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2009年6月3日水曜日

オウム真理教は何故、過激化したのか

 このブログでも既に何度か取り上げていますが、またオウム真理教の事件についてです。
 以前にも一度、「広瀬健一氏の手紙について」の記事の中でこのオウム事件を取り上げたことがありますが、既にあの事件から十年以上経っているとはいえ、私は今だからこそ再検証するべき課題がこの事件にはまだたくさん残されていると思います。特に私がもっと真剣に検証しなおすべき必要のあると信じてやまないと考える、何故エリートたちはオウム真理教にのめりこんだのかという点について今日は愚説ながら私見を述べようと思います。

 まずこの前の記事でも取り上げた広瀬氏ですが、彼は学生時代には将来を嘱望されるほどの優秀な学生で、恩師にそのまま学会に残っていれば偉大な研究を世に残したとまで言われたほどの秀才でした。なにもこの広瀬氏に限らず、オウム真理教には世の中からすれば相当なエリートに当たる人材が数多く集まっており、オウム事件が取り沙汰された頃には何故彼らのような賢い人間たちほどオウムというカルトにハマってしまったのかという検証が毎日取り沙汰されていました。
 しかし結論から言わせてもらうと、当時は結局ワイドショー的な議論を脱することはなく、この問いについて私が納得するような答えを得ることは出来ませんでした。その頃私はまだ小学生でしたが、自分が大きくなったあとにこんな風な変な宗教に引っかかったりはしないものかなどといらぬ心配をしてましたが、こういう事件を二度と引き起こさないため、ある程度事実に整理がついた今だからこそ検証をする必要があるのではないかと、オウムに集まったエリートたちに関する海外の宗教論文を読んだ三、四年前から常々一人で悩んでいました。

 そんな中、自分にとってそんな問いへの大きなヒントになる本を見つけました。その本というのも前にも一回取り上げたことがあるかもしれない、島田裕巳氏の「平成宗教20年史」です。
 本の内容を説明する前にまず作者である島田氏の経歴について説明しますが、島田氏は第一線の宗教学者として活躍されていたのですが、松本サリン事件が起きるより以前から自身の研究の一貫としてオウム真理教内部の修行やセミナーに参与観察をしていたことから、地下鉄サリン事件以降のオウムバッシングの際に「オウムの擁護者」などと根も葉もないレッテルをつけられて一時学会を追放された事がある学者です。現在は学会に復帰していくつか著作も出しているのですが、この本と並んで「日本の10大宗教」は取って入りやすい内容で私からもお勧めの本です。

 さてそんな必ずしも自分と無関係でない島田氏がオウム事件に対してどのような見解を持っているかですが、特筆すべき意見としてオウム真理教をバブル期以前と以後に分けている点です。これはオウム真理教に限らず昭和に躍進した創価学会や統一教会にも一致する特徴なのですが、これら新宗教はバブル崩壊以前までは信者数が一貫して増加をし続けたものの、バブル崩壊以後はどこも新規入信者数に一定の歯止めがかかり、伸び悩みの傾向を見せているのです。
 唯一といっていいほどの例外は真如苑ですが、オウム真理教もバブル崩壊までは信者数が右肩上がりに増えており、その頃の教団は後にあれほどの凶悪犯罪を起こす気配はあまり持っていなかったそうです。

 一概にこれがすべての原因だとは言い切れないとしつつも島田氏は、オウムが凶悪化した原因の一つとしてバブル崩壊によってこれまでの規定路線による信者の拡大が思うように図れなくなったのも遠因しているのではないかと主張しています。もちろん、バブル崩壊によって前みたいに無尽蔵にお布施を集められなくなったのも原因として挙げていますが。
 では何故バブル崩壊後、オウム真理教のみならず他の宗教でも同じように信者数の増加に歯止めがかかったのかですが、島田氏の意見を私の解釈で説明すると、

「いつの時代も世の中の動きについて来れない人間はおり、特にバブル期のように享楽的に消費生活を送ることが自明視された時代に反発を覚える人間は少なくなく、そんな人間に対してカルトとされる宗教はお金は邪なものだから捨てなさいといって彼らのお金をお布施として巻き上げるが、お金だけが価値じゃない世界を変わりに彼らに与えることで信者を獲得していた」

 といったところでしょうか。
 つまりバブルや高度経済成長の波に乗ることが出来なかった層をカルトは取り込んでいたのですが、肝心のバブル自体がなくなったことでそういった世の流れにあぶれる層自体がいなくなり、新規入信者が先細っていったという解釈です。案外、こんな感じじゃないかと私も思います。

 このようにバブル崩壊という環境の激変が組織内部が先鋭化していったのがオウムの暴走の原因となったという説ですが、私はそれ以上に、バブル期の世の中について来れない人間がオウムに行き着いたという話の方が印象に残りました。
 もし仮にバブル期でも、あまり消費欲もなく静かに暮らして生きたい人間たちも悠然と構えて暮らしていける世の中だったら、オウム内部であれだけの兵器を作ったエリートは集まらなかったのではないかと思わずにはいられません。私は社会の安定のために何が一番大切かといったら、多様な存在を同一社会において認められる多様性と慣用性をまず挙げるようにしております。

 言ってしまえばオウムに集まったエリートたちはそうした社会の慣用性が低かったためにオウムに走ったのではないか、そう最近になって思うようになりました。これはカルトに限らずテロリストの話にもつながっていきますが、知らず知らずのうちに社会の中で囲い込みをすることが潜在的な危険を増やすとされ、こうした事態を防ぐために常日頃から社会の慣用性を強く持つよう構成員は自覚するべきというのが私の持論です。少なくとも、飲み会に出るか出ないかというくらいで付合いが悪い、悪くないといった評価をするのを日本人は止めるべきなんじゃないかと、酒が飲めない自分が代表して言っておきます。

2009年6月2日火曜日

加速する経済世界

 ここ二、三年の間のうちの親父の口癖に、こんなものがあります。
「昔は一つのビジネスモデルが三十年続いた。今は三年持てばいいほうだ」
 親父の言う通りボーっと消費者で居続けるとあまり気がつきませんが、この十数年間の経済変動は19世紀における百年間の変動よりも大きいのではないかと思うほどに変動が激しいと言われています。

 一例を上げると、今から十年前にあって今の日本にはほぼ全くといっていいほどになくなってしまったものとしてPHSがあります。
 大体95年くらいから携帯電話の電池技術が進んで個人用の電話を持つ日本人が増えていったのですが、その携帯電話市場は今の世代の中高生には信じられないかもしれませんが、同じ携帯電話でも現存の携帯電話よりPHSという電波などの仕様が異なっていた電話機の方がシェアが強く、また携帯電話会社でも当初はJ-PHONEといって、現ソフトバンクモバイルの前身となった会社が一番シェアを持っていました。

 このPHSは電波が弱いものの携帯電話より通話料や基本料金が割安ということで当初早く普及して行ったのですが、2000年に入る頃には携帯電話の通話料もどんどん安くなっていき、同じ値段なら機能も充実していることから徐々に乗り換えられていってしまった電話です。年代にして大体私より二学年くらい上の世代はまだこれを使ったことがありますが、私らの年代だとマセたクラスメートくらいしか使っていませんでした。逆に二学年下になるともはや見たこともないというほどで、実に短い間だけだったのだと今更ながら思います。

 そうしてPHSを携帯電話市場から追い出した現存の携帯電話も、当初はJ-PHONEが一番強かったのに97年頃にNTTドコモが「ⅰモード」を作り出すや一変し、一挙にシェアを奪い取られてしまいました。かと思った2000年初頭にauが洗練されたデザインと「着うた」を引っさげるやぐっと躍進したものの、今では「着うた」はどこの携帯電話会社でも標準装備となり、ドコモとソフトバンクがシェアを増やしてauだけが一人負けの様相を見せています。

 ここ十数年で一番めまぐるしい変動があったのはこの携帯電話市場ですが、ほかのいろんな日本の市場でもこれと似たようなめまぐるしく市場変動が起きています。それこそかつて勝者だった企業がそのすぐ後には敗者になっていることも最近では珍しくなく、うちの親父の言っている事もあながち間違ってはいないでしょう。
 では何故それほどまで経済世界の変動が激しいのか、その原因は言ってしまえば技術革新、サービス革命の速度が上がっているということに尽きるでしょう。

 それこそ昔であれば地元に店を開いて落ち着けばそこで十年以上は安定して営業できたものが、今では毎年何かしらのてこ入れやら店舗拡大を図らなければすぐに潰れてしまう、というような具合です。しかも現状の具合の悪いところは、潰れないためにてこ入れをしたからって必ずそれが効果を出すとは限らず、下手をしたら命取りにもなってしまうことです。
 これは逆を言えば、新規参入側はⅰ-podのように一気に大もうけできる可能性が広がったと見ることもできます。ですがあまりにも早すぎる変動では技術的、経済的には良くとも、その社会に住む人間にとってはかえって住みづらくはないんじゃないか、と言うのがこのところの私のマイブームです。

 確かに既得権益層がいつまでも何もせずに生活できるような世界は問題外ですが、人生死ぬまで努力し続けなければならない世の中もどんなものかということで、親父の言を借りるなら一つのビジネスが三年も持たない世の中というのは息苦しい気がします。
 じゃあ具体的にどうすればいいのかですが、私の案は一つは過剰なグローバル化にやや制限をかけて過剰な国際競争にブレーキをかけることだと思います。何も共産主義ほど徹底するのには反対ですが、人間の競争を野放しにするのはそれはそれで危険なことではないかと思い始めてきました。

2009年5月31日日曜日

罪悪感とは 後編

 前回の罪悪感についての記事の続きです。
 さて前回はまず罪悪感を人間が持つのは先天的か後天的かと触れ、仮に後天的に得られるのであれば悪事とされる行為の後の制裁に対する恐怖に近くなるが、罪悪感は制裁後も何かと気に悩んだり悔いたりする感情だからこれではちょっと違うんじゃないんじゃないかというところで話を終えました。そこで今日は罪悪感についていくつかの症例を紹介し、私の考える罪悪感の定義について解説しようと思います。

 ではその罪悪感の症例という奴ですが、エスパーみたいに察しのいい人とか文学好きな人ならもしかしたらピンと来ているかもしれませんが、あのロシアの文豪ドストエフスキーが最高傑作と呼び声の高い「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの話です。
 ラスコーリニコフは金がないために大学を休学せざるを得なかったのですが、彼がその追い詰められた状況を打開するために考えた行動というのが、誰からも嫌われている金貸しの老婆を殺害してお金を奪うということでした。彼は誰からも嫌われている人物を殺すのだし、そうして奪ったお金で優秀な学生である自分が大学を出て世に貢献するのだから何も悪びれることはないと決心してこの計画を実行します。しかしその際、金貸しの老婆だけでなくたまたま家に戻ってきた、こちらは嫌われていなかった老婆の妹まで殺してしまいます。

 よく解説などを読むとこの無関係な妹を殺したことがラスコーリニコフの後の苦悩へとつながったという解説が多いのですが、私が読んだ印象だとそこまで妹の殺害が影響したようにはあまり思えず、それよりも老婆を含めた殺人というそれ自体の事実が、自ら計画時に正当化しているにもかかわらず、その後彼を狂人かのように延々と思い悩ませる原因だったのではないかと感じました。
 とまぁ罪と罰のあらすじはそんな感じで、周到に正当化していたにもかかわらずラスコーリニコフは殺害後に悩み、そうまでして奪った金も手元には残さず半ば投げ捨てるかのように手放してしまい、会う人すべてに猜疑心を持ってはしっちゃかめっちゃかな行動を続けます。なおそんなラスコーリニコフにかなり早い段階で犯人だと目星をつけた刑事ポルフィーリィーとのやり取りは実に内容が鋭く、この作品の最大の見せ場となっております。

 このラスコーリニコフの思い悩むシーンに良く出てくる単語の一つに、ナポレオンという言葉があります。ラスコーリニコフはナポレオンがエジプト遠征から帰国する際に自分が引き連れてきた兵隊皆を置き去りにし、帰国するやクーデターを起こして最高権力者に就いた事実を引用しては、英雄は自らがどれだけ残酷で冷徹な行為を行ってもそれを全く意に介さない、しかるに自分はあの老婆の殺害でこれほどまで苦しめられるのだから英雄のような大人物ではなかったのか、というように自問自答をします。
 当時のヨーロッパでナポレオンという存在が知識人層に与えた影響は相当強かったと思わせられるエピソードですが、私は言ってしまえばここに一般の人間が持つ罪悪感という正体が隠されていると考えています。

 それがどれだけ後につながる行為だとしても、どれだけ正当だと言いわけできるような行為だとしても、犯罪とされる殺人や盗みという行為に対して人間は本能的に拒否する感情があるのではないかと私は思います。生物学によるとどの種族も基本的には自分の属する種の繁栄を遺伝子レベルで望むため、雌の奪い合いといった特殊な状況は除き、同種間で殺害が行われると行った生物は高いストレスを覚えるそうです。人間の場合は戦争といった他の種族とは大きく異なる形で殺人を行うことはありますが、私が知る限り少なくとも同部族、同文化間で殺人や盗みを奨励した社会はなく、遺伝子的な影響によるものだとしてもこうした意識こそが人間が先天的に持つ良心ではないかと考えています。

 つまりはその生まれ持った良心の延長に反する行為、当該社会内で犯罪とされる行為に対して深いストレスや自責の念を生じさせる罪悪感というのは、後天的にその範囲や効力が強化されることはあっても、根っこのところでは先天的なものが起因しているのではないかということです。
 逆を言えば先ほどのラスコーリニコフの考えるナポレオンのように、自らの行為に対して罪悪感のような呵責を覚えない人間というのはいい意味でも、悪い意味でも手に負えないところがあるように思えます。織田信長や曹操にもこうした面がありますが、講談の中でならいざ知らず、いざ身近にこんな人物がいたら厄介なことこの上ないでしょう。

 最後に宗教的な話をしますが、私の解釈だと他の宗教に比してキリスト教はこの罪悪感を強く打ち出して信仰をしているように見えます。まず最初にアダムとイヴが天界で罪を犯したせいで彼らの子孫である人間は下界に落とされてしまったので、この世に生きている間は必死に許しを乞いて神へ贖いをしなければならないというのがキリスト教の基本的な教えなのですが、やっぱり私が見ていると何か罪悪感というものを強く持ちなさいという様に言っているように感じます。私なんか子供の頃は今でこそ素で引くような滅茶苦茶なことばっかしていて、このキリスト教の教えに触れた際に一時は猛烈に罪悪感を感じて強く惹き込まれた経験があります。今ではキリスト教に対して強い敬意を抱くのに変わりはありませんがちょっと違うなぁと思うところも出てきて距離を置いていますが、そういった下地があるからこそこの罪悪感について強く思うところがあるのかもしれません。

2009年5月30日土曜日

私が尊敬する安藤百福氏について

 恐らく私と同世代の方にはあまりなじみがないかもしれませんが、数ある経営者の中で私が特に尊敬する人物として日清食品創業者の安藤百福(ももふく)氏がおります。安藤氏が一体どんな人物かというと、あの日清食品の創業者とあるのと同時に世界初のインスタントラーメンこと、「チキンラーメン」の発明者でもある人物であります。
 このチキンラーメンを初めとした即席麺は現在世界中のどこに行っても手に入れられるほどで、その利便性と味の多様さから日本だけでなく各国の人間に受け入れられています。特に麺食の多い中国のスーパーに行けばびっくりするくらいの多種類のカップ麺が並んでおり、その浸透振りにはさすがは中国と私も思ったほどでした。なお、日本式という名目で売られていたカップ麺はとんこつ味でした。

 それで安藤氏の経歴ですが、この方は戦前に日本統治下の台湾の生まれですが戦後も日本国内に留まって繊維業などといった事業を経営していたところ、ある日ひょんなことで事業がすってんてんになって自宅以外の財産すべてを没収される羽目となりました。その時すでに安藤氏は47歳で、普通ならこの年でこんな目に遭えば再起を期すなんて考える人はあまりいないと思うのですが、安藤氏はこの時から自宅の庭にあった小屋にて日夜即席麺の開発へと取り掛かったのです。

 そこでの実験と研究の試行錯誤の日々の末に、安藤氏はゆで上がった麺を一旦油で揚げる事により、お湯をかけるだけで元のゆで上がり時の麺に戻すせることを発見しました。このエピソードからもわかるとおりに、今これほどまでに一般化しているインスタントラーメンの技術は事実上、安藤氏一人によって発明されたものだったのです。
 安藤氏はこの発明を武器に再び事業を起こし、瞬く間にインスタントラーメンを日本で普及させて会社を大きくさせると、ラーメン文化がなかったためにどんぶりのないアメリカへ如何に進出するかと考え、紙コップに麺を入れてお湯をかけさせることをヒントにカップヌードルを誕生させるに至ったのです。

 私がこの安藤氏を何故尊敬するかといったら、やはり見事再起を果たした点に尽きます。しかもその再起のきっかけが自らの努力によって発明したインスタントラーメンで、その後もカップヌードルの発売や工場の製造ラインの工夫時のエピソードなど常に努力や知見を怠らず、年をとっても衰えを見せないその探究心と行動力には感嘆させられます。そして今、これだけインスタントラーメンが世界に普及しているのを見るにつけその影響力の大きさには一個人として深く頭が下がります。実際に2007年に安藤氏が死去した際には、海外の新聞でもその訃報を記事にした新聞が出たほどだったそうです

 そうした背景もあって、実は二年前に大阪府池田市にあるインスタントラーメン博物館に親父を引き連れて行ってきたことがあります。企業の博物館は大抵どこ行ってもそれなりに面白いのですが、この博物館では安藤氏が発明を行った小屋が再現されてたり、どのように販売が展開されたのかや、今どんな種類のインスタントラーメンがあるのかなどが展示されていて非常に面白い博物館で、機会があれば是非もう一度行ってみたいほどです。

 この博物館内ではどこかの海外の記事を引用して、インスタントラーメンが零戦やウォークマンを抑えて最も偉大な日本の発明だと書いてくれたというパネルが展示していましたが、実際にこれだけの普及度を見ると私もそんな気がします。特に麺食文化の強い中国では絶大でしたし、そうでない欧米にもこれだけ広めた点を考慮すると真に偉大な発明でしょう。
 私がこの博物館を訪れた時はまだ安藤氏が亡くなってから数ヶ月しか経っておらず、それだけになにか強い感傷を覚えながら展示物を見ていました。館内のシアターコーナーで発明の過程を説明する映像があるのですが、その最後に安藤の言葉として、常に発明や工夫への意欲を持ち続けるのだという内容の言葉が音声として流れた際、何かしんみりすると共に熱い思いが込みあがってきたのをまだはっきりと覚えております。

2009年5月29日金曜日

罪悪感とは 前編

 社会学でよく取り上げられる議論の一つに、「一体何が人の行動を規制するのか」というものがあります。これは言うなれば、「人間はやってはいけないといわれる行為を何故行わず、また何故それをやってはいけないと考えるのか」、という命題で、屁理屈好きの社会学連中にはたまらないのかあれやこれやと私も友人らと議論したことがあります。

 いくつか例を出すと、日本人にわかりやすい例としてルース・ベネディクトというアメリカ人が戦後直後の日本人を分析した著書の「菊と刀」にて、
「日本人は恥の文化である。我々欧米人が宗教的道徳によって秩序を維持するのに対して、日本人は周囲や世間の目を気にすることで自らの行為を規制する」
 と、日本人の行為規制の基準は世間体だと、アメリカ人以上に日本人の方が余計に納得してしまった分析を行っております。
 なおこのルースの分析をもう少し解説すると、欧米人は一般的にはキリスト教の教えを土台にして、自分の行動が自分が考える神に対して叶っているかどうかを判断することで秩序というか、やってはならない反社会的な行為を規制するという前提があります。これが本当かどうかはわかりませんが、欧米人が自己の中の神を気にするのに対して日本人は世間体を気にするというのは個人主義か集団主義かというような議論にもつながってくるので、基本前提として使うのならばなかなか使い勝手のいい考え方です。

 ここで今日の私のネタですが、最近ふとしたことからまた行為規制にについて色々考えていたら、ひょっとしたら罪悪感というのが人間の行為を規制する上で非常に重要なんじゃないかと思いつきました。先ほどのルースの議論でも、突き詰めて言えばこの罪悪感が影響するからこそ行為が規制されていくのではないかと考えたのです。
 そこで今日はちょっと、そもそも罪悪感とは一体なんなのかということを軸に話を進めて行こうと思います。

 まず単純に罪悪感とはなんなのかですが、簡単に言ってしまえば意図せずにお皿とかを割ってしまった際に「やってもうたΣ (゚Д゚;)」と思うような感情のことです。多分正常な人間なら誰しもが持っているであろう感情ですが、私が最初に疑問に思ったのはこれが先天的に人間が備えている感情なのか、それとも後天的に訓練されて得る感情なのかどうかです。
 なので早速何人かの友人に罪悪感は先天的か後天的かと聞きまわってみましたが、ほぼ全員が即答で後天的だと回答しました。というのも幼児の段階ではやっていいことと悪いことの区別が付かず、呵責なく物を壊したり入ってはいけない所にも行ってしまうが、年齢が進むと、「悪いことやってるんじゃないかな(´Д`)」と思うようになってそういった行為が減っていくから、というような説明が大半でした。

 もちろん私だって子供の頃はよくあんなことを平気でしたもんだと思えるような経験があり、この説明にも納得できないわけじゃないのですが、攻殻機動隊風に言うのなら「私のゴーストが囁くのよ」という具合になんかこれだとしっくりこず、本当に後天的なのかどうか私なりにあれこれ考えてみました。
 まず仮に後天的だとすれば、どのようにして罪悪感が訓練されていくのかを考えました。真っ先に浮かんできたのは動物のしつけではありませんが、悪事とされる行為の後の制裁です。それこそ子供であれば悪戯をした後に拳骨やケツ叩きを受けることによって徐々に悪いことをしたら制裁があるということを理解していき、成人になる頃には直接的に経験してはいない犯罪行為に対してすらも行為後には刑罰という制裁が待っている事が予想できるようになって、そうした世間なり自分なりが反社会的だと思う行為を行わなくなると考えられるでしょう。この説明だと行為後の制裁が罪悪感を育て、なおかつ制裁それ自体の恐怖感を罪悪感と言い換えることが出来ます。

 仮にもしこれで行為前にのみ罪悪感を覚えるのなら私も素直に納得しますが、多分私だけじゃなく、人間は行為後、それも制裁が済んだ後にも深い罪悪感を持ち続けることがあると思います。それこそふとしたことで数年前にやってしまった自らの大失敗を思い出したり他人に掘り返されたりすると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。また過去にしでかしてしまった行為をいつまでも後悔し、現在の生活にまで影響を及ばせてしまうというストーリーは昔から今に至るまで王道とされて様々な文物で描かれるほどです。表現的には、罪悪感にさい悩まされるといったところでしょうか。

 単純に罪悪感が行為直後に覚える制裁に対する恐怖であれば、制裁が済んだ後や一定の時間の経過後も影響するというのではちょっと違うもののように思えます。もちろん罪悪感それ自体が制裁に対する恐怖ではなくとも制裁という訓練を経て身につけるもので、後々にまで二度とそのような行為を起こさせまいと喚起させる感情だと解釈することも出来ます。ただもうすこし色々掘り下げていけば他にもなにか色々見つかりそうなので、続きはまた次回にて私の考えや参考になる症例を紹介します。

 なお先に結論というか私の考えを言っておくと、多分私がロマンチストであるがゆえにやっぱり罪悪感というのは、全部が全部そうだとは言いませんが人間が生まれた頃から持っている先天的な要素もあるんじゃないかと考えています。

2009年5月28日木曜日

企業の栄枯盛衰について

 あまり日本では大きく報道されていませんが、アメリカの方ではこの前クライスラーが破産申請に至ったのに続き、ビッグスリーのもう一角のGMもまたそういった流れになっていくことが段々と確実視されてきました。当初は投資家や銀行の債務を一部帳消しした上での再建を目指してきていたのですが、結局CDSでの保証を得た方が取り分は大きいと見た投資家らが合意しなかったことが今回の流れを強めたといわれています。
 もっとも投資家らの言い分の中には、「自分たちには債務を一部放棄せよといいながら、労組には何の手をつけていない」、といものもあり、私自身もこの点を考えると一概に投資家だけを非難するのは不適当に思えます。

 というのもGMの労働組合員への対策はあまりにも度が過ぎているというべきか、従業員へのあまりの厚待遇が経営を圧迫したということに理解できるからです。一昨日もNHKこの点が報道されていましたが、55歳でGMを退職したあるアメリカ人男性は、その後十年も経った現在に至るまでGMから毎月日本円にして約20万円もの年金をもらい続けているそうです。彼はこうした厚待遇が従業員のやる気を引き出しているのだといいますが、それだけの額を毎月、いくら元従業員だからといって働いてもいない人間に払い続けるのは如何なものかと呆れさせられましたし、そんな出費をしておいて今更経営が悪くなったから投資金を放棄してくれというのも確かに納得できる話ではありません。
 今回の破産申請に至った経緯に、こうした元従業員や現在の従業員に対するあまりの厚待遇を一部削減することが視野に入れられて議論されていたものの、GMの労組が一切妥協しなかったことも影響したと言われています。

 しかしこうした事実はあながち対岸の火ではないんじゃないかと私は思います。私が知っている例だと朝日新聞社がこれに似ており、なんでも朝日新聞社の元従業員は国からの年金に加えて朝日新聞社からも退職後に毎月年金が振り込まれ、しかもその奥さんの分まで支払われているというのですからさすがは天下の朝日と言ったところでしょうか。
 その朝日も前期の決算では赤字を出し、また今後人口が減るばかりか新聞の購読者数の現象も歯止めがかかっておらず、もしかしたら十年後にはGMの労組のことを書いている場合じゃなくなるかもしれません。

 おごれるもの久しからずとは言いますが、今の時代にトップクラスの企業が十年後はどうなっているかは全くわからず、バブル期にあれだけ強かった不動産や鉄道関係も今ではどこも苦しい経営を迫られており、ありきたりな言葉ですが大企業に入ればもう安心というのは甘い考えだと言わざるを得ません。
 なんか今日はやる気が湧かないので、この辺で終えます。

2009年5月27日水曜日

がっかりしたゲームの続編(-_- )

 今日は久々にゲームの話です。
 さてファミコンの誕生から既に三十年近く経っており、いわゆるシリーズ物と言われるような連続作のゲームもこれまでにもたくさん生まれてきています。しかしそうしたシリーズ物は毎回ヒットを飛ばすようなドラゴンクエストシリーズのようなゴールデンタイトルもある一方、前作が高く評価されたにもかかわらず次回作はめっきり売れなかったり、その後のシリーズが打ち止めになるほど散々な結果に終わった続編もたくさんありました。今日はそんな中、実際に私がやってみてがっかりしたゲームの続編を一部紹介しようと思います。

1、パラサイト・イヴ2(スクウェア)
 今日の記事を書くきっかけになったソフトです。前作「パラサイト・イヴ」はスクウェアが文字通り全盛期の頃に発売されたこともあって非常に好調な売り上げを残し、ゲーム内容も当時としては最高峰なまでに美麗なCGに加え、瀬名秀明氏の「パラサイト・イヴ」を原型にしたいい具合のストーリーが展開されており、主人公のアヤ・ブレア(巨乳)が病気なんじゃないかと思うくらい足が遅かったのを除けば完成度の高いゲームでした。
 しかし次回作に当たるこの「パラサイト・イヴ2」は前作からゲームシステムが根本的に改められ、アクションRPGとはいえRPGの要素が強かった前作に対し、今作は今で言うならFPSこと完全なアクションゲームになっていてもはやゲームとしては別物と言っていいほどでした。その上、荒削りとはいえ色々と深く掘り下げらる要素の多かった前作のシナリオと今作は関係性が非常に薄く、主人公が同じアヤ・ブレアであるのと、申し訳程度に「前田弾」が出てくるくらいしかつながりがなく、そうまでして新しく作ったシナリオは言っちゃ悪いですがB級ホラー映画程度のくだらない内容で、黒幕はよくあるアメリカ大統領で終わっちゃったし。
 なんか今度PSPでこれの続編を出すそうですが、さすがにこれだけ期間が空いてりゃリメイクでもない限り続編もクソもないでしょう。第一作目は私ものめりこんだ分、非常に不遇なシリーズだったと思うだけに、2であれだけひっくりかえすなら初めから別シリーズのゲームとして出しとけばよかったのに。

2、ファイナルファンタジー8(スクウェア)
 多分、ゲームシリーズにおける駄作と来たらどこで票をとってもこれが出てくるでしょう。ドラクエシリーズと並ぶゲーム界の金字塔のファイナルファンタジーシリーズの一つで、前作の7はサターンとプレイステーションのハード争いに決着をつけた、いわば関が原における小早川秀秋のような役割を演じたのを考えると、なんかその後の運命も同じようになったような今作でした。
 細かい点はいちいち挙げませんが、何故今作がここまで低い評価に至ったのはユーザーニーズの履き違えにあったからではないかと思います。自分を含めた当時の小中高生であったユーザーたちはRPGに対して洗練されたストーリーを求めていたのに対し、当時のスクウェアはひたすらにCGをきれいに作ることに執心し、挙句にはRPGに求められるものとして根本的なレベル上げの概念を引っくり返した(今作は一切上げる必要がない)のが失敗の原因だと思います。これは上の「パラサイト・イヴ2」にも言える事です。

3、信長の野望将星録(光栄)
 これは私と友人くらいかもしれませんが、この「信長の野望シリーズ」で最も裏切られたと思ったのがこの「将星録」でした。私はこれの二作前の「覇王伝」からプレイし、その次の「天翔期」は今でもやるくらい大いにハマり、この「将星録」もそういった流れでやってみたのですが、システムが前二作と打って変わってそれまで国単位だったマップがボーダレス化し、内政とかコマンド内容が全然変わっていて結局なじめないまま遊ばなくなり、その後信長の野望シリーズから手を引く一作となってしまいました。
 これは光栄以外の歴史シュミレーションゲームにも言えることですが、私はあくまでもゲームなのだから、あまりにも現実や原作、歴史に忠実すぎるとかえってこの手のものはつまらなくなると思います。たとえばリアルタイム制の歴史シュミレーションもやったことがありますが、やっぱりやった感じだとターン制の方が面白かった気がします。まぁそのターン制の盲点を突いて延々と敵を挑発し続けて時間切れにし、追い返したりしたのには目をつぶってほしいけど。

4、真・三国無双3(KOEI)
 これについては前にも言及しましたが、前作の2があまりにも完成しすぎたが故の失敗作でしょう。言ってしまえば前作の段階でこのシリーズは完成してしまい、システム的にはもういじらない方が良かったにもかかわらず新作ということでいろいろ取ってつけたのですが、私の目からしてどれも余計な蛇足にしかなっていなかったように思えます。実際に今作の次回作に当たる4では、3で新たに追加された「一騎打ち」、「武器経験値制」、「ライバル武将」といったシステムがどれも全く余燼を残さずなくなっていたので、相当数のユーザーが不満を持って非難が来ていたのだと思います。ついでに言うと、必死で後戻りをしようとした4もゲームバランスをやや欠いており、2の方がまだ楽しめた気がします。

5、グローランサー2(アトラス)
 なんか最近、これの前作の「グローランサー」がPS2でリメイクされたそうですが、前作は文句なしに名作で、セーブ時期がわからなくなるほど隙間ないほどイベントが連続していながらもゲームバランスを崩しておらず、キャラデザは人を選ぶもののシナリオもいい内容でした。しかしこれが2になると、確かに世界観やキャラクターは前作を引き継いでいて、ゲームシステムも改変があるもののきちんと受け継ぐべきところは受け継いでいるのですが、いかんせんシナリオがくだらなかった上にプレイ時間が短過ぎ、大体10時間もあればクリアできてしまう内容ゆえに私も「金返せ」と思うほどでした。もっとも、この2のすぐ後に出た3では2の問題点をほぼすべて改良しており、シナリオも2とはつながりがないものの、今時これほど王道のRPGがあっただろうかと思わせるほどポイントを外していない名作なので、やったことのない人には是非お勧めです。私の友人なんか、寝ずに遊んだほどだったし。

6、真・女神転生2(アトラス)
 ただでさえゲームバランスが明らかにおかしい女神転生シリーズですが、今作はその中でも際立って崩れたシステムの上に、プレイ途中でゲームが止まってしまうバグが非常に多い問題作でした。こうしたクセの強さがこのシリーズの熱狂的なファンを生んでいるのはわかるものの、そうした熱狂的なファンを作る一方で圧倒的大多数のライトユーザーも振りこぼしているのではないかと常々私は思っていたのですが、他のシリーズ作と比べてややマイルドな出来で出した「ペルソナ3」がヒットしたのを見ると、やっぱりそうだったんじゃないかなぁと思います。

7、ペルソナ2 罪&罰(アトラス)
 アトラスが三つも並んでしまいましたが、私個人的には今までに一番裏切られたと思う続編というのがこのペルソナ2でした。この前リメイクされた前作の「女神異聞録ペルソナ」はいつもどおりにゲームバランスは明らかにとち狂っていたものの、秀逸なシナリオに悪魔との交渉システムは非常に面白く、次回作の今作が出た時は我先にと購入しましたが、内容は私からするとひどい出来でした。
 まず前作でよかった悪魔との交渉システムですが、前作がパーティキャラの中から一人選んで交渉するのに対して今作は中には二人、三人といった掛け合いの交渉もすることが出来て選択の幅が広がったかと思いきや、私的にはただ面倒くささが増しただけでした。更に悪魔の合体システムも変わったので前作より明らかに悪魔と交渉する回数が増えただけでなく、ザコ敵との戦闘時間も前も長かったがまた長くなり、その一方で途中にいるボスがなかなか強いもんだからレベル上げの必要が高まるなどまさに負の連鎖でした。

 そして明らかにとち狂ったゲームバランスながらそれを忘れさせるほどの秀逸なシナリオだった前作に対し、今作のシナリオはなんかどうでもいいような、やってて疲れるようなシナリオでした。しかもこのゲーム、タイトルに書いてあるように「罪」と「罰」の二本立てで、同じシステム、同じキャラ、同じ世界観で、一つのシナリオが連続こそしているもののわざわざ二つに分けた理由がわからないほどくだらないシナリオでした。さらに今作が大いに売りにしていてゲームのシナリオにも密接に関わってくる、流した噂が現実になる「噂システム」も、なんというか武器屋の売り物が変わるくらいでそれほど流す噂に選択肢がなく、ただ聞いた噂を右から左に流すだけのどうでもいいシステムでした。もっと噂によってはシナリオが大きく分岐するくらいだったら評価できたのですが。

 さらにひどかったのがキャスティングで、主人公はこのシリーズの伝統とも言うべきクール形の高校生の男の子(美形)なのですが声優はなんと子安武人氏で、別に子安氏が悪いわけじゃないのですがあまりにも渋すぎる声と見た目のギャップで、「お前、絶対高校生じゃないだろ」と突っ込まざるを得ない妙なキャスティングでした。そしてそんな主人公の見た目も、それまでどことなくエキゾチックで深みのあるイラストでアトラスの看板イラストレーターだった金子一馬氏ですが、どうもこの頃から作風が変わり、うちの姉曰く、「なんかペンキでベタ塗りしたかのような色合い」とまで言われるほど変わってしまい、私としてもあまり評価できなくなっていました。
 悪魔の絵ならともかく、もうこ金子氏はキャラクターの原画は向かないんじゃないかとこのペルソナ2で思う一方、メインキャラクターはともかくサブキャラクターらは妙に写実的で個性も強く、ぐっと引き込まれる絵だったのでたまたま一部のキャラだけこうなったのかと考えていたのですが、後で調べてみるとメインキャラだけを金子氏が、サブキャラクターを副島成記氏が描いていたのだと後でわかり、次回作のペルソナ3ではキャラ原画をすべて副島氏が担当したということを聞いて大いに納得しました。

 なんか、予想したよりえらい長くなってしまったな……。