ほかの人はそうじゃないと思うかもしれませんが、私は織田信長という人物はそれほど戦争が強かった人間だったとは思っていません。むしろ彼の率いた尾張出身の武士団は当時からも「腰抜け侍」と有名だったらしく、実際に後半生はともかく信長の人生の前半では戦争で敗北を重ねることも少なくありませんでした。
それにもかかわらず何故信長は天正期において最大勢力を築けられたのでしょうか。いくら戦国時代だからといって戦争だけで何でも決まるわけでなく、彼が領地に布いた楽市楽座や積極的な人材採用などの画期的な内政が効を奏したとも見ることが出来ますが、私はそれ以上に信長の決戦への嗅覚が強かったことが彼を覇者たらしめたのではないかと考えております。
決戦というとなんかこう戦争の山場という感じばかりしますが、近代以前の戦争を調べているとやはりどこに決戦を持ってくるのかがその勢力の興隆を大きく左右させていたように思えます。例えば市街地における戦闘では遮蔽物や細い路地などが多く、いくら大量の兵隊を率いていたとしても戦場に繰り出せる兵数は限られるため、一日中戦ったところで双方の死傷者が全兵隊数の数パーセントにも満たないで終わることもざらだったそうです。逆に全く遮蔽物のない広い平野においての戦闘になると、それほど戦意があったわけもなく勃発してしまったノモンハン事件のように日本の全部隊の30%以上が死傷するほどの壊滅的打撃を受けるということもありました。
このように同じ一勝や一敗でも、どんな風に勝ってどんな風に負けるのかによって大きく意味合いが異なってきて、言い換えるのなら勝つべくところで勝って負けても平気なところで負けることが戦争において意外に重要だということになります。
私が見る限りまさにそれを体現したのが織田信長と、あと最近私が引用してばっかの曹操です。どちらも一見すると勝ってばっかに見えるのですが、一向一揆との戦いや宛城での戦いなど、細かく見てみると二人とも案外しょっちゅう負けております。しかし彼らは何度も戦争に負けておきながらすぐにまた復活、再起を果たしております。どうして復活ができるのかというと、それはまさに敗北した戦いにおいて彼らが致命的な負け方をしなかったからです。そして彼らが勝った戦いというのは負けた戦いとは対照的に、敵軍に致命的な打撃を与える勝ち方をしているのです。
信長に限って細かく検証すると、桶狭間の戦いは逆転ホームラン的な例外なので除き、浅井家と朝倉家を完膚なきまでに叩いた姉川の戦い、武田家を崩壊へと導いた長篠の戦いなど、ここぞというところでは必ず勝っております。逆に一向一揆との戦いや上杉家との戦闘においては敗北こそしたものの、優秀な武将が討ち取られたり重要な拠点が奪われるという事態は食い止めております。
この様にたとえ九十九敗しても最後の一勝の方が価値が高いと言えるような、重要度の高い戦いにおいて勝つべくして勝つことが出来たのが信長の強さだったと思います。逆に明らかに勝利数こそ多かったものの、国境争いばかりで時間ばかり食っていた武田信玄などは信長の好対照でしょう。
何も戦国に限らず、現代においても私はどこに決戦を持ってくるのかは非常に重要な考え方だと私は見ています。大学受験をがんばらずに就職に強い資格の勉強をしておくとか、株のデイトレードを繰り返してちまちま稼がず長期保有をして大きく値上がりするまで待つとか、局地戦に目を取られずに決戦場を見定めることは一つの才能としてもっと認められるべきでしょう。さしあたって自分の決戦時期はというと、なんかこのごろは案外近いんじゃないかと当て推量をしております。
2 件のコメント:
なるほど、確かにうなずける話ですね。僕も、信長も曹操も戦では無敵ということはないと思います。信長は花園さんのおっしゃるように、長島では負けまくってたわけだし。曹操は袁紹には結構苦戦したみたいだし。
決戦場を見極めることは、確かに重要ですね。 僕は、大学受験の勉強はあまりやりませんでしたが、就職にむけての大学の勉強と面接対策は真剣にやったつもりです。
花園さんは決戦時期が近いとおっしゃてますが、何かされるおつもりですか?
自分もある意味好きな職業に就くために14歳からずっと文章を書いてきましたが、周り回ってこのブログが続けられるあたりは大敗北は免れたのかなと思ってます。
自分の決戦時期というのは非常に私的な話です。やっぱり叔父が死んでいろいろと悩むことが増えて、以前の悩みをぶり返してそろそろ死ぬべき時期なんじゃないかなぁと思いながら、死ぬ前にあれだけはやってこうかなぁと現在堂々巡りさせています。
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