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2020年5月2日土曜日

不穏な写真


 先日、上海のしまむらを眺めている最中、上記のフード付きスウェットを見つけ、写真に収めた次第です。周りの友人にこの写真を転送したところ、「君のような勇者こそ身に着けるに相応しい」的な返事ばかりもらいましたが、さすがに無駄に煽るようなことは良くないと思って、買いませんでした。
 ただ中国において攻めたデザインであることは確かで、しまむらは自分の知らない間に飛躍的にセンスを高めているのかもしれません。部屋着として使う分にはいいの揃ってる気がするんだけどね。

2020年5月1日金曜日

優れていると感じる自伝漫画

 また更新がしばらく空きましたが、全部仕事のせいです。キーボードの叩き過ぎなのか一昨日は仕事中、右肩が上がらなくなり、眩暈や動悸をリアルにしながら作業を続けていました。まだやっている仕事が楽しいのが救い。
 単純に忙しいためというより、今年2月ごろから延々と忙しい状態が続いていて、会社から要求されているイーラーニングをやる暇もないほど隙間なく働いています。3月中はまだ体力が持っていたけど、4月に入って以降は蓄積もあってか頭も体もまともに動かなくなっていきました。その成果先週末に至っては、革ベルトを付けたままズボンを洗濯機に放り込んでおり、心なしかベルトがきれいになったものの短くなって帰ってきた気がします。

 話は本題ですが、先日「『ど根性ガエルの娘』を少し読んで」という記事の中でこの漫画のことをかなり激しく批判しました。理由としてはお金を支払う漫画作品としてはあまりに質が悪いためで、その原因は編集方面の混乱もあるとはいえ、作者自身が心の整理がきちんとついていないのか、どうしても主観性が色濃く反映されているように見えると推測しました。
 「バクマン」以降、漫画政策の裏側を見せる内容が受けると見たのか、こういった漫画家の自伝漫画というのが増えた気がします。そうした漫画家の自伝漫画を今まで読んだ中でよくできていると感じたのは、巨匠こと永井豪氏の「激マン!」です。

 知ってる人には早いですがこの漫画はデビルマンやマジンガーZなど、永井氏の代表作の執筆当時を振り返った自伝漫画です。一部フィクションを交えて主人公も「ながい激」などとしていますが、故石川賢や未だ現役衰えない辻真先氏などは実名でそのまま出ており、当時のライブ感が作中で強く反映されています。
 なお辻氏についてはウィキペディアの記事にも書かれていますが、「デビルマンの脚本の打ち合わせをしながら別の作品の脚本原稿を書き続け、書き上げていた」というエピソードが「激マン!」の中に書かれています。これを初め読んだ時、「昭和の作家というのはこんなとんでもない化物ばかりだったのか……」と激しくショックを覚え、とても自分はこういう人たちとは肩を並べられないだろうという思いを感じました。令和においてもこの人は現役ですが。

 話は戻りますがこの「激マン!」が特に優れていると感じたのは、前述の通り作品ごとにテーマを絞っていることです。私が読んだのはデビルマン編だけですが、同時連載中だったマジンガーZについてはそれほど触れられず、デビルマンがどのようにして制作され、作者が当時どんな心境だったのかが良く描かれています。特に飛鳥了というキャラクターが独り歩きし始めたことや、あの伝説的な結末に至った背景について細かに書いてあり、非常に納得感のある内容でした。
 そうした裏話的な要素とともに、先にも書いた通り客観性が非常に保たれているという印象を受けました。本人は照れ隠しのために主人公は自分ではなく架空の人物としていますが、それがかえって主観性を薄めることに効果を発揮したのかもしれません。

 それ以上に、これも先に書いているように当時周囲にいた人物を非常に多く登場させ、彼らの特徴などを細々と描いています。ダイナミックプロのメンバーだけでなく出版社やアニメ会社の人物などをよく覚えているなと思うくらい登場させ、彼らとの会話や関わり、作品の展開などがしっかり描かれてあって、非常に読みごたえがありました。
 こうした点を踏まえて、やはり自伝漫画、それ以前に自伝というのはやはり主観性が強いとだめで、周囲の人物を含めて自分をどこまで客観的に描けるかが、読み手にとって面白さにつながるのではないかと思います。そしてそうした客観性が保たれていると感じるもう一つの自伝漫画としては、まぁわかるかもしれませんが「水木しげる伝」です。

 作者の水木しげる自体が下手な漫画のキャラクターより漫画っぽい人物という、極端に強いキャラクター性の持主ではありますが、この「水木しげる伝」の中では本当に一人の漫画のキャラクターの様に自分のことを客観的に描いています。また「激マン!」同様、有名なのんのん婆をはじめ周囲にいた人物を隔てなく描いており、またその見方も意外と客観性に富んでいるというか、漫画を見た後で実際にその人物を追って調べてみると、驚くほど特徴が共通していることが多かったです。
 一例を挙げると、白土三平氏がいます。初登場のシーンで、「ホームレスかと思った」と描いてあります。しかもその後で漫画家同士で飲食店に入った後、当時他の漫画家みんな食うや食わずやだったから、当時稼いでいた白土氏におごってもらう雰囲気をみんなで作っていたということも描いています。

 万事がこんな感じで、あくまで水木しげる本人が中心として描かれているものの、各時代における身の回りの人物や出来事を中心に、客観性とユーモアに富んだ視点で描かれてあって水木しげるの自伝というよりも、昭和の時代背景を読む作品としての価値の方が高いかもしれません。

 ただ敢えて一点、作者本人の主観が強く打ち出されて描かれた場面が一つあると私は考えています。それは従軍中、戦場で部隊が全滅する中で一人生き残りジャングルを逃げ回っていたところ、まるでぬり壁を目の前にしたかのように深夜に突然、どうやってもそこから前へ一歩も進めなくなったということを回想しているシーンです。翌朝になってみてその先は崖であったということがわかるのですが、このシーンに限っては非常に珍しく1ページ丸ごとの大きなコマで描かれており、作者にとって忘れ得ぬほどの強い体験だったのではないかと密かに見ています。
 私は自伝漫画に主観は不要とさっきから書いていますが、こうした一部のワンシーンで主観を大きく前に出すことは否定しておらず、むしろ作品にいい刺激すら与えると考えています。生憎ながら「ど根性ガエルの娘」では、そうではなくほぼ全面主観に満ちていましたが。

 話を戻すと逆に「水木しげる伝」で非常に恐ろしい点は、作者が左腕を失ったシーンです。爆弾が落下して吹き飛ばされ、軍医に施術されるという流れが非常に淡々と描かれており、その後の人生でも左腕のないハンデについてまったく気にしてないのかと思うくらい触れられません。恐らくほかの人間だったらこの場面だけで数十ページを使うのではと思うような場面ですが、どうしてこうも客観的に書けるのかと思うくらい淡泊で、この点一つとっても作者がとんでもない人だと偲ばれます。
 それだけに、先ほどのぬりかべのシーンの感情の入れ具合との差が際立っているとも思えるのですが。

 なお少し補足をすると、何かのインタビューで左腕喪失について悔しさみたいなものはないかと尋ねられた際、「全くない。生きて帰れただけでも幸運だ。あの時代、生きたくても生きられなかった人たちがたくさんいた」と回答したと聞きます。こうした点を考えると、やはり激烈な体験こそが物事を客観的に捉える視点を養うのかもしれません。

2020年4月27日月曜日

深夜のコンビニ勤務の恐怖

厳冬の中国自動車市場でテスラが一躍絶好調の理由(JBpress)

 というわけで今日出た自分の記事ですが、案の定コロナにやられてほとんど読まれていません。個人的にはこのコロナ禍の中でテスラが月間1万台を達成したのはそれなりに衝撃で報道価値もある内容だと思うのですが、如何せん時期が悪いのであきらめてます。

The Convenience Store | 夜勤事件(Steam)

 そんな私の記事は置いといて本題に移りますが、上記はSteamで販売されているゲームのページですが、なかなか面白そうなホラーゲームで購入を現在検討しています。このゲームについて友人に紹介ブログとともに伝えたのですが、紹介したブログの説明が非常に悪く、「雰囲気はわかるのだけれど説明がひどすぎて面白そうには見えない」と言われました。実際、私もリンクを送った後で説明文がひどい時が付いたのですが後の祭りでした。
 なので替わりに別の紹介を送ろうかと思って、目を付けたのが下記のコメントでした。

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アナタはこのワンオペ夜勤を乗り越えられるか

 コンビニ夜勤のエキスパートである筆者が、この作品の恐怖ポイントをいくつかご紹介したいと思う。

 まずゲーム冒頭、制服に着替えてから家を出るという主人公の暴挙に度肝を抜かれることだろう。制服を纏うとは、店の責任をもその身に纏うということ。これから出勤と言えど、勤務時間外での着用は許されるものではない。というかコンビニ制服着て通勤してる奴なんて見たことねーよ。田舎では普通なのだろうか……

 店に到着後は、店長が一人レジに佇んでいる姿が視界に入る。夕勤バイトの子は居ないのだろうか? ひょっとして朝から24時までのスーパーロング・シフトで、マネージャーやオーナーからこき使われていたりするのだろうか? コンビニの人材不足はどこも変わらないようだ。その過重労働ぶりには頭が下がる。下がるが……ちょっと店長? 船橋さん? 売変(廃棄)残ってるんですけどー? この時間の売変下げるの、アナタの仕事ですよね?

 しかもコイツ、主人公がタイムカードを押したら挨拶もせずにさっさと帰ってしまう。疲れているのはお察しするが、中間管理職のコミュニケーション能力がこれでは従業員間のトラブルも絶えなそうだ。

 そしておでん売り場にはイートインが併設されている。併設されているというか、ちょっとした飲み屋だこれ……

 このタイプのイートインは寡聞にして知らないのだが、これもまた田舎では普通なのだろうか……こんなのあったら面倒な酔っ払いにタムロされて仕方ないと思うが……とりあえず一品じゃない、サッと食ってサッと帰ってくれ。あと普通の具材と串モノを一緒くたに入れんのはやめろ店長。肉の油が浮いてきちゃうだろーが! これ洗うの夜勤の仕事なんだぞ船橋テメー! 隣にある中華まん什器もパンパンに仕込みやがって、深夜に売れるわけねーだろ船橋このヤロー! 販売許容時間考えろ!

 ……なんということだ。まだ出勤すらしていないというのに、ふと店内を見回しただけで、もうこれだけの恐怖ポイントを見つけてしまった。船橋のヤローはどれだけ夜勤の仕事を増やせば気が済むのか。

 これ以降も、売る気があるとは思えないメチャクチャな商品の陳列、倉庫に異常なまでに積まれたマスクと消毒液(コロナ対策だろうか?)、その反面で全く確保されていないソフトドリンクの在庫(夏場なのに)、常温で保管されている冷凍食品、深夜に店内をウロチョロするクソガキ、そいつを注意しようともしないクソ親と、コンビニ夜勤の経験がある者ならば恐怖するしかないポイントが無数に存在する。夜勤事件とは、全くよく言ったものだ。
 ホラーゲームとしての醍醐味を損なってしまうので、その他の恐怖ポイントの詳細は割愛することとする。

 だがあえて一つだけ最も恐ろしい点を挙げるならば、なによりの恐怖は「呪いのビデオテープを媒介に呪いが撒き散らされてゆく」という本作の設定に対して、客がみんなスマホ決済で会計をしている点だと思う。時代背景が分からなすぎて怖い。
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 このコメントはSteam内のページにつけられたコメントなのですが、見事にゲーム内容については一切触れていません。しかし先ほど連絡を取った友人にこれを送り付けたところ、「文章が非常に上手い」、「書き手だけでこうも変わるのか」などとやたら絶賛されました。実際、私もうまい文章だと感じます。
 それにしても、夜勤経験者が見るとこういうところに恐怖を感じるのかと、見る者によってその恐怖は変わるというクトゥルフっぽい現実が確かに存在するようです。

2020年4月26日日曜日

「ど根性ガエルの娘」を少し読んで

ど根性ガエルの娘(Wikipedia)

 昨日の今日でなんですが、昨日の記事で批判しようとしたのがこの作品です。昨日書いたように3巻辺り、というか15話から本番だというので3巻まで買って読みましたが、まぁ無理して買う必要もなかったかなという風に考えています。

 この作品を知ったのはふとしたきっかけからで、ネット上で一時話題になった問題作ということから今回の電子書籍セールに合わせて購入してみました。内容は上記のウィキペディアの記事に詳しいですが、漫画の「ど根性ガエル」の作者である吉沢やすみ氏の娘である大月悠祐子氏が、最初のヒット作以降は全く作品が当たらず家庭崩壊していた状況を書いたという漫画です。
 興味を持ったのは私の年代なら誰もが知るであろう「ど根性ガエル」の作者がそのような状況になっていたということもありますが、実はそれ以上に昔「ギャラクシーエンジェルズ」読んでたってのが大きいです。ついでに言うと「アクエリアンエイジ」でもかなんが描いたキャラのカードをよく使ってましたが、このネタが分かる人はかなり限られる気がします。

 話は戻りますがこの作品はいろいろ曰く付きというか事情があり、元々は週刊アスキーで連載されていたものの打ち切られ、その後白泉社のWebサイトで連載が再開というか仕切りなおされています。
 曰く付きなのはその移籍の背景で、アスキーでの連載は吉沢やすみ氏がギャンブル依存症となってDVもあったし過程も崩壊したけど、それでも漫画を愛する心があったからこそ私(=作者)も漫画家になった……的な味付けで話が進むのですが、なんと作者自身が途中でこの方針を拒否するようになったそうです。その理由というのも、家庭崩壊は未だに続いていると考えていたからです。

 その辺の下りは非常によく赤裸々に書かれており、連載企画で親娘対談をやったところちょっとした発言で父親が激怒し、途中で退席してしまっていたのですが、当初の漫画ではそんなことなぞなかったように和やかな会談シーンが描かれました。その後、「あれは実は嘘だった」的に、当時の実際を描いたのが話題となった15話でした。ついでにその回では連載中に吉沢やすみ氏が脳卒中で倒れて一時半身不随になったことも描いています。
 そのほか家庭崩壊に関しては、中学生時代からギャンブルの金欲しさに父親から小遣いを盗まれて、でもって非難したら追っかけられ、母親に伝えたら「お前が悪い」と言われて土下座させられたり、わざと腐った食べ物を食べるよう強制されたりといったエピソードが描かれています。また作者自身の拒食、過食症で引きこもった時期も描くなど、そうしたありのままに当時の事情を描いている点は素直に評価できます。

 ただ、それでも私はこの漫画を評価することはできず、はっきり言えば読む価値もほとんどないとすら考えています。理由は大きく分けて二つあり、一つは単純に漫画作品として質が異常に低いためです。
 実際に読んでもらえばわかりやすいですが、この漫画はどのページもコマがやたら大きく、なのにセリフは少なくて1ページ当たりの質が極度に低い印象があります。書き込みが多ければいいってものではないですが、深刻な家庭事情の話なのに変にキャラクターもデフォルメ化してそれらしい効果もつけられてて、読んでてずっと「なんでこうなの?」という違和感を感じてなりません。

 実際にというか、今朝に2巻と3巻を端末にダウンロードしたのですが、通勤途中の地下鉄に乗っている約20分間で2冊ともほぼ読み終えてしまいました。それくらいコマが大きいためコマ数と情報量が少なく、漫画というより絵本に近い内容です。にもかかわらずやたらと見開きのページが多く、その見開きの絵の内容もびっくりするくらいスカスカで、ページ数を水増しするためやってるのかとすら内心感じます。
 もしかしたら編集などからの指示なのかもしれませんが、もし作者が意図してこれをやってるのなら、単純に漫画家としての技量が不足しているとしか言いようがありません。それだけ1ページにおける薄さがこの漫画は際立っています。

 次に問題だと感じたのは、時系列がてんでバラバラで、読んでて非常に読みづらいという点です。現代の場面が描かれたかと思ったら突然「ド根性ガエル」の連載時代になったり、また現代に戻ったかと思うと今度は急に作者の子供時代→高校時代→中学時代みたいな感じで、時系列が脈絡なく飛び続けます。おまけにそこで描かれるキャラクターも毎回作者や吉沢やすみ氏というわけじゃなく作者の母親や弟で彼らの心情が書かれたりして、でもってまた急に現代になって「当時どうだったの?」的なインタビューがガンガン差し込まれます。はっきり言って読みづらい上に感情移入も全くできませんでした。

 あくまで個人的な憶測で述べると、作者自身が心の整理がついてないからこうなっているのではないかという気がします。家族との関係や過去の体験について向き合ってはいるものの、整理というものは全くついておらず、だから一つの話の流れにまとめることができずエピソードごとに単体としてでしか書けなかったのではと読んでて思いました。そしてそれがゆえに、どうしてもというか各話はどれも主観が強くにじみ出ていて、

弟:数少ない味方、理解者としてカッコよく描かれる
母:女手で育ててくれたことに対する感謝や尊敬を抱くとともに、家族の犠牲にされたという憎悪から二面性が強く描かれる
父:諸悪の根源だがどうやっても抵抗することができない存在のため統一した人格で描かれない

 みたいな感じに描かれているように私には見えました。その上で、こうした実録系のドキュメント、自伝漫画では、主観が入れば入るほど作品としては価値を落とし、やはり客観性が強く求められるものだと私は考えています。主観を全く入れてはならないわけではないものの、作者の主観というのは読者からしたら他人の視点でしかなく、見ていても共感することは基本難しいです。
 こういった自伝系での主観は自分自身を美化する傾向が強いものの、この漫画に関して作者はまだ自分のことを美化することは少なく、むしろ厳しい時期をよく赤裸々に描いているとは思います。しかし周囲に対する表現は主観が非常に強く、またそれがゆえに先ほど指摘した時系列がバラバラで全くまとまりがない事態を招いている節があり、客観的に描き切れていない、即ち過去の事実について整理し切れていないという風に私は受け取りました。

 そのため、作者の家庭崩壊がどれだけ深刻だったのかというエピソード自体は確かに興味深いものの、内容のスカスカぶりに加え主観が入り混じった読みづらさもあり、漫画作品としてみるなら正直あまり評価できるものではなく、はっきりつまらないと感じました。むしろ漫画で読むより、文字情報にまとめた解説文の方が読んでて楽しめる気がします。ぶっちゃけ、漫画よりもウィキペディア記事の方が面白かったです。

 これが私的な作品だったらまだしも、曲がりなりにもこうして有料で出版されている作品としてみるならば、私はこの作品を評価することはできませんし、人にもお勧めできません。何度も書いている通り話のネタ自体はインパクト抜群なだけに、どうしてもっと上手に料理できなかったのかという点で惜しいと感じるところは多いのですが。

 なお同じように客観性がなくなり主観が入り過ぎて失敗した自伝漫画だと、平松伸二氏の「そしてボクは外道マンになる」があります。これなんか最初の方は1970年代のジャンプ編集部と当時の連載作家たちの姿をオーバーな表現で描きつつ、新人漫画家として苦しむ自分の姿が非常に良く描かれていて面白かったのですが、作品が評価され始めた2巻辺りから作者が自分自身を段々美化して描くようになり、また先ほど評価した他の作家陣などの周囲の情景も描かなくなるようになって人気が急落し、単行本4巻で敢え無く打ち切りとなっています。
 自分は全部読みましたが、実際3巻以降はやばいくらい面白くなかったです。非常に皮肉なことですが2巻の後半に出てくるドクターマシリトが現代の作者に向かってこの漫画について、

「平松さんがもっと外道にならなきゃ、この漫画は売れないただのゴミで終わる」

 と批評するシーンがあるのですが、本当にその通りの結末を辿っています。ウィキペディアの記事にすら、「この発言がのちに現実となってしまう」と書き込まれていますが、実際やばいくらいぴったりそのまま現実になってるからこれは仕方ない。
 自伝漫画はやはりというか自分を美化せず、むしろ汚れ役として描き、尚且つ客観性が強く求められるというのが私の持論です。ではどんな自伝漫画そのような作品なのかは、また今度書きます。

  余談
 「ど根性ガエルの娘」の中で作者が父親に少年ジャンプのパーティに連れてってもらえるシーンがあるのですが、そこで作者は当時「キャプテン翼」を連載中(今もとは言わない)の高橋陽一氏を見つけてサインをねだったところ、快くサインしてくれた(岬くん付きで)エピソードが紹介されています。
 一方、「そしてボクは外道マンになる」では平松氏のアシスタントとしてやってきた高橋氏の印象が描かれているのですが、その印象というのも「大人しくて礼儀正しく素直そうな若者」と書かれています。この高橋氏に関しては、どの紹介見ても大体こんな感じで物やさしげで大人しく柔和な人と紹介されており、これほど各自の印象が一致する人もいないなと思うとともに、「実際こんな感じの人なんだろうな」とよく思ってみてます。

  余談2
 同じく「そしてボクは外道マンになる」では連載前のキャプテン翼のネームを見た平松氏が、「ボールは友達」というセリフに衝撃を受けたシーンが描かれています。この時の心境について平松氏は、「俺たちスポ根世代にとっては、ボールなんてのは(試合中に相手を殺すための)殺人の道具でしかなかった」と語って、スポーツを楽しむという高橋氏の描き方に対する驚きを口にしていて、なんかいろいろ笑えました。
 本当にこの作品は作者自身よりも、その周りというか風景を描いてくれているだけでよかったし、その方がずっと面白かったのに(ノД`)・゜・。

2020年4月25日土曜日

大量に買った漫画

 DMMが毎年恒例の半額ポイントセールをやりだしたので、これまで発売されていながら購入を控えて来た漫画を大量に購入しています。特に「五等分の花嫁」は最終巻だったので楽しみにして読んだのですが、ネットで結末最悪などと書かれていてもこの漫画に限ってはないだろうと思って読んだところ、びっくりするくらい面白くありませんでした。話になんにも波がないというか予定調和過ぎて、ようやく○○を主役にイチャコラするかと思ったらほかの五つ子の方が出番が多かったりと、この最終巻自体が蛇足というかなかった方がいいのではと本気で思いました。

 一方、同日発売の「かぐや様~」は安定の面白さで、ラブコメ覇権の移り変わりをはっきり感じました。このほか「ハコヅメ」の最新刊に関しては、「ピョンピョン捜査」の回がやばいくらい面白かったです。元々セリフ回しなどが「銀魂」によく似た作品ですが、この回は展開も「銀魂」そっくりで、1ページごとに笑い出すほどでした。

 あと「よふかいのうた」も2巻と3巻をまとめ買いして、相変わらず面白かったです。この漫画の作者のコトヤマ氏は「だがしかし」から追いかけていますが、センスや表現力が他の漫画とは一線を画しており、絵も一見よくありそうな絵柄であって実は誰にもないタッチで描いてくるので前からすごい好きです。これほどの実力者でも、「だがしかし」連載前は食うや食わずやだったというのだから、この業界はなかなか難しいものです。

 そのほか「GIGANT」、「ヒナまつり」、「幸せカナコの殺し屋生活」とかいくつか買っているのですが、実はこの記事はある漫画を酷評するためにか書き始めまています。しかしその漫画についてネットで、「1~2巻はともかく、3巻からやばくなる」という書き込みを見たので、今回は何も批評を書かずに見送ります。現在1巻だけ買って読んでみてなんじゃこりゃとちょっと呆れたのですが、本番は3巻からというので、言われた通り3巻までは読んでみることにします。

 なお一人爆買いは続いており、先週もGT-Rのプラモ買ってまだ作ってないにもかかわらず、今日は何故か店頭にあったF4Dスカイレイのプラモも買ってきました。爆買いをしているのは理由があり、つい先日に中国の銀行に預けてた定期預金が満期を迎えて、利息が入ってきたからです。今回の金利は4%くらいあって、わずか3ヶ月とは言え小遣いとするにはそこそこおいしい収入が入ってきて、金遣いが荒くなっています。
 もっともスカイレイの値段62元(約940円)だけど。あのデルタ翼に一目ぼれ。

 それと定期預金について、これまではなかったけど今回満期直前に預けている銀行から電話があり、おすすめの商品とかやけにプッシュされました。なんか資金集めに忙しいのか知らないけど。
 ただ超競争資本主義大国中国というべきか、定期預金をスマホアプリで再購入する際、「商品購入サポート担当者(オプション)」って項目があり、そこにスタッフ番号を入れる仕組みになっています。先ほどの電話かけて来た行員からはそのスタッフ番号を受けており、要するに実績作りのために営業かけてきたのもあるでしょう。まぁよく競わせる仕組みだこと。

シュレディンガーの金正恩

 朝から金正恩が検索急上昇ワードだと聞いて検索かけたところ、見出しに掲げた「シュレディンガーの金正恩」という単語を見つけました。誰が言い出したかはわからないけど、非常によくできた印象に残る言葉だという気がします。

 その金正恩ですが、いろいろ報じられている通りに何らかの形で健康上で問題が生じ、政治的に死んだ状態になっている可能性が高いのではないかと私も見ています。こう思う理由はいくつかありますが、年初のイランのスレイマニ司令官殺害事件以降から急に姿を見せなくなり、ミサイルの発射実験も一時期ピタッと止まっていたほか、最近になって妹がクローズアップされるとともに発射実験も再開され始めたことから、やはりスレイマニ司令官殺人事件の前後に何かあったのではないかいう気がしてなりません。

 とはいえ、この報道は消息筋の情報でありきちんと裏付けがなされた情報ではありません。米国のトランプ大統領が、「報告は受けていない」、「死んだとは聞いていない」と発言してはいますが、この発言、特に後者に関しては「死んではいないけど健康上の問題を抱えているぞ(^ω^)」と言っているようにも見えなくもなく、やはり無視できる情報というわけではなさそうです。
 私個人としては、昨年末から公の場に姿を現さなくなったことと、ここ数ヶ月の北朝鮮での金正恩の活動写真が素人でもわかるくらいな露骨な合成写真であることから、政治的には活動できない状態にある可能性が高いとみています。この辺は下の記事に詳しいです。

「金正恩の死」を睨んで動き始めた世界(Jbpress)

 そういう意味では見出しの通り現在の金正恩は、生きている金正恩と、死んだ金正恩が50:50で並存しており、北朝鮮が情報を公開する(観測される)まで続くと言えるでしょう。各国も生存シナリオと死亡シナリオの二本立てで今、今後の対応をシミュレートしていると聞きますし。

 それにしても、「シュレディンガーの猫」という単語は一時期の「レーゾンデートル(存在理由)」といい、やたら日本人に愛されているワードに見えます。個人的には「~の猫」というのがミソで、猫じゃなく「シュレディンガーの犬」、「シュレディンガーのイグアナ」とかだったらここまで普及はしていなかったと思います。

 そもそもなんで猫になったのか、単なる偶然でしょうが、「シュレディンガーの熊」とか「シュレディンガーの中村紀洋」でもよかった気がします。
 後者は、あるボタンを押すと大阪ドーム内にいる中村紀洋が1/2でホームランを打ち、1/2で三振をするという装置があり、このボタンをドームの外で押した場合、大阪ドーム内にはホームランを打つ中村紀洋と、三振をする中村紀洋が50:50で並存する状態となり、この状態はナイター中継を見るまで続く、つまり中村紀洋の打率は.500になるという現象を指します。なんで中村紀洋になったのかは自分でもよくわかりませんが、真っ先に浮かんできたのが彼だったからで、シュレディンガーも恐らく真っ先に浮かんできたのが猫だったのではないかと推測します。

才能の片鱗

 また更新が少なくなっていますが、相変わらず仕事が忙しいせいです。今日午後昼過ぎなんか疲労からか右手の握力が出ず指に力が入らなくなり、マウスをクリックするのもなんかすごく辛かったくらいです。山場自体は乗り越えてはいるものの、2月くらいから疲労がたまってきたせいか今が一番しんどい状態です。
 そんな疲労でいっぱいの状態ですが、先週末はまた次のJBpress記事のために取材と執筆を行っており、この作業もそこそこ疲労をためる要因になってる気がします。もっとも今回書いたのは統計記事で、グラフさえ作れば後はその解説文書くだけなのでまだ楽でしたが。

 その統計記事ですが、はっきり言って自分には適性があります。ライターの間でもこの手の統計関連記事は、書くのを得意とする人とそうでない人にはっきり分かれる傾向があり、後者の方は逆にインタビュー記事を得意とする人が多いです。自分は別にインタビュー記事を苦手としていることはありませんが、統計に関しては自分一人で一通りグラフも作れれば、数字を読み解く方面の分析も割と苦にせず行え、記者時代もこの方面では周りより得意にしていました。もっとも記者時代より、今の方が確実に統計に強くなっていますが。

 この統計に強いという特徴ですが、今思い返すと自分は子供の頃からその才能の片鱗は見せていました。数学自体は得意ではなかったもののデータの羅列から無視すべきデータと、着目すべきデータの区別は明らかに周りより早く、且つ私自身がそうした大量のデータをさばく作業を好んで行っていました。データの収集や閲覧方法は大学に入ってから学び始めたものの、比較的統計を取り扱う同じ社会学系の学生に比べても、自分は割と頻繁に統計局のサイトに入りびたってはいろいろデータを漁ったり、気になった分野とかをよく調べていました。
 本格的に開花するようになったのはもちろん記者になってからですが、早くて中学、遅くても大学生時代から統計方面に関する才能の片鱗ははっきり見られ、案の定というかこの分野では比較的高い実力を持つに至りました。

 何が言いたいのかというと、意外と先天的な才能というのは早いうちからその片鱗を見せるのではということです。統計に関するセンスに限らなくても、情報に対する感度や、微細な変化に対する観察など、今思い返すと自分は子供の頃からこうした方面の片鱗が見られていました。一部に至っては当時の自分自身ですらも自覚していたほどで、周りの人間はもっと自分の才能の片鱗に気付いて、それを育てるべきだとすら本気で思っていたほどです。
 才能の片鱗などと大仰な言い難しなくても、単純に育成期において適正と感じられるものはやっぱり成人になってもその方面では強い力を発揮しやすいのではないかと思います。はっきりとした実力を備えなくても、興味や関心が周囲より高い分野や方面で訓練を積むなり、係るような業務を選択して就くということは、それもまた単純に自身の有利につながることでしょう。

 もっともそうした適正に自分自身、または周囲が気付かなければ全く意味はありません。この辺は進撃の巨人のシャーディス教官じゃないですが、各個々人について周囲とは異なる、一歩前にある分野を気付いて教えてあげられる人間がいるかいないかによって左右されるでしょう。

 ここで話を変わりますが、統計や分析方面で自分は子供の頃から明らかに才能の片鱗を見せてはいましたが、こと文章の執筆に関しては、はっきり言ってそんなものは全くありませんでした。今でこそ実質的に物を書く仕事で生きてはいるものの、小学生から中学生にかけては自分の作文力は子供のレベルであっても話にならない水準で、実際に夏休みの読書感想文とか凄い億劫な気持ちでいつも書いていました。
 それが中学二年くらいから小説を書き始めるようになってからはこの方面の実力を高め、前にも書きましたが高三の時点では教師相手でも決して劣らないくらい文章が上手くなっており、実際ガチで「お前らに教わることなんてないんだけどな」なんて本気で思ってました。こうした見方は今の自分から見ても、あながち傲慢な見方ではなかったと考えています。

 何が言いたいのかというと、私の文章力に関しては先天的な才能によるものではなく、完全に後天的な訓練によって獲得した能力だと自分で考えています。センスがあったのではなく一からセンスと技術を磨き続け、現在そこそこ人にも指導できる水準に至ったと考えています。
 無論、飽きっぽい自分がそこまで続けられたのも一つの才能と言えるかもしれませんが、やはりどう考えても子供の頃はこの文章方面で周囲とは異なるセンスや、一歩前にある実力というのは一切見られなかった気がしてなりません。凡庸、下手すりゃ劣位にある水準にあり、そこから現在の水準に至ったのはやはり後天的な訓練の結果なのだろうと分析しています。

 ただ自分にとって幸運だったのは、反対に先天的な才能が見られていた統計や分析に関するセンスが、後天的に得た文章表現力と上手く結びついたことで、数字や統計を苦にせず記事を書けるライターになれたということです。よく就職関連とかで「スキルセット」という単語が出てきますが、個別のスキルを組み合わせる以前に、個別のスキルを形成する適正要因を如何に組み合わせるかの方が根源的に重要なんじゃないかとも思います。まぁそこまで自分や他人を分析できる人間は多くないでしょうが。

 最後にこの記事の見出しですが、「ゼノブレイド2」のあるキャラクターのスキルに「聖杯の片鱗」というスキルがあって、これ見て「片鱗」という言葉を使いたくなって見出しを決め、そこから内容を考えてこの記事書いてます。こういうところは無駄に器用というか、自分らしい気がします。