前回の罪悪感についての記事の続きです。
さて前回はまず罪悪感を人間が持つのは先天的か後天的かと触れ、仮に後天的に得られるのであれば悪事とされる行為の後の制裁に対する恐怖に近くなるが、罪悪感は制裁後も何かと気に悩んだり悔いたりする感情だからこれではちょっと違うんじゃないんじゃないかというところで話を終えました。そこで今日は罪悪感についていくつかの症例を紹介し、私の考える罪悪感の定義について解説しようと思います。
ではその罪悪感の症例という奴ですが、エスパーみたいに察しのいい人とか文学好きな人ならもしかしたらピンと来ているかもしれませんが、あのロシアの文豪ドストエフスキーが最高傑作と呼び声の高い「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの話です。
ラスコーリニコフは金がないために大学を休学せざるを得なかったのですが、彼がその追い詰められた状況を打開するために考えた行動というのが、誰からも嫌われている金貸しの老婆を殺害してお金を奪うということでした。彼は誰からも嫌われている人物を殺すのだし、そうして奪ったお金で優秀な学生である自分が大学を出て世に貢献するのだから何も悪びれることはないと決心してこの計画を実行します。しかしその際、金貸しの老婆だけでなくたまたま家に戻ってきた、こちらは嫌われていなかった老婆の妹まで殺してしまいます。
よく解説などを読むとこの無関係な妹を殺したことがラスコーリニコフの後の苦悩へとつながったという解説が多いのですが、私が読んだ印象だとそこまで妹の殺害が影響したようにはあまり思えず、それよりも老婆を含めた殺人というそれ自体の事実が、自ら計画時に正当化しているにもかかわらず、その後彼を狂人かのように延々と思い悩ませる原因だったのではないかと感じました。
とまぁ罪と罰のあらすじはそんな感じで、周到に正当化していたにもかかわらずラスコーリニコフは殺害後に悩み、そうまでして奪った金も手元には残さず半ば投げ捨てるかのように手放してしまい、会う人すべてに猜疑心を持ってはしっちゃかめっちゃかな行動を続けます。なおそんなラスコーリニコフにかなり早い段階で犯人だと目星をつけた刑事ポルフィーリィーとのやり取りは実に内容が鋭く、この作品の最大の見せ場となっております。
このラスコーリニコフの思い悩むシーンに良く出てくる単語の一つに、ナポレオンという言葉があります。ラスコーリニコフはナポレオンがエジプト遠征から帰国する際に自分が引き連れてきた兵隊皆を置き去りにし、帰国するやクーデターを起こして最高権力者に就いた事実を引用しては、英雄は自らがどれだけ残酷で冷徹な行為を行ってもそれを全く意に介さない、しかるに自分はあの老婆の殺害でこれほどまで苦しめられるのだから英雄のような大人物ではなかったのか、というように自問自答をします。
当時のヨーロッパでナポレオンという存在が知識人層に与えた影響は相当強かったと思わせられるエピソードですが、私は言ってしまえばここに一般の人間が持つ罪悪感という正体が隠されていると考えています。
それがどれだけ後につながる行為だとしても、どれだけ正当だと言いわけできるような行為だとしても、犯罪とされる殺人や盗みという行為に対して人間は本能的に拒否する感情があるのではないかと私は思います。生物学によるとどの種族も基本的には自分の属する種の繁栄を遺伝子レベルで望むため、雌の奪い合いといった特殊な状況は除き、同種間で殺害が行われると行った生物は高いストレスを覚えるそうです。人間の場合は戦争といった他の種族とは大きく異なる形で殺人を行うことはありますが、私が知る限り少なくとも同部族、同文化間で殺人や盗みを奨励した社会はなく、遺伝子的な影響によるものだとしてもこうした意識こそが人間が先天的に持つ良心ではないかと考えています。
つまりはその生まれ持った良心の延長に反する行為、当該社会内で犯罪とされる行為に対して深いストレスや自責の念を生じさせる罪悪感というのは、後天的にその範囲や効力が強化されることはあっても、根っこのところでは先天的なものが起因しているのではないかということです。
逆を言えば先ほどのラスコーリニコフの考えるナポレオンのように、自らの行為に対して罪悪感のような呵責を覚えない人間というのはいい意味でも、悪い意味でも手に負えないところがあるように思えます。織田信長や曹操にもこうした面がありますが、講談の中でならいざ知らず、いざ身近にこんな人物がいたら厄介なことこの上ないでしょう。
最後に宗教的な話をしますが、私の解釈だと他の宗教に比してキリスト教はこの罪悪感を強く打ち出して信仰をしているように見えます。まず最初にアダムとイヴが天界で罪を犯したせいで彼らの子孫である人間は下界に落とされてしまったので、この世に生きている間は必死に許しを乞いて神へ贖いをしなければならないというのがキリスト教の基本的な教えなのですが、やっぱり私が見ていると何か罪悪感というものを強く持ちなさいという様に言っているように感じます。私なんか子供の頃は今でこそ素で引くような滅茶苦茶なことばっかしていて、このキリスト教の教えに触れた際に一時は猛烈に罪悪感を感じて強く惹き込まれた経験があります。今ではキリスト教に対して強い敬意を抱くのに変わりはありませんがちょっと違うなぁと思うところも出てきて距離を置いていますが、そういった下地があるからこそこの罪悪感について強く思うところがあるのかもしれません。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年5月31日日曜日
2009年5月30日土曜日
私が尊敬する安藤百福氏について
恐らく私と同世代の方にはあまりなじみがないかもしれませんが、数ある経営者の中で私が特に尊敬する人物として日清食品創業者の安藤百福(ももふく)氏がおります。安藤氏が一体どんな人物かというと、あの日清食品の創業者とあるのと同時に世界初のインスタントラーメンこと、「チキンラーメン」の発明者でもある人物であります。
このチキンラーメンを初めとした即席麺は現在世界中のどこに行っても手に入れられるほどで、その利便性と味の多様さから日本だけでなく各国の人間に受け入れられています。特に麺食の多い中国のスーパーに行けばびっくりするくらいの多種類のカップ麺が並んでおり、その浸透振りにはさすがは中国と私も思ったほどでした。なお、日本式という名目で売られていたカップ麺はとんこつ味でした。
それで安藤氏の経歴ですが、この方は戦前に日本統治下の台湾の生まれですが戦後も日本国内に留まって繊維業などといった事業を経営していたところ、ある日ひょんなことで事業がすってんてんになって自宅以外の財産すべてを没収される羽目となりました。その時すでに安藤氏は47歳で、普通ならこの年でこんな目に遭えば再起を期すなんて考える人はあまりいないと思うのですが、安藤氏はこの時から自宅の庭にあった小屋にて日夜即席麺の開発へと取り掛かったのです。
そこでの実験と研究の試行錯誤の日々の末に、安藤氏はゆで上がった麺を一旦油で揚げる事により、お湯をかけるだけで元のゆで上がり時の麺に戻すせることを発見しました。このエピソードからもわかるとおりに、今これほどまでに一般化しているインスタントラーメンの技術は事実上、安藤氏一人によって発明されたものだったのです。
安藤氏はこの発明を武器に再び事業を起こし、瞬く間にインスタントラーメンを日本で普及させて会社を大きくさせると、ラーメン文化がなかったためにどんぶりのないアメリカへ如何に進出するかと考え、紙コップに麺を入れてお湯をかけさせることをヒントにカップヌードルを誕生させるに至ったのです。
私がこの安藤氏を何故尊敬するかといったら、やはり見事再起を果たした点に尽きます。しかもその再起のきっかけが自らの努力によって発明したインスタントラーメンで、その後もカップヌードルの発売や工場の製造ラインの工夫時のエピソードなど常に努力や知見を怠らず、年をとっても衰えを見せないその探究心と行動力には感嘆させられます。そして今、これだけインスタントラーメンが世界に普及しているのを見るにつけその影響力の大きさには一個人として深く頭が下がります。実際に2007年に安藤氏が死去した際には、海外の新聞でもその訃報を記事にした新聞が出たほどだったそうです
そうした背景もあって、実は二年前に大阪府池田市にあるインスタントラーメン博物館に親父を引き連れて行ってきたことがあります。企業の博物館は大抵どこ行ってもそれなりに面白いのですが、この博物館では安藤氏が発明を行った小屋が再現されてたり、どのように販売が展開されたのかや、今どんな種類のインスタントラーメンがあるのかなどが展示されていて非常に面白い博物館で、機会があれば是非もう一度行ってみたいほどです。
この博物館内ではどこかの海外の記事を引用して、インスタントラーメンが零戦やウォークマンを抑えて最も偉大な日本の発明だと書いてくれたというパネルが展示していましたが、実際にこれだけの普及度を見ると私もそんな気がします。特に麺食文化の強い中国では絶大でしたし、そうでない欧米にもこれだけ広めた点を考慮すると真に偉大な発明でしょう。
私がこの博物館を訪れた時はまだ安藤氏が亡くなってから数ヶ月しか経っておらず、それだけになにか強い感傷を覚えながら展示物を見ていました。館内のシアターコーナーで発明の過程を説明する映像があるのですが、その最後に安藤の言葉として、常に発明や工夫への意欲を持ち続けるのだという内容の言葉が音声として流れた際、何かしんみりすると共に熱い思いが込みあがってきたのをまだはっきりと覚えております。
このチキンラーメンを初めとした即席麺は現在世界中のどこに行っても手に入れられるほどで、その利便性と味の多様さから日本だけでなく各国の人間に受け入れられています。特に麺食の多い中国のスーパーに行けばびっくりするくらいの多種類のカップ麺が並んでおり、その浸透振りにはさすがは中国と私も思ったほどでした。なお、日本式という名目で売られていたカップ麺はとんこつ味でした。
それで安藤氏の経歴ですが、この方は戦前に日本統治下の台湾の生まれですが戦後も日本国内に留まって繊維業などといった事業を経営していたところ、ある日ひょんなことで事業がすってんてんになって自宅以外の財産すべてを没収される羽目となりました。その時すでに安藤氏は47歳で、普通ならこの年でこんな目に遭えば再起を期すなんて考える人はあまりいないと思うのですが、安藤氏はこの時から自宅の庭にあった小屋にて日夜即席麺の開発へと取り掛かったのです。
そこでの実験と研究の試行錯誤の日々の末に、安藤氏はゆで上がった麺を一旦油で揚げる事により、お湯をかけるだけで元のゆで上がり時の麺に戻すせることを発見しました。このエピソードからもわかるとおりに、今これほどまでに一般化しているインスタントラーメンの技術は事実上、安藤氏一人によって発明されたものだったのです。
安藤氏はこの発明を武器に再び事業を起こし、瞬く間にインスタントラーメンを日本で普及させて会社を大きくさせると、ラーメン文化がなかったためにどんぶりのないアメリカへ如何に進出するかと考え、紙コップに麺を入れてお湯をかけさせることをヒントにカップヌードルを誕生させるに至ったのです。
私がこの安藤氏を何故尊敬するかといったら、やはり見事再起を果たした点に尽きます。しかもその再起のきっかけが自らの努力によって発明したインスタントラーメンで、その後もカップヌードルの発売や工場の製造ラインの工夫時のエピソードなど常に努力や知見を怠らず、年をとっても衰えを見せないその探究心と行動力には感嘆させられます。そして今、これだけインスタントラーメンが世界に普及しているのを見るにつけその影響力の大きさには一個人として深く頭が下がります。実際に2007年に安藤氏が死去した際には、海外の新聞でもその訃報を記事にした新聞が出たほどだったそうです
そうした背景もあって、実は二年前に大阪府池田市にあるインスタントラーメン博物館に親父を引き連れて行ってきたことがあります。企業の博物館は大抵どこ行ってもそれなりに面白いのですが、この博物館では安藤氏が発明を行った小屋が再現されてたり、どのように販売が展開されたのかや、今どんな種類のインスタントラーメンがあるのかなどが展示されていて非常に面白い博物館で、機会があれば是非もう一度行ってみたいほどです。
この博物館内ではどこかの海外の記事を引用して、インスタントラーメンが零戦やウォークマンを抑えて最も偉大な日本の発明だと書いてくれたというパネルが展示していましたが、実際にこれだけの普及度を見ると私もそんな気がします。特に麺食文化の強い中国では絶大でしたし、そうでない欧米にもこれだけ広めた点を考慮すると真に偉大な発明でしょう。
私がこの博物館を訪れた時はまだ安藤氏が亡くなってから数ヶ月しか経っておらず、それだけになにか強い感傷を覚えながら展示物を見ていました。館内のシアターコーナーで発明の過程を説明する映像があるのですが、その最後に安藤の言葉として、常に発明や工夫への意欲を持ち続けるのだという内容の言葉が音声として流れた際、何かしんみりすると共に熱い思いが込みあがってきたのをまだはっきりと覚えております。
2009年5月29日金曜日
罪悪感とは 前編
社会学でよく取り上げられる議論の一つに、「一体何が人の行動を規制するのか」というものがあります。これは言うなれば、「人間はやってはいけないといわれる行為を何故行わず、また何故それをやってはいけないと考えるのか」、という命題で、屁理屈好きの社会学連中にはたまらないのかあれやこれやと私も友人らと議論したことがあります。
いくつか例を出すと、日本人にわかりやすい例としてルース・ベネディクトというアメリカ人が戦後直後の日本人を分析した著書の「菊と刀」にて、
「日本人は恥の文化である。我々欧米人が宗教的道徳によって秩序を維持するのに対して、日本人は周囲や世間の目を気にすることで自らの行為を規制する」
と、日本人の行為規制の基準は世間体だと、アメリカ人以上に日本人の方が余計に納得してしまった分析を行っております。
なおこのルースの分析をもう少し解説すると、欧米人は一般的にはキリスト教の教えを土台にして、自分の行動が自分が考える神に対して叶っているかどうかを判断することで秩序というか、やってはならない反社会的な行為を規制するという前提があります。これが本当かどうかはわかりませんが、欧米人が自己の中の神を気にするのに対して日本人は世間体を気にするというのは個人主義か集団主義かというような議論にもつながってくるので、基本前提として使うのならばなかなか使い勝手のいい考え方です。
ここで今日の私のネタですが、最近ふとしたことからまた行為規制にについて色々考えていたら、ひょっとしたら罪悪感というのが人間の行為を規制する上で非常に重要なんじゃないかと思いつきました。先ほどのルースの議論でも、突き詰めて言えばこの罪悪感が影響するからこそ行為が規制されていくのではないかと考えたのです。
そこで今日はちょっと、そもそも罪悪感とは一体なんなのかということを軸に話を進めて行こうと思います。
まず単純に罪悪感とはなんなのかですが、簡単に言ってしまえば意図せずにお皿とかを割ってしまった際に「やってもうたΣ (゚Д゚;)」と思うような感情のことです。多分正常な人間なら誰しもが持っているであろう感情ですが、私が最初に疑問に思ったのはこれが先天的に人間が備えている感情なのか、それとも後天的に訓練されて得る感情なのかどうかです。
なので早速何人かの友人に罪悪感は先天的か後天的かと聞きまわってみましたが、ほぼ全員が即答で後天的だと回答しました。というのも幼児の段階ではやっていいことと悪いことの区別が付かず、呵責なく物を壊したり入ってはいけない所にも行ってしまうが、年齢が進むと、「悪いことやってるんじゃないかな(´Д`)」と思うようになってそういった行為が減っていくから、というような説明が大半でした。
もちろん私だって子供の頃はよくあんなことを平気でしたもんだと思えるような経験があり、この説明にも納得できないわけじゃないのですが、攻殻機動隊風に言うのなら「私のゴーストが囁くのよ」という具合になんかこれだとしっくりこず、本当に後天的なのかどうか私なりにあれこれ考えてみました。
まず仮に後天的だとすれば、どのようにして罪悪感が訓練されていくのかを考えました。真っ先に浮かんできたのは動物のしつけではありませんが、悪事とされる行為の後の制裁です。それこそ子供であれば悪戯をした後に拳骨やケツ叩きを受けることによって徐々に悪いことをしたら制裁があるということを理解していき、成人になる頃には直接的に経験してはいない犯罪行為に対してすらも行為後には刑罰という制裁が待っている事が予想できるようになって、そうした世間なり自分なりが反社会的だと思う行為を行わなくなると考えられるでしょう。この説明だと行為後の制裁が罪悪感を育て、なおかつ制裁それ自体の恐怖感を罪悪感と言い換えることが出来ます。
仮にもしこれで行為前にのみ罪悪感を覚えるのなら私も素直に納得しますが、多分私だけじゃなく、人間は行為後、それも制裁が済んだ後にも深い罪悪感を持ち続けることがあると思います。それこそふとしたことで数年前にやってしまった自らの大失敗を思い出したり他人に掘り返されたりすると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。また過去にしでかしてしまった行為をいつまでも後悔し、現在の生活にまで影響を及ばせてしまうというストーリーは昔から今に至るまで王道とされて様々な文物で描かれるほどです。表現的には、罪悪感にさい悩まされるといったところでしょうか。
単純に罪悪感が行為直後に覚える制裁に対する恐怖であれば、制裁が済んだ後や一定の時間の経過後も影響するというのではちょっと違うもののように思えます。もちろん罪悪感それ自体が制裁に対する恐怖ではなくとも制裁という訓練を経て身につけるもので、後々にまで二度とそのような行為を起こさせまいと喚起させる感情だと解釈することも出来ます。ただもうすこし色々掘り下げていけば他にもなにか色々見つかりそうなので、続きはまた次回にて私の考えや参考になる症例を紹介します。
なお先に結論というか私の考えを言っておくと、多分私がロマンチストであるがゆえにやっぱり罪悪感というのは、全部が全部そうだとは言いませんが人間が生まれた頃から持っている先天的な要素もあるんじゃないかと考えています。
いくつか例を出すと、日本人にわかりやすい例としてルース・ベネディクトというアメリカ人が戦後直後の日本人を分析した著書の「菊と刀」にて、
「日本人は恥の文化である。我々欧米人が宗教的道徳によって秩序を維持するのに対して、日本人は周囲や世間の目を気にすることで自らの行為を規制する」
と、日本人の行為規制の基準は世間体だと、アメリカ人以上に日本人の方が余計に納得してしまった分析を行っております。
なおこのルースの分析をもう少し解説すると、欧米人は一般的にはキリスト教の教えを土台にして、自分の行動が自分が考える神に対して叶っているかどうかを判断することで秩序というか、やってはならない反社会的な行為を規制するという前提があります。これが本当かどうかはわかりませんが、欧米人が自己の中の神を気にするのに対して日本人は世間体を気にするというのは個人主義か集団主義かというような議論にもつながってくるので、基本前提として使うのならばなかなか使い勝手のいい考え方です。
ここで今日の私のネタですが、最近ふとしたことからまた行為規制にについて色々考えていたら、ひょっとしたら罪悪感というのが人間の行為を規制する上で非常に重要なんじゃないかと思いつきました。先ほどのルースの議論でも、突き詰めて言えばこの罪悪感が影響するからこそ行為が規制されていくのではないかと考えたのです。
そこで今日はちょっと、そもそも罪悪感とは一体なんなのかということを軸に話を進めて行こうと思います。
まず単純に罪悪感とはなんなのかですが、簡単に言ってしまえば意図せずにお皿とかを割ってしまった際に「やってもうたΣ (゚Д゚;)」と思うような感情のことです。多分正常な人間なら誰しもが持っているであろう感情ですが、私が最初に疑問に思ったのはこれが先天的に人間が備えている感情なのか、それとも後天的に訓練されて得る感情なのかどうかです。
なので早速何人かの友人に罪悪感は先天的か後天的かと聞きまわってみましたが、ほぼ全員が即答で後天的だと回答しました。というのも幼児の段階ではやっていいことと悪いことの区別が付かず、呵責なく物を壊したり入ってはいけない所にも行ってしまうが、年齢が進むと、「悪いことやってるんじゃないかな(´Д`)」と思うようになってそういった行為が減っていくから、というような説明が大半でした。
もちろん私だって子供の頃はよくあんなことを平気でしたもんだと思えるような経験があり、この説明にも納得できないわけじゃないのですが、攻殻機動隊風に言うのなら「私のゴーストが囁くのよ」という具合になんかこれだとしっくりこず、本当に後天的なのかどうか私なりにあれこれ考えてみました。
まず仮に後天的だとすれば、どのようにして罪悪感が訓練されていくのかを考えました。真っ先に浮かんできたのは動物のしつけではありませんが、悪事とされる行為の後の制裁です。それこそ子供であれば悪戯をした後に拳骨やケツ叩きを受けることによって徐々に悪いことをしたら制裁があるということを理解していき、成人になる頃には直接的に経験してはいない犯罪行為に対してすらも行為後には刑罰という制裁が待っている事が予想できるようになって、そうした世間なり自分なりが反社会的だと思う行為を行わなくなると考えられるでしょう。この説明だと行為後の制裁が罪悪感を育て、なおかつ制裁それ自体の恐怖感を罪悪感と言い換えることが出来ます。
仮にもしこれで行為前にのみ罪悪感を覚えるのなら私も素直に納得しますが、多分私だけじゃなく、人間は行為後、それも制裁が済んだ後にも深い罪悪感を持ち続けることがあると思います。それこそふとしたことで数年前にやってしまった自らの大失敗を思い出したり他人に掘り返されたりすると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。また過去にしでかしてしまった行為をいつまでも後悔し、現在の生活にまで影響を及ばせてしまうというストーリーは昔から今に至るまで王道とされて様々な文物で描かれるほどです。表現的には、罪悪感にさい悩まされるといったところでしょうか。
単純に罪悪感が行為直後に覚える制裁に対する恐怖であれば、制裁が済んだ後や一定の時間の経過後も影響するというのではちょっと違うもののように思えます。もちろん罪悪感それ自体が制裁に対する恐怖ではなくとも制裁という訓練を経て身につけるもので、後々にまで二度とそのような行為を起こさせまいと喚起させる感情だと解釈することも出来ます。ただもうすこし色々掘り下げていけば他にもなにか色々見つかりそうなので、続きはまた次回にて私の考えや参考になる症例を紹介します。
なお先に結論というか私の考えを言っておくと、多分私がロマンチストであるがゆえにやっぱり罪悪感というのは、全部が全部そうだとは言いませんが人間が生まれた頃から持っている先天的な要素もあるんじゃないかと考えています。
2009年5月28日木曜日
企業の栄枯盛衰について
あまり日本では大きく報道されていませんが、アメリカの方ではこの前クライスラーが破産申請に至ったのに続き、ビッグスリーのもう一角のGMもまたそういった流れになっていくことが段々と確実視されてきました。当初は投資家や銀行の債務を一部帳消しした上での再建を目指してきていたのですが、結局CDSでの保証を得た方が取り分は大きいと見た投資家らが合意しなかったことが今回の流れを強めたといわれています。
もっとも投資家らの言い分の中には、「自分たちには債務を一部放棄せよといいながら、労組には何の手をつけていない」、といものもあり、私自身もこの点を考えると一概に投資家だけを非難するのは不適当に思えます。
というのもGMの労働組合員への対策はあまりにも度が過ぎているというべきか、従業員へのあまりの厚待遇が経営を圧迫したということに理解できるからです。一昨日もNHKこの点が報道されていましたが、55歳でGMを退職したあるアメリカ人男性は、その後十年も経った現在に至るまでGMから毎月日本円にして約20万円もの年金をもらい続けているそうです。彼はこうした厚待遇が従業員のやる気を引き出しているのだといいますが、それだけの額を毎月、いくら元従業員だからといって働いてもいない人間に払い続けるのは如何なものかと呆れさせられましたし、そんな出費をしておいて今更経営が悪くなったから投資金を放棄してくれというのも確かに納得できる話ではありません。
今回の破産申請に至った経緯に、こうした元従業員や現在の従業員に対するあまりの厚待遇を一部削減することが視野に入れられて議論されていたものの、GMの労組が一切妥協しなかったことも影響したと言われています。
しかしこうした事実はあながち対岸の火ではないんじゃないかと私は思います。私が知っている例だと朝日新聞社がこれに似ており、なんでも朝日新聞社の元従業員は国からの年金に加えて朝日新聞社からも退職後に毎月年金が振り込まれ、しかもその奥さんの分まで支払われているというのですからさすがは天下の朝日と言ったところでしょうか。
その朝日も前期の決算では赤字を出し、また今後人口が減るばかりか新聞の購読者数の現象も歯止めがかかっておらず、もしかしたら十年後にはGMの労組のことを書いている場合じゃなくなるかもしれません。
おごれるもの久しからずとは言いますが、今の時代にトップクラスの企業が十年後はどうなっているかは全くわからず、バブル期にあれだけ強かった不動産や鉄道関係も今ではどこも苦しい経営を迫られており、ありきたりな言葉ですが大企業に入ればもう安心というのは甘い考えだと言わざるを得ません。
なんか今日はやる気が湧かないので、この辺で終えます。
もっとも投資家らの言い分の中には、「自分たちには債務を一部放棄せよといいながら、労組には何の手をつけていない」、といものもあり、私自身もこの点を考えると一概に投資家だけを非難するのは不適当に思えます。
というのもGMの労働組合員への対策はあまりにも度が過ぎているというべきか、従業員へのあまりの厚待遇が経営を圧迫したということに理解できるからです。一昨日もNHKこの点が報道されていましたが、55歳でGMを退職したあるアメリカ人男性は、その後十年も経った現在に至るまでGMから毎月日本円にして約20万円もの年金をもらい続けているそうです。彼はこうした厚待遇が従業員のやる気を引き出しているのだといいますが、それだけの額を毎月、いくら元従業員だからといって働いてもいない人間に払い続けるのは如何なものかと呆れさせられましたし、そんな出費をしておいて今更経営が悪くなったから投資金を放棄してくれというのも確かに納得できる話ではありません。
今回の破産申請に至った経緯に、こうした元従業員や現在の従業員に対するあまりの厚待遇を一部削減することが視野に入れられて議論されていたものの、GMの労組が一切妥協しなかったことも影響したと言われています。
しかしこうした事実はあながち対岸の火ではないんじゃないかと私は思います。私が知っている例だと朝日新聞社がこれに似ており、なんでも朝日新聞社の元従業員は国からの年金に加えて朝日新聞社からも退職後に毎月年金が振り込まれ、しかもその奥さんの分まで支払われているというのですからさすがは天下の朝日と言ったところでしょうか。
その朝日も前期の決算では赤字を出し、また今後人口が減るばかりか新聞の購読者数の現象も歯止めがかかっておらず、もしかしたら十年後にはGMの労組のことを書いている場合じゃなくなるかもしれません。
おごれるもの久しからずとは言いますが、今の時代にトップクラスの企業が十年後はどうなっているかは全くわからず、バブル期にあれだけ強かった不動産や鉄道関係も今ではどこも苦しい経営を迫られており、ありきたりな言葉ですが大企業に入ればもう安心というのは甘い考えだと言わざるを得ません。
なんか今日はやる気が湧かないので、この辺で終えます。
2009年5月27日水曜日
がっかりしたゲームの続編(-_- )
今日は久々にゲームの話です。
さてファミコンの誕生から既に三十年近く経っており、いわゆるシリーズ物と言われるような連続作のゲームもこれまでにもたくさん生まれてきています。しかしそうしたシリーズ物は毎回ヒットを飛ばすようなドラゴンクエストシリーズのようなゴールデンタイトルもある一方、前作が高く評価されたにもかかわらず次回作はめっきり売れなかったり、その後のシリーズが打ち止めになるほど散々な結果に終わった続編もたくさんありました。今日はそんな中、実際に私がやってみてがっかりしたゲームの続編を一部紹介しようと思います。
1、パラサイト・イヴ2(スクウェア)
今日の記事を書くきっかけになったソフトです。前作「パラサイト・イヴ」はスクウェアが文字通り全盛期の頃に発売されたこともあって非常に好調な売り上げを残し、ゲーム内容も当時としては最高峰なまでに美麗なCGに加え、瀬名秀明氏の「パラサイト・イヴ」を原型にしたいい具合のストーリーが展開されており、主人公のアヤ・ブレア(巨乳)が病気なんじゃないかと思うくらい足が遅かったのを除けば完成度の高いゲームでした。
しかし次回作に当たるこの「パラサイト・イヴ2」は前作からゲームシステムが根本的に改められ、アクションRPGとはいえRPGの要素が強かった前作に対し、今作は今で言うならFPSこと完全なアクションゲームになっていてもはやゲームとしては別物と言っていいほどでした。その上、荒削りとはいえ色々と深く掘り下げらる要素の多かった前作のシナリオと今作は関係性が非常に薄く、主人公が同じアヤ・ブレアであるのと、申し訳程度に「前田弾」が出てくるくらいしかつながりがなく、そうまでして新しく作ったシナリオは言っちゃ悪いですがB級ホラー映画程度のくだらない内容で、黒幕はよくあるアメリカ大統領で終わっちゃったし。
なんか今度PSPでこれの続編を出すそうですが、さすがにこれだけ期間が空いてりゃリメイクでもない限り続編もクソもないでしょう。第一作目は私ものめりこんだ分、非常に不遇なシリーズだったと思うだけに、2であれだけひっくりかえすなら初めから別シリーズのゲームとして出しとけばよかったのに。
2、ファイナルファンタジー8(スクウェア)
多分、ゲームシリーズにおける駄作と来たらどこで票をとってもこれが出てくるでしょう。ドラクエシリーズと並ぶゲーム界の金字塔のファイナルファンタジーシリーズの一つで、前作の7はサターンとプレイステーションのハード争いに決着をつけた、いわば関が原における小早川秀秋のような役割を演じたのを考えると、なんかその後の運命も同じようになったような今作でした。
細かい点はいちいち挙げませんが、何故今作がここまで低い評価に至ったのはユーザーニーズの履き違えにあったからではないかと思います。自分を含めた当時の小中高生であったユーザーたちはRPGに対して洗練されたストーリーを求めていたのに対し、当時のスクウェアはひたすらにCGをきれいに作ることに執心し、挙句にはRPGに求められるものとして根本的なレベル上げの概念を引っくり返した(今作は一切上げる必要がない)のが失敗の原因だと思います。これは上の「パラサイト・イヴ2」にも言える事です。
3、信長の野望将星録(光栄)
これは私と友人くらいかもしれませんが、この「信長の野望シリーズ」で最も裏切られたと思ったのがこの「将星録」でした。私はこれの二作前の「覇王伝」からプレイし、その次の「天翔期」は今でもやるくらい大いにハマり、この「将星録」もそういった流れでやってみたのですが、システムが前二作と打って変わってそれまで国単位だったマップがボーダレス化し、内政とかコマンド内容が全然変わっていて結局なじめないまま遊ばなくなり、その後信長の野望シリーズから手を引く一作となってしまいました。
これは光栄以外の歴史シュミレーションゲームにも言えることですが、私はあくまでもゲームなのだから、あまりにも現実や原作、歴史に忠実すぎるとかえってこの手のものはつまらなくなると思います。たとえばリアルタイム制の歴史シュミレーションもやったことがありますが、やっぱりやった感じだとターン制の方が面白かった気がします。まぁそのターン制の盲点を突いて延々と敵を挑発し続けて時間切れにし、追い返したりしたのには目をつぶってほしいけど。
4、真・三国無双3(KOEI)
これについては前にも言及しましたが、前作の2があまりにも完成しすぎたが故の失敗作でしょう。言ってしまえば前作の段階でこのシリーズは完成してしまい、システム的にはもういじらない方が良かったにもかかわらず新作ということでいろいろ取ってつけたのですが、私の目からしてどれも余計な蛇足にしかなっていなかったように思えます。実際に今作の次回作に当たる4では、3で新たに追加された「一騎打ち」、「武器経験値制」、「ライバル武将」といったシステムがどれも全く余燼を残さずなくなっていたので、相当数のユーザーが不満を持って非難が来ていたのだと思います。ついでに言うと、必死で後戻りをしようとした4もゲームバランスをやや欠いており、2の方がまだ楽しめた気がします。
5、グローランサー2(アトラス)
なんか最近、これの前作の「グローランサー」がPS2でリメイクされたそうですが、前作は文句なしに名作で、セーブ時期がわからなくなるほど隙間ないほどイベントが連続していながらもゲームバランスを崩しておらず、キャラデザは人を選ぶもののシナリオもいい内容でした。しかしこれが2になると、確かに世界観やキャラクターは前作を引き継いでいて、ゲームシステムも改変があるもののきちんと受け継ぐべきところは受け継いでいるのですが、いかんせんシナリオがくだらなかった上にプレイ時間が短過ぎ、大体10時間もあればクリアできてしまう内容ゆえに私も「金返せ」と思うほどでした。もっとも、この2のすぐ後に出た3では2の問題点をほぼすべて改良しており、シナリオも2とはつながりがないものの、今時これほど王道のRPGがあっただろうかと思わせるほどポイントを外していない名作なので、やったことのない人には是非お勧めです。私の友人なんか、寝ずに遊んだほどだったし。
6、真・女神転生2(アトラス)
ただでさえゲームバランスが明らかにおかしい女神転生シリーズですが、今作はその中でも際立って崩れたシステムの上に、プレイ途中でゲームが止まってしまうバグが非常に多い問題作でした。こうしたクセの強さがこのシリーズの熱狂的なファンを生んでいるのはわかるものの、そうした熱狂的なファンを作る一方で圧倒的大多数のライトユーザーも振りこぼしているのではないかと常々私は思っていたのですが、他のシリーズ作と比べてややマイルドな出来で出した「ペルソナ3」がヒットしたのを見ると、やっぱりそうだったんじゃないかなぁと思います。
7、ペルソナ2 罪&罰(アトラス)
アトラスが三つも並んでしまいましたが、私個人的には今までに一番裏切られたと思う続編というのがこのペルソナ2でした。この前リメイクされた前作の「女神異聞録ペルソナ」はいつもどおりにゲームバランスは明らかにとち狂っていたものの、秀逸なシナリオに悪魔との交渉システムは非常に面白く、次回作の今作が出た時は我先にと購入しましたが、内容は私からするとひどい出来でした。
まず前作でよかった悪魔との交渉システムですが、前作がパーティキャラの中から一人選んで交渉するのに対して今作は中には二人、三人といった掛け合いの交渉もすることが出来て選択の幅が広がったかと思いきや、私的にはただ面倒くささが増しただけでした。更に悪魔の合体システムも変わったので前作より明らかに悪魔と交渉する回数が増えただけでなく、ザコ敵との戦闘時間も前も長かったがまた長くなり、その一方で途中にいるボスがなかなか強いもんだからレベル上げの必要が高まるなどまさに負の連鎖でした。
そして明らかにとち狂ったゲームバランスながらそれを忘れさせるほどの秀逸なシナリオだった前作に対し、今作のシナリオはなんかどうでもいいような、やってて疲れるようなシナリオでした。しかもこのゲーム、タイトルに書いてあるように「罪」と「罰」の二本立てで、同じシステム、同じキャラ、同じ世界観で、一つのシナリオが連続こそしているもののわざわざ二つに分けた理由がわからないほどくだらないシナリオでした。さらに今作が大いに売りにしていてゲームのシナリオにも密接に関わってくる、流した噂が現実になる「噂システム」も、なんというか武器屋の売り物が変わるくらいでそれほど流す噂に選択肢がなく、ただ聞いた噂を右から左に流すだけのどうでもいいシステムでした。もっと噂によってはシナリオが大きく分岐するくらいだったら評価できたのですが。
さらにひどかったのがキャスティングで、主人公はこのシリーズの伝統とも言うべきクール形の高校生の男の子(美形)なのですが声優はなんと子安武人氏で、別に子安氏が悪いわけじゃないのですがあまりにも渋すぎる声と見た目のギャップで、「お前、絶対高校生じゃないだろ」と突っ込まざるを得ない妙なキャスティングでした。そしてそんな主人公の見た目も、それまでどことなくエキゾチックで深みのあるイラストでアトラスの看板イラストレーターだった金子一馬氏ですが、どうもこの頃から作風が変わり、うちの姉曰く、「なんかペンキでベタ塗りしたかのような色合い」とまで言われるほど変わってしまい、私としてもあまり評価できなくなっていました。
悪魔の絵ならともかく、もうこ金子氏はキャラクターの原画は向かないんじゃないかとこのペルソナ2で思う一方、メインキャラクターはともかくサブキャラクターらは妙に写実的で個性も強く、ぐっと引き込まれる絵だったのでたまたま一部のキャラだけこうなったのかと考えていたのですが、後で調べてみるとメインキャラだけを金子氏が、サブキャラクターを副島成記氏が描いていたのだと後でわかり、次回作のペルソナ3ではキャラ原画をすべて副島氏が担当したということを聞いて大いに納得しました。
なんか、予想したよりえらい長くなってしまったな……。
さてファミコンの誕生から既に三十年近く経っており、いわゆるシリーズ物と言われるような連続作のゲームもこれまでにもたくさん生まれてきています。しかしそうしたシリーズ物は毎回ヒットを飛ばすようなドラゴンクエストシリーズのようなゴールデンタイトルもある一方、前作が高く評価されたにもかかわらず次回作はめっきり売れなかったり、その後のシリーズが打ち止めになるほど散々な結果に終わった続編もたくさんありました。今日はそんな中、実際に私がやってみてがっかりしたゲームの続編を一部紹介しようと思います。
1、パラサイト・イヴ2(スクウェア)
今日の記事を書くきっかけになったソフトです。前作「パラサイト・イヴ」はスクウェアが文字通り全盛期の頃に発売されたこともあって非常に好調な売り上げを残し、ゲーム内容も当時としては最高峰なまでに美麗なCGに加え、瀬名秀明氏の「パラサイト・イヴ」を原型にしたいい具合のストーリーが展開されており、主人公のアヤ・ブレア(巨乳)が病気なんじゃないかと思うくらい足が遅かったのを除けば完成度の高いゲームでした。
しかし次回作に当たるこの「パラサイト・イヴ2」は前作からゲームシステムが根本的に改められ、アクションRPGとはいえRPGの要素が強かった前作に対し、今作は今で言うならFPSこと完全なアクションゲームになっていてもはやゲームとしては別物と言っていいほどでした。その上、荒削りとはいえ色々と深く掘り下げらる要素の多かった前作のシナリオと今作は関係性が非常に薄く、主人公が同じアヤ・ブレアであるのと、申し訳程度に「前田弾」が出てくるくらいしかつながりがなく、そうまでして新しく作ったシナリオは言っちゃ悪いですがB級ホラー映画程度のくだらない内容で、黒幕はよくあるアメリカ大統領で終わっちゃったし。
なんか今度PSPでこれの続編を出すそうですが、さすがにこれだけ期間が空いてりゃリメイクでもない限り続編もクソもないでしょう。第一作目は私ものめりこんだ分、非常に不遇なシリーズだったと思うだけに、2であれだけひっくりかえすなら初めから別シリーズのゲームとして出しとけばよかったのに。
2、ファイナルファンタジー8(スクウェア)
多分、ゲームシリーズにおける駄作と来たらどこで票をとってもこれが出てくるでしょう。ドラクエシリーズと並ぶゲーム界の金字塔のファイナルファンタジーシリーズの一つで、前作の7はサターンとプレイステーションのハード争いに決着をつけた、いわば関が原における小早川秀秋のような役割を演じたのを考えると、なんかその後の運命も同じようになったような今作でした。
細かい点はいちいち挙げませんが、何故今作がここまで低い評価に至ったのはユーザーニーズの履き違えにあったからではないかと思います。自分を含めた当時の小中高生であったユーザーたちはRPGに対して洗練されたストーリーを求めていたのに対し、当時のスクウェアはひたすらにCGをきれいに作ることに執心し、挙句にはRPGに求められるものとして根本的なレベル上げの概念を引っくり返した(今作は一切上げる必要がない)のが失敗の原因だと思います。これは上の「パラサイト・イヴ2」にも言える事です。
3、信長の野望将星録(光栄)
これは私と友人くらいかもしれませんが、この「信長の野望シリーズ」で最も裏切られたと思ったのがこの「将星録」でした。私はこれの二作前の「覇王伝」からプレイし、その次の「天翔期」は今でもやるくらい大いにハマり、この「将星録」もそういった流れでやってみたのですが、システムが前二作と打って変わってそれまで国単位だったマップがボーダレス化し、内政とかコマンド内容が全然変わっていて結局なじめないまま遊ばなくなり、その後信長の野望シリーズから手を引く一作となってしまいました。
これは光栄以外の歴史シュミレーションゲームにも言えることですが、私はあくまでもゲームなのだから、あまりにも現実や原作、歴史に忠実すぎるとかえってこの手のものはつまらなくなると思います。たとえばリアルタイム制の歴史シュミレーションもやったことがありますが、やっぱりやった感じだとターン制の方が面白かった気がします。まぁそのターン制の盲点を突いて延々と敵を挑発し続けて時間切れにし、追い返したりしたのには目をつぶってほしいけど。
4、真・三国無双3(KOEI)
これについては前にも言及しましたが、前作の2があまりにも完成しすぎたが故の失敗作でしょう。言ってしまえば前作の段階でこのシリーズは完成してしまい、システム的にはもういじらない方が良かったにもかかわらず新作ということでいろいろ取ってつけたのですが、私の目からしてどれも余計な蛇足にしかなっていなかったように思えます。実際に今作の次回作に当たる4では、3で新たに追加された「一騎打ち」、「武器経験値制」、「ライバル武将」といったシステムがどれも全く余燼を残さずなくなっていたので、相当数のユーザーが不満を持って非難が来ていたのだと思います。ついでに言うと、必死で後戻りをしようとした4もゲームバランスをやや欠いており、2の方がまだ楽しめた気がします。
5、グローランサー2(アトラス)
なんか最近、これの前作の「グローランサー」がPS2でリメイクされたそうですが、前作は文句なしに名作で、セーブ時期がわからなくなるほど隙間ないほどイベントが連続していながらもゲームバランスを崩しておらず、キャラデザは人を選ぶもののシナリオもいい内容でした。しかしこれが2になると、確かに世界観やキャラクターは前作を引き継いでいて、ゲームシステムも改変があるもののきちんと受け継ぐべきところは受け継いでいるのですが、いかんせんシナリオがくだらなかった上にプレイ時間が短過ぎ、大体10時間もあればクリアできてしまう内容ゆえに私も「金返せ」と思うほどでした。もっとも、この2のすぐ後に出た3では2の問題点をほぼすべて改良しており、シナリオも2とはつながりがないものの、今時これほど王道のRPGがあっただろうかと思わせるほどポイントを外していない名作なので、やったことのない人には是非お勧めです。私の友人なんか、寝ずに遊んだほどだったし。
6、真・女神転生2(アトラス)
ただでさえゲームバランスが明らかにおかしい女神転生シリーズですが、今作はその中でも際立って崩れたシステムの上に、プレイ途中でゲームが止まってしまうバグが非常に多い問題作でした。こうしたクセの強さがこのシリーズの熱狂的なファンを生んでいるのはわかるものの、そうした熱狂的なファンを作る一方で圧倒的大多数のライトユーザーも振りこぼしているのではないかと常々私は思っていたのですが、他のシリーズ作と比べてややマイルドな出来で出した「ペルソナ3」がヒットしたのを見ると、やっぱりそうだったんじゃないかなぁと思います。
7、ペルソナ2 罪&罰(アトラス)
アトラスが三つも並んでしまいましたが、私個人的には今までに一番裏切られたと思う続編というのがこのペルソナ2でした。この前リメイクされた前作の「女神異聞録ペルソナ」はいつもどおりにゲームバランスは明らかにとち狂っていたものの、秀逸なシナリオに悪魔との交渉システムは非常に面白く、次回作の今作が出た時は我先にと購入しましたが、内容は私からするとひどい出来でした。
まず前作でよかった悪魔との交渉システムですが、前作がパーティキャラの中から一人選んで交渉するのに対して今作は中には二人、三人といった掛け合いの交渉もすることが出来て選択の幅が広がったかと思いきや、私的にはただ面倒くささが増しただけでした。更に悪魔の合体システムも変わったので前作より明らかに悪魔と交渉する回数が増えただけでなく、ザコ敵との戦闘時間も前も長かったがまた長くなり、その一方で途中にいるボスがなかなか強いもんだからレベル上げの必要が高まるなどまさに負の連鎖でした。
そして明らかにとち狂ったゲームバランスながらそれを忘れさせるほどの秀逸なシナリオだった前作に対し、今作のシナリオはなんかどうでもいいような、やってて疲れるようなシナリオでした。しかもこのゲーム、タイトルに書いてあるように「罪」と「罰」の二本立てで、同じシステム、同じキャラ、同じ世界観で、一つのシナリオが連続こそしているもののわざわざ二つに分けた理由がわからないほどくだらないシナリオでした。さらに今作が大いに売りにしていてゲームのシナリオにも密接に関わってくる、流した噂が現実になる「噂システム」も、なんというか武器屋の売り物が変わるくらいでそれほど流す噂に選択肢がなく、ただ聞いた噂を右から左に流すだけのどうでもいいシステムでした。もっと噂によってはシナリオが大きく分岐するくらいだったら評価できたのですが。
さらにひどかったのがキャスティングで、主人公はこのシリーズの伝統とも言うべきクール形の高校生の男の子(美形)なのですが声優はなんと子安武人氏で、別に子安氏が悪いわけじゃないのですがあまりにも渋すぎる声と見た目のギャップで、「お前、絶対高校生じゃないだろ」と突っ込まざるを得ない妙なキャスティングでした。そしてそんな主人公の見た目も、それまでどことなくエキゾチックで深みのあるイラストでアトラスの看板イラストレーターだった金子一馬氏ですが、どうもこの頃から作風が変わり、うちの姉曰く、「なんかペンキでベタ塗りしたかのような色合い」とまで言われるほど変わってしまい、私としてもあまり評価できなくなっていました。
悪魔の絵ならともかく、もうこ金子氏はキャラクターの原画は向かないんじゃないかとこのペルソナ2で思う一方、メインキャラクターはともかくサブキャラクターらは妙に写実的で個性も強く、ぐっと引き込まれる絵だったのでたまたま一部のキャラだけこうなったのかと考えていたのですが、後で調べてみるとメインキャラだけを金子氏が、サブキャラクターを副島成記氏が描いていたのだと後でわかり、次回作のペルソナ3ではキャラ原画をすべて副島氏が担当したということを聞いて大いに納得しました。
なんか、予想したよりえらい長くなってしまったな……。
2009年5月26日火曜日
何を目安に投票すればいいのか
次の衆議院選は長くともこれから四ヶ月の間に行われるということもあり、このところあちらこちらで各政党の候補者らが街頭に立って選挙演説を行っているのをよく見ます。さてこの次の選挙ですがわざわざここで私が言わなくとも、参議院では既に与党が過半数を確保していない背景もあって民主党が強く主張しているように政権交代の可能性を含んでおり、時期が時期だけに今後の日本を占う上でも重要な選挙となる公算が高いといわれています。
そうした背景を持っていることから私の周りでは早くも、次の選挙では小沢元代表や鳩山現代表は好きではないものの必ず民主党に投票するという知り合いが数多くいます。私としても少なくとも今の麻生政権が続くことだけは避けたいので民主党に入れるものかと考えはするのですが、かといって地元の民主党の候補が一体どんな経歴を持った人物でどんな政策をもっているのか、それどころか現在の民主党が掲げている路線に果たして本心から協力的なのか、全く知らないわけじゃありませんがさすがに集会に出たりして取材をしているわけじゃないので断言することが出来ません。
ここで今日の問題提起ですが、そうした全体の流れから民主党を応援するといっても地元の民主党の候補が過去に問題のある発言や行動、果てには能力的にも疑われるような候補だった場合、果たして民主党を応援するためといってもその候補に投票をしてもよいのでしょうか。またそのような問題がありそうな候補の対抗馬が自民党の候補といっても、非常に優秀で将来的にも人材であるとしたら、いくら政権交代を一度実現させるためとはいえむざむざ落選させてもよいのでしょうか。
ここまで言えばわかると思いますが、有権者は選挙において候補者自身の能力や人柄を目安に投票をするべきなのか、それともその候補が所属している政党が掲げている政策を目安に投票するべきなのか、この点について自分の意見を今日は述べようと思います。
まず現在の日本の選挙制度である小選挙区比例代表並立制では、はからずもこの二つの思惑を同時に実現することが出来ます。たとえば小選挙区投票では政治家としてみた場合に優秀だと思う候補に、比例区投票では政策に賛同する政党にとそれぞれの投票し、自分の意志を十分に投票に乗せることは出来ます。そういう意味で私は現在の選挙制度はなかなか良く出来てると思うのですが、こうした投票が出来ない地方自治体選挙ではじゃあどうなるのかということで、こっちの制度で話を進めていきます。
仮に政党を目安にして候補者の人柄などを無視し投票して当選させた場合、確かにその後の政局ではその政党が政策を実現できる力は強まりますが、記者会見で酩酊振りをみせるなど今の麻生内閣のようになんでこんな人が大臣になれるのかという疑わしい人物を送り込んでしまう可能性があります。逆に政治家の人柄で投票したところで、賛同する政党と一致していればともかく異なっていれば自分の願うように政治が動いてくれないばかりか逆に歯止めをかけてしまうことになりかねません。
なんでこんな問題提起をわざわざここでするのかですが、まだ組織票が強かった90年代の選挙において私は国民全体が自民党に問題があるとは思いつつも、利権やら地元のしがらみといった昔からの関係でなんとはなしに大して実力もない自民党の候補、それも今問題となりつつある世襲の議員なども受からせてしまい、政治が延々と低迷をし続けてあの失われた十年を作ってしまったと考えているからです。確かにこうした経緯を鑑みると個人としての資質は二の次にして政策や政党で投票をするべきかとは思うのですが、そうして賛同する政党の候補を受からせたところでその後その政党が政策を堅持するかは未知数であり、今の自民党のように小泉政権時の政策をまさに根本から引っくり返してしまうと後にはただ9.11選挙の流れで、たまたまと言ってはすこしかわいそうですが、流れで受かってしまったちょっと実力が未知数な議員しか残らなくなってしまいます。
政治家にとって落選は即、死を意味しており、たとえ一回の落選でもその後に立ち直って再度出馬するには今の日本では相当な苦労が必要となります。地元に優秀な候補がいるとはいえ政策の路線上で対立候補に鞍替えして投票し当選させた場合、その後また前に応援していた優秀な候補に舞い戻ってもらおうと思ってもそうはなかなか行きません。
あまり考えをまとめていないので今日はやや崩れた構成の記事になっておりますが、結論から言えば政治家を資質で選ぶか政策で選ぶか、これはどっちが絶対的に正しいというのはないと私は思っています。選挙の質や時期、内容によって判断基準の比重は大きく変わりますし、またこうしたことはそれぞれ個人が決めることであって、法則のように「長期的には絶対こっちが正しい」と言うべき内容ではないと思います。とはいえ、どんな目安が重要になるのかを考えるためにこうした議論があった方がいいのではないかと思い、本日記事にまとめてみたわけです。
なおこの話題を友人に相談したところ、少なくとも次の選挙は政党の政策で選ぶべき選挙だと言われました。私はどうかですが、折角比例代表並立制なんだし、それに合わせて投票しようと思います。
そうした背景を持っていることから私の周りでは早くも、次の選挙では小沢元代表や鳩山現代表は好きではないものの必ず民主党に投票するという知り合いが数多くいます。私としても少なくとも今の麻生政権が続くことだけは避けたいので民主党に入れるものかと考えはするのですが、かといって地元の民主党の候補が一体どんな経歴を持った人物でどんな政策をもっているのか、それどころか現在の民主党が掲げている路線に果たして本心から協力的なのか、全く知らないわけじゃありませんがさすがに集会に出たりして取材をしているわけじゃないので断言することが出来ません。
ここで今日の問題提起ですが、そうした全体の流れから民主党を応援するといっても地元の民主党の候補が過去に問題のある発言や行動、果てには能力的にも疑われるような候補だった場合、果たして民主党を応援するためといってもその候補に投票をしてもよいのでしょうか。またそのような問題がありそうな候補の対抗馬が自民党の候補といっても、非常に優秀で将来的にも人材であるとしたら、いくら政権交代を一度実現させるためとはいえむざむざ落選させてもよいのでしょうか。
ここまで言えばわかると思いますが、有権者は選挙において候補者自身の能力や人柄を目安に投票をするべきなのか、それともその候補が所属している政党が掲げている政策を目安に投票するべきなのか、この点について自分の意見を今日は述べようと思います。
まず現在の日本の選挙制度である小選挙区比例代表並立制では、はからずもこの二つの思惑を同時に実現することが出来ます。たとえば小選挙区投票では政治家としてみた場合に優秀だと思う候補に、比例区投票では政策に賛同する政党にとそれぞれの投票し、自分の意志を十分に投票に乗せることは出来ます。そういう意味で私は現在の選挙制度はなかなか良く出来てると思うのですが、こうした投票が出来ない地方自治体選挙ではじゃあどうなるのかということで、こっちの制度で話を進めていきます。
仮に政党を目安にして候補者の人柄などを無視し投票して当選させた場合、確かにその後の政局ではその政党が政策を実現できる力は強まりますが、記者会見で酩酊振りをみせるなど今の麻生内閣のようになんでこんな人が大臣になれるのかという疑わしい人物を送り込んでしまう可能性があります。逆に政治家の人柄で投票したところで、賛同する政党と一致していればともかく異なっていれば自分の願うように政治が動いてくれないばかりか逆に歯止めをかけてしまうことになりかねません。
なんでこんな問題提起をわざわざここでするのかですが、まだ組織票が強かった90年代の選挙において私は国民全体が自民党に問題があるとは思いつつも、利権やら地元のしがらみといった昔からの関係でなんとはなしに大して実力もない自民党の候補、それも今問題となりつつある世襲の議員なども受からせてしまい、政治が延々と低迷をし続けてあの失われた十年を作ってしまったと考えているからです。確かにこうした経緯を鑑みると個人としての資質は二の次にして政策や政党で投票をするべきかとは思うのですが、そうして賛同する政党の候補を受からせたところでその後その政党が政策を堅持するかは未知数であり、今の自民党のように小泉政権時の政策をまさに根本から引っくり返してしまうと後にはただ9.11選挙の流れで、たまたまと言ってはすこしかわいそうですが、流れで受かってしまったちょっと実力が未知数な議員しか残らなくなってしまいます。
政治家にとって落選は即、死を意味しており、たとえ一回の落選でもその後に立ち直って再度出馬するには今の日本では相当な苦労が必要となります。地元に優秀な候補がいるとはいえ政策の路線上で対立候補に鞍替えして投票し当選させた場合、その後また前に応援していた優秀な候補に舞い戻ってもらおうと思ってもそうはなかなか行きません。
あまり考えをまとめていないので今日はやや崩れた構成の記事になっておりますが、結論から言えば政治家を資質で選ぶか政策で選ぶか、これはどっちが絶対的に正しいというのはないと私は思っています。選挙の質や時期、内容によって判断基準の比重は大きく変わりますし、またこうしたことはそれぞれ個人が決めることであって、法則のように「長期的には絶対こっちが正しい」と言うべき内容ではないと思います。とはいえ、どんな目安が重要になるのかを考えるためにこうした議論があった方がいいのではないかと思い、本日記事にまとめてみたわけです。
なおこの話題を友人に相談したところ、少なくとも次の選挙は政党の政策で選ぶべき選挙だと言われました。私はどうかですが、折角比例代表並立制なんだし、それに合わせて投票しようと思います。
2009年5月25日月曜日
科目としての、中国の歴史教育
昨日は延々とペルソナ3をやっててまたブログをサボってしまいました。そういうわけだから今日はきちんと書こうと思っていたら先ほどものすごい頭痛に襲われ、さっきまで寝込んでて今日も無理かと思ってましたが、さすがに二日も休むのはなんなので頑張って更新します。それにしてもこのところ、頭痛がどんどん激しくなってきています。何か霊に取り憑かれたのかな。
実は先日土曜日に、前の記事でも書きましたが上海人の友人と親父を引き連れて筑波山にハイキングに行ってきました。筑波山へのハイキングについては前のつくばエキスプレスの割引チケットに関する記事で散々批判をしましたが、蓋を開けたら私はともかく友人と親父がへとへとになって、結局帰りは徒歩ではなくケーブルカーで下山することになりました。まぁ楽しかったのは間違いないけど。
その筑波山からうちへの親父が運転する車での帰路、上海人と中国の歴史教育について簡単に話をしました。この時が彼とこの話題について初めて話をしたわけではなかったのですが、今回別の中国人の知り合いから聞いていた話と見事に一致したので、裏が取れたという意味でちょっと紹介しようと思います。
まずは当たり前の話ですが、やっぱり私も連載で解説した文化大革命と天安門事件についてはほとんど教えてもらっておらず、日本に来てから両方の事件について概要を知ったそうです。特に天安門事件については、日本風に言うなら過激派の学生が暴動を起こしたというように教えられていたそうで、もうあの事件から二十年近く経とうとしていますが、大袈裟でなくともこの事件について知っている中国人はこのまま行けばほとんどいなくなってしまうかもしれません。
そういうわけで基本、中国の歴史教育というのは戦後の現代史はあまり教えられないという背景から、日中戦争後の国共内戦の辺りで一区切りがつけられ、その後の現代史は曖昧な感じでほとんど教えられないというそうです。
ここで今日の本題に移りますが、よく一部の日本の人なんかは中国は歪んだ教育をして日本への憎悪を強めさせているなどと言う方がおりますが、以前はともかく現在において私はそういった面はほとんどないのではないかと思います。それは何も現代史があまり教えられからというだけでなく、中国において「歴史」という科目が非常に低い扱いになっているからです。
その上海人に限らずこれは私が知り合った中国人みんなが口を揃えて言う言葉ですが、「歴史」という科目を真剣に勉強する中国人などほとんどいないそうです。というのも中国の大学受験では「国語」、「数学」、「英語」の主要三科目の配点が非常に高い上に、学部として権威が高いのは理系学部であって、文系学部などではあまり社会でも相手にされないほどらしいのです。日本人なんかでは想像しづらいのですが、中国の大卒の政治家や会社経営者は基本的に理系出身者で、私が逆に日本はみんな文系出身だと言ったらそれでどうやって世の中回していけるのと、おおいに驚かれたことがあります。聞いた感じだと、中国で文系学部に進むということは趣味の世界に入るのと同じような感じじゃないかと思います。
そんなわけで主要三科目でもない上にあまり相手にされない文系の科目である「歴史」というのは、受験時に役に立たないということから以前から中国の中高生で熱心に勉強する子はどんどん少なくなっているそうです。こうした話を聞いた中国人との会話で私が岳飛の扱いは現在どうかと聞いたら、「君は中国人より中国史に詳しいよ」とまで言われました。なおこの岳飛ですが、荊軻や司馬光らと並んで時の中国の政権によって評価が変わりやすい人物の典型です。
今回一緒に筑波山に行った上海人などはまさにこの典型で、自国の歴史にあまり関心を持っておらず恐らく通史で言えば私の方が詳しい気がします。これはその友人の言ですが、よく日本の右翼は中国の歴史教育は反日色が強いというが、そもそも歴史を真面目に聞く中国人の若者はほとんどいないとのことで、私も何人も中国人から話を聞いている限りそんな印象を受けます。
逆に現代の中国人は漢文が読めないのに対して、書き下し文で読んでしまう日本人の方が中国史の勉強に熱心な国民なのかもしれません。
実は先日土曜日に、前の記事でも書きましたが上海人の友人と親父を引き連れて筑波山にハイキングに行ってきました。筑波山へのハイキングについては前のつくばエキスプレスの割引チケットに関する記事で散々批判をしましたが、蓋を開けたら私はともかく友人と親父がへとへとになって、結局帰りは徒歩ではなくケーブルカーで下山することになりました。まぁ楽しかったのは間違いないけど。
その筑波山からうちへの親父が運転する車での帰路、上海人と中国の歴史教育について簡単に話をしました。この時が彼とこの話題について初めて話をしたわけではなかったのですが、今回別の中国人の知り合いから聞いていた話と見事に一致したので、裏が取れたという意味でちょっと紹介しようと思います。
まずは当たり前の話ですが、やっぱり私も連載で解説した文化大革命と天安門事件についてはほとんど教えてもらっておらず、日本に来てから両方の事件について概要を知ったそうです。特に天安門事件については、日本風に言うなら過激派の学生が暴動を起こしたというように教えられていたそうで、もうあの事件から二十年近く経とうとしていますが、大袈裟でなくともこの事件について知っている中国人はこのまま行けばほとんどいなくなってしまうかもしれません。
そういうわけで基本、中国の歴史教育というのは戦後の現代史はあまり教えられないという背景から、日中戦争後の国共内戦の辺りで一区切りがつけられ、その後の現代史は曖昧な感じでほとんど教えられないというそうです。
ここで今日の本題に移りますが、よく一部の日本の人なんかは中国は歪んだ教育をして日本への憎悪を強めさせているなどと言う方がおりますが、以前はともかく現在において私はそういった面はほとんどないのではないかと思います。それは何も現代史があまり教えられからというだけでなく、中国において「歴史」という科目が非常に低い扱いになっているからです。
その上海人に限らずこれは私が知り合った中国人みんなが口を揃えて言う言葉ですが、「歴史」という科目を真剣に勉強する中国人などほとんどいないそうです。というのも中国の大学受験では「国語」、「数学」、「英語」の主要三科目の配点が非常に高い上に、学部として権威が高いのは理系学部であって、文系学部などではあまり社会でも相手にされないほどらしいのです。日本人なんかでは想像しづらいのですが、中国の大卒の政治家や会社経営者は基本的に理系出身者で、私が逆に日本はみんな文系出身だと言ったらそれでどうやって世の中回していけるのと、おおいに驚かれたことがあります。聞いた感じだと、中国で文系学部に進むということは趣味の世界に入るのと同じような感じじゃないかと思います。
そんなわけで主要三科目でもない上にあまり相手にされない文系の科目である「歴史」というのは、受験時に役に立たないということから以前から中国の中高生で熱心に勉強する子はどんどん少なくなっているそうです。こうした話を聞いた中国人との会話で私が岳飛の扱いは現在どうかと聞いたら、「君は中国人より中国史に詳しいよ」とまで言われました。なおこの岳飛ですが、荊軻や司馬光らと並んで時の中国の政権によって評価が変わりやすい人物の典型です。
今回一緒に筑波山に行った上海人などはまさにこの典型で、自国の歴史にあまり関心を持っておらず恐らく通史で言えば私の方が詳しい気がします。これはその友人の言ですが、よく日本の右翼は中国の歴史教育は反日色が強いというが、そもそも歴史を真面目に聞く中国人の若者はほとんどいないとのことで、私も何人も中国人から話を聞いている限りそんな印象を受けます。
逆に現代の中国人は漢文が読めないのに対して、書き下し文で読んでしまう日本人の方が中国史の勉強に熱心な国民なのかもしれません。
登録:
投稿 (Atom)