本当かどうかは知りませんが、太平洋戦争中、捕虜となった日本兵をからかってやろうとアメリカ兵がこんな事を言ったそうです。
米兵「お前ら、ダーウィンの進化論ってのを知っているか? ダーウィンによるとお前らが神様と崇めている天皇もサルから進化したんだってよ( ゚∀゚)」
日本兵「それくらい知ってるよ。で、それがどうかしたの?(・д・` )」
米兵「あれっ?( ゚д゚)」
恐らく米兵としては、日本人が神様、もしくは神様の子孫と崇めている対象が下等生物とみなしているサルから進化したのだと言われると、日本人は馬鹿にされてカチンと来るか相当なショックを受けるだろうと考えていたのだと思います。しかし言われた日本人はそんな当たり前のことを何を今更といった様に受け取った、というのがこのお話ですが、多分実際に会話があったとしてもこういうことになったんじゃないかと私も思います。
戦前、日本は極端な皇民化教育が行われてそれまでの日本史上においても極めて高いレベルにまで天皇の神格化もはかられていましたが、私は終戦後のマッカーサーを初めとしたGHQによる大転換があれほどスムーズに行われたことを考えると、口では激しく天皇の神性を述べながらも、日本人は内心では天皇も自分たちと同じ人間だと認識していたように思えます。一時期に外国人からよく日本人のわからないところとして、口で言っていることと心に思っていることが一致していないというものがありましたが、私は戦前の天皇観も日本人お得意の本音と建前がきちんと分けられていたのではないかと考えています。
このような日本人の面従腹背というような態度は日本に限らず中国などといった東アジア圏ではよく見られますが、欧米人からしたらなかなかに理解できない態度なのかもしれません。またそもそもアメリカでは今に至るまでダーウィンの進化論に懐疑的で、公教育で教えるべきかどうかについて激しく議論されるほどだそうです。
話は戻り戦前の日本人の天皇観ですが、私は現代で一般的に思われている以上に当時の日本人はクールに捉えていたように思えます。また天皇制を熱烈に信奉していたとされる旧陸軍幹部や右翼活動家らも、実際には天皇制を最も軽視していたのではないかと思われる節があります。
最近は右翼活動をしても寄付金が集まらなくなって街宣車なども見なくなるほど右翼活動家もなりを潜めるようになったため、こうした戦時の歴史についてもかなりきわどい所まで調べる事が出来るようになりましたが、最近の研究だと天皇制を最も信奉して忠実であったと思われていた陸軍がどのように天皇制を見ていたかについて徐々に明らかになってきました。
結論から言うと陸軍は戦時中、天皇制の維持以上に陸軍という組織の維持に腐心していた節があり、昭和天皇がもし独断で終戦工作に動こうものなら無理矢理取り除いて天皇の弟(第一候補は秩父宮)の中から新たに天皇を立ててでも戦争を継続しようという、なんというか本末転倒のような計画までも持っていたそうです。
こうした状況である事は昭和天皇を含め天皇の周りにいる侍従らも理解しており、迂闊に終戦工作を行おうものならクーデターを起こされるとの認識があり、あの鈴木貫太郎内閣の御前会議へとつながったのかと思います。
なお余談ですが、戦後初めて自民党を下野させる事に成功した細川護煕元首相の父親である細川護貞氏はまさにこの戦時中に昭和天皇の侍従を務めており、当時の状況を「細川日記」にて詳細に記しております。その日記によると、悪化する戦局にも関わらず依然と戦争を継続しようとする東条英機に対し、「もはや東条を刺殺するより他がない」と言ったものの同じ侍従の木戸幸一に滅多な事を言うなと口止めされ、部屋を出た途端に足ががくがくと震えてきたと記しております。
更についでに書くと、息子の護煕氏が総理就任時にインタビューを求められ、「息子は飽きっぽい性格だから長続きしないだろう」と述べているあたり、観察眼のある人だったのだろうという気がします。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年5月5日水曜日
2010年5月4日火曜日
中国人が意外にはまっている日本文化
上海万博が始まったことからこのGW中のトップニュースはそれこそ中国一色でしたが、その中でも万博開始前に上海市政府が住民に対し、「パジャマで外を出歩くな」という呼びかけなどといった紹介をよく見たように思えます。これなんて私も今まで知らなかったのですが、なんでも中国ではパジャマは富の象徴でよくパジャマを着たまま外に出歩いたり買い物をしたりする人が多かったそうなのです。言われてみると、そんな格好をしたような人が朝方なんてよくいたような気がします。
このパジャマの例を筆頭に、近いのに、いや逆に近いがゆえに日中ではお互いの文化や生活習慣について意外に知られていない内容が数多くあります。ご多分に漏れず私も決して中国の生活習慣などについて詳しいというわけじゃないのですが、中国の若者が日本に対してどのように考えているか、または日本の文化をどれほど知っているかについて、日本人は知らずに損しているなと思う事が多くあります。そこで今日は幾つか、といっても私の中国人の知り合いから得た日本への見方について紹介しようと思います。
1、熱血高校
ある日私の中国人の友人と一緒に歩きながらゲームの話をしていると、「熱血高校って知ってる?」と唐突に聞かれました。最初は何のことだか分からなかったのですが詳しく話を聞いてみると、どうやらかつてテクノスという会社から出ていた「熱血高校くにおくんシリーズ」というゲームのことを言っているのだとわかりました。
このゲームは私くらいの世代なら何かしら触れた事のある、ファミコンからスーパーファミコン時代における代表的なパーティーゲームのシリーズです。あいにくこのゲームを作っていたテクノスが倒産した事から続編が作られなくなってしまったのですが、仁義ある不良のくにおくんがいろんな人の求めに応じて他校の友人(元ライバル)の彼女を救いに殴りこみに行ったり、ドッヂボールで戦ったり、果てには時代劇で空中電気あんまを披露したりなどと、下手したら今の最新のゲームなんかよりずっと自由度の高いゲームでした。
その友人は子供の頃、この熱血高校シリーズを友人同士でやっては楽しく遊んでいたそうです。まさかこんなゲームを日中で共有していたとは思いもせず、妙なショックを受けました。
2、スラムダンク
さすがに今の中高生くらいだとちょっと知名度が落ちてくるかもしれませんが、現在「バガボンド」を連載中の井上雄彦氏がジャンプ黄金期に連載した「スラムダンク」という漫画は、今に至るまでの日本におけるバスケットボールの地位や人気へと大きく押し上げる原動力となったと間違いないでしょう。最近少し思うところがあってこのスラムダンクを読み返しており、連載当時に私は小学生だったのですが、そこそこ年のいったこの年齢で改めて読んでみると小学生時代とはまた違った視点で読め、実に良く出来た漫画だと再認識をしております。「バガボンド」はそんなに好きじゃないんだけど。
それでこのスラムダンク、恐らく日本以上に中国では大きな影響力を持っているのではないかと私見ながらに思っております。なんでも例の私の中国人の友人に聞くと、中国でもこのスラムダンクは大ヒットしてバスケットボールを始める中高生が続出したそうで、実際にその後中国ではアメリカのNBAでも活躍する選手を輩出するほどバスケットボール熱は高まり、今でもこのスラムダンクは中国では経典の如く扱いを受けているそうです。
3、浜崎あゆみ
日本では往年ほどの勢いはなくなっている歌手の浜崎あゆみですが、さすがに今はどうなっているかまでは分かりませんが、ちょっと前までは中国人も非常に愛好しておりました。今回の万博直前の岡本麻夜の音楽パクリ騒動といい、日本のアーティストは中国でも全般的に受けがよく、私の留学時代などはよく街中でKiroroの曲を耳にしておりました。
ただ浜崎あゆみが中国で権威を持つのは彼女の曲が中国人に受けるからというだけでなく、彼女流のメイクが中国の都市部の若者に非常に受けがいいという理由も大きく絡んでおります。私なんかは彼女のメイク方はちょっとけばく思えてそんなに好きではないのですが、件の友人に言わせると浜崎流の日本人女性のメイクは世界一だなどと聞いててこそばゆくなるほど誉めておりました。
4、村上春樹
これは中国に限るわけじゃないのですが、村上春樹の小説はかねてより中国でも高く認知されております。この前に出版された「1Q84」も相当売れたそうですが、私が留学した頃は「海辺のカフカ」が大ブレイク中で街の至る本屋どこでも平積みにされていたほどでした。また例によって、私はそんなに好きじゃないんだけど。
このパジャマの例を筆頭に、近いのに、いや逆に近いがゆえに日中ではお互いの文化や生活習慣について意外に知られていない内容が数多くあります。ご多分に漏れず私も決して中国の生活習慣などについて詳しいというわけじゃないのですが、中国の若者が日本に対してどのように考えているか、または日本の文化をどれほど知っているかについて、日本人は知らずに損しているなと思う事が多くあります。そこで今日は幾つか、といっても私の中国人の知り合いから得た日本への見方について紹介しようと思います。
1、熱血高校
ある日私の中国人の友人と一緒に歩きながらゲームの話をしていると、「熱血高校って知ってる?」と唐突に聞かれました。最初は何のことだか分からなかったのですが詳しく話を聞いてみると、どうやらかつてテクノスという会社から出ていた「熱血高校くにおくんシリーズ」というゲームのことを言っているのだとわかりました。
このゲームは私くらいの世代なら何かしら触れた事のある、ファミコンからスーパーファミコン時代における代表的なパーティーゲームのシリーズです。あいにくこのゲームを作っていたテクノスが倒産した事から続編が作られなくなってしまったのですが、仁義ある不良のくにおくんがいろんな人の求めに応じて他校の友人(元ライバル)の彼女を救いに殴りこみに行ったり、ドッヂボールで戦ったり、果てには時代劇で空中電気あんまを披露したりなどと、下手したら今の最新のゲームなんかよりずっと自由度の高いゲームでした。
その友人は子供の頃、この熱血高校シリーズを友人同士でやっては楽しく遊んでいたそうです。まさかこんなゲームを日中で共有していたとは思いもせず、妙なショックを受けました。
2、スラムダンク
さすがに今の中高生くらいだとちょっと知名度が落ちてくるかもしれませんが、現在「バガボンド」を連載中の井上雄彦氏がジャンプ黄金期に連載した「スラムダンク」という漫画は、今に至るまでの日本におけるバスケットボールの地位や人気へと大きく押し上げる原動力となったと間違いないでしょう。最近少し思うところがあってこのスラムダンクを読み返しており、連載当時に私は小学生だったのですが、そこそこ年のいったこの年齢で改めて読んでみると小学生時代とはまた違った視点で読め、実に良く出来た漫画だと再認識をしております。「バガボンド」はそんなに好きじゃないんだけど。
それでこのスラムダンク、恐らく日本以上に中国では大きな影響力を持っているのではないかと私見ながらに思っております。なんでも例の私の中国人の友人に聞くと、中国でもこのスラムダンクは大ヒットしてバスケットボールを始める中高生が続出したそうで、実際にその後中国ではアメリカのNBAでも活躍する選手を輩出するほどバスケットボール熱は高まり、今でもこのスラムダンクは中国では経典の如く扱いを受けているそうです。
3、浜崎あゆみ
日本では往年ほどの勢いはなくなっている歌手の浜崎あゆみですが、さすがに今はどうなっているかまでは分かりませんが、ちょっと前までは中国人も非常に愛好しておりました。今回の万博直前の岡本麻夜の音楽パクリ騒動といい、日本のアーティストは中国でも全般的に受けがよく、私の留学時代などはよく街中でKiroroの曲を耳にしておりました。
ただ浜崎あゆみが中国で権威を持つのは彼女の曲が中国人に受けるからというだけでなく、彼女流のメイクが中国の都市部の若者に非常に受けがいいという理由も大きく絡んでおります。私なんかは彼女のメイク方はちょっとけばく思えてそんなに好きではないのですが、件の友人に言わせると浜崎流の日本人女性のメイクは世界一だなどと聞いててこそばゆくなるほど誉めておりました。
4、村上春樹
これは中国に限るわけじゃないのですが、村上春樹の小説はかねてより中国でも高く認知されております。この前に出版された「1Q84」も相当売れたそうですが、私が留学した頃は「海辺のカフカ」が大ブレイク中で街の至る本屋どこでも平積みにされていたほどでした。また例によって、私はそんなに好きじゃないんだけど。
2010年5月3日月曜日
何故マルクスの予言は外れたのか
マルクスと言えば社会主義思想を現代に伝わる形に完成させた偉大な大家で、社会主義国の大半が滅んだ今に至ってもなお思想界、経済界に大きな影響力を残している人物であると評価されています。もちろん中には彼の思想や予言は結局は大はずれで、彼が述べたのとは逆にソ連が崩壊するなど社会主義が滅んで資本主義が勝ったではないかと言われる方もいるかと思います。
実際に私もかつてのソ連や東ドイツ、そしてお隣の北朝鮮や中国のかつてのお国事情、それこそ私が連載して解説した中国の文化大革命などを見るとやはり社会主義というのは人間の意欲というものを完全に無視した欠陥のあるシステムだったと思え、現在に至るまでその考えは間違ってはいないと信じております。だからと言ってマルクスが夢想者であったと見るのではなく、彼の社会主義に対する価値観やそれとは離れて倫理学で語られる、こちらもかつて私も記事にした「疎外論」など、その思想や考え方は当時においても超一流で社会主義が滅んだからと言ってもう学ばなくていいというような対象ではないと評価しております。
そんなわけで短い時期で、しかもかなり中途半端に社会主義思想、マルクス経済などを適当に学んだ事のある私なのですが、まず彼の理論は古典派の資本主義経済には欠陥があるというところからスタートします。結構面倒くさい理論や現象などを駆使してマルクスはこの資本主義の欠陥を自身の著作において証明しようと作業しているのですが、簡単に結論を述べると運用できる資産を保有する上位、中産階級と、資産を持たないで自身の労働によって賃金を得る労働者階級の収入や生活待遇の差というのは資本主義社会においてはどんどんと二極分離する、つまり富む者はますます富んで、貧しいものはどんどんと貧しくなっていくとしております。
これは労働者階級にとってすればいわば負の連鎖で、この連鎖から抜け出すために社会主義社会の実現が必要だという風に続いていくのですが、皮肉な事にこのスタート地点からしてマルクスは間違っていたと現代では評される事が多いです。一体どのように間違えているのかと言うと、日本やアメリカといった国を始めとして1900年代の中盤から後半にかけて資本主義側諸国ではケインズに始まる統制経済の概念が強まり、経済全体が大きくなるに伴って労働者階級の属する下位層の生活も、「一家に一代の自家用車」に代表される言葉の通りに底上げされていき、マルクスが予言したようにどんどんと貧しくなる事はありませんでした。
資本主義側はマルクスのいた時代に対して資本主義も進化したのだと自分たちの勝利を誇りましたが、このマルクスの予言がはずれたことについて、これまた以前にも取り上げた堺屋太一氏が面白い事を述べていたので簡単に紹介します。
堺屋氏は、マルクスの考えだと貧富の差がどんどんと広がっていくであろう資本主義社会で何故下位層が減少して中間層が拡大していったのかと言うと、石油や鉄といった資源が非常に安価で豊富な時代だったからだと述べています。もう少し具体的に説明すると、二次大戦後は技術の発達に伴って石油や鉄などといった主だった資源の発掘が急激に進み、これら資源の価格が今から考えると驚くべき価格にまで低下しました。実際に石油は一時期のアメリカだと1リットル当たり水道代より安くあった時代もあり、事実上使い放題だったようです。
堺屋氏はこの点に注目し、本来であればマルクスの主張通りに資本主義社会では貧富の差が拡大するはずだったものの、こういった資源が二次大戦後は安価で大量に使用できたことで下位層の底上げも達成する事が出来た。逆に言えば、中国やインドを初めとした大量の人口を抱える発展途上国が台頭して資源価格が徐々に高等してきた現代に至っては、マルクスの予言通りに貧富の差が拡大する可能性が高いと述べています。
資源については枯渇しないまでも、産出量が減るだけでも発掘コストは跳ね上がるのでこの堺屋氏の主張も決して無理な意見ではないように思えます。最近の日本は格差社会になってきたということで一時マルクスの復権だなどとマルクス経済学者を中心に主張されましたが、彼らの意見を聞いているとただ単に格差とマルクスを繋げているだけでどうにも脈絡のなさを感じずにはいられませんでした。しかしこの資源価格に注目した堺屋氏の意見には私も同感する所があり、今後世界は資源争奪戦となると各所で予想されている事からしても、心にとどめておくべき意見だと思います。
何故マルクスの予言は外れたのか
マルクスと言えば社会主義思想を現代に伝わる形に完成させた偉大な大家で、社会主義国の大半が滅んだ今に至ってもなお思想界、経済界に大きな影響力を残している人物であると評価されています。もちろん中には彼の思想や予言は結局は大はずれで、彼が述べたのとは逆にソ連が崩壊するなど社会主義が滅んで資本主義が勝ったではないかと言われる方もいるかと思います。
実際に私もかつてのソ連や東ドイツ、そしてお隣の北朝鮮や中国のかつてのお国事情、それこそ私が連載して解説した中国の文化大革命などを見るとやはり社会主義というのは人間の意欲というものを完全に無視した欠陥のあるシステムだったと思え、現在に至るまでその考えは間違ってはいないと信じております。だからと言ってマルクスが夢想者であったと見るのではなく、彼の社会主義に対する価値観やそれとは離れて倫理学で語られる、こちらもかつて私も記事にした「疎外論」など、その思想や考え方は当時においても超一流で社会主義が滅んだからと言ってもう学ばなくていいというような対象ではないと評価しております。
そんなわけで短い時期で、しかもかなり中途半端に社会主義思想、マルクス経済などを適当に学んだ事のある私なのですが、まず彼の理論は古典派の資本主義経済には欠陥があるというところからスタートします。結構面倒くさい理論や現象などを駆使してマルクスはこの資本主義の欠陥を自身の著作において証明しようと作業しているのですが、簡単に結論を述べると運用できる資産を保有する上位、中産階級と、資産を持たないで自身の労働によって賃金を得る労働者階級の収入や生活待遇の差というのは資本主義社会においてはどんどんと二極分離する、つまり富む者はますます富んで、貧しいものはどんどんと貧しくなっていくとしております。
これは労働者階級にとってすればいわば負の連鎖で、この連鎖から抜け出すために社会主義社会の実現が必要だという風に続いていくのですが、皮肉な事にこのスタート地点からしてマルクスは間違っていたと現代では評される事が多いです。一体どのように間違えているのかと言うと、日本やアメリカといった国を始めとして1900年代の中盤から後半にかけて資本主義側諸国ではケインズに始まる統制経済の概念が強まり、経済全体が大きくなるに伴って労働者階級の属する下位層の生活も、「一家に一代の自家用車」に代表される言葉の通りに底上げされていき、マルクスが予言したようにどんどんと貧しくなる事はありませんでした。
資本主義側はマルクスのいた時代に対して資本主義も進化したのだと自分たちの勝利を誇りましたが、このマルクスの予言がはずれたことについて、これまた以前にも取り上げた堺屋太一氏が面白い事を述べていたので簡単に紹介します。
堺屋氏は、マルクスの考えだと貧富の差がどんどんと広がっていくであろう資本主義社会で何故下位層が減少して中間層が拡大していったのかと言うと、石油や鉄といった資源が非常に安価で豊富な時代だったからだと述べています。もう少し具体的に説明すると、二次大戦後は技術の発達に伴って石油や鉄などといった主だった資源の発掘が急激に進み、これら資源の価格が今から考えると驚くべき価格にまで低下しました。実際に石油は一時期のアメリカだと1リットル当たり水道代より安くあった時代もあり、事実上使い放題だったようです。
堺屋氏はこの点に注目し、本来であればマルクスの主張通りに資本主義社会では貧富の差が拡大するはずだったものの、こういった資源が二次大戦後は安価で大量に使用できたことで下位層の底上げも達成する事が出来た。逆に言えば、中国やインドを初めとした大量の人口を抱える発展途上国が台頭して資源価格が徐々に高等してきた現代に至っては、マルクスの予言通りに貧富の差が拡大する可能性が高いと述べています。
資源については枯渇しないまでも、産出量が減るだけでも発掘コストは跳ね上がるのでこの堺屋氏の主張も決して無理な意見ではないように思えます。最近の日本は格差社会になってきたということで一時マルクスの復権だなどとマルクス経済学者を中心に主張されましたが、彼らの意見を聞いているとただ単に格差とマルクスを繋げているだけでどうにも脈絡のなさを感じずにはいられませんでした。しかしこの資源価格に注目した堺屋氏の意見には私も同感する所があり、今後世界は資源争奪戦となると各所で予想されている事からしても、心にとどめておくべき意見だと思います。
実際に私もかつてのソ連や東ドイツ、そしてお隣の北朝鮮や中国のかつてのお国事情、それこそ私が連載して解説した中国の文化大革命などを見るとやはり社会主義というのは人間の意欲というものを完全に無視した欠陥のあるシステムだったと思え、現在に至るまでその考えは間違ってはいないと信じております。だからと言ってマルクスが夢想者であったと見るのではなく、彼の社会主義に対する価値観やそれとは離れて倫理学で語られる、こちらもかつて私も記事にした「疎外論」など、その思想や考え方は当時においても超一流で社会主義が滅んだからと言ってもう学ばなくていいというような対象ではないと評価しております。
そんなわけで短い時期で、しかもかなり中途半端に社会主義思想、マルクス経済などを適当に学んだ事のある私なのですが、まず彼の理論は古典派の資本主義経済には欠陥があるというところからスタートします。結構面倒くさい理論や現象などを駆使してマルクスはこの資本主義の欠陥を自身の著作において証明しようと作業しているのですが、簡単に結論を述べると運用できる資産を保有する上位、中産階級と、資産を持たないで自身の労働によって賃金を得る労働者階級の収入や生活待遇の差というのは資本主義社会においてはどんどんと二極分離する、つまり富む者はますます富んで、貧しいものはどんどんと貧しくなっていくとしております。
これは労働者階級にとってすればいわば負の連鎖で、この連鎖から抜け出すために社会主義社会の実現が必要だという風に続いていくのですが、皮肉な事にこのスタート地点からしてマルクスは間違っていたと現代では評される事が多いです。一体どのように間違えているのかと言うと、日本やアメリカといった国を始めとして1900年代の中盤から後半にかけて資本主義側諸国ではケインズに始まる統制経済の概念が強まり、経済全体が大きくなるに伴って労働者階級の属する下位層の生活も、「一家に一代の自家用車」に代表される言葉の通りに底上げされていき、マルクスが予言したようにどんどんと貧しくなる事はありませんでした。
資本主義側はマルクスのいた時代に対して資本主義も進化したのだと自分たちの勝利を誇りましたが、このマルクスの予言がはずれたことについて、これまた以前にも取り上げた堺屋太一氏が面白い事を述べていたので簡単に紹介します。
堺屋氏は、マルクスの考えだと貧富の差がどんどんと広がっていくであろう資本主義社会で何故下位層が減少して中間層が拡大していったのかと言うと、石油や鉄といった資源が非常に安価で豊富な時代だったからだと述べています。もう少し具体的に説明すると、二次大戦後は技術の発達に伴って石油や鉄などといった主だった資源の発掘が急激に進み、これら資源の価格が今から考えると驚くべき価格にまで低下しました。実際に石油は一時期のアメリカだと1リットル当たり水道代より安くあった時代もあり、事実上使い放題だったようです。
堺屋氏はこの点に注目し、本来であればマルクスの主張通りに資本主義社会では貧富の差が拡大するはずだったものの、こういった資源が二次大戦後は安価で大量に使用できたことで下位層の底上げも達成する事が出来た。逆に言えば、中国やインドを初めとした大量の人口を抱える発展途上国が台頭して資源価格が徐々に高等してきた現代に至っては、マルクスの予言通りに貧富の差が拡大する可能性が高いと述べています。
資源については枯渇しないまでも、産出量が減るだけでも発掘コストは跳ね上がるのでこの堺屋氏の主張も決して無理な意見ではないように思えます。最近の日本は格差社会になってきたということで一時マルクスの復権だなどとマルクス経済学者を中心に主張されましたが、彼らの意見を聞いているとただ単に格差とマルクスを繋げているだけでどうにも脈絡のなさを感じずにはいられませんでした。しかしこの資源価格に注目した堺屋氏の意見には私も同感する所があり、今後世界は資源争奪戦となると各所で予想されている事からしても、心にとどめておくべき意見だと思います。
何故マルクスの予言は外れたのか
マルクスと言えば社会主義思想を現代に伝わる形に完成させた偉大な大家で、社会主義国の大半が滅んだ今に至ってもなお思想界、経済界に大きな影響力を残している人物であると評価されています。もちろん中には彼の思想や予言は結局は大はずれで、彼が述べたのとは逆にソ連が崩壊するなど社会主義が滅んで資本主義が勝ったではないかと言われる方もいるかと思います。
実際に私もかつてのソ連や東ドイツ、そしてお隣の北朝鮮や中国のかつてのお国事情、それこそ私が連載して解説した中国の文化大革命などを見るとやはり社会主義というのは人間の意欲というものを完全に無視した欠陥のあるシステムだったと思え、現在に至るまでその考えは間違ってはいないと信じております。だからと言ってマルクスが夢想者であったと見るのではなく、彼の社会主義に対する価値観やそれとは離れて倫理学で語られる、こちらもかつて私も記事にした「疎外論」など、その思想や考え方は当時においても超一流で社会主義が滅んだからと言ってもう学ばなくていいというような対象ではないと評価しております。
そんなわけで短い時期で、しかもかなり中途半端に社会主義思想、マルクス経済などを適当に学んだ事のある私なのですが、まず彼の理論は古典派の資本主義経済には欠陥があるというところからスタートします。結構面倒くさい理論や現象などを駆使してマルクスはこの資本主義の欠陥を自身の著作において証明しようと作業しているのですが、簡単に結論を述べると運用できる資産を保有する上位、中産階級と、資産を持たないで自身の労働によって賃金を得る労働者階級の収入や生活待遇の差というのは資本主義社会においてはどんどんと二極分離する、つまり富む者はますます富んで、貧しいものはどんどんと貧しくなっていくとしております。
これは労働者階級にとってすればいわば負の連鎖で、この連鎖から抜け出すために社会主義社会の実現が必要だという風に続いていくのですが、皮肉な事にこのスタート地点からしてマルクスは間違っていたと現代では評される事が多いです。一体どのように間違えているのかと言うと、日本やアメリカといった国を始めとして1900年代の中盤から後半にかけて資本主義側諸国ではケインズに始まる統制経済の概念が強まり、経済全体が大きくなるに伴って労働者階級の属する下位層の生活も、「一家に一代の自家用車」に代表される言葉の通りに底上げされていき、マルクスが予言したようにどんどんと貧しくなる事はありませんでした。
資本主義側はマルクスのいた時代に対して資本主義も進化したのだと自分たちの勝利を誇りましたが、このマルクスの予言がはずれたことについて、これまた以前にも取り上げた堺屋太一氏が面白い事を述べていたので簡単に紹介します。
堺屋氏は、マルクスの考えだと貧富の差がどんどんと広がっていくであろう資本主義社会で何故下位層が減少して中間層が拡大していったのかと言うと、石油や鉄といった資源が非常に安価で豊富な時代だったからだと述べています。もう少し具体的に説明すると、二次大戦後は技術の発達に伴って石油や鉄などといった主だった資源の発掘が急激に進み、これら資源の価格が今から考えると驚くべき価格にまで低下しました。実際に石油は一時期のアメリカだと1リットル当たり水道代より安くあった時代もあり、事実上使い放題だったようです。
堺屋氏はこの点に注目し、本来であればマルクスの主張通りに資本主義社会では貧富の差が拡大するはずだったものの、こういった資源が二次大戦後は安価で大量に使用できたことで下位層の底上げも達成する事が出来た。逆に言えば、中国やインドを初めとした大量の人口を抱える発展途上国が台頭して資源価格が徐々に高等してきた現代に至っては、マルクスの予言通りに貧富の差が拡大する可能性が高いと述べています。
資源については枯渇しないまでも、産出量が減るだけでも発掘コストは跳ね上がるのでこの堺屋氏の主張も決して無理な意見ではないように思えます。最近の日本は格差社会になってきたということで一時マルクスの復権だなどとマルクス経済学者を中心に主張されましたが、彼らの意見を聞いているとただ単に格差とマルクスを繋げているだけでどうにも脈絡のなさを感じずにはいられませんでした。しかしこの資源価格に注目した堺屋氏の意見には私も同感する所があり、今後世界は資源争奪戦となると各所で予想されている事からしても、心にとどめておくべき意見だと思います。
2010年5月2日日曜日
反逆の儒学
一昨日は飲み会、昨日は午前に風呂屋に行って半日眠り、FFタクティクスをやっていたので更新が滞っておりました。それにしても、寝ようと思えば半日寝られるようになった自分がこのところすごいと思う。
そんな言い訳はどうでもいいとして今日の本題に移ります。
一般に儒学と言うと日本人にとってすれば江戸時代の学問で、主君に対して何が何でも忠孝を尽くすべきだと教えるような学問だと捉えられがちですが、結論から言うとこれは儒学は儒学でも朱子学という一派の考え方で、必ずしも儒学全体の価値観ではありません。では本来の儒学は一体どんな事を教えているのかと言えば、学派によっていろいろ違いますが原典である孔子の論語を紐解いてみると、確かに「忠」、「孝」の重要性は強く説かれているものの、それ以上に「仁」や「義」の重要性との比較も行われていて必ずしもそんな事は述べられておりません。
では具体的に孔子はどのようにこの辺のことについて書いてあるのかというと、さすがに論語のどの編に書かれてあるかまではいちいち覚えていませんが、まず主君に対して心から仕える重要性は全体を通して貫かれているのですが、そんな中でこんな一遍があります。
「もしお前(弟子)が仕えた君主が仁の道に背く者であれば、直ちにその主君に暇乞いして離れなさい」
簡単に言い換えると、誰かに仕官が出来たとしてもその主君が暗愚、もしくは冷酷な人間だと分かったら決して与してはならず、その人物の元を辞去しなさいと孔子は述べております。
この編に限らなくとも孔子は論語の中で一貫として理想の統治者(君子)に近い人物には持てる力を尽くして協力して、逆に道に背くものには殺せとまでは言いませんが、いくら生活のためだとしても与せず、またそうした人物を遠ざけて逆に社会に有意義な人物を取り立ててくべきだと強く主張されています。
私が最初に論語を読んだ時、孔子というのはこうも砕けた考え方をしていたのかとちょっと驚きました。それこそ最初は朱子学のようにたとえ主君が暗愚だと分かっていながらも精一杯に忠義を貫くべきだという風に書かれているのかと思っており、まともな人じゃなければ仕えちゃ駄目だよといっているようなこの部分を読んで考え方を改めさせられました。
この辺について私の恩師(中国古典が専門)に詳しく話を聞いてみたところ、何でも朱子学というのは儒学の中でも極左派とも言うべき極端な学派で本国中国では創始者の朱熹が亡くなった後は割と廃れていったのに対し、何故か遠く離れた朝鮮半島と日本に渡るとメジャーな一派となっていったそうなのです。
確かにそういわれてみると、論語に書かれている内容と朱子学の概念というのはどうにも距離があるように私にも思えてきました。それとともに、日本で儒学というとどうにも古い価値概念のように捉われがちですが、改めて原典から発掘していく価値があるのではないかと思うようになって、その後現在に至るまで論語は繰り返し読み続けております。
ちなみに日本に渡ってそこそこ広まった別の儒学の学派に陽明学というのもあります。これは王陽明に始まる学派で物凄く簡単に一言で言い表すなら、「あれこれ考えてる暇があったら、行動してなんぼでしょ」と言わんばかりの、実践第一を旨とする学問です。そのせいかこの陽明学を信奉していた江戸時代の人物を並び立てると、
・大塩平八郎
・佐久間象山
・吉田松陰
・高杉晋作
・西郷隆盛
・河井継之助
と、見るからに喧嘩っ早そうで、実際に革命なり反乱を起した人物が見事に並んできます。こうしてみると思想がどれだけ人間に影響を与えるのかがよくわかるのですが、今日のお題ともなっている反逆の儒学を信奉している私はどうなるのか、上記の陽明学徒同様に目上の人間を見限ることが早い人間になるのではないかと早くも心配です。
そんな言い訳はどうでもいいとして今日の本題に移ります。
一般に儒学と言うと日本人にとってすれば江戸時代の学問で、主君に対して何が何でも忠孝を尽くすべきだと教えるような学問だと捉えられがちですが、結論から言うとこれは儒学は儒学でも朱子学という一派の考え方で、必ずしも儒学全体の価値観ではありません。では本来の儒学は一体どんな事を教えているのかと言えば、学派によっていろいろ違いますが原典である孔子の論語を紐解いてみると、確かに「忠」、「孝」の重要性は強く説かれているものの、それ以上に「仁」や「義」の重要性との比較も行われていて必ずしもそんな事は述べられておりません。
では具体的に孔子はどのようにこの辺のことについて書いてあるのかというと、さすがに論語のどの編に書かれてあるかまではいちいち覚えていませんが、まず主君に対して心から仕える重要性は全体を通して貫かれているのですが、そんな中でこんな一遍があります。
「もしお前(弟子)が仕えた君主が仁の道に背く者であれば、直ちにその主君に暇乞いして離れなさい」
簡単に言い換えると、誰かに仕官が出来たとしてもその主君が暗愚、もしくは冷酷な人間だと分かったら決して与してはならず、その人物の元を辞去しなさいと孔子は述べております。
この編に限らなくとも孔子は論語の中で一貫として理想の統治者(君子)に近い人物には持てる力を尽くして協力して、逆に道に背くものには殺せとまでは言いませんが、いくら生活のためだとしても与せず、またそうした人物を遠ざけて逆に社会に有意義な人物を取り立ててくべきだと強く主張されています。
私が最初に論語を読んだ時、孔子というのはこうも砕けた考え方をしていたのかとちょっと驚きました。それこそ最初は朱子学のようにたとえ主君が暗愚だと分かっていながらも精一杯に忠義を貫くべきだという風に書かれているのかと思っており、まともな人じゃなければ仕えちゃ駄目だよといっているようなこの部分を読んで考え方を改めさせられました。
この辺について私の恩師(中国古典が専門)に詳しく話を聞いてみたところ、何でも朱子学というのは儒学の中でも極左派とも言うべき極端な学派で本国中国では創始者の朱熹が亡くなった後は割と廃れていったのに対し、何故か遠く離れた朝鮮半島と日本に渡るとメジャーな一派となっていったそうなのです。
確かにそういわれてみると、論語に書かれている内容と朱子学の概念というのはどうにも距離があるように私にも思えてきました。それとともに、日本で儒学というとどうにも古い価値概念のように捉われがちですが、改めて原典から発掘していく価値があるのではないかと思うようになって、その後現在に至るまで論語は繰り返し読み続けております。
ちなみに日本に渡ってそこそこ広まった別の儒学の学派に陽明学というのもあります。これは王陽明に始まる学派で物凄く簡単に一言で言い表すなら、「あれこれ考えてる暇があったら、行動してなんぼでしょ」と言わんばかりの、実践第一を旨とする学問です。そのせいかこの陽明学を信奉していた江戸時代の人物を並び立てると、
・大塩平八郎
・佐久間象山
・吉田松陰
・高杉晋作
・西郷隆盛
・河井継之助
と、見るからに喧嘩っ早そうで、実際に革命なり反乱を起した人物が見事に並んできます。こうしてみると思想がどれだけ人間に影響を与えるのかがよくわかるのですが、今日のお題ともなっている反逆の儒学を信奉している私はどうなるのか、上記の陽明学徒同様に目上の人間を見限ることが早い人間になるのではないかと早くも心配です。
2010年4月29日木曜日
新司法試験合格者の債務問題
昔まだ私が学生だった頃、法学部に在籍していたある友人にこんな事を話しました。
「言っちゃなんだが、今度ロースクール(法科大学院)が出来るけど去年の司法試験合格者はそれほど増えておらず、俺はこの制度は必ず破綻すると思うから君は行っちゃだめだよ」
図らずも、この時の私の予言がどうも現実味を帯び始めてきているようです。
今月の文芸春秋にて、あの宮部みゆき原作の小説、「火車」に出てくる多重債務者の救済を専門に手がける弁護士キャラのモデルとなった、現日弁連会長の宇都宮健児氏がこの問題について寄稿しており、あまりの内容に私も一読して絶句しました。そもそも弁護士会において無派閥者であった宇都宮健児氏が日弁連会長に選出された自体がこれまでからすると非常にイレギュラーな事だったらしく、それだけ司法改革以降の法曹界に問題が噴出していることの表れだと本人も述べております。
それで具体的にどのような問題が起きているのかというと、一言で言うなれば司法試験合格者の貧困問題です。司法試験の受験者ならともかく合格者であれば後の人生はバラ色なのではないかと私は思っていたわけなのですが、実態はさにあらず、スタートしたての弁護士は身動きも取れないほどに経済的に追い詰められているそうなのです。
まず現在の主流な弁護士への道というのは法科大学院、いわゆるロースクールでの教育を終えた後に司法試験を受けて弁護士資格を得るというやり方なのですが、この法科大学院での高額な学費を払うために現状で多くの受験者は奨学金などの借金を抱える事となります。そのため司法試験合格後、合格者は基本的な業務や知識を習得するために裁判所にて司法修習生という身分で一年間(以前は二年間)働きながら合格後教育を受けるのですが、現在この司法修習生は平均で400万円もの借金を抱えているそうで、多い人に至っては1000万円にも登るそうです。
これまでこの司法修習生は公務員身分として在籍中は給与が支払われていたのですが、これが今度からは貸与制、つまり借金として返済義務が課されるように法改正がされようとしているのです。しかもこの司法修習生中は法律で習得専念の義務が課されているためにアルバイトは禁止されており、言わば国から無理やり借金を握らされようとしているわけで、すでに述べたように司法修習生は司法試験に合格する時点で大量に借金を抱えているため、このままだと合格後もまた借金を重ねて司法試験合格者はみんな多重債務者からスタートするという笑えない事態になりかけているそうなのです。
実際に宇都宮氏は今回の論文にて、このような厳しい現状を反映してか問題があると認識しつつも、多重債務者に高利金融業者からかつてのグレーゾーン金利で支払った余剰金を返還させる代わりに多額の手数料を要求する悪徳弁護士事務所へ就職する新人弁護士が増えていると述べています。新人弁護士からすると自らの理想とかけ離れた現場である事が分かっていながらも、いきなり独立開業など出来るはずもなく、抱えてしまった借金を返すためにこのような稼ぎのいい弁護士事務所へ就職するそうです。またまともな弁護士事務所も司法改革以降の合格者の増加によってどこも人員は満杯状態らしく、ますます問題ある事務所に人が流れるという悪循環に陥りつつあるそうです。
このような厳しい新人弁護士の現状など今後改革すべき課題が非常に多いと宇都宮氏は主張しているわけなのですが、私としてもこのところの債務返済を行うという弁護士事務所の過剰な広告が目についており、傍目にも今の法曹界が異常な状態なのではないかとかねてより危惧していました。具体的にどのように解決して行けばいいのかとなるとあいにく不勉強のために解決案を持ち合わせていませんが、少なくとも司法修習生の給与問題については宇都宮氏同様に現行の給与制を維持して貸与制へは移行してはならないという意見に賛成です。
更に言えば、宇都宮氏はこの司法修習生の期間も数年前に二年から一年半、そして今の一年へと徐々に短縮されてきている事も新人教育上問題で、可能ならば昔通りに二年に戻すべきだと主張されてます。あまり専門ではないのですが、以上のような問題点に気をつけ今後もこの問題を見守っていこうかと思います。
「言っちゃなんだが、今度ロースクール(法科大学院)が出来るけど去年の司法試験合格者はそれほど増えておらず、俺はこの制度は必ず破綻すると思うから君は行っちゃだめだよ」
図らずも、この時の私の予言がどうも現実味を帯び始めてきているようです。
今月の文芸春秋にて、あの宮部みゆき原作の小説、「火車」に出てくる多重債務者の救済を専門に手がける弁護士キャラのモデルとなった、現日弁連会長の宇都宮健児氏がこの問題について寄稿しており、あまりの内容に私も一読して絶句しました。そもそも弁護士会において無派閥者であった宇都宮健児氏が日弁連会長に選出された自体がこれまでからすると非常にイレギュラーな事だったらしく、それだけ司法改革以降の法曹界に問題が噴出していることの表れだと本人も述べております。
それで具体的にどのような問題が起きているのかというと、一言で言うなれば司法試験合格者の貧困問題です。司法試験の受験者ならともかく合格者であれば後の人生はバラ色なのではないかと私は思っていたわけなのですが、実態はさにあらず、スタートしたての弁護士は身動きも取れないほどに経済的に追い詰められているそうなのです。
まず現在の主流な弁護士への道というのは法科大学院、いわゆるロースクールでの教育を終えた後に司法試験を受けて弁護士資格を得るというやり方なのですが、この法科大学院での高額な学費を払うために現状で多くの受験者は奨学金などの借金を抱える事となります。そのため司法試験合格後、合格者は基本的な業務や知識を習得するために裁判所にて司法修習生という身分で一年間(以前は二年間)働きながら合格後教育を受けるのですが、現在この司法修習生は平均で400万円もの借金を抱えているそうで、多い人に至っては1000万円にも登るそうです。
これまでこの司法修習生は公務員身分として在籍中は給与が支払われていたのですが、これが今度からは貸与制、つまり借金として返済義務が課されるように法改正がされようとしているのです。しかもこの司法修習生中は法律で習得専念の義務が課されているためにアルバイトは禁止されており、言わば国から無理やり借金を握らされようとしているわけで、すでに述べたように司法修習生は司法試験に合格する時点で大量に借金を抱えているため、このままだと合格後もまた借金を重ねて司法試験合格者はみんな多重債務者からスタートするという笑えない事態になりかけているそうなのです。
実際に宇都宮氏は今回の論文にて、このような厳しい現状を反映してか問題があると認識しつつも、多重債務者に高利金融業者からかつてのグレーゾーン金利で支払った余剰金を返還させる代わりに多額の手数料を要求する悪徳弁護士事務所へ就職する新人弁護士が増えていると述べています。新人弁護士からすると自らの理想とかけ離れた現場である事が分かっていながらも、いきなり独立開業など出来るはずもなく、抱えてしまった借金を返すためにこのような稼ぎのいい弁護士事務所へ就職するそうです。またまともな弁護士事務所も司法改革以降の合格者の増加によってどこも人員は満杯状態らしく、ますます問題ある事務所に人が流れるという悪循環に陥りつつあるそうです。
このような厳しい新人弁護士の現状など今後改革すべき課題が非常に多いと宇都宮氏は主張しているわけなのですが、私としてもこのところの債務返済を行うという弁護士事務所の過剰な広告が目についており、傍目にも今の法曹界が異常な状態なのではないかとかねてより危惧していました。具体的にどのように解決して行けばいいのかとなるとあいにく不勉強のために解決案を持ち合わせていませんが、少なくとも司法修習生の給与問題については宇都宮氏同様に現行の給与制を維持して貸与制へは移行してはならないという意見に賛成です。
更に言えば、宇都宮氏はこの司法修習生の期間も数年前に二年から一年半、そして今の一年へと徐々に短縮されてきている事も新人教育上問題で、可能ならば昔通りに二年に戻すべきだと主張されてます。あまり専門ではないのですが、以上のような問題点に気をつけ今後もこの問題を見守っていこうかと思います。
2010年4月28日水曜日
国家公務員、採用半減指示について
本当は昨日に書きたかった内容なのですが、検察審査会の小沢氏起訴相当議決ニュースが入ってきたのでそちらを優先して取り上げたために今日に書くこととなりました。それにしても、予想はしていましたが昨夜のニュース番組は小沢氏の報道ばかりで今日取り上げる話題はついぞ見ることはありませんでした。
・国家公務員の採用半減、首相が指示 閣僚懇(朝日新聞)
私はこのニュースを昨日の朝刊一面で知りましたが、一目見てなんだこれはと大きく呆れさせられました。
概要を簡単に説明すると、民主党は今後各省庁の官僚に対して天下り斡旋を禁止する措置を、本気かどうかわかりませんが取る予定なのですが、天下りを全面廃止するとなるとこれまで天下りで出て行っていた退職者が出て行かなくなるため、これまでより多くの国家公務員を定年まで面倒を見る必要になり、このままいくと現状より遥かに多い人員を省庁は抱える事になります。
すると結果的には人件費が増大する事になり、これでは民主党がマニフェストに掲げた「国家公務員の総人件費の2割削減」ができなくなります。そのため鳩山首相は関係閣僚らに対し、この増える人件費の分だけこれから新規に採用する人員を減らしていこう、そのためにまず来年度の新規採用数を半減、実数にして約4500人程度抑制させるよう指示したと、このニュースは報じております。
このニュースを見てまず私が感じたのは、ますます現代の若者を追い込むつもりかという怒りでした。
現在、日本の若者は不況の影響から各企業が採用数を減らしているため、どれだけ真面目で能力のある若者でも職に就く事が出来ないという厳しい状況下に置かれております。そんな若者ら、というより学生が最後の希望として持っているのがまさに今回取り上げている公務員職で、仕事が楽で身分も保証されるとのことで、恐らく少子化で人数は減っているにもかかわらず過去かつてないほどの志望者数となっていると思います。
私は昔から反権力志向が強いために周りからは政治家や官僚が向いているとよく言われてはいたものの、たとえ簀巻きにされて琵琶湖に投げ入れられても公務員にだけは絶対になるまいとかねてより考えていましたが、こんな時代ゆえかやはり周りの同年代の知り合いや後輩らは公務員志望者が圧倒的に多く、専門の予備校に通う人間も珍しくありませんでした。
実際に今の就職事情を見ていると普通に就職活動してもなかなか内定が得られず、またそうやって苦労して得た内定でも足元を見られてか、いわゆるブラック企業と呼ばれるような所で寿命を縮めるような働き方を強いられたりする事も珍しくなく、若者が高い倍率となることが見えていても公務員を志望するのも無理はないと思っていました。
それが今回、天下りをやめさせる代わりに新規採用を半減させるというこの鳩山首相の指示は、見方を変えればただでさえ狭くなっている若者の就職間口を更に狭めて追い込みかねない指示です。しかもその採用数を半減させる理由というのも現役の官僚を定年まで雇うためという、これまた見方を変えて言えば若者を犠牲にして上の世代を温存するというやり方で、公務員は嫌ってはいるが一応は若者の味方のつもりの私からするととても承服できない案です。
元々民主党の支持母体は公務員によって組織される労働組合であって、今回のような天下り廃止(これ自体本当にやる気があるのが非常に疑わしいのですが)のかわりの条件にこのような新規採用数半減が出てくるのもある意味自明であったのかもしれません。しかしそもそもの話、これまで天下りで職員が出て行っても省庁という組織が成り立ってきていたという事を考えると、現役の公務員数は明らかに余剰であるはずです。だったら新規採用をいきなり半減なんてことはせず、給料は高いが仕事のない、天下りで出て行くような50代の職員らを最後まで面倒なんか見たりせずにとっととリストラで首を切ってしまった方が人件費も浮くしずっと効率的なような気がします。第一、不況の今こそ若者の就職口をそれこそ国費で以ってある程度確保しなければならないというのに。
もし本気で天下り廃止をするかわりに定年まで面倒を見るという手法に切り替えるというのであれば、上位世代のリストラなしに新規採用数の削減を私は決して認められません。また新規採用を絞るというのであれば、いきなり半減などといわずもう少し段階を経て少しずつ減らしていくやり方でないとこれもまた認めることができません。
最近友人に借りた本に書かれていましたが、ネットはテレビで取り上げられた話題には大きく反応しますが、新聞だけだとたとえ一面に載ったとしてもあまり反応しない傾向があるそうです。今回のこの一件もまだあまり大きくなっていないように思え、というよりすっかり小沢氏の騒動に隠れてしまっちゃっている所があるので、もし共感される方があれば宣伝を兼ねてこのブログを紹介していただければ幸いです。
おまけ
なお、キャリア職員の採用数は例年通り600人程度を確保する予定だそうです。
・国家公務員の採用半減、首相が指示 閣僚懇(朝日新聞)
私はこのニュースを昨日の朝刊一面で知りましたが、一目見てなんだこれはと大きく呆れさせられました。
概要を簡単に説明すると、民主党は今後各省庁の官僚に対して天下り斡旋を禁止する措置を、本気かどうかわかりませんが取る予定なのですが、天下りを全面廃止するとなるとこれまで天下りで出て行っていた退職者が出て行かなくなるため、これまでより多くの国家公務員を定年まで面倒を見る必要になり、このままいくと現状より遥かに多い人員を省庁は抱える事になります。
すると結果的には人件費が増大する事になり、これでは民主党がマニフェストに掲げた「国家公務員の総人件費の2割削減」ができなくなります。そのため鳩山首相は関係閣僚らに対し、この増える人件費の分だけこれから新規に採用する人員を減らしていこう、そのためにまず来年度の新規採用数を半減、実数にして約4500人程度抑制させるよう指示したと、このニュースは報じております。
このニュースを見てまず私が感じたのは、ますます現代の若者を追い込むつもりかという怒りでした。
現在、日本の若者は不況の影響から各企業が採用数を減らしているため、どれだけ真面目で能力のある若者でも職に就く事が出来ないという厳しい状況下に置かれております。そんな若者ら、というより学生が最後の希望として持っているのがまさに今回取り上げている公務員職で、仕事が楽で身分も保証されるとのことで、恐らく少子化で人数は減っているにもかかわらず過去かつてないほどの志望者数となっていると思います。
私は昔から反権力志向が強いために周りからは政治家や官僚が向いているとよく言われてはいたものの、たとえ簀巻きにされて琵琶湖に投げ入れられても公務員にだけは絶対になるまいとかねてより考えていましたが、こんな時代ゆえかやはり周りの同年代の知り合いや後輩らは公務員志望者が圧倒的に多く、専門の予備校に通う人間も珍しくありませんでした。
実際に今の就職事情を見ていると普通に就職活動してもなかなか内定が得られず、またそうやって苦労して得た内定でも足元を見られてか、いわゆるブラック企業と呼ばれるような所で寿命を縮めるような働き方を強いられたりする事も珍しくなく、若者が高い倍率となることが見えていても公務員を志望するのも無理はないと思っていました。
それが今回、天下りをやめさせる代わりに新規採用を半減させるというこの鳩山首相の指示は、見方を変えればただでさえ狭くなっている若者の就職間口を更に狭めて追い込みかねない指示です。しかもその採用数を半減させる理由というのも現役の官僚を定年まで雇うためという、これまた見方を変えて言えば若者を犠牲にして上の世代を温存するというやり方で、公務員は嫌ってはいるが一応は若者の味方のつもりの私からするととても承服できない案です。
元々民主党の支持母体は公務員によって組織される労働組合であって、今回のような天下り廃止(これ自体本当にやる気があるのが非常に疑わしいのですが)のかわりの条件にこのような新規採用数半減が出てくるのもある意味自明であったのかもしれません。しかしそもそもの話、これまで天下りで職員が出て行っても省庁という組織が成り立ってきていたという事を考えると、現役の公務員数は明らかに余剰であるはずです。だったら新規採用をいきなり半減なんてことはせず、給料は高いが仕事のない、天下りで出て行くような50代の職員らを最後まで面倒なんか見たりせずにとっととリストラで首を切ってしまった方が人件費も浮くしずっと効率的なような気がします。第一、不況の今こそ若者の就職口をそれこそ国費で以ってある程度確保しなければならないというのに。
もし本気で天下り廃止をするかわりに定年まで面倒を見るという手法に切り替えるというのであれば、上位世代のリストラなしに新規採用数の削減を私は決して認められません。また新規採用を絞るというのであれば、いきなり半減などといわずもう少し段階を経て少しずつ減らしていくやり方でないとこれもまた認めることができません。
最近友人に借りた本に書かれていましたが、ネットはテレビで取り上げられた話題には大きく反応しますが、新聞だけだとたとえ一面に載ったとしてもあまり反応しない傾向があるそうです。今回のこの一件もまだあまり大きくなっていないように思え、というよりすっかり小沢氏の騒動に隠れてしまっちゃっている所があるので、もし共感される方があれば宣伝を兼ねてこのブログを紹介していただければ幸いです。
おまけ
なお、キャリア職員の採用数は例年通り600人程度を確保する予定だそうです。
2010年4月27日火曜日
検察審査会、小沢氏を起訴相当と決定
・小沢氏は「起訴相当」 検審が議決 土地購入事件(産経新聞)
本日午後、一連の四億円の土地購入に関わる疑惑において元秘書は起訴となったのをよそ目に不起訴となった小沢一郎民主党幹事長に対し、東京地裁の検察審査会が起訴相当という議決を採りました。
この検察審査会については私もかつて、「検察審査会と二階大臣の西松事件について」の記事にて取り上げ、将来的には一般市民の意見をより司法に反映する大きな手段となるのではと期待しておりましたが、今回早くもこのように大きく取り上げられるようになってなかなか驚きです。
まずはおさらいですが、この検察審査会とはそもそもどういったものなのかをここで軽く説明します。
検察審査会というのは一般有権者の中から無作為に選ばれた十一人の市民によって構成される会議のことで、過去に捜査が行われたものの裁判の開始となる起訴までに至らなかった事件に対し、事件の当事者や被害者から不服申し立てを受けることで再び起訴すべきかどうか審査します。
この検察審査会が発足した背景として、一般市民感情と司法があまりにも隔たり過ぎてないよう、市民の感覚をより司法に反映させるようにという目的から作られました。しかしながら他の日本の組織同様に所詮はポーズのみで、たとえ検察審査会が起訴相当という議決を出してもこれまでの日本の裁判所を初めとする司法はあまり相手にしてきませんでした。
これに変化がおきたのは去年の裁判員制度の開始からで、裁判員制度とともにこの検察審査会も権限が強められ、これまでいくら起訴相当の議決を出しても検察が実際に起訴手続きを行わなければ裁判が行われなかったのに対し、起訴相当議決が二回出た場合は問答無用で裁判が開始されるように権限が強化されました。
この結果、今月初めに起訴相当が連続して出た事で、2001年に起こった明石花火大会歩道橋事故の際に現場責任者の一人であった当時の副署長がこの度強制的に起訴されることとなりました。なお余談ですが堺屋太一氏はこの時の警備担当者らについて、催事警備のイロハも知らない奴らだと述べております。
話は戻り小沢氏の今回の一件ですが、これまでならば笑って見過ごせる検察審査会でしたが、仮にもう一回起訴相当議決が出てしまえば強制的に起訴となることもあって民主党内は早くも大慌てのようです。夜七時ごろに小沢氏も会見を行いましたが、それほど慌てた素振りこそなかったものの以前のような自信満々な態度は少しなくなってやや大人しくなったように私には見えました。また他の閣僚らもコメントは様々で、最近小沢氏としっくりいっていない前原氏はノーコメントでしたが、素直に「ヤッターヽ(*´∀`)ノ」とか言えばいいのに。
また同じく秘書がらみの問題を抱えていてもう一人の当事者とも言える鳩山首相は、検察の捜査に影響を与える事になるためコメントは出来ないと、記者からの質問には特に自分の意見を述べませんでした。前回、小沢氏に「戦ってください」と党大会で言った傍から散々に叩かれた事を踏まえての発言でしょうが、まぁ適当と言えば適当な対応で特に問題はないと思います。
しかし先日、鳩山首相の秘書が例の政治資金収支報告書偽装の件で有罪となったばかりで、もし小沢氏が強制的に起訴となる場合、いやそれ以前に鳩山首相が起訴されないことに対しても検察審査会が議論する事となれば、内心では他山の火どころではないのかと思います。
今月の文芸春秋において田原総一郎氏が今の鳩山首相について、普天間問題でゴタゴタしているが今の彼の頭の中は自分の資金問題で一杯だからこの問題はまだまだ片付かないだろうと述べていますが、私も見ていてどうもそんな気がします。だとすると今回の一件でますます頭が回らなくなる可能性も高いとも思え、普天間ももっとややこしくなるのかもしれません。
最後に小沢氏の疑惑について私の意見を書いておくと、日本の警察や司法は状況証拠だけでも簡単に有罪を取ってくるのに政治家に対してはやけに具体的な証拠を必要とするのはどう見たって不公平な気がしますし、資金の出所についての供述をコロコロ変えている時点で明らかに問題があると思います。恐らくこれで起訴とならなくとも再び検察審査会に申し立てが行われ、早ければ七月くらいにはまた起訴相当が出て強制起訴が行われる公算が高いと私は見ているのですが、今日の審査会の決定理由おいて、「秘書の問題に政治家が一切責任を負わないというのは、一般市民感覚から大きく逸脱している」という一文こそが、この事件の問題性を一番うまく言い表しているように思えます。
本日午後、一連の四億円の土地購入に関わる疑惑において元秘書は起訴となったのをよそ目に不起訴となった小沢一郎民主党幹事長に対し、東京地裁の検察審査会が起訴相当という議決を採りました。
この検察審査会については私もかつて、「検察審査会と二階大臣の西松事件について」の記事にて取り上げ、将来的には一般市民の意見をより司法に反映する大きな手段となるのではと期待しておりましたが、今回早くもこのように大きく取り上げられるようになってなかなか驚きです。
まずはおさらいですが、この検察審査会とはそもそもどういったものなのかをここで軽く説明します。
検察審査会というのは一般有権者の中から無作為に選ばれた十一人の市民によって構成される会議のことで、過去に捜査が行われたものの裁判の開始となる起訴までに至らなかった事件に対し、事件の当事者や被害者から不服申し立てを受けることで再び起訴すべきかどうか審査します。
この検察審査会が発足した背景として、一般市民感情と司法があまりにも隔たり過ぎてないよう、市民の感覚をより司法に反映させるようにという目的から作られました。しかしながら他の日本の組織同様に所詮はポーズのみで、たとえ検察審査会が起訴相当という議決を出してもこれまでの日本の裁判所を初めとする司法はあまり相手にしてきませんでした。
これに変化がおきたのは去年の裁判員制度の開始からで、裁判員制度とともにこの検察審査会も権限が強められ、これまでいくら起訴相当の議決を出しても検察が実際に起訴手続きを行わなければ裁判が行われなかったのに対し、起訴相当議決が二回出た場合は問答無用で裁判が開始されるように権限が強化されました。
この結果、今月初めに起訴相当が連続して出た事で、2001年に起こった明石花火大会歩道橋事故の際に現場責任者の一人であった当時の副署長がこの度強制的に起訴されることとなりました。なお余談ですが堺屋太一氏はこの時の警備担当者らについて、催事警備のイロハも知らない奴らだと述べております。
話は戻り小沢氏の今回の一件ですが、これまでならば笑って見過ごせる検察審査会でしたが、仮にもう一回起訴相当議決が出てしまえば強制的に起訴となることもあって民主党内は早くも大慌てのようです。夜七時ごろに小沢氏も会見を行いましたが、それほど慌てた素振りこそなかったものの以前のような自信満々な態度は少しなくなってやや大人しくなったように私には見えました。また他の閣僚らもコメントは様々で、最近小沢氏としっくりいっていない前原氏はノーコメントでしたが、素直に「ヤッターヽ(*´∀`)ノ」とか言えばいいのに。
また同じく秘書がらみの問題を抱えていてもう一人の当事者とも言える鳩山首相は、検察の捜査に影響を与える事になるためコメントは出来ないと、記者からの質問には特に自分の意見を述べませんでした。前回、小沢氏に「戦ってください」と党大会で言った傍から散々に叩かれた事を踏まえての発言でしょうが、まぁ適当と言えば適当な対応で特に問題はないと思います。
しかし先日、鳩山首相の秘書が例の政治資金収支報告書偽装の件で有罪となったばかりで、もし小沢氏が強制的に起訴となる場合、いやそれ以前に鳩山首相が起訴されないことに対しても検察審査会が議論する事となれば、内心では他山の火どころではないのかと思います。
今月の文芸春秋において田原総一郎氏が今の鳩山首相について、普天間問題でゴタゴタしているが今の彼の頭の中は自分の資金問題で一杯だからこの問題はまだまだ片付かないだろうと述べていますが、私も見ていてどうもそんな気がします。だとすると今回の一件でますます頭が回らなくなる可能性も高いとも思え、普天間ももっとややこしくなるのかもしれません。
最後に小沢氏の疑惑について私の意見を書いておくと、日本の警察や司法は状況証拠だけでも簡単に有罪を取ってくるのに政治家に対してはやけに具体的な証拠を必要とするのはどう見たって不公平な気がしますし、資金の出所についての供述をコロコロ変えている時点で明らかに問題があると思います。恐らくこれで起訴とならなくとも再び検察審査会に申し立てが行われ、早ければ七月くらいにはまた起訴相当が出て強制起訴が行われる公算が高いと私は見ているのですが、今日の審査会の決定理由おいて、「秘書の問題に政治家が一切責任を負わないというのは、一般市民感覚から大きく逸脱している」という一文こそが、この事件の問題性を一番うまく言い表しているように思えます。
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