さすがにもうそろそろ時効かなぁと思うので、私が受けた採用面接でびっくりさせられた会社の話を一つ紹介しようと思います。
いきなり実名を挙げちゃいますがその会社というのは京都の「くろちく」という、なんか不動産とかアパレル、雑貨の販売とかいろいろやっている会社なのですが、数年前に私が就職活動をしていた当時、京都に住んでいたこともあって自転車でいける距離の近さから説明会、採用面接を受けてみたのですが、唖然とさせられたのはここの一次面接でした。
一次面接はグループ面接で、私と数人の就職希望者(確か全員女性)は他の会社でも聞かれるような型通りの質問に順番に答えていたのですがその途中、その場にいた一番えらそうな営業の社員の携帯がいきなり着信音付きで鳴り、「えっ?( ゚Д゚)」とした表情をする我々をよそ目にその社員は平気でその着信に出るや席を立ち、とっとと面接を行う部屋から出て行ってしまいました。
確かこの会社はそれほど大きい会社でもないことから当時の新卒採用にてコンサルタント会社に一部業務を委託していましたが、この事態に対してコンサルタント会社の女性社員が場を取り持って他の社員とともに面接を続けたのですが、確かそれから十分以上は面接が続いたものの結局その出て行った社員は戻ってこないまま面接は終わりました。しかしその面接終了時にも面接官の一人(しかも一番えらそう)が突然携帯を鳴らしてそのまま出て行って戻ってこなかったことについて何の言及もなく、我々はその日はそのまま帰されて、後日私のところに無事不採用通知が来たというわけです。
仮にもし就職希望者がその携帯に出た社員と同じことをしたとすると、まず間違いなく面接を行う会社はなんて常識のない人間だ、あんな奴は採用するなと言うに決まっていますし、下手すりゃ「てめぇなめてんのか(#゚Д゚) ゴルァ!!」とその場で怒鳴られるかもしれません。もちろん会社員にもいろいろ事情もあるだろうし面接中だろうと急な電話に出なければならないというのも理解は出来ますが、いくらなんでも何の断りもせず、しかも長電話になるならなるで途中で一言も侘びを入れずに出っ放しというのは私には理解できません。
別にこういうことをわざわざ書かなくともよかったといえばよかったのですが、いくら選ぶ立場だからといって採用企業は何をしてもいいというわけじゃない、最低限のルールは守らなければならないということを就職シーズン前に言っておきたかったので、個人的な恨みを含めて今回書くことにしました。このほかにもこの手の話はまだまだありますが、会社の実名を挙げ、ホームページのリンクまで貼る辺りが私らしいなという気がします。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年2月2日火曜日
民主党のマニフェスト破りについて
政治系のブログなんだから朝青龍のこととか書いてないで、たまにはちゃんとした時事評論でもやっとこうと思います。どうでもいいですが、このところやけに自分の文体がラフになってきた気がします。意識はしてないんですけど。
さて通常国会も始まったのでこれから政策についていろいろと議論されればニュースにもなるかと思っていたのですが、現在の所去年の補正予算案の審議と採決だけしか主に行われていないのでどうにもこうにも記事が書き辛い状況であります。そんな中、政治系ニュースでこのところ主に取り上げられているのは小沢民主党幹事長の闇献金疑惑ばかりなのですがこちらについては私も散々書いているので今回は置いといて、これとは別にこれからの今年の本予算審議で重要な所となる民主党がマニフェストに掲げた政策について、このところ閣僚から発言が相次いでおります。
まず最も二転三転しているのは今年の中ごろから始めると去年は意気込んでいた子供手当てで、この子供手当てを当初の月額二万六千円(2010年はこれの半額)を満額対象世帯に配ることについて、いちいち閣僚の名前まで挙げませんが満額出すのは難しいという人もいれば全然余裕で配ってやるなどと意見が分かれております。こういった閣僚の間で意見が割れていることをメディアはよく取り上げて今日も鳩山首相の発言を報道しているのですが、あくまで私の所見ですが国民の間でこの議論はそれほど興味がもたれていないのではないかと思います。
元々この子供手当て、またこちらもマニフェストに掲げられていた高速道路の原則無料化は去年の総選挙の時点から今に至るまで賛否両論が分かれており、特に後者に至っては恐らくどこの調査でもただの一度も賛成が反対を上回ったことはないと思います。おまけにこの子供手当ては国からお金をもらうということで、日本人の妙に周りの反応を気にする性格が作用してか表立って、「くれるってんなら早くくれよ!」っていう意見を言う人が少なく、そういった諸々の事情ゆえに国民の間で議論が大きくならないきらいがあります。もっともこの場合、議論が大きくならないというよりはこれらの政策自体に無関心な所が大きいという気もしますが。
それがゆえに、先程の高速道路原則無料化の撤回を筆頭に民主党のマニフェスト破りが現鳩山政権の致命的な支持率低下につながらないのだと私は見ております。テレビに出てくるコメンテーターや自民党議員などにはこれらのマニフェストと矛盾している点を厳しく追及する者もいますが、いかんせん国民自身があのマニフェストに元々期待していなかった、下手すりゃ反対していたということからどうにも大きな動きには今のところつながってはおりません。また民主党もこういったところはちゃんと心得ているのか、原則無料化はできないと言い切った後はあまりこれらの問題に言及しないようにして被害を最小限の留めようとしています。これが麻生政権だったら、来年には出来るかも、いや出来ないかもと言い続けては支持率低下を招いたでしょう。
私自身、高速道路の原則無料化と子供手当ての廃止については元から反対でした。ただ官房機密費の公開を拒んだというのは個人的には残念でした。まぁこっちも大きな動きにつながらなかったけど。
言ってはなんですが民主党のマニフェストは私も去年の総選挙前に「みんながマニフェストを読まない理由」の記事で内容が当たり前のことしか書いておらずあまりにもくだらなすぎて価値がないと評したように、もとより投票の指針になるどころか何の広報にもなっていなかったと思います。それが故に今の民主党のマニフェスト破り、というか公約破りは民主党に何のダメージも与えないと言い切ってもいいです。ですのでメディアも野党もマニフェストと実際にやろうとしている政策がどうとかこうとか言い合わず、この際マニフェストのことは金輪際忘れて本当にやろうとしている政策について議論した方が有益ですらないかと思っています。
かつて民主党は小泉政権時に、小泉元首相が改革、改革と叫んだことで改革という言葉の価値を貶めてしまったと訳のわからない批判をしていましたが、少なくともマニフェストと叫び続けてマニフェストはもとより公約は守られないものだと定着させた民主党の方が責任は重い気がします。まぁ公約破りは小泉政権時も、「この程度の公約破りは大したことではない」と言い切るなど、いろいろ凄かったけど。
さて通常国会も始まったのでこれから政策についていろいろと議論されればニュースにもなるかと思っていたのですが、現在の所去年の補正予算案の審議と採決だけしか主に行われていないのでどうにもこうにも記事が書き辛い状況であります。そんな中、政治系ニュースでこのところ主に取り上げられているのは小沢民主党幹事長の闇献金疑惑ばかりなのですがこちらについては私も散々書いているので今回は置いといて、これとは別にこれからの今年の本予算審議で重要な所となる民主党がマニフェストに掲げた政策について、このところ閣僚から発言が相次いでおります。
まず最も二転三転しているのは今年の中ごろから始めると去年は意気込んでいた子供手当てで、この子供手当てを当初の月額二万六千円(2010年はこれの半額)を満額対象世帯に配ることについて、いちいち閣僚の名前まで挙げませんが満額出すのは難しいという人もいれば全然余裕で配ってやるなどと意見が分かれております。こういった閣僚の間で意見が割れていることをメディアはよく取り上げて今日も鳩山首相の発言を報道しているのですが、あくまで私の所見ですが国民の間でこの議論はそれほど興味がもたれていないのではないかと思います。
元々この子供手当て、またこちらもマニフェストに掲げられていた高速道路の原則無料化は去年の総選挙の時点から今に至るまで賛否両論が分かれており、特に後者に至っては恐らくどこの調査でもただの一度も賛成が反対を上回ったことはないと思います。おまけにこの子供手当ては国からお金をもらうということで、日本人の妙に周りの反応を気にする性格が作用してか表立って、「くれるってんなら早くくれよ!」っていう意見を言う人が少なく、そういった諸々の事情ゆえに国民の間で議論が大きくならないきらいがあります。もっともこの場合、議論が大きくならないというよりはこれらの政策自体に無関心な所が大きいという気もしますが。
それがゆえに、先程の高速道路原則無料化の撤回を筆頭に民主党のマニフェスト破りが現鳩山政権の致命的な支持率低下につながらないのだと私は見ております。テレビに出てくるコメンテーターや自民党議員などにはこれらのマニフェストと矛盾している点を厳しく追及する者もいますが、いかんせん国民自身があのマニフェストに元々期待していなかった、下手すりゃ反対していたということからどうにも大きな動きには今のところつながってはおりません。また民主党もこういったところはちゃんと心得ているのか、原則無料化はできないと言い切った後はあまりこれらの問題に言及しないようにして被害を最小限の留めようとしています。これが麻生政権だったら、来年には出来るかも、いや出来ないかもと言い続けては支持率低下を招いたでしょう。
私自身、高速道路の原則無料化と子供手当ての廃止については元から反対でした。ただ官房機密費の公開を拒んだというのは個人的には残念でした。まぁこっちも大きな動きにつながらなかったけど。
言ってはなんですが民主党のマニフェストは私も去年の総選挙前に「みんながマニフェストを読まない理由」の記事で内容が当たり前のことしか書いておらずあまりにもくだらなすぎて価値がないと評したように、もとより投票の指針になるどころか何の広報にもなっていなかったと思います。それが故に今の民主党のマニフェスト破り、というか公約破りは民主党に何のダメージも与えないと言い切ってもいいです。ですのでメディアも野党もマニフェストと実際にやろうとしている政策がどうとかこうとか言い合わず、この際マニフェストのことは金輪際忘れて本当にやろうとしている政策について議論した方が有益ですらないかと思っています。
かつて民主党は小泉政権時に、小泉元首相が改革、改革と叫んだことで改革という言葉の価値を貶めてしまったと訳のわからない批判をしていましたが、少なくともマニフェストと叫び続けてマニフェストはもとより公約は守られないものだと定着させた民主党の方が責任は重い気がします。まぁ公約破りは小泉政権時も、「この程度の公約破りは大したことではない」と言い切るなど、いろいろ凄かったけど。
2010年2月1日月曜日
中国の検閲について
・<日中歴史共同研究>内容報道のNHK放送 中国国内で遮断(毎日新聞)
最近このパターンが増えていますが、今日もニュースに対して思った感想を書こうと思います。
リンクに貼ったニュースは現在日中の専門家らによって行われている歴史共同研究についてNHKが海外向け放送にて報じた所、なんと当事者であるのに中国国内では戦後史の場面の放送だけが遮断されたということを報じているニュースです。このニュースを見た私の感想はというと、こんな当たり前だと思っていたことでもニュースになるんだなといった所です。
実はこういうことは中国では珍しくなく、私が留学で滞在している最中にも何度か目撃したことがあります。はっきりとそれだとわかったのは天安門事件(第二次)が起きた六月四日の放送で、外語大ということもあって私の大学寮のテレビでは各国の放送が見られたのですが、いつものように夕方のNHKニュースを見ているとアナウンサーが、
「1989年の本日、中国にて天安門事件が--」
と、言った所で突然ブツンっという音とともに画面が暗転して何も見えなくなりました。最初はテレビの故障かなと思ったのでチャンネルを変えてみると他のチャンネルは映り、NHKの衛星放送にて何がしかの問題が起きたのかなとも思ってしばらく元のチャンネルのままにしておいたのですが、時間にして約二、三分、しばらく時間が経つやまたもブツンっという音がしてNHKのニュース画面は再び映りました。しかし、画面が切れる前に言いかけていた天安門事件についてのニュースは案の定すでに終わっていました。
言ってはなんですが、中国ではこういうことは日常茶飯事だと思います。著作権については全然緩いくせに、こういった政治や思想についてやけにお堅い所はネット上も実生活上も全く同じです。ちなみにその天安門事件の日はクラスメートのアメリカ人が、「今日は何の日か知ってるか?」ってわざわざ話を振ってきました。さすがに人権にうるさい国なだけある。
今回放送が中断させられた箇所もどうやら天安門事件について触れようとする場面だったようですが、こうした放送が中断させられるという事実以上に、海外放送についても中国政府は常に検閲を行っているという事実に目を向けるべきだと私は考えます。友人も言っていましたが一体中国政府はどれだけの人員と労力を使ってこうした検閲を行っているのか、その規模と力の入れようを考えるといくら人が余っているからってもう少し別の方に使ったらどうだと言いたくなって来ます。今回のケースから察するに、まさかNHKの放送内容を事前に知ることなんて無理なんで、恐らく常にテレビを見ている監視員が最低一人はいて、しかもその人物には中国全土でNHKの放送を中断させる権限を持っているということが予想されます。
こうしたテレビならまだ一人か二人の監視員で済みますが、インターネットともなれば常時膨大な人数を割り当てて検閲を行っていることでしょう。実際に台湾系サイトならまだしも中国系のサイトでは天安門事件や文化大革命について言及しているサイトはほぼ皆無に近く、一説によるとそういった中国にとってまずい情報をアップロードした人間を罰するのではなく、アップロードさせたままにしているサイトの運営者、管理者やプロバイダーを罰することでネット上の情報も検閲しているそうです。うまい叩き方だと思う。
最後に日本のメディアへちょっと苦言を呈しておくと、今回のNHK海外放送の遮断を報じるメディアは多いものの、先月にあった中国政府の検閲に抵抗する形でのGoogle社の撤退検討騒動と合わせて報じるところは皆無だったというのは少し情けないかと思います。どちらの中国の検閲に関わる内容で、商業と社会倫理、そして情報の捉え方を考えていく上ではパッケージングして報じるべき内容ではないでしょうか。
そういうわけでどこかそういった報道をしていないかと少し検索をかけたところ、今回のニュースとではないですがGoogle社の撤退騒動について西日本新聞がありきたりといえばありきたりですが、なかなかよくまとめた社説を書いているので紹介しておきます。
・中国ネット検閲 情報統制は無理だと悟れ(西日本新聞)
最近このパターンが増えていますが、今日もニュースに対して思った感想を書こうと思います。
リンクに貼ったニュースは現在日中の専門家らによって行われている歴史共同研究についてNHKが海外向け放送にて報じた所、なんと当事者であるのに中国国内では戦後史の場面の放送だけが遮断されたということを報じているニュースです。このニュースを見た私の感想はというと、こんな当たり前だと思っていたことでもニュースになるんだなといった所です。
実はこういうことは中国では珍しくなく、私が留学で滞在している最中にも何度か目撃したことがあります。はっきりとそれだとわかったのは天安門事件(第二次)が起きた六月四日の放送で、外語大ということもあって私の大学寮のテレビでは各国の放送が見られたのですが、いつものように夕方のNHKニュースを見ているとアナウンサーが、
「1989年の本日、中国にて天安門事件が--」
と、言った所で突然ブツンっという音とともに画面が暗転して何も見えなくなりました。最初はテレビの故障かなと思ったのでチャンネルを変えてみると他のチャンネルは映り、NHKの衛星放送にて何がしかの問題が起きたのかなとも思ってしばらく元のチャンネルのままにしておいたのですが、時間にして約二、三分、しばらく時間が経つやまたもブツンっという音がしてNHKのニュース画面は再び映りました。しかし、画面が切れる前に言いかけていた天安門事件についてのニュースは案の定すでに終わっていました。
言ってはなんですが、中国ではこういうことは日常茶飯事だと思います。著作権については全然緩いくせに、こういった政治や思想についてやけにお堅い所はネット上も実生活上も全く同じです。ちなみにその天安門事件の日はクラスメートのアメリカ人が、「今日は何の日か知ってるか?」ってわざわざ話を振ってきました。さすがに人権にうるさい国なだけある。
今回放送が中断させられた箇所もどうやら天安門事件について触れようとする場面だったようですが、こうした放送が中断させられるという事実以上に、海外放送についても中国政府は常に検閲を行っているという事実に目を向けるべきだと私は考えます。友人も言っていましたが一体中国政府はどれだけの人員と労力を使ってこうした検閲を行っているのか、その規模と力の入れようを考えるといくら人が余っているからってもう少し別の方に使ったらどうだと言いたくなって来ます。今回のケースから察するに、まさかNHKの放送内容を事前に知ることなんて無理なんで、恐らく常にテレビを見ている監視員が最低一人はいて、しかもその人物には中国全土でNHKの放送を中断させる権限を持っているということが予想されます。
こうしたテレビならまだ一人か二人の監視員で済みますが、インターネットともなれば常時膨大な人数を割り当てて検閲を行っていることでしょう。実際に台湾系サイトならまだしも中国系のサイトでは天安門事件や文化大革命について言及しているサイトはほぼ皆無に近く、一説によるとそういった中国にとってまずい情報をアップロードした人間を罰するのではなく、アップロードさせたままにしているサイトの運営者、管理者やプロバイダーを罰することでネット上の情報も検閲しているそうです。うまい叩き方だと思う。
最後に日本のメディアへちょっと苦言を呈しておくと、今回のNHK海外放送の遮断を報じるメディアは多いものの、先月にあった中国政府の検閲に抵抗する形でのGoogle社の撤退検討騒動と合わせて報じるところは皆無だったというのは少し情けないかと思います。どちらの中国の検閲に関わる内容で、商業と社会倫理、そして情報の捉え方を考えていく上ではパッケージングして報じるべき内容ではないでしょうか。
そういうわけでどこかそういった報道をしていないかと少し検索をかけたところ、今回のニュースとではないですがGoogle社の撤退騒動について西日本新聞がありきたりといえばありきたりですが、なかなかよくまとめた社説を書いているので紹介しておきます。
・中国ネット検閲 情報統制は無理だと悟れ(西日本新聞)
2010年1月30日土曜日
集中度と時間感覚
また随分と前回の記事から時間が空いてしまいましたが、「時間の概念」カテゴリーの記事の続きです。今回は集中度が時間感覚にどのように影響するのか、検証なんてやってるわけないので仮説ばかり片っ端から書いていきます。
私と友人がこの時間の概念について話している際、どっちから出てきたのか忘れましたがこういう一言がありました。
「あのさ、よくゲームとかカラオケやっている楽しい時間って、気がついてみたらこんなに時間が経っていたのかと思うくらい時間が早く感じることがあるよね」
「そうだよね。逆にきついバイトとかしてると、まだ終わんないのかって思うくらい時間が長く感じるよなぁ」
「そうそう。つまり楽しい時間っていうのは早く過ぎて、苦しい時間は長くかかるってことなのかな」
「うわ、なんか生きてくのが嫌になるな……」
恐らくこういったことは、誰にでも当てはまるかと思います。
何かしら自分が楽しいと思えることをしている時間は通常の時間間隔より早く感じる一方、苦しさや辛さを感じるような、言い換えれば早く終われよと思うようなことをしている時間は意に反して長く感じがちです。こうして書くとそれぞれが逆であればどんなにいいものかと思わずにはいられませんね。
それで早速この話をした際に友人と何故この様に感覚が違ってくるのか話したのですが、単純に楽しければ短い、苦しければ長いというよりも両方を跨ぐ要素がなにかしらないのかといろいろ挙げていったわけですが案外ありそうでなく苦心し、そんな中で何かの拍子で出てきたこの一言が一つのヒントとなりました。
「あとさ、同じ作業をするにしても急いでやらなきゃいけない時の方が急がなくてもいい時より早く感じない?」
「あるある。急いでいるのにどうしてこんなに時間が早く来るのかとか、同じ三十分でも全然違うよ」
「急ぐ時にあるものって言ったら、やっぱり焦りかな」
この最後の一言こと、「焦り」というものが時間間隔に大きく影響しているのではないかと、この後しばらく我々の間で大ブームになりました。我々つっても、二人だけだけど。
もう少し詳しく説明すると「焦り」、さらに言い換えると「集中する度合い」というものが高ければ高いほど時間間隔が短くなるのではないかと我々は考えたわけです。
前回の記事で私は周囲の雑音が多ければ多いほど時間間隔が短くなるので、雑音の多い都会にいるよりも田舎にいる方が時間が長く感じるのではと書きました。それは何故かと言うと雑音が多ければ意識を振りまく対象が増えるためで、そういった意識対象となるものの数の大小によって時間間隔が変わってくるからだと説明しました。
実はこの説明には穴があり、実質的には意識対象の数というよりも意識する度合いこと集中度が時間間隔を変化させる最大の要因だと私は睨んでいます。
仮に人間の集中度の上限を100%と定義すると、先程の都会と田舎での生活における集中度の割合は大まかに言ってこんな具合になると思います。
・都会での生活
1、車の音:10%
2、人の話し声:15%
合計:25%
・田舎での生活
1、虫の声:5%
合計:5%
(無意識に聞こえてくる音のみ。パーセンテージは独断と偏見によるもの)
両者を比べれば意識が振り向けられる音の対象と度合いは歴然としており、これはそのままその人の集中が向く先とその度合いと言い換えることが出来ます。これはなにも音だけに限らず、当人が実行している行動もその集中度に当てはまり、例えば同じく勉強という行為をするにしても、好きな科目を勉強していて集中度が高い状態と、苦手な科目を無理やりやるような集中度が低い状態では時間間隔に差があり、前者の方が早く感じるのではないかと思います。ただしこれは本人が楽しんでやれる行為をしている際に集中度が高く、その逆であれば低いという前提で、さらに途中で出てきた「焦り」については焦っている状態はそうでない状態より対象への集中度が高いという仮定の上での意見です。
ただひとつ注意するのは、ここで語っている時間間隔を左右する集中度というのは何か一つの対象への絶対度的なものではなく、その状態で意識する対象すべての集中度を合計したものです。たとえばAさんとBさんがお互いに勉強に対して集中度50%で望んでいるものの、Bさんは音楽を掛けていてそちらに15%ほど集中度を持っているとBさんの方が時間間隔は早くなるといった具合です。
もはや全然つながりのない内容ばかりとなっていますが最後にまとめると、意識する対象の数や集中度、そういったものが比較的短時間における個人の時間間隔に大きく影響を及ぼしているのではないかと私は考えているわけです。言ってしまえば何にも気をふりまかずボーっとしている状態が最も時間間隔がゆっくりとなる方法で、逆に生き馬の目を射抜かんばかりに何かをしようとすればするほど時間は早く感じるわけです。急がば回れとはよく言うもので、時間に裕福に生きたいのであれば余計なものに意識をかけず、泰然として物に当たるということなのかもしれません。
私と友人がこの時間の概念について話している際、どっちから出てきたのか忘れましたがこういう一言がありました。
「あのさ、よくゲームとかカラオケやっている楽しい時間って、気がついてみたらこんなに時間が経っていたのかと思うくらい時間が早く感じることがあるよね」
「そうだよね。逆にきついバイトとかしてると、まだ終わんないのかって思うくらい時間が長く感じるよなぁ」
「そうそう。つまり楽しい時間っていうのは早く過ぎて、苦しい時間は長くかかるってことなのかな」
「うわ、なんか生きてくのが嫌になるな……」
恐らくこういったことは、誰にでも当てはまるかと思います。
何かしら自分が楽しいと思えることをしている時間は通常の時間間隔より早く感じる一方、苦しさや辛さを感じるような、言い換えれば早く終われよと思うようなことをしている時間は意に反して長く感じがちです。こうして書くとそれぞれが逆であればどんなにいいものかと思わずにはいられませんね。
それで早速この話をした際に友人と何故この様に感覚が違ってくるのか話したのですが、単純に楽しければ短い、苦しければ長いというよりも両方を跨ぐ要素がなにかしらないのかといろいろ挙げていったわけですが案外ありそうでなく苦心し、そんな中で何かの拍子で出てきたこの一言が一つのヒントとなりました。
「あとさ、同じ作業をするにしても急いでやらなきゃいけない時の方が急がなくてもいい時より早く感じない?」
「あるある。急いでいるのにどうしてこんなに時間が早く来るのかとか、同じ三十分でも全然違うよ」
「急ぐ時にあるものって言ったら、やっぱり焦りかな」
この最後の一言こと、「焦り」というものが時間間隔に大きく影響しているのではないかと、この後しばらく我々の間で大ブームになりました。我々つっても、二人だけだけど。
もう少し詳しく説明すると「焦り」、さらに言い換えると「集中する度合い」というものが高ければ高いほど時間間隔が短くなるのではないかと我々は考えたわけです。
前回の記事で私は周囲の雑音が多ければ多いほど時間間隔が短くなるので、雑音の多い都会にいるよりも田舎にいる方が時間が長く感じるのではと書きました。それは何故かと言うと雑音が多ければ意識を振りまく対象が増えるためで、そういった意識対象となるものの数の大小によって時間間隔が変わってくるからだと説明しました。
実はこの説明には穴があり、実質的には意識対象の数というよりも意識する度合いこと集中度が時間間隔を変化させる最大の要因だと私は睨んでいます。
仮に人間の集中度の上限を100%と定義すると、先程の都会と田舎での生活における集中度の割合は大まかに言ってこんな具合になると思います。
・都会での生活
1、車の音:10%
2、人の話し声:15%
合計:25%
・田舎での生活
1、虫の声:5%
合計:5%
(無意識に聞こえてくる音のみ。パーセンテージは独断と偏見によるもの)
両者を比べれば意識が振り向けられる音の対象と度合いは歴然としており、これはそのままその人の集中が向く先とその度合いと言い換えることが出来ます。これはなにも音だけに限らず、当人が実行している行動もその集中度に当てはまり、例えば同じく勉強という行為をするにしても、好きな科目を勉強していて集中度が高い状態と、苦手な科目を無理やりやるような集中度が低い状態では時間間隔に差があり、前者の方が早く感じるのではないかと思います。ただしこれは本人が楽しんでやれる行為をしている際に集中度が高く、その逆であれば低いという前提で、さらに途中で出てきた「焦り」については焦っている状態はそうでない状態より対象への集中度が高いという仮定の上での意見です。
ただひとつ注意するのは、ここで語っている時間間隔を左右する集中度というのは何か一つの対象への絶対度的なものではなく、その状態で意識する対象すべての集中度を合計したものです。たとえばAさんとBさんがお互いに勉強に対して集中度50%で望んでいるものの、Bさんは音楽を掛けていてそちらに15%ほど集中度を持っているとBさんの方が時間間隔は早くなるといった具合です。
もはや全然つながりのない内容ばかりとなっていますが最後にまとめると、意識する対象の数や集中度、そういったものが比較的短時間における個人の時間間隔に大きく影響を及ぼしているのではないかと私は考えているわけです。言ってしまえば何にも気をふりまかずボーっとしている状態が最も時間間隔がゆっくりとなる方法で、逆に生き馬の目を射抜かんばかりに何かをしようとすればするほど時間は早く感じるわけです。急がば回れとはよく言うもので、時間に裕福に生きたいのであれば余計なものに意識をかけず、泰然として物に当たるということなのかもしれません。
労働組合は誰の味方?
先週くらいから各所のニュースで、「今年も春闘が始まり、労働組合側は定期昇給と雇用の維持を訴えていく模様です」といった報道を耳にすることが増えました。
一応前もってこの「春闘」という言葉の意味を説明しておくと、毎年二月から三月の間に労働組合が経営陣に対して今後の労働条件の改善などを要求する労働運動のことで、メーデーにおけるストライキがほぼなくなった現在においては日本において最も大きい労働運動といっていいものを指します。具体的な要求は基礎賃金やボーナス額の引き上げ、労働時間の短縮など、末端の労働者の待遇改善が主に運動の建前とされております。
それで今年の春闘についてですが、リーマンショックから続く不況によって企業の業績はどこも悪いということからさすがに基礎賃金の引き上げなどは求められず、従業員のリストラこと首切りの禁止と勤続年数によって自動的に上がっていく定期昇給の維持のみが労働組合より求められていくだろうと報じられております。
この今年の春闘について私は、多少不謹慎な発言かもしれませんが、各労働組合が経営側に要求をすればするほど、本当に社会の末端にいて厳しい立場におかれている若者や労働者達はより追い詰められていくことになると見ております。一体何を言っているのだろうかと思われるかもしれませんが、私は現在の労働組合の要求は中位層から上位裕福層への要求であって、決して下位貧困層からの要求ではないと考えております。
まず大前提として、日本のほとんどの労働組合はその会社にて正規に雇用されている正社員のみしか加入できず、現在において若者の大半、労働者全体で見ても2009年で33.3%(総務省調査 引用:社会実情データ図録)を占める非正規労働者は加入していないというのが現状です。ちなみに先程の総務省のデータですが、前からここは非正規労働者の数をしょっちゅういじくってて実態的にはすでに過半数を超えているのではないかという声が多いです。事実20代に至ってはそういう数字になっていますし。
このように大半の日本の労働組合は正社員のみで構成されているため、これまでにも散々指摘され続けてきましたが同じ職場にすでに数多くいる非正社員労働者の待遇改善についてはあまり熱心ではなかったとされます。こんなブログを書き続けながら具体的に組合活動をしたことがない私が言うのもなんですが、外から見ている限りこういった指摘は日本の労働組合に確かに当てはまり、末端の労働者を守るという建前を掲げながら実態的には本当の弱者を切り捨てながら保身を図ってきたというのが実体ではないかと見ております。
そこで今回の春闘の要求ですが、先程も述べたように今年に労働組合が主に要求するのは雇用と定期昇給の維持で、これらは仮に通ったとしても正社員にしか適用されない要求です。しかも雇用や定期昇給を維持すれば必然的に企業が負担するコストは高まるためにどこかでそれを転化する必要があり、回りまわってそれら増大するコストは非正社員の削減につながっていくのではないかと私は見ております。
また更に言えば社員の雇用を維持することはこちらも必然的に新規採用を絞ることにつながっていき、今も話題になっていますが大学新卒者や現在無職の求職者の就職への門戸は更に狭められていく可能性があります。特に日本は過剰ともいえる新卒主義が浸透しているため、新卒一年目で職に就けなかった学生は今後非常に厳しい立場に置かれることも予想されます。
そのため今回の春闘は穿った目で見ると、すでに正社員となっている者ら社会的中位層が非正規社員や新卒学生、無職者ら下位層を切り捨てる代わりに経営陣ら上位層へ現状維持を求めている構図になるのではないかと思います。少なくとも現在の労働組合の要求は中位層の利益には適っても下位層の利益には必ず通じないということは断言でき、それがゆえに両者が協調することは難しい、というかありえないでしょう。
ここから私の意見ですが、こんな時代だからこそ正規、非正規を問わずに労働者は団結して経営者と交渉する必要があり、雇用の維持という点で共同戦線が張れないのはわかりきっていること(非正規労働者の雇用や昇給も維持すると会社が倒産しかねないため)なのだから、過重労働の禁止などある程度お互いに一致できる目的を持って要求していく方がずっと建設的ではないのかと思います。
少なくとも今のままでは非正規雇用率や無職率の高い、本来これからの未来をになっていく若者は追いやられていく一方で、何かしら対策を打たねばならないと強く感じます。
おまけ
この前昔のニュース記事を読んでいたら、ほんの二年くらい前には、「若年労働者への技術の継承が今後の日本企業の課題だ」とあちこちで言っていたのを思い出し、最近だと全く言われなくなっていることに気がつきました。恐らく技術の継承はほとんど出来てないでしょうが、継承どころか企業そのものが潰れかかっていてそんな余裕もなくなってしまっているんだと思います。
一応前もってこの「春闘」という言葉の意味を説明しておくと、毎年二月から三月の間に労働組合が経営陣に対して今後の労働条件の改善などを要求する労働運動のことで、メーデーにおけるストライキがほぼなくなった現在においては日本において最も大きい労働運動といっていいものを指します。具体的な要求は基礎賃金やボーナス額の引き上げ、労働時間の短縮など、末端の労働者の待遇改善が主に運動の建前とされております。
それで今年の春闘についてですが、リーマンショックから続く不況によって企業の業績はどこも悪いということからさすがに基礎賃金の引き上げなどは求められず、従業員のリストラこと首切りの禁止と勤続年数によって自動的に上がっていく定期昇給の維持のみが労働組合より求められていくだろうと報じられております。
この今年の春闘について私は、多少不謹慎な発言かもしれませんが、各労働組合が経営側に要求をすればするほど、本当に社会の末端にいて厳しい立場におかれている若者や労働者達はより追い詰められていくことになると見ております。一体何を言っているのだろうかと思われるかもしれませんが、私は現在の労働組合の要求は中位層から上位裕福層への要求であって、決して下位貧困層からの要求ではないと考えております。
まず大前提として、日本のほとんどの労働組合はその会社にて正規に雇用されている正社員のみしか加入できず、現在において若者の大半、労働者全体で見ても2009年で33.3%(総務省調査 引用:社会実情データ図録)を占める非正規労働者は加入していないというのが現状です。ちなみに先程の総務省のデータですが、前からここは非正規労働者の数をしょっちゅういじくってて実態的にはすでに過半数を超えているのではないかという声が多いです。事実20代に至ってはそういう数字になっていますし。
このように大半の日本の労働組合は正社員のみで構成されているため、これまでにも散々指摘され続けてきましたが同じ職場にすでに数多くいる非正社員労働者の待遇改善についてはあまり熱心ではなかったとされます。こんなブログを書き続けながら具体的に組合活動をしたことがない私が言うのもなんですが、外から見ている限りこういった指摘は日本の労働組合に確かに当てはまり、末端の労働者を守るという建前を掲げながら実態的には本当の弱者を切り捨てながら保身を図ってきたというのが実体ではないかと見ております。
そこで今回の春闘の要求ですが、先程も述べたように今年に労働組合が主に要求するのは雇用と定期昇給の維持で、これらは仮に通ったとしても正社員にしか適用されない要求です。しかも雇用や定期昇給を維持すれば必然的に企業が負担するコストは高まるためにどこかでそれを転化する必要があり、回りまわってそれら増大するコストは非正社員の削減につながっていくのではないかと私は見ております。
また更に言えば社員の雇用を維持することはこちらも必然的に新規採用を絞ることにつながっていき、今も話題になっていますが大学新卒者や現在無職の求職者の就職への門戸は更に狭められていく可能性があります。特に日本は過剰ともいえる新卒主義が浸透しているため、新卒一年目で職に就けなかった学生は今後非常に厳しい立場に置かれることも予想されます。
そのため今回の春闘は穿った目で見ると、すでに正社員となっている者ら社会的中位層が非正規社員や新卒学生、無職者ら下位層を切り捨てる代わりに経営陣ら上位層へ現状維持を求めている構図になるのではないかと思います。少なくとも現在の労働組合の要求は中位層の利益には適っても下位層の利益には必ず通じないということは断言でき、それがゆえに両者が協調することは難しい、というかありえないでしょう。
ここから私の意見ですが、こんな時代だからこそ正規、非正規を問わずに労働者は団結して経営者と交渉する必要があり、雇用の維持という点で共同戦線が張れないのはわかりきっていること(非正規労働者の雇用や昇給も維持すると会社が倒産しかねないため)なのだから、過重労働の禁止などある程度お互いに一致できる目的を持って要求していく方がずっと建設的ではないのかと思います。
少なくとも今のままでは非正規雇用率や無職率の高い、本来これからの未来をになっていく若者は追いやられていく一方で、何かしら対策を打たねばならないと強く感じます。
おまけ
この前昔のニュース記事を読んでいたら、ほんの二年くらい前には、「若年労働者への技術の継承が今後の日本企業の課題だ」とあちこちで言っていたのを思い出し、最近だと全く言われなくなっていることに気がつきました。恐らく技術の継承はほとんど出来てないでしょうが、継承どころか企業そのものが潰れかかっていてそんな余裕もなくなってしまっているんだと思います。
2010年1月28日木曜日
Vガンダム主題歌の替え歌
知っている人は知っていますが、こう見えて私は替え歌を作ることが非常に多い人間であります。料理でもしようものなら物を作りながら何かしら変な歌を歌っており、その度に友人らから、「ほんと、好きだよね」と言われております。
そこで今日は、先程相撲関係の記事を書いたので相撲に関する替え歌の歌詞を紹介しようと思います。元の歌は「機動戦士Vガンダム」の主題歌で、現在もガンダムファンからは人気の高い「STAND UP TO THE VICTORY」で、替え歌タイトルは「STAND UP TO THE SEKITORY」です。
STAND UP TO THE SEKITORY
激しい張り手が 巨体を震わせる 稽古のように
ただ突っ張り続けた 昨日までの取組 信じているのさ(親方を)
終わりのない 幕下でもいいよ 部屋が僕を 居続けさせてくれるなら
STAND UP TO THE SEKITORY
いくつもの場所を迎え 白星を掴んでみせる
STAND UP TO THE SEKITORY
土俵際でなにがあるのか わからないから
かけがえのない 部屋の厳しい 稽古に耐えて
興味のある方は元歌の歌詞と聞き比べて見て下さい。ちなみに私はこれを自転車に乗っている時によく口ずさみます。
そこで今日は、先程相撲関係の記事を書いたので相撲に関する替え歌の歌詞を紹介しようと思います。元の歌は「機動戦士Vガンダム」の主題歌で、現在もガンダムファンからは人気の高い「STAND UP TO THE VICTORY」で、替え歌タイトルは「STAND UP TO THE SEKITORY」です。
STAND UP TO THE SEKITORY
激しい張り手が 巨体を震わせる 稽古のように
ただ突っ張り続けた 昨日までの取組 信じているのさ(親方を)
終わりのない 幕下でもいいよ 部屋が僕を 居続けさせてくれるなら
STAND UP TO THE SEKITORY
いくつもの場所を迎え 白星を掴んでみせる
STAND UP TO THE SEKITORY
土俵際でなにがあるのか わからないから
かけがえのない 部屋の厳しい 稽古に耐えて
興味のある方は元歌の歌詞と聞き比べて見て下さい。ちなみに私はこれを自転車に乗っている時によく口ずさみます。
児童虐待は何故防げないのか
・「パパはいじめない」虐待死の海渡君、親かばう(読売新聞)
非常に痛ましい事件ということで、こちらも短いながら一筆書いておきます。
上記リンクに貼った事件の概要については敢えて細かく説明しませんが、私が見たこの事件に対するテレビの評論家の意見にて、児童虐待を防止する制度や組織は存在していながらも、それらは今回の事件のように学校や児童相談所がほとんど連携を取っておらず現状機能しているとは言いがたい、というものがありました。
確かに言われることもっともで、今後このような事態を防止するという意味ではいい意見だとは思いますが、今回のケースに限っては私は連携以前の問題で、学校も児童相談所もその自らの組織の役割をサボタージュしたがゆえに起こった事件なのではないかと見ております。というのもリンク先の記事を読んでもらえばわかりますが、プロでない一般人から見ても明らかに虐待が伺われる動向や情報が寄せられているにもかかわらず詳しく調査せず、その虐待者の疑いのある親を面談して、「二度と殴らない」という言葉を鵜呑みにして見過ごすなど馬鹿やってんじゃないよと怒鳴りたくなるような所業です。
ただ学校については、もちろん今回の対応は呆れるほど悪いものだとは思いますが、児童を親から引き離すなどの強制措置を行う権限を持っていないためこの様な対応になってしまったのもある意味自然だったのかと思うところがあります。それに対し児童相談所は学校側の面談報告だけを聞いて対応を取りやめるなど、自らの職務を本当にわかっているのかと疑いたくなるような行動を今回の事件で取っております。
芥川龍之介ではないですが、親は捨てることも出来れば養子を取ったりするなど子供を選ぶことが出来ますが、子供は自分から親を選ぶことは出来ないのです。そして子供としては親に捨てられれば生きてく事は出来ず、たとえどれだけ劣悪な環境といえども我慢するより他なく、今回の事件のように親からの暴行を外に強く訴えることが出来なくて当たり前です。
ですから多少強引な手法となったとしても、虐待の疑いがあるケースに限っては一ヶ月など、短期間でもいいからすぐさま親と子供を引き離すことが何よりも大事になるかと私は考えております。よっぽど変な子供でない限りは虐待だと騒いで親をハメるということはないでしょうし、なによりももうこんな事件を起こしてはならないと心から願います。
非常に痛ましい事件ということで、こちらも短いながら一筆書いておきます。
上記リンクに貼った事件の概要については敢えて細かく説明しませんが、私が見たこの事件に対するテレビの評論家の意見にて、児童虐待を防止する制度や組織は存在していながらも、それらは今回の事件のように学校や児童相談所がほとんど連携を取っておらず現状機能しているとは言いがたい、というものがありました。
確かに言われることもっともで、今後このような事態を防止するという意味ではいい意見だとは思いますが、今回のケースに限っては私は連携以前の問題で、学校も児童相談所もその自らの組織の役割をサボタージュしたがゆえに起こった事件なのではないかと見ております。というのもリンク先の記事を読んでもらえばわかりますが、プロでない一般人から見ても明らかに虐待が伺われる動向や情報が寄せられているにもかかわらず詳しく調査せず、その虐待者の疑いのある親を面談して、「二度と殴らない」という言葉を鵜呑みにして見過ごすなど馬鹿やってんじゃないよと怒鳴りたくなるような所業です。
ただ学校については、もちろん今回の対応は呆れるほど悪いものだとは思いますが、児童を親から引き離すなどの強制措置を行う権限を持っていないためこの様な対応になってしまったのもある意味自然だったのかと思うところがあります。それに対し児童相談所は学校側の面談報告だけを聞いて対応を取りやめるなど、自らの職務を本当にわかっているのかと疑いたくなるような行動を今回の事件で取っております。
芥川龍之介ではないですが、親は捨てることも出来れば養子を取ったりするなど子供を選ぶことが出来ますが、子供は自分から親を選ぶことは出来ないのです。そして子供としては親に捨てられれば生きてく事は出来ず、たとえどれだけ劣悪な環境といえども我慢するより他なく、今回の事件のように親からの暴行を外に強く訴えることが出来なくて当たり前です。
ですから多少強引な手法となったとしても、虐待の疑いがあるケースに限っては一ヶ月など、短期間でもいいからすぐさま親と子供を引き離すことが何よりも大事になるかと私は考えております。よっぽど変な子供でない限りは虐待だと騒いで親をハメるということはないでしょうし、なによりももうこんな事件を起こしてはならないと心から願います。
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