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2014年9月2日火曜日

やる気のある無能

 号泣県議ですっかり全国から注目されるようになった兵庫県議会ですが、また新たなタレントが今日ニュースに出てきました。

 詳細はもうここでは説明しないのでリンク先を見てもらいたいのですが、つくづくなんでこんなに問題のある人間が曲がりなりにも議員になって公費から給与もらってるんだよとため息しか出てきません。もっとも明るみに出ているのは本当にごく一部で、政務調査費を始め全国津々浦々の自治体では呆れるような現状が続いているとよく耳にします。以前にも一度記事を書いていますが、国会議員の質以前に地方議会の方が今の日本にとって問題で、地方議会の腐敗が著しいからまともな政治家が育たないんだというのが私の持論です。

 そのように問題の数多い地方議員ですが、例の号泣議員といいこのスピード違反違反議員といい、一体なんでこんな人間性からして問題のある人物が議員になるんだという疑問が前からあります。一番大きな原因は地方議会選挙は日々の報道では大きく取り扱われることがないため有権者も誰がどのような人物で有能であるかどうか全く分からないまま投票が行われてしまい、結局組織票を持つ人間が強くなる傾向があることに間違いないでしょう。第二の理由としては地方議会は東京都議会など一部を除くと立候補者が少なく、私が以前ざらっと見た感じだと定員8人に対して立候補者は9人だけというような、ほとんどの選挙で当選率が80%以上という、どっちかと言えば「誰を落とすか」のような除名選挙になっていることも大きいでしょう。

 そうした選挙上の問題と並んでこのところ思うこととして、やっぱこういう地方議会って「やる気のある無能」ほど出たがるというのもあるかもしれないと思えてきました。この「やる気のある無能」というのは元外交官である佐藤優氏の著作に出てくる言葉で、上司の東郷和彦氏との会話で、「外務省には3タイプの人間がいる。やる気のある優秀な人間とやる気のない無能、そしてやる気のある無能だが、最も害が大きいのはやる気のある無能だ」と語られ、そっからは如何に外務省職員が問題あるかとこき下ろしタイムが始まります。

 佐藤氏の話は外務省内だけの世界ですが、実際には私はこの「やる気のある無能」は社会のあちこちに存在して文字通り毒をばらまいていると密かに見ています。やる気のある無能の何が問題なのかというと先程の佐藤氏の著作では、「やる気のない無能は仕事はできないが前に出ないから毒はない。だがやる気のある無能は仕事が出来ないのに妙な功名心を働かせて前に出てきて、問題をこじらせるだけこじらせて現場から逃げ出そうとする」と書かれてあり、私も首を深くうなずかされる意見に思えます。

 言わずもがなですが例の号泣議員などは典型的な「やる気のある無能」で、とりあえず情熱あるのはわかるが自分じゃ何もできないばかりか最低限のモラルすらもっていないどうしようもない人間でした。そんな人間がどうして議員になれたのかというとやっぱり「やる気」だけは十分にあって、何度落選してもあきらめずに選挙に出続けたことに尽きます。仮に野々村元議員と同じくらいモラルの低い人間がいたとしても、やる気が無く選挙に出たりしなければここまで余計なことはしでかさなかったと言えるでしょう。

 そして野々村議員に限るわけでなく、議員というか政治家というのはある意味自己主張の塊のような人間しかなれないということもあり、この手の「やる気のある無能」は未だ数多く存在していると思うし、中にはもっと問題のある人間もいるかもしれません。そうした人間を排除するためにはどうすればいいかですが、やはり選挙で引きずり落とす、引きずり落とすためには何をすればいいか、情報公開を進めるしかないというのが自分の考えです。もちろんやろうったって簡単にはできないもんですが。

 ちょっと政治家から離れますが以前に女性の同僚が、どうして日本の企業で女性は出世が阻まれるのかと問われた際、妙な答え方をしたことがあります。その答えとは以下のような回答です。


「自分はまだ直接会ったりしたことないですが、なんか親父や友人の話を聞いていると管理職になる女性というのはほとんどが際物というか性格的にも能力的にも歪な人が多いそうです。なんで歪なのに管理職になるのかというと変に上昇志向があって他人を踏み台にしたりすることもいとわず出世を求めるからなんだかんだ言いつつ上がってきちゃうと聞きます。
 もちろん男にだってこういう歪なまま上がってくるのはいるでしょうが、女性の場合は日本社会の偏見もあってただでさえ出世し辛い環境にあるので特に歪な女性に限って管理職になる、でもってそんな女性管理職を見てほかの男はやっぱり女性に管理職は向かないなどと思って余計に偏見が強まり、ループになってるのかもしれません。このループから抜け出すには、やる気はそこまでなくてもまともで優秀な女性をちゃんと上司が引き上げることに尽きるのですが、まぁそれはいつになることやら」


 日本人、というよりは日本社会はなんでもかんでも「やる気は大事」、「ガッツは常に見せないと」なんてほざく人間が多いですが、私は上記のような理由からやる気というのはあればあるほどいいってもんじゃないと考えてますし、実際にそう公言しています。真に必要なのは能力とそれに見合った地位と仕事であって、やる気があるからといって無能に大事を任せるもんだから戦争でも負けたんだ(by陸軍)と普通に話すので、多分周囲の人間からは変に冷めてていけ好かない奴だと思われてたかもしれません。まぁこの前久々に会った後輩からは、「いや、花園さんはとてもクールではなく、めちゃ熱くて攻撃的過ぎるじゃないですか」とツッコまれ、これはこれで問題あるようなとちょっと反省した限りです。

中国の人民解放軍とは

 後輩からリクエストを受けたので、前にもちょこちょこ書いてると思うけど中国の人民解放軍について素人ながら知ってることを書いてきます。
 
 人民解放軍とは言うまでもなく中国における唯一の軍隊ではあるのですが、厳密に言えば中国という国家が保有する軍ではなく、あくまで中国共産党が私的に保有する軍隊です。この辺日本人の感覚からしたらわかり辛いと思うのですが、日本は国家政府が最高の権力組織で自民党とか民主党など政党はその政府機能を代弁する下部組織であるのに対し、中国は共産党の方が組織権力として政府より上で、たとえ政府がAだといっても共産党がBだといったらBが正しくなる形態をとっております。なもんだから人民解放軍も中国の国家としての法律には縛られず共産党としての綱紀によって縛られる軍隊ということになります。もっとも近年は中国国内でも解釈の見直しが進んできており、事実上「国家としての軍」への看板の掛け直しが進んでいますが。
 
 それで肝心要の軍事力、というかどれだけ人民解放軍は強いのかですが、あくまでやや中国滞在歴がある素人としての意見を述べると、他国の軍隊と比べても非常にレベルが低いというのが現状だと思います。総兵力こそ約220万人で兵士の数だけ見れば間違いなく世界トップでしょうが兵士の練度は中国国内においてもそれほど高くないとの見方がされており、また兵器に関しても旧西側諸国から武器輸出に関してはしっかりマークされているためあまりおぼつかず、自主開発を余儀なくされているため貧弱さが否めません。特に致命的なのは艦船で、最近でこそ遼寧級と呼ばれる空母(ロシアのお下がり)を初めて保有するなど拡充を進めていますが、それでも兵装は古いとしか言えず、また空母に対する離着艦も訓練時間が他国のパイロットと比べて格段に劣ると見られています。
 
 かなり身も蓋もなく批判していますがこれらは以前に読んだ評論の受け売りなのですが、その評論の末尾においては、「人民解放軍こそ自衛隊だ(対外戦闘能力がない)」と締めくくられており、これには私もその通りだと感じます。実際、自衛隊みたいに災害救助などの活動や訓練はまだそれほど多くないし、あと皮肉なことだけど外国相手にするより国内の自国民の暴動を相手にしている数の方が履歴としても多いような気がする。
 
 ただ人民解放軍に優れた点が全くないわけでもなく、長所と呼べる点として真っ先に挙がるのはミサイル発射能力です。なんだかんだ言いながらロケットでの有人宇宙飛行も実現しているだけあってミサイル技術は米国やロシアなどに次ぐ水準にはあると思えますし、また曲がりなりにも核兵器も持っているのでこの点は脅威と見ても間違いありません。もっとも大陸間弾道ミサイル(ICBM)に核弾頭を載せられるかという点についてはまだ怪しく、米軍と一線構えるには角飛車落ちといったところでしょう。
 もう一つ私が地味に注目しているのはサイバー部隊です。中国は自国内でも政府が徹底的なネット監視を行っていますが、人民解放軍内にもハッキングやクラッキングを専門とするサイバー部隊が存在するとよく聞きます。以前にも書きますが次代の戦争においては開戦当初にまずどれだけ相手の通信網を破壊、妨害できるかが重要になると見られ、それこそスパイ衛星の破壊を含めて情報インフラを物理的にもソフト的にどれだけ破壊するかが大事です。そう考えると専門のサイバー部隊を軍隊が保有するというのは理に適っており、この点は日本の自衛隊も参考にした方がいいような気がします。
 
 最後に仮に中国と日本の間で先端がひらいた場合はどうなるかですが、私の見方だとやっぱり自衛隊に分がある気がします。日本は米軍に次ぐ世界第二位の海上軍事力を持つ国であり、なおかつ戦闘機などの装備の面で米軍からいろいろ融通を受けています(高値で吹っかけられてるが)。日本は地理上、本州に上陸された時点でほぼ敗北確定なので戦闘は日本海、もしくは朝鮮半島がメインとなるでしょうが、海上での戦闘であれば今の人民解放軍にまず負けないでしょうし、専守防衛といいつつさりげなく自衛隊は強襲上陸艇とかもあるので離島戦でもそこまで引けを取らないでしょう。
 そして何より、というかこの一点だけで勝敗を見てもいいくらいなのですが、中国において致命的なのは石油備蓄量が致命的なまでに少ないということです。日本は一日当たりの平均使用量の約六か月分の石油を常に備蓄しており、有事の際に極端に使用量が増えたとしても二ヶ月くらいなら全力で戦えると思います。それに対して中国の備蓄量はなんと約一ヶ月分しかなく、もし有事となれば国土も人口も桁違いに大きい分、あっという間に民生用の石油すら枯渇して戦闘どころではなくなるでしょう。この備蓄量の少なさに関しては中国国内でも弱点だと指摘されており、「俺たちももっと日本を見習って備蓄量増やそうぜ」という意見を前に中国紙で私も見ています。
 
 最後にといいつつもう一言。これも大分以前に書いた内容ですが日本人の自衛隊に対する印象としては現在、「好感を持っている」が確実に過半数を超えることでしょう。これは数多くの災害派遣で立派な実績を残しており、防衛の為というより災害対策として自衛隊に期待する意識が高く、その信頼度は下手すりゃ政府より高いかもしれません。
 それに対して人民解放軍ですが、一般の中国人からの信頼はほぼないと言っても過言じゃありません。人民解放軍はろくでなしの行きつく先だと普通に述べられており、また裏金などといった汚職も絶えず、普段威張っている癖に災害時の救助では全く役に立たないと散々の評判です。さすがにここまではっきりとは言わないけど、自国民を束縛することの方が多いと中国人も暗にわかっているのかもしれません。

2014年8月30日土曜日

罵り合う良好な日中関係

 相互リンクをしているおでこさんが「プーチン大統領訪日問題と誅韓論」という興味深い記事を書いているので、自分も乗っかってちょっと砕けた国際政治の話でも書こうと思います。
 
 先におでこさんの記事についてちょこっと書くと、東アジアの地政学というのは日中露の三ヶ国が事実上のプレイヤーであって、この地域における唯一の変数というのは実は朝鮮だという、「誅韓論」の記述を引用しています。この主張はなるほどと思うと同時に、事実日清、日露戦争はこの朝鮮(+満州)を巡る三ヶ国の争いだったというのが真相だと思います。逆に言えば変数である朝鮮はパートナーをある程度選ぶ立場にあってどこにつくかを多少は決められる存在なのですが、日中露の三ヶ国はそれぞれほかの二ヶ国のうちどちらかと手を組むということはそれぞれがプレイヤーであるためあまり考えられないという風にも解釈できます。三国志であれば呉と蜀が連合して魏に向かうことがありますが、現在の日中露においてはそれぞれがそれぞれの間で三者三様の緊張感を持っているため「二対一」みたいな構造にはなりにくいと私見ながら覚えます。
 
 ここで話は変わりますが、現在の日中関係について良好であるか険悪であるかを問うならば、日本、中国の両方で「険悪だ」と答える市民が多数を占めると思います。しかし私の意見は実は違って、日中というのは逆説的ではあるものの今、非常に良好な関係にあると考えています。何も奇をてらってこんなことを言ってるつもりではなく、私は今の日中関係を「お互いに罵り合える関係」だと捉えており、先ほど挙げたように地政学上、どうしても対立の火種を持たざるを得ない両国としては言いたいことを言い合える現在のような状態がある意味で最も良好だといえるのではないかと考えるからです。
 
 現在ネットの掲示板を見ていると常にどこかしらで中国を批判する内容が必ず見られると思います。一方中国の方でも日本批判ネタは事欠かず、公共の電波では半日ドラマがほぼ毎日放送されているくらいです。これのどこが良好な関係だと言えるのかと思いますが、もう一つの東アジアのプレイヤーであるロシアに対する日本、中国の態度を考えてみてください。こういってはなんですがロシアの戦闘機が国境線を多少侵犯しても日本は中国がやった時ほどの強烈な拒否反応を見せないと思います。それはロシアに対して日本が信頼感を持っているからではなく、下手なこと言ったらどうなるかわからないからというのが実情でしょう。最近のウクライナ情勢を見てもわかるようにロシアというのは古来より、常識が通じないどころではなく有り得ないことを平気でやってくるところがあり、昔の中国の言葉でいう「虎狼の国」というのが一番しっくりきます。
 
 こうしたロシアの性格については断言してもいいですが、日本以上に中国の方がよく理解しています。国境線の画定こそ果たしているものの中国は陸地でロシアと接しているだけにその危機感というか恐怖感は日本と比べても半端ないほど高く持っており、日露間の北方領土問題に関しても非常に敏感で何か動きがあれば逐一が中国紙に載るくらいです。なもんだから中国も日本と同じように、ロシアがウクライナとか中露国境で何か変なことをしても日本の時とは違ってあまり文句を言いません。何しろ怖いからでしょう
 
 そんなロシアに対する態度と比べるなら、割と日中は何か問題があると政府間、市民間で激しく罵り合いの応酬を繰り返し、それでもしばらくすればまた元通りに経済交流や国交を保つんだから良好、というよりロシアに比べればまだ健全なように見えます。また日本と中国がそれほど罵り合いという接触がほとんどなかった1990年代と比べると、確かに争いの種というか抱える諸問題は増えてはいますが、お互いに罵り合いつつなんだかんだ言いながら双方の国民性なり文化なりで理解が進んできたようにも見えます。最近ではそうした文化を理解しあった自虐ネタもネット上で見られるようになり、たとえば中国なら食品や製品が日本で問題起こすと、「日本人はもっと中国製に気を付けるべきだ」と中国人が言ったり、また日本の変なアニメや漫画が中国で流行ると、「中国の子供がこんな変なアニメや漫画ばっかり見てたら立派な大人にはなれない」と日本人が言ったりなどと。少なくとも、何にも接触無いよりはこうやって他愛ない話題で罵り合ってる方が理解は進むんじゃないかな。
 
 最後にこれは私の想像の話ですが、仮に日中が蜜月といえるような関係というのはどういう状態なのか、やっぱお互いに賞賛し合ったりするのかなとちょっと考えてみたところ、
 
日本「いやぁさすが中国さん。私の様な小日本ではとてもとても……」
中国「いえいえ日本さん。そちらこそいつも見事なお手前ではないですか」
 
 というような会話を交わし合ったりするのかなと想像した所で、「日中でこんな会話されたら激しく気持ち悪い、というか絶対こいつら裏心があるだろ」と思え、やっぱあーだこーだと文句言い合ってる方が日中のあるべき姿だと感じた次第です。

2014年8月29日金曜日

徐福の出港地はどこだ?

 昨日何気なくKindleストアを除いたら半藤一利氏の「日本のいちばん長い日(決定版) 運命の八月十五日」が月替わりセールで199円になっていたので、そのまますぐに購入しました。前から欲しい本だったのですが8月のこの時期に安売りするなんてなかなかアマゾンも気が利いてるじゃないかと感心する限りです。実体書店もこういう売り方とか考えりゃいいのに。
 
 そんなわけで本題に入りますが、先の記事で書いている通り私は先週、住んでいる江蘇省昆山市内にある千灯鎮という観光地に行ってきました。ここは古い街並みが残っている場所なのですがそこそこいいお寺と顧炎武という哲学者の旧居もあってそんなに悪い印象を覚えなかったのですが、いくつかある史跡の中で昆山市の歴史についてパネル展示があり、その中に「昆山市も徐福の出港地候補の一つだ!」と書かれてあって即記事にしようと思い立ちました。
 
徐福(Wikipedia)
 
 徐福というのは名前までは覚えていないもののやったことを聞けば思い出す人も多いかと思います。
 こいつがどんな奴かというと、初めて中国で統一王朝を作った始皇帝にすり寄ってきた道士で、「船で東方に行けば蓬莱山という島があり、そこで不老不死になる薬が手に入りますよ」と騙し、まんまと始皇帝に大船団を用意させそのまま船団を率いてとんずらこいたという、ある意味中国史上で最も有名な詐欺師です。今も昔も中国は詐欺師が多いとか思っちゃだめですよ、もっとも現代中国人もそれほど強く否定しないと思うが。
 
 この徐福という人物が出港後にどうなったかについてはさまざまな伝承があり、我らが日本も各地で「徐福に関連した伝承がある」などと主張しては最後に徐福が来たのは日本だと主張する地域が数多くあります。朝鮮半島でも同じような主張がありますが、確かに中国から東となると日本か朝鮮しかないので有り得ないこともないですが、案外東に行くと見せかけて中国大陸南方の、現在で言えば福建省とか広東省、もしくは台湾に一旦じゃないかと私は勝手に想像しています。
 
 話は戻りますが日本各地で「徐福は最後、うちにたどり着いたんだ!」という主張が出ているように、中国でも各地で「徐福はうちの所から出向したんだ!」という主張がなされ、軽い歴史議論になっているようです。先程書いたように江蘇省昆山市も名乗りを上げているうちの一つで、大体山東省から浙江省の海岸沿いにかけて十都市くらいが出張地だと主張して、有力候補となっているのは河北省秦皇島、浙江省慈渓市だとウィキペディアに書かれています。
 この出港地に関する論争ですが、パッと見で日本の邪馬台国論争を思い出しました。最近では近畿説でほぼ固まりつつありますが日本で最も熱かった歴史論争というと「邪馬台国はどこにあったのか」で、ちょっと意味合いは違うかもしれませんがこの出港地を争う論争も同じような土台であることから論争していてなかなか面白いんじゃないかななんて思った次第です。
 
 最後にまたウィキペディアからの引用となってしまうのですが、なんでも宋の時代の詩人が書いた本には、「徐福は手先の器用な人間を選抜して日本に渡ったため、その子孫足る日本人たちは手先が器用で作られる道具はどれも精工だという」という話が乗っかっているそうです。本当かどうか知らないけど、メイドインチャイナとメイドインジャパンを比べるとなんだか案外当たってるようなとも思える辺り不思議です。

2014年8月28日木曜日

「弾圧」を自己正当化理由にする人々

 前回の「弾圧事例が協調される現代の歴史」という記事で私は、現代の日本史教育において明治以降の分野ではややもすると異常なぐらいに政府による弾圧事件が強調化されて教えられており、一部においては実際の歴史事実を誤認させるくらいなまでに過剰であると私は主張しました。その上でどうしてこれほどまでに「弾圧」事例が強調されてきたのか、背景にいるのはやっぱり日教組じゃないかと推定し、また何故日教組は弾圧事例を持ち上げたのかというと、日教組を含む社会主義陣営の連中は政府に弾圧されたという事実でしか自分たちの主義主張を正当化することが出来なかったからではないかという仮説をぶち上げました。今日はこの仮説内容の説明と共にその根拠を提唱することにします。書く前からなんだけど非常に気が重い、ってか普通に社会学の卒業論文とかにも使える内容だぞこれ。

 まずなんでこんな仮説を私が思いついたのかというと、久々に大逆事件の内容をネットで読み返していて、改めて何故事件の詳細よりも幸徳秋水が処刑された点ばかり強調されるのだろうと違和感を覚えたところから始まります。この時点で日教組や社会主義思想の連中はやたらと弾圧されたという事実を持ち上げるなと思えてきて、もう少し深く考えてみると弾圧されたという事実でもって自分たちの主義主張が正しいなどと言ってた連中も多かったのでは、っというかそれ以外で何故自分たちが正しいのか全く説明していないぞ……という具合に思い当たり、最後にフェスティンガーさんを思い出して結論にたどり着きました。

 最初に断言しますが、中にはまともな人もいたとは思うものの、戦後以降における日本の社会主義者の大半は何故自分たちの行動や主義主張が正しいのか、その理由をきちんとわかりやすく説明できた人間は全くいなかったと言ってもいいです。建前には貧富の差のない平等な社会の実現を掲げていますが、前に私が書いたように共産主義と社会主義の違いも曖昧だったように見えるし、政権奪取後にどうすればそのような社会が実現するのかという手段に関する構想については全く以ってノーコメントという体たらく。挙句に、革命のために警官をゲリラ戦で殺す事が必要だとか真面目に言ってて、警官殺して革命起こるならドンだけ楽なんだよと聞いてて呆れる限りです。

 話は戻りますがこうした支離滅裂な論法を繰り返していた社会主義団体やら思想者が何故革命を起こさなければならないのか、何故政府を打倒する必要があるのか、この辺りの説明として、「政府が自分たちを弾圧したからだ」という内容ばかりを繰り返しており、弾圧事例というか身内に逮捕者が出る度に妙な盛り上がりを見せていました。いくつか例を挙げると安保闘争の樺美智子とか、赤軍派の逮捕者が出た事件などですが、こうした死者や逮捕者は文字通り神格化され、「あの犠牲を無駄にするな!」なんてその後の活動理由にかこつけられます。私見ですが、活動してれば犠牲者が出るのは当たり前だというのになんか不毛なようにも見えます。

 このようにややもすれば被害者意識の強い思想というか考え方を社会主義陣営の人間はどうして持っていったのか、私なりに分析すると最初に挙げたフェスティンガーという社会心理学者が唱えた「認知的不協和」という現象が起きたのではと考えています。この認知的不協和とは何かですが本気で説明したら本一冊書けるので簡単な具体例を挙げると、イソップ童話の「酸っぱいブドウ」です。このお話は木の上に実ったブドウを狐が食べようとするものの手が届かず、最終的に狐は「あのブドウは酸っぱくて食べられないに違いない」と自己完結してブドウをあきらめます。

 認知的不協和とはこのように、願望(=ブドウ食べたい)に対して現実が実現しない、一致しない(=手が届かない)場合、自分でコントロールが出来る願望というか意識の方を、「ブドウ食べたい⇒ブドウは酸っぱくて食べられないに違いない」という具合に変化させることで納得させ自己完結させる心理的な動きを指しています。これは日常生活で探しても数多く散見される心理で、スポーツが上手くいかなかったら「きっと自分は初めからこの運動に向いていないんだ」と思ったり、宝くじが外れたら「大金を得たら人間駄目になる」と思いこんだりする心理も当てはまるでしょう。
 この認知的不協和が何故社会主義陣営の弾圧に対する意識に関係するのかというと、彼らの活動理由が徐々に変遷していくようにみられるからです。恐らく大半の活動家は建前通りに「平等な社会」とやらをなんとなくいいなとか思って目指したかと思います。しかしそれがどうすれば実現するのか、何をやってけばいいのかは完全に置いてきぼりでとりあえず運動を開始します。

 しかし社会主義というのは基本、政府を転覆させることがまず第一歩(大半の活動家は恐らくここすら理解してなかった気がする)ですから、運動でデモやったり大学封鎖したりすれば警察から妨害を受けるのも当たり前です。しかし活動家たちからすれば、自分たちは平等な社会を目指して活動している、世の中にいいことをやっているつもりなのに警察は不当に邪魔してくると考え、自分たちの信条(=願望)に対し警察の妨害(=現実)は納得がいきません。
 ここで、もしかしたら自分たちの活動の仕方、思想信条に問題があるかもと、ある意味で冷静に考えた人間は読売新聞の渡辺恒夫氏みたいに運動から離脱したことでしょう。しかしそうは思わなかった人間、自分たちが正しいこと前提で物を考えた人間は、警察が何故妨害するのかという理由を、「警察というのは絶対悪で、正しいことをする自分たちを妨害しようとする存在」だなんて考えたのかもしれません。こうした考えは更に発展していき、「警官&政府という絶対悪に助けられるのは悪。逆に弾圧されるということは自分たちが正しい証拠だ」と思い込んでったのではないかと私は推察します。

 非常に複雑な考え方なので簡単にまとめますけど、社会主義の活動家たちは最初は単純に平等な社会になればいいなんて考えで最初は動いてたと思います。しかし運動の過程で政府による警官から妨害を受けたことに納得いかず、「警官は悪、自分たちは正義!」なんて思い込み始め、終いには「悪い警官から妨害を受けるのは自分たちの活動が正しい証拠だ」とも考え始め、自分たちを正当化するための理由を平等な社会という理想ではなく、警官と戦う、もしくは警官から弾圧を受けるという方向に変化していったのでは、という風に私は考えているわけです。

 こう思う根拠はというと、全共闘の連中の話を聞いているとどうすれば平等な社会が実現できるのかという目的に対する手段についての議論がほとんど見られず、逆に自分たちがどれだけ搾取され虐げられているか、政府や警官とどう戦うか、どう反抗するかという話しばかり聞こえ、まるで初めから政府に楯突くこと、場合によっては被害を受けること自体が目的であるかのように見えるためです。そんな連中からすれば警察に逮捕されたり、殴られたりすることは一つの名誉で、「だからこそ自分は正しい」なんて根拠となるため、弾圧事例(自業自得を含め)が歴史教育でも大きく取り上げるようになっていったのではと思います。。

 非常にわかりにくいかと思いますが以上までが自分の仮説です。ただこの仮説は社会主義陣営に顕著である一方、案外日本全体にも蔓延している思想じゃないかと実は考えています。というのもある意味同じ穴のムジナかもしれませんが、一部の部落団体においてさも自分が差別を受けているかのように自作自演して変に差別撤廃を主張する事件が多発しているからです。この手の事件は量がめちゃくちゃ多いので比較的新しいのを一つリンク貼っておきます

立花町連続差別ハガキ事件(Wikipedia)

 こうした自作自演はなぜ起こるのかというと、日本全体に「弾圧されるのだから正しい」、「被害者は正義」なんて考えがなんかちょこっと背景にあるから起こるのでは、なんていう気がします。モンスターペアレントやクレーマーもそうですが、ほんの些細な損害事例やハンデでも、それさえあれば後は何したっていいような免罪符のような効果を持つと勘違いする人間がいるのも、「被害を受けるからこそ正しい」という、ある意味歴史教育の賜物みたいな影響もあるんじゃないかなと、さすがに検証はしませんがそんな風に疑ってます。

 以前からの友人に自分の意見を話すとよく、「それは極論だ」と注意されてきましたが、最近は後輩からも、「花園さん、それは極論ですよ」と注意されるようになってきて徐々に自省するようになってきました。なので今回のこの「弾圧」にテーマを取った一連の記事も多少妄想入っているかなとも思え、現時点で「絶対にこうだ!」なんて主張する気はさらさらなく、あくまで「こういう考えもあるよ」という仮説という形で紹介しております。
 しかし一歩だけ前に出ると、弾圧されること自体がもはや彼らの目的だったんじゃないかと考えた時、意味のない不毛な議論を過激派たちが繰り返していたという点や大逆事件の扱われ方の理由について、自分の中で一気に点と線がつながったような納得感が得られました。同時に、自業自得ともいえる弾圧事例に関してはもっと世論で「ざまーみろ」なんていった方が案外いいのではと思った次第です。

 下記ながらパズドラし始めたのもありますが、この記事は書いてて本当に疲れました。恐らく今年の記事で一番疲れた記事だろうな(ーー;)

2014年8月25日月曜日

弾圧事例が強調される現代の歴史

 昨日は昆山市内の観光地である千灯鎮という場所に朝から行き、天気が崩れ始めた夕方ごろから頭痛を起こして寝込んでブログを休みました。パズドラはもちろんやってたけど。
 この千灯鎮は17世紀に活躍した中国の哲学者である顧炎武の故郷で彼に関連した史跡や寺があってそんなに悪くない場所でした。ただ臭豆腐を売ってる横でソフトクリーム売るのはどうかな、まぁ買って食べたんだけど。
 
 話は本題に移りますが私は先日、「大逆事件とは」という記事にて見出しの通りに大逆事件を取り上げ、この事件は確かに大きな事件であることは間違いないものの実際に捕まった社会主義者の一部が天皇を暗殺しようとした事実はほとんど教えられない一方、でっち上げで死刑にされた幸徳秋水に対する弾圧にのみがクローズアップされ教えられているのではという意見を書きました。その上で幸徳が無実の罪で死刑にされたのはもちろん無視するべき内容ではないものの、事件全体の事実は大きく取り上げられずこの一点のみ語られるというのも歴史教育として如何なものかと簡単に問題提起しました。
 
 この大逆事件に限らず現在日本の中学、高校で教えられている日本史教育では何故か政弾圧事例がまるで特別扱いされているかのように大きく取り上げられているように私には思えます。具体例を挙げると甘粕正彦が出てくる大杉事件、それとこれはどちらかというと叩いたのは世論ですが日露戦争時の与謝野晶子などで、特に後者は有名な「君死にたまふことなかれ」の短歌が反戦的だと言われたと、実際に反戦を主張した内村鑑三と共に大きく取り上げられています。しかしこの件、与謝野は過去の日清戦争時に「日本ガンバレ!」というような好戦的な短歌を残しており、この日露戦争時の短歌はただ単に弟の身を案じたら反戦的だとして思われ叩かれたのが実情で、彼女自身は全く反戦的な思想はなかったとみられるのに反戦の象徴みたいに現代の歴史教育で教えるのは如何なものかと前から思っています。
 
 本題に戻りますが、現代、というよりは戦後の日本史教育は近現代史において「弾圧」と「反戦」がキーワードというくらいやけに強調した教え方がされている気がします。その強調ぶりはやや度を越しており先程の大逆事件、や与謝野晶子などのように事実関係を誤認させてしまうのではないかと疑うくらいに見えます。それこそ、天皇を中心に歴史人物をどれだけ皇室に貢献したか否かだけで評価していた戦前の皇国史観とおなじく公平な視点からとは言い難い歴史の見方で、何故こうも弾圧が取り上げられるのか、可能性として私が真っ先に疑っているのは日教組の影響です。
 
 日教組についての説明は省きますが戦後の教育、特に道徳や歴史において日教組が果たした影響は大きく、彼らの概念が色濃く反映された教育が戦後長きにわたって実施されていたと言われています。分水嶺となったのは2001年に「新しい教科書をつくる会」が教科書を発行した時でそれ以降からこうした流れに反発する声も強くなってきましたが、それにしたってなんで弾圧をことさら引き立てて教えていたのか気になります。
 
 ここから私の妄想というか仮説になりますが、日教組、というよりあまりこの言葉を使いたくはないのですが「左派」とされる人たちは、弾圧されたという事実でしか自分たちの正当性を説明することが出来なかったからでは、という答えにつきました。本当にあくまで私個人の見方ですが、全共闘の連中や社会主義を信奉する政治家たちの話を聞いていると如何に自分たちが公権力によって妨害されてきたか、警察に邪魔されてきたか、資本家に搾取されてきたかなどとやたら受けてきたとされる被害ばかり主張しているのに対し、自分たちの政治信条や行動が何故正しいのか論理だった説明がとんと聞こえてきません。全共闘の連中に至っては明らかに論理が破綻しているし。
 私が何を言いたいのかというと、彼らは自分たちが正しいと信じる理由を持っていなかった、だから「(悪人である)政府から弾圧されるのは自分たちが正しいからだ」という結論に至り、弾圧こそが自分たちの正当性を証明する手段だという風に考えたのではと、勝手ながら思った次第です。
 
 この点についてはまた次回に詳しく書きますが、こうした被害者じみた思想を持ったことから弾圧事例についてやたらと日教組が持ち上げて来たのではないかという風に考えました。よく戦後の歴史教育については戦前の「皇国史観」に対し「自虐史観」と言われますが、そのキーワードの根本を辿ると、「弾圧とは、受けることに価値がある」という面もあるのではないかと思い、我ながら妄想を膨らましているというわけです。

2014年8月23日土曜日

運送会社のロゴマーク

 昨夜友人と話をしている際、ふとしたことから運送会社のロゴマークについて盛り上がりました。日本の運送会社は多くの会社でロゴマークに動物をモチーフに用いており、業界大手のクロネコヤマトでは「母猫が子猫を運ぶように丁寧に荷物を届ける」というスローガンのもとに猫を使っていることは一部で有名です。クロネコヤマトだけでなく引越し物流の会社ではアリやゾウなど、どちらも力自慢の動物(虫)をモチーフに使っており、引越しという大荷物を運ぶという業務にマッチした選択だなと私も評価しております。このほかペリカン便も、よく童話とかでペリカンが郵便配達をする絵が描かれているのでこれも納得できるモチーフです。
 このように多くの会社で動物ちうか生物をロゴマークに使用している中、佐川急便だけが何故か飛脚の人間をモチーフに使ってます。確かに飛脚なんだから業務とほど遠いモチーフではないもののほかの会社の多くは動物使ってる中でなんでここだけ人間なんだろうと友人と話してたらふと、
 
「佐川は人間(=従業員)を動物だと思ってるからじゃないか?」
 
 と、我ながらナイスな仮説を口にしたところ、友人がえらくツボにはまって明日の記事にのっけようと盛り上がったわけです。
 一応書いておくと、私は佐川急便に不快だと思う対応をされたことは全くと言ってありません。しかしネットで見ているとこの会社だけはやたらと不評、不満が多く散見され、対照的にヤマト運輸はやっぱり安心できる、対応がいいのでAmazonの配達に指定できないかなんて話もよく見かけます。
 まぁ佐川のドライバーや配送所のアルバイトは激務で有名ですし、あながち私の仮説の間違っていないのかな、ロゴマークだけでも案外その会社の性格ってわかるもんだななんていう気がします。