本当は昨日に腹をくくって書こうと思っていたのですが、件のFC2の件(まだ解決していない)で書く時間がなくなり今日になってしまいました。
そういうわけで、本連載の折り返し地点でありながら前半の最後を飾る、満州帝国の発足に至らせるために起こされた、近代日本史上でも非常に重要な事件である満州事変を今日は解説します。
既にこれまでの連載で説明しているように、日本は日露戦争後に帝政ロシアが中国から許可を得て経営していた東清鉄道とその鉄道周囲の付属地の権利をそのままを譲り受け、中国東北部において他の列強を排して満州鉄道を大動脈とするほぼ独占的な権益を確保しました。しかし中国東北部こと満州にて大きな権益を握ってはいたもののあくまで保有していた領地は鉄道付属地のみで、世界恐慌の影響を受けて国内でも大きな経済的混乱状態にあった日本政府や日本陸軍はかねてより、この際鉄道付属地だけとは言わずに満州全土を占領するべきという野心を持っていました。
そうした野心はこの満州事変以前にもあり、日本政府や軍は大陸浪人や清朝の再興を願う旧臣などと同床異夢ではありながら協力して満州全土の支配を画策したり、満州地域で力を持った軍閥を応援することで自身の権益の拡大を図ってきました。そんな中で日本陸軍、というよりも満州鉄道の守備隊として設置され、その後対ソ国境部隊としての役割を持ったことから軍備の増強を受け、当時の日本国内で最強との呼び声の高かった関東軍の中では、より強行的に軍事力で持ってねじ伏せて満州支配を実行に移すべきとの意見が支配的になってゆき、そのような考えが初めて目立つ形で実行されたのが前回に取り上げた張作霖爆殺事件でした。
これまで応援してきた仲とはいえ、徐々に関東軍の意向に従わなくなってきていた軍閥の長である張作霖を爆殺してより日本に協力的な人間を担ぎ出そうと実行したこの策でしたが、事態は皮肉にも張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対して一層態度を硬化させただけでなく、当時北伐中の蒋介石に降伏したことで混乱の続いてきた中国が徐々に安定していく兆しを見せる事態とまでなりました。
恐らく当時の関東軍においてはそうして中国が安定を取り戻すことで、日本が満州に進出する機会が徐々に失われていくのではないかという焦燥感があったように私は思えます。そんな状況下で、1928年に満州事変の主役とも言うべき石原莞爾が関東軍に赴任してきたのはある意味皮肉な運命だといえるでしょう。
かねてより自説である最終戦総論にて将来日本がアメリカと戦うために、中国全土の占領と統治が必要だと考えていた石原は上司である板垣征四郎らと密談を重ね、意図的に満州地域を攻撃、占領する口実を作り出した後に清朝最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、満州を中国から切り離す形で傀儡政権を独立させるという計画を編み出しました。
その計画は奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖にて、1932年9月についに実行されました。この柳条湖を通る満州鉄道を関東軍が自ら爆破し、これを張学良軍の仕業と断定して自衛行動として張学良軍を攻撃し、そのまま各都市の占領を一挙に推し進めていきました。これらの行動を関東軍は「自衛行為」という主張で行いましたが実際には一方的な攻撃に過ぎず、本来このような軍事行動は政府、ひいては天皇の認可を受けねば実行してはならないために当時としても明らかな法令違反ではありました。
事実、事件勃発直後に政府は戦線の不拡大方針を取り、後に総理にもなる幣原喜十郎外務大臣も方々に事態の鎮静化を図るも、当時朝鮮に駐屯していた林銑十郎に至っては部隊を勝手に動かして満州へと越境行動を起こすなど、関東軍らは政府らの命令を全く無視したまま軍事行動を拡大していきました。
では何故当時の政府はこうした関東軍の行動を食い止められなかったのかですが、私が一つに考える背景として当時のテロリズムの風潮が政府首脳に二の足を踏ませたからではないかと思います。
五一五事件や二二六事件はこの後の話ですが、満州事変の一年前には浜口雄幸が銃撃されており、さらには満州事変の約半年前には陸軍の橋本欣五郎が三月事件という事件を未遂には終わりましたが計画していました。この三月事件の概要はウィキペディアをみてもらえばわかりますが、陸軍が各政党本部を始め政治家を襲撃した上で軍主導によるクーデターを起こすという内容で、決行直前に陸軍首脳へと計画が漏れたことで計画者らが説得を受ける形で取りやめとなった事件です。
しかしこの三月事件の最大の問題点だったのはなんといっても、クーデターを計画していた橋本欣五郎を始めとした人物らが全く処分されなかったことです。そのため彼らは満州事変に呼応する形で日本国内で首相らを暗殺した上でクーデターを起こすという十月事件を、こちらも決行直前に計画が漏れて今度は憲兵隊によって首謀者らが捕まるなどして中止されはしましたが、同じようなクーデター計画を作られる事態を引き起こしてしまいました。
こうした、政府が意に沿わぬものならテロやクーデターによる強硬手段によって引っくり返してしまえと言わんばかりの強行的な軍の動きが、政府首脳らに満州事変での軍の暴走を抑えるのに二の足を踏ませたのではないかと個人的には思います。どうも十月事件に至っては首謀者たちは元から実行するつもりはさらさらなく、そうした意識を政府首脳に植え付けさせるのが目的だったという説もあったようですし、だとすれば既にこの時点で日本の統治や運営は日本軍に握られかけていたといっても過言ではないでしょう。
こうした日本の動きに対し中国側はどんな対応を取っていたかですが、当初張学良軍は下手に反撃をすればより日本に侵略する口実を与えると考えて一切の対抗手段を取らずにいました。この時の決断について後に張学良氏は、まさか関東軍がその攻撃を満州全土にまで広げるとは考えていなかったと述懐していますが、張学良氏がこう考えるのも無理ではないと私は思えます。それだけこの時の関東軍の行動は一切の法律、果てには当時の世界情勢を無視した暴挙であったからです。
またこの満州事変時、かつて歴史の闇に葬られた男が再び歴史の表舞台に現れております。何を隠そうあの甘粕事件の犯人で、後に満州の夜の帝王と呼ばれることとなる甘粕正彦です。
彼は甘粕事件後に陸軍によって表世界から遠ざけるようにフランスへと留学させられ、事変の前には満州にて陸軍関係者らと関係を作っておりました。そして最初の柳条湖事件が起こるや甘粕正彦は奉天から遠く離れたハルビンにある日本総領事館へ自らの手下を率いて爆弾を投下し、これをまた中国人の仕業として当初南満州のみであった騒動を北満州まで、つまり満州全土に対して関東軍が行動を起こす口実を作っており、日本国内にいた軍人もこの時の甘粕の活躍を高く評価しておりました。
その甘粕は事変が拡大していく中、満州にある湯崗子という地へと1931年11月に訪れます。そしてこの地にて、既に天津を脱出してきていた清朝最後の皇帝の溥儀を迎えることで、中国の歴史上にも大きく名前を残すこととなりました。
続きは次回にて、満州国建国へ過程とともに解説します。
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