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2010年4月8日木曜日

食糧自給率100%は不可能という仮説

 昨日に引き続き友人から借り受けた本の話になりますが、今日は堺屋太一氏の「東大講義録 ―文明を解く―」という本とその中で述べられているある考えを紹介します。

 はっきり言って、これまで私は堺屋太一氏のことをあまり評価しておりませんでした。堺屋氏の小説は何度か読んだのですがお世辞にもあまり面白いとは思えず、またどこかの雑誌で読んだ論評にて、「現代のアメリカとモンゴル帝国はどちらも女性の権威が高くて似通っている」という、ちょっと共感し難い意見などを述べられていてどんなものかと思っていました。

 それが今回友人が貸してくれたこの本は、確か2002年の出版ですが八年も前の本とは思えないほどに示唆に富んだ内容で、その後の世相を見事に言い当てていることに驚きを感じずにはいられませんでした。この本はその題の通りに堺屋氏が東大で講義した際の内容を編集しなおしたものなのですが、歴史に沿って文明の成り立ち、そして変遷をわかりやすく且つ知見に富んだ目線で説明されております。

 その文明の成り立ちについてここで簡単に抜粋して説明すると、堺屋氏は文明の発展とともに人間の交友範囲が変化していったと唱え、大まかに表にすると下記の通りになるとしています。

始代:採集社会=血縁社会
古代:農耕社会=地縁社会
近代:産業社会=職縁社会
現代:知価社会=知縁社会

 読んだのが一ヶ月くらい前なのでちょっと記憶が曖昧ですが、大体この様な具合で文明の発展とともに人々の交友範囲、いわゆる縁の持ち方が変わってきたというわけです。なお最後の知縁社会というのは堺屋氏の造語で、共通した目的を持つもの同士で交友を持っていくという社会を意味しており、簡単な例だとこういうブログが縁で連絡を取り合う中のようなものです。

 この文明論だけでも十分におなか一杯の内容なのですが、短いながら日本の食糧政策についてもドキリとすることを堺屋氏はこの本の中で述べており、それはどのような内容かというとこのようなものでした。

「現在、農水省の官僚は日本の自給率を100%にしようなどと言っていますが、私が子供だった戦後直後は山の斜面からの石の多い河原に至るまで、日本中の土地という土地にサツマイモを植えたにもかかわらず当時の日本の人口7000万人を食べさせる事が出来なかったのですから、根本的に日本で食糧を自給する事は不可能なのです。
 だからこそ私は質の低い作物を日本で植えて作るよりも海外で高く取引される作物を栽培し、それを売って得たお金で海外の安い作物を輸入すべきだと考えるのです」(この会話文内容は私の解釈によるもので、原書からの抜粋にあらず)

 言われてみる事まさにその通りで、今よりも人口が低く、国会議事堂前ですら作付けが行われたほど耕地も多かった戦後直後で支えきれなかった食糧自給が、一億二千万にも膨れ上がった現代においてどうして支えられるものかとまさに頭をがんと殴られたような気がした一言でした。

 さらに私のほうからこの堺屋氏の主張に付け加えると、現代は戦後直後よりも農業技術から作物の品種改良も飛躍的に向上しており一概に60年以上前のデータと比較するべきでないという意見も十分理解できるのですが、その一方で現代農業には近い将来に大きなリスクが予想されております。そのリスクというのは環境問題の欺瞞性を指摘して一躍名を轟かせた中部大学の武田邦彦教授がこれまた指摘しているもので、現代農業に必須とも言える農薬原料の有機リンが確実に枯渇し始めてきているというものです。武田氏が言うにはこの有機リンが完全に枯渇しないでも現在よりも産出量が減れば価格は高騰し、農薬に頼りきった現代農業では直にコストに跳ね返ってくると予想しております。

 もちろんエコロジスト張りに、「有機リンがないなら、自然肥料に頼ればいいじゃない」などと主張するのは簡単ですが、私も伝え聞く限りでは化学肥料なしでは日本の農業、下手すりゃ世界中の農業は立ち行かないとまでされており、とてもじゃないですが自然肥料で代替出来るとは信じられません。
 この様に考えると、堺屋氏の言うとおりに下手に数字上の自給率の達成ばかりを追い求めるのではなく、いかに日本人の食糧を繋ぎとめるかという視点から少数精鋭とばかりに高級作物をより支援していくという方針の方が正しいのかもしれません。なんか真に受けすぎな気が、自分でもするけど。

2010年4月7日水曜日

書評「無理」

 先日友人より、「これ、長いけど」といってまた一冊の本を借り受けました。特に特定の本を当時読み進めていたわけでもないものの、4/10になると文芸春秋の最新号が発売されてそっちに忙殺される事から、小説とはいえ543ページもの厚さもあることだし読み終わるのは恐らく一ヶ月くらい先だろうと受け取った際に私は想定しました。
 しかしそれが、わずか三日で読み終わってしまうとは夢想だにもしませんでした。

 そんな借り受けた本というのは、直木賞作家でもある奥田英朗氏著の「無理」(原題「ゆめの」)という小説です。元々この奥田氏の本は出世作ともなった精神科医シリーズの「空中ブランコ」は買って読んだ事はあり、この作品は私も贔屓にしている堺雅人氏も出演してのドラマ化までされましたが、読んだ当時は確かにつまらなくはない小説であったものの果たして直木賞受賞作品と言えるほど面白いかとなると首を傾げる内容でした。なんていうか、話の締まり方がワンパターンだったし。

 それが今回の「無理」では文字通り、貪りつくくらいの面白さで読み始めると一気にページが進んでわずか三日、一日平均180ページのペースで読了まであっという間に持っていかれました。
 この小説のあらすじを簡単に説明すると、市町村合併によって新たに出来た地方都市の「ゆめの市」を舞台に、年齢も職業も性別も全く異なる五人の男女がそれぞれの生活の中でお互いに全く接点を持ち合わずにそれぞれの事件に遭遇していくという内容です。

 読み始めてすぐの頃、この小説の形式はかつてチュンソフトから発売された「街」という、これまた全然接点のない八人の男女の渋谷における五日間を読み進めるというゲームに近いなという印象を覚えました。この「無理」を貸してくれた友人も「街」が好きだったからわざわざ私にも貸してきたのだろうと考えたのですが、確かに「街」のように各主人公らが微妙に接点を持つというなどは共通してはいるものの、それ以上に「ゆめの市」という、架空の地方都市における生活の描写がまさに絶妙でした。

 地方公務員の主人公は後を絶たない生活補助申請の処理に手をあぐね、女子高生の主人公はなんとしても東京の大学に進学して田舎だと考える故郷を脱出しようと画策し、詐欺商品のセールス販売員である主人公は仕事のないその地域ゆえに自らの行為を正当化し、孤独な主婦の主人公は新興宗教にすがり、市議会議員の主人公はより大きな県政へ打って出るため地元ヤクザとつるむなど、それぞれの生活者の視点がやや誇張した話の中とはいえ実に生活観に溢れて生き生きと書かれております。

 しかしそうした描写の良さもさることながら、この作品で私が最も惹きつけられたのは地方都市特有の閉塞感です。私は人生の大半を現在も住んでいる関東のベッドタウンにて東京圏の文化を受けながら過ごしており、お世辞にもあまり地方の現状や生活に触れてきたとは言えない人間ではあります。しかし大学生になった当初、キャンパスの設置地の関係で一応行政区分は市ではあるものの田舎の間隔が抜け切れないようなある地方都市に数年の間生活しましたが、その際に覚えた閉塞感というのはそれまでの自分が如何に恵まれた場所、文化圏で生活してきたのかを思い知らされるには十分なものでした。

 まず何が一番辛かったといえば、自分が情報に取り残されていくという様な感覚です。それこそ関東圏で東京キー局のテレビ番組を毎日見ていたころは意識せずとも現在の流行や注目を集める情報が入ってきていたのが、地方に行くとNHKを除いてローカル局のテレビ放送となってしまってこうした情報も意識してもなかなか手に入らなくなりました。しかもその地での生活を始めた当初はインターネットも繋いでいなかったので二次媒体で補完する事も出来ず、時たま電話で話す関東圏の友人の情報を聞く度に自分が置いていかれていくように感じて心細さを日々感じていました。
 ついでに書くと、年齢がばれるかもしれませんが当時すでに関東では一般的となっていたICカード式定期券が関西では誰も知らなかったというのも激しくショックを受けました。

 更に言えば、当時はなにぶんお金がなかったもので進学に合わせてすぐにでもとアルバイト先を探したものの、関東であればそれこそちょこっと歩けばどこの店頭にもアルバイト募集の看板があるのに対し、その地域ではアルバイト情報誌をいくらひっくり返しても電車で30分くらいかけなければ募集先などなく、交通費だってあまり持ちたくないのにどないすればええねんと言いたくなるような状況でした。結局見つけたのは電車で40分の場所だったし……。

 そのときに感じた感傷というか閉塞感が、今回この「無理」を読んで一度にまとめて呼び起こされたわけです。ちょこっと地方に住んでいただけでえらそうに言うべきではないと分ってはいますが、近年の日本の地方都市には東京や大坂近辺にずっと住んでいる人間にはとてもじゃないですが理解のしようのない、絶望感にも近い閉塞間は確かにあると私は思います。それら閉塞感が何故生まれるのかといえばネットを初めとした情報通信の発達や、不況による失業者の増加、地方格差などいくらでも理由をあげる事は出来ますが、実際にはどのような閉塞感があるのかとなるとこれまで納得させられるような表現や説明は今まで見てきませんでした。

 それが今回、多少持ち上げすぎな気もしますが「無理」の中では各主人公を通して彼らの抱える閉塞感が如何なく書かれており、徐々に地方都市に適応していった自分に対して最後まで閉塞感と戦い続けた別の友人には是非読んでもらいたい作品です。

  おまけ
 今回「無理」を貸してくれた友人は類稀な読書家で、「少年H」は嘘八百ばかりだということも教えてくれた友人でした。会う度にいろいろと本を貸してくれるので、恐らく去年に私が読んだ本の八割は彼からの提供によるものです。

2010年4月6日火曜日

続・平沼、与謝野新党について

 友人からこの件について質問のメールが来たので、今日はそれに答える形でまた新党について解説します。

今回作られる新党には現代の爆弾男といってよい鳩山邦夫氏が参加しないとすでに報じられており、本人もそう語っている事から少なくとも設立メンバーには加わらない事は確実でしょう。今日来た友人からの質問は邦夫氏が自民党を離党する際に与謝野氏と何らかの打ち合わせをしていなかったのかという質問だったのですが、恐らく彼の性格と行動振りを考えるとそういうものは一切なく、離党してはみたものの与謝野氏からはやっぱり相手にされなかったのが実情だと思います。

 それで与謝野氏と平沼氏が何故邦夫氏を相手にしなかったかというと、まず第一に邦夫氏も兄の由紀夫氏同様に実母から献金を受けるという問題のある行動を取っていたことと、邦夫氏の破天荒な性格による行動によって新党の規律が緩んだりするのを恐れたのかと思います。ただこうした邦夫氏への処遇はまったく理解できないわけではないのですが、今回こうして明確に拒絶したことで新たに賛同者、特に自民党からの離党者を受け入れるに当たって「人を選ぶ」という印象が付きまとってしまい、参院選までの組織拡大においてしこりとなっていく可能性があります。もっとも、後述する理由からそんなことをあまり考える必要はないのかもしれませんが。

 実はこの平沼、与謝野新党について日曜日の朝日新聞にて、面白い論評が書かれてありました。
 概要を簡単に説明すると、現在民主党を不支持とする層が増加しているものの現在の自民党ではそのような反民主層の受け皿にはなりきれず、このままだとそうした票が丸々「みんなの党」といった第三局の政党へ票が流れていく事が予想されます。そこで自民党としては敢えて与謝野氏を平沼氏とも打ち合わせをした上で自民党の外に新党を作らせ、みんなの党へと流れる票を新党で吸収し、票の確保に努めるという作戦に出たという論評です。いわば、参院選に向けて自民党は自身の支部政党を与謝野氏と平沼氏に作らせたというわけです。

 あまり持ち上げるのもなんですが、これが全く根拠のない説だとは私は思いません。というのも新党立ち上げに至る過程で与謝野氏が何故自民党を離れる必要があるのか、これまで通りに頼りない執行部の刷新を求めていくだけじゃ何で駄目なのかがはっきりしません。また新党がどのような政策を訴えていくのかも全く見えてこず、むしろ与謝野氏や平沼氏のかねてからの主張を考えると今の自民党が主張する政策と全く同じことを主張する可能性が非常に高いです。

 そして新党の構成メンバーを見ても、どう見ても古い自民党を捨てて新しい船出を乗り出していこうという風には全く見えない高齢の、しかもかなりずぶずぶに古い自民党に染まりきった政治家ばかりです。まだ河野太郎氏や塩崎恭久氏のような人が離党して新党を作るのなら理解できるにしろ、どうしてこのメンバーが新党をわざわざ作るのか、藤井孝雄氏なんて私があまり知らないせいかも知れないけど考えれば考えるほど分らなくなってくる人物です。

 こうした疑問も、上記に上げた自民の支部政党として票を集める、議員を受からせるだけの見せ掛けの組織だというのであればある程度納得できます。無論確証は未だありませんが、政局を判断していくのに参考にはなる考え方だと思います。

2010年4月5日月曜日

私が高校進学を拒否しようとしたわけ

 またちょっと時間がないのと頭痛があるため短くまとめられる自分の近況についてですが、先日、実に七年ぶりに母校の中学、高校に友人とともに尋ねて行きました。中高一貫校のその学校はこのブログでも何度か書いておりますが私にとってはあまりいい場所ではなく、はっきり言って中学高校時代はもう一度過ごせと言われても心からお断りしたいような嫌な時代でしたが、教えてもらった教師らに対しては親身に相談に乗ってもらっていたので人並みに敬意を持っていたことから今回友人にくっついて訪問する事にしました。
 具体的にその恩師らに何をどうこう話したかまでは書きませんでしたが、恐らく一番厄介な問題を吹っかけた恩師と久々に会った際に、私が中学三年の頃に言い出したとんでもない発言をお互い振り返っていました。

 具体的にどんな事を過去の私は言い出したのかというと、なんと付属の高校には進学せず、高校生にはならないと言い出したのです。というのもすでに当時から文章で身を立てる作家になろうと目標を持っており、その目標に対して高校は時間の制約も大きい上に何のプラスにもならないと判断し、作家となれるよう文章力を磨きつついろんなことを経験していく上では高校に行かない方が自分にはいいだろうと考えたからです。当時から私は学校の授業を受けるより自分で勉強した方が効率がよくなっており、大学には専門的な知識や活動を行う上で進学する必要はあると考えていたので高校は行かずに大検を取得する道のほうがいいと思ったわけです。

 もちろんこんなの両親は許さないだろうし自分がいくら願った所で叶うまいということは分っていたのですが、時の担任には一応念のためにこういう風に考えていると相談し、案の定というか高校くらいは行っとけと言われたわけです。結局私は高校にそのまま進級してきちんと卒業するまで変にぐれることなく通い続けたわけですが、今思いなおしても多分行っても行かなくってもそんなに大きな人生の変化はなかったんじゃないかと思います。あんまりこういうことは大きな声で言うべきだとは思いませんが、本人にやりたいことがはっきりと定まっているのであれば変に世間体を気にせずその道に進んだ方がずっといいんじゃないかと思います。見つからない人は見つからない人でどう知れば一番まだ妥協できるか、割がいいのかを考えればいいのだし、すくなくとも人生を後ろ向きに考えるよりリスクテイクをしてでも前向きに見ていった方が何事も楽しいんじゃないでしょうか。
 少なくとも私にとっては、あの高校時代は無意味以外の何者でもなかったしなぁ。

2010年4月4日日曜日

コヴェントリーのゴディバのエピソード

 先日に地元の友人と会って話しをしてきたのですが、その友人は私と同じくイギリスに行った経験がある友人だったのでふとしたことからイギリスの話になりました。イギリスというと一般にはイギリス紳士ばかりが浮かんできますが、なんだかんだいって個性が強い国なのでイギリス紳士に限らず知っている物同士では話題にするネタが次から次へと湧いて来る国です。恐らく最も話題になるのは、「メシがまずい」、「それなのに物価が高い」ことでしょうが。

 それでその友人とのイギリス会話の際、一番盛り上がったのは今日取り上げる「ピーピング・トム」の話でした。このピーピング・トムというのは今も高級チョコとして名高い「ゴディバ」のブランド名に使われたエピソードに出てくる男の話で、概要をWikipediaからそのまま引用すると下記のようになります。

 領主レオフリックとゴダイヴァ夫人については有名な伝説がある。重税に苦しむ領民を気の毒に思ったゴダイヴァが、夫レオフリックに税を軽くするように申し述べたところ、レオフリックはゴダイヴァが慎み深い女性であることを知りながら「お前が全裸で馬に乗って町を一周したら考えてやろう」と言った。悩んだ末にゴダイヴァは決意し、町中の民に外を見ないように命じた上、長い髪だけを身にまとって馬で町を一周したのである。町民はみな、このゴダイヴァのふるまいに心を打たれ、窓を閉めて閉じこもった。これにより、レオフリックはやむを得ず税を軽くしたという(なお、このときにただ1人外を覗いた男がおり、これがピーピング・トム(Peeping Tom)という言葉の由来になったという)。

 このエピソードから例のチョコレート会社は「ゴディバ(ゴダイヴァ)」という名前をとったわけなのですが、最後に書かれている不心得者の「Peeping Tom」を直訳すると「覗き屋トム」といったところで、和訳として私はよく、「英語版の田代という意味だ」と周りには説明しております。
 実は私はイギリスに旅行に行った際、何故かこのゴディバのエピソードの舞台となったコヴェントリーで一泊しました。当初はバーミンガムで宿を取ろうと思っていたところ、たまたまその日は当地でイベントがあって宿がすべて埋まっておりコヴェントリーに行き着いたわけなのですが、元々ゴディバのエピソードも知っていたので着いた場所があの話の舞台と聞いていろいろと思う事がありながら街中にあるゴディバ像とかも見て周りました。

 それにしてもこのエピソードは裸の女性が馬に乗るという暴れん坊将軍も真っ青なエピソードぶりといい、ピーピング・トムというお約束なキャラといいすこぶる面白い内容です。なお伝説によるピーピング・トムは神の天罰によってゴディバを見るや失明したそうなのですが、このエピソードを私がよく訪れるイラストサイトの方も引用しておりましたので紹介しておきます。

レディ・ゴディバでぐぐれギャングスター

 一番トップには裸のゴディバ婦人の絵が描かれていますが、ページ下部ではピーピング・トムの想像図として素晴らしいキャラを紹介してくれております。
 結構いろいろとイラストサイトのブックマークを私は持っているのですが、ここのサイト管理人、腹八分味之介氏ほどキワモノ系の悪役を書ける人は未だにお目にかかれておりません。普通に美少女イラストも十分に上手なのですが、腹八分氏曰く「モヒカン系」を書かせたら恐らくこの人の右に出てくるのは北斗の拳の原哲夫氏くらいなものでしょう。このほかホラー映画系にもやけに詳しいので、興味がある方は是非別ページもピーピング・トムばりに覗いていってください。

  おまけ
 京都の嵐山にて、「ピーピング・トム」というカフェレストランがありました。通る度に気になっていたのですが、なにぶんお金のない頃でしたので結局ここも「中国料理 ほあんほあん」同様に一度も訪れず終いでした。今度京都に行ったらちゃんと行って見ようかな。

2010年4月3日土曜日

平沼、与謝野新党について

 先日、参議院にて自民党の若林元農水大臣(最初、「元の薄い大臣」と変換されたよ)が、採決の際に退席していた青木参議院議員の投票ボタンを勝手に押すというとんでもない行動の責任を取って辞任しました。はっきり言って現在の政局は与党民主党が一向に普天間問題の決着案を見出せないばかりか早くも子供手当ての外国人への配布を巡って問題が起き始めており、野党自民党としてはこれ以上ないくらい与党を攻撃できる材料が揃っているにもかかわらずこの始末なのだからしばらく政権を取り返す事は出来ないでしょう。よく自民党と民主党を比較していろいろ話す方がおりますが、私に言わせるなら今は自民も民主もあまりにも情けない状況で、民主党の若手を中心とした政界再編を期待する意味ではまだ民主党が与党の方が自民党よりかはよかったかなと思います。

 そんな空中分解気味の自民党で今日ようやく動きがあり、元自民党議員で郵政民営化論争の際に袂を分った平沼赳夫氏が新党を結成する事を昨日発表し、それに続く形でこちらも新党結成をかねてより公言してはばからなかった与謝野馨氏も、自民党を正式に離党して本日平沼氏の新党に合流すると発表しました。

与謝野・平沼氏が共同代表…新党合意(読売新聞)

 このニュースについて私の感想を述べるなら、この平沼新党は恐らく次の選挙時に大きな勢力とはなりきれずに終わるかと思います。

 その理由を一つ一つ説明していくと、まず構成議員の問題があります。
 今回与謝野氏は現在の自民党には問題が多いということで離党をしましたが、今度新しく出来る平沼新党も基本的には元自民党の重鎮議員、しかも高齢者ばかりで占められる可能性が非常に高いです。たとえ本人らにその気はなくとも有権者からは昔の自民党への回帰のように受け取られて、よっぽど面白い提言をしない限りは支持者を広げる事は出来ずにただ間口を狭くするだけに終わる可能性が高いでしょう。第一、掲げる政策自体が恐らく古い自民、今の民主と同じバラマキと郵政復古しかないでしょうし。

 第二の理由として、多少ネガキャンが入ってしまいますが平沼氏の人間性があります。まだ与謝野氏は病気持ちで高齢であることを除けば私も高く評価しており申し分もないのですが、平沼氏については私はかねてよりその人格を疑っております。具体的にどのようなところに問題があるのかというとどうもこの人は自分の考えは公の考えに適っていると亀井静香のように信じきっている節があり、平気でとんでもない発言を行ってきております。

 いくつか例を出すと、自らが自民党を離脱する事になった2005年の郵政選挙においては小泉元首相は民意を無視して郵政民営化を推し進めようとしていると言いながらも自民党が大勝するや、国民は何も分っていないと国民の無能をあげつらいました。政治家であればそういう風に思いたくなるのも分らないわけではないのですが、それを公然と言い放つのとそうでないのでは大きな差があるでしょう
 ただ平沼氏はその後、安倍政権において郵政造反組みの復党処分が行われた際には一人だけ今後は執行部に従うという誓約書を提出せずに筋は通した事は私も評価しております。

 もう一つ平沼氏に対して私が不信感を覚えずにいられない発言として、かつて自民党の山本一太議員に対して面と向って、「お前、抹殺するぞ!」と言い放った発言があります。詳しい詳細はWikipediaにも書いてあり、本人も発言後にあれは言い過ぎたと確か述べていたと思いますが、このような不穏当な発言をテレビカメラが回っている前で行うというのは政治家というより人間としてもどうかと疑わずにはおれません。恐らく今後新党を作って平沼氏が代表となれば報道される回数も増加し、このような暴言癖が度々出てくるであろうことを予想すれば今度できる新党も軌道には乗らないかと考えるわけです。

 そういうわけで結論としては、この平沼新党は第二の国民新党のように古い自民党議員の集合で終わる可能性が高いというのが私の意見です。仮に可能性があるとしたら未だ国民の人気が根強い自民党の桝添要一氏を党首に迎えた上で、彼を参議院から衆議院議員へと鞍替えさせて首班指名を行うという方法くらいなものでしょう。ただ桝添氏としては死に体の自民党をそっくりそのまま引き受けるというほうに心が動いているようにも見え、そうのように持って行くのは難しいでしょう。

2010年4月2日金曜日

中国がどうしても先進国になれない理由

 世の中、考えればすぐわかる事でもはっきり言われるまで誤解しているということがよくあります。今の地球が温暖化することで海水面が上昇する事なんてありえないということ然り、若者は車離れしてるというが今の若者はそもそも車に興味を持った事がないということ然り。
その中でも中国関係の仕事なり研究なりをしている人にとっては当たり前でもそうでない人には意外と知られていない事実として、たとえ中国がどんなに、何十年努力したとしても絶対に先進国にはなれないという事実があります。

 先月、モナコの提案で地中海産マグロを絶滅危惧種を保護するワシントン条約によって禁輸すべしという決議が行われましたが、結果は日本国内の下馬評を大きく覆して大差で否決となりました。日本人は世界で最もマグロを食べているというだけあってこのニュースは国際ニュースの割には会議前から連日大きく取り上げられており、その注目も高かっただけに結果が出るや、まるで戦争にでも勝ったかのような会議否決を歓迎する報道があちこちで見られました。

 そのようなニュースでは一体何故予想を覆して否決が賛成票を大きく上回ったのかというと、会議直前まで続けられた日本による他の会議参加国へのロビー活動が実を結んだと大きく報道されていましたが、私はというとこの報道は実は怪しいと考えていました。というのも日本はこれまでの国際会議では空気を一切読まずに地雷禁止条約に反対するなどほとんどアメリカに追従しているだけで自国の思惑に他国を引っ張るというロビー活動など出来るものかと甚だ疑わしい外交しかしておらず、また会議前の国内報道では否決させるのは難しいなどと弱気な意見ばかりが出ていたなどロビー活動が功を奏していたというのならやや矛盾している状況があったからです。

 ではどうして否決国が多くなったのかとなると、もちろん証拠なんてどこにもありませんが、私はあのマグロ禁輸の会議で否決に持ち込んだのは他でもなく中国だったと思います。そう思う理由をいくつか挙げるとあの会議で否決票を投じた国には日本にはあまり縁がないけれどもこのところ中国が援助をバンバンと行って影響力を強めているアフリカ諸国が多く、当の中国自身もこのところマグロの消費量が増えてきている事から日本や韓国とともに提案がなされてから一貫として反対を続けてきていました。
 一部週刊誌のみがこうした見方を呈して赤松農水大臣は中国の手柄を自分のものとして喧伝していると指摘していましたが、私もこの週刊誌の報道を見る前から同じ見方を持っていました。

 ちょっと話が大きく外れましたが、このように国際会議の場においても日増しに発言力を増してもはや自ら先進国の域に達したとまで自称する中国(都合のいいところでは発展途上国と自称するけど)がどうして先進国にはなれないのかというと、先ほどのマグロの話とも関係があります。結論を言ってしまうと、中国は人口があまりにも多過ぎるために先進国並の生活を行うと地球の資源が持たないからです。

 最近はちょっと落ち着きましたが、三年前頃から中国のあまりの経済成長によって日本からくず鉄と古紙が急激に不足するようになりました。これらくず鉄と古紙はほぼすべて北京オリンピックを控えて活発な生産活動が行われていた中国へ持っていかれたために日本で不足したのですが、これら二つの資源に限らずこのところ中国人が手を出すようになった資源はどれも世界中で一挙に不足するという事態がこのところ頻発しております。前にはワインを飲むようになってつまみのチーズが急に不足したというし。

 我々日本人からするとイメージしにくいですが、資源というものは基本的には有限で、需要が低い資源ならともかく需要が高い資源は文字通り奪い合いになります。これまで中国を初めとした発展途上国の指導者らは先進国が富を独占するから発展途上国は豊かになれないと批判してきましたがこれはまさにその通りで、経済力の強い上位数パーセントの先進国が世界の過半数以上の資源を独占してきたのがこれまでの世界です。

 しかしこうした体制も、近年の中国やインドといった急速に経済成長を果たした急成長国らの登場によってほころびが生じ、石油から鉄、そして今回槍玉に挙がったマグロを含む食料といった資源が徐々に戦国サバイバル的な様相を見せ始めております。特に中国やインドはそれぞれの人口が半端でないために、その影響力も生半可なものではありません。

 ここまで言えばもう大体察しが着くと思いますが、少なくとも現時点において、中国人全員が先進国並の生活を行うに足る資源が地球にないため、一部の富裕層ならともかく中国は国全体としては絶対に先進国になれないのです。たとえどんなに中国が努力して経済成長を果たしたとしても。
 もちろんこの事実は中国政府も十分に理解しているでしょうが、今の中国の貧困層を支えているのは、「頑張れば、みんな裕福になれる」という希望であるために、絶対にこんな事は口にせずむしろ希望があるかのように宣伝しております。幾ら頑張っても一部の人しか裕福にならないなんて言ったら、多分暴動起こるだろうし。

 これは逆に言えば、そろそろ資源の枯渇などについて日本人もいろいろと考えるべき時期に来ていることになります。経済力が低下して他国から資源が買えなくなるのは言うまでもありませんが、たとえ現状の経済力を維持したとしても中国のような国が一定度の成長を果たすだけで資源は確実に世界からなくなります。そのような時代にはどうなるか、私がわざわざ言うまでもないのでここでは書きませんが、せめて自分が生きている間くらいは資源も持って欲しいなと思います。