ページ

2023年7月3日月曜日

豊かさとは何か?

 先ほど小腹が空いたのでコンビニにかっぱえびせん買いに行って、風呂上がりに買っておいたカルピスとともに食べました。夕食はうどんとウインナーを茹でただけとやや少なかったものの、なんかやけに食欲高いので風邪ひく前なのかもしれません。
 上記のような状況ですが、学生時代の自分からしたら絶対にありえない行動でした。学生の頃は本当に金がなく、晩飯はキムチとみそ汁とごはん2合が当たり前で、夜中におなかすいてもお金ないから何か買いに行くとかいう選択肢はあり得ませんでした。そんな当時をしのぶにつれ、自分も無駄に贅沢になったなと思うとともに、金銭的余裕があることにいくらかの幸福感を覚えます。仮に豊かさで見れば、学生時代の私は量産型ザクⅡ(J型)程度に対し、今の私はハイザック並みに、見かけは同じでも中身は全然違うくらいハイグレードでしょう。

 というところまで考えたところで、そもそも豊かさとは何ぞやというよくある哲学的議論を思い出しました。この議論というか問いに対する答えは自分の中でははっきりしていて「比較なしに有意を感じるものがあるか」に尽きます。
 基本的に人間の行動は、食事など生存欲求に直結するものを除けば、ほぼすべて「他人に対し優越感を覚える」目的で行われると考えています。いい就職先とか他の競合者より優れた技術を示せる趣味など、ほかの奴より俺の方が凄いと感じるために行われる行動が9割くらいじゃないかと内心考えています。でもってそういう秀でた能力がない人間ほど、阿Qじゃないけど心の中で他人を見下したりする行為に走ったりする気がします。

 それに対し、他人より劣っていようが優れていようが気にせず、延々とやり続ける趣味なり嗜好がある人間ほど、人間としては豊かなんじゃないかと思います。ゲームでも盆栽でもスポーツでも食べ物でもいいですが、比較が介在するにしても一切気にせず、継続し続けられるものがあればきっと豊かな人間だと思いますし、立派だと私は考えます。そうしたものがどれだけあるか、それが人としての豊かさに直結するのではと思う次第です。

 なお金銭的豊かさに関しては、やはり限界があるというか、金持ちほど幸福感が低いという統計結果が人種や文化に関係なく出ています。完全に否定こそいないものの、やはり金銭的豊かさこそ比較優越を感じる最たる基準であるだけに、心や気持ちの豊かさとしては一定基準に到達すると充足しきれない価値観だと思います。まぁお金はあるに越したことないですが。

 そういう意味では幸福感がほかの国と相対的に低いと言われる日本人は、もっと趣味とかを充実させる社会にした方がいいのでしょうが、そうした意識を持っている政治家がどれだけいることやら。まぁ撮り鉄は周囲にいたら面倒だと思うけど。

2023年7月2日日曜日

Vガンダムとエヴァに共通したテーマ


 本題と関係ないですが上の動画見て、中国人はみんないつも映画でも撮影してんのかよと思いました。こういう突飛な映像がしょっちゅづ得てくるのが中国でしたが最近は見なくなり、久々に見ると凄く安心します。


 話は本題ですが、アニメのVガンダムに声優として出演した阪口大助氏と、カエルとおかんの声でおなじみの渡辺久美子氏の対談記事が出ていました。っていうかこの対談、主役張った坂口氏はともかくとして、ヒロインのシャクティではなくカテジナ役の渡辺氏を選ぶ辺り、企画した人は良くわかってるでしょう。

 この対談は結構裏話が多く、業界経験間もなく緊張でガチがちだった阪口氏をだましてパーマに欠けたりして、阪口氏がリアルで「おかしいですよ」とカテジナさんに言っているのが笑えました。
 ちなみに阪口氏は「アイドルマスター」の企画で出演声優の料理バトルを司会した際、合成着色料で青色に染め上げられた鶏肉も食わせられており、Vガンダムの主役のウッソといい女難な人だという気がします。

 話を戻すと、阪口氏は当時、演技指導として監督の冨野氏から鉄拳指導も受けていたと言われていましたが、この件に関しては事実ではないと否定されています。指導自体は居残りで厳しく行われたそうでしたが、殴られたりするほどではなかったそうです。ただ指導が曖昧な表現で言われるためわかりづらく、渡辺氏も対応に苦労したとも語っています。

 またVガンダムという作品について両氏とも、放映当時はピンとこなかったけど何度も見ているうちにだんだんわかってきたという風に話しているのが印象的でした。特に渡辺氏が自身が演じたカテジナについて、常にというわけではないものの、カテジナ同様にエキセントリックにおかしな行動を取ることが自分にもあることがわかってきたと話しており、これを聞いてようやくというか、この後に世に出て大ヒットしたエヴァンゲリオンとの共通テーマに気づきました。

 エヴァの監督である庵野氏はかねがね、かつて制作現場で直接指導も受けた冨野氏のこのVガンダムがエヴァの政策に大きく影響したと話していました。私はこの言葉について、世紀末的退廃的な90年代の世界観のことを言っているとこれまで思っていたのですが、今回のVガンダム対談を見て、「周囲の価値観がおかしく、自分でも気づかぬうちにどんどんおかしくなっていく」というのが、両作品に共通するテーマじゃないかと思うようになりました。

 このテーマはVガンダムの方が非常に顕著で、わずか13歳の主人公をMSの操縦がうまいという理由で、周りの大人たちがこぞって機体に乗せて戦わせようとします。主人公も周りに乗せられるままに相手の命を奪うようになり、作品が進むにつれ、殺害に対する呵責もどんどん失われていくようになっていきます。
 いわば少年兵の問題がこの作品上では一切問題視されない、それどころか大人ほど気にしない姿を見せます。それに対し「子供を戦わせるべきじゃない」と唯一否定していたのがヒロインのシャクティとカテジナさんでしたが、前者も相当ですが後者に至っては当初否定していた大人以上におかしくなり、死亡確実な作戦に部下を投入したり、だまし討ちしたりとガンダムシリーズの中でもやりたい放題を尽くすくらいの悪女となり果てます。

 なおケロロ軍曹の中で「トチ狂ってお友達にでもなりに来たでありますか?」というセリフを言ったことがあるらしいです。ケロロ軍曹もほんとやりたい放題だ。

 以上のように、Vガンダムは子供の目線で見ると頼りない大人を尻目に少年が目を見張る活躍で悪い奴らを一方的に打ちのめしていく作品ですが、大人の目で見るとみんな頭がおかしく、主人公もカテジナもそうしたおかしい価値観に染まってどんどん過激になっていくように見えてきます。

 翻ってエヴァについてはVガンダムほど露骨ではないものの、この作品も周囲の大人がおかしく、そのおかしな価値観に子供が翻弄されていく様が描かれています。わけのわからない怪物に対してロボットの操縦適性が子供しかないからという理由で子供を兵器に載せ、戦わせていくという流れです。
 当初でこそ主人公のシンジに対し周りは搭乗拒否権を認めていたというか、「できれば戦ってほしい」的な立場を取っていますが、回が進むにつれて、「乗って戦うのが当たり前」的に扱うようになり、よく突っ込まれるミサトさんなんかは「エヴァに乗るのがあんたの存在意義でしょう」的に、乗らなければカス的な見方を徐々にシンジに対しぶつけていくように見えます。これに対しシンジの方は何度か抵抗し、途中で一度ははっきりとした自分の意志で乗る姿を見せるも、結局は「抵抗しても無駄なんだ」的にあきらめて周囲のプレッシャーに潰される羽目となります。

 このシンジの姿を、子供の目線で見ると期待に応えられずうじうじした奴に見えなくもないですが、大人の目線でいえば上司や客先の圧力に潰される自分の姿のようにも見えなくもなく、「そりゃ14歳だもん、乗らなくなるよなぁ」的に妙に理解が増してきます。Vガンダムの比較で述べると、作中でもはっきり言われているように超人であるウッソはあらゆるプレッシャーを跳ね返して戦い続けるものの、常人代表のシンジは、世の中の多くがそうであるように強すぎるプレッシャーに潰れる様が描かれています。

 このように、周囲、特に大人の価値観が逸脱していて、それによって翻弄される子供もどんどん気づかぬうちにおかしくなっていくというテーマで、Vガンダムとエヴァは共通していたのかなと初めて気が付きました。なおエヴァの場合、カテジナに相当するのはシンジであり、流されておかしくなっていく点でウッソに相当するのはミサトさんな気がします。ミサトさんが私生活はともかくとして当初は常識持っていたのが、後半になるにつれて作中屈指のやばいキャラになっていく過程がなんとなくそう見えます。


 たまたまですが上記の自分の理解に通じると思うまとめ記事を見たので併記しておきます。ぶっちゃけこれ、アニメの中だけじゃなく日本の多くの中小企業や部活動に当てはまるんじゃないかな。

2023年6月30日金曜日

経済学に「第三の道」なぞあるのか?

 ソ連崩壊以降、ゴルバチョフ元大統領をはじめ多くの旧共産圏支配層は「社会主義が資本主義に負けたわけではない。世界は第三の道(経済学)を探さねばならない」などとよく唱えていました。彼らに言わすと社会主義が欠陥があったことは認めるものの、資本主義も弊害が多く万能ではない。だからこそ新たな経済思想が必要なのだと主張していました。

 ではその第三の道ですが、本当にあるのか正直言って疑問視しています。

 当初、もっともらしく主張されたのは「持続可能な発展」こと環境に配慮した経済で、CO2取引をはじめ実際に思想が取り込まれた部分は現代世界において小さくありません。敢えて言えばグローバル経済の中でフロンガスやCO2規制をはじめとする多国間グローバル規制によって公平な競争を促すような考え方といえるでしょう。無限競争を標榜する資本主義とは異なるものの、環境以外の分野は血胸のところ資本主義がベースであり、敢えて言えば修正資本主義の枠内であって第三の道というほどではないかと自分は考えています。

 この環境型経済に続いて現れたのは、北欧諸国に代表される高福祉型経済で、高い税率の代わりに手厚い福祉を国家政府が担保することによって教育水準が上がり、経済効率も高まるという考え方で、2000年代前半に日本でももてはやされました。
 ただ、肝心の北欧諸国ですら「やっぱだめだ」といい始めており、また高福祉を維持する上で人口が一定規模以上あると成立しづらいという点から、最近はこの手の思想を目にすることすらなくなりました。

 このほか中国やロシアに代表される「開発独裁」こと政府が圧倒的権力を以って、資本主義のルールの上で高成長が見込める分野の市場に資金と人材を傾注する手法が一定の成功を納め、世界的に強い独裁者に焦がれる風潮を生みだしましたが、今回のプーチンの暴走を見てやっぱ独裁者じゃだめだと、この手の権威主義の時代はそろそろ終わりになるのではないかと密かに見ています。
 少なくとも、権力者が暴走する確率は民主主義とは比べ物にならないほど大きいことは事実で、だからロシアもこれから滅びへの道を進むことになるのではないかと思います。中国も、台湾有事の判断によっては死せるプーチンの後を追うかもしれません。

 そもそも経済学の本質に立ち返ってみると、要するに富をいかに公平かつ有意義に分配するかを考えることにあります。その分配を政府の強権でもって無理やり公平に持っていくのが社会主義で、上前をたくさんはねるけど下々まである程度は分配してやるってのが権威主義、でもって特に規制は設けず、市場の「神の見えざる手」に任せるのが自由主義です。
 以上を踏まえてみれば、結局のところ分配過程に対する政府の介入程度の差こそが経済学思想の違いであり、資産の個人所有を一切認めないほど極端な共産主義を除けば、基本的にはどれも資本主義に入ると私は考えています。その上で、第三の道なぞそもそもなく、資本主義ルールで競争、そして徴税の公平性を保つため、分野ごとに規制の程度を考えていくというのが大方の経済学であり、そういう意味ではもう今後、この学問がこれ以上は発展しないのかもという気も少しします。

 それらを総括して言えば、第三の道なんてそもそもなく、資本主義をどう微調整していくか、政体と組み合わせて考えていくというアプローチの方がシンプルで建設的な気がします。マジで最近お経済学の講義ではどんなふうに教えられているのか気になりますが、やっぱ自分がこっちの学問に興味を持たず社会学に走ったのも、今思えば自然だった気がします。

2023年6月28日水曜日

「ゲイシャ」が消えた!?

 先週、Steamを通して「アクション対魔忍」を遊べることを知り、プレイ開始当初はそれほどでもなかったものの、週末挟んでから徐々に本格的にはまってきて遊ぶようになっています。なお主に使っているのは「脳筋対魔忍」代表こと秋山凜子です。
 それにしてもこのゲームですが「退魔忍」と名乗ってはいるものの舞台設定が近未来SFとあって、みんな着ている衣装は忍び装束ではなくライダースーツで、このゲームのせいでライダースーツ着た女性が対魔忍と呼ばれるようになったのはなかなか因果に思います。一応、忍者設定もあるからたまに術も使うものの、基本おまけ程度なので忍者要素はかなり薄いです。元がお色気ゲームなんだから細かく突っ込むのも野暮ではありますが。

 それでも敢えて忍者を名乗るのは、やはり海外における日本の「Ninja」ブランドの力によるものだと思います。実際このアクション対魔忍は海外でもそこそこ評価されてるらしく、自分のフレンドリストにもなんかやたら中国語漢字のアカウントが多いです。みんないちいち口に出したりしないけど、日本最強のブランドはソニーでもトヨタでもなくやはり「Ninja」でしょう。
 その忍者に並ぶ日本の架空(?)の人気職業ブランドとしてもう一つ、「サムライ」があります。忍者と侍はセットでありそうで実はあんまセットで提供されない組み合わせですが、どちらも単独であってもどの国にも一定程度通じるブランド力があり、また「侍JAPAN」に代表されるように日本人の理想像としても使われるあたり、国内外を問わず強力なブランドイメージを持つ言葉だと思えます。

 なおWBC日本チームは当初から侍JAPANを名乗っていますが、最初の方は変化球で惑わしたり、盗塁で揺さぶったりなどどちらかというとNINJAPANだった気がします。ただ先のWBCでは今日も先発でホームラン二発を決めた大谷選手をはじめ圧倒的な力でねじ伏せる戦いを見せるようになり、侍JAPANの名に恥じないチームになった気がします。


 脱線しまくりですが今日出た上の記事にある、

「この日はスプリットとカットボールが冴え、100マイル近いフォーシーズンズや決め球のスイーパーも効果的に決まった」

 という記述見て、よくこんな誤字決められるなと目を丸くしました。AIにでも記事書かせてんのか?

 話は本題に戻りますが、以上の通り忍者と侍は圧倒的ブランド力を保ち続ける一方、かつてこの二つに並び称された「ゲイシャ」という言葉をここ数年、目と耳にすることが全くありませんでした。端的に言って、忍者や侍と比べると芸者はかなりフェードアウトしているような気がします。

 芸者もかつては侍や忍者同様に「東洋の神秘」として欧米をはじめに結構もてはやされていたように思え、実際に00年代であればアメリカの本屋に「Last Geisha Story」という本が割とどこでも置いてありました。しかし前述の通り近年、そもそも芸者という言葉を目にすることが日本国内でもほとんどなくなり、また海外で紹介されるような記事も見当たりません。自分がいる中国でも、忍者や侍はまだ目にする一方、芸者を目にすることは全くありません。

 一体何故、かつて高いブランド力を誇った芸者は消え去ったのか。忍者や侍と違って戦闘職じゃないなど理由はいくつかあるでしょうが、一番大きいのは漫画やアニメに一切登場しないっていうてんじゃないかと思います。

 現代の日本文化の発信とくればやはり漫画やアニメが一番波及力が強いですが、そうしたメディアで芸者が取り上げられることはほぼなく、ホストやホステスはともかく、芸者が主人公な作品なんかまず見ません。芸者という職業観もあるでしょうがそれ以前に日本国内で芸者文化自体が退潮気味であり、ニューリッチ層でも廓遊びに狂う人もそんないないように見えます。そうした日本国内での退潮が発信メディアでも現れるようになり、かつてもてはやした欧米でもだんだんと忘れられてきているのではないかと思います。

 それと比べるなら、忍者は以前として漫画やアニメの主役級キャラクターであり、侍も「ゴースト・オブ・対馬」で海外のゲームメーカーが主役として登場させる辺り、人の心に突き刺さるものがあるとともに、そのブームがうまく時代を経て引き継がれているように感じます。対魔忍も派生した忍者の一端としてこうしたブームを牽引しているのかもしれませんが、どちらかといえば芸者に属しているような気もします(´・ω・)

2023年6月26日月曜日

アニメや漫画にゆかりの場所が少ない関西

 先日、中国人の同僚から「秋くらいに日本、それも関西方面へ旅行に行こうと思うのだけれど何かアニメや漫画にゆかりの場所とかない?」と聞かれました。聞かれて自分も少し考えては見たものの、パットと思い浮かぶものはなく、「放火された京都アニメーションのスタジオ跡ならあるけど(´・ω・)」と答えたら「さすがにそれはいい(;´Д`)」と返事されました。

 この会話の後、改めてネットの検索などを駆使したり記憶を辿ってみたりしましたが、これという場所が関西地域では浮かんできませんでした。ネットでの「関西を舞台にした漫画」という検索に至っては、「ナニワ金融道」とか「ミナミの帝王」などしかヒットせず、これらの作品で聖地巡礼するファンなんているのかよと自分でツッコミを入れる始末でした。
 また自分のかすかな記憶の中では「押忍!空手部」でヤンキーたちが集会する場所として大阪城公園があること思い出しましたが、これもそもそも作品自体古いし、中国人でこのマンガ読んでる人がいたら逆にビビります。まぁ自分もそんな読み込んだ作品じゃないですが。

 そんなわけで、京都や大阪という結構独自性ある都市を抱えながら、改めて考えると関西を舞台にした漫画やアニメ作品ってほとんどないなということに初めて気が付きました。漫画におけるキャラクターとして関西人は特徴をつけやすいのか頻繁に登場するものの、登場人物全員関西人的に、関西を舞台にした作品となると実は希少ということになります。
 まぁ超関西どローカルな作品として、「じゃりんこチエ」があるけど。これも今の若い子はもうわからないだろうな。

 では漫画やアニメで舞台となりやすい地域としてはどこなのか。やはり首都でもある東京だと吉祥寺など結構ローカルな地名とかも出てくることが多いです。中でも新宿、それも歌舞伎町はホストやホステスが出てくる漫画ではメインの舞台となり、ゲーム「龍が如く」でも事細かに描写されていることもあって、初めて訪れる外国人ですら「ゲームで歩き回ってるから地図なしで歩ける」というくらいやたら認知が深い場所になっています。
 このほかだと一時期はゲームの「アキバズトリップ」、漫画の「秋葉原電脳組」(自分で書いててよく覚えているなと思う)など秋葉原を舞台にした作品も多かったですが、近年の秋葉原の零落ぶりはすさまじいだけに、なんかこの手の作品は急激に減っている気がします。ピークだったのはまさに「シュタインズ・ゲート」出たころだろう。

 このほか実際の地名やゆかりのある場所が出てくるものとして「らきすた」が埼玉県の神社を出し、ファンの聖地となって、地元もうまいこと乗っかった例もあります。ただ一部のこの手の「聖地」ではファンが大量にやってくるようになって混乱を招いたという例もあるので、クリエイターの側もモデルとした場所を敢えてぼかしたりしているのかもしれません。
 なおこの手の聖地巡礼では「スラムダンク」に出てくる湘南の踏切が中国人の中で人気ナンバーワンで、この前の映画公開を受けて今も中国人が大挙して訪れているのではないかという気がします。

 話を戻すとやはり出版業界が東京に集中していることもあって、関西を舞台にした娯楽作品というのが意外と少ないと思え、それはそれでなんかもったいないなという気がします。小説でいいなら「鴨川ホルモー」が京都を舞台にしてますが、あれはあれで正直言って面白くなかったので、もっといい作品があればという気がしてなりません。やるんだったら京都国際会館に至るやたら急な坂道でバトルするとか、進撃の巨人の如く八条以南の京都人がJR線を乗り越えて侵入してくる展開が読みたいです。

 また関西、東京以外では、「氷菓」が岐阜の山奥を舞台にしてたりしますが、特徴ある地域とかだったらこういう取り組みは前述の通り現地で混乱を招く恐れもあるものの、将来のタイアップの可能性をつなげる意味では結構ありな気がします。そうなるとやっぱり自分としてはマッドシティを出さざるを得ないというか、もし将来小説を書くことがあったら松戸を「名探偵コナン」の米花町もびっくりなくらいの犯罪都市として仕立て、東松戸の丘のあたりに邪神を封印しておくような展開にしようかなと思います。
 一応、ゲームの「学校であった怖い話」で撮影に使われた学校があり、話でもモデルとなっているのは松戸市だったりしますが、これもかなり古い作品だから今更感があると思いつつ、やっぱホラーや犯罪と松戸は相性がいいのかなとも思えてきます。

3巻から急につまらなくなった(ぼっちざろっく)

 去年の冬頃に何度もこのブログで取り上げた「ぼっちざろっく」ですが、アニメを見て興味を持ったことから原作の漫画単行本も折に触れて買うようになりました。1巻と2巻はアニメでも取り上げらえた箇所で内容はあらかじめ把握していたものの、漫画は漫画として楽しむことができ、非常に満足いく出来でした。
 そんな感じで強い期待感とともに先日も3巻を購入してみたのですが、結論から言うとびっくりするくらい面白くなく、マジで強い衝撃を受けました。一体何故3巻から急につまらないと感じたのか、自分の中で理由は割とはっきりしています。

 そのつまらなくなった理由は、セリフ量が明らか且つ異常なくらいに増大しているためです。話数が進むごとにこの傾向はどんどん増しており、3巻後半の話に至ってはほとんどのコマがセリフの吹き出しだけで余白が半分以上埋まっています。元からセリフ量の多い漫画でしたが3巻に入ってからはそれに輪をかけるようになっており、セリフの多い銀魂ですらここまでは多くないでしょう。
 そのあまりのセリフ量というか文字数の多さに加え、四コマ漫画という形式からコマが小さいため、マジで読んでて老眼でもないのに見づらいと感じます。でもってそのセリフもウィットにとんだものでもなく、あんまひねりのないしょうもない内容が多いように感じます。

 一体なんで急にセリフが増えたのかですが、作者のインタビューなどを聞いていると主人公のぼっちにあまりに注目が集まり、ほかのキャラがあまり印象に残っていないという読者の反応を見て、ほかのキャラにスポットを当てるようになったと語っていることから、恐らくこれが原因だと思います。実際、ぼっち以外のキャラに対する描写が増え、それに伴ってセリフ量も増えています。
 ただちょっと理解しがたい点として、ほかのキャラにスポットを当てながら、自分の中の印象だとむしろそれ以前よりも陰が薄くなっているような気がします。何故かというと3巻に入る辺りで、やたらと新キャラを投入するようになり、結果的に1キャラ当たりの描写がそれ以前よりも減っているからです。これは主役のぼっちにも当てはまり、ある意味彼女の奇行が作品の主軸でもあっただけに、作品全体の面白さも一気にトーンダウンしてしまったかのように感じます。

 また前述の通り吹き出しが多くなりすぎて、絵で見せる描写が減ったせいか見栄えも悪くなっているように感じます。元々、この漫画は表情の微妙な変化を見せるのがうまいなぁと感じていたのですが、そうした表情が吹き出しで見えなくなるというのは本末転倒もいいところでしょう。

 あくまで以上は私個人の感想ですが、こうしてみると漫画とかのテコ入れって難しいんだなと改めて感じます。読者の反応を受け入れて描写を変えたら逆に人気が落ちたっていう話はほかでもよく聞きますが、その反対に読者の反応を無視し続けてたら作者の自己満といわれて人気が急減するという話もよく聞きます。割合的には後者の方が高い気がしますが。

 オチらしいオチがあるわけではないですが、セリフに関しては工夫次第で同じ内容でも短くまとめることもできるので、ぼっちざろっくに関してはこの方面でもっと上達が見れたらいいなと思いつつ、4巻を買うかは若干悩み中です。

2023年6月25日日曜日

ワグネルの反乱が終わって

 昨日に始まって今朝には終わってたロシアのワグネルの反乱ですが、ほかの人も指摘している通り、プリコジンはともかくとしてプーチンにとっては非常に痛手となる事件だったように思えます。というのも、ロシア国内で反乱を起こされたとしても、それを鎮圧するだけの力がもはやないということを示してしまったからです。

 反乱当初こそやれテロリストだの必ず殺すなどとプーチンも言ってましたが、結果的にはワグネル側の要求を丸呑みし、表に出ていない裏要求も飲み込んだとも指摘されており、ほぼ言いなりのような結果でした。この後プリコジン個人はベラルーシで暗殺される可能性はあるものの、これを見てほかのロシアの軍属や部隊も、いざとなればごねれば何とかなると悟ったと思います。また実行に移さないにしても、軍部の士気は当然下がるように思え、ウクライナとしてはもうちょっとワグネルに粘ったほしかったところでしょうがこの結果でも十分プラスになると言えるでしょう。

 既にウクライナの支援を受けているロシア人部隊が国境を荒らしていますが、今後こうした活動は国境のみならず、ロシア国土の内陸でも起こってくるかもしれません。ロシアがここまで凋落するとは私を含め誰も想像だにしていませんでしたが、第二のソ連崩壊が見られるかもと思うとなかなかに貴重な体験ができるとうれしく感じます。