昨日に引き続きロシアのラストエンペラーことニコライ二世について書いてきます。昨夜はやる気満々だったけど、今日ちょっと頭痛くて調子悪いですが期間空けられないのでこのまま頑張って書くことにします。
前編ではその生い立ちから即位、そして日露戦争に至るまでを書きましたが、日露戦争中に戦争の中止、並びに憲法制定など民主化を求めた大衆のデモ隊に発砲して千人以上が亡くなる(どっかの国もあったような……)「血の日曜日事件」が起こりました。この頃から王制に対する批判も激しくなってき始めバリバリの王権神授説論者のニコライ二世も日露戦争後はセルゲイ・ヴィッテらが提出した民主化改革案の「十月詔書」にサインして一旦は歩み寄る姿勢を見せますが、すぐさま翻意してヴィッテを首相から降ろすと折角開設した国会でも議員の選挙方法を回改正して貴族寄りの政策に方針に変えています。
ニコライ二世というかロマノフ朝は元来、皇帝の側近が中心となり政治を取ることが多いのですが、この頃のニコライ二世の傍に最も近かった人物というのはあの有名な怪僧、グレゴリー・ラスプーチンでした。その圧倒的な存在感から現代においても様々なサブカルチャー作品に登場するだけでなく「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏(何気に同門)を始め多数の人物のニックネームにも使われる彼ですが、特に宗教教育を受けたわけでもない農夫だったのに突然、「巡礼に出る」といってロシア国内を流浪し、首都サンクトペテルブルクで彼の祈祷で病気が治る人が続出したことから王室にも出入りするようになりました。
ここでニコライ二世の家族について触れますが、彼と妻のアレクサンドラとの間には一男四女が生まれ、写真で見る限りですとどれもみな粒ぞろいの美男美女ばかりです。ただ長男のアレクセイは当時としては不治の病だった血友病キャリアで、しかも重度の症状を患っていました。彼の血友病は元代においてヴィクトリア女王の血統によるものとみられていてほんのちょっとのあざでもなかなか治らず寝たきりになるため、両親は息子の将来とその健康を非常に心配していたそうです。そこへさっそうと登場したのがラスプーチンで、彼が祈祷をするやアレクセイの病状や気分がぐんとよくなることが多かったため、ロシア皇帝夫妻はラスプーチンを深く信用して王室内への自由な出入りすら認めるに至りました。
こうしたラスプーチンへの贔屓が面白くなかったのは言うまでもなくロシア貴族たちで、ただでさえ怪しい人物が妙な祈祷をして皇帝夫妻に取り入るのを見るにつけ、「何か裏があるに違いない」と誰もが思ったことでしょう。そうした不満は主に皇后のアレクサンドラに向かい、元々社交的でなく王室行事にも率先して参加したがらない彼女がロシア国民から嫌われていたのもありますが、当時からもラスプーチンと密通しているのではという噂がまことしやかに流れ王室への信頼が日に日に薄れていく事態となりました。
ここでちょっと早いですが私の見解を述べると、元々ニコライ二世は極端な保守的政策を取ったことからロシアの一般国民からは即位当初からそれほど敬われていたようには見えません。そんな彼が支持基盤として固めていたのは特権を持つ貴族層で、彼らの利益を代弁する形で政権を維持してきましたが、このラスプーチンへの肩入れによって貴族層からの支持も薄れていき、それが彼の末路へと導いて行ったように思えます。もっとも本人は国民からは信頼を得ていると考えていた節があり、敢えて言うならちょっと古いタイプの王様でフランス革命以降の時代の変化を嗅ぎ取れず実感しきれなかったことがドイツ王室と共通し、英国王室と異なっていたのかもしれません。ボナパルト家はまぁ別だけど。
話は戻りますが、ニコライ二世のみならず欧州すべての国にとって運命の転換点となった第一次世界大戦が1914年のサラエボ事件をきっかけに勃発します。この大戦でロシアはバルカン半島での利害関係がぶつかるオーストリア、そしてその同盟国のドイツと対戦しますが近代兵器を多数保有していたドイツに対して日露戦争同様に連戦連敗を重ねます。また総力戦に対する対応も遅れ国内では経済の混乱、物資の不足が起こり日に日に王室への批判が高まっていきました。
しかも間の悪いことにニコライ二世は自ら前線へ赴き戦争指揮を手掛けたため、首都では嫌われ者の皇后アレクサンドラが主に政治を執り、その傍らにはラスプーチンも控えていたことからとうとう沸点を越える事態こと「二月革命」が1917年に発生。首都は革命勢力が実権を握り前線にいるニコライ二世は軍を率いて首都奪還を図るも現場指揮官全員から拒否され、強制的に退位させられることとなります。
この前線での退位の際にニコライ二世は自分の後継として病弱な息子ではなく弟が次の皇帝だと指名しますが、革命勢力に対する報復を恐れた弟はこの使命を拒否してしまいます。ニコライ二世としては自分が退位させられても王朝はまだ続けられると考えていたようですが時すでに遅しで、仮に革命前に周囲の一部から薦められていたように譲位していればもうちょっと反応は違ったでしょう。
また退位後の決断においても結果論ではありますがニコライ二世は鈍さを見せています。ニコライ二世は当初、従弟であるジョージ五世が国王だった英国への亡命を企図して打診しましたが、英国は国内の社会主義勢力を警戒してこの打診を黙殺します。その一方で、対戦国同士であるものの個人的な関係は非常に親密であった同じく従弟でありドイツ皇帝だったヴィルヘルム二世は「ドイツにおいでよ」と誘ってくれましたが、対戦国同士ということを懸念してかニコライ二世はこの誘いを断り、ロシア国内にとどまってしまいました。まぁ難しい決断ではありますが。
こうしていよいよフィナーレへと至ります。ロシアにおける革命の革命こと「十月革命」によってロシアの実権はレーニン率いる社会主義勢力ボリシェビキが握ります。ボリシェビキはニコライ二世一家をエカテリンブルクの屋敷内に監禁し、翌1918年にレーニンの決断によって一かとその使用人の計11人が処刑というべきか、一応殺害されます。殺害時の現場は当時の関係者が数多く証言しており比較的詳細にわかっており、当日の深夜、というか直前に地下室に集められて、「これから処刑する」と一方的に伝えられてニコライ二世、長男アレクセイ、皇后アリックス、そして四姉妹の順番で射殺されたようです。その際に皇后は娘達の除名を求めましたが通ることもなく、痛ましいことに全員が殺害されしばらくは、「皇帝のみ処刑して家族は無事」とソ連政府が喧伝したことから後に四女アナスタシアを名乗る偽物がでる事態も招いています。
同じく一次大戦中に退位することとなったドイツのヴィルヘルム二世は亡命先で天寿を全うしていることと比べると、ニコライ二世の末路は本人に全く責任がないというわけではありませんがやや不憫にも感じます。特に一家全員が問答無用で殺されているのは素直に同情心を覚えると共に、国王と皇后が処刑されたものの子供たちは名目上は放免となったフランス革命と比べてもそのやり口の強引さは目に余ります。
そのフランス革命との比較ですが、国王ルイ16世の処刑は一応は議会での決議を踏まえた上でその暴力が実行されていますが、ニコライ二世のケースだとトロツキーの反対があったにもかかわらずレーニンが何の議会、裁判手続きを踏まえず命令しており、この辺がロシアの国民性なのかと言われればそうなのかもしれないと私なら答えます。昨夜も友人に話しましたがレーニイズムとスターリニズムは基本的な軌を一にしており、違いがあるとしたらその期間と粛清された人数くらいししか案外ないのではと思います。
まとめになりますが一次大戦によってロシア、ドイツ、オーストリアという列強各国で各王朝が滅亡しています。その要因は戦争に負けたことが大きいのはもちろんですが、20世紀に入り国の形が変わったというか植民地主義こと世界戦国時代の風潮が薄れ思想が変わっっていったのに対して各国の皇帝がその辺かを受け入れなかった、対応しきれなかったことが背景としてあると私は見ています。逆を言えば、そのような時代の変化にも鋭敏に反応して役割を変えた存続し続けた、もっと溯れば17世紀の時点で政治実権を議会に譲り渡した英国王室というのはやはり際立った存在のように感じます。
英国が何故強いのかと問われるならば、変化に対応できる王室がいるということも十分要素に入ってくるでしょう。逆に変化に対応できなければロマノフ朝の様に滅ぶこともあり得、日本の皇室もその辺を頭の隅っこに入れておいた方がというのがちょっとした私の意見です。念のため書いておくけど、別に私は社会主義者みたいに皇室の廃立はのぞんでませんからねっ。