最強との呼び声の高かった関東軍の中では、より強行的に軍事力で持ってねじ伏せて満州支配を実行に移すべきとの意見が支配的になってゆき、そのような考えが初めて目立つ形で実行されたのが前回に取り上げた張作霖爆殺事件でした。
これまで応援してきた仲とはいえ、徐々に関東軍の意向に従わなくなってきていた軍閥の長である張作霖を爆殺してより日本に協力的な人間を担ぎ出そうと実行したこの策でしたが、事態は皮肉にも張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対して一層態度を硬化させただけでなく、当時北伐中の蒋介石に降伏したことで混乱の続いてきた中国が徐々に安定していく兆しを見せる事態とまでなりました。
恐らく当時の関東軍においてはそうして中国が安定を取り戻すことで、日本が満州に進出する機会が徐々に失われていくのではないかという焦燥感があったように私は思えます。そんな状況下で、1928年に満州事変の主役とも言うべき石原莞爾が関東軍に赴任してきたのはある意味皮肉な運命だといえるでしょう。
かねてより自説である最終戦総論にて将来日本がアメリカと戦うために、中国全土の占領と統治が必要だと考えていた石原は上司である板垣征四郎らと密談を重ね、意図的に満州地域を攻撃、占領する口実を作り出した後に清朝最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、満州を中国から切り離す形で傀儡政権を独立させるという計画を編み出しました。
その計画は奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖にて、1932年9月についに実行されました。この柳条湖を通る満州鉄道を関東軍が自ら爆破し、これを張学良軍の仕業と断定して自衛行動として張学良軍を攻撃し、そのまま各都市の占領を一挙に推し進めていきました。これらの行動を関東軍は「自衛行為」という主張で行いましたが実際には一方的な攻撃に過ぎず、本来このような軍事行動は政府、ひいては天皇の認可を受けねば実行してはならないために当時としても明らかな法令違反ではありました。
事実、事件勃発直後に政府は戦線の不拡大方針を取り、後に総理にもなる幣原喜十郎外務大臣も方々に事態の鎮静化を図るも、当時朝鮮に駐屯していた林銑十郎に至っては部隊を勝手に動かして満州へと越境行動を起こすなど、関東軍らは政府らの命令を全く無視したまま軍事行動を拡大していきました。
では何故当時の政府はこうした関東軍の行動を食い止められなかったのかですが、私が一つに考える背景として当時のテロリズムの風潮が政府首脳に二の足を踏ませたからではないかと思います。
五一五事件や二二六事件はこの後の話ですが、満州事変の一年前には浜口雄幸が銃撃されており、さらには満州事変の約半年前には陸軍の橋本欣五郎が三月事件という事件を未遂には終わりましたが計画していました。この三月事件の概要はウィキペディアをみてもらえばわかりますが、陸軍が各政党本部を始め政治家を襲撃した上で軍主導によるクーデターを起こすという内容で、決行直前に陸軍首脳へと計画が漏れたことで計画者らが説得を受ける形で取りやめとなった事件です。
しかしこの三月事件の最大の問題点だったのはなんといっても、クーデターを計画していた橋本欣五郎を始めとした人物らが全く処分されなかったことです。そのため彼らは満州事変に呼応する形で日本国内で首相らを暗殺した上でクーデターを起こすという十月事件を、こちらも決行直前に計画が漏れて今度は憲兵隊によって首謀者らが捕まるなどして中止されはしましたが、同じようなクーデター計画を作られる事態を引き起こしてしまいました。
こうした、政府が意に沿わぬものならテロやクーデターによる強硬手段によって引っくり返してしまえと言わんばかりの強行的な軍の動きが、政府首脳らに満州事変での軍の暴走を抑えるのに二の足を踏ませたのではないかと個人的には思います。どうも十月事件に至っては首謀者たちは元から実行するつもりはさらさらなく、そうした意識を政府首脳に植え付けさせるのが目的だったという説もあったようですし、だとすれば既にこの時点で日本の統治や運営は日本軍に握られかけていたといっても過言ではないでしょう。
こうした日本の動きに対し中国側はどんな対応を取っていたかですが、当初張学良軍は下手に反撃をすればより日本に侵略する口実を与えると考えて一切の対抗手段を取らずにいました。この時の決断について後に張学良氏は、まさか関東軍がその攻撃を満州全土にまで広げるとは考えていなかったと述懐していますが、張学良氏がこう考えるのも無理ではないと私は思えます。それだけこの時の関東軍の行動は一切の法律、果てには当時の世界情勢を無視した暴挙であったからです。
またこの満州事変時、かつて歴史の闇に葬られた男が再び歴史の表舞台に現れております。何を隠そうあの甘粕事件の犯人で、後に満州の夜の帝王と呼ばれることとなる甘粕正彦です。
彼は甘粕事件後に陸軍によって表世界から遠ざけるようにフランスへと留学させられ、事変の前には満州にて陸軍関係者らと関係を作っておりました。そして最初の柳条湖事件が起こるや甘粕正彦は奉天から遠く離れたハルビンにある日本総領事館へ自らの手下を率いて爆弾を投下し、これをまた中国人の仕業として当初南満州のみであった騒動を北満州まで、つまり満州全土に対して関東軍が行動を起こす口実を作っており、日本国内にいた軍人もこの時の甘粕の活躍を高く評価しておりました。
その甘粕は事変が拡大していく中、満州にある湯崗子という地へと1931年11月に訪れます。そしてこの地にて、既に天津を脱出してきていた清朝最後の皇帝の溥儀を迎えることで、中国の歴史上にも大きく名前を残すこととなりました。
続きは次回にて、満州国建国へ過程とともに解説します。
そういうわけで、本連載の折り返し地点でありながら前半の最後を飾る、満州帝国の発足に至らせるために起こされた、近代日本史上でも非常に重要な事件である満州事変を今日は解説します。
既にこれまでの連載で説明しているように、日本は日露戦争後に帝政ロシアが中国から許可を得て経営していた東清鉄道とその鉄道周囲の付属地の権利をそのままを譲り受け、中国東北部において他の列強を排して満州鉄道を大動脈とするほぼ独占的な権益を確保しました。しかし中国東北部こと満州にて大きな権益を握ってはいたもののあくまで保有していた領地は鉄道付属地のみで、世界恐慌の影響を受けて国内でも大きな経済的混乱状態にあった日本政府や日本陸軍はかねてより、この際鉄道付属地だけとは言わずに満州全土を占領するべきという野心を持っていました。
そうした野心はこの満州事変以前にもあり、日本政府や軍は大陸浪人や清朝の再興を願う旧臣などと同床異夢ではありながら協力して満州全土の支配を画策したり、満州地域で力を持った軍閥を応援することで自身の権益の拡大を図ってきました。そんな中で日本陸軍、というよりも満州鉄道の守備隊として設置され、その後対ソ国境部隊としての役割を持ったことから軍備の増強を受け、当時の日本国内で最強との呼び声の高かった関東軍の中では、より強行的に軍事力で持ってねじ伏せて満州支配を実行に移すべきとの意見が支配的になってゆき、そのような考えが初めて目立つ形で実行されたのが前回に取り上げた張作霖爆殺事件でした。
これまで応援してきた仲とはいえ、徐々に関東軍の意向に従わなくなってきていた軍閥の長である張作霖を爆殺してより日本に協力的な人間を担ぎ出そうと実行したこの策でしたが、事態は皮肉にも張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対して一層態度を硬化させただけでなく、当時北伐中の蒋介石に降伏したことで混乱の続いてきた中国が徐々に安定していく兆しを見せる事態とまでなりました。
恐らく当時の関東軍においてはそうして中国が安定を取り戻すことで、日本が満州に進出する機会が徐々に失われていくのではないかという焦燥感があったように私は思えます。そんな状況下で、1928年に満州事変の主役とも言うべき石原莞爾が関東軍に赴任してきたのはある意味皮肉な運命だといえるでしょう。
かねてより自説である最終戦総論にて将来日本がアメリカと戦うために、中国全土の占領と統治が必要だと考えていた石原は上司である板垣征四郎らと密談を重ね、意図的に満州地域を攻撃、占領する口実を作り出した後に清朝最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、満州を中国から切り離す形で傀儡政権を独立させるという計画を編み出しました。
その計画は奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖にて、1932年9月についに実行されました。この柳条湖を通る満州鉄道を関東軍が自ら爆破し、これを張学良軍の仕業と断定して自衛行動として張学良軍を攻撃し、そのまま各都市の占領を一挙に推し進めていきました。これらの行動を関東軍は「自衛行為」という主張で行いましたが実際には一方的な攻撃に過ぎず、本来このような軍事行動は政府、ひいては天皇の認可を受けねば実行してはならないために当時としても明らかな法令違反ではありました。
事実、事件勃発直後に政府は戦線の不拡大方針を取り、後に総理にもなる幣原喜十郎外務大臣も方々に事態の鎮静化を図るも、当時朝鮮に駐屯していた林銑十郎に至っては部隊を勝手に動かして満州へと越境行動を起こすなど、関東軍らは政府らの命令を全く無視したまま軍事行動を拡大していきました。
では何故当時の政府はこうした関東軍の行動を食い止められなかったのかですが、私が一つに考える背景として当時のテロリズムの風潮が政府首脳に二の足を踏ませたからではないかと思います。
五一五事件や二二六事件はこの後の話ですが、満州事変の一年前には浜口雄幸が銃撃されており、さらには満州事変の約半年前には陸軍の橋本欣五郎が三月事件という事件を未遂には終わりましたが計画していました。この三月事件の概要はウィキペディアをみてもらえばわかりますが、陸軍が各政党本部を始め政治家を襲撃した上で軍主導によるクーデターを起こすという内容で、決行直前に陸軍首脳へと計画が漏れたことで計画者らが説得を受ける形で取りやめとなった事件です。
しかしこの三月事件の最大の問題点だったのはなんといっても、クーデターを計画していた橋本欣五郎を始めとした人物らが全く処分されなかったことです。そのため彼らは満州事変に呼応する形で日本国内で首相らを暗殺した上でクーデターを起こすという十月事件を、こちらも決行直前に計画が漏れて今度は憲兵隊によって首謀者らが捕まるなどして中止されはしましたが、同じようなクーデター計画を作られる事態を引き起こしてしまいました。
こうした、政府が意に沿わぬものならテロやクーデターによる強硬手段によって引っくり返してしまえと言わんばかりの強行的な軍の動きが、政府首脳らに満州事変での軍の暴走を抑えるのに二の足を踏ませたのではないかと個人的には思います。どうも十月事件に至っては首謀者たちは元から実行するつもりはさらさらなく、そうした意識を政府首脳に植え付けさせるのが目的だったという説もあったようですし、だとすれば既にこの時点で日本の統治や運営は日本軍に握られかけていたといっても過言ではないでしょう。
こうした日本の動きに対し中国側はどんな対応を取っていたかですが、当初張学良軍は下手に反撃をすればより日本に侵略する口実を与えると考えて一切の対抗手段を取らずにいました。この時の決断について後に張学良氏は、まさか関東軍がその攻撃を満州全土にまで広げるとは考えていなかったと述懐していますが、張学良氏がこう考えるのも無理ではないと私は思えます。それだけこの時の関東軍の行動は一切の法律、果てには当時の世界情勢を無視した暴挙であったからです。
またこの満州事変時、かつて歴史の闇に葬られた男が再び歴史の表舞台に現れております。何を隠そうあの甘粕事件の犯人で、後に満州の夜の帝王と呼ばれることとなる甘粕正彦です。
彼は甘粕事件後に陸軍によって表世界から遠ざけるようにフランスへと留学させられ、事変の前には満州にて陸軍関係者らと関係を作っておりました。そして最初の柳条湖事件が起こるや甘粕正彦は奉天から遠く離れたハルビンにある日本総領事館へ自らの手下を率いて爆弾を投下し、これをまた中国人の仕業として当初南満州のみであった騒動を北満州まで、つまり満州全土に対して関東軍が行動を起こす口実を作っており、日本国内にいた軍人もこの時の甘粕の活躍を高く評価しておりました。
その甘粕は事変が拡大していく中、満州にある湯崗子という地へと1931年11月に訪れます。そしてこの地にて、既に天津を脱出してきていた清朝最後の皇帝の溥儀を迎えることで、中国の歴史上にも大きく名前を残すこととなりました。
続きは次回にて、満州国建国へ過程とともに解説します。
2009年3月17日火曜日
どういう風に職業を選べばいいのか
このところ東京駅の高速バスの停留所の辺りを通ると、休日でも朝早くなのにスーツを来た若い大学生と思しき人たちをよく見かけます。時期が時期なので彼らは恐らく地方から高速バスに乗って就職の説明会や面接にやって来た学生たちだと思いますが、遠いところから来るなど改めてその活動振りには頭が下がる思いがします。
そんなわけなので今日はまた就職の話をしようと思うのですが、よく就職情報誌などの質問コーナーなどを見ると、「どんな職業が自分にあっているのか」という自分と職業とのマッチングに関する質問が多く見かけられ、果てにはYES,NO式のマッチングフローチャートなども大抵の雑誌には載せられています。
つまりはそれほどまでに自分に合った仕事を見つけることが重要だと考える学生が多くいるようなのですが、私はというとそうした考え自体があまりよくないのではないかと、実は一人で危惧をしてしまいます。というのもよく仕事の向き不向きなどは職業論での議論の材料にはなりはしますが、何か一つの仕事に対して強い適性を持っている人間なんて現実にはほとんどおらず、大抵の人間にとって好みの問題はあれこそ、何かの職業が特別向いているというようなことは全くと言っていいほどないと思うからです。
それこそ他の仕事は一切手につかなかった水木しげる氏(軍隊でラッパも吹けなかったので前線に飛ばされた)のような超特別な人間なら話は別ですが、大抵の一般人にとって世の中一般の仕事は言うなればやるかやらないか程度の問題で、「これしか出来ない」とか「この仕事こそが一番自分に合っている」なんていうことは現実にはほとんどの人にはありえない事態だと思います。
それでも世の中を見ているとどこか運命論的に、「どこかに必ず自分の転職と呼べる職業があるはず」といったような言質がよく聞こえてくるのですが、ひどい場合には何か一つの職業や職種を挙げてこれ以外はもう考えられないと、自らの就職先の選択を徹底的に狭めようとする人もいます。
ですが企業なんて入ったところで必ずしも自分の希望する部署に入れるかもわからず、また本当にその企業が自分の思った通りの仕事をしているかもわからないことが多く、人づてに聞くとそうした特定の職種や職業に強いこだわりを持つ人間ほど五月病にかかりやすいそうです。
では何故学生たちは自らの適性にあった職業を半ば決め付けようとするのかですが、先ほども私が言った通りに、自分の存在価値を職業を限定することで強く自分自身に意識させようというのがあるからじゃないかと個人的には思います。というのもこれは私が中学三年生だった頃に友人が、
「花園君はなりたい職業はある?」
「出来れば作家になりたいけど、なんで?」
「俺にはなりたい職業がわからないんだ。こんなんでいいのかなぁって思って……」
と、中二病バリバリの時期にこんな会話をしたことがあります。この友人の当時の心境を勝手に推察させてもらうと、なりたい職業がないということはこの世に存在する価値もない、という風にもしかしたら考えていたのかもしれません。
このように、大抵の人は職業選択の幅を自ら狭めよう狭めようとするのですが、確かに一人で何百社も就職活動をすることは出来ないのである程度狭めることは決して間違いではないのですが、極端に狭めることはかえってマイナスですし、それで希望通りでなければショックを受けると言うのは非常にもったいないでしょう。ではどういう風に選択幅を狭めればいいのか、どんな仕事を自分に見繕えばいいのかですが、私がお勧めするのは最低ラインを定めるという方法です。
これなんか私が学内で自分の専門性を決める際に使ったのですが、世の中に出ればどんな仕事に出くわすかもわからないが、少なくとも大好きな中国に関わる仕事であればどんなに辛くとも、「チャイナならしょうがねぇ」と思ってまだ我慢できるだろうと思い、中国に何かしら関われるように中国語を専門に勉強することを決めました。
この方法は「自分に何が合うだろうか」ではなく、「自分は何なら我慢できるか」と、自分と仕事に対して妥協点を探る方法です。この方法なら職業選択の幅を極端に狭めることもなく、また割と一致しやすい範囲で自分の適性と仕事を結び付けられることが出来るのでなかなか使い勝手がいいんじゃないかと思います。また私の場合は「中国」と限定していますが、消去法的に人見知りだから散々人に会うのは勘弁という人は警備会社とか経理関係とかに絞ったりなどとする方法もあります。
とにかく、何かしらの仕事や企業を自分の天職と考えて限定するのはかえってよくないので、どこまでなら自分は我慢できるのかという価値観で就職活動を行うのを私はお勧めします。まぁ、このご時世では「正社員ならどこでも」と思ってもなかなかうまくいかないかもしれませんが……。
そんなわけなので今日はまた就職の話をしようと思うのですが、よく就職情報誌などの質問コーナーなどを見ると、「どんな職業が自分にあっているのか」という自分と職業とのマッチングに関する質問が多く見かけられ、果てにはYES,NO式のマッチングフローチャートなども大抵の雑誌には載せられています。
つまりはそれほどまでに自分に合った仕事を見つけることが重要だと考える学生が多くいるようなのですが、私はというとそうした考え自体があまりよくないのではないかと、実は一人で危惧をしてしまいます。というのもよく仕事の向き不向きなどは職業論での議論の材料にはなりはしますが、何か一つの仕事に対して強い適性を持っている人間なんて現実にはほとんどおらず、大抵の人間にとって好みの問題はあれこそ、何かの職業が特別向いているというようなことは全くと言っていいほどないと思うからです。
それこそ他の仕事は一切手につかなかった水木しげる氏(軍隊でラッパも吹けなかったので前線に飛ばされた)のような超特別な人間なら話は別ですが、大抵の一般人にとって世の中一般の仕事は言うなればやるかやらないか程度の問題で、「これしか出来ない」とか「この仕事こそが一番自分に合っている」なんていうことは現実にはほとんどの人にはありえない事態だと思います。
それでも世の中を見ているとどこか運命論的に、「どこかに必ず自分の転職と呼べる職業があるはず」といったような言質がよく聞こえてくるのですが、ひどい場合には何か一つの職業や職種を挙げてこれ以外はもう考えられないと、自らの就職先の選択を徹底的に狭めようとする人もいます。
ですが企業なんて入ったところで必ずしも自分の希望する部署に入れるかもわからず、また本当にその企業が自分の思った通りの仕事をしているかもわからないことが多く、人づてに聞くとそうした特定の職種や職業に強いこだわりを持つ人間ほど五月病にかかりやすいそうです。
では何故学生たちは自らの適性にあった職業を半ば決め付けようとするのかですが、先ほども私が言った通りに、自分の存在価値を職業を限定することで強く自分自身に意識させようというのがあるからじゃないかと個人的には思います。というのもこれは私が中学三年生だった頃に友人が、
「花園君はなりたい職業はある?」
「出来れば作家になりたいけど、なんで?」
「俺にはなりたい職業がわからないんだ。こんなんでいいのかなぁって思って……」
と、中二病バリバリの時期にこんな会話をしたことがあります。この友人の当時の心境を勝手に推察させてもらうと、なりたい職業がないということはこの世に存在する価値もない、という風にもしかしたら考えていたのかもしれません。
このように、大抵の人は職業選択の幅を自ら狭めよう狭めようとするのですが、確かに一人で何百社も就職活動をすることは出来ないのである程度狭めることは決して間違いではないのですが、極端に狭めることはかえってマイナスですし、それで希望通りでなければショックを受けると言うのは非常にもったいないでしょう。ではどういう風に選択幅を狭めればいいのか、どんな仕事を自分に見繕えばいいのかですが、私がお勧めするのは最低ラインを定めるという方法です。
これなんか私が学内で自分の専門性を決める際に使ったのですが、世の中に出ればどんな仕事に出くわすかもわからないが、少なくとも大好きな中国に関わる仕事であればどんなに辛くとも、「チャイナならしょうがねぇ」と思ってまだ我慢できるだろうと思い、中国に何かしら関われるように中国語を専門に勉強することを決めました。
この方法は「自分に何が合うだろうか」ではなく、「自分は何なら我慢できるか」と、自分と仕事に対して妥協点を探る方法です。この方法なら職業選択の幅を極端に狭めることもなく、また割と一致しやすい範囲で自分の適性と仕事を結び付けられることが出来るのでなかなか使い勝手がいいんじゃないかと思います。また私の場合は「中国」と限定していますが、消去法的に人見知りだから散々人に会うのは勘弁という人は警備会社とか経理関係とかに絞ったりなどとする方法もあります。
とにかく、何かしらの仕事や企業を自分の天職と考えて限定するのはかえってよくないので、どこまでなら自分は我慢できるのかという価値観で就職活動を行うのを私はお勧めします。まぁ、このご時世では「正社員ならどこでも」と思ってもなかなかうまくいかないかもしれませんが……。
2009年3月16日月曜日
日本の政策決定者たちの誤算
最近経済系の記事を書いていなかったので、補給とばかりに一本書いておきます。
まず一番の指標たる株価ですが、先週に一次大きく値を下げて7080円位になるなど6000円台も見えてきたところ、先週金曜日と同じように今日も大きく反発して久々に7700円台まで回復しました。ってか先週の段階だと、この際だから6000円台に一回くらい入ってほしいとか個人的には思いましたが。
なので日本の株価、ひいては経済は底を打ったのかというと、私はまだまだそんな段階には至っていないと思います。というのも今回の世界的恐慌に対して日本政府があまりにも甘い見通しを持っていたがゆえに、対策が非常に後手後手になっていて以前とこの状態を突破する傾向が見られないからです。
今の麻生政権が発足した当初、日本政府は「世界的な金融恐慌の中、日本は比較的損害が少なかった」として、麻生総理なんかは日本がまず最初にこの不況を脱して世界を引っ張るなんていっていましたが、最初の政府の見通しは半分正解で半分大はずれだったというのが私の見方です。というのも確かに日本は失われた十年の間に大量の不良債権を処理したおかげもあってリーマンショックの影響を先進国の中では最も受けずにいたのは確かです。
しかし世界がリーマンショックによって金融が大打撃を受け、それが製造業を筆頭にした実経済にも影響を及ぼしていって不況になったのに対し、日本は先月に発表された2008年10月-12月の四半期GDP成長率が-12.1%と、先進国の中で最も経済縮小が現実に起こっていることが発表されました。もう一度言いますが、他の先進国は金融が大打撃を受けたことで実経済も縮小しているのに対し、日本は金融は先進国の中で最も損失が少なかったにもかかわらず、金融を含めた実経済が最も縮小しているという恐ろしい現状にあるということです。
何故日本がこのような妙な状態に陥っているかと言うと、単純に言えばこれまで外需に依存し続けた、つまり日本国内には物を売らずに外国でずっと物を売ってきたので、外国が物を買わなくなっても他国のように最低限の内需があるわけでもなく、国内にいたっても誰も物を買えなくなっていたという現状を作っていたからにつきます。
はっきり言いますが、当初の政府の予測は明らかに現在のような状況を想定していなかったと思われます。確かに年末にかけて行われた中小企業対策などは必要な政策ではありましたが、外需に依存しすぎた体制をどのようにして建て直し、世界経済が安定化するまでいかにして内需を取り戻すかと言う視点が始めから抜けていたために現状でできる有効な対策などをみすみす逃してしまったように私は思えます。
おまけに徐々に全国で配られている定額給付金ですが、これの配布費用は約二兆円とのことですが、この前政府が発表した失業者対策の費用は一兆円と、力を入れる箇所が明らかに間違っているのではないかと私は強く不快に思いました。それならば給付金の二兆円を全部医療や失業者対策に使っていれば、どれだけよかったことか。
こうした点を総合し、どうやら今の麻生政権が七月のサミットまで粘って任期切れを測ろうとしている点も考慮し、少なくとも日本の株価は七月から八月にかけての夏に至るまで以前と低空飛行を続けると私は予測します。八月に入れば株価が底を打ったかどうか、今後は上昇していく可能性があるのかなど予測が立てられそうですが、少なくとも現状では一週間ごとに小さな変動はあっても、底を打つことはまずありえないと思います。
まず一番の指標たる株価ですが、先週に一次大きく値を下げて7080円位になるなど6000円台も見えてきたところ、先週金曜日と同じように今日も大きく反発して久々に7700円台まで回復しました。ってか先週の段階だと、この際だから6000円台に一回くらい入ってほしいとか個人的には思いましたが。
なので日本の株価、ひいては経済は底を打ったのかというと、私はまだまだそんな段階には至っていないと思います。というのも今回の世界的恐慌に対して日本政府があまりにも甘い見通しを持っていたがゆえに、対策が非常に後手後手になっていて以前とこの状態を突破する傾向が見られないからです。
今の麻生政権が発足した当初、日本政府は「世界的な金融恐慌の中、日本は比較的損害が少なかった」として、麻生総理なんかは日本がまず最初にこの不況を脱して世界を引っ張るなんていっていましたが、最初の政府の見通しは半分正解で半分大はずれだったというのが私の見方です。というのも確かに日本は失われた十年の間に大量の不良債権を処理したおかげもあってリーマンショックの影響を先進国の中では最も受けずにいたのは確かです。
しかし世界がリーマンショックによって金融が大打撃を受け、それが製造業を筆頭にした実経済にも影響を及ぼしていって不況になったのに対し、日本は先月に発表された2008年10月-12月の四半期GDP成長率が-12.1%と、先進国の中で最も経済縮小が現実に起こっていることが発表されました。もう一度言いますが、他の先進国は金融が大打撃を受けたことで実経済も縮小しているのに対し、日本は金融は先進国の中で最も損失が少なかったにもかかわらず、金融を含めた実経済が最も縮小しているという恐ろしい現状にあるということです。
何故日本がこのような妙な状態に陥っているかと言うと、単純に言えばこれまで外需に依存し続けた、つまり日本国内には物を売らずに外国でずっと物を売ってきたので、外国が物を買わなくなっても他国のように最低限の内需があるわけでもなく、国内にいたっても誰も物を買えなくなっていたという現状を作っていたからにつきます。
はっきり言いますが、当初の政府の予測は明らかに現在のような状況を想定していなかったと思われます。確かに年末にかけて行われた中小企業対策などは必要な政策ではありましたが、外需に依存しすぎた体制をどのようにして建て直し、世界経済が安定化するまでいかにして内需を取り戻すかと言う視点が始めから抜けていたために現状でできる有効な対策などをみすみす逃してしまったように私は思えます。
おまけに徐々に全国で配られている定額給付金ですが、これの配布費用は約二兆円とのことですが、この前政府が発表した失業者対策の費用は一兆円と、力を入れる箇所が明らかに間違っているのではないかと私は強く不快に思いました。それならば給付金の二兆円を全部医療や失業者対策に使っていれば、どれだけよかったことか。
こうした点を総合し、どうやら今の麻生政権が七月のサミットまで粘って任期切れを測ろうとしている点も考慮し、少なくとも日本の株価は七月から八月にかけての夏に至るまで以前と低空飛行を続けると私は予測します。八月に入れば株価が底を打ったかどうか、今後は上昇していく可能性があるのかなど予測が立てられそうですが、少なくとも現状では一週間ごとに小さな変動はあっても、底を打つことはまずありえないと思います。
2009年3月15日日曜日
格差と情報 後編
前回の記事にて私は格差そのものの存在より、格差が見えてしまう状態にこそ問題があると主張しました。私が何故こんなことを言い出したのかというと、いくつか過去の文献や話を聞いている限り、明らかに戦前から戦後直後にかけて時代の方が現代より生活格差が大きいにもかかわらず、当時の人間はそれほど気にしていなかったということを示唆する話があるからです。
まず最初に私がそんな内容を聞いたのは、今も活躍なされているイギリス人学者のロナルド・ドーア氏が戦後直後の上野に来て、そこに滞在しながらまとめた論文でした。その論文は外国人の目から見た日本の様子が描かれており、言われてみるとそうだったと思えるような日本の特殊な事情などが書かれていてそれだけでも面白く、「欧米と比べて日本の社会保障制度は充実しておらず、大半の家庭では有事に備えて貯蓄しているものの、夫が突然病気などをしたら対応のしようがない状態である」などと、今の日本にも通じるようなことが書いていてドキリとしたこともあります。
それで肝心の今回のネタの内容ですが、まず生活者における貧富の格差についてはそこそこ大きいものがあるとしていながらも、
「住民同士はイギリスのようにお互いにそうした格差を気にすることはなく、同じ町内であれば互いに気軽に接しあっている。しかしある主婦が言うには、以前に比べればそうした収入の違いなどを気にするようにはなってきているらしい」
という風に書かれています。
今もそうですがイギリスでは社会的に家格というものが大きく、アッパークラスとロウアークラスでは世帯間で交流はあまりなされず、その世帯がどの家格に属しているかで社会的地位を始めとした生活態度が大きく変わってきます。そうしたイギリスの状況から比べたことからドーア氏が日本は格差に分け隔てなく交流がなされているように思ったのかもしれませんが、それでも最後の主婦が言った、「以前はもっと気にしなかった」という発言が私には気にかかりました。
ここで話は変わってうちのお袋のはなしですが、うちのお袋は鹿児島の阿久根市というところの出身なのですが、一言で言ってしまえば相当なカオスな社会だったそうです。
なんでも当時に在日朝鮮人の方が鉄屑屋をやっており、子供でもなにか鉄屑を持って行けばお金に変えられたそうなのですが、その鉄屑屋をやっていた人自体はあまり裕福ではなく厳しい生活を強いられていたそうです。それでも当時はそうした貧乏だとか金持ちだとかそういったものの間に壁はなくみんなで分け隔てなく交流がなされて、よくドラマとかでやっているような貧乏な家だからといって周囲から馬鹿にされるという風景もなければ、今のようにそういった生活水準の差を互いに気にすることもなかったそうです。
そして極めつけが、「かじどん」の話です。
当時のうちのお袋の家は割と裕福で自家用電話もあったそうなのですが、当時は電話器が少なかったことからお袋の周囲の家に用があって外から電話がかけられる際はお袋の家が一旦電話を取り、その周囲の家の人を呼びに言ってつないでいたそうです。それでかじどんの家も電話はお袋の家からの呼び出しではあったものの、お袋の家から離れてて山の中にあったので、お袋は電話が来るといつも山登りをさせられて凄い嫌だったそうです。なのでなんでもってかじどんは山の中に住んでいたんだと私が聞いたら、「そりゃ多分かじどんの職業が泥棒だったからだろ」となんでもないように答えてきました。
別にはっきりとした証拠はないものの、なにか決まった仕事をするわけでもなく生活していたのでお袋を始めとした周囲の家はみんなかじどんは泥棒で、この辺りから盗んだものを売って生活していたのだろうと認識していたそうです。かじどんは泥棒だとわかっていつつも、警察に届け出ることもなく同じ共同体に居続けさせる神経にまず私は驚いたのですが、当時はそうした雑多な雰囲気と言うか、共同体の中でも慣用性が強くあったのだなと思わせられた話でした。
ここで話は現代に戻りますが、ぶっちゃけこれから出かけなくてはならないので急いでまとめてしまいますが、現代は若者同士だとほんのちょっとの収入の差や生活水準の差に非常に敏感になっているように私は思います。言ってしまえばこういうのは気にしなければ気にしないに越したことはなく、もっと距離的な結びつきなどで共同体が成立しないのかといろいろと考えるネタはあるのですが、何よりも私が気になるのは、いつから日本人は現在のレベル位に格差と言うか、他人との生活水準の差を気にするようになったかです。適当に仮説をあげるのなら資本主義が浸透したからとか、逆に社会主義が平等という概念を作ったからだとか、果てには横並びの昇進が日本の企業で行われていたからだとかとも言えますが、「よそはよそ、うちはうち」という位に、何かしらこう割り切らなければならないものもあると思います。
かといって一時期のように「セレブ」という言葉が流行したように、格差を強く意識させるようなマスコミ等の報道には正直辟易してしまいます。結論を一言で言えば、格差を際立たせる、意識させるような外部の情報はあまり人間関係上、よくないものなのではないかということです。
まず最初に私がそんな内容を聞いたのは、今も活躍なされているイギリス人学者のロナルド・ドーア氏が戦後直後の上野に来て、そこに滞在しながらまとめた論文でした。その論文は外国人の目から見た日本の様子が描かれており、言われてみるとそうだったと思えるような日本の特殊な事情などが書かれていてそれだけでも面白く、「欧米と比べて日本の社会保障制度は充実しておらず、大半の家庭では有事に備えて貯蓄しているものの、夫が突然病気などをしたら対応のしようがない状態である」などと、今の日本にも通じるようなことが書いていてドキリとしたこともあります。
それで肝心の今回のネタの内容ですが、まず生活者における貧富の格差についてはそこそこ大きいものがあるとしていながらも、
「住民同士はイギリスのようにお互いにそうした格差を気にすることはなく、同じ町内であれば互いに気軽に接しあっている。しかしある主婦が言うには、以前に比べればそうした収入の違いなどを気にするようにはなってきているらしい」
という風に書かれています。
今もそうですがイギリスでは社会的に家格というものが大きく、アッパークラスとロウアークラスでは世帯間で交流はあまりなされず、その世帯がどの家格に属しているかで社会的地位を始めとした生活態度が大きく変わってきます。そうしたイギリスの状況から比べたことからドーア氏が日本は格差に分け隔てなく交流がなされているように思ったのかもしれませんが、それでも最後の主婦が言った、「以前はもっと気にしなかった」という発言が私には気にかかりました。
ここで話は変わってうちのお袋のはなしですが、うちのお袋は鹿児島の阿久根市というところの出身なのですが、一言で言ってしまえば相当なカオスな社会だったそうです。
なんでも当時に在日朝鮮人の方が鉄屑屋をやっており、子供でもなにか鉄屑を持って行けばお金に変えられたそうなのですが、その鉄屑屋をやっていた人自体はあまり裕福ではなく厳しい生活を強いられていたそうです。それでも当時はそうした貧乏だとか金持ちだとかそういったものの間に壁はなくみんなで分け隔てなく交流がなされて、よくドラマとかでやっているような貧乏な家だからといって周囲から馬鹿にされるという風景もなければ、今のようにそういった生活水準の差を互いに気にすることもなかったそうです。
そして極めつけが、「かじどん」の話です。
当時のうちのお袋の家は割と裕福で自家用電話もあったそうなのですが、当時は電話器が少なかったことからお袋の周囲の家に用があって外から電話がかけられる際はお袋の家が一旦電話を取り、その周囲の家の人を呼びに言ってつないでいたそうです。それでかじどんの家も電話はお袋の家からの呼び出しではあったものの、お袋の家から離れてて山の中にあったので、お袋は電話が来るといつも山登りをさせられて凄い嫌だったそうです。なのでなんでもってかじどんは山の中に住んでいたんだと私が聞いたら、「そりゃ多分かじどんの職業が泥棒だったからだろ」となんでもないように答えてきました。
別にはっきりとした証拠はないものの、なにか決まった仕事をするわけでもなく生活していたのでお袋を始めとした周囲の家はみんなかじどんは泥棒で、この辺りから盗んだものを売って生活していたのだろうと認識していたそうです。かじどんは泥棒だとわかっていつつも、警察に届け出ることもなく同じ共同体に居続けさせる神経にまず私は驚いたのですが、当時はそうした雑多な雰囲気と言うか、共同体の中でも慣用性が強くあったのだなと思わせられた話でした。
ここで話は現代に戻りますが、ぶっちゃけこれから出かけなくてはならないので急いでまとめてしまいますが、現代は若者同士だとほんのちょっとの収入の差や生活水準の差に非常に敏感になっているように私は思います。言ってしまえばこういうのは気にしなければ気にしないに越したことはなく、もっと距離的な結びつきなどで共同体が成立しないのかといろいろと考えるネタはあるのですが、何よりも私が気になるのは、いつから日本人は現在のレベル位に格差と言うか、他人との生活水準の差を気にするようになったかです。適当に仮説をあげるのなら資本主義が浸透したからとか、逆に社会主義が平等という概念を作ったからだとか、果てには横並びの昇進が日本の企業で行われていたからだとかとも言えますが、「よそはよそ、うちはうち」という位に、何かしらこう割り切らなければならないものもあると思います。
かといって一時期のように「セレブ」という言葉が流行したように、格差を強く意識させるようなマスコミ等の報道には正直辟易してしまいます。結論を一言で言えば、格差を際立たせる、意識させるような外部の情報はあまり人間関係上、よくないものなのではないかということです。
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