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2013年12月16日月曜日

中国のネットショッピングにおけるマーケティング

 本題と関係ありませんが、先ほどまた嘘がばれた猪瀬都知事に関するニュースを見ている際にふと、「猪瀬・ボンバイエ2013」という単語が思い浮かびました。いい加減、つかれているのかもしれません。
 話は本題に入りますが、やや時期を逸したものの一読に足る価値があると思うので中国におけるネットショッピングの現状として、この業界で行われているマーケティングについて一つ紹介します。

 早速ですが「双十一」、「双十二」という単語をご存知でしょうか。恐らく中国で生活したことがある人なら知ってるんじゃないかと思いますがこれは日付を表しており、前者は11/11、後者は12/12を意味しております。この日付は見ればわかりますが月と日が二桁のゾロ目となっているのですが、何故かこのゾロ目日がここ数年、中国ではネットショッピングをする日という風に認知されてきております。

 こうした習慣の始まりは確か11/11が1という単独の数字が四連続で続く日であるため、「独身者のための日」みたいに言われたことがキッカkでだったと思います。単独の数字をすぐ独身と言い換えるのはややせっかちな気もしますが、こうした認識に乗っかる具合で「独身の宅男(オタク)がネットショッピングに興じて寂しさを紛らわす日」という風説を主に中国のAmazonこと「アリババ」が言い始めると同時に毎年この日に大々的なキャンペーン、具体的には1日限定で大幅な値引きセールを実施するようになってきました。

 こうしたアリババの動きにほかのネットショッピング(EC)サイトも追従するようになり、中国のEC業界ではこの日はさながら互いの維持とメンツをかけた決選日の様相を見せるようになってきております。私が上海で色んな意味で大活躍していた去年の11/11も大いに賑わい、この大体一週間前くらいから各社がどれくらいの販促費用を出して値引きをするのかとかが報じられていました。
 そして時は移って今年の11/11ですが、私がさらっと見たニュースによるとやっぱりというか規模は拡大の一途を辿っており、1日当たりのネットショッピング取引額で過去最高を記録したそうです。ついでに書くと王者は依然とアリババだったそうですが。

 でもって12/12。この日は11/11の約一ヶ月後であって12のゾロ目ということから副次的に「値とショッピングでキャンペーンが貼られる日」と認識されました。ただ規模は11/11と比べると随分と小さく、先日も私が読んだニュースだと「各社ともにおまけのキャンペーン日という認識でそれほど力を入れていない」と書かれ、売り上げも11/11の様に極端に大きくなったわけでは無かったそうです。

 言ってしまえばこういった「中国版ネットショッピングの日」というのは日本で言うと「バレンタインデー」みたいな、商業関係者がマーケティングによって作った記念日と言っていいでしょう。私が何故このようなことを今日書こうかと思ったかというと、日本では近年こうしたマーケティングが少なくなってきていると思うと同時に、なんていうかせこいセールをやる所が多いと感じる気がするからです。

 具体的に名前を挙げちゃうとイトーヨーカドーで、プロ野球で千葉ロッテがプレーオフ出場を決めると千葉県内の店舗では販売セールが行われました。それから数日後、巨人がプレーオフ通過を決めて日本シリーズ出場を決めると今度は「巨人おめでとうセール」をやっていました。お前はどっちの味方だよとちょっと言いたくなりますし、そもそもどっちの球団ともイトーヨーカドーは関係ないだろと思います。仮にイオンだったら本社が千葉市だから千葉ロッテのセールをするのはおかしくないけど。

 イトーヨーカドーに限らずこの手の便乗セールは非常に多いです。あともう一点書くと、ネットショッピングでのこういう大々的なセール日っていうのをまだ日本じゃ見ない気がします。この前日本シリーズで楽天が優勝した際は親会社の楽天が優勝セールをしましたが、なんかこれも自分が見ていて盛り上がりに欠けた気がするし、楽天も楽天で値引き前価格を大幅に引き上げてたりして味噌付けたしで、いまいちな感じがしてきます。
 私はネットショッピングは今後も拡大を続けると見ていますが、それにしても中国みたいなマーケティングがまだ見られないのはちょっと不安になってくるだけに、もうちょっとこういう大々的なセールの様な努力を見せてもらいたいと思い、今日筆をとった次第です。

2013年12月15日日曜日

中華料理の名前とその意味たち

 すいかさんのブログでネタ振りがあったので、久々の一日二本投稿記事として中華料理の名前とそれらの漢字の意味をコラム的に解説します。

 まずすいかさんがネタ振りに使った「チンジャオロース」ですが、これは中国語の発音をそのまま日本のカタカナに当てはめた料理名で、漢字で書くと「青椒肉絲」と書きます。この料理名は使用する食材を表しており、「青椒(チンジャオ)」というのは実は「ピーマン」で、「 肉絲 (ロース)」というのは「肉を糸の様にして細く切ったもの(ミンチ)」という意味で、この二つを一緒に炒めたものという意味の料理名です。

 このように中華料理の料理名は使用する食材、そして炒めるとか煮ると言った調理法の漢字を並べてったものが多く、「紅焼牛肉」はそのまま牛肉を煮込んだ料理で、仮にこの料理に「じゃがいも」を表す「土豆」という漢字が加わって「紅焼土豆牛肉」となればジャガイモも一緒に煮込まれている事となります。

 このような具合でそれぞれの食材と調理法を表す漢字を覚えればある程度中国語のメニューを見るだけでもどんな料理が出てくるか想像できるようになるのですがいくつか例外もあって、自分が過去に痛い目にあったものに「水煮牛肉」という料理があります。名前からして牛肉を煮込んだシチューみたいな料理かなと思って頼んだら、確かに牛肉を煮込んだものに間違いはなかったものの、煮込む際に唐辛子や胡椒、豆板醤といった香辛料がガンガン入れられるため、有り得ないくらい激辛の味に仕上げられます。そのため私が初めて食べた時は本当に泣きながら食べてて、結局全部食べきれなくて残してしまいました。

 このほか日本でメジャーな中国料理の漢字を挙げてくと、「回鍋肉(ホイコーロー)」、「麻婆豆腐(マーボードウフ)」と書きますが、ホイコーローはどういったいきさつでこの感じになったのかわかりませんが、麻婆豆腐は知ってる方も多いと思いますが、四川省にいた麻(マー)おばさんが作った豆腐料理であることからこのような名前になったと言われています。

コミュニケーション能力と共通体験についての考察

 先日、私が読んでいる「怨み屋本舗」という漫画で気になるセリフを発見しました。そのセリフというのもオタクな趣味を持つキャラクターに対して主人公が、「オタクはオタク同士だと短時間ですんなり打ち解ける。私は彼のコミュニケーション能力に期待している」という内容のセリフです。
 このセリフですが私も深く同感せざるを得ないというか、まさにそういう場面に出くわしたことがありました。その場面というのもバイト先の知り合いに誘われて参加したコスプレ会場なのですが、そこだと中学生と40歳くらいのおっさんがまるで同い年の様にため口でしゃべるという、普段の生活では有り得ないような光景が多々見られました。ちなみにその中学生のコスプレは何故か丹下段平でした。

 一見するとオタクな趣味を持つ人間というと引きこもりに代表されるような、コミュニケーション能力が低い人物が連想されがちじゃないかと思います。しかしさっきの「怨み屋本舗」でのセリフに書かれているように、確かにオタク同士だとびっくりするくらいすぐ打ち解け合うことが多いように思え、そのような事例を考えると一概にオタクはコミュニケーション能力が低いとは言い切れないようにも思えるわけです。では一体何故こういう風な見方が広がるのか2分程度考えた末の自分の結論はというと、結局は共通体験の有無に全部集約されるのではないかと考えました。

 共通体験とは読んで字の如く、他人と同じ体験を自分がしているかどうかという意味です。この話は今度二人っきりで旅行に行く友人の方が専門なのですが、近年の日本はインターネットの普及と共に趣味やライフスタイルの多様化が広がり、こうした共通体験というものが年々少なくなってきております。具体的な例を挙げると私の時代であれば男の子はみんな「ドラゴンボール」を読んでいて、「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」を遊んでいると言ってもほぼ過言ではありません。また成人についていえば昔は今くらいの冬のシーズンになるとみんなスキー旅行に行って、また社会人となると車を持つのが当たり前化の様なライフスタイルでありました。

 しかし現代になると子供の世代でもみんなが確実に触れたことのあるメディアとなると「ワンピース」はあるとしてもゲームだと以前の「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」ほどの存在はなく成人も非正規雇用が増えるなどライフスタイルが多様化する傾向があり、そして単純に余暇の時間が減っていることから触れられるメディアの数も減少傾向にあります。こうした状況について友人はよく、共通体験がないため爆発的にヒットする商品やサービスは生まれ辛く、自然とニッチな産業やメディアを作る方向に日本企業は突き進もうとする傾向があるということを主張しています。

 話を戻しますがオタクの趣味というと一般的にはアニメ、漫画、ゲームの三本柱です。逆を言えばオタクの趣味はこの三種類に限定される傾向があり、それがためオタク同士だと共通体験を保有している確率が非常に高く、なおかつそれぞれがディープにそのメディアに触れていることも多いために初対面でも話題が盛り上がりやすく、なおかつオタクでない層との差別化もあってすぐに打ち解け合えるのではないかという仮説を立てました。

 日本社会では最近、若者のコミュニケーション能力が低いという意見が大手メディアを中心に発信され、各調査でも企業が募集する人員に求める能力の筆頭にはこのコミュニケーション能力が入ってきます。こうしたコミュニケーション能力に対する社会の注目ですが先程の仮説を援用すると、単純に「打ち解け合える能力」が不足しているのではなく「共通体験」が不足しているというのが真相なのではないかという気がします。
 ちょっとアクセルを踏み過ぎたのでブレーキ踏んでもうちょっと詳しく説明すると、最近の若者はコミュニケーション能力が低いように言われているが、そもそもコミュニケーションというのは共通体験を持っているか否かということが成否を左右する大きなファクターであり、この共通体験が社会の多様化に居って上の世代、果てには同世代の間でも非常に少なくなってきているためコミュニケーションがうまくいかなくなっているのではないかと言いたいわけです。自分で書いておきながら、わけわかんないこと言ってますねぇ。

 言うなれば、コミュニケーション能力というのは人格とかそういうものじゃなく、ほかの多くの人と同じ話題を共有できるような共通体験の多さに集約されるのではないかと言いたいわけです。逆を言えばどんなに共通体験が少なくてもお互いに一致していればうまく行けるし、一致しなければほとんどうまくいかなくなる具合で、単純この上なく求めれるのは「お酒が飲めてその話が出来るか」というのが大きなキーワードになってくるわけです。酒が飲めない自分としては不利この上ない条件ですが。

 結論としては共通体験というか同じ趣味がコミュニケーションの成否を左右するという一言に集約され、様々な体験を経験したり幅広い教養を持っている人間というのはコミュニケーション上手になりやすいということです。ただ趣味の範囲が狭くても他人とその狭い範囲で被りさえすればコミュニケーションは簡単に上手くいくこともあり、一概に人格不適合者というふうに扱わない方がいいのではないかと言いたいわけです。
 もっともこういっておきながらですが、共通体験を持っていなくてもコミュニケーションをうまく運べる人間も確実に存在します。私から見てそういう人間は概して聞き上手な人が多く、プレゼンが上手かったり口の立つ人間である条件はなくてもいいと思います。更に言えば、こういうタイプの人間がただでさえ共通体験が持ちづらい海外の現場で活躍するように思えるわけです。

  おまけ
 自分に限って言えば世間一般とは外れた道を歩むことが多かったため、あまり普通の人と被る共通体験は多くありません。そんな自分にとってこういう趣味なり知識なりを持っている人だったら仲良くなれそうかなっていうのを片っ端から挙げると、以下の様になります。

・安保闘争に詳しい人
・文化大革命が好きな人
・中国史に詳しい人
・政治議論が好きな人
・カレーが好きな人
・水木しげるが好きな人

 我ながら、やっぱり趣味が偏っているなぁってしみじみ思います。

2013年12月14日土曜日

グローバルな居酒屋最前線

 先週、例の上海人と一緒に居酒屋の鳥貴族にいったという話を紹介しましたが、その時の店内で一生深かった出来事がありました。当時お店に入ったのは午後八時半くらいでしたが、店内で聞こえる店員の声というか発音がやけに懐かしい響きがしたというか、中国語訛りの日本語がよく聞こえてきました。更に耳を澄ませるともう日本語を通り越して店員同士が中国語で話し合うシーンもあり、以前からもそうでしたが夜間帯の居酒屋は外国人留学生がアルバイトの主役であるというのをまざまざと見せつけられたわけです。

 そうした環境に無駄に対抗しようと私と上海人も途中から中国語を交えた会話をし始めたのですが、ある程度話し終えて食い終えて店を出ようと会計に向かったところ女性店員から、「中国人なのですか?」と、ちょっと外国語訛りの日本語で聞かれました。私はこの時、この人もきっと中国人なんだろうと思って、「ちゃうで、俺は日本人やけどこっちは中国人やねん」と中国語で答えたら、「あの、すいません、意味が分かりません(>_<)」と言い返されてしまいました。改めて聞き直すとその人は中国人ではなくベトナム人で、今思い返すだに失礼なことをしてしまったと反省する限りです。

 更に詳しく話を聞いてみると、我々の予想通りにその店のアルバイトは中国人が大半だそうで、むしろ明らかに日本人アルバイトの方が少ない状態でした。そんな一件があったことから店を出た後、そのベトナム人の女性店員といい意外に日本の居酒屋はグローバルだというようなことを上海人と話しつつ上野の夜を練り歩いたのですが、改めて考えてみると不思議な状態な気がします。
 ほかの国でもサービス業など低賃金のワーカーには外国人の出稼ぎ労働者が多いということはある程度共通しているでしょうが、日本の居酒屋といったローカルな形態の飲食店に外国人がたくさん働いているというのは奇妙な感じにも見えます。言うまでもなくこうなるのは日本人アルバイトは夜遅くまできつい仕事をしたがらないためこうした居酒屋バイトがこの頃敬遠されがちということが大きいのでしょうが、一つ視点を変えてみるとかえって日本国内でグローバルな空間と呼べるのはこうした居酒屋なのではないかとも言えるわけです。

 もちろん働いている最中の外国人アルバイトに根掘り葉掘り聞いたりするのはご法度でしょうが、こうした状況をもっと日本の国際化に使えないのか、何かコミュニティに変えられないのかとちょっと考えたりもします。あとこれは社会学的な意見となりますが、こうした外国人アルバイト同士の横の関係はどうなのか、中国人とかベトナム人とかが一緒の職場でどんな交流しているのかとかにも興味があって可能ならば調べて論文とか書いてみたいわけです。
 銭湯から帰ってきて妙なテンションのまんまで書いているため文章が非常に荒れていますが、ローカルな場所が意外にグローバルだったということを書きたいため、一筆したためました。

2013年12月12日木曜日

敬語が阻害するコミュニケーション

 昨日の記事に関連する内容として前々から主張したかった内容として、日本社会における敬語の使われ方があります。かなり昔、それこそこのブログを始めた当初にも批判していますが、私は現代における日本人の敬語の使い方には明らかに問題があるように思え、可能ならばこの際廃止した方がいいのではないかと考えております。そこで今日はどうしてそう思うのか、何が問題なのかをこのところ好調な表現力を駆使して主張していきます。

 まず最初に行っておきますが、私自身は敬語という日本語の表現技法を高く評価しております。日本語を学ぶ外国人からしたら覚えたり使ったりするのに面倒くさいことこの上ないだろうなとは思いますが、この敬語があるだけで時代劇も成立するし小説とかでも上下の関係を説明なしで読者に理解できます。にもかかわらず何故廃止するべきだというのかですが、単純にコミュニケーションを阻害する要因にしかなっていないと思うからです。

 元々、敬語というのは話し相手の気分をよくするために出来たと言っても過言ではありません。しかし社会上で敬語の使用が一般化するにつれて、敬語を使われないと気分が悪くなる、失礼な言い方だと思うようになっていき、逆説的ですが敬語があるからこそ悪意のない発言が悪意あるように受け取られて責められるような事態が多くなってきているように思えます。
 簡単な例を挙げると駅構内でつまずいて転んだ際、後ろから駅員が心配して「どうしたの?」って声をかけたら、この駅員はまず世間から批判されるでしょう。尋ね方としては「どうなされました?」というのが常識とされてこれ以外の聞き方したらなれなれしいだの客をなめているだのと言われちゃいますが、「どうしたの?」も「どうなされました?」も意味としては同じ内容で、どっちも相手を気遣う意思を表しています。それでも前者を使えば怒られちゃうわけですが、これって馬鹿馬鹿しくやないかと自分は思っちゃいます。

 上記の駅での声掛けの例は極端な例ですが、こうじゃなくても実社会では敬っているつもりで言った言葉が相手からしたらちゃんとした言い方になっていないととられて、まるで揚げ足取りのように責められる材料となることも少なくありません。大昔にもこのブログで言いましたが、目上の人間に「ご苦労様」と言ったらアウトで「お疲れ様」と言うのがセーフというのは日本語の用法からしたら明らかにおかしいし、同じ意味の言葉なんだから細かいこと気にしてないで普通に受け取れよと言いたいわけです。

 あくまで私個人の印象ですが、現代日本の敬語は相手の気分を良くさせてコミュニケーションを円滑にさせる回数よりも、誤用が氾濫している上にお互いぎこちなく気にし合って人間関係をギスギスさせる回数の方が多い気がします。これは本来の敬語の誕生理由とは真逆であるし、なおかつ存在もしない概念が実態を持つ人間の関係を阻害するなんて言語道断でしかなく、それであれば廃止した方が世のためみんなのためじゃないかと考えるわけです。もっともそれ以上に、敬語が使われないとすぐ不機嫌になるような心の狭い人間を淘汰したいというのもありますが。

 かくいう私は敬語というか言葉遣いに対しては寛容であるよう心がけており、後輩にも自分に対して敬語を使う必要はないしフランクに話しやすい言葉で話しかけるようにかなりくどく言い続けてきました。呼び方もさん付けではなくなるべく君付けにするよう指示してましたが、さすがに「呼び捨てでもいい」とまでは言わない辺りまだまだ甘かったのかもしれません。
 もっとも後輩に敬語を意識させないのは敬語の概念に疑問を持っていたこと以上に、敬語を意識するあまり頭の回転を鈍くさせるのがもったいなかったというのが本音です。言葉を普段使わない言い方で話すようにするとどうしてもそっちの方にメモリを食われるというか会話のペースや幅が狭くなるように思え、議論する際はマナーとかを気にするよりも存分に実力を発揮してもらいたかったというのが本音で、そういう奮起を促すためにも「俺を殺すつもりでかかってこい」などと中二病みたいなセリフも言ったことがあります。

 最後に蛇足ですが、自分が議論する際に意識的に発揮できる実力は80%くらいが限度です。ではどうすれば100%まで発揮できるのかですが、これには議論する相手も同等の実力を持っており、なおかつお互いに議論が白熱することで実力以上の実力が引き出されるような感覚を覚えるので、この時が自分の100%だと考えています。今の所、この100%限界値を発揮させてくれる友人は一人くらいで、後は80%まで遠慮なく出せるのが数人、普段は50%以下で頭を回しながら会話している感覚がします。車のエンジンじゃないけど、たまには限界近くまで回転数を上げたいなと思うこのごろです。

2013年12月11日水曜日

禁止にするから腹が立つ

 先日、電車に乗っていたら隣に座っていたおばさんがまだ駅についていないにもかかわらずやおら立ち上がり、ドアの前まで移動する場面に出くわしました。一体何だろうと思ってそのおばさんを見ていたらカバンから携帯電話を取り出して、「ごめん、今電車だから」といってつなげた着信をすぐ切っていました。

 別に何のことはない、むしろマナーのいい場面といえるかもしれませんが私からしたらちょっと違和感を覚えます。というのも、そのまま出ちゃって会話すりゃいいじゃんとか思うからです。念のために言っておきますが私は日本だと電車の中では電話を取りませんが、これが舞台が中国だと遠慮なく取り、「今電車で移動中だから大きい声で言ってね」なんてセリフも吐いたりします。
 私が先程の場面に違和感を覚えたのはいうまでもなくこの中国の体験が原因です。説明するまでもなくというか多分想像つくと思いますが、中国だと電車で移動中だろうが職場だろうが、会議中であろうと余裕で着信音を警戒に鳴らしつつ携帯電話を取ります。でもってナチュラルにプライベートな会話も続けてくるし。

 この辺は文化の違いで片づければそれまでですが、そもそもなんで日本では電車で携帯電話はマナー違反となるのでしょうか。ペースメーカーへの影響などもあるでしょうがそれ以上に現代では電車の中、下手したら往来の中で携帯電話で会話する姿に不快感を感じる人間が多いためということが大きいでしょう。では何故不快に感じるのか、声が大きいだとか周囲への注意力が落ちるとか言い訳はいくらでもあるでしょうが、メタ的に言えば「電車で携帯電話を使ってはいけないというルールを破っているから」というのが最も大きいように私は思います。いわばその行為自体というよりもその行為がルールを逸脱しているということに日本人は腹が立つのではないかと思います。

 上記の携帯電話に近いネタに車のクラクションがあります。これも中国ではプップカプップカ鳴らされているのですが、仮に中国と同じノリで日本で鳴らすと周囲からひんしゅくを買うばかりか、下手したら喧嘩にまで発展しそうです。しかし中国で暮らしてみてこのクラクションの嵐を経験してみると、最初はいら立って運転手を睨み返したりしましたが、向こうとしては「後ろにおるでー」というノリで、どちらかというと安全を喚起する親切心で鳴らしているということに段々気が付いていってからは腹も立たなくなりました。それどころか後方への注意は視覚ではどうにもならないだけに聴覚を使う方が明らかにいいわけで、教習所で「不用意にクラクションを鳴らしてはいけない」と教える日本の方が間違っているんじゃないかと逆に思うようになってきました。

 この電車の中の携帯電話、車のクラクションはともに「やってはいけない」というルールがあるからこそやられると腹が立つわけで、逆を言えばこれらのルールがなければ無駄にイラつくこともないんじゃないのかなとちょこっと思うわけです。現にルール無用の中国社会で暮らしてきた私としては全く意に介しておらず、実害もないわけなんだしこんな細かいことでいちいち苛立つのは損じゃないのか、社会がちょっとギスギスしてやしないかとも思うわけです。もっともルールが無さすぎる中国では逆ベクトルでイラつく機会も多いですが。

 要するに何が言いたいのかというと、本質を考えずただルールで駄目だからということにとらわれて、逸脱者をただ白眼視する傾向が日本にはあるのではないかと言いたいのです。それこそそのルールが正しいのかどうかを考えず、実害があるのかどうかを考えず。
 逆説的に言えば、上記のようなルールを取っ払ってしまえば日本人は無駄にイラつくこともなくなるんじゃないかとも思うわけです。現在、携帯電話のペースメーカーへの影響はほとんどないとの報告も出ているわけだし、車のクラクションも暴走族みたいなのが鳴らすのならともかく安全喚起のためならガンガン使った方がいいわけなんだし、こういうルールは社会全体で無視した方が精神衛生上にもいいと主張したいというのが今日の私の意見です。

  おまけ
 電車の中で携帯電話を使うのくらい大目に見てやれよと言っているそばでなんですが、今朝股電車に乗ってたら同じ車両で馬鹿でかい音でくしゃみするおっさんに出くわしました。おかげで折角うとうとしていたのに目が覚めたし、近くでおしゃべりをしていた女子高生もピタリと会話を止めてました。しかもそのくしゃみ、一回だけじゃなくて5秒おきに三回連続で鳴らされたので、「口くらい押えろこのボケ。なんなら俺が紙袋でも突っ込んだろか」って思いつつ、自分も軽くそのオッサンを睨んでしまいました。まだまだ自分も心が狭いな。

2013年12月9日月曜日

みんなの党の分裂騒動について

 このところ本当に時間がなくて、本気で勉強がしたいです。なもんだから今回も予習復習なしでまた適当に手持ちの知識だけで政治ネタを書くわけですが、もっと背景とか批評とかをきちんと調べてから書きたいものです。

 各所の報道で皆さんも知っているかと思いますが、先日に成立した特定秘密保護法案の作成過程において修正協議に応じたみんなの党が見事なまでに分裂しました。分裂の主役は現党首の渡辺善美氏と前幹事長の江田憲司氏で、江田氏が党内の議員十人以上を引き連れて独立するような形で袂を分かつこととなりました。今後のみんなの党の先行きについて先に私の見方を述べると、恐らくこのまま瓦解するかと思います。

 まず今回の主役である二人について先に述べると、渡辺氏は故渡辺美智雄の息子でいわゆる二世政治家です。彼が表舞台に出てきたのは奇しくも第一次安倍内閣において公務員制度改革の責任者となった時で、この時期にかなり激しい内容の改革案を作成したものの次の福田康夫政権でこの案は却下され、公務員改革が最も急務な改革であることを主張して離党、独立をしました。
 この独立時というかみんなの党の結党に参加したのが、それまで自民党に近い立場をとりつつも無所属で居続けた江田憲司氏です。江田氏は故橋本竜太郎が首相だった頃に通産省から首相秘書官として移り、当時の行政改革にも携わった人間の一人であります。

 私はみんなの党が結党された際、正直な所渡辺氏にはあまり期待はしていませんでした。というのも渡辺氏は厳しい評価となりますが起こったり嬉しかったりといった感情をすぐに顔に出す性格で、政治家としては小物の部類に含まれる特徴があったからです。ただ彼の主張する公務員改革の必要性は理解でき、誰か理解者の下であれば猪突猛進に活躍できるだろうけど政党の党首としては外よりも内に敵を作るタイプなだけに明らかに向いていないという印象を覚えました。
 しかしそのみんなの党に江田氏が参加すると聞き、この党への評価は一変しました。というのもあまりこのブログでは言及していませんでしたが江田氏に関してはかねてから高く評価しており、そのスマートな振る舞いから造詣の深い政治知識など、 現役の政治家としては屈指の実力者というように見ていました。それだけにこの人がサポートに付くのであればこの政党は面白いことになると見て、実際にこれまでの選挙ではみんなの党に投票することが多かったです。

 実際にうまくいったかどうかは別として数多くの政党が出来ては消えていく中、みんなの党は数度の選挙を経ながら着実に議席数を伸ばしていきました。そこへ至って今回の騒動が起きたのですが、もうちょっとお互いに辛抱していたら立派な野党になれたのかもしれないのにねと思わざるを得ません。

 それで今回の分裂の原因について私の個人的な見解を述べますが、江田氏は独立理由をみんなの党が与党自民党にすり寄っていき国民の意思を無視し始めたためなどと述べていますが、これは江田氏の嘘だといっていいでしょう。その理由というのも江田氏は無所属時代から自民党寄りの政策を主張しており、現在においてもその価値観は大きく変化しているとはとてもじゃないけど思えないからです。では何が分裂の真の理由かというと、もったいぶっていうのも馬鹿馬鹿しいくらいですがただ単に渡辺氏と江田氏が互いに反目し合ってケンカになっただけで、政治的利害は何も存在しないかと思います。

 この二人は前回の参議院選挙以降からしっくりいってないことが公にも伝えられており、江田氏が勉強会を作ろうとしたら渡辺氏が激しく批判した上、その門で江田氏は幹事長職も下ろされています。初めから仲良しというわけじゃなかったもののこれまではうまくいっていたのがなぜ急に関係が悪化したのか、江田氏の影響力拡大を渡辺氏が牽制したためなのかどうかとか勉強不足でわかりかねますが、独立する江田氏に対して渡辺氏が「出て行け!」といったなどと報じられる辺りは感情のもつれが最大の原因と言って差し支えないかと思えます。

 先ほども言った通り、私はみんなの党というのは江田氏の支えがあって初めて成り立つ政党だと考えておりました。それだけに江田氏が抜けるとなるとワニの歯が抜けるようなもので、さらに渡辺氏は過去にリクルート事件に関わって父親の足を引っ張ったといった迂闊な性格が未だに尚っていないように見えるだけに、みんなの党はこのまま瓦解していくと予想するわけです。
 では江田氏が新しく作る政党はどうなるのか。今後の状況にもよりますが順当に行くならやっぱり自民党に合流する方向に向かってくんじゃないかと思います。別に悪いことじゃないんだけど、政治票をする立場からすると与党ばっか強くなっても書き辛いんだよねぇってのが本音です。