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2014年9月6日土曜日

朝日新聞の池上氏コラム問題について

 すでに各所で報じられているので説明する必要がないでしょうが、ジャーナリストの池上彰氏が朝日新聞紙上で連載していたコラムにて朝日新聞の従軍慰安婦記事が誤った事実を根拠に書かれていたと朝日自身が認めたことについて、誤報を流したことを正式に謝罪すべきではないかと書いたところ修正を求められ、掲載が見送られたという事実が池上氏自身の口から明かされました。記事掲載の見送りについては朝日新聞も認め、またその後に激しい批判にさらされたことから一転して掲載見送りは誤った判断だったとして掲載すると発表し直しました。
 今回の朝日新聞の対応について私個人の意見を述べると、やっぱこの会社って責任とかが緩いなぁなんて思います。共同通信なら担当編集長が間違いなく解任くらうのに。

 今回の掲載見送り判断のどこが問題なのかというと、単純に朝日が日頃から批判している「検閲」そのものを自身でやってのけたという点に尽きるでしょう。池上氏のコラムの内容は朝日にとって耳に痛い批判そのもので、そうした批判文などを意図的に載せようとしないのは戦前の日本と何も変わらず、こんなことしでかしておきながらどうにかなると判断した人間の頭はきっときれいなお花畑が広がっているかと思います。
 折しも、週刊文春など週刊誌数誌がまさに同じ従軍慰安婦誤報関連の記事を載せた号の広告を朝日新聞に載せようとしたところ、朝日は広告の掲載を認めないと拒否し、最終的には該当記事の見出しを黒塗りにする、これまた戦前、というよりは戦後ですが、検閲そのものという荒業をやって広告掲載を認めています。あまりこの週刊誌の広告問題と絡めて報じるメディアはまだ見ないですが、全く同じベクトルの問題だというのに池上氏には謝って、週刊誌には謝らないというのは報道機関、というより普通の人間の神経からしてどうかといったところでしょう。

 もっともこの問題はほかでも言われている通りに、当事者が池上氏だったからこそ朝日は対応を変えたと見て間違いないでしょう。仮にほかの人、それほど有名でなかったり、連載を中断するというような骨のある人間じゃなかったら黙殺して、そのまま知らぬ存ぜぬで無視していたと思います。今回の逆転劇も世間の批判が予想以上に大きかったからで、こういってはなんですが「都合の悪い内容は無視して載せない」という点については何も反省していないだろうし、近いうちにまた同じことをやらかすと私は予想します。古い話ですが、まだフジサンケイグループはホリエモンのニッポン放送買収事件の際は身内の出来事ながら逐一自分とこのメディアでも報じていた分、しっかりやっていたなと改めて感じます。

 問題の発端である従軍慰安婦誤報問題についてですが、事実概要についてはちょっとあれだけどこばやしよしのり氏の漫画「ゴーマニズム宣言」が比較的わかりやすく解説されていると思います。ちょこっとだけ説明すると、朝日新聞や韓国政府が従軍慰安婦が存在していた根拠とする本があるのですが、その本は全くのでたらめで、書中にある部隊名や命令書の番号などどれもこれもいい加減で作者本人も後で嘘書いたと認めているくらいです。それが今回の誤報問題の根源なのですが、最初に従軍慰安婦問題が持ち上がった頃と比べて現在はネットでの伝播力というものは高まっており、今とは時代が明らかに異なっております。

 何が言いたいのかというと、恐らくこの問題はまだまだ続くだろうし、朝日も同じような検閲を続けるでしょうし、変に長引くことによって部数もどんどん減っていくのではと私には思えます。ただでさえ新聞業界は不況だというのに、今後は明確な意思の下で購読を拒否する層が出てくるのではないかと思えるのに対し、朝日新聞側は未だにそれなりの緊張感というか危機感を呆れるくらい持っていないなという風に見えます。

 なお先ほど誉めたフジサンケイグループですが、フジテレビの韓流偏向について批判デモが行われた際は今回の朝日新聞同様に見事黙殺にかかってきました。結果はというとその後フジテレビはじりじりと視聴率を落としていき、韓流番組がすっかり減少した現在においてもかつての栄光どこ吹く風というくらいに丁重な視聴率順位に甘んじています。デモ当時にあのデモは韓国に対する排外主義的なデモだと批判する声もありましたが、今となってみると偽らざる単純な視聴者の声だったものではないかと思え、フジテレビは明らかに対応を誤ったなと考えてます。それにしても、フジテレビは韓流ゴリ押しだったのに同じグループの産経新聞は韓国大統領に因縁つけられるって面白い関係だなぁ。

2014年9月4日木曜日

後輩に行った講義

 先日、私の後輩が自分が「上海人とほかの中国人」の記事で書いたような内容を本社への報告として書きたいから、この記事にちょっと出てくる管仲の「衣食足りて礼節を知る」という格言のエピソードについて講義してほしいと依頼をしてきました。文書で送るのも面倒だったのでそのまま電話で簡単な解説を行った上で、
 
「ちなみに論語で孔子は、『金持ちで優しくなるのは簡単だが、貧しいのに優しくなるのは難しい』という言葉を残している。この言葉も『衣食足りて礼節を知る』につながる内容だと思う」
 
 と付け加えました。更にその上で、
 
「ちなみに『艦隊これくしょん』というゲームで戦艦大和は大鑑巨砲主義の申し子ということで巨乳に描かれている。作った奴はよくわかっている」
 
 と付け加えました。会社の報告書にこれも書いたらと後輩に言ったら、「上司にマジギレされる」といって拒否されました。後輩の会社では「艦隊これくしょん」は流行ってないそうです。
 
 なお実は私もこの「艦隊これくしょん」は遊んだことがありません。しかしネットで見ていると非常に流行っているようだし関連グッズも好調なようですからちょっと無視し辛いかなと思いつつ、ウェブブラウザで遊ぶゲームという性格から中国ではおいそれと触れられないというのが痛い所です。仮に遊ぶ機会があるなら私が一番好きな空母の「瑞鶴」を延々と使うことになると思え、もうこの際だから「永遠の瑞鶴」みたいな小説でも書いてみようかななどと密かに計画中です。マジでやったら百田尚樹氏に怒られるだろうな。
 ただこの「艦隊これくしょん」ですが、キャラクターとなる女の子のイラストを見ていて最近気が付いたのですが、かなりアレンジされてはいるものの基本的に和装をしているのが地味に大きな特徴ではないかと思えてきました。改めて眺めていると和服にこれほどバリエーションがあるのかと気づかされると共に、見ていて文化的なインスピレーションも受けるし見栄えも悪くないんだから、多少崩すというかアレンジを加えてもいいのでもっと日本人は和服を着てもいいんじゃないか、かえってそのほうが多様性を広げられるんじゃないかとこの頃よく思います。
 
 もっとも和装といってもこれは女の子が着るから価値があるのであって、男が衣冠束帯や鎧武者姿で街中にでも繰り出そうものなら周辺の要注意人物としてピックアップされるのがオチでしょう。以前に外語大出身者から聞いた話ですが、日本の着物といい韓国のチマチョゴリといい、伝統的衣装というのはどの国でも女性がそれを守る、保持する立場に置かれる傾向があるそうです。中国の旗包ことチャイナドレスにも言えることかな。
 なんで女性ばかりで男は伝統衣装着ちゃだめなのか、また伝統衣装を男も守るべきだという声が出てこないのは改めて考えると不思議です。成人式でも女の子は着物を着るのが普通ですが男が羽織袴だと暴れる新成人みたいに見られるため、やっぱスーツ姿に納められてます。もっともそんなこと言いながら自分は成人式の日、京都から実家帰るんだからといって京都の土産物屋で新撰組の羽織買った上にレンタルで袴借りて、ちゃんと「誠」の鉢巻締めて会場に繰り出しております。ほかの奴らは知らんが自分は伝統を守ったぞ等と周りに言ってましたが、「コスプレ会場と間違っただけやろ」とツッコまれてしまいました。

2014年9月2日火曜日

やる気のある無能

 号泣県議ですっかり全国から注目されるようになった兵庫県議会ですが、また新たなタレントが今日ニュースに出てきました。

 詳細はもうここでは説明しないのでリンク先を見てもらいたいのですが、つくづくなんでこんなに問題のある人間が曲がりなりにも議員になって公費から給与もらってるんだよとため息しか出てきません。もっとも明るみに出ているのは本当にごく一部で、政務調査費を始め全国津々浦々の自治体では呆れるような現状が続いているとよく耳にします。以前にも一度記事を書いていますが、国会議員の質以前に地方議会の方が今の日本にとって問題で、地方議会の腐敗が著しいからまともな政治家が育たないんだというのが私の持論です。

 そのように問題の数多い地方議員ですが、例の号泣議員といいこのスピード違反違反議員といい、一体なんでこんな人間性からして問題のある人物が議員になるんだという疑問が前からあります。一番大きな原因は地方議会選挙は日々の報道では大きく取り扱われることがないため有権者も誰がどのような人物で有能であるかどうか全く分からないまま投票が行われてしまい、結局組織票を持つ人間が強くなる傾向があることに間違いないでしょう。第二の理由としては地方議会は東京都議会など一部を除くと立候補者が少なく、私が以前ざらっと見た感じだと定員8人に対して立候補者は9人だけというような、ほとんどの選挙で当選率が80%以上という、どっちかと言えば「誰を落とすか」のような除名選挙になっていることも大きいでしょう。

 そうした選挙上の問題と並んでこのところ思うこととして、やっぱこういう地方議会って「やる気のある無能」ほど出たがるというのもあるかもしれないと思えてきました。この「やる気のある無能」というのは元外交官である佐藤優氏の著作に出てくる言葉で、上司の東郷和彦氏との会話で、「外務省には3タイプの人間がいる。やる気のある優秀な人間とやる気のない無能、そしてやる気のある無能だが、最も害が大きいのはやる気のある無能だ」と語られ、そっからは如何に外務省職員が問題あるかとこき下ろしタイムが始まります。

 佐藤氏の話は外務省内だけの世界ですが、実際には私はこの「やる気のある無能」は社会のあちこちに存在して文字通り毒をばらまいていると密かに見ています。やる気のある無能の何が問題なのかというと先程の佐藤氏の著作では、「やる気のない無能は仕事はできないが前に出ないから毒はない。だがやる気のある無能は仕事が出来ないのに妙な功名心を働かせて前に出てきて、問題をこじらせるだけこじらせて現場から逃げ出そうとする」と書かれてあり、私も首を深くうなずかされる意見に思えます。

 言わずもがなですが例の号泣議員などは典型的な「やる気のある無能」で、とりあえず情熱あるのはわかるが自分じゃ何もできないばかりか最低限のモラルすらもっていないどうしようもない人間でした。そんな人間がどうして議員になれたのかというとやっぱり「やる気」だけは十分にあって、何度落選してもあきらめずに選挙に出続けたことに尽きます。仮に野々村元議員と同じくらいモラルの低い人間がいたとしても、やる気が無く選挙に出たりしなければここまで余計なことはしでかさなかったと言えるでしょう。

 そして野々村議員に限るわけでなく、議員というか政治家というのはある意味自己主張の塊のような人間しかなれないということもあり、この手の「やる気のある無能」は未だ数多く存在していると思うし、中にはもっと問題のある人間もいるかもしれません。そうした人間を排除するためにはどうすればいいかですが、やはり選挙で引きずり落とす、引きずり落とすためには何をすればいいか、情報公開を進めるしかないというのが自分の考えです。もちろんやろうったって簡単にはできないもんですが。

 ちょっと政治家から離れますが以前に女性の同僚が、どうして日本の企業で女性は出世が阻まれるのかと問われた際、妙な答え方をしたことがあります。その答えとは以下のような回答です。


「自分はまだ直接会ったりしたことないですが、なんか親父や友人の話を聞いていると管理職になる女性というのはほとんどが際物というか性格的にも能力的にも歪な人が多いそうです。なんで歪なのに管理職になるのかというと変に上昇志向があって他人を踏み台にしたりすることもいとわず出世を求めるからなんだかんだ言いつつ上がってきちゃうと聞きます。
 もちろん男にだってこういう歪なまま上がってくるのはいるでしょうが、女性の場合は日本社会の偏見もあってただでさえ出世し辛い環境にあるので特に歪な女性に限って管理職になる、でもってそんな女性管理職を見てほかの男はやっぱり女性に管理職は向かないなどと思って余計に偏見が強まり、ループになってるのかもしれません。このループから抜け出すには、やる気はそこまでなくてもまともで優秀な女性をちゃんと上司が引き上げることに尽きるのですが、まぁそれはいつになることやら」


 日本人、というよりは日本社会はなんでもかんでも「やる気は大事」、「ガッツは常に見せないと」なんてほざく人間が多いですが、私は上記のような理由からやる気というのはあればあるほどいいってもんじゃないと考えてますし、実際にそう公言しています。真に必要なのは能力とそれに見合った地位と仕事であって、やる気があるからといって無能に大事を任せるもんだから戦争でも負けたんだ(by陸軍)と普通に話すので、多分周囲の人間からは変に冷めてていけ好かない奴だと思われてたかもしれません。まぁこの前久々に会った後輩からは、「いや、花園さんはとてもクールではなく、めちゃ熱くて攻撃的過ぎるじゃないですか」とツッコまれ、これはこれで問題あるようなとちょっと反省した限りです。

中国の人民解放軍とは

 後輩からリクエストを受けたので、前にもちょこちょこ書いてると思うけど中国の人民解放軍について素人ながら知ってることを書いてきます。
 
 人民解放軍とは言うまでもなく中国における唯一の軍隊ではあるのですが、厳密に言えば中国という国家が保有する軍ではなく、あくまで中国共産党が私的に保有する軍隊です。この辺日本人の感覚からしたらわかり辛いと思うのですが、日本は国家政府が最高の権力組織で自民党とか民主党など政党はその政府機能を代弁する下部組織であるのに対し、中国は共産党の方が組織権力として政府より上で、たとえ政府がAだといっても共産党がBだといったらBが正しくなる形態をとっております。なもんだから人民解放軍も中国の国家としての法律には縛られず共産党としての綱紀によって縛られる軍隊ということになります。もっとも近年は中国国内でも解釈の見直しが進んできており、事実上「国家としての軍」への看板の掛け直しが進んでいますが。
 
 それで肝心要の軍事力、というかどれだけ人民解放軍は強いのかですが、あくまでやや中国滞在歴がある素人としての意見を述べると、他国の軍隊と比べても非常にレベルが低いというのが現状だと思います。総兵力こそ約220万人で兵士の数だけ見れば間違いなく世界トップでしょうが兵士の練度は中国国内においてもそれほど高くないとの見方がされており、また兵器に関しても旧西側諸国から武器輸出に関してはしっかりマークされているためあまりおぼつかず、自主開発を余儀なくされているため貧弱さが否めません。特に致命的なのは艦船で、最近でこそ遼寧級と呼ばれる空母(ロシアのお下がり)を初めて保有するなど拡充を進めていますが、それでも兵装は古いとしか言えず、また空母に対する離着艦も訓練時間が他国のパイロットと比べて格段に劣ると見られています。
 
 かなり身も蓋もなく批判していますがこれらは以前に読んだ評論の受け売りなのですが、その評論の末尾においては、「人民解放軍こそ自衛隊だ(対外戦闘能力がない)」と締めくくられており、これには私もその通りだと感じます。実際、自衛隊みたいに災害救助などの活動や訓練はまだそれほど多くないし、あと皮肉なことだけど外国相手にするより国内の自国民の暴動を相手にしている数の方が履歴としても多いような気がする。
 
 ただ人民解放軍に優れた点が全くないわけでもなく、長所と呼べる点として真っ先に挙がるのはミサイル発射能力です。なんだかんだ言いながらロケットでの有人宇宙飛行も実現しているだけあってミサイル技術は米国やロシアなどに次ぐ水準にはあると思えますし、また曲がりなりにも核兵器も持っているのでこの点は脅威と見ても間違いありません。もっとも大陸間弾道ミサイル(ICBM)に核弾頭を載せられるかという点についてはまだ怪しく、米軍と一線構えるには角飛車落ちといったところでしょう。
 もう一つ私が地味に注目しているのはサイバー部隊です。中国は自国内でも政府が徹底的なネット監視を行っていますが、人民解放軍内にもハッキングやクラッキングを専門とするサイバー部隊が存在するとよく聞きます。以前にも書きますが次代の戦争においては開戦当初にまずどれだけ相手の通信網を破壊、妨害できるかが重要になると見られ、それこそスパイ衛星の破壊を含めて情報インフラを物理的にもソフト的にどれだけ破壊するかが大事です。そう考えると専門のサイバー部隊を軍隊が保有するというのは理に適っており、この点は日本の自衛隊も参考にした方がいいような気がします。
 
 最後に仮に中国と日本の間で先端がひらいた場合はどうなるかですが、私の見方だとやっぱり自衛隊に分がある気がします。日本は米軍に次ぐ世界第二位の海上軍事力を持つ国であり、なおかつ戦闘機などの装備の面で米軍からいろいろ融通を受けています(高値で吹っかけられてるが)。日本は地理上、本州に上陸された時点でほぼ敗北確定なので戦闘は日本海、もしくは朝鮮半島がメインとなるでしょうが、海上での戦闘であれば今の人民解放軍にまず負けないでしょうし、専守防衛といいつつさりげなく自衛隊は強襲上陸艇とかもあるので離島戦でもそこまで引けを取らないでしょう。
 そして何より、というかこの一点だけで勝敗を見てもいいくらいなのですが、中国において致命的なのは石油備蓄量が致命的なまでに少ないということです。日本は一日当たりの平均使用量の約六か月分の石油を常に備蓄しており、有事の際に極端に使用量が増えたとしても二ヶ月くらいなら全力で戦えると思います。それに対して中国の備蓄量はなんと約一ヶ月分しかなく、もし有事となれば国土も人口も桁違いに大きい分、あっという間に民生用の石油すら枯渇して戦闘どころではなくなるでしょう。この備蓄量の少なさに関しては中国国内でも弱点だと指摘されており、「俺たちももっと日本を見習って備蓄量増やそうぜ」という意見を前に中国紙で私も見ています。
 
 最後にといいつつもう一言。これも大分以前に書いた内容ですが日本人の自衛隊に対する印象としては現在、「好感を持っている」が確実に過半数を超えることでしょう。これは数多くの災害派遣で立派な実績を残しており、防衛の為というより災害対策として自衛隊に期待する意識が高く、その信頼度は下手すりゃ政府より高いかもしれません。
 それに対して人民解放軍ですが、一般の中国人からの信頼はほぼないと言っても過言じゃありません。人民解放軍はろくでなしの行きつく先だと普通に述べられており、また裏金などといった汚職も絶えず、普段威張っている癖に災害時の救助では全く役に立たないと散々の評判です。さすがにここまではっきりとは言わないけど、自国民を束縛することの方が多いと中国人も暗にわかっているのかもしれません。

2014年8月30日土曜日

罵り合う良好な日中関係

 相互リンクをしているおでこさんが「プーチン大統領訪日問題と誅韓論」という興味深い記事を書いているので、自分も乗っかってちょっと砕けた国際政治の話でも書こうと思います。
 
 先におでこさんの記事についてちょこっと書くと、東アジアの地政学というのは日中露の三ヶ国が事実上のプレイヤーであって、この地域における唯一の変数というのは実は朝鮮だという、「誅韓論」の記述を引用しています。この主張はなるほどと思うと同時に、事実日清、日露戦争はこの朝鮮(+満州)を巡る三ヶ国の争いだったというのが真相だと思います。逆に言えば変数である朝鮮はパートナーをある程度選ぶ立場にあってどこにつくかを多少は決められる存在なのですが、日中露の三ヶ国はそれぞれほかの二ヶ国のうちどちらかと手を組むということはそれぞれがプレイヤーであるためあまり考えられないという風にも解釈できます。三国志であれば呉と蜀が連合して魏に向かうことがありますが、現在の日中露においてはそれぞれがそれぞれの間で三者三様の緊張感を持っているため「二対一」みたいな構造にはなりにくいと私見ながら覚えます。
 
 ここで話は変わりますが、現在の日中関係について良好であるか険悪であるかを問うならば、日本、中国の両方で「険悪だ」と答える市民が多数を占めると思います。しかし私の意見は実は違って、日中というのは逆説的ではあるものの今、非常に良好な関係にあると考えています。何も奇をてらってこんなことを言ってるつもりではなく、私は今の日中関係を「お互いに罵り合える関係」だと捉えており、先ほど挙げたように地政学上、どうしても対立の火種を持たざるを得ない両国としては言いたいことを言い合える現在のような状態がある意味で最も良好だといえるのではないかと考えるからです。
 
 現在ネットの掲示板を見ていると常にどこかしらで中国を批判する内容が必ず見られると思います。一方中国の方でも日本批判ネタは事欠かず、公共の電波では半日ドラマがほぼ毎日放送されているくらいです。これのどこが良好な関係だと言えるのかと思いますが、もう一つの東アジアのプレイヤーであるロシアに対する日本、中国の態度を考えてみてください。こういってはなんですがロシアの戦闘機が国境線を多少侵犯しても日本は中国がやった時ほどの強烈な拒否反応を見せないと思います。それはロシアに対して日本が信頼感を持っているからではなく、下手なこと言ったらどうなるかわからないからというのが実情でしょう。最近のウクライナ情勢を見てもわかるようにロシアというのは古来より、常識が通じないどころではなく有り得ないことを平気でやってくるところがあり、昔の中国の言葉でいう「虎狼の国」というのが一番しっくりきます。
 
 こうしたロシアの性格については断言してもいいですが、日本以上に中国の方がよく理解しています。国境線の画定こそ果たしているものの中国は陸地でロシアと接しているだけにその危機感というか恐怖感は日本と比べても半端ないほど高く持っており、日露間の北方領土問題に関しても非常に敏感で何か動きがあれば逐一が中国紙に載るくらいです。なもんだから中国も日本と同じように、ロシアがウクライナとか中露国境で何か変なことをしても日本の時とは違ってあまり文句を言いません。何しろ怖いからでしょう
 
 そんなロシアに対する態度と比べるなら、割と日中は何か問題があると政府間、市民間で激しく罵り合いの応酬を繰り返し、それでもしばらくすればまた元通りに経済交流や国交を保つんだから良好、というよりロシアに比べればまだ健全なように見えます。また日本と中国がそれほど罵り合いという接触がほとんどなかった1990年代と比べると、確かに争いの種というか抱える諸問題は増えてはいますが、お互いに罵り合いつつなんだかんだ言いながら双方の国民性なり文化なりで理解が進んできたようにも見えます。最近ではそうした文化を理解しあった自虐ネタもネット上で見られるようになり、たとえば中国なら食品や製品が日本で問題起こすと、「日本人はもっと中国製に気を付けるべきだ」と中国人が言ったり、また日本の変なアニメや漫画が中国で流行ると、「中国の子供がこんな変なアニメや漫画ばっかり見てたら立派な大人にはなれない」と日本人が言ったりなどと。少なくとも、何にも接触無いよりはこうやって他愛ない話題で罵り合ってる方が理解は進むんじゃないかな。
 
 最後にこれは私の想像の話ですが、仮に日中が蜜月といえるような関係というのはどういう状態なのか、やっぱお互いに賞賛し合ったりするのかなとちょっと考えてみたところ、
 
日本「いやぁさすが中国さん。私の様な小日本ではとてもとても……」
中国「いえいえ日本さん。そちらこそいつも見事なお手前ではないですか」
 
 というような会話を交わし合ったりするのかなと想像した所で、「日中でこんな会話されたら激しく気持ち悪い、というか絶対こいつら裏心があるだろ」と思え、やっぱあーだこーだと文句言い合ってる方が日中のあるべき姿だと感じた次第です。

2014年8月29日金曜日

徐福の出港地はどこだ?

 昨日何気なくKindleストアを除いたら半藤一利氏の「日本のいちばん長い日(決定版) 運命の八月十五日」が月替わりセールで199円になっていたので、そのまますぐに購入しました。前から欲しい本だったのですが8月のこの時期に安売りするなんてなかなかアマゾンも気が利いてるじゃないかと感心する限りです。実体書店もこういう売り方とか考えりゃいいのに。
 
 そんなわけで本題に入りますが、先の記事で書いている通り私は先週、住んでいる江蘇省昆山市内にある千灯鎮という観光地に行ってきました。ここは古い街並みが残っている場所なのですがそこそこいいお寺と顧炎武という哲学者の旧居もあってそんなに悪い印象を覚えなかったのですが、いくつかある史跡の中で昆山市の歴史についてパネル展示があり、その中に「昆山市も徐福の出港地候補の一つだ!」と書かれてあって即記事にしようと思い立ちました。
 
徐福(Wikipedia)
 
 徐福というのは名前までは覚えていないもののやったことを聞けば思い出す人も多いかと思います。
 こいつがどんな奴かというと、初めて中国で統一王朝を作った始皇帝にすり寄ってきた道士で、「船で東方に行けば蓬莱山という島があり、そこで不老不死になる薬が手に入りますよ」と騙し、まんまと始皇帝に大船団を用意させそのまま船団を率いてとんずらこいたという、ある意味中国史上で最も有名な詐欺師です。今も昔も中国は詐欺師が多いとか思っちゃだめですよ、もっとも現代中国人もそれほど強く否定しないと思うが。
 
 この徐福という人物が出港後にどうなったかについてはさまざまな伝承があり、我らが日本も各地で「徐福に関連した伝承がある」などと主張しては最後に徐福が来たのは日本だと主張する地域が数多くあります。朝鮮半島でも同じような主張がありますが、確かに中国から東となると日本か朝鮮しかないので有り得ないこともないですが、案外東に行くと見せかけて中国大陸南方の、現在で言えば福建省とか広東省、もしくは台湾に一旦じゃないかと私は勝手に想像しています。
 
 話は戻りますが日本各地で「徐福は最後、うちにたどり着いたんだ!」という主張が出ているように、中国でも各地で「徐福はうちの所から出向したんだ!」という主張がなされ、軽い歴史議論になっているようです。先程書いたように江蘇省昆山市も名乗りを上げているうちの一つで、大体山東省から浙江省の海岸沿いにかけて十都市くらいが出張地だと主張して、有力候補となっているのは河北省秦皇島、浙江省慈渓市だとウィキペディアに書かれています。
 この出港地に関する論争ですが、パッと見で日本の邪馬台国論争を思い出しました。最近では近畿説でほぼ固まりつつありますが日本で最も熱かった歴史論争というと「邪馬台国はどこにあったのか」で、ちょっと意味合いは違うかもしれませんがこの出港地を争う論争も同じような土台であることから論争していてなかなか面白いんじゃないかななんて思った次第です。
 
 最後にまたウィキペディアからの引用となってしまうのですが、なんでも宋の時代の詩人が書いた本には、「徐福は手先の器用な人間を選抜して日本に渡ったため、その子孫足る日本人たちは手先が器用で作られる道具はどれも精工だという」という話が乗っかっているそうです。本当かどうか知らないけど、メイドインチャイナとメイドインジャパンを比べるとなんだか案外当たってるようなとも思える辺り不思議です。

2014年8月28日木曜日

「弾圧」を自己正当化理由にする人々

 前回の「弾圧事例が協調される現代の歴史」という記事で私は、現代の日本史教育において明治以降の分野ではややもすると異常なぐらいに政府による弾圧事件が強調化されて教えられており、一部においては実際の歴史事実を誤認させるくらいなまでに過剰であると私は主張しました。その上でどうしてこれほどまでに「弾圧」事例が強調されてきたのか、背景にいるのはやっぱり日教組じゃないかと推定し、また何故日教組は弾圧事例を持ち上げたのかというと、日教組を含む社会主義陣営の連中は政府に弾圧されたという事実でしか自分たちの主義主張を正当化することが出来なかったからではないかという仮説をぶち上げました。今日はこの仮説内容の説明と共にその根拠を提唱することにします。書く前からなんだけど非常に気が重い、ってか普通に社会学の卒業論文とかにも使える内容だぞこれ。

 まずなんでこんな仮説を私が思いついたのかというと、久々に大逆事件の内容をネットで読み返していて、改めて何故事件の詳細よりも幸徳秋水が処刑された点ばかり強調されるのだろうと違和感を覚えたところから始まります。この時点で日教組や社会主義思想の連中はやたらと弾圧されたという事実を持ち上げるなと思えてきて、もう少し深く考えてみると弾圧されたという事実でもって自分たちの主義主張が正しいなどと言ってた連中も多かったのでは、っというかそれ以外で何故自分たちが正しいのか全く説明していないぞ……という具合に思い当たり、最後にフェスティンガーさんを思い出して結論にたどり着きました。

 最初に断言しますが、中にはまともな人もいたとは思うものの、戦後以降における日本の社会主義者の大半は何故自分たちの行動や主義主張が正しいのか、その理由をきちんとわかりやすく説明できた人間は全くいなかったと言ってもいいです。建前には貧富の差のない平等な社会の実現を掲げていますが、前に私が書いたように共産主義と社会主義の違いも曖昧だったように見えるし、政権奪取後にどうすればそのような社会が実現するのかという手段に関する構想については全く以ってノーコメントという体たらく。挙句に、革命のために警官をゲリラ戦で殺す事が必要だとか真面目に言ってて、警官殺して革命起こるならドンだけ楽なんだよと聞いてて呆れる限りです。

 話は戻りますがこうした支離滅裂な論法を繰り返していた社会主義団体やら思想者が何故革命を起こさなければならないのか、何故政府を打倒する必要があるのか、この辺りの説明として、「政府が自分たちを弾圧したからだ」という内容ばかりを繰り返しており、弾圧事例というか身内に逮捕者が出る度に妙な盛り上がりを見せていました。いくつか例を挙げると安保闘争の樺美智子とか、赤軍派の逮捕者が出た事件などですが、こうした死者や逮捕者は文字通り神格化され、「あの犠牲を無駄にするな!」なんてその後の活動理由にかこつけられます。私見ですが、活動してれば犠牲者が出るのは当たり前だというのになんか不毛なようにも見えます。

 このようにややもすれば被害者意識の強い思想というか考え方を社会主義陣営の人間はどうして持っていったのか、私なりに分析すると最初に挙げたフェスティンガーという社会心理学者が唱えた「認知的不協和」という現象が起きたのではと考えています。この認知的不協和とは何かですが本気で説明したら本一冊書けるので簡単な具体例を挙げると、イソップ童話の「酸っぱいブドウ」です。このお話は木の上に実ったブドウを狐が食べようとするものの手が届かず、最終的に狐は「あのブドウは酸っぱくて食べられないに違いない」と自己完結してブドウをあきらめます。

 認知的不協和とはこのように、願望(=ブドウ食べたい)に対して現実が実現しない、一致しない(=手が届かない)場合、自分でコントロールが出来る願望というか意識の方を、「ブドウ食べたい⇒ブドウは酸っぱくて食べられないに違いない」という具合に変化させることで納得させ自己完結させる心理的な動きを指しています。これは日常生活で探しても数多く散見される心理で、スポーツが上手くいかなかったら「きっと自分は初めからこの運動に向いていないんだ」と思ったり、宝くじが外れたら「大金を得たら人間駄目になる」と思いこんだりする心理も当てはまるでしょう。
 この認知的不協和が何故社会主義陣営の弾圧に対する意識に関係するのかというと、彼らの活動理由が徐々に変遷していくようにみられるからです。恐らく大半の活動家は建前通りに「平等な社会」とやらをなんとなくいいなとか思って目指したかと思います。しかしそれがどうすれば実現するのか、何をやってけばいいのかは完全に置いてきぼりでとりあえず運動を開始します。

 しかし社会主義というのは基本、政府を転覆させることがまず第一歩(大半の活動家は恐らくここすら理解してなかった気がする)ですから、運動でデモやったり大学封鎖したりすれば警察から妨害を受けるのも当たり前です。しかし活動家たちからすれば、自分たちは平等な社会を目指して活動している、世の中にいいことをやっているつもりなのに警察は不当に邪魔してくると考え、自分たちの信条(=願望)に対し警察の妨害(=現実)は納得がいきません。
 ここで、もしかしたら自分たちの活動の仕方、思想信条に問題があるかもと、ある意味で冷静に考えた人間は読売新聞の渡辺恒夫氏みたいに運動から離脱したことでしょう。しかしそうは思わなかった人間、自分たちが正しいこと前提で物を考えた人間は、警察が何故妨害するのかという理由を、「警察というのは絶対悪で、正しいことをする自分たちを妨害しようとする存在」だなんて考えたのかもしれません。こうした考えは更に発展していき、「警官&政府という絶対悪に助けられるのは悪。逆に弾圧されるということは自分たちが正しい証拠だ」と思い込んでったのではないかと私は推察します。

 非常に複雑な考え方なので簡単にまとめますけど、社会主義の活動家たちは最初は単純に平等な社会になればいいなんて考えで最初は動いてたと思います。しかし運動の過程で政府による警官から妨害を受けたことに納得いかず、「警官は悪、自分たちは正義!」なんて思い込み始め、終いには「悪い警官から妨害を受けるのは自分たちの活動が正しい証拠だ」とも考え始め、自分たちを正当化するための理由を平等な社会という理想ではなく、警官と戦う、もしくは警官から弾圧を受けるという方向に変化していったのでは、という風に私は考えているわけです。

 こう思う根拠はというと、全共闘の連中の話を聞いているとどうすれば平等な社会が実現できるのかという目的に対する手段についての議論がほとんど見られず、逆に自分たちがどれだけ搾取され虐げられているか、政府や警官とどう戦うか、どう反抗するかという話しばかり聞こえ、まるで初めから政府に楯突くこと、場合によっては被害を受けること自体が目的であるかのように見えるためです。そんな連中からすれば警察に逮捕されたり、殴られたりすることは一つの名誉で、「だからこそ自分は正しい」なんて根拠となるため、弾圧事例(自業自得を含め)が歴史教育でも大きく取り上げるようになっていったのではと思います。。

 非常にわかりにくいかと思いますが以上までが自分の仮説です。ただこの仮説は社会主義陣営に顕著である一方、案外日本全体にも蔓延している思想じゃないかと実は考えています。というのもある意味同じ穴のムジナかもしれませんが、一部の部落団体においてさも自分が差別を受けているかのように自作自演して変に差別撤廃を主張する事件が多発しているからです。この手の事件は量がめちゃくちゃ多いので比較的新しいのを一つリンク貼っておきます

立花町連続差別ハガキ事件(Wikipedia)

 こうした自作自演はなぜ起こるのかというと、日本全体に「弾圧されるのだから正しい」、「被害者は正義」なんて考えがなんかちょこっと背景にあるから起こるのでは、なんていう気がします。モンスターペアレントやクレーマーもそうですが、ほんの些細な損害事例やハンデでも、それさえあれば後は何したっていいような免罪符のような効果を持つと勘違いする人間がいるのも、「被害を受けるからこそ正しい」という、ある意味歴史教育の賜物みたいな影響もあるんじゃないかなと、さすがに検証はしませんがそんな風に疑ってます。

 以前からの友人に自分の意見を話すとよく、「それは極論だ」と注意されてきましたが、最近は後輩からも、「花園さん、それは極論ですよ」と注意されるようになってきて徐々に自省するようになってきました。なので今回のこの「弾圧」にテーマを取った一連の記事も多少妄想入っているかなとも思え、現時点で「絶対にこうだ!」なんて主張する気はさらさらなく、あくまで「こういう考えもあるよ」という仮説という形で紹介しております。
 しかし一歩だけ前に出ると、弾圧されること自体がもはや彼らの目的だったんじゃないかと考えた時、意味のない不毛な議論を過激派たちが繰り返していたという点や大逆事件の扱われ方の理由について、自分の中で一気に点と線がつながったような納得感が得られました。同時に、自業自得ともいえる弾圧事例に関してはもっと世論で「ざまーみろ」なんていった方が案外いいのではと思った次第です。

 下記ながらパズドラし始めたのもありますが、この記事は書いてて本当に疲れました。恐らく今年の記事で一番疲れた記事だろうな(ーー;)