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2022年6月3日金曜日

報復による牽制が働かない社会



 エゴサーチかけて出てくるのが上の画像ですが、なんかこれだと自分が犬みたいに見えます。何故よりによってこの画像が表示されるのだろうか……。

 話は本題ですがその後の続報を期待して待てどもずっと来ない秀岳館高校サッカー部の暴行事件ですが、見事に世の中からの注目がなくなりました。その後に社会的に注目される話題が連続して出てきたこともありますが、最重要人物のサッカー部元監督が退職となったことで一区切りついたのか、メディアもこの話題を追わなくなりました。

 では肝心の学校はどうしてるのだろうかとホームページに行ったところ、「秀岳館高校」という文字だけ表示されるブラクラみたいなサイトになっていました。何がしたいんだろうか。

 自分の感覚では、あれだけの事件を起こしたのだからホームページ上で「生徒に対する配慮をよろしくお願いします」などの一言くらいはリリースで出しておけばいいと思うのですが、事件発覚当初よりそうしたリリースは一切出さず、その挙句がこれですから、まぁ元からまともな学校じゃなかったということでしょう。

雲隠れ!教師がボイコットした和歌山南陵高校・理事長を直撃!(フライデー)

 ただこうしたまともじゃない学校は世の中たくさんあるものだと、上のニュースを見ていてつくづく思います。詳細は省きますが、和歌山南陵高校では教師に給与も払わず、寮のインフラ代も払わず、就学支援金すらネコババする有様で、よくこの理事長がこれまで刺されたりせずに生きてこれたものだと感心すらします。
 既に同校の教師は給与支払いを求めて先月ストライキを起こしていますが、多分自分が当事者だったら理事長宅に直接殴り込みかけている気がします。法には触れるけど、そういう行為を実行する人がいても自分はきっとその人に同感すると思います。

 世の中悪い奴のが多いに決まっていますが、最近の日本で驚くのは、その手の人間が大手を振って偉そうに振舞っているという点です。昔のヤクザとかならともかく、こうした公的な地位にもある人間で無茶苦茶やらかしているのに、なんで誰も刺したりしないのかが本当に不思議で、毛沢東じゃないけど造反有理を掛け声にもっと反抗しろよと言いたくなってきています。
 ガチな話をすると、日本の場合はこの手の社会的牽制がほとんど効いていません。中国だと下手すればガチで従業員やその家族などから襲撃を受けることがあるため、よほど弱みを握っていなければおいそれと無茶な行為はできません。然るに日本の場合は弱みが握られているわけでもないのに、あり得ないほど無茶な要求に従い、さらには抵抗もしないケースが多い気がします。

 やり過ぎたら報復されるという牽制は、自分は社会の運営においてかえって重要だと思います。無論、報復のやり過ぎはまた問題ですが、一切報復しないというのはもっと問題でしょう。地味に日本の問題の根幹はこの辺にあるかもしれません。

5 件のコメント:

ルロイ さんのコメント...

日本人は空気を読むのが得意で、他人の目を気にしすぎる側面がありますが、そうしなければならない理由はそれだけ面倒な人がいるからで、そういう空気を読ませる、目を気にしなければならない状況に追い込む人種が一定数いるからなのではないかと最近思うようになりました。
生まれてからずっと、周りに空気を読ませてるタイプの人間がいて、そういうタイプが歳を取ると社会の害になるのかなと。だいたい、そういう人は裕福で苦労をしたことがなく、欲を満たせなかったことはないという人種なのかもしれません。

花園祐 さんのコメント...

 日本社会の人の動かし方って基本、その対象に居心地を悪くさせて誘導するという方法しかなく、合理性に基づく説得とかそういうのはほとんどないような気がします。その結果、みんなで不合理な方向に行くというか、その行動や概念が正しくても、空気読まない人間を絶対悪にしているようにも見えます。まぁ本当に日本人らしい面ではありますが。

川戸 さんのコメント...

以前から花園さんのブログを拝見していて、気になっていたことがあります。
それは暴力についてです。私は花園さんの暴力に関する過去の記事から、「暴力とは誰かという指向性を持たず純粋かつ理不尽に振るわれる力のことであり、良いものではないが暴力に対する暴力はある程度許容されるべき」と花園さんが認識していると私は推察しています。
私はありとあらゆる戦争、闘争について興味があり、人生を通して理解したいと願っています。それは、私が暴力を最も恐れつつも、同時に魅了されているからです。
暴力を振るわれる弱い人間は、同時に暴力に魅了されがちであると以前記事でお見かけした気がします。私はbmiが16しかない虚弱な人間で、暴力に対抗できない存在であることを自覚しています。ですが、10歳の頃に満タンに水が詰まった1リットルの水筒を殺す勢いで同級生に叩きのめした快感と罪悪感が忘れられません。成人した今では、暴力に対してあらゆる制裁が下されることを当然自覚しておりますから、軽々しく実行に移す気は毛頭ないのですが、いつか私が存分に暴力を振るえる対象が現れることをどこか期待しています。
花園さんもまた、てんかんや気胸などの身体的ハンデを負った男性であると、誠に勝手ながら認識しています。暴力に対する我々のスタンスは、こうした抑圧から生まれるのでしょうか。奇怪な質問ですが、お答え願います。

花園祐 さんのコメント...

 端的にお返事すると、暴力に対する許容度で言えば自分は常人より明らかに高いと思いますし、ご推察の通り報復としての暴力はこの記事にも書いている通り、社会牽制上でむしろ必要だとすら考えています。
 その上で自分が何故この様に暴力を許容するのかですが、身体的ハンデはあまり関係ないです。気胸は手術してそれっきりだし、癲癇も気絶まで行ったのは10年前で今や申告義務もないし、薬なしでも発作はほとんど起こりません。体力的にはむしろ同年代の中でも恵まれている方で、1日100㎞自転車でも走れます。
 ではなぜ自分が暴力を許容するのかというと、「暴力だけは絶対ダメ」というきれいごとでは片付かない世の中の不条理が本当に数多く、本当にどうしても最後の解決手段として残しておく必要があると思うからです。
 またこの記事でも少し触れていますが、例えどれだけ暴力から避けようと思っても、突然巻き込まれてしまうことが多々あると自分は考えています。そうした理不尽な暴力に巻き込まれた際、反撃として暴力を振るってはならないというのは、それこそ強者をのさばらせる題目になりかねないと懸念から、いざとなれば腕力が必要で、特に報復に関してはむしろ率先してやった方がいいという立場を採っています。
 割と昔から個人的な願望とか欲求より、集団の安定のために物事の倫理観を決める節があり、この暴力に関するスタンスもそういうところから出ているものだと考えています。

川戸 さんのコメント...

こんな不躾な質問に対しても真摯な回答をいただき、感謝しています。
集団の安定のための暴力というのは、全共闘世代の左翼説くところの「暴力装置としての国家観」の肯定に近しいものがあると思いますし、私は統制としての暴力には一理あると思います。
ですが、その点において私が問題視するのは、報復としての暴力を遂行できない個人(私が言うところの‘’弱い人間‘’)を、他人が助けるべきなのかというところです。
弱い人とは、単純に腕力に劣る人のことだけではありません。非暴力の信念や、他人が傷つくくらいなら自分が傷ついた方がよいとする優しさをもつ人のことです。
かつて私の身近には理不尽に責めを受ける人がおり、反撃しないその人の自己責任であるのか、それとも私が彼を守るため何らかの制裁を加えるべきか、本当に悩んだ事があります。結局は、彼の島鉄雄コンプレックスの発動を恐れて私はその問題に関わらないことにしました。
私はあくまで自分の福祉や報復に伴う快楽のために暴力を振るうまでであり、それが集団の安定につながるとは考えていません。私が身を守るだけでは、別のターゲットとなる誰かを救えません。
個々人の報復だけに集団の安定を見出すのは難しく思えます。法的根拠に基づいた執行機関による正当な暴力こそが、最も集団を安定させると考えます。