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2015年2月3日火曜日

よくわかってない江戸時代の庶民の生活

 一昨日、日本語を教えている中国人労働者が誘ってきたので昆山市内にある周荘という観光地に行ってきました。そこで中国人労働者が焼き焼売を買って自分にも勧めてくれたので食べようとしたところ落っことしてしまいましたが、何のためらいもなく拾い上げて口の中に放り込もうとしました。「汚いからよせ!」と中国人労働者は止めてきましたが、「日本には3秒ルールというものがあるんだ。よく見ておけ!」と言って結局食べましたが、その晩にちょっとお腹が痛くなるに至り、「いい年こいて何やってんだよ俺……」とさすがに後悔しました。盛ってるようにも見えますが、実話です。
 話は本題に入りますが派遣マージン率の記事を終えてやや燃え尽き気味ということもあり、リハビリがてら歴史記事を書きます。

 私が小学校の中学年から高学年の頃、江戸時代の庶民の生活について学校で習うことがありました。その中でも特に強烈と言うか当時にして、「なんでやねん」と思ったことで、「『切捨御免』という制度によって武士は庶民を斬り殺しても処罰されなかった」という説明がありました。
 大名行列を横切ったとか高位の武士に対する露骨な嫌がらせとかしてれば無礼討ちとして確かに放免されましたが、何の理由もなく庶民を斬り殺した場合はその武士もほぼ間違いなく処刑されていただろうと現代では考えられています。しかし私が子供だった頃は、ただ単に私が無知だったせいかもしれませんが、まだこの「切捨御免」という制度が変な風に曲解され、江戸時代は武士が威張りに威張って好き放題していた時代だったという風に認識されていたのではと思います。さすがに歴史学者でないので実際に考証することはできませんが、武士が自由に庶民を殺していいのなら何故「辻切り」という言葉があるのかという疑問が出てくるため、現代の解釈の方が正しいように思えます。

 上記の例は極端なものですが、これに限らず案外江戸時代の庶民の生活がどんなものだったというのかは意外とわかっていません。もう一つ代表的な例を出すと「慶安の御触書」に対する後世の解釈で、詳しくはリンク先のウィキペディアのページを見てもらいたいのですがこの文書では農民はお茶・酒は飲むな、米も祭日を除いて食うな、煙草も吸うななどと農民の生活について事細かに指示してあり、ほんのつい最近までこの文書は江戸時代の幕法、つまり全国で使われた法律だと思われ農民は苛め抜かれていたという証拠として使われてきました。しかし近年の研究によるとこれは甲府の一部地域で配布された、どっちかっていうと農民生活のスローガン的な文書だったようで、実際にはほとんど出回っていなかった上に当時の農民も素直にこの文書の指示に従っていたわけなかったようです。普通に考えて、お茶もお酒も飲まずに農業なんてやってられっかよと禁酒法時代のアメリカを見るにつけ思います。

 このようにほんの200~300年前の生活すら現代では案外理解されておらず、どちらかと言うとプロパガンダに使われるような形で変な誤解が広まっていることも少なくありません。武士と違って作法や礼節、日記など残っている文書資料が少ないこともあってか、それほどまでに庶民の生活というのはわかっていない部分が広かったりします。
 もっともそのような暗黒大陸的な庶民生活も近年は研究が進んでおり、たとえば私が直接大学で授業を受けた講義では、離島における寺子屋の進学率から識字率を導きだし、当時の日本は約4割、男子に限ると8割くらいは寺子屋で読み書きを習って識字できたという研究結果を聞きましたが、意外に感じると共に、逆に当時は多くの人が文字を読み書きできなかったという根拠も確かにないなという具合で納得しました。

 あとこれは以前に雑誌で読んだ記事ですが、江戸時代というととかく女性の地位が低かった時代に思われがちですが、武家の女性はともかく庶民は必ずしもそうではなかったとする研究も出ています。その研究によると、当時の男女の結婚の際は仲人が両者が保有する財産をしっかりと記録を取り、もし離婚となった場合にはその記録に基づき妻の財産を夫が必ず返却しなければならないという習慣があったそうです。
 またその離婚を行う決定権は江戸時代は男性側にしかなく、DVなどでどうしても離婚したい女性はそこに行けば無条件で保護される「駈込寺」に行くしかなかったかのように時代劇などで描かれていますが、場所や地位によっては必ずしもそうではなく、女性の側から夫に三下り半を突き付ける例もあったそうです。中には逆に妻からのDVから逃げ出し、「頼むから妻と離婚させてくれ」とお寺に駆け込んだ夫がいたという話も伝わっており、案外こっちの方が現実味があるというか人として自然な姿なんじゃないかなと妙な真実味を覚えます。私なんかむしろ、明治から終戦までの日本人の方がそれ以前、以後と比べて日本人として特別だったのではと考えていますし。

 まとめとしましては武家や公家といった社会的に高い地位の人間の生活はそこそこ研究されているものの、地べたの庶民の生活はそれほど研究史料も多くないこともあって案外わからないことが多いということです。なおこれは江戸時代以前となるとよりわからなくなっており、鎌倉時代や室町時代の農民や町人の生活となると、せいぜい1日2食か3食か程度しかわかってないんじゃないかと思います。
 なおこうした庶民の生活を知る上で最大の手掛かりとなるのは、恐らくは外国人による見聞録でしょう。外国人というのはいい意味でその土地の習慣になじんでいないため、れりごーなままの情景を日記などに書き記してくれることが多いです。室町後期であればキリスト教宣教師が代表格ですが、戦後に上野に来て日本人の生活を分析した英国人社会学者であるロナルド・ドーア氏の論文は私も読みましたが、「ああ、こういうところは当たり前すぎて俺たちにはわからないかもな」と感じるくらい示唆に富んだ内容でした。

  おまけ
 ちょっと検索かけたら、ロナルド・ドーア氏が昨年11月にまた本を出していたようです。噂には聞いてはいたが、本当にタフで元気な人だなぁこの人。

5 件のコメント:

すいか さんのコメント...

こんにちはvv
うらおぼえなのですが、「江戸の子育て(だったかな?)」という本を読んだことがあります。
わたしは子供が3人いて、一番上と下は8才離れているのですが、その8年間で、同じ病院でも指導されるお産の仕方、授乳の仕方が大きく変わりました。一言でいうと、最初はより人工的、最後は自然な感じです。一人目は、分娩台で仰向けになり、両脇についた足首を乗せる台に足をのせて、急にイキむとよくないからと、ヒッヒッフーという呼吸で、ぎりぎりまでいきまずに産みました。8年後は、姿勢は自由、イキむのも、好きなようにという感じでした。授乳も、一人目は、3時間毎に授乳室にいき、三人目は、赤ちゃんがほしがるときに自由に、という感じです。自然に近い方が断然楽で、さぞかし江戸時代の出産も自然にされていたのだろうと思いきや、お産したあとに横になると、頭に血がたまり死んでしまうと信じられていて、産んでヘロヘロのあと、一週間くらい床の上で正座させられたそうです。ひょえ~~。現代に生まれてよかった、と思いました。庶民の暮らしの部分はミステリーで、断片でもわかると、面白いですよね。

すいか さんのコメント...

あ、書き忘れました、、、
焼シュウマイは拾ってから、ちゃんと「フーフー」しましたか??

花園祐 さんのコメント...

 ぶっちゃけ、焼き焼売は熱かったけど3秒ルールなだけにすぐに口放り込まなくちゃいけないと思って我慢してぶち込みました。なんであんなに体張ったのか、今でもよくわかりません。
 また妙なことをぬかしますが、科学的な価値観市民生活にまで浸透してきたのはここ10年くらいの間じゃないかと思います。1990年代くらいまでは迷信に近い妙な習慣が幅を利かせてて、きちんと統計データも取らないままにお産の方法なども教えられ、すいかさんのような体験が起こったのではないかと思います。
 なおお産の話だと「テルマエ・ロマエ」の作者、ヤマザキマリ氏の話が一番強烈です。イタリアで保険も入らないまま出産したもんだから分娩した後すぐに自力で別のベッドまで移動させられ、確か翌日には届け出のために役所へ一人で行かされたとか異次元の話が展開されてます。

上海忍者 さんのコメント...

焼きシューマイを拾ったらアカンやわ。一方、お金を拾ったらniceですわ。

花園祐 さんのコメント...

 確かに落ちた物拾って食うのはyくないことが分かった。お金はいいけど、去年末の香港みたいな盛大なのはアウトだろうね。