知ってる人には早いですが河合隼雄はユング心理学の日本における権威で、箱庭療法などを日本に導入したとされる心理学者です。晩年に民間出身者として文化庁長官になったものの、高松塚古墳の壁画カビ問題のスケープゴートにされた感がありやや不遇でしたが、現在でも日本の心理学教育では彼の名前が出ると聞きます。
上記の「家族関係を考える」の本は1980年の出版とかなり古いのですが、昭和の家族観が気になるのと、河合隼雄の本をちゃんと手に取ったこともないから興味本位で読むこととしました。結論から言うと、本の内容以前に神話、特にギリシャ神話からの引用話が異常に多いことに辟易しました。
・精神医学・心理学の中のギリシャ神話(吉隠ゆき)
そもそもというか心理学用語はギリシャ神話やギリシャ語由来の物が非常に多いです。上のリンク先にそのあたりがまとめられていますが、読んでるそばからどんだけあんねんと言いたくなるくらいです。
一体なんでギリシャ神話由来の用語が多いのかというと、心理学の祖であるジークムント・フロイトがこうした名称を片っ端からつけていたことに由来します。単純に彼がギリシャ神話を好んでいただけなのかもしれませんが、今回河合隼雄の本を読んで私は、神話になぞらえれば証明されたと考えていた節もあるのではという気がしました。
・エディプスコンプレックスとは?臨床心理士がわかりやすく解き明かす(心理オフィスK)
そんなフロイトがなづけて比較的一般にも通りやすいのが、上記のエディプスコンプレックスです。上記リンク先からその症状の定義を引用すると、
そんなフロイトがなづけて比較的一般にも通りやすいのが、上記のエディプスコンプレックスです。上記リンク先からその症状の定義を引用すると、
男子が異性の親である母親に強い好意感情を抱き、母親を自分のものにしたいという感情から、同性の親である父親に敵意や対抗心を抱くという子どもの時に見られる無意識の心理状態のことを言います。
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始めは母親を独占しようと、父親へ対抗心を抱くが、父親から男性器を奪われるのではないかという不安から、母親を独占しようとすることはあきらめ、父親とも正しい関係性を構築することが出来るようになるという過程を歩むということです。
こうした心理症状が起きる背景としてフロイトは上記のように、「子供の母親に対する近親相姦願望と、父親に去勢されるかもしれない恐怖心が原因だ」と説明しています。この説明を見て(。´・ω・)?と思わない人は逆におかしいと私は思います。なんていうか論理に飛躍があり、ツッコミ不在でドヤ顔で主張してくるのが逆に滑稽で、漫画の「彼岸島」的な説明の仕方であるように見えます。
実際、上のリンク先の説明でも書かれていますがこうしたフロイトの主張や説明に対して現代では批判も多くなされています。その批判の根拠は以下のようにまとめられています。
(1)父親が強いということを前提としていること
(2)幼児期の性欲を前提としていること
(3)理論がフロイト自身の経験に偏っているということ
このエディプスコンプレックスに限らず、フロイトの心理症状に対する説明は大体どれも(2)のように「性欲が原因だ(σ・∀・)σゲッツ!!」と、何でもかんでも性欲のせいにすることが多く、これも現代では彼がよく批判されている点です。
話を戻すと、このエディプスコンプレックスのようにフロイトは自分が発見した心理症状に対して神話のエピソードになぞらえ、そのまま神話の登場人物の名前を症状名に当てはめることが多いです。しかしそれらの心理症状はエディプスコンプレックスのように万人に対して当てはまるようなものではなく、むしろ一般性に乏しい少数のレアケースであることも多いのに、「誰にでも当てはまる(σ・∀・)σゲッツ!!」という主張がされています。
私が河合隼雄の本を読んでても気になったのはこの点でした。昭和の時代ゆえに父権の強い家族環境が前提である内容が多かったのですが、当時と比べると現代は父権が弱くなっていて、本の中に出てくる家族状況は家族問題には今じゃあまり見られないケースも少なくありませんでした。にもかかわらず河合隼雄は、さも時代や文化、状況に係わらず、どの家族に見られる傾向だとばかりに心理学的見解を述べているので、「そもそもこうした主張は何でもって証明されたんだ?」という疑問がもたげたわけです。
そこで少し調べていましたが、恐らく当時、少なくとも80年代くらいまではきちんと統計を取ったり比較分析をしたりすることもせず、各心理学者が自分が見た個人や家族の心理症状について、非常に恣意的に一般的法則であるかのように主張や説明していたのではないかという見方が強まりました。その過程で重要だったのがさっきから何度も繰り返している神話で、「神話でこういうエピソードがあるのだから、人間の心理として一般的なのだ」という飛躍的な主張が蔓延っていたのではないかと思うに至りました。
先ほどのエディプスコンプレックスも、ギリシャ神話のエディプス王のエピソードに近いということからこういう名称になっていますが、これに限らず初期の心理学においては「〇〇神話にもこういう話がある」というのが、その見解が法則的一般性を持つことの説明として引用されているものが異常に多いです。
今回読んだ河合隼雄の本でも、子離れや略奪婚に関してハデスによるベルセポネ誘拐事件や、オオクニヌシとスセリビメの駆け落ちエピソードを引用しています。しかし、神話になぞらえたり引用したからと言って、その主張が一般性を有する根拠には一切なりません。にもかかわらず何故か心理学者はやたらと神話を引用し、「だからこんな心理症状があるんです」とさも当たり前かのように話を進めてきます。
ぶっちゃけ読んでいて、「こいつら本当に学者か?」と疑いたくなることが多くありました。それこそ1000世帯に100世帯くらいの割合で共通する特徴があるなら法則としてみてもありかと思いますが、1万世帯に1世帯だけにしか見られないようなケースなんて、その1世帯だけが特別なだけであり、法則として取り扱うべきではないでしょう。それだけに発見症例数(統計)は法則の証明にあたり非常に重要なはずであるものの、初期心理学ではそうした数字は一切出てきません。
むしろ全体として、各心理学者自身が見たものを片っ端から神話になぞらえるというか当てはめることで、法則として証明されたかのように主張するケースが非常に多かったのではないかという気がします。フロイトなんかまさにその典型で、実際彼の主張は現代において否定されているものも少なくありません。
何気に、自分が学生時代に一番毛嫌いしていたのは心理学でした。何故かというと心理学の学者はワイドショーとかで起きたばかりの事件に、「犯人はきっとこういう心理だったのでしょう」と、大した根拠もなくさも後付けの理由を当てはめるかのようなコメントをすることが多く、理由があるから犯罪を犯したというより、容疑者が犯人である理由を後から作って当てはめているように見えたからです。私の意見としては、こうした態度は冤罪を生みやすくします。
もっとも心理学もこの辺の自覚はあったのか、現代においては自分の専門の社会学のように学説の証明に統計的手法を用いたり、再現性を重視するようになっており、神話を引用するだけで証明されたとするような人はいなくなってきています。見方を変えると、社会学と心理学の境目も段々なくなってきているような気がします。
ただやはり初期心理学の主張や学説を見ていると本当に裏付けなく、「神話にもあるから」という理由だけで恣意的に法則性を主張する人が多かったような気がします。そしてこうした態度は、まさに自分がさっき批判した心理学の「当てはめ理論」そのものと言ってよく、理由があるからではなく理由を後からつける態度そのものです。学生時代はここまで至ってはいなかったものの、自分が毛嫌いしていた心理学の態度というのはまさにこの「神話の当てはめ」にこそ端を発するものだった気がします。
前述の通り、現代においては心理学も科学的な証明や分析を行うようになっており、そうした学問的努力に対しては私も頭が下がります。しかし初期の心理学は新しい学問でもあったということから、かなりいい加減な管理というか放言が平気でなされていた学問とも呼べないようなものであったように思え、少なくとも神話を引用している心理学用語や法則は信用できないというのが今日の結論です。
もっとも、ユングが主張した世界各地の神話に共通するエピソードが多いことを根拠とした集合的無意識に関しては、根拠も再現性も確保されていてこりゃ確かにと納得できるものです。もっともこれ、プラトンのイデア論とほぼ一緒なんじゃないという気もずっとしますが。
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