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2015年3月26日木曜日

文章は口ほどに物を言う

 この頃、初赴任地が金沢だったので飲めないのにヤケ酒するほど落ち込んだことのあるうちの親父から送られてくるメールに、「ブログの文章が荒れているが何か嫌なことでもあったの?」とか、「最近ブログが落ち着いてて調子良さそうだね」などという文言が書かれてあり、どうやらこのブログの文章から勝手に私のメンタルチェックを行っているもようです。文章からメンタルチェックをするというと多分大半の人が「なんやねんそれ」とか思うかもしれませんが、私個人としてはあながち親父のこの行動を的外れなものだとは考えておらず、私自身もよく他人の文章を読んで書き手の性格、知識、当時の心境などを分析してます。そんな私に言わせれば文章というのは書き手の人間性を強く出すもので、時と場合によっては書き手の意図しない部分まで見せることもあると考えております。

 実際にこのブログを定期的に読んでいる方ならわかるでしょうが、私の文章は書いた当時の気分を割とストレートに出しているので、記事ごとにどんな気分で書かれたのかがわかりやすいと思います。しょうもない内容を嬉々として書いていることもあれば明らかにやる気がなく何か義務的に書いている感じもする文章もあり、叩き甲斐のある相手を見つけて多少の正義感と共にニヤニヤした感情剥き出しで書いてある文章なんかは、「ああ、あるある」って具合で思い当たることも多いことでしょう。また私に限らずとも他の人でも、ブログの文章にプライベートで切羽詰っていそうな印象を覚えることもあれば、本気で悩んでそうだったり、逆にうれしくてしょうがなそうだったりと、表現力の差はありますが多かれ少なかれ書かれた当時の心境が出てきてしまっています。

 しかし、文章から読み取れるのは何も書かれた当時の心境だけでなく、読み方によってはそれ以外のパーソナリティも一瞬で喝破することができると断言します。その一例と言ってはなんですが先日、友人が「こんなメールが来たんだけど」と一通のメールを見せてくれました。そのメールの内容は友人がやっているサイドビジネスに関する問い合わせで、何かコラボできないかと提案した上で今度お会いしたいと書かれていたのですがこのメール文を一読して言った私の返答はなんだったのかというと、

「メール文を読む限りこの人はそんなに頭が良くないから、提携する、しないという議論以前にビジネスパートナーとして頼りにならないだろう。会うのは勝手だがあんまり期待しない方がいいかもしれない」

 という、我ながら身も蓋もない返答の仕方をしました。恐らく友人は向こうの提案内容について私に意見を求めたのでしょうがこんな返事が返ってきて、「え、なんなんそれ(;゚Д゚)」という具合でやや唖然とした顔を浮かべていました。それからしばらくしてこの友人が実際にメールの送信主に会ってきたので印象を尋ねると、「花園君の言う通り、確かに馬鹿そうだった(;´Д`)」、などと言うもんだから、「だろぉ(・∀・)ニヤニヤ」と言って私もどや顔を浮かべてました。
 この時の種明かしをすると、その問題のメール文ではまず接続詞の使い方が未熟で文章のつながりが悪かったことと、ビジネスプランの説明の際に余計な修飾語を頻繁に使ってくどく長くわかり辛い文章に仕立ててビジネス文書としては核心が掴み辛くふわふわした文章だったので、恐らく書き手は事務的な見かけにこだわるあまりに本題を上手く伝えきれないタイプの人間で対面で説明聞いてもなんかピンと来ない説明のされ方をするだろうと判断しました。友人にこの分析を話したら、「大体そんな感じ」と言われてここでもまたガッツポーズしました。

 文章だけでそこまで分かることが出来るのかと思われるかもしれませんが、案外わかるというか私の実感では分析の的中率はそこそこ高いような気がします。もちろん万能というわけでなく外れることもありますが、やはり文章がわかりやすくまとまっている人は話を聞いていても賢そうだなぁと思えますし、逆に単文を何度も区切ってほとんど複文を使わずに文章をまとめる人は話しを聞いててて失礼ながら、「一体何を言いたいんだこの人?」って言いたくなる人が多いです。
 このほか内容の少なさの割に文字数が多い人は体面を気にしやすかったり、カタカナ語を多用する人はボキャブラリーが少なかったり、私に言わせれば文章というのは相手の人格分析をするに当たって宝の山みたいなもんです。あとこれは偏見かもしれませんが、無駄に難解な言葉を使用しようとする人は左翼的な平等思想の持ち主が多いような気もします。

 こうした文章に滲み出る人格というのは、意識して集中すれば覆い隠すことは不可能ではありません。しかしいちいち書く文章にそこまで気を使う人はまずおらず、大抵は馬脚が出るというか少なからず性質が出てくるでしょう。私などはそういう文章に出てくる性質こそがその人が持つ個性だし隠すべきじゃないと思うのでむしろ露骨に出すようにして書いていたら、「ブログが無駄に攻撃的過ぎる」と注意されるようになったわけですが、逆を言えばきちんと自分の個性をうまく表現できている証拠かなと前向きに見ています。

 以上までがまた私の独創的な考え方というか暴論のあらましですが、最後にもう一つだけ文章から読み取れる性格分析方法を記しておくと、文章から相手を一番簡単に図れる指標は文字数です。
 それこそ「ソ連は何故崩壊したのか」というような壮大なテーマであれば文字数が多くなるのは仕方ないですが、「よいコミュニケーション方法とは?」などといういかにも採用試験で出てくるようなどうでもいいテーマに対する文章で大量の文字数で書いてくる人間を私は評価できません。先程にも書いた通りに内容に対して文字数が少なければ少ないほど簡潔にかつ分かりやすくまとまっていると言え、数式で書くなら、「内容/文字数」の数値が高ければ高いほど評価できます。それだけにしょうもない内容に対して長ったらしく書くのは書き手にも読み手にも無駄な行為でしかなく、先ほどの様に人をおちょくっているとしか思えないテーマであれば自分の考えを一言述べればそれでOKだし、私はそういう人間ほど評価します。
 なお先ほどのテーマに敢えて回答するなら私は、「目と目で通じ合う」とだけ書きます。こんな返答の仕方ばっかしてたから書類で落とされまくってたんだろうな俺。

4 件のコメント:

すいか さんのコメント...

こんにちは。

私がブログで人の悪口を書くと誉めていただけるのは、私の本質(ダーク)がみえるからでしょうか、、(汗)

子供のピアノの先生が、ピアノを聞いて子供たちの性格を的確に表したりするので、子供たちとピアノ占い師みたいだね、と言っています。料理をつきつめた人は、人の料理をみて何か思うところがあるでしょうし、何か一つのことをつきつめてる人には、そこから、いろいろなことが見えるのでは?と思いました。花園さんには、それが文章なのだと思います。だから、花園さんは私のようにダイエット商品の謳い文句に騙されたりしないと思います(笑)。

花園祐 さんのコメント...

 シュルレアリストってわけではないですが、芸術というのは人の内面、深層にある本音のような感情を出せば出すほどいいっていうスタンスなので、割とストレートに出やすい負の感情を見ると、「おっ、本音が出てるな」なんて具合で高く評価しがちです。多分、このブログでもそういうところはあると思います。
 逆を言えば正の感情を生の状態で文章に書きだすのは案外難しいです。人を賞賛したりする際も美辞麗句をただ書き連ねれば歯の浮いたくうらつな文言になってしまいますし、かといって短すぎてもいまいち臨場感が出せません。この辺、小学校でラブレターの書き方を教えるイタリア人とかに聞いてみた方が上達するかもなぁ。

上海忍者 さんのコメント...

難しい文書ですわ。理解できへんわ。

花園祐 さんのコメント...

 まぁちょっと込み入った内容を偏見込みで書いてるからね。要するに、話聞くより書かせた文章見た方が相手の本性見抜けるよって意味。