ちょっと思うところがあるので、このブログについてアンケートを取ろうと早速アンケートツールを置かせてもらいました。アンケートの内容はこのブログの内容についてで、
1、このブログの文章は長いか短いか
2、どんな内容の記事が楽しみか
この二問です。
まことにお手数ではありますが、もしご協力いただけるのならぽちっと回答ボタンを押して協力していただけないでしょうか。よろしくお願いします<(_ _)>
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年8月4日火曜日
2009年8月3日月曜日
信長に見る決戦の重要性
ほかの人はそうじゃないと思うかもしれませんが、私は織田信長という人物はそれほど戦争が強かった人間だったとは思っていません。むしろ彼の率いた尾張出身の武士団は当時からも「腰抜け侍」と有名だったらしく、実際に後半生はともかく信長の人生の前半では戦争で敗北を重ねることも少なくありませんでした。
それにもかかわらず何故信長は天正期において最大勢力を築けられたのでしょうか。いくら戦国時代だからといって戦争だけで何でも決まるわけでなく、彼が領地に布いた楽市楽座や積極的な人材採用などの画期的な内政が効を奏したとも見ることが出来ますが、私はそれ以上に信長の決戦への嗅覚が強かったことが彼を覇者たらしめたのではないかと考えております。
決戦というとなんかこう戦争の山場という感じばかりしますが、近代以前の戦争を調べているとやはりどこに決戦を持ってくるのかがその勢力の興隆を大きく左右させていたように思えます。例えば市街地における戦闘では遮蔽物や細い路地などが多く、いくら大量の兵隊を率いていたとしても戦場に繰り出せる兵数は限られるため、一日中戦ったところで双方の死傷者が全兵隊数の数パーセントにも満たないで終わることもざらだったそうです。逆に全く遮蔽物のない広い平野においての戦闘になると、それほど戦意があったわけもなく勃発してしまったノモンハン事件のように日本の全部隊の30%以上が死傷するほどの壊滅的打撃を受けるということもありました。
このように同じ一勝や一敗でも、どんな風に勝ってどんな風に負けるのかによって大きく意味合いが異なってきて、言い換えるのなら勝つべくところで勝って負けても平気なところで負けることが戦争において意外に重要だということになります。
私が見る限りまさにそれを体現したのが織田信長と、あと最近私が引用してばっかの曹操です。どちらも一見すると勝ってばっかに見えるのですが、一向一揆との戦いや宛城での戦いなど、細かく見てみると二人とも案外しょっちゅう負けております。しかし彼らは何度も戦争に負けておきながらすぐにまた復活、再起を果たしております。どうして復活ができるのかというと、それはまさに敗北した戦いにおいて彼らが致命的な負け方をしなかったからです。そして彼らが勝った戦いというのは負けた戦いとは対照的に、敵軍に致命的な打撃を与える勝ち方をしているのです。
信長に限って細かく検証すると、桶狭間の戦いは逆転ホームラン的な例外なので除き、浅井家と朝倉家を完膚なきまでに叩いた姉川の戦い、武田家を崩壊へと導いた長篠の戦いなど、ここぞというところでは必ず勝っております。逆に一向一揆との戦いや上杉家との戦闘においては敗北こそしたものの、優秀な武将が討ち取られたり重要な拠点が奪われるという事態は食い止めております。
この様にたとえ九十九敗しても最後の一勝の方が価値が高いと言えるような、重要度の高い戦いにおいて勝つべくして勝つことが出来たのが信長の強さだったと思います。逆に明らかに勝利数こそ多かったものの、国境争いばかりで時間ばかり食っていた武田信玄などは信長の好対照でしょう。
何も戦国に限らず、現代においても私はどこに決戦を持ってくるのかは非常に重要な考え方だと私は見ています。大学受験をがんばらずに就職に強い資格の勉強をしておくとか、株のデイトレードを繰り返してちまちま稼がず長期保有をして大きく値上がりするまで待つとか、局地戦に目を取られずに決戦場を見定めることは一つの才能としてもっと認められるべきでしょう。さしあたって自分の決戦時期はというと、なんかこのごろは案外近いんじゃないかと当て推量をしております。
それにもかかわらず何故信長は天正期において最大勢力を築けられたのでしょうか。いくら戦国時代だからといって戦争だけで何でも決まるわけでなく、彼が領地に布いた楽市楽座や積極的な人材採用などの画期的な内政が効を奏したとも見ることが出来ますが、私はそれ以上に信長の決戦への嗅覚が強かったことが彼を覇者たらしめたのではないかと考えております。
決戦というとなんかこう戦争の山場という感じばかりしますが、近代以前の戦争を調べているとやはりどこに決戦を持ってくるのかがその勢力の興隆を大きく左右させていたように思えます。例えば市街地における戦闘では遮蔽物や細い路地などが多く、いくら大量の兵隊を率いていたとしても戦場に繰り出せる兵数は限られるため、一日中戦ったところで双方の死傷者が全兵隊数の数パーセントにも満たないで終わることもざらだったそうです。逆に全く遮蔽物のない広い平野においての戦闘になると、それほど戦意があったわけもなく勃発してしまったノモンハン事件のように日本の全部隊の30%以上が死傷するほどの壊滅的打撃を受けるということもありました。
このように同じ一勝や一敗でも、どんな風に勝ってどんな風に負けるのかによって大きく意味合いが異なってきて、言い換えるのなら勝つべくところで勝って負けても平気なところで負けることが戦争において意外に重要だということになります。
私が見る限りまさにそれを体現したのが織田信長と、あと最近私が引用してばっかの曹操です。どちらも一見すると勝ってばっかに見えるのですが、一向一揆との戦いや宛城での戦いなど、細かく見てみると二人とも案外しょっちゅう負けております。しかし彼らは何度も戦争に負けておきながらすぐにまた復活、再起を果たしております。どうして復活ができるのかというと、それはまさに敗北した戦いにおいて彼らが致命的な負け方をしなかったからです。そして彼らが勝った戦いというのは負けた戦いとは対照的に、敵軍に致命的な打撃を与える勝ち方をしているのです。
信長に限って細かく検証すると、桶狭間の戦いは逆転ホームラン的な例外なので除き、浅井家と朝倉家を完膚なきまでに叩いた姉川の戦い、武田家を崩壊へと導いた長篠の戦いなど、ここぞというところでは必ず勝っております。逆に一向一揆との戦いや上杉家との戦闘においては敗北こそしたものの、優秀な武将が討ち取られたり重要な拠点が奪われるという事態は食い止めております。
この様にたとえ九十九敗しても最後の一勝の方が価値が高いと言えるような、重要度の高い戦いにおいて勝つべくして勝つことが出来たのが信長の強さだったと思います。逆に明らかに勝利数こそ多かったものの、国境争いばかりで時間ばかり食っていた武田信玄などは信長の好対照でしょう。
何も戦国に限らず、現代においても私はどこに決戦を持ってくるのかは非常に重要な考え方だと私は見ています。大学受験をがんばらずに就職に強い資格の勉強をしておくとか、株のデイトレードを繰り返してちまちま稼がず長期保有をして大きく値上がりするまで待つとか、局地戦に目を取られずに決戦場を見定めることは一つの才能としてもっと認められるべきでしょう。さしあたって自分の決戦時期はというと、なんかこのごろは案外近いんじゃないかと当て推量をしております。
石川遼選手の優勝の陰で
・男子ゴルフ:石川遼絶叫バーディー!泣けた!初の完全V(毎日jp)
昨日最終日が行われたゴルフツアーのサン・クロレラ・クラシックの大会において、かつて私も「最近の見上げた若者について」の記事で文句なしに誉めそやした石川遼選手が見事優勝を飾りました。今大会において石川選手は初日から最終日までトップ順位で大会を引っ張っていき、最終日にオーストラリア出身のブレンダン・ジョーンズ選手に追いつかれるものの最終18番ホールで一打差を離しての劇的な勝利を勝ち取るに至りました。昨日の夜のスポーツ番組ではどこもこぞってこの石川選手の快挙を取り上げていましたが、かつて「ハニカミ王子」というニックネームで呼ばれた初々しい姿はどこ吹く風か、見ているこちら側からしてもこの数年ですっかり風格と貫禄がついてきたと感じさせる堂々たる優勝ぶりでした。
しかしこの石川選手の素晴らしい優勝の陰で、あまり取り上げられなかった残念な事実も昨日のこの大会においてありました。その事実と言うのも、石川選手と最後まで競り合ったブレンダン・ジョーンズ選手へのギャラリーの悪質な行為です。
二人同じ成績にて臨んだ最終18番ホール、石川選手とジョーンズ選手は同じ組でコースを回り、このホールでは二人とも同じ打数でボールをグリーンに乗せました。グリーンの位置は互いに確実にカップを狙える距離ではなく、息詰まる状況下で先にジョーンズ選手がバーディーショットを打ったところ残念ながらボールはカップを外れてしまいました。
するとまさにその時、まるでジョーンズ選手が外したことを喜ぶかのようにギャラリーの中から拍手をする音が聞こえてきたのです。続く石川選手はこの直後に見事一打でカップへボールを入れて同じくギャラリー席から大きな拍手が鳴ったのですが、それだけに先ほどのジョーンズ選手への拍手が私の耳に強く残りました。
・男子ゴルフ:石川遼インタビュー「最後まで戦ったジョーンズに感謝」(毎日jp)
上記のリンクに貼ったニュースでも書かれてある通り、石川選手は優勝後のインタビューにおいて溢れんばかりに涙を流し、その涙の理由について下記の通りに答えています。
「最後の最後まで一緒に戦ってくれたBJ(ジョーンズ)にこれ以上ないぐらい感謝をしたい。勝負に緩みがなかった」
この石川選手の発言について私が見た限りで唯一ジョーンズ選手への心無い拍手を取り上げたフジテレビ系報道番組の「サキヨミ」では、やはりあの拍手を石川選手も気にしたのではないかとナレーションで報じていましたが、これまで石川選手は人前で涙を見せることがほとんどなかったことを考えると私もそうなのではないかと思います。
実は今までニュース報道について私はフジテレビをあまり特別視してこなかったのですが、私の確認する限り他の報道局がどこもこの事実を取り上げない中で昨夜のこの「サキヨミ」だけがこの事実を報道したのを見て、今回大きくフジテレビを見直しました。それとともに石川選手の優勝を祝うのは当然としても、あんなひどい行為が行われても黙っているなんて同じ日本人として非常に残念に思います。
全然関係者でもなんでもなく、ゴルフといったらマリオゴルフしかやったことの無いこの私がここで言うのもあれですが、石川選手とブレンダン・ジョーンズ選手には今回の素晴らしい健闘に対し心からお祝いを申し上げたいと思います。
昨日最終日が行われたゴルフツアーのサン・クロレラ・クラシックの大会において、かつて私も「最近の見上げた若者について」の記事で文句なしに誉めそやした石川遼選手が見事優勝を飾りました。今大会において石川選手は初日から最終日までトップ順位で大会を引っ張っていき、最終日にオーストラリア出身のブレンダン・ジョーンズ選手に追いつかれるものの最終18番ホールで一打差を離しての劇的な勝利を勝ち取るに至りました。昨日の夜のスポーツ番組ではどこもこぞってこの石川選手の快挙を取り上げていましたが、かつて「ハニカミ王子」というニックネームで呼ばれた初々しい姿はどこ吹く風か、見ているこちら側からしてもこの数年ですっかり風格と貫禄がついてきたと感じさせる堂々たる優勝ぶりでした。
しかしこの石川選手の素晴らしい優勝の陰で、あまり取り上げられなかった残念な事実も昨日のこの大会においてありました。その事実と言うのも、石川選手と最後まで競り合ったブレンダン・ジョーンズ選手へのギャラリーの悪質な行為です。
二人同じ成績にて臨んだ最終18番ホール、石川選手とジョーンズ選手は同じ組でコースを回り、このホールでは二人とも同じ打数でボールをグリーンに乗せました。グリーンの位置は互いに確実にカップを狙える距離ではなく、息詰まる状況下で先にジョーンズ選手がバーディーショットを打ったところ残念ながらボールはカップを外れてしまいました。
するとまさにその時、まるでジョーンズ選手が外したことを喜ぶかのようにギャラリーの中から拍手をする音が聞こえてきたのです。続く石川選手はこの直後に見事一打でカップへボールを入れて同じくギャラリー席から大きな拍手が鳴ったのですが、それだけに先ほどのジョーンズ選手への拍手が私の耳に強く残りました。
・男子ゴルフ:石川遼インタビュー「最後まで戦ったジョーンズに感謝」(毎日jp)
上記のリンクに貼ったニュースでも書かれてある通り、石川選手は優勝後のインタビューにおいて溢れんばかりに涙を流し、その涙の理由について下記の通りに答えています。
「最後の最後まで一緒に戦ってくれたBJ(ジョーンズ)にこれ以上ないぐらい感謝をしたい。勝負に緩みがなかった」
この石川選手の発言について私が見た限りで唯一ジョーンズ選手への心無い拍手を取り上げたフジテレビ系報道番組の「サキヨミ」では、やはりあの拍手を石川選手も気にしたのではないかとナレーションで報じていましたが、これまで石川選手は人前で涙を見せることがほとんどなかったことを考えると私もそうなのではないかと思います。
実は今までニュース報道について私はフジテレビをあまり特別視してこなかったのですが、私の確認する限り他の報道局がどこもこの事実を取り上げない中で昨夜のこの「サキヨミ」だけがこの事実を報道したのを見て、今回大きくフジテレビを見直しました。それとともに石川選手の優勝を祝うのは当然としても、あんなひどい行為が行われても黙っているなんて同じ日本人として非常に残念に思います。
全然関係者でもなんでもなく、ゴルフといったらマリオゴルフしかやったことの無いこの私がここで言うのもあれですが、石川選手とブレンダン・ジョーンズ選手には今回の素晴らしい健闘に対し心からお祝いを申し上げたいと思います。
2009年8月2日日曜日
ゲームの中で越えられないジェンダーの壁
先日従兄弟の子供(12歳)と会った際、こんな会話をしてきました。
「おう○○。お前、ドラクエ9持っとるか?」
「持っとるで」
「どないや、おもろいか?」
「おもろいで」
ドラクエ9とは言うまでもなくこの前発売されたばかりの「ドラゴンクエスト9」のことですが、私は持っていませんが(親父はもう買ったらしいが)やっぱりなんだかんだいって現代の子供は遊んでいるそうです。
今回のドラクエ9は聞くところによると3、4と同じく主人公の性別をスタート時に選べるそうですが、私見ながらドラクエシリーズに限らずRPGのゲームはプレイヤー層に男性が多くいるのが影響しているのか、主人公の性別は男性に固定されていることが多いように思えます。もっともその一方でアクションゲームについて言えばこのところは女性主人公に固定されているのが増えてきているように思え、また当初でこそ男性専用ジャンルの感のあった恋愛ゲームも女性向けのタイトルのが逆転してきているのではないかというほど増えてきているように見えます。
別にここでジェンダー論を振りかざすわけじゃありませんが、こうしたゲームの世界の男性と女性という二つの性別の立ち位置などに社会的背景、影響というものが時代ごとに表出しているのではないかと私は見ています。単純に現代のゲームにおいて女性主人公が増えてきてのも現実の影響じゃないかと言いたいのですがその一方、もう一つの第三の性についてはさすがにまだ主人公キャラででてくるのはあまり見受けられません。この第三の性と言うのはもうわかってるでしょうが、いわゆる同性愛者のことです。
それこそRPGゲームのスタート時の性別選択が、「ハードゲイ」と「ソフトゲイ」の二択しかないゲームなんてまず無いでしょうし、あったとしてもキャッチフレーズが昔のテイルズみたいに「君と響きあうRPG」とか言ったら一体何と響きあうのかいらない想像とかしてしまいます。別にこういうゲームを期待しているわけじゃありませんが、近年の女性の社会進出が昔には考えられなかったことを考えると、いつかは出てくるのかなぁとこの前にしみじみと考えてしまいました。
「おう○○。お前、ドラクエ9持っとるか?」
「持っとるで」
「どないや、おもろいか?」
「おもろいで」
ドラクエ9とは言うまでもなくこの前発売されたばかりの「ドラゴンクエスト9」のことですが、私は持っていませんが(親父はもう買ったらしいが)やっぱりなんだかんだいって現代の子供は遊んでいるそうです。
今回のドラクエ9は聞くところによると3、4と同じく主人公の性別をスタート時に選べるそうですが、私見ながらドラクエシリーズに限らずRPGのゲームはプレイヤー層に男性が多くいるのが影響しているのか、主人公の性別は男性に固定されていることが多いように思えます。もっともその一方でアクションゲームについて言えばこのところは女性主人公に固定されているのが増えてきているように思え、また当初でこそ男性専用ジャンルの感のあった恋愛ゲームも女性向けのタイトルのが逆転してきているのではないかというほど増えてきているように見えます。
別にここでジェンダー論を振りかざすわけじゃありませんが、こうしたゲームの世界の男性と女性という二つの性別の立ち位置などに社会的背景、影響というものが時代ごとに表出しているのではないかと私は見ています。単純に現代のゲームにおいて女性主人公が増えてきてのも現実の影響じゃないかと言いたいのですがその一方、もう一つの第三の性についてはさすがにまだ主人公キャラででてくるのはあまり見受けられません。この第三の性と言うのはもうわかってるでしょうが、いわゆる同性愛者のことです。
それこそRPGゲームのスタート時の性別選択が、「ハードゲイ」と「ソフトゲイ」の二択しかないゲームなんてまず無いでしょうし、あったとしてもキャッチフレーズが昔のテイルズみたいに「君と響きあうRPG」とか言ったら一体何と響きあうのかいらない想像とかしてしまいます。別にこういうゲームを期待しているわけじゃありませんが、近年の女性の社会進出が昔には考えられなかったことを考えると、いつかは出てくるのかなぁとこの前にしみじみと考えてしまいました。
2009年7月30日木曜日
映画「ウォルター少年と、夏の休日」について
・ウォルター少年と、夏の休日(ウィキペディア)
この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。
そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。
主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。
というようなお話です。
話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。
ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。
子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。
今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。
この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。
そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。
主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。
というようなお話です。
話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。
ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。
子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。
今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。
三国志の主人公は誰だ?
三国志の主人公が誰なのかと聞いたら、恐らく大半の人は劉備玄徳だと答えるでしょう。しかしこの三国志、読んでみると分かりますが前半に至っては劉備の出番は非常に少なくむしろ曹操が主人公なんじゃないかと思うくらいに彼のことばかり書かれています。それでも中盤になってくると劉備とその軍団の描写が完全に中心になるのですが、後半に入るところで劉備は死んでしまい、バトンタッチとばかりにそれからは諸葛亮がほぼ主人公として描かれていきます。
後半の諸葛亮へのバトンタッチは劉備が死んじゃうのでまだわかるにしても、何故前半部は劉備ではなく、それも本来善玉の劉備の敵役となるべき悪玉の曹操の記述が多いかですが、これはひとえに実際の歴史が深く影響しております。
三国志は後漢王朝が滅び始めるところから中国が三国に分裂した三国時代へと移り、最後に晋という次の統一王朝へと移るまでのお話です。その晋は三国のうちの魏、曹操の一族が建国した国を母体として成立した国家で、王朝の移り変わりで見るならば統一こそしていないものの歴史的には魏が正統な王朝として現在でも扱われております。
ところが三国志は小説として成立する以前から講談家が話を大衆に聞かせると、どんなところでも劉備に人気が集まって曹操は逆に不人気だったそうです。そのため三国志の作者の羅貫中は敏感に空気を読んで劉備を主人公に、蜀を正統な王朝のようにして話を組み立てたのですが、それだと最後まで貫き通した場合にはやっぱり実際の歴史との間に無理が出てきてしまうため、後漢末の群雄割拠だった時代からやや勢力がまとまって華北をほぼ曹操が統一するまでは曹操が主人公かのように描かれたのだろうと各評論家より言われております。
そういう意味では三国志の前半においてはその登場数といい、明らかに曹操が主人公としてだということになります。私の見方では始まりから官渡の戦いまでの前半部の主人公は曹操で、官渡の戦い後から劉備が大敗する夷陵の戦いまでの中盤の主人公が劉備で、劉備の死からその本人が死ぬまでの後半部の主人公が諸葛亮だと考えております。ちょっと下にまとめると、
前半:始まり~官渡の戦い
主人公:曹操
中盤:官渡の戦い~劉備の死
主人公:劉備
後半:劉備の死~諸葛亮の死
主人公:諸葛亮
エピローグ:諸葛亮の死~終わり
主人公:該当者なし
という具合に見ております。
ちなみにこれは話を大まかに三つに分けていますが、前半後半の二つに分けるとしたらちょうど中間点に当たる場面はこの前やってた「レッドクリフ」の「赤壁の戦い」だと思います。
三国志は話全体で見れば確かに劉備が主人公として描かれているのですが、前半部の主人公なだけあって曹操も敵役でありながらむしろりりしく描かれている場面も少なくありません。一見すると冷酷で酷薄な性格に見える曹操ですが(実際にそうなんだけど)、不思議と彼の元にやってきた武将らはほとんどと言っていいほど彼を裏切っていません。典偉や許猪はもとより、賈詡や張遼といったそれまで何度も主君を変えている人間も曹操の下では最後まで忠節を尽くしております。
また曹操が一時関羽を部下にした際も関羽へ異常なくらいに愛情を注ぎ、彼が辞去する際には最初こそ別れの挨拶をしようとする関羽との面会を断って暗に引きとめようとしたものの、
「一国の宰相として、君を快く送ってやろうとしなかったのを恥ずかしく思う」
と述べて、最終的には追っ手も出さずに彼を劉備の元へ走らせております。
恐らく日本人からしたら冷酷な一方で清々しいまでのさわやかさを持つ曹操のこの二面性がたまらないのだと思います。私自身も曹操贔屓の人間ですが、中国人には前にも言いましたがこれでもないかと言うくらいに嫌われております。単純な当て推量ですが、日本人には魅力的に映る曹操の二面性は逆に中国人には嫌悪の対象なのかもしれません。それだともし三国志が日本で小説ととして成立していたら、曹操が主人公で劉備が敵役になっていたのかもしれません。その場合だと諸葛亮と司馬懿のキャラも立ち変わるのかな、お互いにビームを撃てるのは共通してるけど。
後半の諸葛亮へのバトンタッチは劉備が死んじゃうのでまだわかるにしても、何故前半部は劉備ではなく、それも本来善玉の劉備の敵役となるべき悪玉の曹操の記述が多いかですが、これはひとえに実際の歴史が深く影響しております。
三国志は後漢王朝が滅び始めるところから中国が三国に分裂した三国時代へと移り、最後に晋という次の統一王朝へと移るまでのお話です。その晋は三国のうちの魏、曹操の一族が建国した国を母体として成立した国家で、王朝の移り変わりで見るならば統一こそしていないものの歴史的には魏が正統な王朝として現在でも扱われております。
ところが三国志は小説として成立する以前から講談家が話を大衆に聞かせると、どんなところでも劉備に人気が集まって曹操は逆に不人気だったそうです。そのため三国志の作者の羅貫中は敏感に空気を読んで劉備を主人公に、蜀を正統な王朝のようにして話を組み立てたのですが、それだと最後まで貫き通した場合にはやっぱり実際の歴史との間に無理が出てきてしまうため、後漢末の群雄割拠だった時代からやや勢力がまとまって華北をほぼ曹操が統一するまでは曹操が主人公かのように描かれたのだろうと各評論家より言われております。
そういう意味では三国志の前半においてはその登場数といい、明らかに曹操が主人公としてだということになります。私の見方では始まりから官渡の戦いまでの前半部の主人公は曹操で、官渡の戦い後から劉備が大敗する夷陵の戦いまでの中盤の主人公が劉備で、劉備の死からその本人が死ぬまでの後半部の主人公が諸葛亮だと考えております。ちょっと下にまとめると、
前半:始まり~官渡の戦い
主人公:曹操
中盤:官渡の戦い~劉備の死
主人公:劉備
後半:劉備の死~諸葛亮の死
主人公:諸葛亮
エピローグ:諸葛亮の死~終わり
主人公:該当者なし
という具合に見ております。
ちなみにこれは話を大まかに三つに分けていますが、前半後半の二つに分けるとしたらちょうど中間点に当たる場面はこの前やってた「レッドクリフ」の「赤壁の戦い」だと思います。
三国志は話全体で見れば確かに劉備が主人公として描かれているのですが、前半部の主人公なだけあって曹操も敵役でありながらむしろりりしく描かれている場面も少なくありません。一見すると冷酷で酷薄な性格に見える曹操ですが(実際にそうなんだけど)、不思議と彼の元にやってきた武将らはほとんどと言っていいほど彼を裏切っていません。典偉や許猪はもとより、賈詡や張遼といったそれまで何度も主君を変えている人間も曹操の下では最後まで忠節を尽くしております。
また曹操が一時関羽を部下にした際も関羽へ異常なくらいに愛情を注ぎ、彼が辞去する際には最初こそ別れの挨拶をしようとする関羽との面会を断って暗に引きとめようとしたものの、
「一国の宰相として、君を快く送ってやろうとしなかったのを恥ずかしく思う」
と述べて、最終的には追っ手も出さずに彼を劉備の元へ走らせております。
恐らく日本人からしたら冷酷な一方で清々しいまでのさわやかさを持つ曹操のこの二面性がたまらないのだと思います。私自身も曹操贔屓の人間ですが、中国人には前にも言いましたがこれでもないかと言うくらいに嫌われております。単純な当て推量ですが、日本人には魅力的に映る曹操の二面性は逆に中国人には嫌悪の対象なのかもしれません。それだともし三国志が日本で小説ととして成立していたら、曹操が主人公で劉備が敵役になっていたのかもしれません。その場合だと諸葛亮と司馬懿のキャラも立ち変わるのかな、お互いにビームを撃てるのは共通してるけど。
2009年7月29日水曜日
北京留学記~その八、北京の歴史
今日は簡単に、北京の都市としての歴史を紹介します。
現在でこそ中華人民共和国の首都として名だたる国際都市の一つとなっている北京ですが、中国史の大部分においては一地方都市としてであった時代の方がずっと長くありました。都市として成立したのは紀元前の春秋戦国時代で、当時の燕国の首都として成立したのが初めてでした。その当時の北京は「薊」という名称でしたがその次の秦の時代になると「北平」(発音はペイピン)と変わり、しばらくはその名で主に北方の対異民族部隊の中心基地のような役割でその後数世紀を経たところ、その当の対抗相手の異民族であるモンゴル民族が建てた元の時代になると「大都」と改名された上、歴史上初めて中国の首都となりました。その後、何度も壊されてはいますが、現在の紫禁城も元の時代に作られています。
そして元の次の王朝である明の時代になると成立当初は首都は南京へと移ったのですが、なんとも皮肉というか、初代皇帝が逝去して二代目皇帝の時代に入るや北平にいた皇族がクーデターを起こして政権を奪い、明の三代目皇帝として即位したのです。この皇帝は「永楽通宝」で日本でも有名な「永楽帝」なのですが、彼は即位後に首都を南京から自分の本拠地へ移し、その際に「北平」という名を「北京」に初めて改名したのです。その明が滅んだ後もの清の時代も引き続き北京は首都として置かれ、現在にまで引き続かれております。
なお現在の北京の都市としてのデータはというと面積は日本の四国程の広さで、人口は東京都の在住人口とほぼ同じ1300万人だそうです。
余談ですが台湾に政府のある中華民国では首都は「南京」としており、大陸の中華人民国政府も台湾を「台湾省」として一地方だとそれぞれ勝手に主張しあっています。
現在でこそ中華人民共和国の首都として名だたる国際都市の一つとなっている北京ですが、中国史の大部分においては一地方都市としてであった時代の方がずっと長くありました。都市として成立したのは紀元前の春秋戦国時代で、当時の燕国の首都として成立したのが初めてでした。その当時の北京は「薊」という名称でしたがその次の秦の時代になると「北平」(発音はペイピン)と変わり、しばらくはその名で主に北方の対異民族部隊の中心基地のような役割でその後数世紀を経たところ、その当の対抗相手の異民族であるモンゴル民族が建てた元の時代になると「大都」と改名された上、歴史上初めて中国の首都となりました。その後、何度も壊されてはいますが、現在の紫禁城も元の時代に作られています。
そして元の次の王朝である明の時代になると成立当初は首都は南京へと移ったのですが、なんとも皮肉というか、初代皇帝が逝去して二代目皇帝の時代に入るや北平にいた皇族がクーデターを起こして政権を奪い、明の三代目皇帝として即位したのです。この皇帝は「永楽通宝」で日本でも有名な「永楽帝」なのですが、彼は即位後に首都を南京から自分の本拠地へ移し、その際に「北平」という名を「北京」に初めて改名したのです。その明が滅んだ後もの清の時代も引き続き北京は首都として置かれ、現在にまで引き続かれております。
なお現在の北京の都市としてのデータはというと面積は日本の四国程の広さで、人口は東京都の在住人口とほぼ同じ1300万人だそうです。
余談ですが台湾に政府のある中華民国では首都は「南京」としており、大陸の中華人民国政府も台湾を「台湾省」として一地方だとそれぞれ勝手に主張しあっています。
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