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2021年11月24日水曜日

上杉謙信には野心はなかったのか?

 最近こっちのブログの方であんま歴史記事書いてないので、JBpressには出せないような推論、仮説記事を書くとしたら、やっぱ上杉謙信の野心アリアリナシナシ議論だと思います。結論から書けば、彼も天下を取るという野心はあったと自分は見ています。

 上杉謙信に関しては自分が以前に取り上げた元寇のように、この10年くらいで研究が進んできたというかこれまでの評価がかなり変わってきた武将であるという気がします。彼の評価が変わってきた原因としてはやはり、一昨日に出した記事で私も取り上げた、彼の関東地方に対する干渉が以前と比べ知られてきたからでしょう。それ以前はというと、上杉謙信とくればまずは武田信玄との川中島の戦い、そして織田家との手取川の合戦ばかりがクローズアップされ、極端な話、それ以外の面に関してはほぼ無視されていたような節すらあります。

 特に川中島の合戦に関しては、信玄に追いやられてきた村上義清などの武将を受け入れ、彼らの救援要請に応えるようにして武田家と戦っているように見えることから、謙信の「義の武将」というイメージを確立させたように見えます。実際のところは亡命武将の要請に応えたというよりかは、勢力を拡張してきて国境が接することとなった武田家を抑えるという明確な領土保全目的、それと対立する北条家の同盟相手である武田家との二面抗争的な面で川中島の戦いは起きているように見え、義のための戦ではないように自分は見ています。

 その上で、やはり上杉謙信としては、勝ち取っても実りのあまり多くない信濃ではなく、鎌倉時代から一応は武士の聖地でもあった関東を支配、つまり北条家との戦いが主目的であったと思います。大義名分としても自らが匿った関東管領の上杉憲政が致し、また京都の足利幕府とも外交を行っており、そうした権威面での補強をしたうえで関東に攻め込んでいることから、領土拡大意識は明確にあったと言えるでしょう。
 またあまり知られていませんが越中こと石川県方面にもしょっちゅう攻め込んでおり、この点一つとっても領土拡大意識が明確にあったと断言出来ます。ただこちらは一向一揆がめちゃ粘り強く抵抗したことで、謙信の思っていたようには領土を切り取ることはできませんでした。確か織田信長包囲網が出来たことで初めて一向一揆と和解してるし。

 ではなんで、戦国最強と言われながらも上杉謙信は領土を拡張できなかったのか。理由としては大きく二つあり、一つは武田信玄同様に本拠地に恵まれなかったことがあるでしょう。雪深い越後を本拠としていたことから冬の間は完全にオフシーズンとせざるを得ず、かといって夏の間は農作業があってあまり兵を動員できずで、戦闘可能な期間はかなり限定されていたでしょう。
 また領土を拡大しようにも、関東には北条家、信濃には武田家、越中には一向一揆と強敵に三方を囲まれており、広げようにも相手が強くてなかなか広げきれないというところもあったかと思います。この点、織田信長なんかは、朝倉義景という無能がまだ相手だった分、得だったでしょう。

 次に、こっちがメインの問題点でしょうが、やはり本拠地が安定しなかった、というより家臣団の団結や忠誠が弱かったため、謙信自らが自国経営にしっかり取り組まざるを得ず、分業が思ったより捗らなかったところもあるでしょう。

 この辺、上杉家に詳しい人ならわかるでしょうが、上杉家(長尾家)は本家と分家の抗争が結構激しく、家臣団も本家派と分家派で根強く対立していました。実際に謙信が死んだ後の後継者争い(み御館の乱)で上杉家は激しい内部抗争を繰り広げており、また謙信自身も当初家督を継いだ兄から、家臣団の後押しもあったとはいえ、家督を奪う形で当主になっています。粛清とかしていたらまた違ったかもしれませんが、カリスマ性抜群だった謙信が生きていた時代ですら上杉家中はもめ事に事欠かない状態でありました。

 また先日の自分の記事に対するコメントにもたくさん書かれていますが、北条高広を始め、上杉謙信を裏切った武将は実はかなり多くいます。無論、裏切りの背景としてはいろいろあるでしょうが、かなり有力な武将ですら裏切っているものがおり、家臣団、また支配地域の統制面が他家ほど上手くいっていなかったように見えます。謙信に責任があるかという点については議論の余地がありますが。

 このように、外的要因もさることながら内的な問題、現代風に言えば内部統制に不備が多かったことから、野心も実力もあったものの謙信はその領土をそれほど大きく拡大することはできなかったと自分は考えており、その上で「義の武将」というのはやはり間違った見方だと考えています。
 逆に内部統制が優れていたとなると、やはり織田家はあれだけ支配地域を広げ、非血縁関係者である重臣に方面軍を任せたりした点から言ってもかなりの水準にあったと思います。まぁ最後は光秀に裏切られたけど。同様に、謙信とメインで対立していた北条家も関東支配に関しては比較的よく収めており、小田原攻めでも圧倒的不利な状況にありながら最後まで裏切らずに戦い続けた武将も多い点から言って、内部統制に優れていたと考えています。

 このように考えてみると、戦国時代の成功のカギは武力以上に内部統制、如何に配下や親戚を裏切らせずに使えるかにあったのかもしれません。これはこれでまた記事書くネタに使えるかもしれません。

2 件のコメント:

歩むもの さんのコメント...

天下を取るというよりも、関東管領という立場に沿った行動という感じがします。
そもそもあの時代の人で「天下」とはどこまで指すのか、毛利元就が望んだのは、中国地方と聞いたことがあるような。当時は日本全国というのはイメージがしずらかったんじゃないかなと想像します(もちろん意識している人も多かったでしょうが)。

花園祐 さんのコメント...

 ま、確かに天下まではちょっと言い過ぎだったかもしれません。
 ただ、上杉謙信は小田原攻め以前に京都へ赴き足利幕府と会見するなど、中央政界にもアプローチかけており、この辺の行動をどうとるかで評価がかなり変わってきます。自分の見立てでは足利幕府が存続している間は幕府体制の下で関東支配を、幕府権威の失墜後(信長の躍進後)辺りからは一般の戦国大名と同じく、天下とは言わずとも領地拡大をもくろむようになっていたのではと考えています。
 そういう意味では、初めから全国統一を狙っていた信長は確かに稀有な存在だと言えるでしょうね、ポケモンで言えばレアポケモンというか。