・努力家だった兄と適当だった俺の人生(アルファルファモザイク)
上のまとめ記事は最近読んだものですが、読んでてなかなか感じるものが多かったです。私自身は姉一人いるだけの末っ子ですが、やはり兄弟で弟の方が兄よりいい大学や就職先に進むなどしたら兄としては気持ち的に応えるものがあると推察されます。実際にこのようなものを気にした友人がおり、中学時代は中二病が激しかったものの割と何にも積極的に取り組み成績も優れた子だったのに、高校辺りからややバランスを欠くようになっていったのを見ています。
「兄より優れた弟はいねぇ」とは漫画「北斗の拳」に出てくる北斗四兄弟の三男、ジャギが残した名言ですが、これはむしろそうあってほしいという兄側の心の叫びのようにも思えます。
一方、歴史上では皮肉な結果ながら、弟が兄を差し置いて家督を継ぐというかビッグになってしまった例が、決して多いわけではないもののいくつか見受けられます。最も代表的と言えるのは徳川家二代目将軍の徳川秀忠で、彼自身は三男ですが家督を継いだ当時、長男の信康は切腹させられ既にこの世にいませんが、次男の秀康は未だ存命でした。
何故年長の秀康を差し置いて秀忠が家督を継いだのかというと、秀康は幼少から豊臣秀吉の元へ人質として置かれていたとか、政治的な器量を見込んで秀忠にしたなどいろいろ言われているものの、最大の要因は実母の家格の違いで、生まれた当初より秀康は後継者として目されていなかったとみられています。
そんな背景からか秀康は豊臣家に人質に出されたかと思えば二度と徳川家を継げないよう、その後結城家に婿養子に出され、現在の通り名である「結城秀康」が定着しました。一応、その後は越前へと移り姓も「松平」に変わりましたが、こんな経緯もあるもんだから水戸徳川家ほどじゃないけど越前松平家も代々、徳川宗家とは距離を置く藩主が多いです。
この秀忠&秀康とほぼ同時代、ちょっと面白い関係の兄弟がもう一組あります。それは関ヶ原でおなじみの石田三成と、その兄である石田正澄の兄弟です。二人ともそろって秀吉に仕官して着々と出世を果たしてきますが、出世速度で言えば圧倒的に弟の三成の方が早く、正澄も2.5万石取りで秀頼の奏者番になるなど大名に出世していますが、やはり弟と比べると一段低い立場です。
そんな正澄ですが関ヶ原の決起の際は弟・三成に協力してともに決起し、陰に陽に弟を支援しています。恐らく兄として弟の優秀さを認めていた節があり、大谷吉継などと同様に三成を助けたい一心で行動したのではないかと思われ、「兄より優れた弟を助ける兄」であったのでしょう。最終的には関ヶ原の戦後、居城の佐和山城を攻め立てられ自害しています。
と、ここまでで終わるつもりでしたが、「そういやアイツもいたか」と思い出したのが伊達秀宗です。この人は苗字からもわかる通りに伊達政宗の長男ですが、仙台藩の藩主にはなっていません。仙台藩藩主の座は政宗の後、次男の忠宗が継いでいます。
この理由は何故かというと、概ね秀忠&秀康ブラザーズと共通しています。秀宗は長男ではある者の実母は側室で、また秀吉の元へ幼いころから人質に出されています。当初でこそ後継者として扱われていたようですが秀宗が11歳の頃、政宗の正室である愛姫がついに待望の男子こと忠宗を生んだことから一転、秀宗の立場が不安定となり、関ヶ原の合戦後も家康との目通りも忠宗が優先されるなど梯子を外されてしまいます。
親父の政宗も一応は秀宗のことを気にしていたのか、大坂の陣の後に徳川家から拝領した宇和島10万石の地をそのまま秀宗に譲って、別家を立てることで秀宗の地位を作りました。そのため秀宗は仙台藩主とはならなかったものの伊予宇和島藩の藩祖にはなりました。
ところが話はこれだけで終わらない。秀宗の宇和島へのお国入りの際、伊達藩からは政宗の重臣らが与力(陪臣)として付けられていたのですが、この与力のうち二人が派閥を作って対立し、とうとう片方がもう片方を襲撃して一族諸共ポアしてしまいます(和霊騒動)。この襲撃は秀宗の指示と見られており、襲撃を指示した側の家にはなんもお咎めも下らずに何気に明治に至るまで存続し続けました。
秀宗はこの襲撃というか実質暗殺を政宗にも幕府にも報告しませんでしたが、事実を知った政宗は殺された与力と仲が良かったこともあり、また仙台藩への影響波及を恐れてか自ら幕府へ報告した上で、宇和島藩を取り潰すよう改易を願いました。こうした動きに「日本の施政家トップテン」に確実に入るであろう土井利勝は事を荒立てず、秀宗側の和解工作もあってか両者を必死にとりなして、政宗に改易願を取り下げさせてことを収めました。
その後、政宗と秀宗の親子は対面したそうですが、その場で秀宗は、「俺ばっかずっと人質に出された上に、長男なのに家も継がせてもらえず、今までずっとすっごく辛かった(´;ω;`)ウッ…」と思いのたけをぶちまけたそうで、これには政宗も心動いたのは先に出していた勘当を解いて仲直りしたそうです。その後も腹を割った話ができたおかげか、頻繁に贈答し合うなどそれまで疎遠だった親子関係にも改善が見られたそうです。
ただ秀宗は親父とは仲直りできても、弟で仙台藩を継いだ忠宗とは和解しきれなかったのか、江戸城の控室では石高が低いにもかかわらず何故か忠宗より上座の席に必ずつこうとしたというエピソードも残っています。おまけのつもりで調べたら意外と面白い人物で、このままでも十分JBpressの記事にも使えそうなくらいで言い調べ物が出来ました。
2 件のコメント:
ジャギの迷言ほど有名ではありませんが、ラオウも兄弟関係について発言しています。父の仇を
うつ為ラオウに襲い掛かった二人の兄弟を軽くねじ伏せたあとで、二人に対し次の言葉をかけて
います。「同じ道を歩めば同じ運命を背負う! 兄弟ならば 違う道を歩むがいい!」 これは
心ならずも兄弟同士で争う宿命を背負ってしまったラオウの本心が現れています。
個人的な意見ですが、同性の兄弟は、意識して別の道を進んだ方がお互いにとっていいのかも
しれません。 異性の兄弟姉妹であれば、自然と違う道を歩むことになるので問題はおきにくい
のですが。
ラオウのその言葉も非常にいい言葉ですよね。記事にも書いてある通り自分には男兄弟はいませんが、たとえ友人であっても同じ業界や業種の仕事にいたら気まずくなりそうで、別々の仕事についているからこそ友人関係も維持できるのだとよく思います。
自分の親戚の家にはまさに男二人兄弟の家がありますが、やっぱその子らを見ていても早くに別々の道を志して、ずっと兄弟仲良くいてほしいと、上記のラオウの言葉を思い出していました。
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