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2018年4月19日木曜日

スルガ銀行の不遜すぎる態度について

アイドルマスター「隣に…」 全員分(ニコニコ動画)

 この記事書こうと思っていた矢先に上記の動画を見てしまい作業が遅延しました。それにしても「キツ過ぎる坂道」と言われるこの曲ですが、こんな半端なく難しそうな曲を仕事とはいえ歌わされる声優はたまったもんじゃないでしょう。ただ同じ曲をいろんな人間が歌うのを見るって案外面白いものです。

金融庁、スルガ銀行に立ち入り検査 シェアハウス破綻で=関係筋(ダイヤモンド/ロイター)

 であるからして本題ですが、以前にスマートデイズの「かぼちゃの馬車」こと女性向けシェアハウス投資実質詐欺問題についてスルガ銀行を足利銀行に重ねつつ取り上げましたが、金融庁も事態を重く見ているのかスルガ銀行への検査を強めているとの報道が出ています。こうした国の指導、是正措置自体は適切な対応だと思うのですが、私が疑問に思うのは当事者であるスルガ銀行の態度で、見出しにも掲げた通りに不遜もいいところだと考えています。

お知らせ(スルガ銀行)

 何故このように感じたのかというと、上記の一般向け情報公開(プレスリリース)で金融庁の検査やスマートデイズ関連報道について何一つ触れていないからです。

 普通、と言っては何ですが、不正や疑惑絡みの報道があった会社ならば、「報道されている内容は当社とは一切関係がありません」、「決定した事実はありません」などと無関係を主張したり、捜査関連などでは「捜査を受けているのは事実で、全面的に協力しています」、「続報があり次第発表いたします」などといったプレスリリースを出すものだと私は考えており、実際にその手の報道が出てくれば関連する企業のサイトいってプレスリリースをよく眺めたりしています。メディアの報道より面白いこと多いし。
 なのですが、今回のこの一件についてスルガ銀行はリリースなどでは一切触れておらず、事件規模の大きさと関連度合いから考えて、当事者意識がないのかと正直疑うレベルです。それどころか、

【重要】取引規定の変更について(スルガ銀行)

 上記リリースは取引規定の変更を発表したものですが、一部金融商品について以下のように規定を変更すると書かれてあります。

『収入を証明する書類の提出等
1.借主は、銀行が定期的にまたは必要と判断し、提出の依頼をしたときには、銀行が適当と認める借主の収入等を証明する書類(銀行が必要と判断するときは、配偶者の収入等を証明する書類を含みます。以下、収入証明書類といいます。)を速やかに銀行が指定する方法により銀行に提出するものとします。また、銀行から借主の収入等に関する照会があったときは、借主は、これに回答するものとします。

2.第1項の収入等に関する調査の結果により、または借主がこれらの調査に応じないときには、銀行は、利用限度額を減額あるいは新たな貸付を中止することがあります。銀行が、利用限度額を減額、あるいは新たな貸越を中止したときでも、銀行は、極度額の変更ならびに新たな貸越の中止に関する通知・案内等は原則として行なわず、借主は、別途、所定の方法により随時、借主の極度額等の確認を行なうこととします。

3.銀行は、第1項により提出された収入証明書類について、原則として返却いたしません。』

 対象となる商品は自動貸越サービス、パッと見る限りだとキャッシングのようですが、下線部の内容を読んで強い疑問を覚えました。というのも、問題となっている「かぼちゃの馬車」事件では収入・資産証明書類の改竄が行われ、ずさんな審査で貸付が行われていたと報じられており、現時点でこの件に関してはほぼ事実だったろうと考えられます。上記の規定変更対象商品に「かぼちゃの馬車」に絡む貸付が含まれるかはともかく、自分たちの審査が杜撰であるくせに後から審査し直して内容が駄目だったら取引を中止すると言っているようにしか見えず、一読して「お前ら今の自分らの立場わかってんのか?」という感想を覚えました。
 っていうか、このタイミングでこんな内容出すって本気?

中古マンション投資でも不正続発 スルガ銀融資に絡み(朝日新聞)

 以前に書いた記事でも、「(かぼちゃの馬車の)問題が出てくる辺り、闇はもっと深いだろうから他にも何かやってるだろう」と私は主張しましたが、やや自慢めいた言い方に聞こえるかもしれませんがやはりそのようだとうかがわせる報道も出てきました。そしてこの報道に対しても、スルガ銀行は何もリリースを出していません。

 自分の経験から言えば、金融業は内部で不正が起こりやすい業種なだけにリスクに対する規定が細かく、外部への報道発表など割としっかりしているところが多いのですが、スルガ銀行に関しては上記にもある通り当事者意識が欠けているように思えるところがあり、はっきり言えば不謹慎とも感じる面が多いです。まだまだ探れば出てくるかもしれません。

2018年4月18日水曜日

頭の回転を高めるというか特徴

「頭の回転が速い人」になるための3つの方法(東洋経済)

 無駄に残業したのにあまり疲労感を感じないやや危険な状態なのでてってて書きますが、上の記事を読んだうえで頭の回転を高めるというか回転が速い人の特徴として、どれだけ長く長考できるかではないかと考えています。

 長考とは文字通りに、何かについてどれだけ時間をかけて考え続けられるかです。ある意味将棋や碁などに通じるかもしれませんが、一つの事柄に対してどれだけパターンを想定した上でどのパターンが選択肢としてベストなのかを延々と時間が許す限り比較するとして、5分で終わる人と3時間も考え続けられる人では後者の方が頭の回転が速いと断言します。基本的にパターンをどれだけ考え、用意できるかは即座の対応や反応に直結し、尚且つ将来予測においても強いのは言うまでもないでしょう。
 そのパターンをどれだけ作れるか。結局これはどれだけ長考できるかにかかってきて、何分で何パターン作れるかという実時間での速さはあまり影響しないと思います。長考できるというのはそれだけ集中力を保てるともいえ、これまで私が見てきた限りではこうしたタイプほど頭の回転が速い人が多かったです。

 その上でもう一つ、頭の回転が速い人の特徴を述べると、思考中に言語化の過程をすっ飛ばせる、それも意識的にやれる人が当てはまります。理屈や予想を組み立てる過程でいちいち文字や言葉、イメージを介さずに原因と結果のパターンだけを取り出してこれるというような人ですが、一歩間違えればシャーマンのように突然意見を出してきたりします。
 まぁ私に言わせれば、世の中の事象は原因→結果ではなくむしろ、結果→原因のように、結果に対してあとから理由が付けられるという事象の方が実は多いに過ぎないので、過程のない結論というのは決して間違ってはいないとは思いますが。

2018年4月17日火曜日

ブラック企業大賞について

 結論から書くと、ブラック企業大賞の集計及び発表は全くその意味を持たないと思うので早くにやめるべきではないかと私は思います。

ブラック企業大賞

 ブラック企業た問題となり始めた数年前より毎年ネット上で、その年で最も過剰労働やパワハラの激しい会社を決めるのがこのブラック企業大賞ですが、その存在意義に関しては疑問を通り越してもはや言いようのないしょうもなさを覚えています。問題点は複数あり、列挙すると以下の通りです。

1、問題となる労働行為が受賞年に発生したとは限らない
2、何を持って大賞となるのか違法の軽重基準がない
3、どの年もメディアに大きく報道された企業が受賞している

 一つ一つ解説するとまず1について言うと、違法な労働はどこも長年にわたり続いてきていたというケースが多く、それが槍玉に挙げられるのは発覚したせいだからです。逆を言えば発覚年にブラック企業大賞に選ばれ、過去の自殺やパワハラなど違法な行為について実現期間と受賞期間が食い違っていることが多く、極端な話10年くらい前の話でも急に話題になれば受賞する可能性があるでしょう。
 これによって想定されるケースとして、過去に一度受賞していながらその後も改善されない企業はその後も受賞するのかという懸念があり、多分一回取り上げられた企業は改善の有無にかかわらずその後は取り上げられないでしょう。果たしてそれでいいのか、公共への周知の面や社会牽制の観点からすると疑問です。

 次に2については説明するまでもありません。違法な労働行為は会社ごとに千差万別で、何をもって一番ひどいかは決めるのは困難でしょう。それでもいくつか評価基準、被害者数、期間、社内か社外か、問題行為に差別があるのかなど分野ごとに大まかでもいいから基準なりポイントでもあればいいのですが見る限りそんなものはなく、独自の分析や考察なんかも見えず、なんとなく敢えて言えば雰囲気で受賞企業を選んでいるようにしか見えません。

 その雰囲気こそが3で、以前電通が受賞したように結局は報道の大きさで受賞企業が決まって閉まっているとしか思えないところがあります。だから私はむしろ、「ブラック企業報道大賞」とこの際名前を変えた方がいいように思え、その年に一番報道されたブラック企業を選ぶ賞であれば基準も明確だし、その表彰の無意味さもはっきりするだけに良いのではないかと思います。
 言わなくてもいいことですが、本来こうした槍玉に挙げる表彰というのは先にも書いたように公共への周知と社会牽制という意味で考えるべきです。しかしすでに社会で大きく報道されている企業をいちいち「ここはブラック企業だ!」と発表しても果たしてその効果があるのかといえばほとんどなく、なんとなくですが年を追うごとにこのブラック企業大賞も社会の関心が薄れてきているような気がします。

 むしろそれだったら、ほとんど誰も知らないけどこんなひどい会社があったなどとマイナーなブラック企業を取り上げる方が価値があるように思え、また一度受賞、認定された企業は文字通りブラック企業リストみたいなもので常に公開し、労働環境の改善や是正があるまで批判し続けるというスタンスの方が社会牽制上で意味がある気がします。なんなら、その企業と取引のある会社もばーって載せてもいいんだし。

 最後に、これは別記事にしてもいいのですが、これまでのブラック企業の話題で語られるのは「社内に対する劣悪さ」だけでしたが、そろそろ「社外に対する劣悪さ」という観点でのブラック企業をもっと取り上げて、批判していくべきだと思います。真面目になんでこの手の議論が出てこないのかいつも不思議に思っていますが、やっぱ日本は目線が内側に行きやすいのかなと密かに見ています。

2018年4月16日月曜日

でかっ

 前の記事で「骨が腐るまで」という漫画について「死体とおっぱいがいっぱい漫画」だと紹介しましたが、読んでみた友人からは「死体はともかくおっぱいはいっぱいではない」という返事が返ってきました。私と彼の間では認識に隔たりがあるようですが、それはどのような隔たりなのか、現国の問題に使えそうな問いです。
 

 そんなわけで昨日は中国の「J-20」こと「殲20」というステルス戦闘機のプラモ作ってました。なんで急に作ったのかというと例の上海人に「次は殲20」作ってと、一昨日言われたからです。言われたその日にすぐプラモやに買いに行って、翌日には作ったので上海人は驚いてましたが、 やると決めた行動が早いのは自分の長所だと真面目に思います。
 またある意味今の自分は戦闘機プラモ作りブームの真っ最中で、自分の中でブームが終わる前にできる限り作っておくほうが後々の自分のためだという自覚もあります。非常にお手軽な軍事研究でもあるし、くれぐれも暇だったというわけではありません。




 作ってみて今回感じたのは見出しにも書いた通りに「でかっ」っていう点でした。ステルス戦闘機とは言いながらもサイズ的には爆撃機みたくでかく、これまでに作っていた他の戦闘機と比べても一際サイズが大きいです。
 このようなサイズになった理由としては噂で聞く限り、姿形がよく似ている米国のF-22ラプターの情報を盗んで設計したけど、細かい部分が再現しきれずどんどんでかくなっていったそうです。あと今回作っていて初めて気が付きましたが翼の数も異様に多く、前翼(カナード)、主翼、X字尾翼で計8枚にも上ります。前翼があるのであれば水平尾翼はステルス上でも不利なのでいらないのではと思うのですが、逆を言うとそれだけ流体力学面で中国は熟成されてないのかもしれません。

左からタイフーン、J-20、F-16、MiG-29

 サイズの比較としてこれまで作ったどれも同じ1/72モデルの機体を並べましたが、タイフーンですら作った時はでっかいなぁと思ったものの、それを遥かに超えるでかさです。
 なお日本において「72」という数字には特別な意味があるようです。

 ミグと並べたらその差は歴然

 なんとなくですが、このでかさとステルス性、そして異様に多い翼の枚数などから考えて、J-20は正式戦闘機というよりも実験機に近いものではないかという気がします。あくまで私個人の印象ですが。
 ちなみに昨日、6時間ぶっ通しで作ってて終わった時には腕がしびれていたかったです。メーカーはタミヤのコピー作って喧嘩してるトランペッターですが、表面の仕上げは非常にいいものの、図面がやや見づらいのと、一部の接合でやや疑問に感じる箇所があり、ハード一流、ソフト二流って感じします。まぁキット自体の質は悪くないので、実力あるメーカーであることには間違いありませんが。

2018年4月14日土曜日

中国人が花見を好む理由

  今1巻と2巻がKindleで無料だったので読んでみたらそこそこ面白く、下記の「骨が腐るまで」という漫画を一気に全巻買い集めました。軽く書評を書くと一見して映画の「ラストサマー」と同じ構成だと思いましたが、変に間延びせず話の展開がよく、7巻と少ない冊数でまとめられているので、総じて完成度の高い作品だと覚えます。
 なお友人に勧めた際、「死体とおっぱいがいっぱい漫画」と紹介したら、友人は何も答えてくれませんでした。何故彼は何も答えなかったのか、現国の問題にも使えそうな深い問いであるような気がしてなりません。



 話は本題に入ると既にピークは過ぎたと思いますが今年もやってきた花見シーズンにおいて、あちこちの花見の名所で中国人の姿が見られたのではないかと思います。単純に中国人は日本の花見文化を非常に気に入っており、この花見を体験するためだけに訪日旅行ツアーに申し込む人も少なくありません。
 こうした中国人の花見ブームについて日系メディアもその理由や背景についていろいろ報じており私も読んでいますが、決して的外れだとは思わないものの、私の考えている理由を挙げている人はまだ見当たりません。結論から書くとそれは、「中国には自然を愛でる文化が極端に少ない」殻ではないかと睨んでいます。

 中国で鑑賞する代表的な花と言えば梅の花で、梅を愛でる文化こそあるものの日本の花見のように定型化されたようなイベントはありません。また花に限らず自然を鑑賞し、愛でる文化やイベントごとが自分から見ても不思議なくらいに少なく、言い方を変えるとアウトドア文化が日本と比べると極端にありません。
 アウトドアスポーツについていうと、登るような山が少ないということから登山はほとんど行われません。当然、スキーなども中国ではごく一部を除いて行われません。また海水浴に至っては、中国は泳げない人の方が圧倒的多数です。

 自然を愛でる文化としては中国にも月見文化は存在しており、日本なんかより十五夜への熱意は高いように感じます。その一方で花や海、山、なんかこういった自然物と絡むイベントごとや鑑賞文化はあまり見られず、ましてや「自然を眺めながら野外で宴会」なんていうのはほぼ全くないから、だからこそ花見が新鮮にも映り興味を持ったのではないかと分析しています。詳しく検証したわけではありませんが。

 蛇足かもしれませんが、こうした中国人の行動思考の分析とか評論記事を見ていて、民俗学的アプローチがやや少ない気がします。自分の分析が民俗学的かどうかについてもはっきり言って疑問ですが、この手の分野ではプロである彼らの視点や言及が生かされないというのはどうなのかなという点でも疑問です。

歴史記事を書くポイント

 今週水曜にJBpressで出された私の記事は二次大戦中のフィンランドの話ですが、これはこのブログを長く見ている人ならお気づきかもしれませんが、2015年頃に書いたこのブログの記事の焼き直しです。というのも先月と今月は忙しくて本来なら記事出しは月一本の予定でしたが、取材なしで尚且つ原稿もある程度揃っていることから、ブログ過去記事の焼き直しでよければと穴埋めにどうかと提案したところ編集部も「是非」ということで今回使いました。

 この記事のヤフコメを見ていると恐らく私以上に冬戦争について詳しいと思われる方々がたくさんコメントをしており、それを見ていてだからこそ自分のような人間がこうして歴史記事書く余地があるなと内心感じました。というのも究極的に言えば、歴史マニアは歴史解説記事を書くに当たって致命的な欠陥を抱えていると私は考えており、あまりこの点は他では言及されてないのでこの際紹介します。

 結論から言うと、歴史マニアが何かしら解説をしようとすると非常にディープな点ばかり取り上げたり、専門用語を読み手が初めから知っているのを当たり前であるかのようにバンバン使い、あまり詳しくない人からすれば理解しづらい文章になりがちです。なんでこうなるのかっていうと単純に、あまり人のこと言えませんが自分が他の人にはない知識を持っていることを誇りたいからで、歴史マニア同士の会話なんか見ていても相手の持ってない隅を突くかのような知識の言い合いになりがちです。
 自分もこうした傾向を持っていることは重々承知しており、歴史記事を書く際は敢えて細かい用語や人物名、紛らわしそうな事件名などは細かく区別するように注意して書いています。

 基本的には「不要かと思うくらいしつこくいちいち説明し続ける」スタンスで歴史記事は書いていけばいいのですが、このやり方だと読み手には優しくなる一方、文章のテンポはほぼ完全にスポイルされます。どうでもいいですがスポイルという単語を見るとスポイトとの違いについて思いを馳せます。
 日本語のリズムは基本、五・七・五形態の中膨れ三拍子が一番心地良いと私は考えていますが、歴史記事だとこのリズムを維持するのは非常に困難です。説明文が続くとどうしてもくどい文章になりがちで、ましてや文字数の制限があれば紹介できる箇所もどんどん削られていくことになります。

 こうした問題への対処として、またいい歴史記事を書くポイントとしては第一に、「焦点を定める」という作業が最も効果的です。紹介、解説する箇所を絞り、余計な箇所には一切触れないということです。
 現実に去年書いた戦国初期の関東の記事ではこの手法を強く意識して書いており、近畿地方の政変や応仁の乱などについては一切触れず、尚且つ関東の情勢もそれぞれ主人公格の人物を定めてその人物を中心にして語るという方法を取りました。今回のフィンランドの記事もあくまで主役は戦争であり、その勃発理由と経過、そして戦後についてを中心に置き、前回の冬戦争についてはクリストファー・リーが義勇軍として参加していた事実などは省きました。シモ・ヘイヘについては外せませんでしたが。

 次回の継続戦争についてもう予言しますが、恐らく「リュティ大統領についての言及が少ない!」というコメントで荒れることでしょう。しかし言い訳とみられるでしょうがこっちとしては大まじめに言うと、もしソ連との講和に至る過程でリュティ大統領の行動を細かく取り上げていたら、文字数が食われるばかりか戦争内容よりもリュティ大統領が主役の記事になって焦点がぼやける可能性が高く、こればっかりに関しては「外すのが正解」だと私は考えます。その上で最初に戻ると、歴史解説は詳しければ詳しいほどいいというわけではなく、読み物としては歴史に詳しくない人間でも理解できるような内容に仕立て上げることこそが第一です。まぁアクセス稼げなければ意味ないですが。

 なお、逆と言っては何ですが政治や経済記事なんかに関しては最近私も敢えて小難しい専門用語使ったり、詳細な解説を省くことが増えています。理由は浅はかな人には絶対理解できない内容、もしくは誤解させ、狙い通りの批判させ、反論して一気に黙らせる方が楽になってきたからです。必ずしも何でもかんでもそうだとは言いませんが、歴史や経済に関する記事はやはりある程度は基礎知識を持って読んでもらいたいと思え、また書く側の負担もあるのである程度の切り捨てもやむを得ないスタンスを取るようになっています。
 もっとも、解説した用語や仕組みがどうしてもわからない、教えてほしいという声に関しては今後もできる限り対応するつもりです。私が敵視しているのは考えたり調べたりすればすぐわかることなのに、わざとかと思うくらい浅薄な知識にもかかわらず挑発的且つ感情的に批判してくる輩です。記事に関する疑問や、丁寧な姿勢での批判であればむしろ大歓迎で、強敵を常に求めています。

2018年4月12日木曜日

電波系のキャラは書けるのか?

 最近くそ真面目なことばかり書いておりふざけたことを書きたくなってきたので、電波系なキャラについて思うことを書こうと思います。

グランディアスⅢ(ゲームカタログ)

 つい最近知りましたが上記の「グランディアⅢ」というゲームはクソゲーだったようです。何故クソなのかというと出てくる登場キャラクターみんなが電波系というか、プレイヤー置いてけぼりな支離滅裂な言動ばかり繰り返す人間ばかりで、全く意味が分からないまま進行していくからだそうです。
 具体的にどれだけ電波なのかというという例として、以下のやり取りが上記ページで紹介されています。

  • (ヒロインが)寂しげな少女と出会った次のシーン、唐突に「あの子、手が冷たかった! 連れて帰れば良かった! あの子の手を温めてあげたい! どうすれば良いの!?」などと泣き出す。
  • しかもこの後、主人公の「飛ぼう…。飛べばきっと答えが見つかる!」という、電波を電波で返す香ばしい台詞が。

 このやり取りだけでも確かにやばそうなゲームだというのがなんとなくわかります。なお並み居る電波系の登場キャラの中でもとりわけその程度が激しく、周りをあらぬ方向へガンガン牽引するヒロインについては「電波塔」と表現されており、なかなか見事だと思うので自分もこれからこの「電波塔」という表現を取り入れていこうと思います。

 話は戻りますが、こうした「電波系」という表現は日本独特の表現で、その語源は深川通り魔殺人事件のヤク中の犯人が動機について、「電波を受けたから」と証言したことに始まると言われています。具体的に電波系がどういう性格かについては諸説ありますが基本的には、「支離滅裂、意味不明な言動を繰り返し、周囲の言葉をまるで理解しない精神異常者っぽいキャラ」と言えば大体当てはまるでしょう。
 それで今回、上記の「グランディアⅢ」の紹介を見ながら思ったこととして、「果たして俺にこういう電波系のキャラって書けるのだろうか?」ということでした。高校時代以降は全く小説書かないでいたら上海の中心でフィンランドについて紹介する日本人ライターになってしまいましたが、かつての小説を書いていた杵柄で述べると、気が狂ったキャラって案外書きづらいもんです。

 これは実際に下手な小説家の作品に出てくる気狂いキャラを見てもらえばわかりやすいですが、読者の共感を得られる狂人キャラっていうのはなかなか描きづらく、ただ暴れさせたり変なセリフを言わせてもなんとなく中二病っぽいキャラクターで終わってしまいがちで、書いてる作者はともかく、読んでる側からすると「作者はこれで狂ってるとか思ってんだろうな(笑)」みたいに思われてしまうことすらあります。現実に身の回りに頭のおかしい人なんてそうそうたくさんいるわけではなくモデル数は乏しく、かといって想像で書いてしまうと描写が過剰になったり過少になったりして、いまいちリアル感のないキャラが出来上がりがちです。作者本人が気違いなら書きやすいかもしれませんが、果たして気違い状態で小説が書けるかとなるとそれもまた微妙でしょう。
 なお私が本気で狂ってると思う人物像は、漫画家の岡本倫氏ただ一人です。作品のストーリー展開からセリフ回し、作者のプライベートの発言など、装っているのではなく完全に真性で他の人と違うと思ってます。

 なおオウムの麻原彰晃が拘禁症状で発狂しているという意見に対して、「ウンコ食ってないらしいからまだ狂ってるとは言わない」とする意見が結構よくみられます。ウンコを食うか否かがなんか狂ってるかどうかの一つの基準になっているのかもしれませんが、なんとなくそんな気はします。

 話は戻りますが気違いキャラ、それも電波系を描くのはモデルの圧倒的少なさ、尚且つ読者になめられないような水準で描写するとなったら私個人にとっては非常に難しい作業になると考えています。まさかウンコ食う描写入れるわけにもいかないし。
 そう考えると先ほどの「グランディアⅢ」は「こいつら、全員悪人」ならぬ「こいつら、全員電波系」ともいうべきカオスな世界を作っているとのことで、ある意味そりゃすげーなとキャラ作りの点で変に感心しました。

 その上で先の記事を見ていて、もしそういう電波系のキャラを作ろうというのなら、「否定→肯定→また否定……」のやり取りを見せるのが一番効果的かなという法則性を見出しました。具体的には、

  • (ヒロインが)先の少女に「真実が聞きたいんです」と自分から申し出ておきながら、兄が世界を混乱に陥れたことを聞かされると「やめて! もう聞きたくない!」と即逆ギレ。

 上の文章を読んでて、「ああこれなら電波系だと相手に一発で認識させられる」と思うと同時に、散々否定する説明しながら反論一つで、「そうだね、君の言う通りだ」とすぐ納得する反応を見せると、簡単に相手を狼狽させられるということを思い出しました。基本、人間というのは反論を呈す時には相手からさらに反論が来ることを戦々恐々と待ち受けており、一転しての肯定反応を見せられると「えっ!?なにそれ!?」と軽く電気がショートした感じで戸惑い始めます。それを見越して自分もたまに使うこともあり、実際にこれやるとかなり効果を発揮します。

 最後に小説のキャラクター作りについて持論を述べると、自己投影すると確かにリアル感のあるキャラは作れますが、底が見透かされやすいです。むしろ作者からして、「こんなやつおるかいな」という非現実っぽさを感じるキャラクターの方が程よい距離感になるというか、他者からの共感が得られやすいキャラになる気がします。総じていえば、作者の思い入れが強ければ強いほどキャラクターとしては面白みがなくなりやすく、創作するキャラクターともどれだけ適度な距離感を保てるかが魅力的なキャラづくりにおいて重要だと考えてます。まぁもう小説は書くことないだろうけど。