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2016年1月14日木曜日

ワーテルローとロスチャイルド

 私が日本で最も芸術的ともいえる戦争は賤ヶ岳の戦いだと考えており、というのもこの戦いでは羽柴軍、柴田軍の双方が高度な駆け引きと共に一時間単位で軍略を練り、本当に数時間差で羽柴軍が劇的な各個撃破に成功して勝利した戦いであるからです。数千数万の軍隊がぶつかり合う戦争では将軍一人がどれほど早く決断しても実際の軍隊はそれほど迅速には動けませんが、この戦いはまるで詰め将棋のように自軍と敵軍がどのように展開するのかを綿密に読み合っているため記録を読むだにいろいろと興奮します。

 さてこの「芸術的ともいえる戦争」という言葉ですが、この言葉はプロイセン軍人であり戦争学の祖ともいうべきクラウゼヴィッツがその著書「戦争論」にて使用した言葉で、この言葉が使われた戦争というのはクラウゼヴィッツも従軍してその目で目の当たりにしたアウステルリッツの戦いでした。このアウステルリッツの戦いはオーストリア、ロシアの連合軍とフランス軍がベルギー付近でぶつかった戦いで、兵数で劣るフランス軍が敵軍を敢えて手薄にした右翼に誘い込んだところを狙いすましたかのような中央突破で瓦解させ、完膚なきまで討ち果たした戦いでした。そしてこの戦いでフランス軍を指揮した人物というのもあのナポレオン・ボナパルトでした。

 ナポレオン自身がかなり若い頃から如何に決戦で完膚なきまで叩くか、叩くためにはどうすればいいのかを徹底して研究しており、その末にたどり着いたのがクラウゼヴィッツの言う「決勝点」こと勝敗を決める決定的なタイミングで動くという結論だったようで、このアウステルリッツの戦いでも部下の将軍に、「あの丘まで何分で着く?」、「20分です」というやり取りから計ったように15分後に突撃させ、ほぼ時間ピッタリに部隊を移動させて撃滅に成功しています。この戦いに限らずナポレオンの戦争では臨機応変に動くというよりもあらかじめ想定していた戦場、状況に自分と敵軍を当てはめ、初めから計画していたプラン通りに部隊を動かし勝利を決めるというパターンが多く、実際に彼の戦歴を見るとその勝率はかなり桁違いな数字に達するはずです。

 しかしそんなナポレオンも政権末期頃ともなると判断ミスが明らかに多くなり、特に彼が最後錦を取ったワーテルローの戦いは大敗こそしたもののほんの少しでも判断が違えば史実とは異なりフランス軍が英、普軍を圧倒していたと予想されています。

ワーテルローの戦い(Wikipedia)

 この戦いで英軍を率いたウェリントンは後に首相となってクリミア戦争に臨んだりもするのですが、この人もこの人で若い頃から明らかに戦争に強く、逆境においても敵軍を跳ね返すなど桁違いの指揮官でした。しかしそのウェリントンをしてこのワーテルローの戦いは何度も敗戦を覚悟して紙一重の勝利だったと話していたそうですが、彼の本国である英国も相手があのナポレオンとってこの戦闘でどうなるのか非常に戦々恐々としていたそうです。
 当時どれだけ注目されていたのかをうかがわせるエピソードとして、ロンドン株式市場の混乱という話があります。当時から英国では株式市場が成立しておりそこでは英国債も取引されていたのですが、このワーテルローの戦いの結果は最初、「英軍敗退」と誤った誤報が英国に伝わってしまったそうです。そのため英国債は一気に暴落したのですが、ネイサン・メイア―という銀行家は独自の情報網からこのニュースは誤報で本当は英軍が勝利していたという情報を掴んでいました。ネイサンはこの暴落時にすぐには買い入れず、逆に自身が保有していた国債を放出してさらに債券価格が値下がった所で一気に買い集め、勝利したという本当のニュースが英国に伝わるやネイサンがかき集めた国債は再び高騰して彼は巨額の利益を得たと言われています。

 この話は創作という説もありますが、ネイサン・メイア―・ロスチャイルドというロスチャイルド家の祖が存在したことは事実で、昔っからこの一族は抜け目ないんだなぁもうとか思う始末です。

2016年1月13日水曜日

提供者側の権利保護について

 先程、パズドラで初めて「アテナ」が取れました。あんなに興奮したのって小学生以来じゃないかな。そのせいでブログ書く時間がだいぶ遅れちゃったんだけど。

 なわけで今日もまた簡潔に記事をまとめそうなのですがこのところ日本のニュースを見ていて思うこととして、一般的に商取引では消費者側が弱者であるとみられ消費者を保護するためにクーリングオフといった制度や、消費者問題に対応する消費者庁などの機関が設けられておりますが、消費者を守るのはもちろんである一方、サービスや商品を提供する側の権利も何かしらで守る必要があるのではと今日突然思いつきました。
 突然思いついたといっても前振りが無かったわけではなく、確か一昨年にあった事件だと思いますが店員の態度が気に食わないと言ってコンビニに来た客が店員と店長に土下座を要求した上、勝手にお詫びの品だとして煙草を強奪したという事件がありました。もちろんこの後でやらかした客は逮捕されましたが、ここまで極端な例でなくてもこの頃は変に勘違いした消費者がサービスの提供者を脅迫したり暴行する事件は日の目を見ないだけでもっとたくさんあるはずです。駅員への暴力も社会で認知されることがこの頃増えて少し減りましたが、それでも普通に考えたら有り得ないと思うくらい依然として多いです。

 一体何故こうした事件が起きるのか、モンスタークレーマーはどうして発生するのか。背景としては「お客様は神様です」という妙な言葉が誤って浸透してしまったためだとかいろいろ言われますが、一社会学士としての意見を述べるなら消費者の保護程度がやや強すぎるというか提供者の保護が無さすぎるためではないかと思います。それこそ土下座要求をしてくるクレーマーに対して店員が暴言を言ったり、手を出したりすれば店員の側が逆に捕まる可能性もあり、また暴行を受けたからといって同じく店員が反撃したとしても果たして正当防衛が認められるのか確固たる自信が私には持てません。

 最初にも書いた通りに消費者は法規などで保護すべき対象であるということは私の中で揺るぎません。しかし消費者だけ保護し続けることによって無駄な弊害も生まれると思え、また何かある度に毎回警察を介入させるというのも社会資源的にはもったいないという気がしてならず、それであれば提供者側を守るような法規を設けるのも一つの手段ではないかというのが私の言いたい内容です。社会における権利の強さは割合的に、「消費者:提供者=6:4」ぐらいが私の中の理想ですが、「客主提従」は実はあまり好きではないだけにやはりある程度対等な方がいいと思えます。

 では提供者を守るためには具体的にどのような法規を設けるべきなのか。まずは不当な要求や脅迫を行ってくる客に対しては取引、サービスを拒否する権利を確立することで、引っ掴んで店内や施設内から追い出すといった強制的な排除権も認めるべきではないかと思います。クレーマーってのは文句言うくせにやたらと居座ろうとしますし。
 そして客からの暴力についてですが、これにはもうはっきりと反撃してもよいとするお墨付きを与えるべきでしょう。もちろん過度な反撃は過剰防衛として制限するべきですが、日本人というのはただでさえ相手が反撃できないとわかるや途端に狂暴になる傾向があるだけに、勘違いしているクレーマーへプレッシャーを与えるためにも何かあったら逆に反撃してもよい、「当方に迎撃の用意あり!」と言えるような権利があった方が案外社会が回る気がします。

 難しいのは何をされたら反撃してもよいかの線引きですが、殴られる、蹴られる、唾吐かれる、物投げられる辺りをされたら即OKで、なるべく監視カメラや証人となる目撃者を備えることを推奨条件にすればいいような気がします。次にどこまでやり返していいのかですが、一つの線引きラインとして何故か思い浮かんだのは「アームロック」で、アームロックまでの反撃であればやってもよいことにして一連の法規を「アームロック法」と称すれば普及にもいいんじゃないかとなんか一人で悦に入っていました。
 それにしても現代日本において、アームロックはもはやプロレスラーや格闘家の技というよりも個人輸入商の必殺技として定着しつつあるのはなんか妙だなぁって思いつつも、家具を輸入するに当たってはまずアームロックが出来るようにならなくてはならないことにすれば日本はもっとすごい国になるのではと、また道歩きながら変なこと考えてました。

2016年1月11日月曜日

国を愛する教育の是非

 昨年末の余力有り余っている時に愛国心についての記事を書きましたが、この記事では私は愛国心はやっぱり政治用語だからその感情の矛先となる国家とは「政府」であって、国土や文化も関係ないとは言わないけどやっぱり矛先が違うと主張しました。なので仮に国土や文化を愛する気持ちを言い表すなら「愛国心」とは言わず「愛郷心」などと言葉を変えて表現するべきだとも主張しましたが、こちらはあくまで個人的な意見であるためそこまで確固たる価値観に基づいて言ったわけじゃありません。
 で、今日取り上げたいテーマとしては後者の愛郷心の方で、国土や文化といった範囲で自分の国を愛する気持ちを育てる教育をやるべきか否かです。結論から言えば私は反対で、そういう教育はまかり間違ってもやるべきではないとこっちは真面目に主張します。

 こう主張する理由は大きく分けて二つあり、一つ目としてはそもそも教える価値があるのかについて疑問だからです。普通の人だったら、こういってはなんですが生まれ育った国や地域を愛するようになるのはごく自然なことで、程度の差こそあれ愛する気持ちは何もしなくても根付くと思います。それを教育で伸ばそうとしたってそもそもどこまで伸びるのか、案外初めから持っている気持そのまんまで終わってしまうんじゃないのかと考えます。

 もう一つの理由が今回の本題ですが、こういう感情というのは私は「北風と太陽」のようなものだと考えており、変に気持ちを強くさせようという教育を施すとかえって反発心が生まれて、むしろ嫌悪感を持つ人間を増やしかねないのではと懸念しています。なんでこんな風なこと思いついたのかというと戦前の愛国心教育と戦後の自虐史観を自分の中で比較し、どちらもその教育方針に反発する層を一程度作っていたのではと思えたからです。
 戦前に関してはちょっと時代がずれますが、戦後生まれの世代から社会主義闘争が始まって強烈なアンチ国家主義者が大挙して出てきています。一方、こちらは私の時代とも被りますが自虐史観が盛んだった頃には、「なんでそこまで悪く言われなきゃいけないんだ」という具合で、ネット右翼に代表されるような戦前の賛美すら行う層が確実に生まれてきました。
 また比較的最近の話でも、テレビで日本礼賛番組が一時期続出したことに対してネット上で反発する声がいくらか見えましたし、かくいう私も正直に言ってあまりいい気分はしませんでした。日本のいいところを紹介されるのは決して気分が悪くなることではないですが、それでも量が多かったり、またしょうもない点でも勝っていると喧伝されるとなにがやねんという気持ちが少なからず芽生えてきます。

 話しは戻りますが過去の教育方針に反発した層もそれが多数派になったとは言えませんが、やはり感情を押し付けるような教育というのは反発心を育てかねない危険性を含むようにも感じられ、それであるなら露骨な愛郷教育みたいなのはよして、「日本は世界と比較するとこんな感じですよ~」って具合に、太陽みたく軽く説明する程度にとどめるのがベストではないかと個人的に思います。第一、自国を愛する気持ちを教えることは他国を卑下する感情をも生みかねないとも思えますし。

 なんか最近短い記事にまとめることが多いように思えるのでもう少し続けると、感情を「育てる」教育なんてのは本来なくて、本質的には「煽る」教育なのではとこの頃思います。だからといってノータッチにすべきだとは思いませんが、やはり教育というのは知識を授けることで感情を何かの方向に持って行こうというのは並大抵の成せる業ではないのかもというのが今日の私の意見です。

2016年1月10日日曜日

中国で広がる携帯決済

 このところ、具体的にはここ半年の間でコンビニやスーパーに「微信支付」と書かれた標識を見る機会が増えてきました。「微信」とは中国版LINEというか露骨にLINEをパクったもので、こちらを流行らせるために本家のLINEのアクセスを中国政府は遮断したという噂すらあるのですがこの微信の普及率は半端なく、大人も子供もおねーさんもほぼみんな使っててスマホにあまり慣れていない日本人駐在員のおじさんもこの微信だけは普段の連絡にも使うだけに使い慣れてたりします。

 それで最初の「微信支付」ですが、これは微信に付属された電子決済をするための機能です。イメージ的にはおサイフケータイと同じで、使ったことないので詳しくはないですがどうも携帯電話にQRコードを表示させてそれをレジスキャナにかけると決済が完了するような仕組みのようです。
 もともと中国は銀行カードをデビッドカードとして使用してあちこちの決済に頻繁に使う習慣がありましたが、このところはそうしたカード以上に携帯電話を使って決済する人が明らかに増えているような気がします。それこそコンビニからスーパー、デパート、飲食店に至るまで携帯をかざして決済する人が多く、むしろ現金で払っているのを見る機会が少なくなっているとすら思えます。

 ここで特に強調したいのは普及の早さです。半年以上前には先程の「微信支付」はほぼ全く見ませんでしたが、現在は上海だろうが昆山だろうが都市の大小に関係なく使用する人がたくさんいます。それ以前からも先ほどの銀行カードや「アリペイ」こと「支付宝」というアプリを使用して決済する人は多かったものの、それでも今ほど携帯決済する人は多くはなかったはずです。
 勝手な意見を述べると、そもそも中国は偽札が多く現金を使うことに一程度のリスクがあります。また最高額紙幣も100元(約2000円)と交換価値が低く、値段の高い物を買おうとしたら何枚もドバっと出さなくてはならない面倒さもあり、そうした背景がこうした電子決済の普及を後押ししているのかもしれません。政府としても電子決済の方が管理しやすそうだし、この動きを歓迎している節もあります。

 日本のおサイフケータイは今はどうだか知りませんが以前はハードに準拠した機能でしたが、中国の場合はアプリに準拠した機能であるため、恐らく今後も広がると思います。これまでクレジットカードがそれほど普及していませんでしたが、今後はこうした携帯昨日での電子決済がメインストリームとなって行くのではというのが私個人の勝手な予想です。

2016年1月8日金曜日

世界の王貞治を殴り倒した男

 先日も取り上げましたが半藤一利氏と加藤陽子氏の「昭和史裁判」という対談本をこの前読み終えたのですが、全体の内容の面白さもさることながら中に一つ、とんでもない話が混ざっておりました。

 その話は半藤氏が語りだした内容なのですが、戦前の日本では中国人をいくらか舐めて見ていたということについて話し、なんでも半藤氏が子供のころ住んでいた地域にあの「世界の王」こと王貞治氏も住んでいたそうです。年齢は半藤氏の方が一回り上だったのですが地域で他の子どもと遊んでいると、「一緒に混ぜて」と幼い王氏が寄ってきたそうです。なので一緒に相撲取って遊んだそうなのですが半藤氏曰く、「小っちゃい癖に足腰がやっぱ強かった」そうで将来を予感させるような子供だったそうですが、相撲の取り方が押し相撲一辺倒だったのが半藤氏には気に食わず、

「相撲ってのは相手が押したら引き、引いたら押すという駆け引きが重要なんだ。お前のようなチャンコロはそんなこともわからないのか!」

 といって、思いっきり引っぱたいたそうです。っていうか当時の風潮を紹介するためとはいえこういう話を今の時代にする半藤氏も凄いと思いますが。なお後年、半藤氏は王氏と直接会う機会があったそうですが「幸い」にも向こうはこの時のことを覚えていなかったそうです。もっとも覚えていたら会ってくれなかったでしょうが。

2016年1月7日木曜日

中国の照明は何故暗い

 また忙しいこともあって(主にパズドラ)手抜きな記事ですが、中国の照明はどこ行っても暗いことが多いです。特に暗いのは住宅で賃貸で引っ越すとどこも暗くて、「全然みえへんがな」と何故か関西弁で愚痴が出てくるほどです。これは何も私が入る部屋だけじゃなく中国の住宅一般に言えることで、この前私が入っているサイクリング部内でも話題となりみんなして、「暗いよなぁ」と共感し合いました。

 何故暗いのか、一つは照明のタイプが電球ばかりで日本でよくある蛍光灯タイプが少ないということ、二つに取り付けられている電球の明度が明らかに低くて光源が弱いということに尽きます。実際、明るい照明が取り付けられているところはそこそこ明るいのですが、私が前いた部屋なんて電気つけてるのに薄暗過ぎて、「俺、目がまた悪くなったのかな?」と本気で錯覚しました。明るいところ行ったらちゃんと見えるのでまだ目は大丈夫でしょう。
 住宅だけでなく商業施設でも暗いところは多い、というか平均的に暗く、変な話ですが私なんて日本に一時帰国するとどこも照明が眩しすぎて、「何で日本はこんなに明るいんだよ」と標準語で洩らします。作ってるわけでなく、こういう時は何故か標準語が出てきます。

 そんな私に言わせるなら、確かに中国は照明が暗すぎると思いますが、逆に日本は照明が明るすぎるのではと思うところがあります。中国なんて街灯(あっても暗い)がほとんどない所も珍しくなく夜になると窓から見る景色は大都市でも比較的暗いのですが、日本だと自販機ですら煌々と光り輝いているためみんなが寝静まる時刻にしては明るすぎる、もう少し暗い方が返って体にいいのではと思う節があります。さすがに日本でも田舎行ったら違いますが、なんというか闇が全く感じられないのも変な話です。

 なお通常生活する上では中国の暗い照明でもそんな苦労しませんが、パソコン周りはさすがに暗すぎると画面も見え辛ければキーボードも打ち辛いのでよくありません。暗いからといって画面の明るさを上げると暗い中で輝きだすのでむしろ見え辛いというか目が痛くなります。
 なので昔から中国でパソコン使う時は勉強机よろしく、学習机に付けるような蛍光灯を備えさせています。今使っているのは表面が赤い蛍光灯でそこそこ気に入ってますが、安物がたくさんあるのはいいけどもうちょっとデザイン性効かせた大人が使っても格好いい蛍光灯とかないかなとなんだか今日思いました。

2016年1月5日火曜日

老人の体力について書いた記事

 昨年末、また知り合いというか以前メールでやり取りした中国人の記者から質問があり、この前中国は国民の健康・体力の測定調査結果を出したが日本で似たようなものはあるのか、あるのならばその歴史と目的などについて記事を書いてほしい、もちろん中国語でという依頼があり、二つ返事で引き受けることにしました。今回は締切が依頼から二日後の午前中でしたが幸いにして時間がありたっぷり時間をかけて調べた上で最初に日本語で、引き続いて中国語で記事を書いて確か894文字の記事に仕立てて送ったと思います。後1文字削れば「893」な文字数だったのにってのを覚えてるし。

 書いた内容としては中国では4年に一度だが日本では1964年以降毎年行っており、でもって中国は基準体力というのがあって合格率が何%か世代別、地方別に出しているが日本はそんなのはないものの、中国と同じでどこの地域の子供が運動能力高いのか、平均越えしているのかに注目するっていうのをまとめました。ただこれだけの内容だとなんか捻りないなと思って、記事の趣旨自体が日本人から見た日本紹介、そして日中の違いだと思ったので、私個人の視点にやや偏ったかもしれませんが、「日本では子供の体力以上に老人の体力についてこのところ注目が増している」という内容を付け加えました。

 これはどういう事かというと、文部科学省が実施している「体力・運動能力調査」の前回発表では70歳以上の老人の体力が過去最高を記録したということが報じられていたのを覚えており、なんとなくですが今の日本は子供以上に老人の体力、そして体力向上に関心が高いからではないかと思ったからです。念のために関連するキーワードでいくつか検索してみたところ実際に同調査では子供の体力がどう変化したかより老人の体力について書かれたニュース記事が多く見つかり、またどういう運動が効果的なのか、週どれくらいの運動が健康にいいかなどといったコメントも見つかり、少なくとも独りよがりの意見ではないだろうと考えこうした内容を紹介するように記事へ入れ込みまいsた。

 その上で、どうして日本人が老人の体力変化を気にして、また政府も盛んに老人の健康維持方法を紹介したりするのかというと少子高齢化が背景にあると説明し、日本はじきに老人でいっぱいになるからなるべく介護などに手間取られないよう老人全体の体力向上が国家として急務な課題である上、老人ではない成人も自分たちが老いた時に自由に動けられるかを気にする人が多い(うちの親父のように)から関心が高まっていると書きました。でもって最後に、「何故年取った時に自分で自由に動けられるのかを気にするのかというと、彼らが老人になる頃には彼らを助けてくれる若者が日本でほとんどいなくなっているからだ」という皮肉聞かせた一文でまとめて、原稿を送信しました。

 全体的に皮肉っぽい内容になったなと思いつつも、意外と的確に事実を突いた一言だったかもしれないと最後の一文については後から思えてきました。私が述べたようにこれからも老人は増えるし、その一方で老人を支える若者は減っていって、老人となる人は若い人に助けてもらうことは人数的に不可能となることが目に見えており、まさに自分の身は自分で支えるしかない時代が来る気がします。政府もある程度それがわかっているから暗に自助努力してもらうよう健康維持についてこのところ広報が増えているようにも見え、恐らく今後も増え続けるでしょう。
 私としては自助努力っていうのがアメリカっぽく感じるだけに別にいいんじゃないって気がしますが、果たしてほかの日本人はどう思うか、それこそさっきの私の一言をぶつけてみれば反応がわかるかもしれないとか思ったりもしました。ただ真面目な話、もはやこの未来は不可避であると私は考えているだけに心配であるなら今からなら遅くないから健康を維持することに注力したらどうかというのが、海外で暴れ回って「花園さんの体力パネェ」って後輩に言われ続ける私からの提案だったりします。