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2018年9月17日月曜日

消費税10%への引き上げは行われるのか?

いまだ残る消費税率10%の「再々延期説」 先送りで憲法改正の後押し狙う?(産経新聞)

 結論から言えば、2019年10月に予定している消費税の10%への引き上げはまた延期というか、このまま半永久的に実施されないのではないかと見ています。理由としてはまず上記の記事にも書いている通り、政界、財界ともに引き上げの機運というか準備を全くしていないこと、次に安倍首相がこの方面について全くやる気を見せていないためです。安倍首相がやる気を見せないのは支持率を維持するためで、そもそも経済政策にも明るくなく財政健全化も「後の時代がやるべき課題。自分がやるのは憲法改正」と割り切っている節があります。

 また麻生財務大臣については表面上は安倍首相の見送り方針に反して実施に前向きですが、恐らくこれはマッチポンプでしょう。こう考えるのも前回の見送り時の動き方、そして森友問題をはじめとする財務省の一連の不祥事発覚時を見る限り、財務省を代表して動いていないと感じるからです。

 最近は本当に日本の政策について私も匙を投げているのでこうした判断についていちいち批判する気すら起きないですが、なんとなく人づてに聞いた、財務省が考えている将来の財源ウルトラCが現実味帯びてきたなという風にも見えます。ある意味で一般市民が消費税増税に反対するのは、天引き方式によって納税意識が日本人の中で薄いことが原因とも思え、そう考えるとふるさと納税を規制し始めたのもこの流れがまずいと感じたからかもしれません。

 この問題に絡めて書くのもなんだと思いますが、この10年間、業績が改善したという日本の企業の多くはほとんど売上げが伸びていません。売上げが伸びていないのに何故業績が改善されたのかというと単純に、人件費を削減してその浮いた分がそのまま利益になっているからです。
 また売り上げが伸びている企業も日本国内はほとんど変わらず、海外での売上増大による貢献がほぼすべてです。こんな状態で国内の賃金が増加するなんてありえず、増えたとする統計なんて眉唾だと思わない方がおかしいでしょう。

 所得の分配が良くないとかいろいろ意見もありますが、それ以前の問題なのではないかとこの頃思います。

2018年9月16日日曜日

自殺志願者への説得方法について

 昨日の記事で私は、「死にたい」と口にする自殺志願者はむしろ「これ以上生きていたくない」という価値観で、死への恐怖自体は持っている状態なのではないかという仮説を展開しました。ではそんな自殺志願者に対して、「死ぬのはよくない」と説得するのはいかがなものかというのが今日のテーマです。

 昨日にも書いた通り、一般的な自殺志願者のメンタルとしてはこれ以降も生き続けることが負担というか重荷に感じており、それが死の恐怖すら乗り越える水準にまで達しているのではないかと思われます。ではこうした人たちに死を思いとどまらせるにはどうしたらいいかですが、アプローチを一つずつ上げていきます。

1、死への恐怖をさらに高める
 死ぬこと自体への恐怖はあるのだから、生存忌避への意識以上に死の恐怖を高めてやればいいのではというアプローチです。具体的には、「死んだら訳の分からないところで働かせられるよ」とか、「閻魔様怖いよ」とか、「天国いけないよ」とかかなと思いますが、自分でも何言ってるんだろうかって気がしてなりません。あまり有効なアプローチじゃないと思うのでもう切ります。

2、生存欲求を高める
 生存忌避が意識が高いということは要するに生存欲求が落ち込んでいるともいえるので、生きていくことが楽しいとかプラスだと思わせるよう仕向けるというのがこのアプローチですが、今回の記事の主題として、こうしたアプローチの有効性について強い疑問を感じています。
 何度も書いている通り、一般的な自殺者は今後生存していくことに希望を見出せないからこそ自殺という手段を検討しているわけです。その背景は様々ですが、例えば病気から今後健常者のような生活ができないとか、借金を抱えてしまった人に、「生きてりゃいいことあるって」というのは、実現し得ない希望を要求するようで逆効果になるような気がしてなりません。彼らは「望ましい生活」が実現し得ないからこそ生存忌避を持っており、先ほどの説得は鬱病患者に禁句の「元気出せ」と言っていることに近い気がします。

3、視点をずらさせる
 自殺志願者は自らが望む生活や人生が送れないという意識が自殺を検討させているのならば、個人的に一番いいアプローチとしてはその「望ましい生活や人生」のイメージを変えてしまうのが手っ取り早いと私は考えます。例えば「正社員で、家族に囲まれ、オフィスでバリバリ働いて休日は優雅に過ごす」というイメージを抱え、そのイメージ通りに歩めず苦しんでいる人がいたとしたら、「派遣社員で、独身ではあるが家族持ちより自由にお金使え、個人的な趣味に邁進できる」という人生の方が幸福であるかのようなイメージを吹き込むとかです。病気を抱えた人であれば、病気とは関係ない部分での人生に価値があると思わせるなどあるでしょう。
 真面目な学問の話をすると、社会学上で自殺は自己イメージと現実の姿とのギャップが開くことにより悩みが深まり発生するという考えがあり、私も現実の自殺はこうした背景に根を持つものが多いと感じます。恋人に振られての傷心自殺などはまさにこの典型でしょう。

 そういった場合はどうするかと言ったら、現実の姿は変えようがないのだからイメージを変えていくしかありません。なおこのように現実とのギャップをイメージを変えることで埋めることを「認知的不協和」と呼び、これは食べ損ねた料理を、「きっとおいしくない料理だろう」等と後付けで思い込んでストレスを減らすなど、日常でも多々見られる心理行動です。自殺志願者への説得というか思いとどまらせるには、こうしたイメージの転換が一番効果的だと私は考えます。

 最後に、今回私が提唱した生存忌避と死への恐怖の二つの概念の数直線モデルで、生存忌避がないにもかかわらず死への恐怖がない状態は死そのものに価値というかメリットを感じている状態で、切腹や死に物狂いの突撃がこれに当たり、一般的な自殺が「消極的な自殺」に対しこちらは「積極的自殺」と呼んで区別しました。
 これとは別のモデルで、生存忌避が高いにもかかわらず死への恐怖もさらに高い状態というのはどんな人間が当てはまるのか。敢えて言えば最近というかちょっと前に一部で出回ってこのところ聞かなくなった「無敵の人」がこれに当たるのではないかと思います。社会的地位や信用、資産などの失うものが何もなく、犯罪行為に対する処罰が何の抑止力にもならない状態で犯罪行為を犯すような人たちを現わす言葉ですが、現実に検挙まで至った彼らに共通しているのは現実に絶望して社会を恨んでいるにもかかわらず、その攻撃性が自己には向かわず(=自殺)外部へ向けられる点で、その方向ガイドとなっているのはなんとなく「死への恐怖」じゃないかなという気がします。要するに、死への恐怖が一段と強いにもかかわらずこれ以上生きていたくないという状態のように思えます。なんとなくですが、死刑に対して無駄に強がっているように見えるところもありますし。

2018年9月15日土曜日

「死にたい」という人は本当に死にたいのか?

 このブログの設立当初でこそ私は自分の専門を「国際政治」と「社会学」として掲げていましたが、最近だとどちらもあまり勉強しておらず、専門と名乗るのが怪しくなってきました。となると自分は自分には何が残っているのだろうかと考えたところ、何故か「自殺の専門家」というワードが浮かんできたのでまた自殺について考えます。

 さて見出しに掲げた「死にたい」というセリフですが、「自殺志願者マジハマりワードランキング」なんてのを取れば恐らくナンバーワンとる言葉ではないかと思います。しかし改めてこの言葉を考えた際、果たして自殺志願者は本当に死ぬことを望んでいるからこの言葉を口にするのか疑問が湧きました。
 この辺は言葉尻の問題ではあるのですが、いざ実際に自殺を遂げた際に自殺志願者(の霊)が「やったー、死ねたぜひゃっほー!」なんていう言葉を口にするとは思えません。では何故「死にたい」という言葉を口にするのかというと、そのメンタルを汲んだ場合はむしろ、「(これ以上生きていたくないから)死にたい」、つまり「もう生きていたくない」という心境から発せられるのではないかと思います。言い換えれば自殺志願者は死にたいのではなく、生き続けたくないから自殺という手段を検討していると言っていいでしょう。

 その上で、こういった言葉をわざわざ口にするということは、「死への恐怖」というもの自体はをまだ抱えているのではないかと思います。ないならわざわざ口にせず実行するだろうし。

 仮にこういった心境を数直線モデルで言い表すならば、それぞれ下限ゼロ、上限100の「生存忌避」と「死への恐怖」という二つの価値観を示すメーターを用意するとわかりやすいでしょう。
 一般的なメンタルの人間の場合(宇宙人でも可)、生存忌避が20に対し死への恐怖は80くらいだと仮定すると、自殺志願者の場合はこれが80:80、下手すれば90:80のように、これ以上生きていたくないという欲求を示す生存忌避が死への恐怖を上回っている状態にあることになります。
 具体的には大借金を抱えたり、大病を患ったり、ショッキングな裏切りにあったりと、生きる望みを失ったような状態で、人間が本能的に持つ死への恐怖自体は変わらないものの、その恐怖を乗り越えてしまうくらいに生きていたくないという気持ちが強いという意味で、この数直線モデルにおいてはこれが自殺志願者の価値観というか心理的状態だと考えます。

 では、この数直線モデルをさらに発展させ他の数値の組み合わせだとどういう人物像が出てくるのか?まず考えたのは生存忌避は一般人レベルに対し、死への恐怖がゼロという、「20:00」のような状態です。
 先の説明だと、生存忌避が死への恐怖を上回ると自殺が発生するような説明をしてますが、実際にこうしたメンタル状態でも自殺と考えていい行動が発生するだろうと思え、具体的に言えば心中や切腹、尊厳死というような自殺パターンです。

 この状態は一般人同様に生存を忌避しない(=生存欲求がある)一方で、死ぬことに対して全く恐怖がないという状態です。言い換えれば、死そのものに価値を見出して希求しているような状態で、それこそ最初に挙げたように、「死にたい」と言いながら本当に死ぬことを望んでいる状態となります。
 わかりやすい例としては上にも挙げた切腹で、特に本人が望んでの殉死などはこうしたメンタル状態をはっきり反映したものだと思います。殉死を遂げる人間としては死ぬ行為自体に価値を見い出しており、さすがに全く恐怖がないというわけではないものの、最初の自殺志願者のパターンとは明確に異なる背景やメンタルで自殺を検討、実行していることには間違いありません。いうなれば、「まだ生きてたいという欲求はあるが、それよりも早く死にたい」というメンタルでしょう。

 また自殺に限らず、自殺的行為を行う人間もこうしたメンタル状態にあると言っていいでしょう。というのも「生存欲求を持ちながら死への恐怖がない」とはどんな人間かを考えた際、真っ先に浮かんできたのは薩摩兵児こと薩摩の島津家武士達で、関ヶ原の「島津の退き口」や、火をつけた鉄砲を縄で浮かせて空中でくるくる回しながら酒を飲むなど、極端に死への恐怖が感じられないエピソードが山ほどあるからです。
 真面目な話、死への恐怖というかタブー性の低い文化圏や軍隊内では自殺の発生率が明確に高まることが証明されています。ある意味で薩摩の命知らず達もそういったメンタリティだから戦争にも強かったと思え、家康もこんな危ない連中相手にしたくないから島津家を取り潰しにしなかったのもなんとなくわかる気がします。

 話は数直線モデルに戻りますが、このモデルで比較すると「死への恐怖はあるけど生存を忌避する意識の方が高い」自殺志願者と、「生存忌避こそないものの死への恐怖はもっとない」命知らずとで、自殺行為を二つのパターンに分けることができます。現実に自殺研究でもこうした「普通の自殺」と、「心中や切腹及び死ぬとわかっていながらの突撃などによる自殺」は同じ自殺でもなんとなくタイプが違うという風には見られていますが、少なくとも私が把握する限りでは明確な区別はまだされていない気がします。というより、後者はほとんど無視されている気すらするし。
 そこで敢えて私が定義づけると、前者は「死にたくないけどこれ以上生きていくよりかは死んだ方がマシ」という価値観から「消極的自殺」、後者は「死ぬことなんかこわくないぞばっちこーい!」という価値観から「積極的自殺」という風に言い表せると考えます。そして両者とも、生存欲求と死への恐怖のバランスがおかしくなることで誘発されるというのが私の見方です。

 次回はこの数直線モデルの観点に立った上で、自殺志願者への説得の仕方について考えていきます。こうした記事をサクサク書いちゃう当たり、やはり自分の専門は自殺にある気がします。

2018年9月14日金曜日

サイコパスはドキドキしない?

 大分前に橘玲氏の「言ってはいけない」という本を読んでみたのですがその中で、「サイコパスとされる人物は常人と比べ心拍数が平均的に少ない傾向がある」という記述がありました。これは文字通りそのままの意味で、サイコパスと心理学上診断され、実際に犯罪行為などをやらかす人たちを検査したところ一般人と比べて誰もが平均心拍数が少ないという結果が出たそうです。またこうした人物の幼少期のデータを見ても同様の結果で、ちっちゃい頃から心拍数が少なかったそうです。

 これが何につながるのかというと、文字通りの意味では「サイコパスはドキドキしない」、言い換えると、「刺激に対してあまり受動的反応を示さない」ということだそうです。ドキドキする状況と言ったら一般的には恋愛場面、あと物壊したり遅刻したりして後で怒られそうって状況が挙げられますが、こうした状況でもサイコパスはあまり興奮したり、焦ったりせず、普段のまんま比較的落ち着いた心境を保つとのことです。
 またそれだけでなく、ゲームや行楽体験を受けると普通の人は心拍数の上昇とともに快を感じて楽しむ気持ちを覚えるのですが、サイコパスはこうした体験を受けても心拍数はあまり上昇せず、得られる快も一般人と比べて少ないようです。これがどう言った影響をサイコパスに及ぼすのかというと、快楽を得るためにより強い刺激を求めるようになり、ドラッグをはじめとする犯罪行為などに手を染めていくというルートにつながっているという説が提唱されていました。

 私個人の意見では、流れ的には確かになるほどと思えて非常に納得できる筋書きです。何もサイコパスに限らなくても当初は刺激十分に楽しめたゲームも何度も遊んでいると面白いとは感じなくなり、より面白いゲームはないかと探すようになり、また前に遊んだゲームよりグラフィック、ストーリー、BGMなどが優れているものを必然的に選ぶでしょう。映画で例えても、かつては感動できた映像美であっても十年後に見返すとしょぼいCGだと思ってしまうなど、刺激は慣れてしまうとより強い刺激でないと快が得られなくなります。
 サイコパスの場合はこのサイクルが常人より顕著であり、その原因の一端が先ほど挙げた心拍数にみられるというのが具体的内容です。現実の犯罪者を見ても神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇のように虫から動物、人間と殺害対象が徐々にエスカレートしていますが、この過程ではっきりと犯人自身が欲求を求めて行った結果であると述べており、特に殺人の際はえも言わぬ快感を感じたような証言を残しています。

 以上の事例を踏まえると、心拍数が少ない、というより受動的反応が弱く刺激に対してあまり反応しない人間というのはサイコパス的要素を抱えていると言えるかもしれません。無論、この一点だけでサイコパスだと判定できるわけでもなければ実際にそうだと言えるわけではなく、このほかにも共感性の欠如や将来予測の曖昧さなど他の要素も十分かつ慎重に検討する必要はあるでしょうが、刺激に対してあまり反応しないという感受性の弱さは相手の人間性を分析する上ではなかなかに重要な情報の一つだと私には思えます。
 ある意味でそれは経験が表れるとも言え、例えば私のようにホラーゲームやホラー映画を見慣れている人間はちょっとやそっとのグロテスク画像や怪談話ではビビらず、実際この前までやってたホラーゲームを遊んでいる最中も「こいつまた死んだよー(^ω^)」って感じで爆笑しながら遊んでいましたが、これは私がサイコパスというよりかは有り余るホラー体験を乗り越えてきた証であります。

 その逆に、本来なら経験しておらず初めてなはずの体験(仕事や動作)でも全く緊張もなく動じずに淡々と行ってしまう人間がいたとした場合、別に上記の話を知らなくても不気味さを感じる人の方が多いのではないかと思いますし、実際そういう人は注意するべき対象じゃないかと思います。この手の人間は何も将来サイコパスになって猟奇犯罪を起こしそうだっていうわけじゃなく、感受性の弱さから何か問題を起こした際も焦ったりとか恐れとかを抱かず、淡々と隠蔽とか見過ごしとかをやらかしかねないという意味で私は注意します。

 このような目線に立てば、サイコパスとされる人間は基本的に一喜一憂しない傾向があるため、やはりトレーダーなど、状況が激しく変わる現場での意思判断を行うような仕事が向いているのかもしれません。

 なお「サイコパス」というアニメに常守朱というキャラクターが登場しますが、このキャラは作中でどんだけショッキングな場面に遭遇、具体的には目の前で親友が惨殺されたり、親戚が拉致虐殺されたりしても、犯罪行為につながるとされるストレス(犯罪係数)が全く上昇しないという特徴を持ったキャラとして描かれています。日常生活では年相応のキャリアウーマンらしく喜怒哀楽もはっきりと出すのですが、周りもドン引きするくらいストレスに強いというか鉄人のようなタフな精神構造をしており、上記の定義に則るならやはり彼女こそが作中最大のサイコパスと呼べるでしょう。

  おまけ
 上にも書いた通りにもうすっかり遊び慣れてしまったせいか、最近どんなホラーゲームをしていてもビビることがなくなり、ゲーム中にキャラクターが死んだりしても、大抵大げさな死に方するからその死にっぷりのおかしさに笑ってしまうことの方が多いです。
 ただここ数年間でゲーム中、鳥肌が立つくらい恐ろしさを感じたことが一つだけありました。それは「ゼロエスケープ」というゲーム中での、本日結婚&妊娠を発表した能登麻美子氏の声でした。能登氏について普段は大人しめのかわいらしい女性キャラばかり演じていて内心では演技の幅が狭い声優だと考えていましたが、このゲーム内の演技というか耳にするだけで鳥肌の立つ声を聴いてからは認識を改められました。

 その後、能登氏はアニメ「ジョジョの奇妙な冒険(第四部)」のある意味ヤンデレの始祖たる山岸由花子というキャラにキャスティングされましたが、放映前は「ミスキャスト」だとか「イメージと違う」という声がネットを見ていても多かったように見えましたが、いざ実際に放映されると上記の私のように「怖すぎる」、「想像を超えていた」などと絶賛する声に溢れる結果となりました。もっとも上記の体験を経ていた私からしたら驚きはなく、現時点でも「最も怖い声は能登の声」と考えています。

2018年9月13日木曜日

所得統計過大疑惑について

統計所得、過大に上昇 政府の手法変更が影響 専門家からは批判も(西日本新聞)

 昨日出ていた記事ですが西日本さんもやるなぁと思ういい報道でした。ただ翌日の報道では「所得統計、内閣府も課題に算出」と、「統計所得」に「所得統計」といまいち表記が一致しないのはどないなんとか思うところがあります。

 さてこの一連の記事についてですが、結論から言えばまぁその通りだろうなと私は考えています。以前のGDPの統計操作疑惑の記事でも触れていますが近年の日本の統計は信用できない不可解な結果が多く出ており、別種の統計と合わせてみても何故こうしたプラス成長がはじき出されるのか腑に落ちない点が多々あります。はっきり言えば、現時点で私は中国の統計の方が日本の統計よりも信頼度が高いとすら見ています。まぁ中国もいくらか操作しており、今度JBpressで出す記事でもはっきりと、「これは弄ってるよ」と指摘してますが。

 今回の西日本新聞の報道を見て少し気が付いたのですが、GDPをはじめとする日本の経済統計でやや奇妙な点として、季節変動が小さすぎる気がします。季節変動とは「ニッパチ」に代表される、消費が活発化して経済が回る月と、そうでない月との差異です。日本では二月と八月が不景気付きで、逆に景気がいいのは三~四月と十二月頃です。
 なお中国では年によって一週間にも及ぶ春節休みが一月に来たり二月に来たりするので、このように月を跨いだ年は前年同月比が極端なプラスかマイナスに振れてしまいます。なので一~二月の統計はあまり参考にはせず、年初は第1四半期が終わるまで統計で議論することはありません。逆を言えば中国の経済統計で一~二月を比較する奴は間違いなく能力の低い記者が書いた記事と思っていいです。

 話は戻りますが日本の報道を見ていてすごい不思議なのは、やたら前月比とか前期比ばかり取り上げて、前年同月(同期)比については言及、分析されていません。統計的価値で言えば前年同月(同期)比の方がずっと価値がある、というのも前月比の比較では先ほど言及したように月ごとによって季節要因があって統計条件としては平等ではなく、あまり参考にならないためです。
 その前月(期)比ですが、なんかこのところ日本のデータを見ているとずっとプラス一辺倒であることが多いです。季節要因を考慮するとむしろ、いくら景気が上昇トレンドにあると言っても前月比成長率のグラフとかは上下に変動するのが自然です。それが何故か日本の近年の統計ではあまり見られず、なんか右肩上昇のグラフしかこのところ見てない気がします。

 はっきり言えば、ここ数年の日本の経済統計データは明らかに歪であり統計操作されている可能性が非常に高いとみています。この場合、How(どれほど)ではなく、Why(なぜ)こと動機こそ追求すべき点で、一義的には政策が成功しているという政権や省庁の成果喧伝でしょう。たださらに掘り下げて二義まで考えるとややいぶかしむ点があり、Who(誰)こと官邸と省庁のどちらが主導しているのか、そしてもう片方は何故それを座視しているのか、ここを考える必要があるでしょう。
 どちらにしろ、恐らく10年くらいしたら「この時代に統計操作が行われていた」みたいに検証され、モリカケ問題と合わせて「安倍偽装内閣」という二つ名がつくのではないかと早くも見ています。そう思うくらい最近の経済統計は私の目から見てやりすぎで、責任から逃れるためにも再選を目指さない方が良かったのにとこのところひとしきり思います。

2018年9月11日火曜日

兄より優れた弟は……

努力家だった兄と適当だった俺の人生(アルファルファモザイク)

 上のまとめ記事は最近読んだものですが、読んでてなかなか感じるものが多かったです。私自身は姉一人いるだけの末っ子ですが、やはり兄弟で弟の方が兄よりいい大学や就職先に進むなどしたら兄としては気持ち的に応えるものがあると推察されます。実際にこのようなものを気にした友人がおり、中学時代は中二病が激しかったものの割と何にも積極的に取り組み成績も優れた子だったのに、高校辺りからややバランスを欠くようになっていったのを見ています。
 「兄より優れた弟はいねぇ」とは漫画「北斗の拳」に出てくる北斗四兄弟の三男、ジャギが残した名言ですが、これはむしろそうあってほしいという兄側の心の叫びのようにも思えます。

 一方、歴史上では皮肉な結果ながら、弟が兄を差し置いて家督を継ぐというかビッグになってしまった例が、決して多いわけではないもののいくつか見受けられます。最も代表的と言えるのは徳川家二代目将軍の徳川秀忠で、彼自身は三男ですが家督を継いだ当時、長男の信康は切腹させられ既にこの世にいませんが、次男の秀康は未だ存命でした。
 何故年長の秀康を差し置いて秀忠が家督を継いだのかというと、秀康は幼少から豊臣秀吉の元へ人質として置かれていたとか、政治的な器量を見込んで秀忠にしたなどいろいろ言われているものの、最大の要因は実母の家格の違いで、生まれた当初より秀康は後継者として目されていなかったとみられています。

 そんな背景からか秀康は豊臣家に人質に出されたかと思えば二度と徳川家を継げないよう、その後結城家に婿養子に出され、現在の通り名である「結城秀康」が定着しました。一応、その後は越前へと移り姓も「松平」に変わりましたが、こんな経緯もあるもんだから水戸徳川家ほどじゃないけど越前松平家も代々、徳川宗家とは距離を置く藩主が多いです。

 この秀忠&秀康とほぼ同時代、ちょっと面白い関係の兄弟がもう一組あります。それは関ヶ原でおなじみの石田三成と、その兄である石田正澄の兄弟です。二人ともそろって秀吉に仕官して着々と出世を果たしてきますが、出世速度で言えば圧倒的に弟の三成の方が早く、正澄も2.5万石取りで秀頼の奏者番になるなど大名に出世していますが、やはり弟と比べると一段低い立場です。
 そんな正澄ですが関ヶ原の決起の際は弟・三成に協力してともに決起し、陰に陽に弟を支援しています。恐らく兄として弟の優秀さを認めていた節があり、大谷吉継などと同様に三成を助けたい一心で行動したのではないかと思われ、「兄より優れた弟を助ける兄」であったのでしょう。最終的には関ヶ原の戦後、居城の佐和山城を攻め立てられ自害しています。

 と、ここまでで終わるつもりでしたが、「そういやアイツもいたか」と思い出したのが伊達秀宗です。この人は苗字からもわかる通りに伊達政宗の長男ですが、仙台藩の藩主にはなっていません。仙台藩藩主の座は政宗の後、次男の忠宗が継いでいます。
 この理由は何故かというと、概ね秀忠&秀康ブラザーズと共通しています。秀宗は長男ではある者の実母は側室で、また秀吉の元へ幼いころから人質に出されています。当初でこそ後継者として扱われていたようですが秀宗が11歳の頃、政宗の正室である愛姫がついに待望の男子こと忠宗を生んだことから一転、秀宗の立場が不安定となり、関ヶ原の合戦後も家康との目通りも忠宗が優先されるなど梯子を外されてしまいます。

 親父の政宗も一応は秀宗のことを気にしていたのか、大坂の陣の後に徳川家から拝領した宇和島10万石の地をそのまま秀宗に譲って、別家を立てることで秀宗の地位を作りました。そのため秀宗は仙台藩主とはならなかったものの伊予宇和島藩の藩祖にはなりました。
 ところが話はこれだけで終わらない。秀宗の宇和島へのお国入りの際、伊達藩からは政宗の重臣らが与力(陪臣)として付けられていたのですが、この与力のうち二人が派閥を作って対立し、とうとう片方がもう片方を襲撃して一族諸共ポアしてしまいます(和霊騒動)。この襲撃は秀宗の指示と見られており、襲撃を指示した側の家にはなんもお咎めも下らずに何気に明治に至るまで存続し続けました。

 秀宗はこの襲撃というか実質暗殺を政宗にも幕府にも報告しませんでしたが、事実を知った政宗は殺された与力と仲が良かったこともあり、また仙台藩への影響波及を恐れてか自ら幕府へ報告した上で、宇和島藩を取り潰すよう改易を願いました。こうした動きに「日本の施政家トップテン」に確実に入るであろう土井利勝は事を荒立てず、秀宗側の和解工作もあってか両者を必死にとりなして、政宗に改易願を取り下げさせてことを収めました。
 その後、政宗と秀宗の親子は対面したそうですが、その場で秀宗は、「俺ばっかずっと人質に出された上に、長男なのに家も継がせてもらえず、今までずっとすっごく辛かった(´;ω;`)ウッ…」と思いのたけをぶちまけたそうで、これには政宗も心動いたのは先に出していた勘当を解いて仲直りしたそうです。その後も腹を割った話ができたおかげか、頻繁に贈答し合うなどそれまで疎遠だった親子関係にも改善が見られたそうです。

 ただ秀宗は親父とは仲直りできても、弟で仙台藩を継いだ忠宗とは和解しきれなかったのか、江戸城の控室では石高が低いにもかかわらず何故か忠宗より上座の席に必ずつこうとしたというエピソードも残っています。おまけのつもりで調べたら意外と面白い人物で、このままでも十分JBpressの記事にも使えそうなくらいで言い調べ物が出来ました。

2018年9月10日月曜日

派遣切りの2018年問題

 このところごくわずかですが過去に手掛けた派遣マージン率に関する記事のアクセス上がっててなんでやろとか思ってたところ、今月が派遣期間3年経ったら正社員雇用にしなきゃいけないという法律が施行されてちょうど3年目となる月だったからということに気が付きました。
 そのため一部報道では正社員雇用義務が発生する前に派遣切りする業者が増えており、今月なんかまさに派遣切りラッシュだ見たいな風に報じています。現実は切る場合は既に切られているので今月にラッシュなんて起きんのかなとやや疑問ですが、人手不足と言われる世の中で派遣切りという言葉も流行することになんやねんとかいろいろ思うところあります。

 もっともあと2年もしたら恐らく、既に派遣社員が切られている状態なので正社員の大量カットに踏み切らざるを得ない時代が来ると思っています。大正製薬もなんか大型リストラ案を発表したとのことですがかえって今この時期にこうしたクビ切りに手を付ける辺りは先見の明があるんじゃないかという気すらします。
 なお大正製薬については稼ぎ頭の毛生え薬リアップの特許が切れてこれからジェネリック医薬品が作られるようになるマイナス要因が大きいという報道を以前見ました。ハゲ市場が大塚製薬を動かしてるんだなと思うとハゲの影響力のすさまじさを感じずにはいられません。

 話は戻って派遣についてですが、今年一月にも宣言した通りにもう来年以降はマージン率の調査とかはするつもりはありません。そもそもこの調査は派遣労働の当事者たちがやるべきだと思うし、また私がこうしてそこそこのデータを作ったにもかかわらず、やはり世論の反応というか利用者がそれほど増えなかった点など、派遣労働者の当事者たちが自分たちで動かないとこの手の問題は何も解決しないと感じたからです。
 しかもアクセス数も2015年が最多で、それ以降はどんどん下がっているのもモチベーションが下がる要因になっています。ついでに言うと、マージン率公開する企業が増えてきて調査の手間が増しているというのも億劫になった要因です。

 今後派遣はどうなるのかですが、先にも述べた通りに2020年以降は大不況が来て派遣も正社員も関係なくリストラが進むと思うので、ある意味そこで格差はやや埋まるんじゃないかと見ています。その後で財界や政界がどのような雇用習慣を作るのか、新卒一括採用の見直しなども含めて物事というか制度が変わってくるのではないかと思います。
 考えられるシナリオとしては完全なアメリカ型の無給のインターンから正社員採用に移るというパターン、給与を支払う一方で「業務研修費」という名目で一部天引きする徒弟制度パターン、トラック業界などでおなじみの個人事業主として扱う業務請負型などなど、こういったのが前より増えていくんじゃないかと思っています。結論を言えば、今の日本の雇用習慣は合理的とはいえず、古い雇用習慣を変に維持しているのでこの際一気に改革すべきだという立場をとり、派遣雇用についてもない方がいいではなく、存否を含めどれがベストなのかをもっと社会で議論すべきでしょう。