・アホガール 1巻(ebook japan)
試し読みができると友人に教えてもらって上のアドレスの「アホガール」1巻を読みましたが、なかなか楽しめました。内容は文字通り自慢気に「私は掛け算もできないぞ」というアホな高校生の女の子を中心としたドタバタギャグですが、アホの子以外はみんな常識持ったまともな人間で構成されるためメリハリが聞いてて面白いです。
あとこの漫画を見て思ったこととしては、やっぱアホの子は明るくなきゃダメだということです。どんだけ周りから馬鹿にされても明るささえ失わなければ不思議とかわいく見えてくるので、学力がおっつかないと思ったらとにかくいつどこでも明るく振舞えるようになるよう心掛けるもの手でしょう。
と、ありきたりなことを書いた上で真面目な話に移ると、アホの子でかわいいと思えるのはある意味女性だけの特権かもしれません。というよりはっきり現実を言えばアホな女の子の方が確実に持てますし、男からはそういう子が求められています。
有名なのは慶応大の女子学生と、慶応女子の女子学生の比較です。言うまでもなく後者の方がランクは上とされ、私の通ってた大学も女子大が付属していましたが、やはり女子大の方がランクは上でした。理由ははっきりしており、男からしたら自分より学力や偏差値で上回る女の子とは付き合いたくないという感情が少なからずあり、やはりこの方面で一段低い子の方がモテてしまうわけです。
これが逆ならどうかというか男ならどうか。言うまでもなくアホな男子はモテません。アホなヤンキー男子は思ったことをすぐ口に言う癖があるので逆にモテると聞きますが、出身大学でいえば学力順にランクが組まれ、特に医学部の男子なんか半端ない人気になります。こうなるのはもちろん、女性がそういう風に求めるためというか需要と供給バランスです。
なので冒頭のアホガールも、アホボーイというタイトルと内容なら全く受けなかったでしょう。そしてそれは世論が反映したものです。っていうかそう考えるとなんか世知辛い気がする。
なお最近同僚相手に、「歴女って言葉が最近あるけど、男の歴史オタがモテるって話は聞きませんよね」ということをこの前つぶやきました。普通共通の趣味があれば惹かれ合うことは数々の論文で指摘、証明されていますが、歴女と歴史オタが結ばれたなんて話はついぞ一度たりとも聞いたことがありません。
なんて書きながら思いますが、私が今まで見てきた女性の中で自分が舌を巻くほど歴史の知識や興味が強い人間は一人たりともいません。うちの親父とその従弟(奈良在住)も、奈良県内各所の史跡を回りながら、「嫁さん連れてきても全くこの良さを理解しない」といい、「これだから九州の女は……」と愚痴ってました。まぁ関西女も同じだと思いますが。
私の実感で述べれば、歴史への興味は相対的に男性が女性を大きく上回る傾向がある気がします。その上で言えば、歴女と名乗る女性は多分水準的にはそれほど高くはないでしょう。先ほどはアホの女の子はモテると言いましたがこと歴史に関しては歴女と名乗るくらいなら相応の知識を私としては持ってもらいたいもので、最低でも本能寺の変における明智光秀の動機候補を3つは挙げてもらわないと私は認めません。ちなみに先ほどの同僚の前で私は即興で8つくらい挙げました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2017年7月31日月曜日
2017年7月30日日曜日
稲田騒動総括
書こうか書くまいか少し悩みましたが、メディアがきちんと追及していないようにも感じるため私が感じた稲田元防衛相問題について書いてきます。
結論から言えば、大臣以前に議員、っていうよりまともな社会人としてもやばい人だったのだなというのが私の見方です。安倍首相に気に入られるようになった靖国神社をやたら持ち上げる発言や、問題となった防衛相を私物化するような発言といい、恐らくこの人はあまり言葉の意味を考えずに口にしてしまう人で、靖国神社を持ち上げるような発言についてもただそれが「ウケがいい」から言っているだけで、実際はその意味や背景についてあまり考えていないのではとすら疑っています。
続いて日報問題について、先日発表された外部調査報告書によると稲田元防衛相が隠蔽を指示したかどうかについてはわからないとしながらも、防衛省幹部から日報が存在する事が報告されていたという点については「ほぼ間違いない」とされており、稲田元防衛相もこの点についてははっきりと否定しなかったので事実でしょう。これが何を意味するかというと、国会で日報に関する報告は受けていないとした発言は紛れもない虚偽答弁だったことを示しています。
それ以前にこの人、森友学園問題においても籠池前理事長と会ったことがないと言っておきながら記録が出てくるやあっさり発言をひっくり返すなど、ばれるとわかってる嘘を平気でつくようなところがあります。この一件があったからこそ私は初めから稲田元防衛相の発言は真実性が低いと思ってあまり信じていませんでしたが、日報報告についてこうやって虚偽答弁であることがはっきりと示されておきながら未だ国民に謝罪をせず、「党がこういう時に申し訳ない」などと言い出して一体どっち向いて仕事してるんだと、はっきり言えば殴りたくなりました。誰も言わないから私が言いますが、私は正直この人には早く死んでもらいたいとすら思いますし、死んだところで誰も損しないしむしろ余計な混乱招く人一人減って世の中は少し平和になると思います。
・「陸自が情報リーク」の見方 「これではクーデターだ!」 日報問題で文民統制に深刻な懸念(産経新聞)
日報問題に絡んで上記のような報道も出ていますが、確かに今回の「報告書は実は確認されていた」、「大臣に報告もしていた」といった情報は陸自、それも制服組あたりからリークされたものだと状況的に考えられます。これについて政権寄りの産経新聞は軍が自分らに不都合な大臣をリークによって追い出した、文民統制の危機だなどと書いているわけなのですが、産経は稲田元防衛相にそのまま留任していて欲しかったのでしょうか。だとすれば私は正気を疑います。
またこのリークについても、仮に内容が事実と異なっていなり本来秘密を守るべきものが世に出たのであれば私も眉をしかめますが、今回出てきた情報、特に戦闘行為が周辺で発生したとする日報は本来公開されるべき情報だと思います。それが何故公開されなかったのかと言えば、はっきり言えば、「隠蔽を指示した」とする証拠はないもののわざわざ虚偽答弁をしてまでその存在を隠そうとした防衛大臣がいたからで、いわば政権側によって秘匿されたと私は考えています。
一昨年、安保関連法案が通過して軍事機密などの情報の秘匿を行うに当たり安倍首相は「必要な情報は必ず公開する」としていましたが、現実にはそれが今回守られていなかったとこれまた私は考えます。あの安保関連法の情報秘匿は「必要最低限」である前提だからこそ認められたものでありその前提が破られたというのであれば私はやはり問題だと思いますし、法律を残そうというのなら今回本来不必要な秘匿を行った人間は最低でも処分されなければならないはずだと思います。
その上で述べると、今回の事件は陸自側がリークしたとは思われるもののリークされた情報は本来国民に広く公開されるべき情報であり、それを隠した政権側にこそ私は問題があると思います。産経は防衛省からリークされた事実一つ取って「文民統制の危機」と書いていますが構造は逆で、公開すべき情報を隠した政権に対し防衛相が公開へ持っていくよう仕向けたというのが今回の事件であり、糾弾すべきはどっちだということじゃないでしょうか。私はもちろん、情報を暴露することがある意味仕事なのでつくべき立場は暴露側に決まっていますが。
またそのリークによって大臣職を追われたとされる稲田防衛相ですが、別にリークがなくともこの人に未来がないのは防衛相を私物化する発言の時に決まっており、またこのリークで追われたというのもある意味自業自得です。虚偽の扇動に載せられたのではなく、嘘ついていたのがばれてこうなったというのに何を産経はとぼけたこと抜かしているのか。今回の場合、暴走していたのは軍人ではなく文民側で、産経は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で映像をリークした海上保安官を擁護してたというのに相手を見て言い方を変えています。
それにしてもというか安倍首相の人を見る目の無さは毎度ながら呆れるレベルです。この際だから人事にはもう一切かかわらない方がこの人のためになるとすら思いますが、なんとなく昔「KY」と呼ばれていたころに戻りつつあるようにも見えるので、多分今年の秋には「改憲を行う」と主張して国民から大反発を買うこととなるでしょう。
私自身は改憲には賛成ですが、上記の通り公開すべき情報を握り潰した安倍政権には改憲は任せられないように思うため、仮に安倍首相が主張したら反対側に回るつもりです。
結論から言えば、大臣以前に議員、っていうよりまともな社会人としてもやばい人だったのだなというのが私の見方です。安倍首相に気に入られるようになった靖国神社をやたら持ち上げる発言や、問題となった防衛相を私物化するような発言といい、恐らくこの人はあまり言葉の意味を考えずに口にしてしまう人で、靖国神社を持ち上げるような発言についてもただそれが「ウケがいい」から言っているだけで、実際はその意味や背景についてあまり考えていないのではとすら疑っています。
続いて日報問題について、先日発表された外部調査報告書によると稲田元防衛相が隠蔽を指示したかどうかについてはわからないとしながらも、防衛省幹部から日報が存在する事が報告されていたという点については「ほぼ間違いない」とされており、稲田元防衛相もこの点についてははっきりと否定しなかったので事実でしょう。これが何を意味するかというと、国会で日報に関する報告は受けていないとした発言は紛れもない虚偽答弁だったことを示しています。
それ以前にこの人、森友学園問題においても籠池前理事長と会ったことがないと言っておきながら記録が出てくるやあっさり発言をひっくり返すなど、ばれるとわかってる嘘を平気でつくようなところがあります。この一件があったからこそ私は初めから稲田元防衛相の発言は真実性が低いと思ってあまり信じていませんでしたが、日報報告についてこうやって虚偽答弁であることがはっきりと示されておきながら未だ国民に謝罪をせず、「党がこういう時に申し訳ない」などと言い出して一体どっち向いて仕事してるんだと、はっきり言えば殴りたくなりました。誰も言わないから私が言いますが、私は正直この人には早く死んでもらいたいとすら思いますし、死んだところで誰も損しないしむしろ余計な混乱招く人一人減って世の中は少し平和になると思います。
・「陸自が情報リーク」の見方 「これではクーデターだ!」 日報問題で文民統制に深刻な懸念(産経新聞)
日報問題に絡んで上記のような報道も出ていますが、確かに今回の「報告書は実は確認されていた」、「大臣に報告もしていた」といった情報は陸自、それも制服組あたりからリークされたものだと状況的に考えられます。これについて政権寄りの産経新聞は軍が自分らに不都合な大臣をリークによって追い出した、文民統制の危機だなどと書いているわけなのですが、産経は稲田元防衛相にそのまま留任していて欲しかったのでしょうか。だとすれば私は正気を疑います。
またこのリークについても、仮に内容が事実と異なっていなり本来秘密を守るべきものが世に出たのであれば私も眉をしかめますが、今回出てきた情報、特に戦闘行為が周辺で発生したとする日報は本来公開されるべき情報だと思います。それが何故公開されなかったのかと言えば、はっきり言えば、「隠蔽を指示した」とする証拠はないもののわざわざ虚偽答弁をしてまでその存在を隠そうとした防衛大臣がいたからで、いわば政権側によって秘匿されたと私は考えています。
一昨年、安保関連法案が通過して軍事機密などの情報の秘匿を行うに当たり安倍首相は「必要な情報は必ず公開する」としていましたが、現実にはそれが今回守られていなかったとこれまた私は考えます。あの安保関連法の情報秘匿は「必要最低限」である前提だからこそ認められたものでありその前提が破られたというのであれば私はやはり問題だと思いますし、法律を残そうというのなら今回本来不必要な秘匿を行った人間は最低でも処分されなければならないはずだと思います。
その上で述べると、今回の事件は陸自側がリークしたとは思われるもののリークされた情報は本来国民に広く公開されるべき情報であり、それを隠した政権側にこそ私は問題があると思います。産経は防衛省からリークされた事実一つ取って「文民統制の危機」と書いていますが構造は逆で、公開すべき情報を隠した政権に対し防衛相が公開へ持っていくよう仕向けたというのが今回の事件であり、糾弾すべきはどっちだということじゃないでしょうか。私はもちろん、情報を暴露することがある意味仕事なのでつくべき立場は暴露側に決まっていますが。
またそのリークによって大臣職を追われたとされる稲田防衛相ですが、別にリークがなくともこの人に未来がないのは防衛相を私物化する発言の時に決まっており、またこのリークで追われたというのもある意味自業自得です。虚偽の扇動に載せられたのではなく、嘘ついていたのがばれてこうなったというのに何を産経はとぼけたこと抜かしているのか。今回の場合、暴走していたのは軍人ではなく文民側で、産経は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で映像をリークした海上保安官を擁護してたというのに相手を見て言い方を変えています。
それにしてもというか安倍首相の人を見る目の無さは毎度ながら呆れるレベルです。この際だから人事にはもう一切かかわらない方がこの人のためになるとすら思いますが、なんとなく昔「KY」と呼ばれていたころに戻りつつあるようにも見えるので、多分今年の秋には「改憲を行う」と主張して国民から大反発を買うこととなるでしょう。
私自身は改憲には賛成ですが、上記の通り公開すべき情報を握り潰した安倍政権には改憲は任せられないように思うため、仮に安倍首相が主張したら反対側に回るつもりです。
2017年7月29日土曜日
続・ 地下鉄サリン事件、医療現場での奮闘と奇跡
先月当たりのブログ記事で村上春樹氏の「アンダーグラウンド」という本を読んでいると書きました。この本は1995年の地下鉄サリン事件で直接被害に遭った、というより事件のあった地下鉄駅ないし車両に居合わせた人々へのインタビュー集で、事件のおおよそ1年半くらい経過した時期に取材が行われています。
私がこの本を手に取るのはこれが初めてでしたがまさに私が求めていた、「オウム事件」ではなく「地下鉄サリン事件」の被害者の直接証言が集められており、また前後関係や他の証言者の話などから、恐らくは事実とは異なっている内容の証言についても証言者が話した通りにそのまま掲載されており、余計な修正等はされておらず非常に行き届いた配慮がなされています。なおこうした、「証言をそのまま載せる」というのは社会学においても重要視されており、村上氏のこうした取材の仕方にはため息が出るほど感心させられました。
仮に今現在、同じ証言者に当時の内容について聞いたとしても、この本に書かれている内容通りの証言はまず得られないでしょう。内容が断片的になるくらいならまだマシで、人によっては証言内容がそっくりひっくり変わってしまっているということすらあり得ます。具体的には、症状の程度について「自分は大した影響を受けなかった」という証言が、「物凄い影響を受けて後遺症も出てきた」などという感じに変わる可能性があり、私自身も周囲を見ていて感じますが、時間経過に伴う記憶の最適化こと都合のいい解釈へと切り替わっていくのは現実です。
それだけにこの「アンダーグラウンド」は唯一無二と言っていいくらいの貴重な資料で、サリン事件からもう20年超も経過した今だからこそ読まれるべき内容であると太鼓判を押します。
ここで話を変わりますが、「地下鉄サリン事件、医療現場での奮闘と奇跡」という記事をこのブログで2010年(7年前か……)に書いています。私自身も魂を込めてというか気合入れて書いた記事でありましたが、毎年3月のサリン事件の時期にもなると検索されるためかアクセスが急上昇する傾向があり、年月を問わず長く読まれる記事をうまく作れた気がします。この記事はサリン事件当時の医療現場について書き、その中では先日逝去された日野原重明氏の陣頭指揮とともに、信州大学医学部の柳沢信夫教授の咄嗟の機転を紹介しました。その機転というのも、テレビニュースで事件が報道されるのを見るやすぐさま原因はサリン散布だと見抜いた上で、東京の各病院へサリン中毒者への治療法、対応をFAXで送信したというものです。
その柳沢信夫氏について、実は「アンダーグラウンド」の中でも取材が行われており、恐らく上記エピソードが流布される出典はこれではないかと思います。その取材内容によると事件当時(1995年3月20日)、柳沢氏は知り合いの記者から「東京でサリン被害者のような症状の人間が出ている」という連絡を受けたのが第一報で、その後みたテレビニュースである被害者が、「鏡を見たら瞳が小さくなっている(縮瞳)」という内容を口にしたのを見て、原因はサリンだと断定したそうです。
柳沢氏は前年の松本サリン事件で被害者を診ていたことからすぐに気が付いたのですが、この時のことについて、「もし違う日であれば対応はできなかった」と話していました。というのもその日は所属する信州大学の卒業式で、普段であれば診察作業のためテレビなんて見ている余裕はなく、偶然卒業式があったからこそ事件に気付き対応できたそうです。
また偶然は重なるというか、ちょうどこの時に松本サリン事件対応の報告書を作成したばかりでそのゲラも自分の机の上にあったため、職員らにそれをFAXさせたそうです。偶然に偶然は重なるというかまさに不幸中の幸いともいえる背景があったからこそ、上記の柳沢氏の行動が実現したと言えるでしょう。なお柳沢氏によると、松本サリン事件で死亡した7人の中には信州大学医学の学生が一人含まれ、もし生きていればこの日に卒業式を迎えていたことから柳沢氏も事件への思い入れは強かったそうです。
ちなみにこの時のFAXは各病院へ直接FAXしているものの、消防庁にはしなかったそうです。一応は試してみたものの電話自体がつながらず、また消防庁から各病院へ一斉に送信されるのが理想であっても実際にはそうはいかないだろうと思っていたことも口にしています。実際、その柳沢氏の予感は的中していました。
同じく「アンダーグラウンド」では東邦大学医学部付属大森病院救命救急センターに勤務する(当時)斉藤徹氏にも取材がなされています。専門柄、多種多様な急患を相手にする医師なだけあって午前8時ごろの事件に関する最初の報道を見るや、「有毒ガスというにはサリンかシアンかどっちかだ」と即判断したそうです。斉藤氏はサリン被害と同じ有機リン中毒者も、シアン中毒者も過去に治療したことがあり対応をあらかじめ把握しており、また以前に行った松本サリン事件の講義の際に当時の報道などを調べていたこともあって、最初の患者が運び込まれる以前に院内の医師たちに準備を行っておくよう指示していたことが明かされています。
その後、午前9時ごろに実際に患者が運び込まれてきたところ、ここで少し小さな障害が起こります。直前に現場から「アセトニトリル」が検出されたとの報道をみたことからシアン中毒だとほぼ断定していたものの、実際の患者の症状を見るとサリン中毒としか思えなかったからです。
これは当時の報道が間違っていたわけではなく、犯人らは散布者が自爆しないよう、サリンの純度を下げるために溶剤を混ぜており、その溶剤にアセトニトリルが入っていたと推測されており、それを裏付けるようにほかの被害者の臓器から大量のアセトニトリルが検出されています。
話は戻りますがこうした事態に対し斉藤氏は慌てず、シアン中毒の場合は緊急で治療しなければ間に合わないことからまずはシアン中毒向けの治療薬を投与し、症状が改善しなければサリン中毒向け治療薬を投与することを決めました。警視庁は午前11時頃に原因はサリンであると特定して発表しましたが、既にそのころには斉藤氏の現場では被害者はサリン中毒であると断定し、それに対応した治療も行われたと言います。またほぼ同時期に信州大学から対応に関する資料がFAXで送られてきたそうで、この資料の中でも特に「足切りのラインがわかったのがありがたかった」と述べています。
これはどういうことかというと、症状が出てはいるものの時間経過とともに自然治癒する患者と、入院させてその後の経過を観察する必要がある患者を区別するラインのことで、具体的には筋肉を収縮後、弛緩させる際に分泌される「コリンエステラーゼ」の値がどれだけあるかで判断します。サリン中毒の場合、このコリンエステラーゼが低下するため筋肉が収縮したまま弛緩しなくなり、瞳が収縮したままとなって目が見えなくなるというのが代表的な症状です。
斉藤氏によると、大量の患者を一人一人細かく診断するのは労力的に不可能であり、また多くの人に構うあたり重症患者へのケアが遅れてしまうという問題が当時起きており、いわゆる「トリアージ」こと患者の分別をする上で柳沢氏の資料が役立ったそうです。
一方、消防庁からは当日の4時半ごろになってようやくサリン関係の資料が送られてきたそうです。しかし現場ではすでに治療法や対策がすべて固まっており、今更的な資料として終わったそうです。その上で事件途中で送ってこられた資料は柳沢氏のFAXだけで、先ほどの足切りのラインと言い大いに役立ったと証言しています。
ここから個人的な感想ですが、地下鉄サリン事件の医療現場で一番役に立ったとされる情報が上記の「足切りのライン」だったというのは私にとって意外でした。てっきり治療法や経過観察などの情報化と思っていましたが、こうした大量に患者が出現する現場では如何に現場を回すか、治療の不要な患者を如何に切り落とすかという作業の重要性が垣間見え、サリン事件に限らず災害やテロ現場の治療においても恐らく同様に大事なのだと思えます。だからこそ柳沢氏も、わかっていてこの情報をきちんと盛り込んだのでしょう。
その上で当時の現場では中央からの指示や支援以上に、現場での判断や対応によって治療が行われていたのだということも見えてきます。はっきり言えばこれはあまりよくないと言える内容で、こうした緊急事態に対し中央がどれだけ適切に動けるか、あれから時間は経過していますが現在はどうなのかという点で気になるところです。現場の努力は賞賛されるべきですが、だからと言ってそれに甘えていくというのは危険この上ないでしょう。
まとめとなりますが改めて地下鉄サリン事件の医療現場では多大な努力と適した、というより理想的な現場判断がなされており、それによって多くの患者が救われたということが「アンダーグラウンド」を読んでわかりました。それだけに中央の遅れがちとなった対応には不安を感じますが、当時の医師や看護師たちがどれだけ献身的に活動をしていたことには間違いなく、まさにこれこそ今更的ですが、この場ながら当時医療現場にいた方々に対し尊敬の念を覚えます。
それにしても今回取り上げた斉藤氏の現場判断力にはまこと恐れ入ります。あのわずかな情報だけで中毒症状を判断し、また実際の治療前に準備まで整えておくなどとさすが緊急医療のスペシャリストと思わせられ、中島みゆきじゃないですが「地上の星」を私は見失っていたのかもしれません。この斉藤氏は事件後も、PTSDに悩む被害者へのカウンセリング体制も組織するなどその後も活動されていますが、ネットで検索する限りだとあまりヒットしないだけに、こうした称賛されるべき人たちを紹介するというのはライター冥利に尽きます。
おまけ
「地上の星」の歌詞の「草原のペガサス」が「その辺のペガサス」に聞こえるという誰かの話を聞いて以来、私もそうとしか聞こえなくなってきました。その辺にペガサスがいる状況想像したらちょい笑えますが、ある意味現実もそうなのかもなと思うと笑えなくなります。
私がこの本を手に取るのはこれが初めてでしたがまさに私が求めていた、「オウム事件」ではなく「地下鉄サリン事件」の被害者の直接証言が集められており、また前後関係や他の証言者の話などから、恐らくは事実とは異なっている内容の証言についても証言者が話した通りにそのまま掲載されており、余計な修正等はされておらず非常に行き届いた配慮がなされています。なおこうした、「証言をそのまま載せる」というのは社会学においても重要視されており、村上氏のこうした取材の仕方にはため息が出るほど感心させられました。
仮に今現在、同じ証言者に当時の内容について聞いたとしても、この本に書かれている内容通りの証言はまず得られないでしょう。内容が断片的になるくらいならまだマシで、人によっては証言内容がそっくりひっくり変わってしまっているということすらあり得ます。具体的には、症状の程度について「自分は大した影響を受けなかった」という証言が、「物凄い影響を受けて後遺症も出てきた」などという感じに変わる可能性があり、私自身も周囲を見ていて感じますが、時間経過に伴う記憶の最適化こと都合のいい解釈へと切り替わっていくのは現実です。
それだけにこの「アンダーグラウンド」は唯一無二と言っていいくらいの貴重な資料で、サリン事件からもう20年超も経過した今だからこそ読まれるべき内容であると太鼓判を押します。
ここで話を変わりますが、「地下鉄サリン事件、医療現場での奮闘と奇跡」という記事をこのブログで2010年(7年前か……)に書いています。私自身も魂を込めてというか気合入れて書いた記事でありましたが、毎年3月のサリン事件の時期にもなると検索されるためかアクセスが急上昇する傾向があり、年月を問わず長く読まれる記事をうまく作れた気がします。この記事はサリン事件当時の医療現場について書き、その中では先日逝去された日野原重明氏の陣頭指揮とともに、信州大学医学部の柳沢信夫教授の咄嗟の機転を紹介しました。その機転というのも、テレビニュースで事件が報道されるのを見るやすぐさま原因はサリン散布だと見抜いた上で、東京の各病院へサリン中毒者への治療法、対応をFAXで送信したというものです。
その柳沢信夫氏について、実は「アンダーグラウンド」の中でも取材が行われており、恐らく上記エピソードが流布される出典はこれではないかと思います。その取材内容によると事件当時(1995年3月20日)、柳沢氏は知り合いの記者から「東京でサリン被害者のような症状の人間が出ている」という連絡を受けたのが第一報で、その後みたテレビニュースである被害者が、「鏡を見たら瞳が小さくなっている(縮瞳)」という内容を口にしたのを見て、原因はサリンだと断定したそうです。
柳沢氏は前年の松本サリン事件で被害者を診ていたことからすぐに気が付いたのですが、この時のことについて、「もし違う日であれば対応はできなかった」と話していました。というのもその日は所属する信州大学の卒業式で、普段であれば診察作業のためテレビなんて見ている余裕はなく、偶然卒業式があったからこそ事件に気付き対応できたそうです。
また偶然は重なるというか、ちょうどこの時に松本サリン事件対応の報告書を作成したばかりでそのゲラも自分の机の上にあったため、職員らにそれをFAXさせたそうです。偶然に偶然は重なるというかまさに不幸中の幸いともいえる背景があったからこそ、上記の柳沢氏の行動が実現したと言えるでしょう。なお柳沢氏によると、松本サリン事件で死亡した7人の中には信州大学医学の学生が一人含まれ、もし生きていればこの日に卒業式を迎えていたことから柳沢氏も事件への思い入れは強かったそうです。
ちなみにこの時のFAXは各病院へ直接FAXしているものの、消防庁にはしなかったそうです。一応は試してみたものの電話自体がつながらず、また消防庁から各病院へ一斉に送信されるのが理想であっても実際にはそうはいかないだろうと思っていたことも口にしています。実際、その柳沢氏の予感は的中していました。
同じく「アンダーグラウンド」では東邦大学医学部付属大森病院救命救急センターに勤務する(当時)斉藤徹氏にも取材がなされています。専門柄、多種多様な急患を相手にする医師なだけあって午前8時ごろの事件に関する最初の報道を見るや、「有毒ガスというにはサリンかシアンかどっちかだ」と即判断したそうです。斉藤氏はサリン被害と同じ有機リン中毒者も、シアン中毒者も過去に治療したことがあり対応をあらかじめ把握しており、また以前に行った松本サリン事件の講義の際に当時の報道などを調べていたこともあって、最初の患者が運び込まれる以前に院内の医師たちに準備を行っておくよう指示していたことが明かされています。
その後、午前9時ごろに実際に患者が運び込まれてきたところ、ここで少し小さな障害が起こります。直前に現場から「アセトニトリル」が検出されたとの報道をみたことからシアン中毒だとほぼ断定していたものの、実際の患者の症状を見るとサリン中毒としか思えなかったからです。
これは当時の報道が間違っていたわけではなく、犯人らは散布者が自爆しないよう、サリンの純度を下げるために溶剤を混ぜており、その溶剤にアセトニトリルが入っていたと推測されており、それを裏付けるようにほかの被害者の臓器から大量のアセトニトリルが検出されています。
話は戻りますがこうした事態に対し斉藤氏は慌てず、シアン中毒の場合は緊急で治療しなければ間に合わないことからまずはシアン中毒向けの治療薬を投与し、症状が改善しなければサリン中毒向け治療薬を投与することを決めました。警視庁は午前11時頃に原因はサリンであると特定して発表しましたが、既にそのころには斉藤氏の現場では被害者はサリン中毒であると断定し、それに対応した治療も行われたと言います。またほぼ同時期に信州大学から対応に関する資料がFAXで送られてきたそうで、この資料の中でも特に「足切りのラインがわかったのがありがたかった」と述べています。
これはどういうことかというと、症状が出てはいるものの時間経過とともに自然治癒する患者と、入院させてその後の経過を観察する必要がある患者を区別するラインのことで、具体的には筋肉を収縮後、弛緩させる際に分泌される「コリンエステラーゼ」の値がどれだけあるかで判断します。サリン中毒の場合、このコリンエステラーゼが低下するため筋肉が収縮したまま弛緩しなくなり、瞳が収縮したままとなって目が見えなくなるというのが代表的な症状です。
斉藤氏によると、大量の患者を一人一人細かく診断するのは労力的に不可能であり、また多くの人に構うあたり重症患者へのケアが遅れてしまうという問題が当時起きており、いわゆる「トリアージ」こと患者の分別をする上で柳沢氏の資料が役立ったそうです。
一方、消防庁からは当日の4時半ごろになってようやくサリン関係の資料が送られてきたそうです。しかし現場ではすでに治療法や対策がすべて固まっており、今更的な資料として終わったそうです。その上で事件途中で送ってこられた資料は柳沢氏のFAXだけで、先ほどの足切りのラインと言い大いに役立ったと証言しています。
ここから個人的な感想ですが、地下鉄サリン事件の医療現場で一番役に立ったとされる情報が上記の「足切りのライン」だったというのは私にとって意外でした。てっきり治療法や経過観察などの情報化と思っていましたが、こうした大量に患者が出現する現場では如何に現場を回すか、治療の不要な患者を如何に切り落とすかという作業の重要性が垣間見え、サリン事件に限らず災害やテロ現場の治療においても恐らく同様に大事なのだと思えます。だからこそ柳沢氏も、わかっていてこの情報をきちんと盛り込んだのでしょう。
その上で当時の現場では中央からの指示や支援以上に、現場での判断や対応によって治療が行われていたのだということも見えてきます。はっきり言えばこれはあまりよくないと言える内容で、こうした緊急事態に対し中央がどれだけ適切に動けるか、あれから時間は経過していますが現在はどうなのかという点で気になるところです。現場の努力は賞賛されるべきですが、だからと言ってそれに甘えていくというのは危険この上ないでしょう。
まとめとなりますが改めて地下鉄サリン事件の医療現場では多大な努力と適した、というより理想的な現場判断がなされており、それによって多くの患者が救われたということが「アンダーグラウンド」を読んでわかりました。それだけに中央の遅れがちとなった対応には不安を感じますが、当時の医師や看護師たちがどれだけ献身的に活動をしていたことには間違いなく、まさにこれこそ今更的ですが、この場ながら当時医療現場にいた方々に対し尊敬の念を覚えます。
それにしても今回取り上げた斉藤氏の現場判断力にはまこと恐れ入ります。あのわずかな情報だけで中毒症状を判断し、また実際の治療前に準備まで整えておくなどとさすが緊急医療のスペシャリストと思わせられ、中島みゆきじゃないですが「地上の星」を私は見失っていたのかもしれません。この斉藤氏は事件後も、PTSDに悩む被害者へのカウンセリング体制も組織するなどその後も活動されていますが、ネットで検索する限りだとあまりヒットしないだけに、こうした称賛されるべき人たちを紹介するというのはライター冥利に尽きます。
おまけ
「地上の星」の歌詞の「草原のペガサス」が「その辺のペガサス」に聞こえるという誰かの話を聞いて以来、私もそうとしか聞こえなくなってきました。その辺にペガサスがいる状況想像したらちょい笑えますが、ある意味現実もそうなのかもなと思うと笑えなくなります。
2017年7月28日金曜日
被害者証言に偏る報道
またちょっとブログデザインをいろいろ弄って背景を変えました。これまではデフォルトでブログソフト側が用意した背景を使ってましたが、今回新たに自分で探した画像を使って、なるべく和風系で探してみましたが、背景的には文字が見やすくなり案外悪くない気がします。と言っても明日もまた探していろいろ付け替えを試してみるつもりですが。
・教師「今すぐ窓から飛び降りろ」「このクラスは34人だが明日から33人だ」 小4児童に暴言や暴行
・【埼玉】 「飛び降りろ」発言教諭の「処分見送りを」 保護者や卒業生ら署名活動
(どちらも「痛いニュース」より)
少し日が経ったニュースの紹介ですが、上記はどちらも今月中旬に報じられた内容です。知ってる方には早いですが第一報は7月16日に出され、埼玉県所沢市の小学校教師がクラスの児童に対し「窓から飛び降りろ」、「明日からクラスの人数は34人から33人だ」というようなことを口にしたと報じられました。一見して私はこの報道に奇妙さを感じたのですがそれは後述するとして、案の定というか最初の報道からわずか数日後の7月22日には、最初の報道内容を否定する報道が出てきました。
後発の報道によると、暴言を吐かれたとされる児童は問題行動が多い問題児で、新聞を破るという行動について「やれと言われたからやった」と言い訳したのに対し教師が、「飛び降りろと言われたら飛び降りるのか?」と諭しただけで、またクラス人数についても問題行動をやめないとクラスの一員にはなれないという意味で言ったとされており、実際周りの人間もわかってるから担任を擁護するための署名活動が行われているそうです。
そして現在、この件に関する続報はピタリと止まっており、恐らく後発の報道が真実だったのではないかと私は考えます。そもそも初報の時点で何かおかしな報道だと感じていただけに、予想が当たってやったラッキーってとこです。
なぜ初報の段階で私がおかしいと感じたのかというと、一つは暴言の内容が断片的で後発報道でも指摘されている通り、「どういう前後関係でこうした発言が出たのか」について全く触れられていなかったからです。次に、取り上げられた二つの暴言内容に脈絡がないというか関連性がなく、同じ人間が言ったとは思えなかったからです。
最初の「今すぐ飛び降りろ」は直接的な暴言で、私だったら次に言うなら、「飛び降りないなら今すぐ首つって死ねボケが来ます。それに対しもう一つの「クラスの人数が33人になります」はどちらかというと間接的且つ陰険な暴言で、これに続くとしたら、「なんでまだ学校に来ているの?」とか、どっちかっていうとネチネチ系の発言があるはずだと思えました。はっきり言って推察の域を出ない予想でしたが、直接的と間接的の二つの暴言が混ざってて、ほんまかいなと疑ったわけです。
では、そもそも何故実態とは異なる最初の報道が出てしまったのか。言うまでもなく理由は暴言を言われたとされる児童側の関係者が被害者の立場で一方的にしゃべり、それをほかの周辺関係者に確認しないままメディアが報じたためでしょう。それが分かっているから後続の報道がピタリと止まってしまったのです。
この構造ですが、先月私も書評で取り上げた福田ますみ氏による「でっちあげ」、「モンスターマザー」の本で紹介された事例と全く同じです。というかこれらの本を読んでいたから、私も初報を見ておかしいと感じたのでしょうが
被害者、と主張する側の意見が何故こうも一方的に報じらえるのか。実際に「埼玉 教師 飛び降り」と検索したらこの事件の初報のニュースばかりがヒットし、この教師の名前を晒せなどと激しい言葉が並ぶサイトが上位に来ます。というより、初報を出したメディアはまだ記事を引っ込めておらず、言い方は悪いですが未だ絶賛拡散中であります。
いろいろほかにも言いたいことはありますが、こういう例でよく思うこととしては大学時代の倫理の授業で言われた、「被害者と加害者は対立項目ではなく、むしろ似た属性を持つ」という言葉です。一例を挙げるなら、911テロの被害者である米国はイラクに対する加害者でもあり、また「被害を受けたから」という理由は加害を行う理由となりうるということです。何が言いたいのかというと、被害者加害者の観点や構造を下手に当てはめようとすると事実が歪む可能性があり、一体その場で何があったのかというその事実だけを追うという姿勢こそが報道に必要じゃないのかなと言いたいわけです。清水潔氏も、ある意味こうした立場で南京事件を追っているからこの人は本物だと思うのだし。
・教師「今すぐ窓から飛び降りろ」「このクラスは34人だが明日から33人だ」 小4児童に暴言や暴行
・【埼玉】 「飛び降りろ」発言教諭の「処分見送りを」 保護者や卒業生ら署名活動
(どちらも「痛いニュース」より)
少し日が経ったニュースの紹介ですが、上記はどちらも今月中旬に報じられた内容です。知ってる方には早いですが第一報は7月16日に出され、埼玉県所沢市の小学校教師がクラスの児童に対し「窓から飛び降りろ」、「明日からクラスの人数は34人から33人だ」というようなことを口にしたと報じられました。一見して私はこの報道に奇妙さを感じたのですがそれは後述するとして、案の定というか最初の報道からわずか数日後の7月22日には、最初の報道内容を否定する報道が出てきました。
後発の報道によると、暴言を吐かれたとされる児童は問題行動が多い問題児で、新聞を破るという行動について「やれと言われたからやった」と言い訳したのに対し教師が、「飛び降りろと言われたら飛び降りるのか?」と諭しただけで、またクラス人数についても問題行動をやめないとクラスの一員にはなれないという意味で言ったとされており、実際周りの人間もわかってるから担任を擁護するための署名活動が行われているそうです。
そして現在、この件に関する続報はピタリと止まっており、恐らく後発の報道が真実だったのではないかと私は考えます。そもそも初報の時点で何かおかしな報道だと感じていただけに、予想が当たってやったラッキーってとこです。
なぜ初報の段階で私がおかしいと感じたのかというと、一つは暴言の内容が断片的で後発報道でも指摘されている通り、「どういう前後関係でこうした発言が出たのか」について全く触れられていなかったからです。次に、取り上げられた二つの暴言内容に脈絡がないというか関連性がなく、同じ人間が言ったとは思えなかったからです。
最初の「今すぐ飛び降りろ」は直接的な暴言で、私だったら次に言うなら、「飛び降りないなら今すぐ首つって死ねボケが来ます。それに対しもう一つの「クラスの人数が33人になります」はどちらかというと間接的且つ陰険な暴言で、これに続くとしたら、「なんでまだ学校に来ているの?」とか、どっちかっていうとネチネチ系の発言があるはずだと思えました。はっきり言って推察の域を出ない予想でしたが、直接的と間接的の二つの暴言が混ざってて、ほんまかいなと疑ったわけです。
では、そもそも何故実態とは異なる最初の報道が出てしまったのか。言うまでもなく理由は暴言を言われたとされる児童側の関係者が被害者の立場で一方的にしゃべり、それをほかの周辺関係者に確認しないままメディアが報じたためでしょう。それが分かっているから後続の報道がピタリと止まってしまったのです。
この構造ですが、先月私も書評で取り上げた福田ますみ氏による「でっちあげ」、「モンスターマザー」の本で紹介された事例と全く同じです。というかこれらの本を読んでいたから、私も初報を見ておかしいと感じたのでしょうが
被害者、と主張する側の意見が何故こうも一方的に報じらえるのか。実際に「埼玉 教師 飛び降り」と検索したらこの事件の初報のニュースばかりがヒットし、この教師の名前を晒せなどと激しい言葉が並ぶサイトが上位に来ます。というより、初報を出したメディアはまだ記事を引っ込めておらず、言い方は悪いですが未だ絶賛拡散中であります。
いろいろほかにも言いたいことはありますが、こういう例でよく思うこととしては大学時代の倫理の授業で言われた、「被害者と加害者は対立項目ではなく、むしろ似た属性を持つ」という言葉です。一例を挙げるなら、911テロの被害者である米国はイラクに対する加害者でもあり、また「被害を受けたから」という理由は加害を行う理由となりうるということです。何が言いたいのかというと、被害者加害者の観点や構造を下手に当てはめようとすると事実が歪む可能性があり、一体その場で何があったのかというその事実だけを追うという姿勢こそが報道に必要じゃないのかなと言いたいわけです。清水潔氏も、ある意味こうした立場で南京事件を追っているからこの人は本物だと思うのだし。
2017年7月27日木曜日
経済記事の神髄
最近上海では気温が30度を切るようになって涼しくなってきました、つっても最低気温の話ですが。なお最高気温も昨日今日は40度を切ったので、なんとはなくピークは乗り越えたかなって気がします。
それだけに、日本で最高気温35度前後で大騒ぎしているのが見ていてちょっと腹立たしいです。
話は本題ですが、この前JBpressの次回記事用の取材をしてきましたがその後で記事を編集している最中、撮影してきた写真の映りがやけによくて自分でビビりました。っていうか私は写真の良し悪しは八割方カメラの性能で決まると考えていますが、自慢の富士フイルム製デジカメではなく携帯カメラで撮ったというのにここまできれいに撮れるものかと呆れ半分感心半分でした。
あまり知らない方も多いのではないかと思いますが、報道写真というのは専属のカメラマンではなく案外記者が自分で撮影していることが多いです。なので私の記事に使われる写真も、特に撮影する内容がないものは冒頭に適当な画像をはっつけてもらっていますが、基本的にはすべて自分で撮影しています。それどころか、写真だけでなくグラフもまた全部自分で作っています。
私は元々は社会部系の報道記者になりたかったのですが生憎新卒時ではどこからも門前払いを受け、仕方なく商社に勤務した後で中国にわたり経済系の新聞社に入社しました。今思うと社会や政治部系の報道だったら思想信条で社とぶつかる可能性が私にはあり、そうした思想とは関係なく「仕事だから」と割り切れる経済記事をメインで書く新聞社というのは案外相性が良かったと今更ながら思います。もっとも思想や信条と関係ないと言いつつも経済系の内容は学生時代から不得手ではなく、分析や知識なら当時から経済学部の学生を遥かに凌駕する水準は持っていましたが。
そんなかんだで経済紙記者として一時期を過ごした私に、経済記事とはどのように書くのか、どうあるべきかという問いに答えるとしたら、突き詰めれば文字こと地の文はいらないと考えています。一番理想的なのは参考に足るグラフだけを見せて、あとの内容は読者に判断させるというのが経済記事としてあるべき姿だと思います。それだけにグラフのない経済記事というのはこの一点をとっても価値は低くなり、もちろんすべての経済記事にグラフつけるのは骨なので無理でしょうが、なるべくグラフは多くつけるべきだというのが私の考えです。
経済記事というのは突き詰めれば数字データがすべてベースになっており、売上なり経済指標なり、それらの数値がどれだけ且つどのように変動したのかを通して社会の変動を分析します。新規投資の話も投資額や建設する工場の敷地面積や予想生産量、稼働率などの数字が何よりも物を言い、なおかつほかの事例の投資と比べて何が違うのかを図表にまとめて比較すればなおよいでしょう。
無論、実際にはそのようなグラフだけの経済記事など存在せず文章も付け加えられますが、基本的にそうした文章は発表された数字の紹介、そして変動を解説するものです。前者はグラフをつけない場合に使うもの(企業の業績発表データ)でとやかく言いませんが、後者については基本的に記者自身やコメンテーターの視点を通した分析で、少なくない主観が入っており必ずしも毎回事実を表すものではありません。
一例を書くと、前期と比べ増益減収し、その理由が市場に問題があるのか単純に当該企業の経営に問題があるのかといった一言コメントなどがそれに当たります。もちろん読者からしたらどっちが理由なのかを推察でもいいので付け加えてくれた方が詠んでて楽しいでしょうが、私としてはやはりデータだけ見せてそれらも含めて読者が考えるような記事が一番いいのではないかと思います。というのも、百人いれば百通りの答えがあるのだし、現実は非常に寛容で、どのような解釈も自己責任であれば許されると思うからです。
もっとも本気でそんな記事書いたら、例えば私が先週出した日銀の金融緩和に関する記事で暦年の設備投資額と対外投資額データグラフだけ出して見せて、「これが答えだ!」と言っても、記事としては成立しないでしょう。逆を言えば、見るだけで記者が言いたいこと、主張したいことが誰にでもわかるようなグラフを用意できるのであれば、それこそが経済記事の完成形と言えるでしょう。
実際にそのようなグラフを作るのは非常に困難であるものの、そうしたグラフを作ろうとする心意気こそが経済記事を書く上で最も重要で、どれだけ価値ある数字の比較グラフを作れるか、経済記者としての腕はここにかかってくると考えているわけです。
それだけに、最近ブログでは経済記事はあまり書かなくなっていますが、JBpressで経済記事を書く場合はとにもかくにもたくさんグラフを作ろうと意識して取り組んでいます。もっともこう言いながら、「このデータはよほど勘のいい人じゃなければ価値が分からない」と判断したら容赦なく見せないということもやったりするのですが。
まとめとして何が言いたいのかというと、経済記事、もしくはそのようなレポートを書こうというのならまず第一にどのようなグラフを作るかについて考え、その上でグラフの意味を解説する文章を考えるのがベターだということです。また解説文については短ければ短いほどよく、説明が要らないほどはっきりわかるグラフを心がければモアベター(この言葉は80年代産?)というわけです。
それだけに、日本で最高気温35度前後で大騒ぎしているのが見ていてちょっと腹立たしいです。
話は本題ですが、この前JBpressの次回記事用の取材をしてきましたがその後で記事を編集している最中、撮影してきた写真の映りがやけによくて自分でビビりました。っていうか私は写真の良し悪しは八割方カメラの性能で決まると考えていますが、自慢の富士フイルム製デジカメではなく携帯カメラで撮ったというのにここまできれいに撮れるものかと呆れ半分感心半分でした。
あまり知らない方も多いのではないかと思いますが、報道写真というのは専属のカメラマンではなく案外記者が自分で撮影していることが多いです。なので私の記事に使われる写真も、特に撮影する内容がないものは冒頭に適当な画像をはっつけてもらっていますが、基本的にはすべて自分で撮影しています。それどころか、写真だけでなくグラフもまた全部自分で作っています。
私は元々は社会部系の報道記者になりたかったのですが生憎新卒時ではどこからも門前払いを受け、仕方なく商社に勤務した後で中国にわたり経済系の新聞社に入社しました。今思うと社会や政治部系の報道だったら思想信条で社とぶつかる可能性が私にはあり、そうした思想とは関係なく「仕事だから」と割り切れる経済記事をメインで書く新聞社というのは案外相性が良かったと今更ながら思います。もっとも思想や信条と関係ないと言いつつも経済系の内容は学生時代から不得手ではなく、分析や知識なら当時から経済学部の学生を遥かに凌駕する水準は持っていましたが。
そんなかんだで経済紙記者として一時期を過ごした私に、経済記事とはどのように書くのか、どうあるべきかという問いに答えるとしたら、突き詰めれば文字こと地の文はいらないと考えています。一番理想的なのは参考に足るグラフだけを見せて、あとの内容は読者に判断させるというのが経済記事としてあるべき姿だと思います。それだけにグラフのない経済記事というのはこの一点をとっても価値は低くなり、もちろんすべての経済記事にグラフつけるのは骨なので無理でしょうが、なるべくグラフは多くつけるべきだというのが私の考えです。
経済記事というのは突き詰めれば数字データがすべてベースになっており、売上なり経済指標なり、それらの数値がどれだけ且つどのように変動したのかを通して社会の変動を分析します。新規投資の話も投資額や建設する工場の敷地面積や予想生産量、稼働率などの数字が何よりも物を言い、なおかつほかの事例の投資と比べて何が違うのかを図表にまとめて比較すればなおよいでしょう。
無論、実際にはそのようなグラフだけの経済記事など存在せず文章も付け加えられますが、基本的にそうした文章は発表された数字の紹介、そして変動を解説するものです。前者はグラフをつけない場合に使うもの(企業の業績発表データ)でとやかく言いませんが、後者については基本的に記者自身やコメンテーターの視点を通した分析で、少なくない主観が入っており必ずしも毎回事実を表すものではありません。
一例を書くと、前期と比べ増益減収し、その理由が市場に問題があるのか単純に当該企業の経営に問題があるのかといった一言コメントなどがそれに当たります。もちろん読者からしたらどっちが理由なのかを推察でもいいので付け加えてくれた方が詠んでて楽しいでしょうが、私としてはやはりデータだけ見せてそれらも含めて読者が考えるような記事が一番いいのではないかと思います。というのも、百人いれば百通りの答えがあるのだし、現実は非常に寛容で、どのような解釈も自己責任であれば許されると思うからです。
もっとも本気でそんな記事書いたら、例えば私が先週出した日銀の金融緩和に関する記事で暦年の設備投資額と対外投資額データグラフだけ出して見せて、「これが答えだ!」と言っても、記事としては成立しないでしょう。逆を言えば、見るだけで記者が言いたいこと、主張したいことが誰にでもわかるようなグラフを用意できるのであれば、それこそが経済記事の完成形と言えるでしょう。
実際にそのようなグラフを作るのは非常に困難であるものの、そうしたグラフを作ろうとする心意気こそが経済記事を書く上で最も重要で、どれだけ価値ある数字の比較グラフを作れるか、経済記者としての腕はここにかかってくると考えているわけです。
それだけに、最近ブログでは経済記事はあまり書かなくなっていますが、JBpressで経済記事を書く場合はとにもかくにもたくさんグラフを作ろうと意識して取り組んでいます。もっともこう言いながら、「このデータはよほど勘のいい人じゃなければ価値が分からない」と判断したら容赦なく見せないということもやったりするのですが。
まとめとして何が言いたいのかというと、経済記事、もしくはそのようなレポートを書こうというのならまず第一にどのようなグラフを作るかについて考え、その上でグラフの意味を解説する文章を考えるのがベターだということです。また解説文については短ければ短いほどよく、説明が要らないほどはっきりわかるグラフを心がければモアベター(この言葉は80年代産?)というわけです。
2017年7月24日月曜日
足利尊氏は躁鬱なのか?
時期にすれば大体2000年代後半あたりからだったと思いますが、室町幕府の開祖に当たる足利尊氏について、躁鬱症を持っていておかしな判断を繰り返していたというような主張が見えるようになりました。無論、14世紀に躁鬱かどうか判断するカウンセラーなぞ存在するわけではなく彼の事績や記録などからこういう風に言われ始めたわけですが、根拠としているのは急に突拍子もない行動を取ったりしたというだけで、これだけで躁鬱だと判断するのはやや早計な気が私にはします。それこそ愛人に死なれたショックで出家した天皇もいますが、これも躁鬱かと言ったらやはり違うでしょう。
私自身は尊氏は躁鬱かと言われればそれはやはり違うように思え、どちらかと言えば責任感が非常に強い性格だったからああした行動になってしまったのではないかと考えています。その辺について久々にオリジナルな歴史コラムとして書いていきますが、こういうのを普通に夜中書いてて、最近何が本業なのかよくわからなくなってきました。
具体的に尊氏が躁鬱だと言われる根拠としてよく挙げられるのは、以下のような行動です。
・鎌倉幕府を裏切り、救援先の六波羅探題を逆に攻撃した。
・後醍醐天皇の指図を聞かず弟の直義を助けるために関東へ出陣した。
・後醍醐天皇から討伐軍が差し向けられたのに、本人は戦準備もせず出家しようとした。
・後醍醐天皇軍に直義が負けてると聞いて出陣し、打ち破る。
・そうまでして助けた直義を、観応の擾乱の時には全力で殺しにかかる。
・おまけに直義を討伐するため、北朝を差し出して何故か南朝に降る。
大体ざっと上記のような行動が躁鬱だと言われる具体的な事例じゃないかと思います。特に三番目の、敵軍が差し迫る中にも拘わらず出家しようとするなど、何故か緊急事態に追い込まれると逃げ出そうというか出家しようとする癖は何度か記録されており、これが躁鬱だと言われる一番の根拠でしょう。
しかし私の見方は違います。尊氏の人生全体を見ていて思うこととして、その性格は以下のような特徴であったのではと考えています。
・鎌倉幕府(=北条家)に対する忠誠心はかねてから薄かった。
・後醍醐天皇に対しては非常に強い尊敬心を持っていた。
・一方で武家の棟梁として武士の立場や権利を守らなければという意識も強かった。
・足利幕府を主導するという式はやや薄かった。
・後醍醐天皇のいない天皇家に対する意識は低く、守る気もそんなになかった。
最初の鎌倉幕府に対する忠誠心ですが、そもそも尊氏の爺さんが「子孫が天下取れますように」といって自殺したくらいの一家であり、源氏一族なのに北条家に敷かれるという立場に対してかねてから不満が高かったように思えます。次の後醍醐天皇関連ですが、これが一番のキーポイントであり彼の不自然な行動はこれによって説明できるでしょう。
後醍醐天皇への尊氏の意識は崇拝に近いです。反乱を起こす前も起こした後も全く変わらず、後醍醐天皇を京都で一時軟禁しておきながら、京都を脱出して吉野へ逃れた際も特に追手を出すこともなくみすみす見逃し、結果的に南北朝の戦乱を招いたほどです。さらにその後醍醐天皇が吉野で崩御した際も嘆き悲しみ、怨念対策もあるでしょうがわざわざ元(当時の中国)と交易してまでして後醍醐天皇を弔う天龍寺を建立しています。
なら何故尊氏は後醍醐天皇に歯向かったのか。理由はその次の武家の棟梁としての立場を優先したからでしょう。
周りからの支持もさることながら本人自身もこの方面の意識が強く、恐らく尊氏本人は武家の棟梁として後醍醐天皇を守る皇室の藩屏みたいな存在になりたがっていたように見えますが、建武新政下では武家は徹底的にこき下ろされ、実質的に天皇・公家側との共存はできなくなりました。尊氏自身は建武新政下でも厚遇されてはいたものの、彼以外の武士が弾圧されるのを見て放っておくことはできず、後醍醐天皇への忠誠と板挟みになりながら武家の棟梁としての立場を取ったのが反乱の背景じゃないかと思えます。
それだけに後醍醐天皇が崩御した後の尊氏はやや方向軸がなくなったように見えます。幕府自体は弟の直義が主導して実質的に組織や体制を整えたのは彼ですが、その直義が執事の高師直と対立するや尊氏は仲裁を仕切れず、結果的に両者の血で血を争う争いに自らも介入して、最終的には諸説あるものの直義を毒殺するに至りました。
なお直義との争いは観応の擾乱と言われ、後醍醐天皇が亡くなって存亡の危機にあった南朝はこの混乱に乗じて勢力を盛り返し、その後も南北朝の戦乱が長く続くこととなりました。それだけに尊氏と直義の争いを「日本史上最大の兄弟喧嘩」という人もいますが、私もこの説を支持し、壬申の乱なんて目じゃない規模だったと考えています。
話は戻りこの観応の擾乱の際、直義は南朝側について尊氏征討の綸旨を得ましたが、これに対して尊氏は自分も南朝に降伏して、南朝側から直義追討の綸旨を得て争うなど、全力で弟を殺しにかかってきています。この尊氏というか足利幕府の一時的とはいえ南朝に降伏した際、降伏条件として「北朝の三種の神器を譲渡」、「天皇家は南朝側が継いでいく」などと、これまで味方していた北朝の天皇家を投げ捨てるかのような条件を飲んでしまっています。この尊氏の降伏を受け、実際に南朝の天皇家は一時京都に戻ってきました。戦乱にあってまたすぐ吉野に戻ってきましたが。
なお先ほどの降伏条件のうち三種の神器の譲渡という条件は、明治維新後の南朝北朝正当論争の中で南朝側が正当とする有力な根拠にもなっています。
何故尊氏はこのような無茶苦茶ともみえる行動をとったのかですが、やはり彼にとっては後醍醐天皇がいる天皇家こそ守るべき存在で、いなくなった後の天皇家はただ単に幕府が利用する権威組織としか思っていなかったのかもしれません。その上で筋を通して世の中の安定を図るより、目前の敵を倒すために敵の権威を支える存在を引き込もうとしたのかもしれません。
総じていえば、尊氏は後醍醐天皇の崇拝者であり、武家の棟梁であり、この二つのアイデンティティで揺れていたからこそ躁鬱だなんだと言われることになったのだと思います。ただ私はこの二つのアイデンティティに照らせば決して不自然な行動を取っているとは思えず、まぁ変に責任感が強いからこそ妙な戦乱の人生送ったんだろうなというふうに考えています。
最後に、尊氏は責任感が強かったとは書いていますがそれは立場としての話で、家庭内では全く別です。というのも、尊氏をその人生の中で最も苦しめたのは誰かとなるならば、一人は上記にも上がっている弟の直義で、もう一人は若い頃ヤンチャして作った隠し子の足利直冬でしょう。
この直冬は尊氏の長男である義詮よりも年上とみられていますが成人後も尊氏にはなかなか認知してもらえず、一門の頭数が足りないくらい忙しい時期になってようやく認知してもらえたものの、家督から外れるようにわざわざ当時は子供のいなかった弟・直義の養子にさせています。
ただ尊氏の息子の中で、軍事的才能に最も秀でていたのはほかならぬこの直冬でした。尊氏と直義が争いだすや直義側についた直冬は各所で尊氏側の軍を打ち破り、特に九州・中国の西国では獅子奮迅の働きで何度も尊氏側を追い詰めています。尊氏としては何が何でも直冬が嫌いだったようで終生和解することはありませんでしたが、結果的に最大の敵を自ら、しかもヤンチャして作ってしまった辺りは皮肉な結果であり、若い頃のヤンチャは良くないものだという教訓になります。
私自身は尊氏は躁鬱かと言われればそれはやはり違うように思え、どちらかと言えば責任感が非常に強い性格だったからああした行動になってしまったのではないかと考えています。その辺について久々にオリジナルな歴史コラムとして書いていきますが、こういうのを普通に夜中書いてて、最近何が本業なのかよくわからなくなってきました。
具体的に尊氏が躁鬱だと言われる根拠としてよく挙げられるのは、以下のような行動です。
・鎌倉幕府を裏切り、救援先の六波羅探題を逆に攻撃した。
・後醍醐天皇の指図を聞かず弟の直義を助けるために関東へ出陣した。
・後醍醐天皇から討伐軍が差し向けられたのに、本人は戦準備もせず出家しようとした。
・後醍醐天皇軍に直義が負けてると聞いて出陣し、打ち破る。
・そうまでして助けた直義を、観応の擾乱の時には全力で殺しにかかる。
・おまけに直義を討伐するため、北朝を差し出して何故か南朝に降る。
大体ざっと上記のような行動が躁鬱だと言われる具体的な事例じゃないかと思います。特に三番目の、敵軍が差し迫る中にも拘わらず出家しようとするなど、何故か緊急事態に追い込まれると逃げ出そうというか出家しようとする癖は何度か記録されており、これが躁鬱だと言われる一番の根拠でしょう。
しかし私の見方は違います。尊氏の人生全体を見ていて思うこととして、その性格は以下のような特徴であったのではと考えています。
・鎌倉幕府(=北条家)に対する忠誠心はかねてから薄かった。
・後醍醐天皇に対しては非常に強い尊敬心を持っていた。
・一方で武家の棟梁として武士の立場や権利を守らなければという意識も強かった。
・足利幕府を主導するという式はやや薄かった。
・後醍醐天皇のいない天皇家に対する意識は低く、守る気もそんなになかった。
最初の鎌倉幕府に対する忠誠心ですが、そもそも尊氏の爺さんが「子孫が天下取れますように」といって自殺したくらいの一家であり、源氏一族なのに北条家に敷かれるという立場に対してかねてから不満が高かったように思えます。次の後醍醐天皇関連ですが、これが一番のキーポイントであり彼の不自然な行動はこれによって説明できるでしょう。
後醍醐天皇への尊氏の意識は崇拝に近いです。反乱を起こす前も起こした後も全く変わらず、後醍醐天皇を京都で一時軟禁しておきながら、京都を脱出して吉野へ逃れた際も特に追手を出すこともなくみすみす見逃し、結果的に南北朝の戦乱を招いたほどです。さらにその後醍醐天皇が吉野で崩御した際も嘆き悲しみ、怨念対策もあるでしょうがわざわざ元(当時の中国)と交易してまでして後醍醐天皇を弔う天龍寺を建立しています。
なら何故尊氏は後醍醐天皇に歯向かったのか。理由はその次の武家の棟梁としての立場を優先したからでしょう。
周りからの支持もさることながら本人自身もこの方面の意識が強く、恐らく尊氏本人は武家の棟梁として後醍醐天皇を守る皇室の藩屏みたいな存在になりたがっていたように見えますが、建武新政下では武家は徹底的にこき下ろされ、実質的に天皇・公家側との共存はできなくなりました。尊氏自身は建武新政下でも厚遇されてはいたものの、彼以外の武士が弾圧されるのを見て放っておくことはできず、後醍醐天皇への忠誠と板挟みになりながら武家の棟梁としての立場を取ったのが反乱の背景じゃないかと思えます。
それだけに後醍醐天皇が崩御した後の尊氏はやや方向軸がなくなったように見えます。幕府自体は弟の直義が主導して実質的に組織や体制を整えたのは彼ですが、その直義が執事の高師直と対立するや尊氏は仲裁を仕切れず、結果的に両者の血で血を争う争いに自らも介入して、最終的には諸説あるものの直義を毒殺するに至りました。
なお直義との争いは観応の擾乱と言われ、後醍醐天皇が亡くなって存亡の危機にあった南朝はこの混乱に乗じて勢力を盛り返し、その後も南北朝の戦乱が長く続くこととなりました。それだけに尊氏と直義の争いを「日本史上最大の兄弟喧嘩」という人もいますが、私もこの説を支持し、壬申の乱なんて目じゃない規模だったと考えています。
話は戻りこの観応の擾乱の際、直義は南朝側について尊氏征討の綸旨を得ましたが、これに対して尊氏は自分も南朝に降伏して、南朝側から直義追討の綸旨を得て争うなど、全力で弟を殺しにかかってきています。この尊氏というか足利幕府の一時的とはいえ南朝に降伏した際、降伏条件として「北朝の三種の神器を譲渡」、「天皇家は南朝側が継いでいく」などと、これまで味方していた北朝の天皇家を投げ捨てるかのような条件を飲んでしまっています。この尊氏の降伏を受け、実際に南朝の天皇家は一時京都に戻ってきました。戦乱にあってまたすぐ吉野に戻ってきましたが。
なお先ほどの降伏条件のうち三種の神器の譲渡という条件は、明治維新後の南朝北朝正当論争の中で南朝側が正当とする有力な根拠にもなっています。
何故尊氏はこのような無茶苦茶ともみえる行動をとったのかですが、やはり彼にとっては後醍醐天皇がいる天皇家こそ守るべき存在で、いなくなった後の天皇家はただ単に幕府が利用する権威組織としか思っていなかったのかもしれません。その上で筋を通して世の中の安定を図るより、目前の敵を倒すために敵の権威を支える存在を引き込もうとしたのかもしれません。
総じていえば、尊氏は後醍醐天皇の崇拝者であり、武家の棟梁であり、この二つのアイデンティティで揺れていたからこそ躁鬱だなんだと言われることになったのだと思います。ただ私はこの二つのアイデンティティに照らせば決して不自然な行動を取っているとは思えず、まぁ変に責任感が強いからこそ妙な戦乱の人生送ったんだろうなというふうに考えています。
最後に、尊氏は責任感が強かったとは書いていますがそれは立場としての話で、家庭内では全く別です。というのも、尊氏をその人生の中で最も苦しめたのは誰かとなるならば、一人は上記にも上がっている弟の直義で、もう一人は若い頃ヤンチャして作った隠し子の足利直冬でしょう。
この直冬は尊氏の長男である義詮よりも年上とみられていますが成人後も尊氏にはなかなか認知してもらえず、一門の頭数が足りないくらい忙しい時期になってようやく認知してもらえたものの、家督から外れるようにわざわざ当時は子供のいなかった弟・直義の養子にさせています。
ただ尊氏の息子の中で、軍事的才能に最も秀でていたのはほかならぬこの直冬でした。尊氏と直義が争いだすや直義側についた直冬は各所で尊氏側の軍を打ち破り、特に九州・中国の西国では獅子奮迅の働きで何度も尊氏側を追い詰めています。尊氏としては何が何でも直冬が嫌いだったようで終生和解することはありませんでしたが、結果的に最大の敵を自ら、しかもヤンチャして作ってしまった辺りは皮肉な結果であり、若い頃のヤンチャは良くないものだという教訓になります。
2017年7月22日土曜日
ブログデザインの小幅変更
前々から変えようかなと思っていたのですが、このブログのデザインを少しだけ弄りました。当初はもっと激しい変更を考えて最初なんか真っ青ブルースカイな背景を使ってみたりもしましたが、やはり発色が強く明るい背景だと目が疲れるというか文字が読みづらい印象を覚え、結局前とほとんど変わらず閲覧済みリンクテキストの色を少し変えたりした程度に留まりました。
以前はそれほど意識しませんでしたが、きゆづきさとこ氏の漫画「GA 芸術科アートデザインクラス」では高校の芸術科クラスを舞台に様々な色の効果や印象について紹介しているのを読んでからというもの、前よりはこの方面に対して概念めいたものができてきました。さきほどの拝啓だとビビッドカラーは遠目にははっきり映るものの至近距離だとややきつく、またテキストを読む作業との相性も悪いため、比較的落ち着いた色を意識して選択しました。
落ち着いた色としては茶色が割とベターですが、自分はやや錆がかったような朱色も悪くないと思え、これらの色に近い背景をまず選びました。この背景はあらかじめBloggerで用意されたものですが、なんていうかもっといいのなかったのかなという気がします。
その後でテキストも、と言ってもこっちは基本的に以前のをほぼ踏襲する形で使ってますが、閲覧済みリンクが前だとやや区別しづらかったので、色をオレンジにすることでよりはっきりわかるようにしています。
あとは地味に投稿記事部分、サイドバーの幅をほんのちょっと広げていますが、これはパソコンのモニター解像度が年々横に広がっているのに合わせただけで特に思想はありません。サイドバーはもうチョイ広げようかと思いましたが、実際広げてみると投稿記事部分を食うように目立ってしまったので結局わずかながらの広がりに留まりました。
それにしても今日はほとんど家の中で過ごしましたが、リアルに最近の上海は外出るのが危険です。日中は40度にも達してますし、数年ぶりに猛暑というか夏らしい夏になっています。
以前はそれほど意識しませんでしたが、きゆづきさとこ氏の漫画「GA 芸術科アートデザインクラス」では高校の芸術科クラスを舞台に様々な色の効果や印象について紹介しているのを読んでからというもの、前よりはこの方面に対して概念めいたものができてきました。さきほどの拝啓だとビビッドカラーは遠目にははっきり映るものの至近距離だとややきつく、またテキストを読む作業との相性も悪いため、比較的落ち着いた色を意識して選択しました。
落ち着いた色としては茶色が割とベターですが、自分はやや錆がかったような朱色も悪くないと思え、これらの色に近い背景をまず選びました。この背景はあらかじめBloggerで用意されたものですが、なんていうかもっといいのなかったのかなという気がします。
その後でテキストも、と言ってもこっちは基本的に以前のをほぼ踏襲する形で使ってますが、閲覧済みリンクが前だとやや区別しづらかったので、色をオレンジにすることでよりはっきりわかるようにしています。
あとは地味に投稿記事部分、サイドバーの幅をほんのちょっと広げていますが、これはパソコンのモニター解像度が年々横に広がっているのに合わせただけで特に思想はありません。サイドバーはもうチョイ広げようかと思いましたが、実際広げてみると投稿記事部分を食うように目立ってしまったので結局わずかながらの広がりに留まりました。
それにしても今日はほとんど家の中で過ごしましたが、リアルに最近の上海は外出るのが危険です。日中は40度にも達してますし、数年ぶりに猛暑というか夏らしい夏になっています。
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