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2009年12月31日木曜日

北京留学記~その三一、帰国後

 どうにかこうにかでこの北京留学記も最後の記事です。
 約一年間の留学を終えて私が日本に帰ってきたのは2006年7月15日でした。成田空港に着く前には何か感慨などがあるかと思いましたが実際に何もなく、帰国して三日目には早くも京都へ向かって新たな下宿を探しに行くなど忙しかったのを憶えています。
 その後旧知の知り会いとなどと会うと毎回の如く聞かれたのは中国における反日運動についてで、日本人もこういうところが一番期になっているのだと言う気がしました。

 留学以前と以後で自分に起こった変化といわれると、まず真っ先に思い浮かぶのは相撲を見るようになった点でしょう。留学以前は全く相撲など見ることのなかった私が今や場所のある時期はテレビにくっついて取り組みを確認し、実際に国技館にも足を運ぶほどとなってしまいました。
 そうした相撲というような趣味が広がる変化の一方、あまりよくない変化と言えるのは昼寝の習慣です。一日の過ごし方のところで触れていますが、授業が午前で終わるものだから毎日午後は昼寝をする癖がつき、現在に至っても休日は二時から三時くらいまでは昼寝をするようになっております。いくら昼寝をしても、夜も眠れるというのだからなぁ……。

 こうした点を踏まえてこの私の中国への留学を振り返ると、この時期に留学をしたということをなによりも強く感じます。ちょうど中国語の需要が高まっていく中、日本の中で中国の存在感が高まっていく中、そして北京オリンピックが行われる前のあの時期に留学を行ったと言う事は、恐らく後年になればなるほど価値が高まるような気がします。現在の所私は直接的に中国と関わる事はまだ少ないですが、これもまた今後の話となるとわからず、また中国と関わる環境に変わることがあれば、この時期に留学をしたものゆえの感覚のようなものがはっきりと出てくるのではないかと思います。

 最後に、これはあくまで私の感覚なのですが、私は今に至るまで2005ねんと2006年の区別が曖昧なところがあります。ちょうどこの二つの年に跨って留学を行ったが故というか、2006年のサッカーWカップが2005年にあった日本の事件らと時間的に一致しているとよく誤解する事があります。
 一体何故この様な感覚になったのか、結論を言えば私が中国に行った一年間という時間がそのまま日本で生まれ育って生活した時間とは独立して存在しているのが原因かと思われます。この様に考えた事がきっかけとなり、もう随分と放置している「時間の概念」の連載にて話している話題につながってくるわけです。

2009年12月27日日曜日

北京留学記~その三十、南方旅行三日目

 この南方旅行も三日目、最終日の記事となりました。

 前日に簡易宿泊所に泊まっており、朝八時の便で上海に向かう事となっていたために起きるとともにすぐに部屋を出ました。床には昨夜同様にびっしりと宿泊者が雑魚寝しており、そろりそろりとよけて出口へ向かう途中、ソファーの上で寝ていた宿泊所の経営者らしき男性が私の気配に目を覚ましたので、「もう出発なんだ」と小さな声で伝えると、向こうも軽く会釈で返してきました。

 早朝の南京は日本と同じく非常に静かで、駅構内も昼間の喧騒はどこ行ったのかと思うくらいに閑静なものでした。あまりにも閑静すぎて、朝食を買おうと思っていた売店すらも開いてないし……。さりげなく書き進めていますが、この旅行中に口に入れたものは本当に少なかったです。

 そのまま朝食を抜いてプラットフォームで待って時間通りの列車に乗り込み、予約していた座席もなにも問題なく座れて移動においてスムーズに事は運びました。以前にイギリスでロンドンからウェストミンスターへ行った時は予告なしで何度も乗り換えさせられた挙句に道に迷い、死ぬ思いでたどり着いたのと比べると全然マシでした。
 列車の中では日本の新幹線よろしく売り子があれこれ持ってきて車両を移動していたので、カットフルーツを買ってそれを食べましたが、この後にお腹を下すのですがもしかしたらこの時の果物がよくなかったのかもしれません。

 そんな南京から上海までの列車での移動時間は確か三時間程度だったと思います。その間、それこそ日本の新幹線のような座席の上で座りながら外の風景を眺めていたのですが、席を立ってトイレに行く途中、デッキの壁に貼り付けられた紙に、

「文明人は唾を吐かない」

 と、中国語で書かれていました。書かなきゃだめなのか?

 少し話が脱線しますが、日本人からするとちょっと驚いてしまう妙な注意書きは中国ではあちこちに貼られております。有名どころだと天安門前の故宮入場チケット売り場には、「文明人なら行列にちゃんと並べ」と貼ってあるように、何かと「文明人」という言葉が注意に多用されております。

 これら注意書きの表記は決して中国人が文明人ではないというわけではなく、私は民族性の違いだと考えております。私が思うに中国人は何か相手の行動を制限する際、自分たちのプライドが高いことをわかって相手のプライドに訴えかける傾向がある気がします。それに対して日本人は自分達の空気を読む力を逆手にとって、相手の共感に訴えかける傾向があり、「みんな見ているぞ、ごみの不法投棄」といった注意書きや、母親が子供に注意する際に、「こんなことされると、お母さん悲しいよ」と言うのにつながってくるかと思います。

 話は旅行の話に戻り、短い列車の旅を終えて上海駅に着くと、まずビックリしたのが人の多さでした。駅のチケット売り場ともなるとそれこそ人でごった返すという光景そのもので、人ごみを掻き分けどうにか帰りの北京行きの夜行列車のチケットを購入すると、その日半日の上海観光に乗り出しました。

 まず最初に上海限らずどこにもあるチェーン店の「永和大王」というファーストフード店で昼食を取り、その後地下鉄にて上海博物館を見に行きました。その際に利用した地下鉄ですが、こちらは当時出来たばかりということで北京の地下鉄と比べると断然に綺麗でおしゃれな列車で、しかも北京は手で千切る昔からの切符に対して上海では日本同様に磁気切符による自動改札となっており、日本では珍しくないものの何故かこの時の私は興奮してしまいました。

 そうして地下鉄を乗り継ぎ上海博物館へと訪れましたが、まずここで驚いたのは自分に学生割引が適用された事でした。私は留学前にISICという国際学生証を作って持ってきていたのですが、北京の故宮では本科の学生は入場料が割引されるのに対し、この国際学生証を見せても何の役にも立たず結局正規料金を払うこととなったのですが、上海ではいい意味で外国人慣れしているのか、この国際学生証で入場料を割引してもらいました。
 それで肝心の博物館の中身ですが、まぁ好みに寄るとは思いますけど、ね。

 そんなわけで早々に博物館を出ると、次に上海で一番の繁華街と言われる南京路へと向かってみました。着いて早々これまたまず驚いたのが、左右に立ち並ぶ数多くの外資系外食チェーンの山でした。北京にも吉野家やイトーヨーカドーはありましたが、はっきりいってこちらも比べ物にならないほど日本に限らず数多くの外資系チェーンが軒を連ねており、さらに驚かされたのがそれらの店の中の値札でした。

「値札が四桁?(;゚Д゚)」

 四桁、つまり1000元(約15000円)以上の商品が普通に店舗内に溢れているのにまず面食らいました。北京でも高級品を扱う店なら珍しくはありませんが、上海では本当にそこらへんにあるようなブティックでこんな値段の商品があるというのだから、正直目を疑いました。なお私は北京で400元(6000円)のコートにも高いと憤慨したほどです。

 こうした中国国内の格差に驚きつつ、再び人でごった返す南京駅に戻って帰りの列車を待つ事にしたのですが、ここでもまた失敗をやらかしてしまい、駅の中にある売店にはサンドイッチくらいはあるだろうと踏んでいたところ、売店はあったもののそこにはちゃんとした食べ物がまたしても売っていませんでした。しかもすでにチケットを切って校内に入っているからもう外には出られず、泣く泣くカップケーキを一つ買って、それを夕食だと思い込みながら食べて列車に乗り込みました。前日の南京といいこの日といい、両日とも昼食を一家いつずつしか取らないイスラム教徒もビックリな粗食っぷりでした。

 その後乗り込んだ帰りの列車では前回にも取り上げた青島のサラリーマンと同乗することになり、彼からあれこれ情報を得るが出来ました。なおその時に得た情報の補足になりますが、その青島のサラリーマンに、現在中国で一番羽振りのいい業種は何かと聞いたところ下記のような答えが返って来ました。

「北京の中関村は知っているだろう。あそこで働いているやつらだ」

 中関村というのは中国の秋葉原と言っていい北京における最大の電気街で、要するにIT関係の業種が一番羽振りがいいと教えてくれました。すでにこの証言から四年近く経っておりますが、大勢では大きく代わりがないと今も考えております。これまた前回に取り上げている、私と接したNECの社員などはいわゆる勝ち組なのでしょう。

 こんな具合で合計一泊四日の旅は北京に朝早くに戻ることで終わりましたが、今考えても無理しすぎであったと思います。唯一まだまともな判断だったのは行きと帰りの列車に、一等客室の「軟臥」を選んだことだと思います。それにしてもいくらまだ中国語に自信がなかったとはいえ、旅行の間に取った食事はたった二回の昼食だけだったというのも情けない話です。
 ちょうどこの旅行は留学開始から半年後に行ったのですが、私の中国語もこの後から急激に前進が見られてきたので、もうすこし時期を待ってから行っていれば又違っていたように思えます。まぁだからこそ、こんな変な旅行記が書けるのですが。

2009年12月26日土曜日

北京留学記~その二九、南方旅行二日目

 前日の夜行列車は朝早くに南京に到着し、乗っていた私も無事に列車を降りる事が出来ました。時間は確か朝の六時とかなりの早朝で、それほどおなかはすいていなかったので自販機でコーラだけ買って朝食代わりに飲みました。
 この南京へは南京大虐殺の記念館を見る以外はこれといってあらかじめ見に行く目的物はなかったのですが、北京にて購入していた旅行ガイドブックを参考にしながらまずは辛亥革命の立役者である孫文の眠る山へと訪れる事にしました。ちなみにこの孫文は中国では「孫中山」とよく呼ばれているのですが、この中山という名前は彼が日本にて活動していた際に使っていた偽名の「中山悟」から取られております。恐らく、日本人も中国人もあまり知らないと思う由来でしょうが。

 それで早速その孫文の眠る山へと向かおうとしたのですが、地図で見るとそれほどでもない距離に見えたので歩いていこうと思ったのが運の尽き、やけに距離があった上に近くの天文観測所のある山を間違えて登ってしまうなどとんでもなく回り道をしてしまいました。あとくだらない事ですが、この道すがらなぜか道路の上に壊れたマネキンが捨てられていて妙に怖かったのを憶えています。
 また先ほど山に登ったと書きましたが、中国は日本と違って内陸部ならまだしも海岸部の都市の山はどれも低く、日本で言えば丘程度の高さです。それでも疲れる事は疲れますが。

 そんな風にして最終的には孫文の墓があると言う目的の山の前まで来たものの、すでに10キロ近くを朝っぱらから歩いていて疲れてしまい、もうどうでもいい気になって結局そっちは登らずに通り過ぎて、そこでタクシーを拾って次の目的地の「太平天国博物館」へ向かうことにしました。最初にケチるからこうなるんだろうな。

 その次の目的地の「太平天国博物館」ですが、これは太平天国の乱という、19世紀の中国で起こった反乱の歴史についていろいろとまとめた博物館です。そもそもの太平天国の乱はというのは日本史で言えば黒船来航に匹敵する中国近代史の始まりとされる事件で、後の清朝崩壊の最初のきっかけであったと現在評価されております。事件の内容はキリスト教主義を掲げる拝上帝会(=太平天国)の洪秀全が起こした反乱で、一時は南京を含む南方の主要都市を制圧したもののその後は内部分裂を起こして清朝に制圧されたという事件のことです。なおこの鎮圧には義勇軍らが活躍し、その義勇軍を率いた者の中には下関条約締結時の清朝代表を務めた李鴻章がおります。あと現在「LIAR GAME」が売れている漫画家の甲斐谷忍氏は過去にこの事件を題材に取った「太平天国演義」という漫画を描いていますが、こちらは途中で雑誌が廃刊して未完のままです。

 話は戻ってその博物館ですが、恐らく当時の屋敷跡を使っているのか非常に趣のある建物で、中庭など今でもその情景をよく覚えております。展示物も中国語と英語の説明書きとともに程よく揃っており、もしこれから南京に訪れる予定がある方にはぜひともお勧めのスポットです。
 細かいことについてはこれ以上特段記す事は少ないのですが、太平天国の乱の終結時を説明しているパネルにて当時の知識人たちの太平天国に対する見方という欄が用意されており、そこで孫文が語った内容として以下のように記されていました。

「彼らは理想に邁進している時は一致団結して事に当たっていたが、いざ理想が現実と化して来るとそれぞれが欲を出し、持分を奪い合ったことがその身を滅ぼすこととなった」

 なかなか含蓄に深い内容に思えてわざわざメモを取っていたわけなのですが、実際に組織というのは目標や理想が遥か彼方にあるときは夢に燃えていられるが、夢が現実に近づくと内部抗争が始まったりする事は少なくない。日本史だと信長亡き後の織田家がこの例に当てはまるが、中国史だと本当にこういうのばっかでいちいち例を挙げてられない。

 その後、博物館近くの食堂にて昼食を取り、メインイベントとなる南京大虐殺の記念館へ向かってタクシーに乗り込みました。着いてみてから気がつきましたが、この博物館がある場所は中心部から大分はずれておりあたり一体は全部更地で、なんとなくウェスタンな気分にさせられました。

 そんなこんなしながら入り口へと行ってみるとなんと入場はタダでした。言っては悪いですが、こういうことは中国では珍しいです。
 それでこの施設ですが、当初私は南京大虐殺の博物館のような場所を想像していたのですが、実際には博物館と言うよりは慰霊所であり、風の吹き抜ける広々とした場所にデザインの凝った建築物がいくつか点在しておりました。そうした建築物の中の一つに人骨の発掘現場の上にガラスをそのまま張ったものがあり、生前にどのように殺されたのか人骨ごとに事細かに説明書きがありました。またこの記念館にこれまでやってきた要人の写真も一覧にされて展示されており、その中には日本の旧社会党の議員らも入っていました。まぁ行くのは勝手ですけど。

 そんな記念館を後にすると私はまたタクシーに乗って、南京駅へと一旦戻りました。この南京市に限らず中国は街自体がとてつもなく広くて観光地が同じ都市の中でもえらく離れている事は珍しくありません。日本の京都なんかは狭い場所にいくつも観光地が密集していて非常に周りやすくていいのですが、中国を旅行する上でこういった点はあらかじめ留意しておく必要があるでしょう。

 南京駅に戻った私はその日は早めに宿を取ってから夕食にして、次の日早朝にすでに上海行きの切符を取っていたので早くに休もうと考えて、宿を探す事にしました。それで早速駅前にある中国の郵便局が一緒に経営しているような簡易宿泊所に行って部屋は空いているかと聞いたところ、私の不自然な発音に相手がすぐに反応して外国人は泊まれないよと先に断ってきました。私と大学寮にて相部屋だったドゥーフェイもかつてスケート場に入ろうとした所を外国人故に断られたといっており、事があり、レイシズム(=民族主義は最低の思想だとお互いに非難しあった事がありましたが、ひょんなことからこの時自分も経験する事になりました。

 最初に入った宿で断られてとぼとぼと外に出てみると、宿を探しているのかと呼び込みのおばさんにいきなりつかまえられました。値段を聞いてみると一人一泊40元とのことで、せっかくの機会だから最低レベルの宿泊所を体験したいと考えていたのもあり、渡りに船と思いおばさんに言われるまま止められていた車に乗り込んで、本音ではあまり望ましくなかったものの駅前から少し離れた宿泊所へと向かいました。

 その宿泊所は表向きは悪くなさそうな感じで、入ってみるや私と一緒についてきたおばさんが、「100元払えばすごくいい部屋になるんだけど」と、多少は覚悟していた足元を見た売込みががやはり来た。だがそれでも私は40元でと押し、そしたら今度は60元だとまた違うなどとしつこく食い下がられて結局その60元の部屋を取ることに決めました。

 恐らくここがこの旅行の一番のハイライトなのですが、その案内された60元の部屋は暖房つきという触れ込みだったものの、暖房は確かにあるのですが窓枠が壊れてて、どんなに頑張ってもきちんと窓が閉まらなくて寒風が常に吹き荒ぶ部屋でした。時期も一月、中国南方といえども気温は昼間で摂氏一度前後。しかもよく調べてみると備えつきのシャワー、トイレはえらく汚く、なおかつトイレは水を流そうとしても流れない。

 これも一つの経験だなどと無理に自分を言い聞かせて夕食まで少し仮眠をとろうと布団に入ったのですが……どれだけ布団にいても無限に体温が奪われる一方でした。まだ中国語が不慣れながらもさすがに言うべきことは言おうとフロントへと文句を行った所、フロントの女性が私と一緒にその部屋へ来て何を言うかと思ったら、「窓は閉まらなくとも暖房があるじゃないか」と言ってきました。こっちが何度も暖房があっても窓が閉まらなければ意味がないだろうと反論するも従業員はうっとうしそうに聞くだけで、しつこく私が食い下がっているとそれなら部屋を変えてやると言い、新たに地下の部屋へを案内しました。

 確かに地下なら窓もないだろうし、この部屋ほど寒くはないだろうという安直な気持ちを持って案内された部屋に入ったのですが、窓は確かになかったものの今度は暖房が全く動きませんでした。何度も書きますがこの時は一月、いくら寒さに強い私でもこれではたまったものではありません。それでも暖房が動かないくらいならまだ我慢したでしょうが、この上に部屋中があまりにもかび臭く、ちょっと長くはいられそうにない部屋でした。
 あくまで私の推測ですが、あの部屋は掃除もほとんどされてなかったのだとおもいます。とにもかくにもひどいカビ臭さの上にシャワーは先ほどの部屋同様にまたえらく汚く、布団も真冬だというのにまたよく湿っていました。

 さすがに二部屋連続でこの様な部屋に案内されたことによって堪忍袋の緒が切れ、それまでの気後れがどこ吹く風か怒涛の勢いを以ってフロントへと押しかけました。
 ここで一つ中国語を話す人間に対するよくある誤解を説明しますが、中国は言うまでもなくとてつもなく広い国で方言も果てしなく分派しており、一言に中国語を話せると言っても北京語、広東語、あとベースは北京語だけどそれでも北京語とはちょっと違う中国での標準語、いわゆる普通話のどれか一つが話せるというのが普通です。ちなみに私は普通話しか話せません。

 普通話しか話せず、それすれもまだ不十分な人間が訛りの強い南方に行くもんですからはっきり行って簡単な会話ですらなかなかうまく伝わりません。本当にこの時は北京では通用するのにと何度も思ったほどです。しかも頭にきていてただでさえ下手な中国語がやけに早口になるのでフロントの従業員は私の訴えがよく聞き取れず、この時はお互いに激しく一方的な言い合いを続けました。

 あれこれ言い合ってもなかなか話がつかない状態に痺れを切らした宿泊所の従業員は、恐らく支配人らしき英語がやや使える中年の女性を連れてきて、私に対して英語で話かけてきました。対する私も英語に切り替えて先ほどまで説明していた内容を改めて説明するとその女性は、「100元の部屋なら絶対に大丈夫だから」などと、料金を上乗せしてグレードの高い部屋へ移ることを提案してきましたが、変な部屋に連続で案内された上さらにに料金を上乗せしろと言われて私はまたヒートアップし、「I can't trust you!」と英語で言った後にさらに中国語で、「我不能相信你们!」をひたすら連呼し、払った宿代は要らないから押金(=宿泊する前に払う保障費。部屋を出る際に客へと返されるもので、この時は40元取られていた)だけ早く返せと、いつもこれくらいの度胸があれば怖いものなんてないのにというくらいの剣幕で迫り、向こうも最後はしぶしぶ40元の返還に応じました。もっとも、宿代の60元は結局空払いになりましたが。

 そんなやり取りを経て無駄金を使って宿を出ると、私は再び南京駅まで歩いて戻りました。距離にして約一キロ半でしたが、朝からの強行軍がたたって足がひどく痛み出し、一歩一歩が非常に重たかったです。
 そうしてこの日三回目の南京駅へと着くと、待っていたかのように再び新たなキャッチに捕まった。今度はじいさんのキャッチでしがまた40元の部屋があるというのでとりあえず見せてみろとついていってみると、今度は車で移動するという事もなく希望通りに南京駅から本当に近いところへと案内されました。ただ一つ気になったのは、どっからどう見てもそこは2LDKくらいのアパートの一室にしか見えなかったことです。

 中に入ってみるとまた格別というか、普通のアパートの部屋の中に板を立てることで細かく区切って客室を作っており、なんというか子供が作る秘密基地のような光景でした。ただ室内自体は決して悪くなく、もうすでに相当疲労していたので、そのままそこに宿をとることにしました。それで早速宿帳に記名をして料金を払おうとすると、宿の人間が自分が日本人だとわかるや外国人なら暖かいところがいいだろうと暖房のある部屋をわざわざあてがってくれました。

 案内された部屋は先ほども言った通りに板で区切っただけの部屋で広さは大体二畳程度。暖房はすぐ近くに設置されてあるへやなのですが、恐らく暖房の熱気を分けるために部屋を区切る板は天井にまで届いておらず、やや不満点を挙げると後から来た客の喧騒がすこしうるさかったです。
 しかしベッドの布団はきちんとしていて暖かく、なおかつ暖房もよく効いているので決して寝心地は悪くありませんでした。

 結局すでに大分疲れていたのでそのままその日は夕食もとらずにそのまま布団に入って寝ようとしたのですが、足の疲労から来る痛みが激しく、眠れないまま一晩中その痛みにさい悩まされたのが実情でした。おまけに先ほど行ったように防音性の低い板壁のため、後から来た客にうとうとしていたところを何度起こされたことか。それでも暖かいだけでも全然ありがたかったですが。

 そんな風にして悶々と夜を迎え、痛みを我慢しているうちにいつしか私も眠っていたのですが、夜中にトイレに行きたくなって一人目を覚ましてしまいトイレへ行こうと部屋を出たところ、ちょっと面食らう光景がそこにありました。その光景と言うのも文字通り、足の踏み場もないほど床に人間が転がって寝ていたという光景です。
 恐らくあの時に床で寝ていた人は地方から出てきた出稼ぎ労働者たちだったと思います。昼間は外で働き夜は値段の安いこの宿泊所に寝るという生活をしている人たちだと思うのですが、それこそ寝転ぶ隙間もないくらい狭い空間にびっしりと、しかも薄そうな布団を巻きつけて寝ていました。

 そんな光景に驚きつつ少ない足場を渡りトイレへ行き用を済ませて出てくると、物音に気がついた何人かが私に視線を向けてきた。彼らは私の顔を見てちょっと不思議そうな表情をするてまた目をつぶり、相手が目をつぶるのを見て私もまた部屋へと戻りました。

 当初でこそ私は部屋は暖かいけど外の音がうるさいことを不満に感じましたが、自分があてがわれた部屋は形ながら個人用の部屋で、この部屋をあてがってくれた宿の人間に改めて感謝の気持ちを覚えました。その一方でこうして雑魚寝をしながら日々働く中国人らを見たことで、わずかではありますが中国の社会を垣間見ることができたように覚えました。

2009年12月25日金曜日

北京留学記~その二八、南方旅行一日目

 北京語言大学では日本の大学同様に期末試験があり、冬季のテストは当時の手帳を見てみると一月六日に終わっています。この冬季テストの終了日こそ、私の中国南方への旅行の出発日でした。

 中国は旧正月に当たる一月後半から二月初旬が最大の旅行シーズンで、世界最大の人口は伊達じゃなく、この時期は鉄道各社が特別ダイヤを組むなど各交通機関は混雑でごった返すのですが、一月の初旬から中旬であればちょうどその直前であり、嵐の前の静けさというか比較的思い通りに旅行できるそうです。そういう話を前もってクラスの先生から聞いていたため、一つ自分の中国語の腕試しを兼ねて旅行に出かけることにしました。
 旅行計画は中国の南方ということで、まずは南京に向かってその帰りに上海に寄り、そのまま北京へ戻るというルートで、移動手段には関口宏も乗りまわっていた中国では最もポピュラーな鉄道にて周る事にしました。

 ここで中国の鉄道について説明しますが、中国では都市内を走る地下鉄こと「地鉄」、電車こと「電車」(まんまか)、そして都市と都市を結ぶ列車こと「火車」があります。火車は現在恐らく電車だろうと思いますけど、まだ石炭使っていると列車もあるのかな。
 それでこの火車ですが、以前は外国人料金といって外国人には割高な料金設定がされていたそうですが現在はそんなこともなく誰でも乗ることが出来、また座席等は完全予約制となっております。切符の購入は駅外の旅行社みたいなところでも買うことが出来ますが、駅内で買うとなると通常の窓口に行かねばならず、大抵どこの駅も人でごった返しているので私はこちらはあまりお勧めできません。

 それで肝心の料金ですが、恐らく他の中国情報系サイトでも詳しく説明されているでしょうが、大まかに言って座席には四種類あり、安いものから順に、「硬座」、「軟座」、「硬臥」、「軟臥」です。読んで字の如く、「硬」と「軟」はそれぞれ二等、一等を表しており、「座」と「臥」は座席か寝台かの違いです。

 最初に南京へ行く際は多少ケチりたいものの比較的値段が手ごろということもあり、初めての列車旅行なので私は「硬臥」で夜行列車の予約を取りました。そして出発日当日は夜七時ごろに大学寮を出て北京駅へと向かい、駅構内で旅行地図を購入して列車の乗車時間を待ちました。

 乗車後に私の予約した部屋に行くとそこではベッドが四つあり、私以外にも中国人の乗客が乗っておりました。この時は別に話す事もなくとっとと布団に入って次の日からの旅行に備える事にしましたが、結果論敵にはやわな旅行ではありませんでした。全部私の無計画によるものなのですが……。

2009年12月23日水曜日

北京留学記~その二七、学生寮でのデマ事件

 事の始まりは一枚の貼り紙からでした。私が最初に入った学生寮が補修されるということで新しい寮に引っ越してから確か二週間ほど経った頃でしたが、いつものように授業を終えて寮に帰ってくるとエレベーターの前に一枚の貼り紙が張られており、中国語にて下記のような内容が書かれていました

「このごろ季節が変わりめっきり寒くなってきました。留学生の皆さんは戸締りに気をつけて、窓の鍵は外出時はもちろん在宅時も必ずしめておいてください」

 何だこの論理の破綻した文章は(゚д゚`)!?
 読んだ直後の私の感想はまさにこんな感じで、どうして気候と戸締りが関係するのか、またそれも貼り紙で貼って告知する程のものなのか腑に落ちませんでした。

 そんな貼り紙が貼られて数日後、私の日本人留学生仲間からこの件で妙な情報を得ました。その留学生仲間がやや要領を得ない語り口で言うには、なんでも私達が移った新しい寮の中で事件があり、その事件というのも寮の二階に住む日本人女子学生の部屋に窓から泥棒が侵入し、女子学生を殴りつけて強姦に及ぼうとしたものの抵抗に遭い、注射器を取り出して女子学生に麻薬を打とうするも失敗し、また女子学生を殴りつけて物を盗って逃げていったそうです。そんな事件が起きた為に、事件の事は隠さなければならないが防犯を強化させねばならずあの妙な貼り紙ができたというわけです。

 この留学仲間の話を聞いた直後の私の感想はまたも、

(゚д゚`)!?

 ってな感じでした。まず読んでもらえばわかりますが泥棒の行動が明らかに妙です。泥棒目的なのか強姦目的なのか、麻薬を打とうとする点に至っては支離滅裂です。そんなわけで初めて聞いた時からこの話を疑わしく思い、その留学仲間に情報源などを詳しく聞くとその留学仲間もクラスの別の日本人留学生から話を聞いたそうで、じゃあその日本人はどこから情報を仕入れたのかと聞くとまた別の日本人からという感じで延々と続いていき、最終的にはみんなインターネットに行き着くことがわかりました。

 ではその情報源のインターネットサイトはどこになるのか調べてみた所、もしかしたら複数あったのかもしれませんがそれらしいものが一つあり、その場所というのも当時北京語言大学でも大流行りだったmixiの語言大学のコミュニティでした。そのコミュニティの掲示板には先ほど書いたような泥棒の行動がそっくりそのまま書いており、末尾にて語言大学はこの事件を隠そうとしているからあんな貼り紙になったのだと締めくくられていました。

 結論から言えば、この書き込みはデマだった可能性が非常に高いです。
 当時に私が行った詳しい検証を一つ一つ説明すると、まず私が尋ね回ったことでわかった大きな事実として、この泥棒が入ったという情報が日本人の間でしか共有されていませんでした。日本人以外となると同じ寮の学生でも誰もこの話を知らない一方、日本人学生であれば他の寮に住んでいる者でもこの話を知っており、情報源とされる先ほどの掲示板の書き込みが日本語であることを考えるとさもありなんです。

 そして次に、情報源がみんなインターネットに行き着く割には誰も事件の当事者である、泥棒に暴行されたという女子学生が誰なのかを知りませんでした。一体その女子学生がどんな子で、どのクラスに居て、知り合いは誰で、事件後はどうなったのかとなるとみんな誰も知らず、海外での日本人学生の狭いコミュニティを考えると誰もこの点について答えられないというのはありえないでしょう。

 そして極め付けが掲示板に書かれた泥棒の辻褄の合わない行動です。一体何が目的なのかわからないのはもとより、それだけいろんなことをしながら女子学生が悲鳴を上げてそれに誰も気がつかなかったというのも不自然です。普通殴られたりもすればテレンス・リーじゃないんだから誰だって悲鳴の一つは上げるのが普通で、学生寮であれば悲鳴が聞こえようものなら隣室の学生などが必ず気づくはずです。

 実際に当時私が住んでいたこの寮はそれほど防音性が良かった訳でなく、隣室の学生が大騒ぎをしようものなら騒音が気になるくらい聞こえ、またこのデマが広がる以前にも寮の四階の部屋に済む日本人女子学生が泥酔して帰ってきて、叫び声を挙げたり辺りの壁を叩いたりするものだから私の留学仲間に寮の人間が助けを求めてその女子学生を抑えて部屋に入れたことがあったのですが、その留学仲間は七階の部屋に居ながらもその女子学生の叫び声が聞こえたそうです。

 では本当は何があったのかというと、先にも言ったように泥棒が入ったというのは本当だったと思います。というのもその後すぐに比較的進入しやすい二階(一階はロビーのみで部屋はない)の窓に鉄格子をはめられるようになり、また最初の貼り紙も泥棒が入った事を受けてのものだと考えるとあの論理破綻な文章もやや理解できます。

 そうなるとどうしてこう大げさに書き立てるデマが流れたのかになりますが、これも私の考えだと日本人に対し強く注意を促そうと、発信者が内容をわざと過激なものにして広めたのかとが原因だと思われます。幸か不幸か、その筋書き通りに日本人の中においては十分に注意が喚起されましたが。

 この一件で私が強く憶えたのは、人間というものは案外、このような素性のわからない情報でも環境次第で簡単にデマに踊らされるのだということでした。恐らく海外での狭い日本人コミュニティだからこそデマが流れたのでしょうが、それにしたってもう少しみんなも疑ってもいいんじゃないかというような内容だっただけに、かくも情報の前では人間は無力かと思わせられた事件でした。

 留学記の記事はここまでですが、実はこの記事を書くに当たってあるデマと合わせて書こうと前々から考えていました。そのデマというのも、先月行われた民主党議員らによる事業仕分けにて、漢方薬の保険適用が除外されるというデマです。

 詳しい経緯については最後に引用するサイトを読んでもらいたいのですが、医師が処方する漢方薬は現在健康保険が適用されているのですが、漢方薬は医療効果がはっきりしないので無駄になっており、事業仕分けにて保険適用を除外することが決められた、といった報道がテレビ、新聞、インターネットといったすべての媒体で流れ、現に私自身もNHKにて確認し、その番組内では漢方薬を日々服用している男性が値段が上がると困るというコメントをしていました。

 この報道を受けてかネット上ではこの仕分けに反対する署名が集められたり、漢方薬大手のツムラなど公式に社長がじきじきに会見して反対するなど大騒ぎとなったのですが、未だに議論されているスパコンの予算と比べるとこっちの方は続報がピタリと途絶えるなど完全に静まり返ったのを見て私もデマだったと判断しました。

 ちょっと長いので私は確認していませんが、その保険適用除外が決められたとされる仕分けの会議を見た方によるとやはり除外をするといった発言はおろか、漢方薬という言葉すら一切出ていなかったそうです。それにもかかわらずあれだけ署名が集まったり、大騒ぎしたりしたと考えるとなにやら日本に対して不安を感じてしまいます。

 それにしても、この一件がデマだとわかったのも事業仕分けが公開されていたことに尽きるでしょう。公開され、またその会議の過程がネット上でも見られる動画となっていたことから早くに沈静したのであって、そういう意味で鳩山内閣に対してこの点だけは誉めてあげてもいいかと思います。

漢方薬保険適用除外は【誤報】です! 仕分け人枝野議員が明言(JANJAN)
漢方薬に関するデマ(きっこのブログ)

2009年12月22日火曜日

北京留学記~その二六、NEC中国人社員②

 前回の記事に引き続き、NECの中国人社員との会話をした時の話です。読者の方がどのように思われるかはわかりませんが、書いてる本人からするとこの場面が留学記全体における最大のハイライトだと私は考えております。

 すでに前回にも書いたとおりに議題が自由と言う事もあってかなり好き勝手に話をしてきたのですが、レッスン時間の後半に差し掛かる頃にもなるとさすがに話すネタに困ってきてしまい、この連載の過去の李尚民の記事でもあったように日本と中国で、お互いの国で知っている相手国の有名人を挙げることにしました。

 まず私から日本人がよく知っている中国の有名人となると真っ先に毛沢東が来ると話した上で、ほかの日本人にはあまり馴染みがないだろうけど、私個人が高く評価している人物として張学良氏がいると話しました。
 張学良氏についてはかつて私も記事にして書いたように、日中戦争における最大のターニングポイントであった(と私が考える)西安事件の立役者であり、西安事件があってもなくとも戦前の日本軍が広大な中国大陸を占領する事は不可能であったとしても戦況が全然変わっていただろうと話しました。

 すると一人のレッスン参加者がこの私の意見に対し、張学良がそれほどの人物だとは思わないと返してきました。この過程については先ほどリンクを貼った過去の記事にも詳しく書いてありますが、中国に留学する前に聞いた話だと台湾ならともかく、中国本土で張学良は救国の英雄として扱われていると聞いていただけにこの返答には正直驚かされました。元々中国では歴史人物の評価が時の政権によって大きく変わることも珍しくなく、もしかしたらそういった年代的な関係もあって資料とこの参加者の認識の間に齟齬があったのかもしれませんが、今度機会があったらこの点について中国人に聞き回りたいものです。

 そんなショックを受けている私に対し、今度は別の参加者が、「中国人ならこの人を、小学生ですら知ってますよ」と言って、広げているノートの上にこの名前を書いて見せてきました。

「明治天皇」

 私はてっきり、日中国交回復を行った田中角栄とか、当時の日中関係を悪化させているとして中国メディアでもよく取り上げられていた小泉純一郎元首相が来るかと思っていただけに、この明治天皇という文字を見て一瞬呆気に取られました。しかしこの日の私は自分でもびっくりするくらい頭の回転がよく、本当に頭の上で電球(交流)がピカって光る具合に相手の意図や背景をすぐに類推し、レッスン参加者にこう返してみました。

「この人は日本の改革に対して、何一つやっていませんよ」

 私がこう言うや、レッスン参加者らは案の定明らかな驚きの表情を浮かべました。

 明治天皇を中国人みんなが知っていると聞いてもしやと思っての返事でしたが、大体推察した通りでした。私はきっと中国人は日本の明治維新を、侵略者である日本の端緒となった一方、短期間で西欧列強とも伍す程の実力にまで育てることに成功した改革だったと肯定的な評価をしていて、その上で皇帝専制色の強かった中国のことだから明治維新は明治天皇の主導によって行われたと考えているのではないかと読んだのですが、これがピタリと当たっていました。

 詳しく話を聞いてみるとやはり明治天皇が一連の改革をすべて主導していたと思っていたようで、確かに改革の象徴として自ら前に出て振舞ったものの、政策やプランといった方面にはほとんど手を出していないと私が説明した所、では誰があの改革を行ったのだと続けて聞かれ、ちょっと答えに困ったものの、

「とりあえず明治維新初期の主要なメンバーとなると、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人が非常に有名です」
「(西郷隆盛と書いたじノートを見て)ああ、この人か」
「この三人が大きな路線を作り、私は嫌いですが特にこの大久保利通が一番重要な役割を果たし、その大久保の構想を完成させたのが韓国人はみんな嫌いな伊藤博文です」
「(伊藤博文と聞いて)うんうん」

 ここでも確認をこめて敢えて冗談めかして言ったが、どうやら中国人も韓国のアンチ伊藤博文の意識を知っていたようです。

「じゃあ、明治天皇は何をしていたのですか?」
「言うなれば飾りです。彼が国の政策に口を出したのは私が知る限り一回だけで、にっし……日本と、当時清だった中国との戦争(日清戦争と言いかけたのを言い直した)を始めた時、自分はこんな戦争を望んでいないと伊藤博文に文句を言ったことくらいです。ロシアとの戦争の時は納得していたらしいですが」

 ここまで一気に説明すると、さすがに向こうもしばらく言葉が出せずにボーっとしていました。かくいう私も似たようなものでしたが。

 彼らの話から察するに、中国では小学校でも日本の明治維新を取り上げてこの明治天皇の事を学んでいる可能性が非常に高いと思われます。しかしその内容はいわば明治天皇による改革だったとやや誤解があるということになりますが、何故この誤解が起きているのかについては先ほども言った通りに中国は基本的に皇帝専制という歴史が長かった国という事情もありますが、明治の日本が海外に対してそのように宣伝と言ってはなんですが、天皇の下に体制を大きく改革したと喧伝しており、それも一つの一因となっているのではないかという気がします。

 そんな風に考えながら未だ呆然としているNECの社員達を見ていると、またすぐ閃くものがありました。すでに深入りし過ぎではないかという懸念もありましたが、この機会を逃したら絶対に後悔するという好奇心が勝り、続けざまにこんなことも敢えて話してみました。

「明治天皇同様、昭和天皇も日本と中国との戦争を主導したわけではありませんよ」
「では、誰が戦争を起こしたのですか?」
「それは恐らくあなた方が嫌いな、私もあまり評価していませんが、東条英機を始めとした軍人達です」

 そういって、東条の名前をノートに書いて見せた。

「昭和天皇はむしろ戦争には否定的な気持ちを持っており、それが最後の最後で戦争を続けようとする軍人を抑えて終戦に結びつけたのだと私は考えております」

 個人的な意見として、よく日中の歴史問題となると南京大虐殺があったのかどうなのかばかりが議論となりますが、こうした大きな問題を議論する以前に外堀とも言うような基本的な歴史的事実の点においても双方誤解している箇所が少なくなく、まずはこうした溝を埋めるのが先なのではないかと考えています。

 話は戻り、やはり昭和天皇は中国で嫌われているのかと聞いたところ嫌われていると返って来て、明治天皇に関しては欧米列強が押し寄せる中で、急速な日本の近代化を指導したとして高く評価する一方、その後の軍国主義の基礎を作ったとして半々の評価だそうです。

 こうして歴史認識の差異について盛り上がっている中、唐突にレッスン終了の時間がきてしまいました。知識層にあたる相手とゆっくり話す事が出来たので本音ではもっとあれこれ情報を引き出したかったのですが、さすがにずっと話しているわけにはいきません。
 レッスン参加者は最後にレッスンの報告書みたいなものを書くのですが、ちょっと後ろから盗み見した所、レッスンの先生に対する評価において五段階でみんな一番高い五をつけてくれていました。本人からすると、やはりうれしいものです。

2009年12月20日日曜日

北京留学記~その二五、NEC中国人社員①

 また大分時間が空いての北京留学記です。このところ時期的に急いで書かないといけない内容が多くてなかなか取り掛かれてませんが、このまま年末にラッシュをかけてなんとかこの連載を今年中に終わらせたいものです。

 それでは早速本題ですが、前回の連載記事では私が旅行の帰途であった青島のサラリーマンとの会話を紹介しましたが、今回も同じくサラリーマンで、NRCの中国法人に勤める中国人社員との会話です。
 何故NECの社員と会話する機会ががあったのかというと、留学も終わりに近づいた2006年7月に、私より一足先に日本に帰るある日本人留学生仲間から自分のかわりにバイトに出てくれと頼まれた事がきっかけでした。そのバイトというのもNECの中国人社員と日本語で会話して、彼らに日本語のレッスンを行うというバイトでした。

 このバイトでやる事はそれこそ日本語で適当に話すだけで、会話する中国人社員らも日本での研修を一年近くやってきているのでみんな辞書さえ間にはさめば問題なく会話できるレベルです。一回のレッスンで日本人一人に対して四、五人の中国人が入り、夕方六時から一回約二時間で私は二回ほど代理で出る事にしました。

 まず一回目のレッスンについてですが、この時はNEC側から話題のテーマが「熟語」とあらかじめ決められていたので、私は「完璧」や「矛盾」といった中国発祥の故事成語の一部は日本語にも完全に定着している事を話し、その故事成語がことわざや慣用句とはどう違うのかというのを説明していました。ただこういう熟語ネタだと話すネタもすぐ尽きてしまい、最後の方は何故だか日本の大学制度について説明したりしてました。案外わかりそうでわかりづらい内容なためか、向こうも向こうで真剣に聞いているようでした。

 また最後には三国志の話題に及び、日本では曹操が人気だと教えたところ思った通り、「何で?」と彼らから聞き返されました。そこで私は日本人は自分で意思決定をするのが苦手で、歴史の上では織田信長のような独断専行型の人間を割と好む傾向があるのではと説明したところ、「ああ、なるほど」というような表情をしたように私は見えました。そしたら一人の方がおもむろにノートを取り出し、

「中国ではこの人が人気ですよ」

 と言って、「馬超」とノートに書いてくれました。聞いてはいたが、やはり人気であったか「錦馬超」。

 そしてこのバイトの二回目、かねてから好不調の波の激しい私ですがこの二回目のレッスンの日は非常に調子がよく、レッスンを受けた中国人社員からとても面白い内容が聞きだすことが出来ました。もうすでにこの会話をしてから三年もの月日を経過しておりますが、ここで書き出す内容は現在においても中国を知る上で非常に役に立つ情報だと自信を持って自負できます。

 前回通りにレッスンは六時から始められたものの、彼らも本業の仕事があるために開始当初のテーブルについていたのは三人だけで、後から一人加わって合計四人でした。なお前回は一人女性社員が入っていたものの、今回は全員男性でした。この二回目のレッスンでは前回戸は違って議題は自由とされ、最初はそれこそ何から話したものやらとお互いに手間取ったものの無難に私の自己紹介から始めることにしました。

「私は日本の大学生で、中国語だけを学ぶためにこちらへ留学に来ました。ここ数年のうちに中国語は日本人にとって非常に魅力的な語学科目になり、韓国人と一緒になって今も通っている北京語言大学に毎年たくさん来ております」

 というような感じだったと思います。すると向こうから、中国人にとっても日本語は需要の高い外国語で、たくさんの人間が学んでいると返ってきました。そこで部外者というか第三者というか、中国での韓国語の需要はどうよと私から聞いてみると、やはり中国人に人気はないそうです。
 韓国も近年は中国との取引が急増して中国語の需要は高いものの、日中と違ってその需要は生憎片思いだそうです。日本ほど貿易額が大きくないという経済的な問題もあるものの、それ以上に中国ではかつて満州のあった東北部にいくと今でもたくさんの中国籍の朝鮮民族が住んでおり、韓国人との会話は彼らがやってくれるために韓国語の需要は低いとのことです。

 こうして語学の需要について簡単に話した後、先ほど私が大学生なんて言うもんだから専攻は何かと続けて聞かれ、隠す必要もないので社会学だと答えたついでにレッスン参加者にも聞き返してみると、みんな異口同音にプログラミングだと答えました。
 NECに勤めているんだから当たり前といえばそうですが、これは私の印象ですが、日本ではそうそう専攻がプログラミングだと答える人はあまりいないように思います。今に始まるわけではありませんが中国では投資資金が少なくて済む事からIT分野、とくにプログラミングを筆頭とするソフトウェア産業に力を入れていると聞いており、現に日本のNECがこうして中国人社員を採用してこうして日本語も教育しているのをみると中国のこの方面は相当なレベルなのではないかという気がしました。

 話は戻り、専攻の話をしたのだから日本の大学生についても簡単に話をしました。多少私の偏見も入っていますが、日本の大学は入るのは大変だが入ってしまえば遊んでいるだけで卒業できてしまうと教えて、中国はどうだと聞いてみたところ、そっちは日本と違って勉強が大変だったとこちらも口をそろえて言っていました
 そんな風に話していると、一人が口を挟んでこのような質問を出してきました。

「日本人はいつもすごい真面目で、どんな時に羽目をはずすんですか?」

 なかなか面白い質問が来たと思い、私も俄然力を入れて以下の通りに返答しました。

「よく、日本人とドイツ人は性質が似ていると言われますよね」
「はい」
「ドイツ人も普段はすごい真面目だと言われていますがお酒を飲むとすごいだらしなくなるそうで、日本人も同じく酒の場では多少の無礼も許されます。逆に中国では酒の席といえど一時でもだらしない素振りを絶対に見せてはいけませんが、私が思うにドイツと日本ではその辺が緩いように思えます。これは恐らくドイツ人も日本人もやる時はやる、羽目をはずす時ははずすという切り替えが徹底されているからで、一見真面目そうに見えますが羽目を外す時に思い切り外してバランスを取っているのではないでしょうか」

 実はこの会話文にはいくつか鎌を掛けた箇所があります。それは最初の私の切り出し箇所で、中国人は日本人とドイツ人を一緒に真面目な民族と見ているかどうかです。
 よく日本人は自分でクラフトマンシップとか真面目さとかで自分達をドイツ人と比較する所がありますが、果たして外国の人間はどう思っているのか前から気になっており、ちょっとそれを確認する意味を込めて切り出したところやっぱりすぐに肯定してくれました。

 そして質問に対する返答の本論ですが、これから中国に行こうと言う方にはぜひ知っておいてもらいたいのですが、中国では宴会においてもはっちゃけた行為は一切許されず、大声をあげたり女性にセクハラをかますものなから物凄い非難を浴びる事になります。皮肉な事ですが、これを理解していないのが日本人と韓国人の留学生で、向こうでも留学生のマナーとして一部問題化しております。

 それを踏まえたうえで日本人の切り替え方の大きさを説明したのですが、この説明で理解してくれるのか少し不安ではあったものの概ね向こうも納得してくれているようでした。まぁこのレッスン参加者全員が約一年程度の日本の研修があったことを考慮すれば、決して無理な説明ではないでしょうけど。
 すると今度は別の方から続けてこの関連で質問を受け、私もまた下記の通り答えました。

「(・ω・)/あの、日本人は……どんな風にお酒でだらしなくなるのですか?」
「(´∀` )そうですねぇ。私が以前にアルバイトをしていた喫茶店では、こういったテーブルの上で突然横になって寝始める人がいました」
「(;´Д`)えぇ……(本気で驚いていた)。その、日本人は切り替えというか、羽目をはずす時とそうでない時を分ける、そういう風な教育を受けているのでしょうか?」
「多分、日本人も意識はしていないでしょうが、私が小学生の頃などは先生がよく、遊ぶ時は遊ぶ、勉強する時は勉強するというようなことをよく言われており、他の日本人もこういった言葉を社会で使う事があります。そう考えると、子供の頃からこういった切り替えを知らず知らずに学んでいるのではないかと思います」


 あくまで上記の私の返答は私個人の考えですが、このところ書いている記事といい、つくづく日本人は節操がないなという気がします。中国人は欲望に対して素直すぎるけど。

 ここまで話したところで、ふと気がついて自分の日本語を話すスピードは聞き取りに問題はないかと尋ねた所、少し話すのが早いものの発音ははっきりしているのでまだ聞き取りやすいと返って来ました。同じ日本人からもよく早口と言われるなのでさもありなんですが、外国人に聞き取りやすい発音と言われるとやはりうれしいものです。

「ところで、卒業後はどんな仕事をするのですか?」

 ここで唐突に、仕事の話へと移りました。
 
 本音ではジャーナリストになりたいとこの時から志望を持っていたものの進学先が関西の大学だったと言う事でほとんどあきらめており、わからないけど中国語が役に立つ所と来ればメーカーだからそこで営業の仕事でも探そうと思うと伝えた所、多少は覚悟していたものの、「文系なのにメーカー?」と聞かれてしまいました。
 ここでまた以前から確認したいと思っていた事を思い出し、もののついでに日本の会社トップ、及び政治家はみんな文系だと教えたところ、案の定レッスン参加者はみんなして驚いてくれました。しかもただ「そうなんだ(´・∀・`)ヘー」っていうレベルじゃなく、「マジっΣ(゚Д゚;)」っていうくらいの驚きようだったので、見ているこっちが面白かった程です。

 何故彼らがこれほどまでに驚いたのかと言うと、中国と関わっている方なら当然の事実ですが、中国の各界のトップというのはみんな揃って理系出身なのです。かつての日本でもそうだったように現在の中国では技術職系の人材が尊敬される傾向があり、現在の中国首相の温家宝氏は私が通っていた北京語言大学の正面にある中国地質大学の出身で、主席の胡錦濤氏も日本で言えば工学部卒のダムの設計士でした。そんなもんだから、中国人が文系に進学するといろんな意味で後々大変になります。
 この話題に対する彼らの食いつきようは凄まじく、私が一言発するたびに子供のように何も言わずにうんうん頷きながら聞いているのが見ていて微笑ましかったです。

 そんなわけで書く前から想定していましたが、続きはまだあるもののすでにかなり長くなっているので今日はここまでにします。次回も彼ら二回目のレッスンに参加したNEC社員との会話を紹介しますが、次回で紹介する内容ははっきり言って普通の中国解説本には絶対に載っていない、物凄いレアな情報を公開します。必ずしも役に立つわけではありませんが、中国の歴史とか政治が好きな人には非常に重要な内容なので知っておいてお損はないと保証します。

 では、また次回にて。

2009年12月8日火曜日

北京留学記~その二四、青島のサラリーマン

 また大分日が経ってしまいましたが、北京留学記の続きです。それにしても、年内には終わるかなこれ。
 前回まで私の留学中のクラスメート、そしてルームメイトなど非常に親しかった人間ばかり紹介しましたが、今回はこれまでと違って旅先で一回だけしか会わなかった、年のころは四十前後の青島のサラリーマンとの話をご紹介します。

 その人と会ったのはこの後にも紹介しますが、学校の冬休み中に私が単独で行った南京、上海旅行からの帰りの列車でした。この旅行自体が結構無茶な日程を組んで行った旅行だったために、上海から北京への帰路に付く頃には腹を下すなど体調的には非常に悪い状態でした。ですので本音ではケチりたかったのですが、恐らくそうそう乗る機会も少ないのだから思い切ってこの時に使った寝台列車の中で一番良い席(軟臥)を予約して列車に乗ったところ、相部屋の相手になったのがこの青島(チンタオ)のサラリーマンでした。

 まず最初に口を開いたのは相手の方からで、列車が出発してしばらくしたころに私の不慣れな発音に興味を持ったのかどこからきたのだと話し掛けてきました。そこで私が北京だと答えた所、外国人だろ、どこの国かと聞いているんだと改めて聞き返されてしまいました。そりゃま、そうだろう。
 それで私が日本人だと答えるや、彼が機嫌が急に良くなりました。というのも彼の奥さんは中国人ではあるものの日本語が出来る方らしく、また彼自身の青島の仕事でも日本人と接する機会が多いために日本に対して親近感を持っていたようです。

 そんなかんだで旅の道連れはなんとやら、途中折々で辞書を引きつつ、メモに言いたい事を漢字を書いてもらいつつこのサラリーマンとあれやこれやと話をしたのですが、この時まず最初に話題になったのは青島の話でした。
 私が青島には日本人は多いのかと聞いた所、彼はすぐに「多い」と答え、海路で見るならば日本に近いという地理的条件から日本向けの製品を作る工場が林立しており、そのため会社から派遣される日本人も数多く済んでいるとの事でした。それら日本人会社員は大体二年から三年間中国に赴任すると日本に帰ることが出来、帰国後には出世するという事も教えてくれました。前々から聞いてはいましたが、やはり数年の海外赴任、とくに中国ではそれ自体が出世の条件となっているのはどこも同じのようです。
 そのあと続いて韓国人も青島に多くいるのかどうかと聞いてみるとやはり多いと返ってきて、韓国でも中国に製品工場持つ会社が多いと話してくれました。

 そんな風に話していたところ、やおらむこうから、お前は大学生なのかと聞いてきました。当時学生だった私はすぐにそうだと答えると大学名も続けて聞かれたので、私立の○○大学答えると、日本で私立大学だとここがすごくいい所なんだろうと、漢字でメモに「早稲田」と書いてきました。なんでも、ここがすごいって知り合いの日本人に聞いたそうですらしい。
 いい機会なのでこの時に他に日本の大学で知っている所はとさらに詳しく聞いてみた所、東大と京大、そして早稲田と慶応と挙げてきました。やはり海外に知名度のある日本の大学と来るとこの四つといったところでしょうか。

 と、ここまで話して、少し思い当たる事が出てきたので、今度は私からこんな事を聞いてみました。
「子供はいるんですか?」
「いるよ。今はまだ中学生だ」
 なんでも家族は青島にいるらしく、今回は北京に出張で来ているらしいのですが、子供の話をしたときに少し顔が曇ったように私は感じました。あくまでこれは私の推量ですが、現在中国で大きな問題の一つとして子供の教育費の問題があります。大学進学までを考えたら相当な額が必要となるため、ちょうど日本の大学の話を下ばかりだったので息子のこれからの教育を考える上での苦労を垣間見せたのかもしれません。

 話は戻って先ほどの出張で北京に行くという話ですが、この時私達が乗っていた列車は上海―北京間を結ぶ夜行列車だったのですが、この列車はなんでもつい最近出来たもので、これが出来て非常に便利になったと語っていました。
 この上海―北京間は日本で言うとそれこそ東海道新幹線の大阪―東京間に相当する区間で、それだけにこの区間の特急列車は需要が高いために年々スピードアップが図られているらしいそうです。

 そんな具合でだんだんと仲良くなっていったので、後半にてちょっと思い切った質問をぶつけてみた。
「最近、日中は仲が悪いけど……」
「気にするな。あれは政府がやっている事だ」
 恐らく私以外にも中国人に直接聞いてみたいと思っている方が多い質問でしょうが、この質問に対して彼はなんでもないというような態度で反日感情は持っていないと答えました。

 少し分析的な見方をすると、彼は青島でサラリーマンをやっている人間であり、職業柄、日本人と付き合う事も多い人間です。日本人でもそうですが実業に近い人間ほど中国に対して親近感を持つ傾向が強く、逆に、学術系、教師や大学教授、もしくは実業とは離れている主婦などは中国を胡散臭く思う傾向があるように感じます。この青島のサラリーマンもこの例に当てはまり、政冷経熱の名の通りに日本に対して反感を持っていなかったのかとも見ることが出来ます。
 
 このように長々話をしていたのですが、最終的には不調だった私の体調がダウンして11時くらいにお互いに布団に入る事にしました。その後列車が北京駅に着いて地下鉄に乗るまでは一緒にに行動しましたが、地下鉄の駅で向かう方向が別れるためにそこで別れました。彼は別れる際に、
「さて、仕事だ」
 と、朝も早くからそういい残し、最後はお互いに握手を交わして別れました。サラリーマンは日中双方で、どこも変わらないと感じた瞬間でした。

2009年11月26日木曜日

北京留学記~その二三、ドゥーフェイ③

 ようやくこのドゥーフェイに関する記事も今日が最後です。下手すりゃ彼との交流だけで一本小説が書ける分量だなぁ。
 さて先の二回では私の留学中のルームメイトであったドゥーフェイから聞いた東欧、ルーマニアの情報を紹介しましたが、本日は彼と私の交流について書いていこうと思います。本来ならこっちから書くべきなのですが、あまりにも分量が多いことから今まで投げていました。

 まずドゥーフェイを語る上で外せないのが、彼の趣味のサッカー観戦についてです。他のヨーロッパ人留学生同様にドゥーフェイもサッカーの愛好家で、Wカップ期間中に至っては文字通り授業をサボって朝から晩まで観戦を続けていました。子供の頃はマラドーナのようになりたかったというだけあって割りと個人プレーがうまい選手が好きでしたが、何故だか当時にウクライナの至宝とまで呼ばれたシェフチェンコは嫌ってました。

 中国では割と普通のチャンネルでもイギリスのプレミアリーグの試合などが放映される事もあるので私も彼と一緒によく観ていたのですが、実はサッカー以上に彼とは相撲中継を観る回数の方が多かったりしました。というのも私があまりにも暇なもんだからNHKでずっと相撲を見ていたら彼も見始めるようになり、しまいには私がいない間に自分でチャンネル合わせて見るほどまでのめりこんでいました。そんな彼のお気に入りの力士は欧州出身だから琴欧州かと思いきや、私と一緒に土俵際の粘りが言いということで安馬こと現日馬富士でした。ちなみに朝青龍に対しては日本でのスキャンダルなぞ知らないくせに嫌っており、恐らく強すぎるというのが原因でしょうが万国共通で朝青龍は嫌われるんだなと思いました。

 話は変わって外国から日本がどのように見られているのか、そういったものが少し伺われるエピソードをいくつか紹介します。

 ある日ドゥーフェイに広島出身の留学生仲間が私達の部屋に来て彼にも紹介をしたのですが、その留学生仲間が帰った後に広島出身だと教えたところ、「俺達、放射能にやられないのか?」とドゥーフェイは聞いてきました。さすがに原爆の落ちた地だから広島という地名くらいは知っているのではと思って教えたのですが、知っているどころかドゥーフェイはまだ広島は放射能の汚染が続いていて、草木も生えぬ荒地のような場所だと考えていたそうです。
 彼がこんな風に広島を見ていた理由として、かつての旧ソ連時代にウクライナで起こったチェルノブイリ原発事故が大きく影響していることは想像に難くありません。ルーマニアでも一部で被害が起きたそうで、放射能に対してやはり極度に恐怖感を持っており、やや過剰に広島と長崎を見ていたようです。

 この広島と長崎については過剰な誤解を持っていたドゥーフェイですが、それとはある意味逆できちんと認識していた日本の事情として、変な話ですが森喜朗元総理の「神の国発言」がありました。このときの騒動は日本以上に海外にて大きく取り上げられていたとは以前から聞いていましたが、それほど政治に対して強い興味を持っていないドゥーフェイですらあの発言の内容を把握していたことを考えると、どれだけアホな発言をしたのかますますもって知られます。ある学者も、このときの発言にめちゃくちゃ激怒していたし。

 このようにいろいろと会話していて面白かったドゥーフェイなのですが、性格は前にも書きましたが非常に温厚で親切でもあり、ルームメイトとしては非常に恵まれた相手でした。しかし唯一の欠点というか、私が彼に対してただ一つ困っていたこととして、彼の強烈な体臭がありました。
 中国では水が少ないこともあって都会の北京でも一週間に一回くらいしかシャワーを浴びないという人も皿なのですが、彼の場合はそんなのを通り越して三週間に一回、下手すりゃ一ヶ月に一回くらいしかシャワーを浴びないのでとにもかくにも臭いがきつかったです。

 私も入寮当初はそのあまりの臭さに同じ室内にいて何度か気絶しそうになったり、夜に眠ることが出来なかったくらいなのですが、大体一ヶ月もする頃にはすっかり慣れて気にしなくなりました。しかしそうやって慣れるのも一緒に暮らしている自分だけの話で、日本人留学生仲間を部屋に呼ぼうものなら誰もがその臭いに耐え切れずすぐに出て行くほどでした。
 そんなもんだからドゥーフェイが外出している時などは換気をするため窓とドアをよく開け放していましたが、寮で同じ階に住んでいた留学生仲間によると換気をしていると私達の部屋の臭いがその階の廊下中に蔓延していたらしく、エレベーターから出るなり私が換気をしているかどうかすぐに分かったほどだったそうです。

 それほど強烈な臭いに適応できた私でも、彼が自分の服を洗濯した日に限っては耐えることが出来ませんでした。普通の留学生は寮にあるランドリーなどで洗濯をするところ私はそれほど選択する回数も少ないので自分で洗剤を買ってきて室内の洗面所で洗っていたのですが、ドゥーフェイも私と同じく自分で洗っていました。しかしその洗い方はというと、はっきり言ってちゃんと洗っているのかと怒鳴りたくなるような荒い方でした。

 ただでさえ臭いが強烈なドゥーフェイなのに、それこそ一週間以上ずっとはき続けている下着や衣服を中途半端に水を張った洗面所につけておくだけつけて室内に部屋干しするもんだから、彼が洗濯した日はとんでもない臭いに室内が包まれていました。もうこの日に限っては私も本当に頭がおかしくなるんじゃないかと思うくらいの悪臭で、夜に寝ようにもあまりの臭い刺激に悶えつつ眠ることが出来ずにいました。この際だから自分に洗わせろと言いたいくらいで、衣類を洗面所につけている間に内緒で洗剤を入れておいたことすらありました。

 多分こういうエピソードとかをふんだんに言っておけば、面接とかも余裕で受かっていただろうなぁ。

2009年11月21日土曜日

北京留学記~その二二、ドゥーフェイ②

 前回に引き続き、また私の留学中のルームメイトのドゥーフェイの話です。
 さて前回では主に彼の母国であるルーマニアを含む東欧を取り巻く状況について書きましたが、今日はルーマニアという国自体について彼が話していた事を書こうと思います。

 まずルーマニアと来ると日本人は何を想像するかですが、もう世代にも寄ってしまいますが、恐らく比較的年齢が高い世代だとまず第一にチャウシェスクが出てくると思います。このチャウシェスクについて分からない方のために説明しておくと要は旧ソ連時代にルーマニアを支配していた独裁者で、旧ソ連が崩壊する間際、ゴルバチョフのペレストロイカ政策によって次々と東欧諸国が民主化していく中で起こったルーマニア革命時に捕縛後、独裁時代に国民の生活を省みなかったとして婦人とともに公開処刑されております。

 しかし処刑後、当時にルーマニアの政治を取り仕切っていたのは高級官僚たちでチャウシェスク自身は国内がどんな状況にあるか全く知らない裸の王様だったのではないかと言われております。またそうした声を受けてか革命後の国内調査でも、市場経済化によって失業者が増え、最低限のパンは配給されていた共産主義時代が懐かしいと国民の六割が答えたそうです。
 何気にタイムリーな事に、この前ベルリンの壁崩壊から二十周年記念がベルリンで行われていましたが、その際のインタビューにて元東ドイツ住民が似た様な事を言っていました。

 このチャウシェスクの次に有名なルーマニア人と来ると、こちらも大分古い人物ですがナディア・コマネチが来て、その次辺りには女子マラソンでいつも二位だったリディア・シモンがいます。

 そんなルーマニアの現在の状況ですが、ドゥーフェイによるとやはり貧しい国だそうです。首都のブカレストはまだしも、農村に行くと未だに農業機械が全くないために牛や馬が中心の農業が営まれており、身内への贈答品にはなるべく大きな動物ほど喜ばれるそうです。

 そして先ほどのチャウシェスク関連になりますが、共産主義時代と今とを比べてどうかと尋ねたところ、彼の場合は率直に今の時代の方が良いと即答しました。恐らく彼がこう答えた背景には彼がルーマニアの国民の中でも比較的裕福な出身による影響が大きいと私は見ていますが、彼が今の時代の方が良いという理由について語った中に、以前はお金があっても何も手に入れることが出来なかったが今ではお金があれば何でも買うことが出来るというのがありました。そのような今なら手に入れられるものの代表格として彼が挙げたものの一つに、意外なことに蜜柑が真っ先に挙げられました。

 なんでも共産主義時代は西側との貿易が許されず、蜜柑などといった柑橘系の果物が一切入ってこなかったそうです。これまた元東ドイツの話になりますが、ちょっと前の東ドイツの若者は電車の中だろうと街中だろうとみんなバナナを手に持って食べ歩いていたそうなのですが、彼らが子供だった旧東ドイツ時代はバナナを一切触ることすら出来ず、その反動で元東ドイツで子供時代をすごした現代のドイツの若者は今貪り食うようになったと言います。話を聞く限りだとルーマニアでもほぼ同じ状況だったそうで、ドゥーフェイ自身も暇さえあれば蜜柑を買って食べていました。

 私自身、行った事もなければ勉強したこともありませんが、東欧諸国というのはこのように貧しく、また厳しい生活環境にある国が多いそうで、自殺率のランキングも上位をこの東欧諸国がほとんど占めます。もし機会があればそれこそこのルーマニアやウクライナなんかに私も出向いてみたいのですが、何時になることやら。
 さて次回はドゥーフェイの個人的な話を紹介します。今日はまだ短くまとめられた。

2009年11月19日木曜日

北京留学記~その二一、ドゥーフェイ①

 本来なら時間があるであろうこの前の土曜日に今日の内容を書こうと思っていましたが、すでに何度も書いているようにインフルエンザによってそんな体力もなく、周り回って本日に執筆する事になりました。それほどまでに気合が必要な今日の内容というのも、私の留学中のルームメイトであるドゥーフェイです。

 このドゥーフェイという名前は彼の本国での本名からつけられた中国語の読みで、名前を漢字で書くと「吐飛」になります。この名前は彼の母国での正式な名前である「ドミトリー」から、彼が中国に留学してすぐ学校の関係者によってその場でつけられた名前だそうです。割合中国人らしい名前ですが、欧米人はこのように中国語を学ぶ際に自分の名前の漢字を決めなければならないので、こうした名前のことをよくチャイニーズネームと称して分けています。日本人や韓国人は元から漢字名ですけど。

 そんなドゥーフェイですが彼の出身国はルーマニアで、ウクライナ人の父親とルーマニア人の母のハーフです。両親のうちどちらか(恐らく父親)の仕事が外交官だったらしく、経済情勢の厳しい東欧出身ながらも弟もオーストラリアに留学中だそうで、本国では裕福な家庭なのだと想像できます。
 私と会った時の彼の年齢は大体25歳でしたが、なんでも本国の大学で物理学を学んだ後に一時期教師をやった経験があり、しばらく職に務めた後から中国語を学ぼうと留学に来たそうです。どうして中国語を学ぼうと思ったのかまでは聞きませんでしたが、全く中国語が喋れない状態でいきなり中学に来て、当初はいろいろと苦労が絶えなかったそうです。

 性格は至って温厚で、非常に静かで親切でな人間でした。やってきた当初はノートパソコンを持ち合わせていなかった私に対し、彼は自分のパソコンに別ユーザー登録をした上で自由に使わせてくれました。
 このドゥーフェイは私が中国に着いたその日から帰国の日まで毎日一緒に過ごした相手なだけに、書く事も膨大な文だけあります。そこで今日は彼から聞いた彼の母国ルーマニア事情と東欧についてを中心に紹介していきます。

 まず一口に東欧と言っても、その事情や日本との関係は様々です。大まかな定義としては旧ソ連時代はソ連側についていたヨーロッパ諸国で、冷戦崩壊後は資本主義陣営の国とは技術や経済の面で大きく立ち遅れており一般的には貧しい国が多いです。目下の所で日本と関係が深いと言えるのは今も大相撲で活躍する琴欧州関の出身国であるブルガリアで、他の東欧諸国のほとんどが日本へは一時滞在にも渡航ビザの取得が必要なのに対して、ブルガリアだけは何故かビザなしで入国できます。

 ではドゥーフェイの国のルーマニアは一体どういう国なのかですが、中国語にすると「羅馬尼亜」と書き、発音も「ルゥオマァニィーヤァー」と発音します。日本語でルーマニアと読むとちょっと分かり辛いですが、この国名の意味というのは「ローマを受け次ぐ」という意味で、「ローマニア→ルーマニア」という風に日本語では表記が変わって行ったそうです。この国名の由来の通りに昔のルーマニアは古代ローマ帝国の民族系統をそのまま継承していると自称していたそうですが、実際の所はルーマニア人達もそれはないだろうと認識しており、また詳しい研究でもやっぱり少し違うそうです。しかしスラブ系、ゲルマン系が多い東欧の中で唯一と言ってもいいくらいラテン系の民族で国民が占められているという事実は珍しく、主要言語であるルーマニア語ももちろんラテン語圏に入ります。
 日本人からすると想像し辛いですがラテン語圏の言語は細かい違いなどあれども共通単語が多いため、文法を細かく問わないならばルーマニア人はフランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語も聞いてて理解できるそうです。実際にドゥーフェイもNHKにて中継されていたジーコのWカップでの言い訳を内容を違えず見事に聞き取っていました。

 そんなルーマニアの外交関係について聞いてみた所、まずドゥーフェイの口から出てきたのはヨーロッパ唯一のアジア系民族国ハンガリーとの仲の悪さでした。ルーマニアの隣国であるためにかつては何度も戦争をしあった国同士であり、互いの国民で激しく憎み合っているそうです。
 ではかつての親玉、といってもチャウシェスク時代からも仲は悪かったロシアとの関係はどうかと聞いてみたところ、これについても「決してよくない」と言われました。ただ私が、ルーマニアが認識するヨーロッパの最強国はどこかという問いに対しても「ロシアだ」と答えられました。

 日本はよくその国力をなんでもかんでも経済力で測ってしまう所があり、ヨーロッパの最強国となるとやはり経済力があり、EUの中心国家であるドイツがしばしば挙がってきますが、ドゥーフェイに言わせると軍事力と東欧における影響力を考えればロシアだと見ているそうです。
 もっとも、最強国と認識しつつもルーマニア人はやはりロシアが嫌いだそうです。理由はもちろんソ連時代の政策やら、やってきた共産主義者によってルーマニア自体も苦労を味わったという歴史からだそうです。ちなみに彼に言わせると、チャウシェスク死後の体制とは、「古い共産主義者の去った後に、新しい共産主義者が来ただけだ」だそうです。

 では日本人が恐らくヨーロッパの最強国と見ているドイツについてはどうかと聞いてみると、やはり経済のドイツは伊達じゃないらしく、ルーマニアの若者はみんな本国に仕事がないのでドイツに出稼ぎに行くそうです。ルーマニアの一般人は高校を卒業するや皆でドイツに行き、二年か三年かけてお金を貯めるてから本国の大学に進学するそうです。今の日本人学生にも聞かせてやりたい。

 案の定収拾がつかないほど長いので、続きはまた次回に。

2009年11月3日火曜日

北京留学記~その二十、連美香

 他のクラスメートの名前はカタカナ下記でしたが、今日紹介する彼女については漢字名も詳しく覚えていたのでこの表記で通します。さてこのところこの体験記で続いているクラスメート紹介もとうとう最終回ですが、オオトリを締めるは祖父が中国人クウォーターであるタイ人の連美香です。彼女は三人姉妹の真ん中っ子で、留学には姉妹三人で来ており、時たま授業をサボる事はあっても比較的出席率の高い真面目な学生でした。

 留学中の授業は日本の大学同様に基本的に席順は決まってはいないものの授業開始から大体数週間もすればみんな同じ位置に座りだすのですが、私の席の隣に陣取るようになったのがこの連美香でした。それこそ最初はやけに服装が派手なスペイン人の姉さんが隣でしたが二週間目くらいから彼女が隣に来てその後卒業までずっと隣同士でした。とはいえ隣同士になったから妙なロマンスとかが始まるわけでもなく、他のクラスメートと比べて休み時間に雑談を交わすことが多かった程度でした。ただそうした時間が多かったおかげとも言うべきか、彼女からはタイの国の状況から風習まで結構詳しい話を聞く事が出来ました。

 ただそれほど私と会話する事の多かった連美香でしたが、実を言うと当初私は彼女に対してあらぬ疑いを持っていました。その疑いというのも、彼女の出身国がタイということもあって見かけは明らかに女性ですがもしやニューハーフではないかという疑いでした。普通ならそれとなく聞くべきなのでしょうが私はこういうところは妙にストレートに聞くことがあり、ある程度仲良くなった時点で直接、「タイにはニューハーフが多いけど、まさか君は違うよね?」と言い出す始末でした。もちろん、笑いなら彼女は否定してくれましたが。

 その時の会話の延長線でそのまま、日本人はタイにニューハーフが多いというイメージを持っていることについて詳しく聞いてみましたが、タイ人もそのようなイメージについては自分達でも認識しているようで、
「確かに、私達の国はニューハーフが多いけど、それはあまり私達が性別にこだわらないからだと思う」
 と、至極適切な返答をしてくれました。ただ性別にこだわらないというのはそのようなニューハーフかどうかというラインだけで、女性の社会的な地位については日本と同じく、いやそれ以上にジェンダーフリーは進んでおらず、何でも彼女が通った近所の進学高校では生徒のほとんどが男子で肩身の狭い思いをしたそうです。というのもタイの女子はほとんどが日本の昔の女子高のようなところに進学するようで、彼女の両親は教育環境を考えて近くで唯一共学で入れそうな進学校がそこに進学したそうです。

 その話を聞いた後、今度は逆にタイ人は日本人に対してどんなイメージをもっているかと聞いてみたら、なかなか外では聞けない面白い返答をしてくれました。やはりタイでも日本人と言うとビジネスマンを想像するらしく、技術があって商売のうまい民族といったイメージだそうです。だがあくまでそれは今の話であって、昔はどうもタイ語で「小さい人」と揶揄していたそうです。
 この言葉の意味は素直に侮蔑を込められており、二次大戦の最中にタイに進軍した日本人を心苦く考え、同じ侵略者でも欧米人より小さい奴、という意味合いで使っていたそうです。どことなく中国語における日本人への侮蔑語の、「小日本」に近いような気がします。

 またこの時とは別の時にちょうどタイの当時の首相であるタクシン元首相が、タイの国王に辞職を勧められた際には国の制度について聞いてみました。
 基本は日本と同じ議院内閣制で、最も権力があるのはやはり首相だそうです。そして前から気にかかっていた、タイにおける国民の国王への意識はどうかと聞いてみたところ、やはりと言うべきか絶大な信頼を語って見せました。

 タイでは国民すべてが国王を信頼しており、王制についても断然存続すべきだと皆考えていると答えていました。なおこの時に私は日本の天皇制について彼女に教えましたが、存続するべきだという意見は強いが、日本の天皇はタイの国王のように政治には一切介入する事を禁じられていると教えたら驚いて聞いていました。

 最後に、アジア人は欧米人と比べてどこでも実年齢より低く見られる事が多いといわれていますが、私もこの例に漏れず連美香が女性の中で体格も小さい方だったこともあってずっと年下かと思っていましたが、卒業する間際で自分より年上だとわかってびっくりさせられました。その驚いた事を正直に話したら、向こうは向こうで私の事を高校生くらいだと思っていたそうです。知らぬは自分ばかりとはいうものです。

2009年10月24日土曜日

北京留学記~その十九、フェイシア

 今日もまた私の留学中のクラスメート紹介です。あまり反応ないから読まれている方にとって面白いかどうかはわかりませんが、一応昔に書いたものなので表に出させてください。

 今日紹介するのは、フェイシアという名前のフランス人女性です。詳しい場所までは聞きませんでしたが、出身地はフランスの中でも恐らくパリとは違って田舎の方だと思います。というのもこのフェイシアは外見からしてフランスの上品なイメージとはほど遠いごつい体格をしており、また性格の方も見かけを裏切らずに思った事をすぐ口にする性格で、なんていうか見ていて大阪のおばちゃんを髣髴とさせる人でした。

 そんな彼女のエピソードの中で今でも強く印象に残っているのは、彼女が乗ったタクシー運転手との会話です。なんでもフェイシアが中国であるタクシーに乗った際に運転手が彼女が北京語言大学の学生だとわかるや、

「俺はあそこにたくさんいる日本人と韓国人は絶対に乗せたくないんだ」

 と言ったそうです。その話をフェイシアは授業中にて紹介し、以下のように付け加えました。

「本当にひどい運転手だわ。私が会う日本人はみんな礼儀正しくていい人ばかりなのに、あのタクシー運転手は絶対に間違っている。でもま、韓国人ならしょうがないわよね┐(´ー`)┌」

 ということを、思い切り言ってのけてしまいました。
 その日はたまたま韓国人留学生が誰も授業にきていなくて先生もほっとしてましたが、その後のWカップの期間中に韓国の予選リーグ敗退が決まった翌日にもフェイシアは朝からえらくテンション高く、

「ざまぁみろ韓国が。Wカップで勝とうなんざまだまだ早いのよ( ^∇^)」
「それを僕の前で言うの?(´д`;)」

 と、この前紹介した韓国人の李尚民が、苦笑いを浮かべながら対応に困っていました。もちろんお互いに冗談だとはわかっていますが。

 こんな具合に歯に衣着せぬフェイシアでしたが、その見かけどおりにどうも姉御肌な性格なのか周りの気配りは非常によく、テスト後で授業の空いた日にクラスで映画を見る日にはわざわざ自分でクレープを焼いて持ってきてくれました。また後述する表演会の練習も非常に熱心で、自ら進んで太極拳の型を覚えていき、練習の後半ではまだフリを覚えきれていないほかのクラスメートの指導も懇切丁寧に行っていました。

 そんなフェイシアと私の交流はというと、こんなことがありました。
 授業の休み時間の合間、フェイシアは別の日本人男性に「エクセルサーガを知っているか?」と尋ねているのを私は聞いてました。その聞かれた当人は知らなかったのですが、それから数日経ったある日に私からフェイシアに、

「前にエクセルサーガを知っているかって、○○さんに聞いてたけど、俺は知ってるよ」
「えっ、あんたオタクだったの!?」

 ここで出てきたエクセルサーガというのは、六道紳士という漫画家が書いている漫画作品の事です。詳しい内容まではここで説明しませんが、こんなタイトルをわざわざ日本人に聞いて来る上に日本のアニメが大ブームとなっているフランスゆえに、もしかしたらフェイシアは日本のアニメに相当は待っているんじゃないかと思って聞いてみたら案の定そうでした。

「私は今、一番はまっているのは「Fate・stay・nights」って作品なんだけど、あれは本当に面白いいわね」
「それを作った連中が前に作った「月姫」なら友人が持ってるけど、まだ俺は見ていないんだ」
「私はそれももう見たわよ。早くあんたも見なさい( ゚Д゚)ゴルァ !」

 という具合で、どっちがオタクなんだよと言いたくなるような会話を交わしました。もっとも日本のアニメマニアはフェイシアに限らず、北京語言大学に来ているドイツ人などでも比較的沢山いましたが。

2009年10月21日水曜日

北京留学記~その十八、クォシャオレイ

 また本店のトップページにアンケートツールを置きました。前からこんな長ったらしいブログを読む年齢層が気になっており、もしよろしければ自分がどの年齢層にいるのかをお答えいただければ幸いです。私の予想では、案外40代が多いんじゃないかと勝手に想像しています。まぁその層が答えるかどうかまでは微妙ですが。

 話は本題に入りますが今日もまた留学記の人物紹介で、前回の「クゥオスダー」の回でも出てきたクォシャオレイについてです。ちなみにこの名前は、中国語での発音です。
 クォシャオレイは年齢は二十台半ばくらいの眼鏡の似合うドイツ人男性でした。授業の出席率も高く、全く寡黙というわけではありませんでしたが如何にもドイツ人らしく落ち着いており、遠めに見ていてクラスメートの中で私が一番一目置いていた人物でした。

 そんな彼のエピソードの中で一番強烈だったのは、前回登場したウクライナのいたずらっ子ことクゥオスダーとの絡みです。この二人はどういうわけか仲がよく、というよりもクォシャオレイにクゥオスダーが一方的に絡み続けただけだったのかもしれませんがよく一緒に行動しており、授業中でもしょっちゅうクゥオスダーの作文にクォシャオレイが登場してたりしました。

 その事件が起きたのは、12月の寒い日でした。その日はクラスメートのアンナというロシア人女性の誕生日で、北京語言大学の隣にある中国地質大学内のレストランの一室を借りてみんなで誕生日会をやっていました。ちなみにこのときにアンナの友人の中国人も一緒でしたが、この中国人は私に会うなり物凄い勢いで話しかけてきたのでもう少しゆっくり話してと言ったところ、
「君は中国人じゃないのかい?」
 と言われました。別にこんなこと言われるのはこの人に限るわけじゃないけど。

 誕生会自体は他のクラスメートも多く参加して終始和やかに執り行われていましたが、宴もたけなわとなる終盤になんと一挙に三つもでっかいバースデーケーキが運ばれてきて、これみんなで食べられるかなぁなどと言い合っていると、

「ヘイ、クォシャオレイ!( ゚∀゚)ノ」
「ウェ、ウェイッ、ウェーイット!Σ(゚Д゚;)」


 この日の誕生日会に同じく参加したクォスダーがなにやら突然立ち上がると、運ばれてきたケーキ一切れを掴むや不敵な笑みを浮かべていきなりクォシャオレイの顔面目掛けて投げつけてきました。しかも全然手加減なんてしないもんだから、投げつけられたケーキはクォシャオレイの顔面に当たるや見事に四散して周囲の人まで巻き添えを食いました。
 これに対して普段は静かなる男クォシャオレイもさすがに怒り、負けじとケーキを掴むや投げるなんてことはせずに直接クォスダーの顔に擦り付けてきました。しかも二度も三度も。

 こんな事があったせいで借りた一室の壁は見事にケーキまみれになってしまい、みんなで頑張ってふき取った上でお開きにしました。とはいえ誰も誕生日会が台無しになったとは言わず、えらいハプニングがあって面白かったと言い合いながらその日は家路に着きました。私もこの時、初めてケーキが空飛ぶのを見たわけだし。

 こんな感じで年がら年中クゥオスダーに絡まれ続けたクォシャオレイでしたが、ある日学内のカフェでばったり会い、せっかくだからとテラスで二人でコーヒーを飲みながら雑談した事がありました。当時はWカップの開催直前という事でお互いにサッカーの話題を行っていましたが、前から気になっていたドイツの事情について尋ねてみました。

「前から気になっていたんだけど、クォシャオレイの出身地は元西ドイツ? それとも東ドイツ?」

 こう聞いたのも、授業中の彼のある発言からでした。
 ある日の授業で先生が我々外国人留学生から中国人を見るとどう思うかと尋ねると、真っ先にみんなで「行列に並ばない」と答えました。すると先生はじゃあ何で中国人は行列に並ばないのだろうかと再び聞いたところクォシャオレイが真っ先に、

「並んでも、欲しいものが得られないという事がわかっているからだ」

 と答えたことがありました。先生もその通りといって、文化大革命期のそのような文化が未だに残っているのが原因だろうとまとめてくれました。

 私はこのクォシャオレイの発現を聞いたとき、ひょっとしたら彼は元東ドイツ領内で生まれたのではないかと思いました。東ドイツもかつての共産圏の一角でその崩壊するずっと以前から食糧などの物資不足がよく起こっていたと聞いていたので、だからこそあのときに真っ先に正解を言い出すことが出来たのではと考えたからです。
 ただ残念ながら彼の出身地は元々西ドイツ領内で、現在も旧東ドイツ領内の都市との経済格差などが大きいなどと教えてくれました。

 また彼の出身地のほかにも、ドイツの徴兵制についても確認を取ってみました。この留学に来る以前から私はドイツにも徴兵制があると聞いており、ただドイツの場合は二次大戦でのナチスの反省から、外国で一定期間ボランティア活動に従事すれば徴兵が免除されると聞いていたので、この事実は本当なのかと尋ねてみました。
 この私の問いにクォシャオレイはそうだと頷き、自分はそのような海外ボランティアの方が面倒に思ったので素直に徴兵に行ったと答えてくれました。さすがに、期間までは確認しませんでしたが。

 このように常に紳士的な態度でいろいろ教えてくれ、また授業中にもキラリと光る発言をよくしていたことから最初に述べたように私は彼に一目置くようになったわけです。

2009年10月19日月曜日

北京留学記~その十七、クゥオスダー

 留学中の私のクラスで一番はっちゃけていた人間の出身国はどこかとなる、恐らくアメリカやブラジルといった国の人を連想するかもしれませんが、私のクラスではなんとあるウクライナ人が毎日際立つ行動をしてはクラスの間で毎日騒動を起こしていました。そんなウクライナのいたずら猿こと「クゥオスダー」について、今日は紹介しようと思います。

 まず彼の特徴として美男美女の産地として有名な東欧出身らしく体格は小さかったものの非常に美形で、年齢は確か21歳くらいだったと思いますが好奇心旺盛な性格をしており、同じクラスの私に対して日本人である事から、

「PS3の発売日はいつになる?」
「日本酒のアルコール度数はいくらだ?」


 などと言っては気さくに話しかけてきてくれました。
 しかしそんな気さくなクゥオスダーですが、気さく過ぎるというか空気を読まないというか、毎回際立った発言や行動をとっていたのでクラスの中で付いたあだ名は「猴子(猿)」で、本人もそう呼ばれ始めてからは自ら猿の真似をするくらいノリノリな人物でした。

 そんな彼が具体的にどういうことをしでかしていたのかいくつか例を挙げると、学期末でテストも終わり、特にすることもない空いた授業時間にみんなで中国語の映画を見ようか先生が提案し、それじゃあみんなで何を見ようかと言うやクゥオスダーは間髪入れずに、

「黄色電影(ポルノ映画)!( ゚Д゚)/」

 と言い出し、そんなのを放映したら私がクビになると先生を困らせましたが、

「でもクォシャオレイ(同じクラスのドイツ人)は喜ぶよ(・∀・ )っ」
「馬鹿っ、こっちにまで話振るな!Σ (゚Д゚;)」


 という具合で、隙があればいくらでもなんにでもふざけようとするする人間でした。ちなみにさっきに出たクォシャオレイは彼の相方みたいなもので、なんでもかんでも悪い事が起きたらクォシャオレイのせいにしようとしていました。

 授業中ですらいつもこれなのですからプライベートでの彼の行動は更に常軌を逸しており、クラスで北京の激しく危険な交通事情について話していた際にクゥオスダーがバイク通学している事が話題になり、北京市では交通法に規制があってバイクは許可制なのですがちゃんと許可を取っているのかと先生が尋ねると案の定そんな許可は取っておらず、しかも、

「こいつはそもそも本国ウクライナでもバイク免許を持っていない(´д`)」

 という、とんでもない事実までもクォシャオレイに暴露される始末でした。

 こんな具合で主にクォシャオレイを筆頭に年がら年中クラスメートにちょっかいかけたりしていましたが、そのひょうきんな性格から誰からも恨まれる事はなく、私としても同じクラスメートとして一緒に勉強できて非常に楽しかったです。特に一番楽しかったのはこれまた同じクラスメートであるロシア人のアンナの誕生会での出来事でしたが、それはまた今度別の記事で紹介します。なんにしても、見てて飽きない奴でした。

 ちなみに彼とのプライベートでの付き合いでは夜に一回ほど学内のBARに誘われ、そこで彼のつれてきたロシア人ともども酒盛りをしました。さすが酒豪大国出身なだけあったクゥオスダーもそのロシア人も店に着くなりビールをがばがば飲むと、持参してきたウォッカもどんどんと開けて飲んでいきました。
 その際、酒に弱い私も多少の興味があってウォッカを飲ませてもらいましたが、思っていたほどきつい味ではなく、喉越しもそんなに悪くない酒でした。後で私の相方に当たるウクライナ人のドゥーフェイによると、ウォッカというのは元々二日酔いや頭痛といった悪酔いを起こさせる酒ではないそうで、事実私もその晩はきちんとまっすぐに歩きながら寮に帰っていきました。

 ただアルコール度数はやはり高いだけあって、寮に戻った後にシャワーを浴びようと服を脱いだ瞬間、自分の体の異変に気が付きました。なんと体のあちこちに紫色の斑点が出来ていて、腕なんかそれこそ蛇みたいな見事なまだら色になってました。ただそうした変化はその日一日だけで、次の日には二日酔いもなくその斑点も消えて、特に変な事にはならずに済みました。

 最後に彼の発言の中で私が印象深く聞こえたもののとして、「ロシアとウクライナは兄弟だ!」という発言があります。現ウクライナ大統領のユシチェンコ氏は反ロシア色の強い政治家ですが、歴史的にはウクライナとロシアは歩調をともにしていることが多く、このクゥオスダーの発言からすると必ずしもウクライナ人全員が反ロシアではないと確認出来ました。

2009年10月17日土曜日

北京留学記~その十六、李尚民

 この北京留学記もこれでもう十六回目、といっても一回番号振り間違えてダブっている回もあるのですがそれは置いといて、ようやく内容も充実してくる場面にまで持ってくることが出来ました。
 本日からある意味この体験記の核心部分とも言うべき、留学中に私が出会った人達の証言やエピソードを紹介していきます。何度も言いますが私の留学した北京語言大学というのは外国人に中国語を教えるために作られた大学で、カリキュラムや受け入れ態勢も各国ごとにある程度整えられている事からそれこそ世界中から中国語を学ぼうという学生が集まるゆえに非常に国際色豊かなキャンパスでした。そのような環境ゆえに中国人に限らず様々な国の人間と留学中に私は交流することができ、今も胸を張って大きな財産だといえる経験をこの時期に得ることが出来ました。今後この留学記ではしばらく、そんな留学中に出会った人達のエピソードを紹介していきます。

 そんな大層な前フリから始まった今日の第一発目の紹介人物ですが、題につけた名前からもわかる通りに韓国人男性で、この漢字での中国語の発音は「リーシャオミン」を今日は紹介します。この李尚民は私と同じくらいの年齢で確か当時二十歳くらいで、私と共に一年間一緒に同じクラスで勉強した同級生でした。私のクラスに居た韓国人は彼以外にも数人の女子学生とシーナンジャオという名の男子学生もいたのですが、彼らは李尚民と違って全期ではなく半期だけの留学で帰っていってしまいました。

 もののついでですから先にシーナンジャオについて軽く説明しておきますが、彼は韓国国内にて既に徴兵を終えてから留学に来ており、夏場の暑い時期に彼の薄着姿を見ましたがやはり一般の日本人男性と比べてもがっしりとした体格でした。ちなみに留学中の韓国人男性を徴兵済みかどうかを見分ける一つの指標として、徴兵終了時に記念品として配られるタオルを持っているかどうかというのが最も簡単な方法でした。

 話は李尚民に戻ります。彼はこう言っては何ですが韓国人男性にしては珍しく非常に大人しい性格でした。授業の出席率も高くて宿題もちゃんとやってきて、よくサボっていた前述のシーナンジャオとは本当に正反対でした。
 それゆえか私も留学中には隣のタイ人の女の子とばかり世間話をしていたものだから、李尚民とはそれほど頻繁に話すことはありませんでした。ただ幾度か互いに一人の時にばったり会っては長々話をしたことがあり、今回ここで紹介するのは主にそのような場面での会話です。

 まず一番最初に思い出されるのは冬休みの間、食事のために食堂に行ったらそこでばったり会った時の話です。それまでにあまり世間話をなどをした事ない二人ゆえに、お互いに無難に互いの国の知っている人間の話題をこの時しました。
 まず最初に切り出してきたのは李尚民からで、「ねぇ、韓国人で誰か知っている人がいる?」と言い、私が口を開く間もなく続けて、「ヨンサマ?」と聞いてきました。やっぱり韓国人も当時のヨン様ブームの事を自認していたようです。この李尚民の問いかけに私も、そりゃあ彼は有名人だからねと頷きながら続けて、「あと金正日もよく知っているよ」と言った際、私だけかもしれませんがちょっと興味深い返答が返ってきました。
「なんで、金正日が嫌いなの?」

 韓国人は支持政党によってかなり考えに隔たりがあると聞きますが、私はこの時に彼の家は北朝鮮寄りの家なのではないかと思いました。というのも日本人の間ではわざわざ金正日が嫌いな理由を尋ねたりすることはなく独裁国家の大悪人で一致していますが、韓国では国境が接しているためか北朝鮮に対する意識が大きく二分されており、言うなれば殲滅派と和平派で両極端だそうです。この時の李尚民の問いかけからは北朝鮮に対する嫌悪感や憎悪といった感情は微塵も感じられず、あくまで私の直感ですが前韓国政権のようないわゆる和平派なのではないかと推測しました。
 しかしこんなことを腹の中で考えてはいるもののまさか正直に、「君は北朝鮮寄りなのかね?」などと言えるわけもなく、ひとまず話を適当に流そうと思って、「あの髪形はないでしょ」と冗談言って流しました。

 その後はソニン、ユンソナ、小泉純一郎と有名人を挙げていき、ゲームの話題に映ったところで韓国でも日本のゲームは結構普及している教えてくれ、彼自身もサッカーゲームの「ウィニングイレブン」をよくやったと言っていました。また同じゲームの話題だとこちらは授業中のやり取りで出てきた話ですが、なんでも彼が子供の頃は周りの友達にはみんな親からパソコンを買ってもらっていたのに彼の親は厳しくて買ってくれず、周りがパソコン使ってゲームをやっていたのがうらやましかったとも言っていました。

 そんな李尚民と最後にゆっくりと話をしたのは一年間の留学生活を終えて帰国する前に行ったクラス打ち上げ前で、お互いに律儀なもんだから待ち合わせ場所に早くから来て他の同級生が来るまで二人でいろいろ話しました。ちょうどその打ち上げ前にHSKという中国政府が行う中国語能力検定をどちらも受けており、その成績についての話題がまず最初に出てきました。このHSKというテストは取った成績によって一級から八級まで成績分けされ、八級が最も良い成績なのですが私も李尚民も七級を取得していました。
 私はこの成績で満足していたのですが李尚民は周りには納得しているといいつつも、八級を取得すれば韓国政府、もしくは大学から奨学金がもらえたらしくて、内心では八級を狙っていたので少し残念だったと話していました。

 そんなHSKの話の後、最後なのだから思い切ってきわどい事を聞いてみようと徴兵にはもう行ったのかと訪ねてみたのですが、なんでも彼は以前に中学校か高校の部活中に足を怪我してしまい、そのせいで徴兵検査に落ちて徴兵が免除されていたそうです。韓国では徴兵に行かねば立派な成人男性と見られない風潮があると別の人から聞いたことがあるのですが李尚民としてもやはりその様で、徴兵免除を受けた際には非常に落ち込んだそうです。しかしその後、実際に徴兵に行った彼の友人らから軍隊生活の過酷さを聞くにつけて自分はラッキーだったと思うようになり、今はもうあまり気にしていないと話していました。

 以前の記事でも書きましたが、中国の大学において韓国人留学生は人数も多いことからしばしば集団的に粗野になりがちになります。実際に寮内で夜中まで騒ぐ韓国人学生を何度か私も目撃しており、中国国内でも以前に大きな問題として挙げられた事までありました。そんな中でこの李尚民は非常に穏やかで礼儀正しく、ちょっと気の弱そうなところをのぞけば本当にいいクラスメートでした。ただ唯一彼に対して私が残念だったのは、私の十八番である北朝鮮の女子アナの物真似で彼を一度も爆笑に追い込めなかったことでした。愛想笑いはしてくれたけどさ(つД`)

2009年10月12日月曜日

北京留学記~その十五、2006年ワールドカップ

 留学から帰国後、何故だか知り合いからよく聞かれた質問にこんなものがありました。

「Wカップに熱狂しすぎて、中国で何人か死んだんでしょ?」

 別にこのニュースを知らなかったわけではありませんでしたが、一体どんな風に日本で報道されていたのか気になるくらいの質問数でした。

 さてそんな2006年のWカップですが、当時実際に中国現地にいた私からすると確かに、そりゃ死ぬわなという程の熱狂振りでした。ここでちょっと解説しておくと一昔前まで中国で人気のスポーツときたらピンポンこと卓球でしたが、周りまわって現代では圧倒的とも言うほどサッカーの人気が一番高くなっております。そのサッカーに次いで特に若者の間で人気なのはバスケットボールで、アメリカのNBAにも中国人選手がいるという事もあって注目されております。

 話は戻って当時の現地での過熱振りですが、それこそ新聞の一面は毎日Wカップ関連で、試合の放送も深夜に放送されるリアルタイムでの放送と昼間での前日の試合分の再放送の二本立てで、熱心なファンともなると同じ試合を二度も見るほどでした。
 そうしたサッカーへの過熱ぶりは中国人に限らず、私の通っていた北京語言大学内も例外ではありませんでした。

 この連載記事で前述してあるように北京語言大学は欧米からの留学生が多い大学で、Wカップともなるとサッカー好きの彼らが黙っているわけなく、それこそまるでお祭りになったかのように学内はWカップで一食となりました。構内のカフェや売店前を通ると全部が全部Wカップの話題で、授業日でも休み時間になってはクラスメート同士で盛り上がり、中にはチョークで頬に即席で国旗ペイントまでし始める者までいました。
 そして、Wカップが始まる前から自分の中ではある程度予期はしていたものの、恐れていたことがある日にとうとう起きてしまいました。

(先生)「没有人……(誰もいない……)」

 その日の朝、授業開始時間になっても教室にいたのは自分と先生だけでした。
 というのもWカップが始まって以降、どの学生も夜中ずっと試合を見るために朝の授業をサボり始め、この時期はどのクラスでも学生が授業に来なくなっていました。私のいたクラスは先生と学生の信頼関係が強かったようで他のクラスよりは随分とマシだったそうですが、元からサボりまくっていたウクライナ人を筆頭に徐々にサボる人間が増え始め、とうとうその日には私と先生しか来なかった訳です。しょうがないから、二人で宿題の答え合わせをやったけど(ノД`)
 
 幸い二人きりだったのはその日だけで、その日も開始後二十分もしたら徐々に他の学生も来ましたが、この日以外だとWカップ期間中は平均して大体三、四人くらいしか授業開始時に集まっていませんでした。しかも来るのは決まってアジア勢で、欧米勢ともなると全休も少なくなかった程です。

 ついでにここで説明しておきますが、向こうでの授業は最低出席数さえ守れば進級できるので、日本人だろうと欧米人だろうと日本の大学同様にしょっちゅうサボってこなかったりします。それに対して私はやっぱり特殊で、日本の大学でも基本的にはほぼサボることなく何かしらの講演会などと重ならない限りは確実に授業に出席しており、留学中に至っては全日出席を見事達成しました。
 ただ一回だけリアルに寝坊して十時くらいに教室に入った事がありましたが、先生もクラスメートも私が毎日来ていることを知っているもんだから教室に入るや否や大笑いして、先生も、「何も言わなくてもわかってる。今日はたまたま遅刻したんだねヾ(^^ )」と言う始末でした。

 こうした状況に語言大学側も一応は注意するもののほとんど効果はなく、中には一限の授業に誰も来ないで終わってしまっていたクラスも珍しくなかったそうです。そんなことを先生が話していると、上記のように私の出席率が高いもんだからある学生が、

「うちのクラスには花園がいるから大丈夫だよ(*^▽^)/」

 と、言ってくれました。実際、自分でも自分がこのクラスの最後の砦なんだと意識してましたが。

 そんなWカップですが、語言大学の中で一番熱狂した集団となると欧米人ではなく、実は韓国人でした。
 語言大学のすぐ近くの五道口という地域は、成り立ちはよく分かりませんが結構にぎやかなコリアタウンとなっており、街中にはいたるところにハングル文字が書かれているだけでなく韓国料理屋も非常に多い場所です。そんな場所だからと言うべきか、そんな地域の近くに語言大学あるからというのか、この年のWカップ韓国初戦時ともなると大学の周辺地域は文字通り真っ赤に染まっていました。

 語言大学でも多数派を占める韓国人留学生らは揃いも揃って赤い衣装を身に付け、中にはまだ肌寒い時期だったのに真っ赤な、それもほとんどブラジャーのような服だけ着た韓国人女性も寒そうに歩いていました。それこそ一体どこにこれだけ潜んでいたかと思うくらいの韓国人学生が集結して、大学近くのビアガーデンでもあっという間に商品が売切れになったほどでした。

 おまけにその日の試合で韓国が見事勝ったもんだから、夜11時くらいなのにあちこちで、「テーハ、ミングっ!」の大合唱まで起こり、寮の中にいた自分にも外から聞こえてきました。周辺住民も迷惑だったろうな。
 さすがに二戦目のフランス戦は深夜の試合だったこともあって以前よりは落ち着いてはいましたが、それでも相変わらずの熱狂振りで韓国の同点ゴールの際には寮の中であろうと平気で大声で歓声を上げてきたために、寝ていた私も飛び起こされたほどでした。この日だけは、韓国人と相部屋になる日本人みんなが嫌韓になる理由がよくわかりました。

2009年10月11日日曜日

北京留学記~その十四、民主主義の導入

 留学中のある日、いつものように売店の前で新聞やら雑誌の品定めをしていると見出しにて、「民主主義建立」と書かれた新聞があるのをみつけました。時期的には確か2005年の十月頃で、一体何の事かと思って新聞を買って読んでみると、中国政府が中国国内において民主主義を成立させるための過程、目標を書いた政府文書を発表したということが報じられていました
 この中国政府が発表した文書を敢えて日本風に言うならば、「民主主義設立白書」といった物ですが、正直言って初めて見たときはノストラダムスの予言書みたいなものかと不謹慎ながら思ってしまいました。共産主義国家を堅持しつつ、ここ近年はさらに党の影響力を強めようとしている中国においてそんな文書が出るはずもない、という風に思われる方も少なくないかと思われますが、面白い事に中国政府は結構まじめにこの文書を作っていました。

 中国についていろいろと調べている方にとっては当たり前かもしれませんが、実際に国を運営している共産党幹部ですら現共産党体制のままではいずれは破綻すると、かなり大きな危機感を持っております。彼らは表では民主主義を否定して共産党主義による政治体制の優越を主張していますが、内心では如何にして民主主義の政治体制の移行できるかを考えていると言われております。
 だとすると何故そう考えているのにすぐに民主主義に移行しないのかといううと、結論からとっとと言えばソ連の崩壊があったからです。ソ連末期のゴルバチョフ政権は共産主義体制から情報公開など急激に民主化路背に舵を切ったためにバルト三国を皮切りにどんどんと領内で独立が相次いだ上、守旧派と革新派に分かれて最終的には崩壊し、その後十年近くに渡って国内で混乱状態が続きました。

 中国はこのソ連の経過を大きな反面教師としており、民主化に移行するにも急激にではなく穏やかに移行せねば国内が大きく混乱すると見越しており、そのため現在においても共産党主義を打ち出しているわけです。その一方で民主主義を徐々に広めていこうというのが上記の一般報告文書で、この中ではまだ全国の体制については言及はほとんどありませんでしたが、地方の民主化については積極的な内容が書かれていました。

 ちょうどこの新聞を買った日、私が注目したその記事がその晩のニュースでも取り上げられており、その中では政府の役人が中国の農村にてこの文書を説明し、「これからは自分達で自分達の指導者を決めるんだ」と話していました。
 実は今の中国で放置できないほど大きくなっている問題の一つに、地方首長の汚職があります。中国は広いので日本なんかより地方首長に大きな権限があり、地方の警察権から裁判権、果てには土地の強制収用権まで握っており、中には住民に無制限に税金を取り立てるうえに自分たちの都合のよい施設を建てるために住居民を追い出し、おまけにこういうものにつきものの賄賂まで横行しています。現在の胡錦濤政権になってからはこれらの汚職に対して厳しくはなり、年々検挙される地方幹部の数は増えてはいるものの、依然とまだ片付け切れていない問題として残っております。

 このような地方の首長も基本的には共産党支部内の指名で決まるのですが、こうしたものに対して恐らく中国政府は、こんな文書を作って説明するくらいなのだから徐々に選挙制度を導入して住民自らに首長を決めさせようというのが目下の目標なのだと私は見ています。日本の場合は国政選挙から選挙制度が広まった、言うなれば上から民主主義が徐々に広まっていきましたが、これに対して中国は下から民主主義を国内に広げようというのではないかと思われます。どちらにしろ、このような制度が中国で完成を見るまでに自分は生きていられるか、長い時間がかかるであろうことは予想に難くありません。

2009年10月7日水曜日

北京留学記~その十三、国際会議の報道

 私が中国に滞在中、NHKを見ていると非常に中継場所として映ったのが天安門前のホテルでした。一体どうしてそこから中継が行われるのかというと、六カ国会議の現場状況の中継が必ず映されたからです。

 2005年からもう四年も経って段々と影も薄くなってしまいましたが、この時期は北朝鮮の核問題の対処を巡る周辺五カ国を含めた六カ国会議が何度も北京で開催されていました。日本としても今より拉致問題への国民の意識が強かったために注目されていたのか集中して報道されており、何度も中継に出てくる北京を見ては随分とメジャーなところに来たもんだと思うほどでした。
 さてそんな日本の報道振りに対して中国のメディアはどのように報道していたかですが、こちらは靖国のときほど細かくはチェックしていなかったものの、やはり日本よりはまだこの問題に対する直接的な危機感が薄いせいか、本当に小さく報道しかされておりませんでした。当時の私の手記を読むとこの日中の六カ国会議報道の温度差について、

「心なしか、六カ国協議における日本の立場と同じものを感じる。」

 と、まとめております。


 この六カ国会議のほかに私が中国に滞在中にあった大きな国際会議というともう一つ、2005年12月における香港での世界貿易会議がありました。もっともこちらは先ほどの六カ国会議に比べて、ほとんどの日本人の方は何が起きたか知らないのかと思います。

 具体的にこの世界貿易会議で何があったのかというと、この時の会議での主要な議題は農作物の貿易自由化についてだったそうですが、会議中に主に韓国からやってきた農民の自由化反対グループと警官隊が衝突し、警官隊が催涙弾を撃つなどの騒ぎとなりました。当時チャンネルをつけるとニュース番組では特番や現場中継を設けるなどして大きく報道していましたが、まるで戦争映画化かのように催涙弾の煙が立ち込める中dエ警官隊と韓国人農民グループがぶつかっており、最初見たときには何事かと思ったほどでした。

 そんな中国での大きな報道振りに対して日本ではどうかというと、自分が調べた限りでは日本ではインターネットのYAHOOニュースとNHKが香港にて衝突が起こっているとだけで、まるで交通事故の一例を紹介するおざなり程度の報道しかされておりませんでした。試しに日本に帰国後にあちこちの友人にこのニュースの事を尋ねましたが、記憶している人間はただの一人もいませんでした。

 ではこの事件は中国国内であったことから大きく取り上げられたのかというと、ちょっと事情は異なるかと私は考えております。この時のテレビ中継をみている際に相部屋の相手だったルーマニア人と話をしたのですが、中継される暴動を見ながらお互いにアンチグローバリゼーションの抵抗運動だなどと、それぞれが知っている内容を伝え合いました。
 この「アンチグローバリゼーション」という言葉は以前にも、「日本語にならないアンチグローバリゼーション」という記事でも紹介していますが、要するに貿易の過剰な自由化は世界経済を成長させるどころか貧困を助長させるという主張で、自由化を促進させようとする世界会議が開かれるたびにあちこちでこの主張をしている団体が激しい抗議活動を行っております。なお、一番でかかったのは2001年のイタリアでの会議です。

 リーマンショックを起こった今だったら多少はこれらの主張も実感が伴うように感じられるので、今だったら報道の仕方も違ったかもしれませんが、世界の学生はこのアンチグローバリゼーション運動をみんな知っているのに対して日本人だけはほぼ皆無といっていいくらいこの流れを知らず、それが当時の報道にも現れたのでしょう。昨日に書いたオリンピックの報道でもそうですが、もう少し世界の動きや流れを日本人は意識して取り入れてもらいたいものです。

北京留学記~その十二、靖国参拝時の報道

 大分日が空いての連載再開です。現在この北京留学記とともに時間の概念についても連載をしておりますが、二つも重ね合わせるもんじゃないなと現在は激しく後悔しております。ちょっとこっちの北京留学記の方は集中して取り組み、早く終わらせないと(´Д`)。
 前回までは私の北京での生活など、主にこれから中国に留学を考えている方向けの情報ばかりでしたが、今回辺りからは当時でしか味わえなかったというか、リアルタイムで私が見聞きした現地の情報をオリジナルな解説を加えてお送りします。そんなまず一発目は、恐らく聞きたい方も多いであろう2005年の小泉首相(当時)の靖国参拝時の北京の様子です。

 2005年の10月17日、いわゆる郵政選挙といわれた9月11日の選挙での大勝の余韻も覚めやらぬこの日、小泉首相(当時)は在任中五度目にあたる靖国神社参拝を行いました。この靖国神社参拝はかねてより日中間の外交に影響を及ぼしており、特に中国側はA級戦犯を靖国神社が祀ってあることから日中戦争を日本政府が肯定するような行為だと激しく非難しており、この前年の2004年の参拝時には中国にある日本大使館や領事館前でデモや抗議活動、中には投石まで行われるほどの騒動となりました。

 そのためこの五度目の参拝時も再び反日活動や暴動が起こるのではないかと日本側は取り上げ、NHKの海外向け注意報でも中国に滞在している邦人に対して気をつけるように、またみだりに大使館周辺をうろつかないようにという外務省から出された注意が放送されました。また私の親父もわざわざ私にメールで外出を控えた方がいいのではと伝えてきたほどだったのですが、結果から言うとこれらはすべて杞憂に終わりました。

 私はこの参拝当日に中国のニュース番組を細かく確認していましたが、その報道振りはというと非常に事務的な内容ばかりでした。参拝に対してどう思うかというような街頭インタビューも少なく、ただ中国政府が日本に対して非難を行ったということを述べるのみで、前年、またそれ以前の中国から日本への抗議、非難の仕方からすると随分と大人しかったという印象でした。
 事実前年のあの反日デモはどこ吹く風か、大使館周辺でも目立った騒動は起こらず、北京市内の雰囲気ははっきり言って普段の日常と何も変わりませんでした。

 ここでは詳しい解説を行いませんが、何故このときに平穏を保ったのかというとやはり日中双方が事を荒立てたくない心理が作用したせいだと私は考えております。特に中国はそれまでの参拝時における中国国民の暴動に自身が相当に懲りたか非常に気を使っており、少なくとも国民を煽るような報道、抗議の仕方はしていなかったと断言できます。まぁそれを言ったら、中国人もさすがにもう五回目という事で、「またか('A`)モー」、ってな感じに受け取っていたのかもしれませんが。
 そんなこんなで、大体二週間もすると参拝した事すらみんな忘れてしまってました。