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2012年7月10日火曜日

大豆国産化計画

大豆が最高値更新=米国供給不安で―シカゴ市場(時事通信)

 本日のニュース記事で上記のニュースを見た際、このところ思索に充てる時間がなくて真面目にネタに困っているのもありますが、今日のブログネタはこれだと心の中で決めました。それにしても、すごいタイトルにしたな我ながら。
 以前にも確か一回触れておりますが、私はかなり真面目に大豆だけは自給率を100%以上、少なくとも70%以上にしなければならないとかねがね主張しております。なんか引用したYahooニュースのコメント欄に日本の大豆自給率は3割ちょっとと書いてる人がいますが、私が記憶している限りだと9割以上を輸入に頼っているような……。

 一体何故私がこれほど大豆にこだわっているのかというと、大豆は白米と並んで日本食に必要不可欠な食材だからです。日本食というのは海外で暮らしてみればわかりますが、実はその味付けのベースはほぼすべて醤油ベースのしょっぱい味が基本となっております。また醤油以外だと味噌の割合も非常に高く、両調味料の原料となる大豆が枯渇した場合は恐らく日本食が9割方作れなくなること間違いなしです。
 たかが料理くらいでという方もおられるかもしれませんが、食事というものは生きてく上でのモチベーションに深くかかわるため、日本食が作れなくなった場合は日本人は一気に堕落する可能性が高いと、決して冗談ではなく私は考えております。というのも過去にイギリスを訪れた際、来る日も来る日も値段が高い割には星一徹みたいにちゃぶ台(イギリスにはないけど)をひっくり返したくなるほどまずい料理を食べていた頃は本気で生きてて嫌になりました。

 料理を作る上では素材も大事ですがそれ以上に調味料の領分というものは非常に高いです。それだけにお梶の方じゃないけど調味料が料理の味をすべて決めると言っても過言ではなく、日本食にとって欠かすことのできない醤油と味噌を確保するためにはたとえどれだけのコストを支払ってでも大豆だけは自給するべきではないのかと言いたいのです。ただどうもあちこちから話を聞いてると大豆は栽培が容易な分、大規模農場でバーッてばらまいて栽培するだけで育ってしまうために日本国内だとどうしても海外製と比べてコストが割高になってしまうそうです。
 かくなる上は多少の醤油価格の値上がりを容赦してでも、市場が成り立つくらいに高い国産大豆価格を受け入れるほかないです。しかし繰り返しになりますが、大豆だけはどんだけ高いコストを支払ってでも日本人は確保するべき農作物です。日本人は普段は怒らない癖に食べ物のことにあるとBSEの時などやけに強気に怒ることがあるだけに、早くから対策を打つべきです。

 なお醤油とくれば私の中ではキッコーマンが地元に近いだけあって挙がってきます。あそこの野田工場は無料で見学させてくれる上に帰りに醤油1瓶くれるから、まだ行ったことのない人は大阪にある日清の「インスタントラーメン発明記念館」に次いで行っとくべき場所です。

外国人が日本人に抱くイメージ

 三日ぶりの更新。というのも昨日と一昨日は休日ながら忙しかったのが原因です。
 そういうどうでもいいことは置いといて本題ですが、日本国内にいるとそれほど意識することはありませんが、やはりどの国にもある程度決まったカラーというかイメージがあって、初対面の外国人はその別の国の人間に対してあらかじめイメージを持って接します。これが日本の場合だと代表格は「侍」や「忍者」で、どことなく寡黙で何考えてるかよくわからず、任務に忠実なイメージを持たれているように私は感じます。

 では今私が住んでいる中国人はどんなもんでしょうか。最近はそうでもないけど以前の日本人の中国人に対するイメージは漫画の「ラーメンマン」に出てくるような辮髪の格闘家という、実際にそんな中国人がいるわけないだろうという気イメージではありましたが、今だと接触することも増えてきているせいか偽物をよく作ったりするようなネガティブなイメージの方が強いでしょう。ただ欧米人からしたら中国人はやはりブルース・リーのイメージが強く、実像はどうあれカンフー格闘家のようなイメージを未だに持っているような気がします。
 これは逆に言えば日本人も同じです。欧米人がイメージ(勘違い?)する日本人のイメージは先ほども言った通りに侍や忍者ですが、前者は黒沢映画で活躍した三船敏郎、後者はハリウッドで活躍したショー・コスギがモデルであると言ってほぼ間違いありません。仮に両者がいなければ日本人はまた別のイメージ、恐らく今よりも悪いイメージを持たれるか無色透明な印象であった可能性もあるだけに、三船敏郎は既に逝去されているので仕方ありませんがショー・コスギに関してはかねてから日本人情報の発信者として国民栄誉賞級だと私は感じています。

 また少し話が変わりますが、国際政治学では軍事力を指すハードパワーに対して、文化を指すソフトパワーという概念があります。ソフトパワーの代表格はハリウッド映画とマクドナルドと言われ、「なんとなくその国(アメリカ)が好きになる」ような文化というかイメージを植え付けることを指しているのですが、さっきの日本や中国の例を考えるだに映画というものは非常にエグい媒体だと思います。最近の日本では映画よりもアニメや漫画を主なソフトパワーの媒体として使っておりますが、時代が変わっているとはいえ、かつての「世界のミフネ」のような人が出てきてくれないものかと時たま考えます。

 最後に蛇足ですが、一時期の日本のソフトパワーの代表格として活躍したものにドラマの「おしん」があります。これは中国を含むアジア各地で大ブレイクして、中年の中国人ならまず間違いなくおしんを知っているでしょう。このおしんですが以前に同僚から聞いた話で、なんかイランでも有り得ないくらいにヒットして、国内で「尊敬する人ランキング」ってのをやったらホメイニ師をぶっちぎりで破っておしんが一位になってしまい、政策担当者が激怒してしまったことがあったらしいです。

派遣社員の待遇は正社員より上?

 この頃同年代の友人と話をしている際によく、「今の時代、派遣の方が正社員より待遇いいんじゃないの?」という会話をよくします。今日はちょっと短めに、この辺の話を一筆打とうかと思います。

 まず前提条件として、日本社会では一般的に正社員の方が派遣社員より待遇はいいとされております。それこそ格差社会議論が盛り上がった2008年位には派遣は差別を受けているとして派遣の原則禁止案まで出てくるほどでしたが、現在においてはこうした議論は少なくとも目に見える範囲では消失したと言っていいでしょう。
 では当時、具体的にどういったところで派遣社員は正社員より待遇で劣っていると主張されたのか、いくつかポイントを上げると以下の様になります。

1、ボーナスがない
2、仕事内容が単純作業でスキルアップにつながらない
3、年金など社会保険が正社員に比べて少ない
4、いつでもクビを切られるため雇用が安定しない
5、望んでもなかなか正社員になれない

 ざっとあげると以上の5点でしょう。特に2008年のサブプライムローン崩壊直後は派遣社員が真っ先に首を斬られたということもあってこの手の議論が大きくなりました。はっきり言って派遣社員のこれらの待遇は以前と今もそれほど変わりはないのですが、比較対象である正社員、それも若年世代の待遇が実はこの数年で大きく変わってきております。

 まず1点目のボーナスがないですが、これはそのまんま正社員もボーナスがなくなりました。あったとしてもどこも大幅に減らしていて、私の感触だと大体どこも夏と冬にそれぞれ月給1ヶ月分くらいじゃないでしょうか。昔は夏冬それぞれ月給3ヶ月分が出たなんて話を聞くと、「何をそんな法螺話を」という気すらしてきます。なおここだけの話、私は正社員1年目のボーナスが一番多かったです。
 次に2点目、スキルアップにつながらないというこの点ですが、これも不況で正社員でもまともな仕事がなくなり、底辺の仕事が増えております。しかも人員構成の関係からただでさえ採用数を絞った若手社員にいろいろ末端の仕事が押し寄せるようになってて、見方によれば派遣の方がいい経験が出来ることすらあります。

 さくさく続いて3点目、これは巷間ではよく言われ日雇い派遣についてはまさにその通りですが、定期派遣の場合は2ヶ月以上雇用する場合は年金加入義務が生まれるため実際にはほぼ差がありません。しかし年金に関してはこの前出た試算では、今の20代は払い続けた額の半分しか将来受給できないと出ており、かえって払わないで済む立場の方が搾取されずに済むんじゃないか、払わなければならない立場の方が苦しくやしないかと密かに考えてます。
 最後に4、5点目ですが、今の時代だと派遣に限らず正社員もクビをよく切られており、恐らく東芝とパナソニックはこれからテレビ事業関連部門の人間を万単位で切ることになると予想されます。さらに言えば若年世代に限れば正社員率は低い一方で正社員退職率は高く、なんていうかもう差はないんじゃないかという気がしてきます。

 以上のように派遣社員よりも正社員の待遇が大きく落ちてきており、さらに言えば基本給もどこも昇給を凍結していることからほとんど差がつかなくなってることによって、両者の待遇は相対的に同じになりつつあるのではというのが私の考えです。

 さらにもう一点、というよりこれが今回の主張で一番大きなポイントですが、自分たちの世代が就職や転職に当たって何を一番恐れているのかというとブラック企業に当たるか当たらないかです。ブラック企業というのは説明する必要はないでしょうが、要するに労働内容が過重だったり職場の人間がイカれてたり、サービス残業がオンパレードな会社を指していますが、仮に正社員でブラック企業に入ってしまうとすぐに抜けたら退職履歴がついて次の転職に影響するし、頑張って残っても体や精神をおかしくしてしまう可能性があってまさに前門の虎に後門の狼。はっきり言って給与や福祉といった待遇は二の次でいいから、過重労働のないまともな会社に入りたいというのが我々の世代の本音だと思います。
 このブラック企業問題が派遣社員とどう関係があるのかというと、派遣の身分だと問題のある会社だとわかっても派遣会社を通すなどして比較的職場を離れやすく、なおかつ勤務時間が契約で定時に定められているため残業も発生しません。最近はあらかじめ月間残業時間を定める契約もありますが天井知らずな働かされ方はまずされない、っていうか制度に守られます。

 私は実際に派遣の身分で働いたことはありませんが、あくまで私自身の見解で客観的に見比べてみると、今の時代は派遣社員の方が制度的に正社員より守られてやしないかと強く感じます。毎日定時で帰っていいんだったら、余った時間で勉強とかブログ書いていたいし、私だって派遣社員になってみようかなという気すら起きます。

 最後に最近友人から聞いたあるブラック企業の実態ですが、その日の業務が終わると社員全員でパチンコ屋に行き、勝った金額を集めてみんなでそのまま飲みに行くという妙な慣習がある会社があるそうです。しかも毎日で、拒否したら「ふざけるな!」となるそうです。そんなにパチンコ好きならもう会社なんてやめちゃって、パチプロ集団としてやってけよという感じです。

2012年7月6日金曜日

無抵抗の相手をいたぶる日本人の特質

 先日、またも会社でNHKを見ていたら駅員への暴力が昨年に過去最高を更新したと報じておりました。何かニュース原稿はあるかなと思ったら以下のサイトがあったので、念のためはっつけておきます。

駅員らへの暴力 過去最悪に(NHK)

 ただ過去最高とは書いてありますが、私自身は一時期よりは減っているのではないかと勘繰っております。というのも以前は暴力事件、それこそ駅員が殴られたり蹴られたりしてもわざわざ報告したりせずに認知されることがなかったと思うので、社会的に認知されるようになって見かけの件数だけ増えているのが実情だと思います。
 私が何でこんな風に思うのかというと、実は友人に阪急でバイトしている人間がいて、彼から話を聞くとしょっちゅう同僚が殴られていると聞いていたからです。殴られる理由はそれこそ千差万別ですが、いきなり発車時刻聞かれて即答できなかったとか本当にくだらないことばかりだそうです。なお殴られる人間については、意外にも背の高く大柄な人ほど殴られやすく、逆に小柄だった友人は暴言は吐かれても殴られることなかったそうです。

 以前にも同じテーマで私は、日本人は相手が抵抗できないとわかるや極端に暴力的になる傾向が全体としてあると指摘しましたが、結構頑張って主張している割にはなかなか浸透していないようなので、こうしてもう一回書くことにしました。折り悪く、というべきなのか滋賀県大津市の中学校で未だにこんな事件が起こってしまうのかと感じさせられるいじめ自殺事件が話題となっておりますが、決して誇張ではなく、日本人はもっと私の主張する特質を自分自身で理解した方がいいと思えます。

 ここで話を少し変えますが、では一体何故日本人はこうして無抵抗の相手をいたぶろうとする形質を持っているのでしょうか。多分本気で追求したらライフワークにするくらい、過去の歴史とかそういったものを全部洗う必要があるでしょうけど、仮説だけでいいのなら「締め」というものの価値観が影響しているんじゃないかという気がします。「締め」とはそれこそこれ書いてる最中に咄嗟に思い浮かんだ言葉ですけど、どうも日本人はほかの外人と比べて、最初にスタートする際にはあれやこれやと綿密に計画を練る一方、どの程度に達したら行動や活動を止める、ある一定のラインに達するためにはどのように行動するかというような、到達目標に関してはあまり考えないような傾向がある気がします。一番大きな例を持ってくる太平洋戦争で、アメリカと戦うほどに何を求めたのか、またどこでケリをつけようと考えたのか、どこまで言ったら戦争を辞めようと考えていたのか、こういったところは完全に無視されていました。

 そのほかにもどこまで行けばリタイアする、どのラインを割ったら撤退する、ここまで我慢したら離婚するという、あまりにも明確過ぎるとそれはそれで問題ではありますが、なんかこういうところがほかの国と比べて曖昧な感じがします。撤退線の見極めが悪いというか。
 最初のいじめの話に戻っても、どこまでいったらやり過ぎなのか、いじめていた本人らを始め周囲がどうも理解していないというか無視しているとしか思えないところがあります。よく日本人は自分たちの特質をなんでもかんでも「曖昧」の一言で片づけようとしますが、最近私はなんだか、こうやって曖昧で片づける点も含めて、ラインを作ったり深く考えようともしないほど面倒くさがりなだけなのではないかと思うようになってきています。なんにしても、「引き際が肝心」という言葉はもっと評価されてもいい気がします。

遺伝子隕石飛来説について

 今日はなんか久しぶりによる9時台に家に帰りつくことが出来たのですが、なんかダラダラネットを見ていたらまたブログを書く時間が遅くなってしまいました。でもって書くネタも浮かばないからどうしよっかなーとか思っていたら、そういえばヒッグス粒子が見つかったという話を思い出し、天文関係でこのネタを書いてなかったことに気が付いたので今日は遺伝子が隕石によって運ばれてきたという説を紹介します。

 この説はその名の通り、隕石が遺伝子、まさしくDNAことタンパク質を運んできたという説で、この運ばれてきた隕石によって地球上の種の系譜が広がったとする考え方です。この説の根拠となっているのは古代の昆虫類の種類数で、なんでも当初はごく限られた種類、確か数百種類しか昆虫がいなかったのですが、ある時期を境に数万種類へと、しかも劇的に形状を変えて増えているそうです。ダーウィンの進化論とかそういったものをもってしてもこの系統分化はちょっと急激すぎるということで、もしかしたら宇宙から地球に飛んできた隕石になにがしかの遺伝子の破片がくっついていて、それを地球の昆虫が取りこんだことによって種類数が急増したのではないかという説があるそうです。

 もちろんこの説にはいろいろ穴がありますし、そんな当時の地球にとって未知のDNAがくっついていたからと言ってどうやってそれを取り込むんだという疑念もありますが、単純に説として面白いので私は支持してます。支持する理由はいくつかありますが、まず昆虫という種類は人間が大まかに分類しただけであってなにかDNAに基づいてくくっているわけでなく、蜘蛛などの節足動物を含めると実に多種多様、それもどれも全く似通っていない姿をしていれば羽があったりなかったりでまるで姿が違います。これほどまで膨大な種類ある昆虫や節足動物が進化論で説明できるかとなるといくら膨大な時間があってもちょっと信じ辛く、また形状が大きく異なっていることから見ても、なにか外からの力によって系統分化したのではと思わせられます。

 なんかこの説を以前に知り合いに披露したら、「それ、さくらももこも同じこと言ってた」ということを教えられました。話によるとさくらももこ氏のエッセイかなんかで取り挙げられて、さくらももこ氏も「あたしはこれを信じる」と言っているそうです。なおさくらももこ氏と言えば言わずと知れた「ちびまる子ちゃん」の作者で私自身も昔にこの作品をよく読んでおりましたが、何故だかこの前に同僚との会話で、

「財布の中にお金がない時ってさいつも、寿司屋の料金を払えなくて先にまる子に買ったローラースルーゴーゴーを返品しに行くともぞうが思い浮かぶんだけど」

 といったら、なんか同僚もこの時の回だけはやけに覚えているらしく、なんでほかの回は思い出さない癖にこの回だけはパッと思い出せるんだろうと二人で思案に暮れました。あとほかにすぐに思い出せるのと言ったら、まる子が鍋でネギを食べずにいると周りが「ネギを食べると頭が良くなる」と説得したら、「そうじゃぞまる子、わしも昔からネギが大好きじゃ」とともぞうが言って、ともぞう以外の家族全員がネギに効果かがないということを理解する回くらいですかね。全部ともぞうがらみというのもなんだけど。

大きく叩けば大きく鳴るということについて

 歴史に詳しい人ならもしかしたら知っているかもしれませんが、坂本龍馬は西郷隆盛の人物評を、「大きく叩けば大きく鳴る」と書き残しております。この意味は太鼓のように、つまらないことを聞くとつまらない答えが返ってくるが、逆に面白いことを聞くと面白いことが返ってくるということを表していると言われております。
 この人物評を聞いたのは確か小学生くらいの頃で正直ピンときませんでしたが、年を重ねてみてなんとなくこういう人っているもんだという実感を覚えるようになってきました。どんなところで実感するかですが具体的に挙げると大学の恩師がまさにこれで、在学中も凄い人だなぁと漠然と感じていたものの、自分が成長を感じるにつけ、その凄さというものが段々理解できるようになり、最初に会った際よりも距離感というか実力差をより深く思い知るようになってきました。

 ちょっと今、アルコールが入ってて真面目に頭痛いのでまた短く切り上げざるを得ませんが、たまに後輩などから、「実力のある人と交流をしてみたいものの、そういう人に巡り合えない」という相談を受けることがありますが、実態的には巡り会えないというよりも目の前にいても気づかないのではという印象を覚えます。中には例外もいますが、私はやはり本当に実力のある人間を見抜くには自分自身も一程度の実力がないと、その相手の凄さがわからず見過ごすことになってしまうかと思います。これは逆に言うならば、凄い人間と知り合いたいのならまず自分自身が実力を養わないということです。
 真面目にもうこの辺で限界。明日はもうちょっと真面目に書こう。

2012年7月2日月曜日

外国でストレスを感じない人間

 一泊二日の出張から今日帰ってきたら自分が住んでるサービスアパートメントでカードキーがないとロビーに入れないようになってました。多分、年がら年中ドアの隙間に広告(大抵マッサージ屋)を入れる人間が後を絶たないせいだと思うけど、気軽に外とか出づらくなるし、財布にもう一枚カードを入れないといけないと思うとなんだか億劫な気がします。っていうか今週は今日までの出張を筆頭にやけにイベントが満載で、更新が少なくなるかもしれません。

 話は本題に入りますが、学生時代に受けた心理学の授業で今日の表題になっている「外国でストレスを感じない人間」という解説がありました。その授業の孔子じゃなくて講師曰く、人間というのは文化圏の異なる外国に行くとどれだけ対策を施しても、どうしてもストレスというものを多かれ少なかれ受けてしまうそうです。ただ2種類、ある種の人間だけはこの手のストレスを全く受け付けない人種がおり、てっとり早く明かしてしまうとそのうちの一種類は真の意味で国際人と呼べるような完全に先天的な特殊な人間、もう一種類が今回の話の肝ですが、何かしら信仰を持っている宗教家だそうです。

 私がこの話を聞いた際に真っ先に思い浮かんだのは、デーブ・スペクターが言う「日本初の外タレ」ことフランシスコ・ザビエルです。何もザビエルに限らずどの時代でも伝道者というのは今の時代のようにインターネットもなければ航海中に客死することも珍しくなかった時代に言葉も何も通じないところへどんどんと赴き、エネルギッシュに活動してます。仏教でも鑑真のような人物もおりますし、そうした歴史的孤児を考慮するだに先ほどの話にはなかなか信じさせられるものがあります。
 更に最近は現実に海外に暮らしてて、やっぱり信仰心がある人間というものは外国で強いとよく実感させられることも多いです。私自身は普通の人に比べれば恐らく信仰心が高い方ですが特定の宗教に染まってるわけじゃなく毛の生えた程度ではありますが、身近にキリスト教の洗礼も受けてて毎週日曜に教会に通っている人が身近に複数おり、その人たちを見ていると本当の意味で海外生活を楽しんでいるようにしか見えず、ほかの日本人と決定的なまでに違って、日本に戻ってゆっくり暮らしたいとかいう素振りを見せることが全くありません。もう一つ止めに付け加えると、この手の人間らは語学能力も極めて高い人間が多いです。

 先日にまたNHKで見た企業の新卒採用現場特集とやらで、なにやら国際社会に強いとかいう理由で留学帰りの学生をターゲットに募集をかける企業が増えていると報じられていました。またそれとは別の報道で、「これからの時代は"倭僑"となれる人材が必要だ」とかいう「華僑」にかけた記事も見受けましたが、私に言わせるのならば"倭僑"というイメージに合う人間はとっくのとうに日本から出ていてそもそも国内に残っていないのではないかという気がします。むしろそれだったら上で書いてある通り、初めから海外で働かせる気なら宗教を信仰している人材を語学能力を無視してでも取る方が効率的な気がします。

 あと最後に蛇足ですが、信仰を持っていれば外国での生活に強いというのであれば悪魔主義者(サタニスト)はどうなのかという疑問がもたげます。とはいうものの国際的なサタニストというのも、なんだか想像しづらいような。