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2014年10月8日水曜日

香港デモ報道に対する不満

 先日この話題で友人からコメントをブログで書くよう求められましたが、正直言ってあまり知識に自信がなかったため一旦見送りました。ただあまりにも今回の香港デモに関する日本の報道が拙いというか肝心な部分を伝えていないように思えるので、拙い知識であることを承知の上ですが黙っていることが出来ないので私なりに今議論されている問題の中身を解説します。
 
 まず今回の香港のデモが何故起こっているのかというと、突き詰めて言えば香港の行政トップを直接選挙で決めるよう制度改正するべきだと学生が主張したため起こったと言えます。彼ら香港の学生の主張をかいつまんで言うと、現在の選挙制度では香港行政トップこと「行政長官」に誰がなるかは中国本土政府の意向で決まってしまうため民意が反映されず、こうした状況はよくないし民主主義を貫くべきだと主張されています。
 
 では現在の香港における行政長官選挙はどのように行われているのか。ここが日本の報道を見ていて非常に腹立つ点なのですが、どのメディアも学生側の主張とデモの様子だけしか報道せず問題の根幹に当たるこの選挙制度については私が確認する限りだとどこも説明しておらず、恐らく香港事情に詳しい人間でなければ問題の本質がわからないままでしょう。
 はっきり言って香港の行政長官選挙は確かに説明する気が無くなるほど複雑でちょっとわかり辛いのですが、だからと言って逃げ出すわけにもいかないので今回私が解説することにします。なお私はちょうど今の梁振英が当選した行政長官選挙の投票が行われる直前の選挙期間中に香港で記者しており、当時の上司や毎日読んでた新聞からこの選挙制度の大まかな枠組みを学びました。
 
選挙委員会 (香港)(Wikipedia)
 
 香港の行政長官は国会議員の投票によって選出される日本の首相同様、間接選挙によって決まります。ではどんな人間が投票権を持つのかというと、上記リンク先にある「選挙委員会」というメンバーがそれに当たります。この選挙委員会ですが人数は1200人(ウィキペディア中では800人とあるがこれは恐らく間違い)で当たり前ですが香港住民しかなれません。
 では香港住民であれば誰でも立候補してなれるのかというとそうではなく、財界を筆頭とした各産業・社会団体ごとに委員会メンバーの枠があらかじめ決められており、実質的にそれらバックにいる団体の後押しなり推薦が無ければ委員会メンバーになることが出来ません。「遍く産業や組織の代表者らによって広く民意を汲みとる」と言えば聞こえはいいですが、メンバー枠は香港の主力産業である金融・不動産業界からの選出が多く、これらの業界の声が強く反映されるように仕向けられています。
 
 そうした産業・社会団体からの選出メンバーは、ちょっとこの辺の記憶があいまいですが確か選挙を経ずに団体からの推薦で決まったように思います(間違ってたらごめんなさい)。これで8割方のメンバーが決まり、残り2割方(この割合も曖昧)だけが「選挙委員会メンバー選挙」という香港住民による直接投票によって選出され、少ないですが一応選挙によって選ばれるメンバーもおります。
 なお私が香港にいた時はまさにこの選挙委員会メンバーを決める選挙が行われている最中で、香港って狭いからあちこちで訴える候補者を街中で見かけました。
 
 こうした過程を経て選挙委員会メンバーが決まりますが、一体どうして中国本土(=中華人民共和国)の政府の意向が行政長官選挙に強く反映されるのかというと、率直に言って経済的な要因が非常に強いです。というのも産業団体から選出されるメンバーはほぼ全員が香港を本拠に中国本土で事業を展開する企業家によって占められているため、仮に逆らおうものなら本土での事業拡大や継続に当たって中国当局から嫌がらせを受けることは必定で、中国政府の「意中の候補」に投票するよう息がかかっています。
 
 ざっとこんな選挙制度のため香港住民の民意より中国本土の意思が行政長官選挙に働きやすいため、今回学生らは直接選挙を求めてデモ活動を行ったわけです。ただ今回のデモですが最近の香港事情を詳しく調べていないからはっきりとは言えないものの、ここ一番の盛り上がりに欠けたのは、現行政長官の梁振英が致命的な政策失敗をしていないからじゃないかと勝手に見ています。
 確かに彼は就任当初に自宅を違法改築していたことがばれて自宅前を香港メディアによって24時間監視されたりもしましたが、だからと言って致命的なまでに無能な政治家というわけでもなく、何とはなしに穏便に事を運んできているため必ずしも選挙制度を変えなければならないという切迫感が香港住民の間で持たれたのか、私はこの点が疑問です。もっとも、完全に素人目線の勝手な予想ですが。
 
 ただ最初にも書いた通りこうした過程なり制度内容を日本のメディアでちゃんと解説しているところは思いのほか少なくて別な意味で驚きました。大手紙なら一人くらいは香港駐在員はいると思うのに(読売の人とは会ったことある)なんでこうした説明を誰も書かないのか、元職場だったら上司が香港長くて政治マニアだったからちゃんと書いてただろうな。

2014年10月7日火曜日

中国のサッカースーパーリーグ観戦

 日曜から今日の昼間まで上海市に滞在し、その間に友人と共に中国のスーパーリーグと呼ばれるサッカーのリーグ戦を見てきました。対戦カードは「上海上港集団VS山東魯能泰山」の組み合わせで、添付の写真は上海上港の応援席です。写真を見てもわかる通りに中国のサッカー応援でも基本は鳴物と旗を振るような形式の様で、ファンの熱狂ぶりなどを見ても日本と全く変わりがないように見えました。
 
 それで肝心の試合についてですが、生憎というか両チームノーゴールのスコアレスドローで個人的にちょっと残念ではあったものの、見ていて気が付いたこととして案外中国のサッカー選手の質は低くはないように見えました。ドリブルやシュートなど個人技においては目を見張る選手も何人か見られ、ややラフなプレイも多いのですがそうした体当たりにもよろめかずにプレイをこなす選手もおり、国際試合では日本や韓国にいつも負けていますが必ずしも弱いとは限らないという印象を覚えます。
 ただチーム全体でみるとレベルが低いとみられる点も多く、特にセットプレイはお世辞にも立派ではなく、両チームともにロングパスを多用した単調な攻めばかり行っており、個人技はともかくとして連係プレーにおいてはちょっと目も当てられません。逆を言えば素材が良い選手は比較的揃っているので、井伊監督が来て組織プレイをしっかり身に着けさせればグッと強くなるのではと感じます。
 
 ここでちょっと中国のサッカー事情について話をしますが、中国にはスーパーリーグと言って日本のJリーグに当たるプロチームによるリーグ戦が毎年行われております。各チームは企業がスポンサーとなって支援しており主な都市を根拠地にして活動しておりますが、その環境に関しては中国人ですら「ひどい」という言葉を使って評価します。
 何がひどいのかというと単純に腐敗行為が多く、裏金をもらっての八百長行為はもとより、監督やコーチが出場選手を恣意的に決めるため、選手たちはどれだけ才能と実力があっても必ずしも試合に出してもらえるわけでなく、監督やコーチに対して試合に出場するための「運動費」の供出を強制されるうことも日常茶飯事です。そのため競技人口は中国らしく半端なく多いのですが、あまりにも問題が多くていい選手が育たないという悪環境にあるというわけです。
 
 逆を言えばこうした腐敗を一掃した上で先進的なサッカーを理解する指導者が中国のチームを見るのであれば、そこそこ個人技を持っている選手もいることですし、今後急激に強くなる可能性もあるのではないかと思います。以前に日本の代表チーム監督を務めた岡田武史氏が浙江省杭州市にあるチームの監督に就任し(2013年11月に退任)、日中双方で話題になりました。中国側としては海外からやってきた岡田氏に期待する声が多く、また監督時代のチームの成長に関しても高い評価を得られましたが、個人的に日本のサッカー指導者にはもっと中国のチームを指導してあげてほしいと思います。日中間のスポーツ交流はもとより中国のチームが強くなることでアジア間での競争が高まり、日本のチームや代表にとってもいい刺激となってさらなる発展が期待できるからです。また中国側としても国内リーグの腐敗撲滅の一環として外国人指導者を求めている空気が感じられ、双方にとっていい効果が得られるかと思えます。
 
  おまけ
 昔中国の新聞を読んでたらハゲ頭のおっさん数人の顔写真が並んで一面に掲載されていて、「かつらメーカーの新手の広告か?」と一瞬疑いました。よくよく記事を読んでみたら八百長に絡んだサッカーチーム関係者の逮捕記事だったのですが、なんでそろいもそろって禿げてたんだろう。

2014年10月5日日曜日

平成史考察~マトリックスオフ(2003年)

 現在中国では国慶節という建国記念連休の真っ最中ですが、私としてはひたすら家でゲームばかりやっています。当初はもうちょっと真面目にいろいろまた新たな分野を勉強しようかなとも思ってましたが、先日日本に帰国した際に「ウォーシップガンナー2(PSP版)」という、軍艦を操るシューティングゲームを買ってきて、これがまた非常に面白いもんですっかりはまってしまいました。
 ちょこっとだけ触れるとこのゲームは駆逐艦、巡洋艦、潜水艦、戦艦、空母をそれぞれ自由に設計して好きに使えます。船の名前も自由に決められるので駆逐艦は最近の自衛隊艦船はひらがな名であることから「まろやか」にして、戦艦は近づくと危険そうなイメージを出したかったので「みだら」にして、潜水艦は「さぶ&マリン」というわかる人にはわかる懐かしい名前にしました。
 
 話は本題に入りますが先日、上海のビジネスホテルに泊まった際に何気なくテレビをつけていたら、映画の「マトリックスリローデッド」がたまたま放映されててついつい全部見ちゃいました。マトリックスシリーズは特殊なカメラワークとワイヤーを使ったアクションがウリで、三部作の中ではこのリローデッドが最もアクションシーンが多いだけに自分もこれが好きで、金がない学生時代にも何故か購入した作品でした。
 久々に見てみましたがやはりそのアクションシーンは公開から十年以上経った現代においても全く見劣りせずよくもこんな作品を通ったもんだと改めて感心したわけなのですが、それと同時に、公開当時に「マトリックスオフ」というイベントがあったことを思い出しました。
 
 
 このマトリックスオフの詳細については上記のサイトで非常に詳しくかつ写真付きで紹介されております。具体的にどんなイベントかというと、三作目の「マトリックスリローデッド」の2003年公開に合わせ、マトリックスのコスプレをしてオフ会をしようというイベントでした。
 
 マトリックスというとそのアクションシーンもさることながら多くの登場人物が「サングラス」、「黒ずくめorスーツ」という際立ったファッションも当時話題になり、私なんて一作目が公開されたころなんて黒い上着で友達と合ったらしょっちゅう「マトリックスかよ」と言われたくらいでした。別に影響されたわけじゃないけど当時はなんか黒いシャツとかよく着てたなぁ。
 そんな際立つファッションでエージェントスミスよろしくみんなで集合しようと、2ちゃんねるでの呼びかけを元に開かれたのがこのオフ会です。上記のリンク先では写真も多数載せられていますがそのカオスっぷりは今見ても凄まじく、特に吉野家のカウンターにスーツ、グラサンの人間がずらっと無表情で並んでる写真なんか文字通り抱腹物です。このようにいろいろと思い出に浸れる写真で満載なのですが、ふと最近はこのような2ちゃんねる発の大規模オフ会の話なり噂なりを聞かなくなったような、という考えがもたげました。
 
2ch湘南ゴミ拾いオフ(ニコニコ大百科)
 
 このマトリックスオフと並んで私が覚えているのは2002年にあった上記の湘南ゴミ拾いオフです。こっちの詳細までは説明しませんが私の感覚だとやっぱり2000~2003年くらいはこのような大規模オフ会がよくあっただけじゃなく、2ちゃんねる全体がややアングラな雰囲気を漂わせながらある意味で一番盛り上がっていた頃だったのかもと思えてきました。2004年以降となるとこうしたオフ会自体がほとんどなかったように思え、強いて挙げるなら2011年の「フジテレビ抗議デモ」くらいで、やっぱ往年と比べるといまの2ちゃんねるは異なってきたように感じるわけです。
 
 こうした変化が良い物か悪いものかと考えるのは野暮でそれぞれの時代に合わせて変わってきたんだろうとしか思いませんが、インターネットを仲介にしてみんなで盛り上がる、共通体験にするイベントが仮に減ってきているとしたら、それは2ちゃんねるの変化というよりは社会の変化と見た方が良い気がします。ひとまず2000年代前半はこういう一風変わったイベントがよくあったということを記録しておこうと、今回こうして書き記した次第です。

2014年10月3日金曜日

経済学は現代に価値があるのか?

 先日後輩が電話にて、「どうもブログが身バレしてしまったようです」と話してきてちょっと笑えました。なお私は今の今まで「もしかして花園さん?」っていう具合に身バレ(=ブログなどのハンドルネームでの身分が現実でばれる)したことは今まで一度もありません。まぁ自分でこのブログ書いてて思うけど、一体どんな奴が書いているのかいまいち正体が掴み辛い気がする。一番わかりやすいのは、「日本人は相手が抵抗できないとわかるや途端に狂暴になる」と主張するのは例外なく私だけなので、これを言ってる人がいたら恐らく私です。
 なおその後輩ですが一緒に上海のホテルに泊まった際、何気なく映していたNHKの動物番組のナレーションで、「(クジラが)びっくりして潮吹いちゃった」という音声が流れるや、「なんかエロい響きですね」と言って来たのですが、その時はパズドラもしていてあんま反応しなかったけどなんか後からじわじわと来ました。
 話は本題に入りますがその後輩に昨日のチャットで少し解説して、ブログに後で書くと言っておきながらほっぽって置くと忘れそうなので今日に書くことにします。その内容とは、経済学は現代の世の中において果てして本当に価値があるかどうかです。
 
 まず最初に多くの方にケンカを売ると、現代日本における経済学部の学生ひいてはその卒業者の八割方はカス同然です。恐らく彼らは経済学と商学の違いも理解していなければ、経済学で基礎となる思考法のベース、言うなれば「貨幣の流通を中心において社会や世の中を考える」という思考法すら身に着けていないように見えます。さらにリーマンショック以降はめっきり宣伝文句が見えなくなりましたが、一時期はMBAを経済学の学位だと勘違いしているような記事が散見されましたがMBAの日本語は「経営学修士」であって分類としては経済学ではなく商学に属する学位です。ひどいのになると経学が経学に分類されると勘違いして知った風な口をきく人もいます。
 なお商学の目的というか定義は何になるかついでに書くと、私個人の解釈としては「如何に単一組織(≒企業)の資本を拡大するか」という方法を探るのと、「如何にして正確に単一組織の財務状態(=会計)を分析、予想するか」の二つにあると私は考えています。これに対して経済学は通貨や為替、資源を含めた市場全体での資本価値を捉えます、一国・地域かグローバルかと範囲には差がありますが。
 
 話は戻りますが先日別の友人とも同じようなテーマで話しており、かつて存在したマルクス経済学、古典派経済学はもとより、1990年代後半より日本で勢力を持った新古典派経済学を含め、どの経済学派の考え方で以っても現代の市場は全く読めないし、理解する上で全く参考にならないという結論で一致しました。友人が挙げた一例などはまさにホットなもので、先日米国の証券取引所で史上最高額での上場をジャック・マー率いる中国最大のオンラインショッピングサイトを運営するアリババで、この一社を取ってみても従来の経済学では考えられない急激な成長と事業拡大を実現しており、もはや想定されていない世界に入ってきていると言えます。
 
 先に申しておくと経済学が現代において全く無価値というわけではなく、たとえばカビが生えているマルクス経済学も二次大戦以後の20世紀の世界、特に東側を読み解く上では非常に有益なツールとなります。しかし今後、未来がどうなっていくかを予想することはおろか現代の一国・地域、または世界市場を読み解く上ではあまり役に立たず(現代に至る過程を学んでそこから展開するならまだ価値がある)、同様に一時期隆盛を誇った新古典派経済学もリーマンショックによって完膚なきまでその理論の大半が正しくなかった事が証明され、このところは元気がない上に提言すらまともに聞かなくなってきました。
 今日はやたら脇道に脱線することが多いですが、新古典派の破綻した箇所というのは「可能な限り規制を取っ払った市場開放」と「グローバルな金融」、「グローバル企業のさらなる巨大化による世界市場化」を成長の柱としていた点ですが、この三つによって世界金融市場が野放図(のほうず)になって巨大な債権が生まれたことから、現代ではやっぱりある程度規制が必要、という価値観が強まっているように感じます。
 
 経済学の主目的は何かと問われるならば、市場から今後の世界の行く末を分析、予測することにあると私は思います。しかし現代の経済学は未来はおろか現状把握をする上でも何の役にも立たず、それどころかこのところ学校から離れているのでただ単に私が知らないだけかもしれませんが、積極的に未来を予想しようとする動きすら見えません。厳しく批判をすれば、一部では経済学と名乗りながらやってることは実質商学に成り下がっているところもあるように見え、ちょっと内向き過ぎると思えるしこのまま何もしなければその学問的価値は落ちるところまで落ち込むことでしょう。
 
 では経済学は今後どうあるべきか。やはりその本来の主眼に立ち返って徒手空拳でもいいから現在を分析し、未来を予想することに注力すべきで、言ってしまえば正しかろうと正しくなかろうと新たな流派が作られる必要があると思います。先日追悼記事を書いた故宇沢弘文教授は再生可能なエコな経済を目指しており確かにこれは第三、いや第四の道ではあったものの、私個人としてはやはり理想に走り過ぎていてもっと実現性のある、現実感のある思想が必要だと感じます。
 じゃあ私はどんなのが今いいのかと考えているのかですが、故岡本太郎じゃないですが、創造というのは破壊の後に生まれるというのが実は考えの根っこにあり、これから創造していく未来を考える前にまず現代の矛盾なり混沌なりといった腐食した部分を根こそぎ破壊することが先決ではないかと考えています。どう作っていくかではなくどう破壊するか、これが重要であり、破壊を経ずに創造しようだなんて順序が逆じゃないかと思うわけです。
 突き詰めて何が言いたいのかというと、「堕ちるとこまでまずは堕ちよう、話しはそれからだ」というのが偽らざる私の真情で、どう立て直すかよりもどう効率よく破壊するかについて経済学は今後考えるべきではないでしょうか。
 
 改めて思うことですが、やっぱり自分の思想や考え方は明らかに危険極まりないと我ながら感じます。ただ言い訳をすると、将来1万人を死なせるくらいなら今100人をすぐ殺すべきだと、たとえ自分がその100人の中に入っているとしても絶対的に支持します。

2014年10月2日木曜日

任天堂とユリ・ゲラー、そしてユンゲラー

 自分はアップル製品とはとんと縁がない(マジで一度も買ったことがない)のですが、先日発売されたアイフォン6がポケットに入れていると折れ曲がるという報道もあれば、実際の耐久試験ではむしろ他のスマホに比して頑丈だとの報道も出ています。そしたらなぜかスプーン曲げで一世を風靡したユリ・ゲラーもこの話題に参入して、世界中にいるアイフォンユーザーの思念が曲げているという超理論を言い出したというのが上記のニュースです。

 まぁ話しのネタとしてそこそこ面白いのですがちょうど先月にもユリ・ゲラーの話を友人にしたこともあるので、今日はちょっと小話がてらその逸話を紹介します。その逸話というのも任天堂との裁判についてです。
 このところ凋落著しい任天堂ですがソフトウェアの競争力は現状でもやはり高く、特にポケモンシリーズはスタートから実に十年くらい経過しているにもかかわらず関連商品や続編が飛ぶように売れるなど未だ高い人気を保っております。そのポケモンですが私は初代の「ポケットモンスター 赤」だけをやったことがあるのですが、この初代版から「ユンゲラー」というポケモンが出ており以降の続編にも登場しています。

 このポケモンはどんなポケモンかというと、カテゴリーでは「ちょうのうりょくポケモン」に分類され、右手には何故かスプーンらしき物体を握ってて、一部ソフトには「スプーンまげ」というわざまで入っています。ってか、名前からして明らかにユリ・ゲラーをモチーフにしていることがバレバレなのですが、なんとアメリカでユリ・ゲラー本人から勝手に肖像権を使われたとして本当に訴えられたことがあります。
 ユリ・ゲラー曰く、「勝手に自分のキャラクターが使われた」として訴えたのですが、こういってはなんですが、「うん、まぁそうだろうね」としか言いようのないキャラクターです。なもんだから裁判がどのように進展するのかと思っていたら、なんと任天堂は下記のようなとんでもない反論を主張してきました。その反論というのも、

「このユンゲラーは超能力を使うポケモンです。もし貴方のキャラクターが使われたと主張するのであれば、この場で超能力を使ってスプーンを曲げてみてください

 実際にこのような反論をしたのかは自分が確認する限り伝聞しかなくやや本当かどうかはっきりしませんが、仮に本当にこう主張したというのなら任天堂法務部は評判通り非常に優秀であると共に、なんてひどいことを言う奴らなんだと思わざるを得ません。ちょっとユリ・ゲラーに対していじめすぎだろ。

 ただユリ・ゲラーが訴えた裁判自体は本当にあったことは間違いなく、判決は「ポケモンは日本で開発、販売されているソフトであるため連邦法の適用を受けない」という内容となり任天堂が勝訴したそうです。このエピソードから言えることとしては、任天堂に対しては下手に訴訟を起こさない方が無難そうだというオチです、ちゃんちゃん。

2014年9月30日火曜日

予備校での人間関係

 またどうでもいい話ですが、今日のYahooニュースに「何でも妖怪のせいとする子供たち」という記事が出ており、その記事の見出しの下には「松坂退団濃厚、先発にこだわり」という記事が出ていたため咄嗟に、「松坂がメッツを退団するのは妖怪のせい、先発にこだわるのも妖怪のせいかも」なんて妙な言葉が頭をよぎりました。なお私は不都合な事実はいつもフリーメーソンのせいにしており、「今日天気が悪くて布団が干せないのはフリーメーソンのせい」、「頼んだ料理がはずれだったのはフリーメーソンのせい」、「中村紀洋が退団しそうなのは本人のせい」なんて口ずさんだりします。
 なお「妖怪のせい」という言葉で検索してみたら、「何でも妖怪のせいにしてしまう我々が一番の妖怪かもしれませんね」といった子供の記事がヒットしてきました。意外と日本も捨てたもんじゃないかもしれませんね、ってかこの子供いくつだよ……。
 
 そんなどうでもいい妄想は置いといて本題ですが、予備校だといじめってあんま起こらないのではとふと思いました。ここまでいきなり結論ぶち上げるのはそこそこのキャリアを持っていながらも初めてですが、通常の学校における空間に比べて同じく学習の場である予備校ではいじめはどうして起こらないのだろうか、なんかその点が先週カレー食べながらふと気になりました。
 
 一応、ネットで「予備校 いじめ」というワードで検索をかけると予備校でもいじめを受けているというような話があるので必ずしも私が想像する通りにいじめが全くないわけではないようですが、あくまで個人的な観点で述べると、普通の学校に比べたら生徒間でギスギスするようなことも少なく、陰鬱な空気もそれほど感じられなかったような気がします。
 私個人の体験で述べると小中高とそれぞれで通った予備校ではいじめらしいものは全く見られず、それどころか割と深刻な悩みを打ち明けられるほど信頼が持てる友人が出来たりと、ぶっちゃけ学校よりも人間関係ではずっと楽でした。浪人して予備校の寮に入った大学時代の友人も予備校でかけがえのない友人がたくさんできたと事ある毎に自分に聞かせてくれていました。
 
 というような仮説というか妄想を立てたので早速地元の友人にこの件を振ってみたとこと、その友人も確かに予備校ではいじめらしいものはそんなに見なかったと話し、続けて「なんでだと思う?」と私が聞いてみると、「(予備校に来る)目的がはっきりしてるからでは」と、私が想定していた考えと全く同じ回答が来てちょっとビビりました。
 予備校に来る目的とは何かというと、言うまでもなく成績を上げるための勉強です。自分と友人の考えはというと、予備校というのはその機能と通う目的がはっきりした勉強をするための場であるため、公道なり考えが変に横にぶれないというかいじめを行う、企図する方向に全く向かないからではないかということです。逆を言えば学校というのは「勉強だけの場じゃない」とPTAを始めとして色んな方々が主張し、なおかつ人間関係を作ることを無言の圧力で矯正するようなところもあり、そういう複雑な機能がいじめを発生させる要因になっているのかもと私は言いたいのです。
 
 無論これは仮説で、予備校の方が滞在時間が少なかったり、一教室の人数が少なかったり、学校行事といったイベントが無かったりすることも要因として挙がってきますが、先程にも述べた通りに私は地味に予備校内の人間関係が非常に健全で居心地がよかったことを考えると、予備校という空間の人間関係をもっと深く検証することがいじめ対策の大きなヒントになるのではないかと思います。もっとも自分は教育学者でもないしもう学校に通う身分でもないのでこれ以上は検証しませんが、一応仮説の提案として書いておくことにします。
 それにしてもこういう内容を何にもないところで突然思いつく当たり、自分は何かの病気ではないかとつくづく疑います。
 
  おまけ
 小学校時代に通った予備校では大橋君という生徒が二人おり、片っ方が非常にひょうきんだったのに対してもう片方は非常に大人しい子でした。そのためひょうきんな方は講師を含めみんなから普通に「大橋」と呼ばれ、大人しい方は何故だか「パート2」というあだ名がついてました。けどその「パート2」は国語の授業中に当てられた問題の回答でまごついたところ、四択の回答の中から明らかに間違いな「D.クリスマスキャロル」という答えを後ろの生徒に唆されるまま答えてしまい、それからあだ名が「キャロル」に変わりました。確か受験終るまでずっとそのまま「キャロル」だったような。

2014年9月28日日曜日

宇沢弘文教授を偲ぶ

 このところ神戸の事件と言い火山の噴火といいビッグニュースで溢れていたため見逃していましたが、親切にも友人が教えてくれたのでこの訃報を知りました。
 
 
 宇沢弘文氏とは東大の名誉教授で、高度経済成長期に成長一辺倒で公害等をまき散らす世の中に軽傷を促したことで一世を風靡した方です。平成期は米国のファンドに代表される野放図な競争社会を批判し、シカゴ大学在籍時代の同僚であるミルトン・フリードマンに対しては四六時中悪口を言っていました。
 
 このブログを始めた当初、私も宇沢教授を良く取り上げ彼の主張などを私なりに解釈して紹介しておりました。なんで経済学部出身でもないのにそんなことしてたのかというと、当時私が通っていた大学に宇沢教授が肩書きもらって良くやってきていて、また私が師事していた労農派と口座派の違いを即答してくる恩師と宇沢教授が交流しており、恩師に紹介してもらう形で宇沢教授の講義に参加していました。
 Yahooか何かで「宇沢弘文」と検索すると生前の画像も出てきますが、はっきり言って検索に出てくる画像そのまんまで、ロードオブザリングに出てきそうな長い白髭に加えあんま見ないタイプの帽子をかぶっているという、漫画に出てきそうな教授像そのままで常に動いていました。ちなみにあの帽子、なんかフン族の長老からもらったそうです。アッティラ?
 
 宇沢教授から受けた講義の内容はこのブログのかなり昔の記事にそこそこ書いていますが、ちょうど集中講義があった最中に件のフリードマンが死去したので何か発言するかなと思って行ったら、「フリードマンの訃報を聞いて、正直に良かったと思っちゃいました」と期待通りの回答をしてくれていました。講義中の内容としては社会的共通資本という概念について医者やら環境活動家などとの議論をしつつ人個を加える形式の講義で、私の解釈というか宇沢教授の言葉を借りるなら江戸時代にあった「入会い(いりあい)」の概念を現代にも持つべきだという方向の話でした。
 
 私と宇沢教授が直接話したことは一回だけで、その恩師が私を紹介してくれた際にどこの出身かと聞かれ、「生まれだけなら鹿児島の出水市です」と答えたところ、「水俣の近くだね。昔よく行ったよ」と返答されました。当時は知りませんでしたが宇沢教授は水俣病の問題にも早くから取り組んで現地にもよく足を運んでいたとのことで、そうした背景でさっきの回答があったのだとちょっと感慨深く感じました。l
 
 妙な思い出話が続きますがこれを逃すと一生書き残せないという予想から細々書いていますが、宇沢教授の講義の中で一番印象に残った、というかインパクトのあった話をここに書き残しておきます。その話というのも中国政府に依頼されて宇沢教授が行った農村の調査で、調査を終えた後に並み居る中国共産党幹部らの前で下記のような報告を行ったそうです。
 
「資本主義には市場原理があって限界があるが、社会主義の搾取には限界がない」
 
 なかなか含蓄深い言葉というか言われてみて、「あっ、なるほど!」と思う見事なまとめ方なのですが、当の中国共産党幹部らはこの報告を聞くやマジギレしたらしく、「こいつを生かして返すな!」なんて物騒な言葉が飛び交うくらい剣呑となって、宇沢教授も当時は本気でヤバいと思ったそうです。ちなみにこの時の報告に立ち会った幹部の中には�小平もいたそうです。
 ただそんないきり立つ共産党幹部らの中でただ一人だけが、「いや、彼の意見にも聞くべきところがある」と言って周りをなだめ、より詳細な報告を求めてきた人物がいたと話し、その人物とは趙紫陽だったということを明かしていました。現代中国史に詳しい人間なら、彼のその後の行動と比較してなるほどなと感じるのではないかと思います。ちなみにこの時の講義は確か2005年の5月で、趙紫陽の死から4ヶ月後でした。
 
 てらてら取とり留めのない内容を片っ端から書いていきましたが、私の前職の上司は宇沢教授について、「やや理想主義的な傾向がある」と述べてて、私の評価もまさに同じです。もっとも経済学自体が貨幣の流れを中心に長期的な視野でどのような世界を構築するかを議論するので、理想的過ぎても決して欠点ではないものの、現代にあってはあまりにも脆すぎるかもしれないと思えます。
 先に友人とも少し話しましたが、私と友人が学生だった頃はフリードマンの名前は授業の中だけでなく一般的な書籍にもよく出てくるほど影響力が強かったですが、リーマンショックで彼の主張していた経済体制が瓦解したこともあって、ここ数年は急激にフェードアウトしている感があります。もっともそれはフリードマンに限らない話で、今現在の経済学でどうやって社会や世界を分析できるのか、表現達者を自称しながら上手く表現できないのですが、経済学という学問自体が非常に力を落としているだけでなく、その役割を失いつつあるのではと感じます。
 
 古典派、新古典派、マルクス経済などいろいろ経済学派がありましたが、今の世界はこの三つのどれを用いても把握しきれないと思います。ある意味今回の宇沢教授の逝去は経済学の潮流における一つの終わりを意味するのかもと感じさせ、改めて今の時代を把握する難しさを思い起こす次第です。