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2009年4月4日土曜日

内定制度について

 昨日、ひょんなことから今年四月から入社したばかりの新社会人の方と話をする機会があったので、いきなりこんなことを聞いてみました。

「ぶっちゃけ、自分も内定切りに遭うんじゃないか不安じゃなかった?」
「そりゃ不安でしたよ。恐らく、自分らの世代は皆一様に持ったと思いますよ」

 いきなりこんなことを聞く私も私だが、こうして当事者に改めて聞いてみて今回の問題の根深さを改めて実感できたので、きちんと答えてくれたその新社会人の方には改めてこの場でお礼を言わせてもらいます。
 さてここで私が切り出した内定切りですが、以前にも「内定取消しについて」の記事の中で一度取り上げていますが、その記事を書いた当時の内定者たちが入社する四月にはもう入ったのでもうこのようなニュースは出てこないと思っていたのですが、既にあちこちでニュースになっているのでリンクは貼りませんが、なんとある造船会社では入社式の前日こと三月三十一日になって突然内定者たちに内定取消しを通告したところもあったそうで、まだまだこの問題は尾を引きそうです。

 この造船会社のニュース以外に昨日に見たニュースでは、内定者たちに対して半年間の自宅待機を命じてその間に給料の六割だけを支給するという会社の例が報告されていましたが、私の見る限り恐らくこういった自宅待機の例はまだまだ多くあるのではないかと気にしています。そしてこれはまだ噂になっているだけで実際に発生したという報道はまだ見ていませんが、試用期間である三ヶ月を過ぎる、つまり今年の七月に入るや仕事の内容に能力が満たないなどという理由をつけて無理やり新入社員を辞めさせるなどという恐ろしい噂も耳にします。噂で済めば何も問題はないのですが。

 このような内定切りの問題についてこのところ私が報道機関や政治家に対して深く疑問に思うのは、何故どこも対策というものを打ち出さないのかという点です。前回の記事でも触れていますが、今回のこの内定切りの諸悪の原因は実際に入社する約一年近く前に就職を約束し合うという内定制度にあると考えています。今年はどうなるかわかりませんが十年位前から去年までは紳士協定なぞどこ吹く風か、四月には内定を出す会社が続出したために大学生の側も早い人などは三回生の秋頃から説明会などに参加するなどの就職活動を行っていました。

 こうした早すぎる就職や人材斡旋活動は双方にとって無駄な負担しか生まず、少なくともそれ以前には慣行だった「四回生の十月以降から」という風に戻すべきだと前回の記事で私は主張しましたが、こうして四月を過ぎてもこのような例がまだまだ報告されているのを見ると、そもそもの内定制度自体を廃止するべきではないかとも考えてしまいます。内定切りに遭った学生が可哀相と同情することだけならいくらでもできますが、もっとこうした具体的な対策についても今後議論が広まることを切に願っています。

2009年4月2日木曜日

生前贈与税率の減税について

贈与税減税実施で大筋一致=追加税制改正へ-自民税調(YAHOOニュース)

 あまり報道されておらずちょっと解説のいる話題だと思うので、今日は上記のリンクに貼った、現在自民党が検討している生前贈与に対する減税案について解説します。

 まずこの生前贈与という奴ですが、これはそのまんま、主に親が子へ生存中に財産を贈与する行為を指します。この時の贈与額がそれこそ100円や200円ならまだしも、現行では年間110万円を越える額を贈与した場合に日本では税金がかけられて一部が国に持ってかれてしまうのですが、現在自民党が議論しているのは昨今の不況への景気対策にこの生前贈与に掛ける税率を下げようというものです。

 というのも日本は不況不況と言いつつも個人資産は金融資産で1483兆円、土地などの資産で3402兆円、住宅などの資産で952兆円、合計なんと5837兆円もあるそうですが、そのうち金融資産だけを世代別に見ると六十代以上の層が867兆円と、実に全体の六割近くを保有しております。
 この点について私の友人は、よくおっさん連中が我々若者が車を買わなくなったりデートをしなくなるなど、以前と比べてお金を使わなくなったのがさも不況の原因だと若者を犯人扱いしているが、上の世代が大半の資産を使わずに貯めていて若者にまでお金を流さないのが真の不況の原因だと、常々ヒートアップして文句を述べていますが、上記の実態を見れば私もまさにその通りとしか言いようがありません。
 ただ私の方から上の世代にもフォローを入れておくと、日本は今も曖昧糢糊なままの年金制度に不安定な社会保障制度ゆえ、老後に備えてまとまったお金を貯めておきたいというのも理解できなくはありません。

 こうした状況に対し、この不況への対策の切り札として掲げられたのが今回の生前贈与の減税案です。私がこの減税案を初めて知ったのは、文芸春秋四月号にて小泉元首相の元秘書である飯島勲氏がこの減税案を紹介している記事を読んだことからで、今日のこの記事も上記の資産額などその記事を参考にしながら書いております。
 飯島氏が挙げているモデルケースでは、Aさんが自分の子供に対して1500万円の証券資産を譲渡する場合、現行税率は50%なので750万円も国に持ってかれて子供にはもう半分の750万円しか譲られません。しかしもしAさんが死亡したことによってその資産が子供に引き継がれる場合、こちらは税率が15%の相続税が適用されるため国に持ってかれるのは225万円で、子供には残りの1275万円引き継がれます。


 Aさんが1500万円の証券を子供に譲渡する場合、
生前:税率50% 税金750万円 譲渡額750万円
死後:税率15% 税金225万円 譲渡額1225万円



 図示するとこんな具合になるので、現行の制度だとそりゃ生前に大金を渡す親はいなくなるでしょう。
 飯島氏の案は、この生前贈与時に掛ける税率を10%までこの際引き下げてしまおうという案です。確かに10%まで下げると長いスパンで見れば国の税収は減ってしまいますが、まさに今税収が必要な不況真っ只中の今年や来年といった短期においては増収が見込まれ、また消費意欲の強い若者に資産を大量に貯蓄している世代からお金が流れるため、個人消費の上昇も期待できると主張しています。

 結論を言えば、私もこの政策案を強く支持します。たとえば不動産の価格が下がっている今この時に、貯蓄をたくさん持っている親がぽんとお金を出すことで一気に自分名義で持ち家を買ってしまおうと動く若い夫婦がいてもおかしくありませんし、ある年齢層に固まっている資産が若年層に流れることで生活支援にも資金の流動化にも大きくつながることが期待できます。
 自民党が現在考えているのはやはり住宅購入時の資金譲渡時の税率を減税する案のようですが、それだけでも十分に効果があるし、また何より政策が非常にわかりやすく一般にも浸透しやすいので、やれるものなら明日からでもやってもいい案だと思います。

 ただ少し残念なのは、本来こうした景気対策というのはニュースそれ自体が何かしら希望を持たせることで市場などへ安心感を植え付ける面も少なくないのですが、今回のこの案は私が見ているところまだあまり浸透していないように思えます。そうしたわけで解説も兼ねて紹介しましたが、もっとこうした面の広報というものを日本政府は考えるべきでしょう。

2009年4月1日水曜日

このところの株価上昇について

 ここ一、二週間で日本の株価は急激に回復して現在も八千円台を推移していますが、結論から言うと私は日本はまだ不況の底を脱しているとは思えず、むしろこれだけ株価が上がる今の状態に対して不安感を覚えています。

 このところこうした株価予想をしておらず久々なのですが、何故このところ日経平均株価が上がっているかといえば私は一番の原因は円安だと思います。というのもこのところの株価上昇の裏で一時は90円を切った対ドル円価が三月に入って急激に上昇し、今日には98円台にまで回復しております。元々輸出依存型の経済の日本では円価が低ければ低いほどいいということもあり、為替変動が与える経済への影響は元から強かったとはいえこのところの株価全体の動きはまさに円価に沿って動いているように思えます。

 ただ私はこの前国会で本年度の予算案が通過したとはいえ、その中身といい現在審議中の政府の対策といい、何一つ現状に対して有効だと思えるような政策(生前贈与の減税は悪くはないと思うが)が見えてこず、正直言って現時点で株価が上がるというのはなにかおかしいように思っていました。そうした疑問から追っていったら先ほどに述べたように為替の動きに連動していると思ったわけなのですが、これは逆を言えば今後またドルの価値が急激に低下すれば大幅に株価が下がる恐れが強いという予想につながってきています。

 ここで話を外に向けますが、海外の経済状況で特筆すべきは中国です。北京五輪が終わってリーマンショックとのダブルパンチで一気にバブルが弾けるかと思ったら意外や意外にまだ踏ん張って成長を維持し、二桁成長は止まって去年は6%成長に止まるようですが、マイナス成長にまで陥った日本と比べるとまだたいしたものです。ただこの中国が逆に日本にとって良くも悪くもネックで、昨日のNHKのクローズアップ現代でも特集されていたように建設機械などの受注は未だに中国からは多くて日本としても助けられているのですが、もし中国がなにかの拍子に手持ちの外貨ことドルを市場に売り始めたら、一気にドル価値が下がってまた円高を起こし、そのまんま中国に引導を渡されかねないというのが今の日本の状況だと私は考えています。

 そういうわけで、かなり飛ばして書いていますがこのところの株価上昇は決して日本の対策や対応がうまくいったものではなくどちらかといえば偶発的な上昇で、またしばらくしたら大幅に下がる恐れがあるのではないかというのが私の意見です。いくら安くなっているとはいえ、株をこの期に一気に買い増そうというのならもう少し待つべきではないかと思います。

インド旅行記 その四

 また今日もインドの旅行中の話です。さて前回に引き続きベナレス滞在中の話ですが、三日目のその日に私たちは前二日間にも使ったタクシーの運転手の兄ちゃんに朝早くにホテル前まで来てもらい、朝焼けのガンジス川を見に行きました。まだ日も明けきらぬうちにガンジス川の近くについた私たちはリクシャーを置いてガンジス川を浮かべる船に乗って朝焼けを待ちましたが、余計な言葉を飾らずに言って、ガンジスの朝焼けは本当にきれいでした。一緒にいた二人組みの女の子のうちの一人は周りに乗せられるままガンジス川に肩まで沐浴しましたが、私は服とかが濡れるのが嫌だったのもあり顔を洗っただけに止めました。

 ここでちょっとガンジス川沿いの光景について説明しておくと、ガンジス川の川端には約16世紀ごろ、日本風に言うならインドの大名たちがたてたガートと呼ばれる古い建物がたくさん並んでいます。というのも当時よりベナレスはガンジス川の最大の沐浴地として見られており、大名たちはいつでも長く滞在できるようにこうした建物を次々と建築して現在に残っているわけです。現在それらのガートは大名たちから政府が没収したことで一般にも開放され、昔のように一室でホテルをやっているものもいればレストランをやっている方などもたくさんいます。なお現地で私はインド旅行を決意させた「うめぼしの謎」にもでてくる「BABAレストラン」を発見しています。結構有名なところでしたが、なんというかあの場所であの名前だと関西人にとっては……。

 そうしてガンジス川での朝焼けを拝んだ後、それらガートの間の路地からリクシャーを置いたところまで戻る路上で蛇使いによるスネークショーが行われていました。それこそゲリラライブのようなものでいろんな人が集まっているのを見て、私と一緒にいた人たちは自分たちも見に行こうとその輪に加わっていったのですが実はこの時私はあまり見たくはありませんでした。そんな私の気持ちはよそにみんなで最後までそのスネークショーを見てそれぞれ適当に小銭を置いていったのですが、私はその時たまたま小銭を持っていなかったのでそのまま立ち去ろうとしたら蛇使いの人に肩をつかまれて、恐らく「何でお前はタダ見で帰るんだよ!」とでも言われたのだと思います。
 恐らくこういう風になるだろうなという気がしてたのであまりショーを見たくなかったのですが、こうなってしまうともうしょうがないので仕方なく、確か100ルピーを結局置いていったのですが、私がお札を置くなり破格の額ゆえか、さっきはケンカ腰に私の肩をつかんだ蛇使いの人が今度は逆に私を抱きしめて深く感謝してくれました。ホリエモンじゃないけど、お金で買える心もあるんだなぁと実感した瞬間でした。

 その後、その日の夕方に次の目的地のアグラに向かう列車に乗るまで時間が余っているのでどうしたものかと相談していたら、また例のリクシャーの兄ちゃんがいろいろ連れてってやるよと言って、まず彼の通っている大学へと連れて行かれました。今の今まで私たちも知らなかったのですが、その兄ちゃんは見かけによらず大学生でこうしてリクシャーでお金を稼ぎながら学校に通っていたそうです。そうして彼の大学を見た後、今度は彼の自宅へと連れて行ってもらえました。彼の自宅では彼の家族、それこそたくさん下に兄弟らがいて、一人の弟などは生来の病気なのか下半身が動かない男の子でした。自分でもこの辺が非常に貴重な体験が出来たと思っていますが、こうした苦しい生活をしながらも立派に働いて家族を養っているインド人らに対して深い尊敬の念を覚えました。

 彼の自宅を出てガイドらと合流するためにホテルへと戻る途中、その兄ちゃん市場に寄って、「列車の中で食べろよ」と、ぶどうなどの果物を私たちに自分のお金で買ってきてくれました。恐らく前日の我々の報酬に対してもらいすぎたと思っていたのかもしれませんが、結局私たちはその日も別れ際に彼へ多めの報酬を渡しました。

 そうして夕方にホテルに戻ってガイドらと合流し、早めの夕食をとった後でまた私たちは長距離列車に乗り込み、そのまままた車中泊をして次の日の早朝にアグラに到着しました。このアグラには何があるかといったら言わずもがなの白亜の宮殿ことタージマハールで、我々も真っ先にそこへ揃って出かけました。
 ちょこっと解説するとこのタージマハールは当時のインド皇帝が溺愛していた王妃の死に際して作ったお墓で、転じて日本におけるインドカレー店の名前によく使われるほどのインドを代表する観光地となったわけです。

 インドを代表するだけあって、タージマハールは非常に大きな建物でした。ここに限るわけじゃないですがインドでは寺院や観光地は土足では上がれず裸足で入場しなければいけないのですが、あまりに広いもんだからここで足の裏が痛くなったのを覚えています。そうしてアグラ観光をして、その後の記憶は少し曖昧ですが次の日にはまたデリーへ戻る列車に乗り、帰国する日を迎えました。
 帰国するための飛行機は夜発の便なので、昼過ぎにデリーに戻った私とK君(女の子二人組とはここで分かれた)はガイドのスレーシュさんとともに、デリーでまだ行きそびれていた観光地スポットこと、ガンディー廟へと訪れ、私も尊敬するマハトマ・ガンディーへ祈りをささげた後、空港へと戻って帰路についたわけです。

 ただこの帰路にいろいろあって、一番最初の記事にて友人のK君が飛行機の上降による気圧の変動で歯の痛みを訴えたことを書きましたが、帰りの便でも飛び立つ前にえらくブルってたもののK君自ら持参してきた正露丸を歯に詰めていたのが功を奏して特に帰りでは歯については何も問題が起こらず本人もホッとしていました。

 しかしこれで終わらないのがハプニング続きの私の旅行と言うべきか、日本へと向かっている最中に機内食が配られた時にそれは起こりました。乗っている航空会社がエア・インディアなので配られるのはもちろんカレーなのですが、食べる前に「なんか違うな」とは違和感を感じつつもあまり気にせず食べたのが運の尽きで、食べて30分もすると猛烈な腹痛が巻き起こりました。急いでトイレに行って少し流しても全然痛みは引かず、気休めにもう一回トイレに行こうと廊下を見てみるとそこにはもう長蛇の列が出来ていてとても行けそうにありませんでした。横のK君はどんなものかと見てみるとやっぱり同じようにお腹を壊していて、しかも自分も辛かったけど向こうはもっと辛そうだったので、「頑張って」と声を掛けるとまた「頑張れへん」とマジな顔で言い返されてしまいました。今更ですけど、この時のって間違いなく集団食中毒だったんだろうなぁ。エア・インディアではよくあることらしいけど。

 そのように飛行機が関空に着くまで文字通りサバイバルだったのですが、なんとか無事に関空に日本時間の6時くらいに到着して我々もホッとしたのもつかの間、
「すいません、麻薬探査犬が反応をしているので、荷物を改めさせてもらってもよろしいでしょうか?」
 と、荷物受取のところで今度は空港職員の方に声まで掛けられてしまいました。

 もちろん自分たちには何もやましい事などなかったので快く応じましたが、普通に荷物の中には洗濯せずにいる下着などがぎっしり入っているビニール袋もあり、そんな汚いのを手袋をつけてはいるもののいちいち改める職員の方にかえって申し訳なく思うほどでした。なおこの時に職員の方と雑談をしたのですが、やはりインドだといろいろあるということで通常より検査が厳しくなるとのことで、我々にもあまり気にしないでいいと言っておりました。結局私たちの荷物からは何も見つからなかったのですが、麻薬探査犬が何故我々に反応したのかというと、どこか麻薬が使われている施設などに入り、衣服や荷物にその臭いがついて麻薬探査犬が反応したのではないかと職員の方は説明し、そのまま無事開放となりました。最後の最後までオチがついた旅でした。

 ただこの時の空港での荷物改めですが、職員の方との雑談の最中にこんな会話をしたのを何故か印象的に覚えています。

職員「よくアジア地域に海外旅行など行かれるのですか?」
花園「アジアはそれほど行ってないのですが、こんど中国に長く行く予定です」
職員「えっ、それはなんでですか?」
花園「半年後から、中国に一年間留学することになっているんです」
職員「そりゃあいいじゃないですか。是非行ってしっかり勉強してくるべきですよ」

 今思うと、空港の職員の方だったからこそ中国留学についてこんな風に言ってくれたのではないかと思います。そしてその後現実に、私は中国に一年間行って来たわけですが。

 こんなこともあってインド旅行は私にとって非常に面白い旅行でした。ただこんな風に思うのも、向こうでなんの犯罪にも巻き込まれなかったからだと思います。やはりインドは詐欺や強盗といった犯罪リスクが高い国だといわれており、中には二度と行きたくないと思うようになる方も少なくないそうです。自分に限っては悪い思いは何もなく、むしろいい人たちに出会えたので機会があればもう一度行ってみたいと思う国ですが。

 ただ関空からの帰り、インドでは暑かったもんだから半そでのままで三月の京都に戻る際は周りからじろじろ見られたのは微妙に苦痛でした。それ以上に苦痛だったのはあの時の機内食が後引き、しばらく外出する際は常にトイレの位置を確認しながらという生活に追いやられたことです。そんなこんながあっても、私、インドが大好きです。

2009年3月31日火曜日

インド旅行記 その三

 昨日、一昨日に引き続いてインド旅行の話です。気分転換に書き始めたけど、なかなか調子がいいです。
 さて前回はベナレスでの一日目の観光をして二日目はショッピングに行こうと同じツアーの女の子とK君(相部屋)と朝早くに合流してホテルを出るや、前日に使ったインドでポピュラーなタクシーであるリクシャーの運転手の兄ちゃんがすでに待っていたところまで話しました。

 ホテルの前なので元々そこが彼の縄張りだったのか、もしくは前日に引き続いて我々を狙って待っていたのかまでは知りませんが、彼は私たちに会うなりにこやかに近づいてきて今日もどうだと売り込みをかけてきました。確かに胡散臭くはありましたが、前日のガンジス川までの運転とレストランの紹介などと仕事はきちんとしてくれていたので、この際勝手もわかっているのでまたその日も彼に頼むことにしました。
 そんなわけで前日同様に一台のリクシャーにまた五人乗りしてベナレス市内のお土産屋をいくつか案内してもらい、果てには「マザーテレサの病院を見ていかないか」と言って、ガンジス川沿いにある俗に言う「死を待つ家」の一つにも案内してもらい、そこで我々も病人の方と挨拶をさせてもらいました。

 その日の午前中はそのようにしてベナレス市内をグルグル回り、私とK君だけが午後に郊外へ出る予定があったのでその運転手にホテルへと一旦戻ってもらいましたが、前日といいこの日も非常にいい仕事をしてもらえて信頼を持ったのもあり、前日は四人で半日同行して40ルピーしか払わなかったところをその日は私とK君が感謝の意を込めてそれぞれ100ルピーずつ、合計200ルピーをその運転手に別れ際に渡したところ、向こうもそれほどもらえるとは予想していなかったのか驚きながら受け取り、その後も市内観光を続ける女の子らを乗せて去っていきました。

 それで私とK君ですが、この日はガイドのスレーシュさんからアクセスなどを簡単に聞いて、午後からベナレス郊外にあるブッダーガヤーという、釈迦が初めて説法をしたという場所へ観光に行きました。
 これは「国家の品格」の藤原正彦氏の言ですが、海外旅行に行くと必ず散歩をする藤原氏もインドに行った際はあまりの環境の悪さと人の多さで辟易したそうですが、イギリスに渡った天才的なインド人数学者の故郷のある地方へと行ってみると、それ以前のインドの都市とは打って変わって非常に清廉で美しい自然のある地域だったそうで、さすがは天才を生んだ地だと思わせられたと感想を書いていましたが、ちょうどこの藤原氏の感想が私のブッダーガヤーに思った感想と一緒でした。

 これまた日本人からすると想像しづらいかもしれませんが、私がインドに行ったのは三月でしたがそれでも現地の暑さは半端じゃなく、風が吹くとすぐに埃が舞うから常に空気は埃っぽいし、野良牛や野良犬(なおインドでの狂犬病死者数は世界一)はたくさんいるわで、こんな環境下でパワフルに活動し続けるインド人には心底尊敬しました。そしてこうした強烈な環境に加えてこれなんかインドに行かないとなかなか実感できないでしょうが、街中が文字通りうんこくさい……こんなの書いたら引くかもしれませんが、インドでは牛の糞を乾燥させて後で燃料に使うので、そこらじゅうの壁に余すところなくびっしりと糞が貼り付けられています。最初は私もこの臭いがきつかったのですが後半になると気にならなくなり、逆に日本に帰った頃になると「日本ってこんなに無味無臭の国なんだ」と思うようになっていました。

 脱線しましたが話を戻すと、そうした強烈な環境にあるほかのインドの都市と比べ、郊外ということもあるでしょうがブッダーガヤーは非常にきれいなところで、インドにはこういった面もあるのだと感心させられました。そうしてブッダーガヤーの観光を済ませてベナレスに戻り、その日の晩は女の子らともガイドのスレーシュさんと女の子らのガイドとまさにオールスターで夕食をとって終えました。

 そうしてベナレス滞在三日目になりましたが、この日はそれこそ朝五時くらいに起きたんじゃないかな。というのも前日にタクシーの運転手と別れる際、「朝焼けのガンジス川は最高だぜ」と言われ、それなら明日朝早くに迎えに来てもらって見に行こうかと約束していたからです。
 そんなわけでまたも女の子らとも一緒に集まってホテルのロビーに行くとすっかりおなじみになった運転手の兄ちゃんも待っており、朝早くからガンジス川を見に行くこととなったのです。
 そんなわけで、続きはまた次回に。

2009年3月30日月曜日

インド旅行記 その二

 前回の記事からの続きで、またもインドでの旅行中の話です。
 さて前回ではインドに到着すると次の日には首都デリーを観光し、そのまま夜行列車に乗ってベナレスへと向かう辺りまで書きました。ベナレスというのは現地の発音では「バラーナスィー」とも「バーラナスィー」などといろいろと呼び方がありますが、日本語でのベナレスという地名はあまりメジャーではありませんでした。それでこのベナレスには何があるかですが実はここがインドを代表するガンジス川の中で最もポピュラーな沐浴地で、インド観光においてはタージマハールのあるアグラと並んで人気のスポットです。

 そんなベナレスに早朝に到着した私と友人のK君、そして同じツアーの従兄弟同士の二人の女性とで滞在するホテルに荷物を置くと、前日からの約束どおりにみんなで揃って観光へと繰り出していきました。
 ホテルを出るとひとまずはガンジス川に行こうとタクシーを取ろうとしたのですが、ここでちょっと解説をしておくとインドのポピュラーな乗り物は三輪バイクこと「リクシャー」という乗り物で、これは音からも想像しやすいように日本の人力車から発展した乗り物です。何でも明治に日本を訪れた日本人がインドでもやり始め、それがそのままエンジンを乗っけてタクシー化したようで、インド中のどこの街でもけたたましく走っています。

 そんなわけでデリーでは四輪の普通自動車タクシーしか乗ってなかったのでここではリクシャーに乗ろうと手を挙げてみるのですが、あっという間もないほどの一瞬でたちまち三台ものリクシャーが私たちを取り囲み、やいのやいのと客である私たちの奪い合いを始めました。これは日本からすると想像しづらいのですがインドではごくごく当たり前の光景で、物売りなども観光客を見つけるとすぐに道をふさいでは売り込みをかけたりと非常にインド人はアグレッシブかつパワフルな人ばかりです。中国でも、ここまでは凄くなかった。

 話は戻りますが、リクシャーの運転手たちは自分らで勝手に言い合いを続けていてなかなか埒が明かないので、痺れを切らした女の子の一人が「シャラップ!」と言って一発で黙らしてくれました。なんでもアメリカに留学した経験のある子で、英語がほぼどこでも通じるインドでの交渉事はこの後全部彼女にお願いしていました。ひとまずこちらが納得する料金で乗れればいいと皆で相談し、四人全員で……確か40ルピーだったっけなぁ、ともかくかなり値切った値段と条件をこちらから出したところ、一人の若い兄ちゃんの運転手がすぐ前に出てきたのでそのまま彼に任せることにしました。

 そこで早速リクシャーの初乗りと運んだのですが、所詮はオート三輪というか、後部座席に三人が乗るともはや空いたスペースがなくて残った私はどこに乗るんだと聞くと、運転手は自分の隣を指差し、なんと本来一人分の運転座席に無理やり二人で座って、合計五人を乗っけた状態で景気よく運転手はバイクを走らせ出しました。正直に言って乗った当初は非常に恐く、しかもガンジス川周辺は古い路地が続いていて走っている間ずっと壁が目の前に迫ってきたり、野良犬が道を塞いで寝ていたりしていたのですが、運転手はそれこそ神業のドライバーのようにすいすいと障害物をよけては、あっという間にガンジス川にまで運んでくれました。

 そうしてガンジス川を眺めていたら昼時に差し掛かり、運転手にこのままどこか知っているレストランに運んでくれるように交渉してとあるホテルのレストランへとそのまま向かいました。レストランへと向かう途中、最初はあれだったがきちんと仕事をしてくれるので運転手の彼にも昼食をおごろうかと皆で相談もしましたが、向こうではこうして客をレストランに連れて行くと運転手もレストランからマージンがもらえるので、彼ももらう取り分があるのだから今回は見送ろうという結論にしました。
 連れて行ってもらったレストランはきちんとしたところで、別にここに限るわけじゃありませんがインドなのでもちろんカレーを食べました。なお向こうのカレーは日本で言えば激辛に分類される味が通常で、おいしいのですがたくさん食べられないというのがもったいないところでした。あとこの時は女性のいる手前、ちょっと見得はって自分が全員分の食事代を払っています。

 そこまで観光してその日はもうホテルにまでまたその運転手に運んでもらったのですが、確かにいい仕事をしてもらったのですが当初の交渉どおりに結局40ルピーしか払わず、運転手も心なしか残念そうでしたが特に文句は言い返してきませんでしたので、なおさら悪いなぁという気がしました。
 その日はその後、移動の疲れもあってK君と一緒に部屋の中(相部屋)で昼寝し、夜はガイドのスレーシュさんと一緒にホテルの近くにあるレストランでまたカレーを食べて寝ました。ただ就寝する前に一緒の女性たちと明日も一緒に、今度はお土産屋を中心に周ろうと約束してから部屋に戻りました

 そして翌朝、この日も一日ベナレスに滞在予定だったので当初の約束どおりにホテルのロビーに皆で集まると、既にそこには前日のリクシャーの運転手が待っていました。本当は前編、中編、後編の三話で終えるつもりでしたが、まだなんかしばらく続きそうです。というわけで、続きはまた次回に。

2009年3月29日日曜日

インド旅行記 その一

「そうだ、インドへ行こう」

 何故か二十歳の時にこう思い立って、本当にインドに旅行したことがあります。
 昨日、地元の友人から前から気になっていた「聖お兄さん」というマンガを借りて読んだのですが、マンガの中で出てくるブッダを見て私もインドを思い出したので、今日はちょっとその時のインド旅行の思い出を書いてみようと思います。

 まず何でインドに行こうかと思ったかですが、前にも書いたことがありますが今でも続いている人気テレビ番組の「世界丸見え特捜部」という番組を私は子供の頃によく見ており、その番組では体中に針を刺したりとか頭突きで釘を打つなどといったトンデモ超人がよく紹介されていましたが、それら超人の大抵はインド人か中国人と決まっていました。基本的に不可思議なこと、奇妙なものへの興味は強く、このような番組を見ているうちにインドや中国に対して興味を持ったのがこの時に旅行を決心させたのだと思います。
 またもう一つインドに行ってみたいと思うきっかけとして、幻の名マンガ「うめぼしの謎」というギャグ四コママンガにて、作者がインドに行った話を書いていたのを見ていたのも大きかったです。なおこのマンガはその作者のインド旅行の話が書かれた後すぐに打ち切りに合ってしまい、連載していた雑誌の「ギャグ王」もその後すぐ廃刊となってしまいました。

 そんなわけで早速旅行代理店などを探してみると一週間ガイド付きで約八万円というプランがあったので、ほぼ即決でそのプランに応募することにしました。当初は自分ひとりでインドに行くつもりでしたが、近々インドに旅行することを友人のK君に伝えると何故か、「俺も行く」とか言ってきたので、二人で行くことになりました。ちなみにそのK君という友人は例えるならスタミナだけが取り柄のピッチャーのようなキャラクターで、敗戦処理を任せれば天下一品というような友人です……もちろん、冗談ですが。

 という具合で話が進み、出発日に空港へ行ってエア・インディア航空の飛行機に乗って一路インドへと向かいました。後で知り合いに聞いた話ですがこの時に乗ったエア・インディア航空は通称「空飛ぶ棺桶」とまで呼ばれるほどしょっちゅう問題を起こしていることで有名な航空会社だったそうなのですが、行きの便についてはなにも問題ありませんでした。ただK君が以前に歯の治療を中途半端に終えていたのか、飛行機が着陸する直前に室内の気圧が変動するのを受けて猛烈に歯の痛みを訴えだし、横目にも非常に辛そうでした。私もいちおう「頑張って」と励ますのですが、「頑張れへん……」といってマジな顔されたのは今でもよく覚えています。

 そうこうして飛行機はインドのニューデリー空港に夜に到着し、そこで待っていた現地ガイドのスレーシュ・ギリさんと合流し、その日は一路ニューデリー市内のホテルに向かってそのまま一夜を明かしました。
 次の日は早朝にスレーシュさんと合流してデリー市内の観光をしたのですが、まずデリーの感想を一言で言うとその人の多さと市内のカオスっぷりに驚きました。人の多さは北京も似たようなものですがデリーの場合は北京より古い建物が多くて雑然とした環境で言えば遥かに北京を上回り、また普通に道路の真ん中を牛が横切っていたり(インドで牛は神聖な動物として、普通に野良牛とかそこら辺にいる)、ちょっとわき道に入れば野良犬もそこら中にいて、見るものすべてがいろんな意味で新鮮でした。

 デリー市内で観光をした場所はちょっと記憶が曖昧になっていますが、フランスの凱旋門にそっくり、というかそのままなインド門やガネーシャ神の寺院、それに古城で、夕方まで一通り観光するとそのまま鉄道の駅へと向かい、早くもその日のうちに次の目的地のベナレス(現地では「バラーナスィー」という発音)行きの夜行列車に乗りました。ちなみにその鉄道の駅にて私たちを見つけたバックパッカーの日本人が、その人の持ってきる切符の列車はどれかと尋ねてきたのですが私たちにそんなのわかるわけないので、ガイドのスレーシュさんを呼んで対応してもらいました。

 ここで簡単にスレーシュさんの経歴を話すと、彼は大学にて日本語を専攻してそのまま観光ガイドの職についたようです。タクシーで移動中にちょっとしたことからインドの歴史について話をしたところ、何でも彼の出身は向こうでの武士階級に属する「クシャトリヤ」だったそうで、そうしたカースト制度についてもいろいろと聞かせてもらいました。

 話は夜行列車に戻りますが、インドは中国同様に国土が広いということで都市間の移動にはこちらも中国とおなじく長距離列車がよく使われております。列車自体は個人寝室ごとにカーテンがないだけで見た感じは普通の二段式寝台車で、物を盗まれないように防犯用チェーンを荷物につけて寝るのが普通です。
 なおこの時に自分たちは二等客室でしたが、一等客室には政府高官が乗っていたのか時折社内の廊下をマシンガンを持った「ブラックキャット」と呼ばれる軍人が巡回していました。スレーシュさんによると、こういうことはよくあることだそうです。

 またこの時に同じツアーに参加している従兄弟同士の女性らとも合流し、次の行き先のベナレスでは一緒に行動しようと決め合ったのですが、その女性らはデリーでの観光の際にインドの民族衣装のサリーを買ってその時も着ていたのですが、なんでも彼女らのガイドと同行せずに行ったらしく、変な店で偽物をつかまされていたのかサリーの色が汗だけですでに落ち始めていました。別にサリーに限るわけじゃないですが、私の所感だと中国なんかより素性のよくない商品をつかまされる確立がインドでは高かった気がします。それだけインド人の商魂がたくましいことでもあるんだけど。

 そうして次のベナレスへと行くのですが、続きはまた次回に。明日は熱が下がっているといいな。