昨日に引き続き友人から借り受けた本の話になりますが、今日は堺屋太一氏の「東大講義録 ―文明を解く―」という本とその中で述べられているある考えを紹介します。
はっきり言って、これまで私は堺屋太一氏のことをあまり評価しておりませんでした。堺屋氏の小説は何度か読んだのですがお世辞にもあまり面白いとは思えず、またどこかの雑誌で読んだ論評にて、「現代のアメリカとモンゴル帝国はどちらも女性の権威が高くて似通っている」という、ちょっと共感し難い意見などを述べられていてどんなものかと思っていました。
それが今回友人が貸してくれたこの本は、確か2002年の出版ですが八年も前の本とは思えないほどに示唆に富んだ内容で、その後の世相を見事に言い当てていることに驚きを感じずにはいられませんでした。この本はその題の通りに堺屋氏が東大で講義した際の内容を編集しなおしたものなのですが、歴史に沿って文明の成り立ち、そして変遷をわかりやすく且つ知見に富んだ目線で説明されております。
その文明の成り立ちについてここで簡単に抜粋して説明すると、堺屋氏は文明の発展とともに人間の交友範囲が変化していったと唱え、大まかに表にすると下記の通りになるとしています。
始代:採集社会=血縁社会
古代:農耕社会=地縁社会
近代:産業社会=職縁社会
現代:知価社会=知縁社会
読んだのが一ヶ月くらい前なのでちょっと記憶が曖昧ですが、大体この様な具合で文明の発展とともに人々の交友範囲、いわゆる縁の持ち方が変わってきたというわけです。なお最後の知縁社会というのは堺屋氏の造語で、共通した目的を持つもの同士で交友を持っていくという社会を意味しており、簡単な例だとこういうブログが縁で連絡を取り合う中のようなものです。
この文明論だけでも十分におなか一杯の内容なのですが、短いながら日本の食糧政策についてもドキリとすることを堺屋氏はこの本の中で述べており、それはどのような内容かというとこのようなものでした。
「現在、農水省の官僚は日本の自給率を100%にしようなどと言っていますが、私が子供だった戦後直後は山の斜面からの石の多い河原に至るまで、日本中の土地という土地にサツマイモを植えたにもかかわらず当時の日本の人口7000万人を食べさせる事が出来なかったのですから、根本的に日本で食糧を自給する事は不可能なのです。
だからこそ私は質の低い作物を日本で植えて作るよりも海外で高く取引される作物を栽培し、それを売って得たお金で海外の安い作物を輸入すべきだと考えるのです」(この会話文内容は私の解釈によるもので、原書からの抜粋にあらず)
言われてみる事まさにその通りで、今よりも人口が低く、国会議事堂前ですら作付けが行われたほど耕地も多かった戦後直後で支えきれなかった食糧自給が、一億二千万にも膨れ上がった現代においてどうして支えられるものかとまさに頭をがんと殴られたような気がした一言でした。
さらに私のほうからこの堺屋氏の主張に付け加えると、現代は戦後直後よりも農業技術から作物の品種改良も飛躍的に向上しており一概に60年以上前のデータと比較するべきでないという意見も十分理解できるのですが、その一方で現代農業には近い将来に大きなリスクが予想されております。そのリスクというのは環境問題の欺瞞性を指摘して一躍名を轟かせた中部大学の武田邦彦教授がこれまた指摘しているもので、現代農業に必須とも言える農薬原料の有機リンが確実に枯渇し始めてきているというものです。武田氏が言うにはこの有機リンが完全に枯渇しないでも現在よりも産出量が減れば価格は高騰し、農薬に頼りきった現代農業では直にコストに跳ね返ってくると予想しております。
もちろんエコロジスト張りに、「有機リンがないなら、自然肥料に頼ればいいじゃない」などと主張するのは簡単ですが、私も伝え聞く限りでは化学肥料なしでは日本の農業、下手すりゃ世界中の農業は立ち行かないとまでされており、とてもじゃないですが自然肥料で代替出来るとは信じられません。
この様に考えると、堺屋氏の言うとおりに下手に数字上の自給率の達成ばかりを追い求めるのではなく、いかに日本人の食糧を繋ぎとめるかという視点から少数精鋭とばかりに高級作物をより支援していくという方針の方が正しいのかもしれません。なんか真に受けすぎな気が、自分でもするけど。
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