大分日が開いたこの留学記ですが、久しぶりの今日は留学中の私の一日の生活を時系列で紹介します。見る人が見ればどんだけ怠けているんだと思うような生活リズムですが、言い訳をするとこんな風に生活しているのは決して私だけじゃありませんから。
午前七時五十分 起床、食事、洗顔後に学校へ
午前八時半 授業開始
午後十二時半 授業終了。食堂で昼食
午後一時 寮に帰宅。NHKニュースを一応チェック
午後二時 昼寝開始
午後四時 起床
午後四時半 運動をしにグラウンドへ
午後五時 運動後、食堂で夕食
午後五時半 インターネットで情報収集、もしくは宿題をやる
午後七時 自分のパソコンでゲームをやり始める
午後九時 NHKニュースを見る
午後十時 再びゲーム
午後十一時 就寝
多少の違いがあれども、ほぼこれが毎日の生活リズムでした。
違いがあるとしたら相撲場所のある期間で、その場所中は昼寝を早めに切り上げて三時から五時まで取組(時差の関係で日本の放映より一時間早い)を見ていましたが、その期間外はほぼ全くこういう風な生活で過ごしていました。
ただこうした授業のある期間は午前中に教室行くからまだよかったものの、これが冬休みの期間になるとさらにとんでもありませんでした。
冬休み中は大体午前の十時辺りに起きて、ネットして、昼飯食って昼寝して、午後は平日と一緒という、我ながらいやになるくらいだらだら過ごしていました。最初の方はまぁ冬休みだからとあまり気にしませんでしたが、時が減るにつれてだんだんとやることがなくなって暇過ぎて苦痛となっていきました。
本当にどうしようもないくらい暇だったので、唯一の娯楽であったインターネットでなんとか気を紛らわそうとしていましたがそれでも限界を覚えるほどでした。しかも運の悪いことに、私がよく利用するネット百科事典サイトの「ウィキペディア」が私が留学をしていた時期に中国全土でアクセスが禁止されており、暇つぶしにと閲覧することが出来ませんでした。このアクセス禁止期間は大体2005年10月から始まって2006年10月に解除されましたが、何故この時期に中国政府がアクセスを禁止したのかその理由は未だに謎です。
自分の推論を一つここで書くと、恐らく天安門事件といった、中国政府にとってあまり公にしたくない歴史の記事が中国語版で掲載されたのではないかと思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年8月29日土曜日
2009年8月28日金曜日
今回の選挙を振り返って
現在行われている衆議院総選挙も明後日の投票日を迎えることで終了するので、今日は今回の選挙で私が感じた各党の戦略や国民の反応をまとめようかと思います。
まず今回の選挙で最も特徴的だったといえるのが戦後最長となった四十日間にも及ぶ選挙期間です。八月の間に大勢が帰省するお盆を挟む事から多少は仕方のない日程ではあったものの、こうして選挙日程が消化してみるとやっぱり随分と長かったように私も感じます。このブログでも、一体何度選挙関係の記事を書いた事やら。
この長い選挙期間は先ほどに言ったお盆を挟むという日程上の原因もさることながら、私はやはり解散と選挙日を決めた自民党上層部の戦略もあって決定されたものだと見ております。恐らく自民党幹部らはサミットも終わったために早く解散をしなければ国民からの批判が日増しに強くなっていくものの、当時の低い支持率では迂闊に選挙が出来ないと踏んで、選挙期間を長く持つことで期間中に逆転を狙っていたのではないかと私は考えております。
仮にこの戦略を自民党が持っていたとしたら、結論から言えばその目論見は少なくとも成功するには至らなかったことになります。内閣、政党支持率はこの選挙期間中にいろんなところがそれこそ毎週のように調査、公表しておりましたが、私の見たところどれも大きな変動は示さず、七月の解散時点からいえば無支持の層が投票態度を固めて自民、民主それぞれの政党支持率がわずかに上昇したに過ぎませんでした。
では自民党は選挙運動で民主に対して逆転しようとしたのかですが、はっきり言って非常にお粗末な手法ともいえるネガティブキャンペーンを取ってしまったのが大きな失敗だったと私は見ています。これについては私も以前の記事で取り上げましたが、明らかに民主党代表の鳩山由紀夫氏に似せたキャラクターを使った動画を作ったり、街中の演説でも選挙後に自民党が行おうといる自党の政策説明以上に民主党への批判ばかりをしていたように思えます。
前にも書きましたが日本人は国民性ゆえか、このネガティブキャンペーンが広告として成功した例はほとんどありません。こうした選挙活動をするくらいなら自民党は、初めにやっていたように麻生首相がしおらしくお詫び行脚をしていた方がまだ被害を最小限に食い止められたのではないかと思います。最近はなんだか、このお詫びも全くしなくなったそうですけど。
それに対して民主党はどうだったかというと、もちろん自民党のこれまでの定額給付金などといった失政批判もやっていましたが、それ以上にワンフレーズポリティクスこと、「政権交代」をひたすら何度も連呼する作戦で選挙活動を行っていたように思えます。今のような表現を使えば恐らく分る思いますがこの手法は小泉元首相が郵政選挙でひたすら「郵政民営化」を叫んだ手法と全く一緒で、小泉元首相もその点を理解しているのかこの前地方の演説会において今回の選挙における民主党の選挙運動方法を誉めておりました。多少皮肉が混ざっているでしょうが。
そういった各党の選挙方法を見ている国民はどうだったかというと、私の見方ではあまり何にも影響されなかったのではないかと思います。これは言い換えるなら、七月の解散時点からほとんど国民の投票意思は変わらなかったのではないかということです。こう考えるのも先ほども言ったとおり、政党支持率は解散以降はほとんど変動せず、またテレビのインタビューに答える市民もどことなくこの選挙戦に冷めているように見えたからです。
何故そのように国民は今回の選挙に対して冷めているかというと、一つに両党の提唱している政策双方に期待していないからだと思います。民主党の政策は実現できたらありがたいけど財源の確保がないとわかっており、対するその民主党の財源問題を指摘して批判する自民党もあまり自分たちの具体的な政策の説明はしない。しかも両党ともに選挙後に取ろうとする政策はどっちもほとんど同じバラマキ政策で、政策における対立点がほとんど見えず明確な比較が出来なかったのも強かったと思います。仮に自民党が選挙前に議論になったように、国会議員の世襲禁止といった目立つ独自の政策案を盛り込んでいたらこの辺はまだ違っていたでしょう。
そうなるとどんな点を見て国民は投票先を決めたのかといえば、減点法というべきか、これまでそれぞれの政党がどれだけ失態をかましてきたかで判断したと思います。民主党側は私はそれほど問題だとは思っていないものの小沢前代表の西松建設献金問題と逆にこっちは私も問題視している鳩山現代表の故人献金疑惑、それに対して自民党はすでに三人も首相が中途で交代している上に中川元財務省の泥酔会見、相次ぐ首相の失言、なかなか選挙に移らない態度の曖昧さなどが主な減点の対象でしょう。こうした減点対象の中身と多さから、消去法的に民主党への支持が選挙前に固まったままこの四十日間が過ぎたというのが私の今回の選挙の見方です。
私は明日にでも期日前投票をするつもりですが、同じ毒ならまだ飲んだことのない毒を飲みたいので民主党に小選挙区も比例も入れるつもりです。本当は何度か講演会にも行ったことのある地元の自民党候補に小選挙区は投票しようかと思っていたのですが、五月に「よかったら選挙をボランティアで手伝うよ」と言って「助かる」という返事も受け取っていたたのに見事に無視されたので、小選挙区でも今回は民主党に入れることにしました。
まず今回の選挙で最も特徴的だったといえるのが戦後最長となった四十日間にも及ぶ選挙期間です。八月の間に大勢が帰省するお盆を挟む事から多少は仕方のない日程ではあったものの、こうして選挙日程が消化してみるとやっぱり随分と長かったように私も感じます。このブログでも、一体何度選挙関係の記事を書いた事やら。
この長い選挙期間は先ほどに言ったお盆を挟むという日程上の原因もさることながら、私はやはり解散と選挙日を決めた自民党上層部の戦略もあって決定されたものだと見ております。恐らく自民党幹部らはサミットも終わったために早く解散をしなければ国民からの批判が日増しに強くなっていくものの、当時の低い支持率では迂闊に選挙が出来ないと踏んで、選挙期間を長く持つことで期間中に逆転を狙っていたのではないかと私は考えております。
仮にこの戦略を自民党が持っていたとしたら、結論から言えばその目論見は少なくとも成功するには至らなかったことになります。内閣、政党支持率はこの選挙期間中にいろんなところがそれこそ毎週のように調査、公表しておりましたが、私の見たところどれも大きな変動は示さず、七月の解散時点からいえば無支持の層が投票態度を固めて自民、民主それぞれの政党支持率がわずかに上昇したに過ぎませんでした。
では自民党は選挙運動で民主に対して逆転しようとしたのかですが、はっきり言って非常にお粗末な手法ともいえるネガティブキャンペーンを取ってしまったのが大きな失敗だったと私は見ています。これについては私も以前の記事で取り上げましたが、明らかに民主党代表の鳩山由紀夫氏に似せたキャラクターを使った動画を作ったり、街中の演説でも選挙後に自民党が行おうといる自党の政策説明以上に民主党への批判ばかりをしていたように思えます。
前にも書きましたが日本人は国民性ゆえか、このネガティブキャンペーンが広告として成功した例はほとんどありません。こうした選挙活動をするくらいなら自民党は、初めにやっていたように麻生首相がしおらしくお詫び行脚をしていた方がまだ被害を最小限に食い止められたのではないかと思います。最近はなんだか、このお詫びも全くしなくなったそうですけど。
それに対して民主党はどうだったかというと、もちろん自民党のこれまでの定額給付金などといった失政批判もやっていましたが、それ以上にワンフレーズポリティクスこと、「政権交代」をひたすら何度も連呼する作戦で選挙活動を行っていたように思えます。今のような表現を使えば恐らく分る思いますがこの手法は小泉元首相が郵政選挙でひたすら「郵政民営化」を叫んだ手法と全く一緒で、小泉元首相もその点を理解しているのかこの前地方の演説会において今回の選挙における民主党の選挙運動方法を誉めておりました。多少皮肉が混ざっているでしょうが。
そういった各党の選挙方法を見ている国民はどうだったかというと、私の見方ではあまり何にも影響されなかったのではないかと思います。これは言い換えるなら、七月の解散時点からほとんど国民の投票意思は変わらなかったのではないかということです。こう考えるのも先ほども言ったとおり、政党支持率は解散以降はほとんど変動せず、またテレビのインタビューに答える市民もどことなくこの選挙戦に冷めているように見えたからです。
何故そのように国民は今回の選挙に対して冷めているかというと、一つに両党の提唱している政策双方に期待していないからだと思います。民主党の政策は実現できたらありがたいけど財源の確保がないとわかっており、対するその民主党の財源問題を指摘して批判する自民党もあまり自分たちの具体的な政策の説明はしない。しかも両党ともに選挙後に取ろうとする政策はどっちもほとんど同じバラマキ政策で、政策における対立点がほとんど見えず明確な比較が出来なかったのも強かったと思います。仮に自民党が選挙前に議論になったように、国会議員の世襲禁止といった目立つ独自の政策案を盛り込んでいたらこの辺はまだ違っていたでしょう。
そうなるとどんな点を見て国民は投票先を決めたのかといえば、減点法というべきか、これまでそれぞれの政党がどれだけ失態をかましてきたかで判断したと思います。民主党側は私はそれほど問題だとは思っていないものの小沢前代表の西松建設献金問題と逆にこっちは私も問題視している鳩山現代表の故人献金疑惑、それに対して自民党はすでに三人も首相が中途で交代している上に中川元財務省の泥酔会見、相次ぐ首相の失言、なかなか選挙に移らない態度の曖昧さなどが主な減点の対象でしょう。こうした減点対象の中身と多さから、消去法的に民主党への支持が選挙前に固まったままこの四十日間が過ぎたというのが私の今回の選挙の見方です。
私は明日にでも期日前投票をするつもりですが、同じ毒ならまだ飲んだことのない毒を飲みたいので民主党に小選挙区も比例も入れるつもりです。本当は何度か講演会にも行ったことのある地元の自民党候補に小選挙区は投票しようかと思っていたのですが、五月に「よかったら選挙をボランティアで手伝うよ」と言って「助かる」という返事も受け取っていたたのに見事に無視されたので、小選挙区でも今回は民主党に入れることにしました。
2009年8月27日木曜日
敬語の使われ方
かなり昔にこのブログで書きましたが、基本的に私は現代国語の敬語表現を非常に嫌っています。というのも最近はあまり聞きませんが、マクドナルドの「一万円、入ります!」など、本来の用法から大きく外れて心情や感情を遠くに置いた形式ばった表現ばかりが今の敬語の中にはよく見受けられるからです。
実際にこの状況についてはプロの方も問題視しているらしく、この前に読んだ外国人のための日本語学校講師のエッセイによると、敬語表現を母国語の日本人として外人に教えている一方、街中に出てみると誤った用法がさも当然かのように使われているのを見るにつけて果たしてどんなものかと思ったそうです。ちなみにその回のオチでは、最近バイトを始めたという生徒の中国人に宿題の用紙を渡したところ、「ハイ、喜んで!」と返事されて、どこにバイトしているのかが一発でわかったそうです。
そんな敬語ですが、嫌っているとはいえ私も昔のヤンキーみたく何にでも反抗してたらとても社会生活を送れないので、日常生活の中では一応は妥協して目上の人には対して使っています。ただそうして私が敬語を使う際、こういうのもなんですが相手によって同じ敬語でも自然と口から出てくる相手と意識しないと出てこない相手の二つに別れてしまいます。その両者を分けるのは何かというと、こういえば元も子もないですがやっぱり人柄です。
やはり自分が尊敬する、信頼している相手に対しては全く意識しなくとも自然と敬語が口から次から次へと出てくるのに対し、立場上相手が目上だとしても横柄な態度を取ってたり普段の行動があまり信用できない相手だと意識しないと敬語で話すことが出来ません。その一方、そういう相手には、「何やねん、ボケ!」という言葉はよく出掛かるのですが。
別に自分がそういう相手に敬語を使いたくないからというわけではありませんが、私は基本的に敬語というのは相手に強制させて使わせるものではないと思います。もし自分に対してその相手に敬語を使わせたいのであれば、自分が相手の尊敬の対象になるように振舞うべきであって、「言葉遣いが悪い」などと言って相手の揚げ足を取るのは以ての外でしょう。
如何にして敬語が使われる人間になるか、重箱の隅をつつくようなマナーにこだわるくらいならもう少しこの辺を日本人は考えるべきじゃないでしょうか。
実際にこの状況についてはプロの方も問題視しているらしく、この前に読んだ外国人のための日本語学校講師のエッセイによると、敬語表現を母国語の日本人として外人に教えている一方、街中に出てみると誤った用法がさも当然かのように使われているのを見るにつけて果たしてどんなものかと思ったそうです。ちなみにその回のオチでは、最近バイトを始めたという生徒の中国人に宿題の用紙を渡したところ、「ハイ、喜んで!」と返事されて、どこにバイトしているのかが一発でわかったそうです。
そんな敬語ですが、嫌っているとはいえ私も昔のヤンキーみたく何にでも反抗してたらとても社会生活を送れないので、日常生活の中では一応は妥協して目上の人には対して使っています。ただそうして私が敬語を使う際、こういうのもなんですが相手によって同じ敬語でも自然と口から出てくる相手と意識しないと出てこない相手の二つに別れてしまいます。その両者を分けるのは何かというと、こういえば元も子もないですがやっぱり人柄です。
やはり自分が尊敬する、信頼している相手に対しては全く意識しなくとも自然と敬語が口から次から次へと出てくるのに対し、立場上相手が目上だとしても横柄な態度を取ってたり普段の行動があまり信用できない相手だと意識しないと敬語で話すことが出来ません。その一方、そういう相手には、「何やねん、ボケ!」という言葉はよく出掛かるのですが。
別に自分がそういう相手に敬語を使いたくないからというわけではありませんが、私は基本的に敬語というのは相手に強制させて使わせるものではないと思います。もし自分に対してその相手に敬語を使わせたいのであれば、自分が相手の尊敬の対象になるように振舞うべきであって、「言葉遣いが悪い」などと言って相手の揚げ足を取るのは以ての外でしょう。
如何にして敬語が使われる人間になるか、重箱の隅をつつくようなマナーにこだわるくらいならもう少しこの辺を日本人は考えるべきじゃないでしょうか。
2009年8月26日水曜日
猛将列伝~畠山重忠~
・畠山重忠(ウィキペディア)
今日はそこそこ歴史を勉強していても意外と知られていない、平安末期から鎌倉初期に活躍した日本の武将の畠山重忠を紹介します。
恐らく大学受験で日本史を勉強された方は「畠山重忠の乱」という事件名だけは暗記されているかもしれません。日本史の教科書にはこの事件を、源頼朝が死去するや成立したばかりの鎌倉幕府では次々と御家人の反乱が相次ぎ、その反乱の中一つとして紹介されております。
これだけ聞くと畠山重忠という人物は野心的な人物のように見えますが、いくつか異説はありますが歴史の中の彼はこのイメージとは違う、というよりも程遠いまでに清廉潔白な武将像の人物です。
畠山重忠の名が始めて歴史に現れるのは、源頼朝の挙兵時です。1180年、以仁王の令旨を受けて源頼朝は打倒平氏の旗を掲げて挙兵をするのですが、この時は平氏からすぐに討伐軍がすぐ差し向けられた上に思ってた以上に呼応する武士が少なく、頼朝も一時は数人で雲隠れする羽目になりました。この失敗に終わった挙兵初期、頼朝方についた有力武士団の頭領の三浦氏を平氏の指示で討伐を行い、三浦氏の援助を当てにしていた頼朝を窮地に陥れたのが他でもなくこの畠山重忠でした。
その後頼朝が危機を脱した後、頼朝の元へ徐々に武士団が参集していたところで重忠も馳せ参じてきました。頼朝としては味方であった有力武士団の三浦一族を滅ぼした重忠に複雑な思いがあったでしょうが、それ以上に腰を抜かしたであろうが重忠のこの時の年齢でしょう。なんとこの時の重忠はわずか17歳で、本来の畠山家の当主である彼の父が京都に在任中であったために代理として率いていたに過ぎなかったのです。それにもかかわらず関東において名の知られた三浦一族を打ち倒し、堂々と頼朝の元へと帰参して来たのです。
もちろん頼朝は重忠に三浦一族の件を詰問したのですがそれに対し重忠は、当時は平家方の討伐軍がいた為に帰参が難しく、また本来の当主である彼の父が京都にいた為にやむにやまれず平家方についたと、臆することなく堂々と答え、これを受けて頼朝も重忠の帰参を認めるに至りました。
こうして源氏方についた重忠はその後の源平合戦において、目覚しいばかりの活躍を見せ続けます。基本的には源義経の下で槍働きを行うのですが、木曾義仲との宇治川の合戦では徒歩での一番槍を得ており、圧巻なのは平家との一ノ谷の戦いにおける鵯越(ひよどりごえ)でしょう。この鵯越は崖下の平家軍を急襲するために義経が先陣を切って騎馬に乗ったまま崖を下って攻め勝ったというエピソードですが、重忠の馬はこのときに崖にビビってなかなか降りようとしなかったそうです。それならばと重忠が取った行動というのは、なんとビビる馬を自らが担ぎ上げてそのまま自分で崖を飛び降りて行ったそうです。正直なところ、無理せずに馬を置いていけばいいのにと思わせられたエピソードです。
このエピソードのように剛力な重忠は一見すると武辺者な印象を覚えますが、文化的な素養も優れていたらしく義経の妻の静御前が頼朝の前で舞を疲労させられた際に伴奏を務めており、音楽にも造詣が深かったようです。
その後鎌倉幕府が成立すると創業の功臣として、また幕府内における重鎮として奥州藤原氏との戦いから各地の反乱鎮圧に参加し、公平な人柄と態度から名実ともに「武士の鑑」として周囲から高く評価されたそうです。
そんな重忠の人柄をうかがわせるエピソードに、こんなものがあります。
鎌倉幕府がある反乱を鎮めた際、反乱に参加した武士の首級を重忠の御家人が挙げたということで執権の北条時政らの前でその首級を差し出したところ、鎌倉時代最強のチクリ魔で有名な梶原景時が、
「待て待て、その首級はうちの御家人が挙げたところを横取りされたものだ」
という異議を呈しました。この景時の異議に周りが騒然とする中、重忠だけが落ち着いた様子でこのように言い返しました。
「はて、私はこの首級をその御家人から受け取っただけです」
この言葉の意味とは、重忠の御家人が首級を横取りしたのであれば、何故その本人に異議を申さずこの場で言うのかという意味です。重忠は御家人を預かる立場とはいえ、重忠本人が横取りをしたわけではなくて部下の手柄を報告したに過ぎず、真偽の確認などこの場ではどうしようもないではないかということもこの発言野中に暗に含まれています。この重忠の返答に景時も何も言えなくなり、この話が載せられている吾妻鏡によると周囲も景時を嘲笑って重忠への人気はますます上がったそうです。
こんな具合にいろいろと魅力のある重忠ですがその人気の高さゆえに北条氏の独裁を目論む北条時政に目を付けられることとなり、あらぬ謀反の疑いをかけられて百数十騎で鎌倉へ呼び寄せられて向かう途中、待ち伏せされていた北条一族を初めとする大軍の武士団によって殺害されました。なおこの際、重忠は側近から自分の領地に逃げ戻るべきだと進言されるも、
「もしここで逃げようものなら謀反の疑いが本当だったということになってしまう。それならば武士らしく、一戦交えて華々しく散ろう」
そう言って真正面に突っ込み、見事に討ち死にを果たしたそうです。享年は42歳です。
この畠山重忠の話のほとんどは鎌倉幕府編纂の歴史書である吾妻鏡に収録されているのですが、吾妻鏡は信用性の高い資料として評価されているものの、この畠山重忠の乱がそれを強行した初代執権北条時政がその後北条政子と義時に追放される名目となっていることから、二代目執権北条義時以降の執権政治の正当性を高めるために敢えて重忠が全般において美化されているのではないかと指摘されております。そういう意味では三国志における趙雲と似た特性がありますが、すくなくとも吾妻鏡においては重忠は一線級に魅力のある武将で、私も彼を知ったことから鎌倉時代に対して強い興味を覚えるようになりました。
今日はそこそこ歴史を勉強していても意外と知られていない、平安末期から鎌倉初期に活躍した日本の武将の畠山重忠を紹介します。
恐らく大学受験で日本史を勉強された方は「畠山重忠の乱」という事件名だけは暗記されているかもしれません。日本史の教科書にはこの事件を、源頼朝が死去するや成立したばかりの鎌倉幕府では次々と御家人の反乱が相次ぎ、その反乱の中一つとして紹介されております。
これだけ聞くと畠山重忠という人物は野心的な人物のように見えますが、いくつか異説はありますが歴史の中の彼はこのイメージとは違う、というよりも程遠いまでに清廉潔白な武将像の人物です。
畠山重忠の名が始めて歴史に現れるのは、源頼朝の挙兵時です。1180年、以仁王の令旨を受けて源頼朝は打倒平氏の旗を掲げて挙兵をするのですが、この時は平氏からすぐに討伐軍がすぐ差し向けられた上に思ってた以上に呼応する武士が少なく、頼朝も一時は数人で雲隠れする羽目になりました。この失敗に終わった挙兵初期、頼朝方についた有力武士団の頭領の三浦氏を平氏の指示で討伐を行い、三浦氏の援助を当てにしていた頼朝を窮地に陥れたのが他でもなくこの畠山重忠でした。
その後頼朝が危機を脱した後、頼朝の元へ徐々に武士団が参集していたところで重忠も馳せ参じてきました。頼朝としては味方であった有力武士団の三浦一族を滅ぼした重忠に複雑な思いがあったでしょうが、それ以上に腰を抜かしたであろうが重忠のこの時の年齢でしょう。なんとこの時の重忠はわずか17歳で、本来の畠山家の当主である彼の父が京都に在任中であったために代理として率いていたに過ぎなかったのです。それにもかかわらず関東において名の知られた三浦一族を打ち倒し、堂々と頼朝の元へと帰参して来たのです。
もちろん頼朝は重忠に三浦一族の件を詰問したのですがそれに対し重忠は、当時は平家方の討伐軍がいた為に帰参が難しく、また本来の当主である彼の父が京都にいた為にやむにやまれず平家方についたと、臆することなく堂々と答え、これを受けて頼朝も重忠の帰参を認めるに至りました。
こうして源氏方についた重忠はその後の源平合戦において、目覚しいばかりの活躍を見せ続けます。基本的には源義経の下で槍働きを行うのですが、木曾義仲との宇治川の合戦では徒歩での一番槍を得ており、圧巻なのは平家との一ノ谷の戦いにおける鵯越(ひよどりごえ)でしょう。この鵯越は崖下の平家軍を急襲するために義経が先陣を切って騎馬に乗ったまま崖を下って攻め勝ったというエピソードですが、重忠の馬はこのときに崖にビビってなかなか降りようとしなかったそうです。それならばと重忠が取った行動というのは、なんとビビる馬を自らが担ぎ上げてそのまま自分で崖を飛び降りて行ったそうです。正直なところ、無理せずに馬を置いていけばいいのにと思わせられたエピソードです。
このエピソードのように剛力な重忠は一見すると武辺者な印象を覚えますが、文化的な素養も優れていたらしく義経の妻の静御前が頼朝の前で舞を疲労させられた際に伴奏を務めており、音楽にも造詣が深かったようです。
その後鎌倉幕府が成立すると創業の功臣として、また幕府内における重鎮として奥州藤原氏との戦いから各地の反乱鎮圧に参加し、公平な人柄と態度から名実ともに「武士の鑑」として周囲から高く評価されたそうです。
そんな重忠の人柄をうかがわせるエピソードに、こんなものがあります。
鎌倉幕府がある反乱を鎮めた際、反乱に参加した武士の首級を重忠の御家人が挙げたということで執権の北条時政らの前でその首級を差し出したところ、鎌倉時代最強のチクリ魔で有名な梶原景時が、
「待て待て、その首級はうちの御家人が挙げたところを横取りされたものだ」
という異議を呈しました。この景時の異議に周りが騒然とする中、重忠だけが落ち着いた様子でこのように言い返しました。
「はて、私はこの首級をその御家人から受け取っただけです」
この言葉の意味とは、重忠の御家人が首級を横取りしたのであれば、何故その本人に異議を申さずこの場で言うのかという意味です。重忠は御家人を預かる立場とはいえ、重忠本人が横取りをしたわけではなくて部下の手柄を報告したに過ぎず、真偽の確認などこの場ではどうしようもないではないかということもこの発言野中に暗に含まれています。この重忠の返答に景時も何も言えなくなり、この話が載せられている吾妻鏡によると周囲も景時を嘲笑って重忠への人気はますます上がったそうです。
こんな具合にいろいろと魅力のある重忠ですがその人気の高さゆえに北条氏の独裁を目論む北条時政に目を付けられることとなり、あらぬ謀反の疑いをかけられて百数十騎で鎌倉へ呼び寄せられて向かう途中、待ち伏せされていた北条一族を初めとする大軍の武士団によって殺害されました。なおこの際、重忠は側近から自分の領地に逃げ戻るべきだと進言されるも、
「もしここで逃げようものなら謀反の疑いが本当だったということになってしまう。それならば武士らしく、一戦交えて華々しく散ろう」
そう言って真正面に突っ込み、見事に討ち死にを果たしたそうです。享年は42歳です。
この畠山重忠の話のほとんどは鎌倉幕府編纂の歴史書である吾妻鏡に収録されているのですが、吾妻鏡は信用性の高い資料として評価されているものの、この畠山重忠の乱がそれを強行した初代執権北条時政がその後北条政子と義時に追放される名目となっていることから、二代目執権北条義時以降の執権政治の正当性を高めるために敢えて重忠が全般において美化されているのではないかと指摘されております。そういう意味では三国志における趙雲と似た特性がありますが、すくなくとも吾妻鏡においては重忠は一線級に魅力のある武将で、私も彼を知ったことから鎌倉時代に対して強い興味を覚えるようになりました。
2009年8月25日火曜日
国民栄誉賞に相応しいの誰だ
最近堅いことばかり書いてきたので、今日は久々にどうでもいい記事を書くことにします。
ちょっと古いニュースですが先月、森光子氏が政府より国民栄誉賞を受賞しました。この森光子氏の前の受賞者は作曲家の遠藤実氏(故人)で今年の一月に受賞していますが、遠藤氏の前の受賞者となるとなんとここから9年も前に戻って2000年に受賞した女子マラソンランナーの高橋尚子氏になります。何故これほどまでに国民栄誉賞の受賞間隔に期間が空いたのかといえば、率直に言って高橋尚子氏の受賞時の騒動が大きく影響していることに間違いないでしょう。
この時の騒動や国民栄誉賞がよく指摘されているその基準のあいまいさについては過去に私も「国民栄誉賞について」の記事にて解説していますが、高橋氏への受賞を決定したのが当時支持率低迷に喘いでいた森政権で、その森政権の次に受賞を決定したのが同じく支持率低迷に喘いでいた麻生政権だったことを考えると、やっぱり一時の人気取りの賞として政治に言いように使われているのではないかと思わされてしまいます。
ただこのように国民栄誉賞自体には首をかしげるような点は少なくないのですが、先月に受賞した森光子氏については私は文句なしに表彰されるのに相応しい人物であると考えております。受賞理由となった森氏主演の「放浪記」は上演2000回に加え、89歳の現在においてもなお健康にご活躍される姿は真に評価されてしかるべきだと思います。
しかし、これはあくまで私の主観ですが、もしこれで森氏が国民栄誉賞を受賞するのであれば、もう一人のある女優も受賞されてしかるべきではないかと思う方がおります。その人物とは何を隠そう、「かげろうお銀」の役で有名な由美かおる氏であります。
何故私が由美氏を推すのかというと、なんとこの由美氏も森氏同様にテレビドラマの「水戸黄門」に長らく出演しており、なんとその出演にて200回以上も入浴シーンを撮影したとのことで現在ギネスブックへの登録を申請しているそうです。森氏の2000回と比べて200回では桁が一つ小さくなりますが由美氏が演じたのは入浴シーンで、その日本らしい妙で偉大な功績ぶりを考えると称えずにはいられません。またどうでもいいですが、ウィキペディアによるとノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏と「政界の黄門様」との呼び声の高い民主党の渡辺恒三氏は由美氏の大ファンとのことで、どうも高年齢層にはたまらない女優のようです。ちなみにこの由美氏、今年で御年59歳です。
おまけ
過去記事の「国民栄誉賞について」の記事の中で言及していますが、私は個人的にかつて「ニイヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進氏に国民栄誉賞を是非受賞してほしいとかねてより願っていました。しかしすでに報道されているように、今月の始めに古橋氏は亡くなられてしまいました。古橋氏の偉大な功績に敬意を表するとともに、改めてこの場で哀悼の意を表したいと思います。
ちょっと古いニュースですが先月、森光子氏が政府より国民栄誉賞を受賞しました。この森光子氏の前の受賞者は作曲家の遠藤実氏(故人)で今年の一月に受賞していますが、遠藤氏の前の受賞者となるとなんとここから9年も前に戻って2000年に受賞した女子マラソンランナーの高橋尚子氏になります。何故これほどまでに国民栄誉賞の受賞間隔に期間が空いたのかといえば、率直に言って高橋尚子氏の受賞時の騒動が大きく影響していることに間違いないでしょう。
この時の騒動や国民栄誉賞がよく指摘されているその基準のあいまいさについては過去に私も「国民栄誉賞について」の記事にて解説していますが、高橋氏への受賞を決定したのが当時支持率低迷に喘いでいた森政権で、その森政権の次に受賞を決定したのが同じく支持率低迷に喘いでいた麻生政権だったことを考えると、やっぱり一時の人気取りの賞として政治に言いように使われているのではないかと思わされてしまいます。
ただこのように国民栄誉賞自体には首をかしげるような点は少なくないのですが、先月に受賞した森光子氏については私は文句なしに表彰されるのに相応しい人物であると考えております。受賞理由となった森氏主演の「放浪記」は上演2000回に加え、89歳の現在においてもなお健康にご活躍される姿は真に評価されてしかるべきだと思います。
しかし、これはあくまで私の主観ですが、もしこれで森氏が国民栄誉賞を受賞するのであれば、もう一人のある女優も受賞されてしかるべきではないかと思う方がおります。その人物とは何を隠そう、「かげろうお銀」の役で有名な由美かおる氏であります。
何故私が由美氏を推すのかというと、なんとこの由美氏も森氏同様にテレビドラマの「水戸黄門」に長らく出演しており、なんとその出演にて200回以上も入浴シーンを撮影したとのことで現在ギネスブックへの登録を申請しているそうです。森氏の2000回と比べて200回では桁が一つ小さくなりますが由美氏が演じたのは入浴シーンで、その日本らしい妙で偉大な功績ぶりを考えると称えずにはいられません。またどうでもいいですが、ウィキペディアによるとノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏と「政界の黄門様」との呼び声の高い民主党の渡辺恒三氏は由美氏の大ファンとのことで、どうも高年齢層にはたまらない女優のようです。ちなみにこの由美氏、今年で御年59歳です。
おまけ
過去記事の「国民栄誉賞について」の記事の中で言及していますが、私は個人的にかつて「ニイヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進氏に国民栄誉賞を是非受賞してほしいとかねてより願っていました。しかしすでに報道されているように、今月の始めに古橋氏は亡くなられてしまいました。古橋氏の偉大な功績に敬意を表するとともに、改めてこの場で哀悼の意を表したいと思います。
2009年8月24日月曜日
目指すべき国家モデルの類型~最終回、私の考え編
・目指すべき国家モデルの類型~その一、軍事、外交編
・目指すべき国家モデルの類型~その二、権力体制編
・目指すべき国家モデルの類型~その三、国家信条編
・目指すべき国家モデルの類型~その四、福祉税率編
過去四回に渡って連載してきたこの国家モデルについての連載も、今日が最後となります。最後の今日はこれまれで紹介してきたモデルの中で、今後の日本の政策方針として私が支持するモデルをそれぞれ紹介します。
まず最初の軍事と外交についての方針ですが、これは現在の方針でもある「軽武装重商主義国家」を維持すべきだと私は考えております。というのも日本は中国とアメリカという、どっちも意地を張出したら言うことを全く聞かないちょっと変わった国同士に挟まれている関係で必然的に騒動に巻き込まれやすい国であります。かといってこの両国とも相手にしないで孤高のような独立を保とうにも島国という地理上、本土防衛が非常にやりづらい国家であるために、もし本気で自国ですべての防衛政策を行おうとしたら相当額の軍事費が必要になってきます。
となるとアメリカと中国のどっちかに外交上コミットすることが防衛政策上で非常に重要になるのですが、現状でアメリカのわがままをなんでも聞くのは確かに大変ではありますが、中国よりはまだ信用が置けるということにほとんどの国民も納得すると思います。今後革新的な兵器や外交転換が行われない限りは、この路線が日本にとって最も有益だとこのように考えるわけです。
次に権力体制についてですが、多少悩むものの地方分権型を現在では推します。必ずしも地方分権が権力体制として優れたものだとは思わないものの、少なくとも日本の現状の霞ヶ関官僚体制には明らかに限界が見えており、消毒と心機一転を行うためには一時的にでもかまいませんから地方分権へと一旦舵を切る必要があると思います。
ちなみに何故地方分権に私がこのように不安を感じているかというと、まず三年位前に主に関西の各地方自治体で明らかになった闇専従や昼抜けといった地方公務員の連続した汚職事件があったことと、中国における地方政府の圧政を耳にしているからです。恐らく地方自治体の汚職やモラルから逸脱した行為はまだまだあることが予想され、いくら霞ヶ関が腐敗していようともまた別の腐敗した団体が権力を持つのではないかと、ちょっとこうした不安を抱えております。
そして三番目の国家信条ですが、これは他の国家モデルと違ってやや特殊な材料でして今後どのような方向に国民の目を向かせて国家として強化していくかという方向性で一つに限らなくてもいいのですが、優先順位的に言うと私は文化主義国家を日本人は真剣に盛り立てるべきだと考えております。
これはこのところ私の友人が口をすっぱくしていっていることなのですが、
「昔の外人から見た日本人のイメージは侍だったが、今ではオタクになっている」
これは言うまでもなくアニメや漫画といったサブカルチャーが影響を及ぼしているのですが、あながちこの業界の海外への販売力は強く、二年くらい前に見たニュースで貿易額で言うとこのようなサブカルチャー業界の売り上げが鉄鋼の輸出額を上回ったとまで報じられていました。そのため日本に来る外人も昔とは違ってこのようなサブカルチャーが目当てでやってくるのも増えてきており、事実私の友人の中国人留学生はガンダムが好きで日本に留学に来たほどでした。
このようなサブカルチャーの何が強みなのかというと、一度作ってしまえば維持コストや製造コストが一切かからない点です。言ってしまえば一度普及した漫画はその後には何の手を加えなくとも、そこそこに漫画もアニメのDVDも売れ、安い費用で作ったグッズも値段が高くとも売れます。
こうしたものをもっと日本は世界に対して売り、元の記事でも書いてあるように私は日本人は真剣に観光立国をそろそろ考えるべきだと思います。何もサブカルチャーに限らなくとも明治の頃から外国人を魅了した豊かな自然風景や京都の古寺名勝も備えていることですし、また韓国人ジャーナリストの金慶珠氏が以前にテレビで、「日本人の文化はおもてなしの文化だと思う」と発言しており、言われてみて確かに客人をもてなすのは今の日本人の精神性からしても無理な要求ではないように思えました。
恐らくそういった日本人の精神性、国民性というものを現時点で意識するのであればやはり技術主義が最もフィットして未来があるであろうことはわかるのですが、私が文系出身ということもあってどうも素直にこれを認めることに抵抗があります。もっとも、現状の日本の文学部に早急な改革が必要なことは十分承知しているのですが。
最後の福祉と税率については、あまり解説してもしょうがないのですが敢えて言えば一日でも早く国民の税負担率を上げることが最も未来ある選択だと思います。この辺はまた別に記事を書いて細かく解説してもいいのですが、このように一年や二年先の経済政策や状況を訴えるくらいなら、こうした議論を何故してくれないのかが私は不満だとこの連載で言いたかったわけです。
・目指すべき国家モデルの類型~その二、権力体制編
・目指すべき国家モデルの類型~その三、国家信条編
・目指すべき国家モデルの類型~その四、福祉税率編
過去四回に渡って連載してきたこの国家モデルについての連載も、今日が最後となります。最後の今日はこれまれで紹介してきたモデルの中で、今後の日本の政策方針として私が支持するモデルをそれぞれ紹介します。
まず最初の軍事と外交についての方針ですが、これは現在の方針でもある「軽武装重商主義国家」を維持すべきだと私は考えております。というのも日本は中国とアメリカという、どっちも意地を張出したら言うことを全く聞かないちょっと変わった国同士に挟まれている関係で必然的に騒動に巻き込まれやすい国であります。かといってこの両国とも相手にしないで孤高のような独立を保とうにも島国という地理上、本土防衛が非常にやりづらい国家であるために、もし本気で自国ですべての防衛政策を行おうとしたら相当額の軍事費が必要になってきます。
となるとアメリカと中国のどっちかに外交上コミットすることが防衛政策上で非常に重要になるのですが、現状でアメリカのわがままをなんでも聞くのは確かに大変ではありますが、中国よりはまだ信用が置けるということにほとんどの国民も納得すると思います。今後革新的な兵器や外交転換が行われない限りは、この路線が日本にとって最も有益だとこのように考えるわけです。
次に権力体制についてですが、多少悩むものの地方分権型を現在では推します。必ずしも地方分権が権力体制として優れたものだとは思わないものの、少なくとも日本の現状の霞ヶ関官僚体制には明らかに限界が見えており、消毒と心機一転を行うためには一時的にでもかまいませんから地方分権へと一旦舵を切る必要があると思います。
ちなみに何故地方分権に私がこのように不安を感じているかというと、まず三年位前に主に関西の各地方自治体で明らかになった闇専従や昼抜けといった地方公務員の連続した汚職事件があったことと、中国における地方政府の圧政を耳にしているからです。恐らく地方自治体の汚職やモラルから逸脱した行為はまだまだあることが予想され、いくら霞ヶ関が腐敗していようともまた別の腐敗した団体が権力を持つのではないかと、ちょっとこうした不安を抱えております。
そして三番目の国家信条ですが、これは他の国家モデルと違ってやや特殊な材料でして今後どのような方向に国民の目を向かせて国家として強化していくかという方向性で一つに限らなくてもいいのですが、優先順位的に言うと私は文化主義国家を日本人は真剣に盛り立てるべきだと考えております。
これはこのところ私の友人が口をすっぱくしていっていることなのですが、
「昔の外人から見た日本人のイメージは侍だったが、今ではオタクになっている」
これは言うまでもなくアニメや漫画といったサブカルチャーが影響を及ぼしているのですが、あながちこの業界の海外への販売力は強く、二年くらい前に見たニュースで貿易額で言うとこのようなサブカルチャー業界の売り上げが鉄鋼の輸出額を上回ったとまで報じられていました。そのため日本に来る外人も昔とは違ってこのようなサブカルチャーが目当てでやってくるのも増えてきており、事実私の友人の中国人留学生はガンダムが好きで日本に留学に来たほどでした。
このようなサブカルチャーの何が強みなのかというと、一度作ってしまえば維持コストや製造コストが一切かからない点です。言ってしまえば一度普及した漫画はその後には何の手を加えなくとも、そこそこに漫画もアニメのDVDも売れ、安い費用で作ったグッズも値段が高くとも売れます。
こうしたものをもっと日本は世界に対して売り、元の記事でも書いてあるように私は日本人は真剣に観光立国をそろそろ考えるべきだと思います。何もサブカルチャーに限らなくとも明治の頃から外国人を魅了した豊かな自然風景や京都の古寺名勝も備えていることですし、また韓国人ジャーナリストの金慶珠氏が以前にテレビで、「日本人の文化はおもてなしの文化だと思う」と発言しており、言われてみて確かに客人をもてなすのは今の日本人の精神性からしても無理な要求ではないように思えました。
恐らくそういった日本人の精神性、国民性というものを現時点で意識するのであればやはり技術主義が最もフィットして未来があるであろうことはわかるのですが、私が文系出身ということもあってどうも素直にこれを認めることに抵抗があります。もっとも、現状の日本の文学部に早急な改革が必要なことは十分承知しているのですが。
最後の福祉と税率については、あまり解説してもしょうがないのですが敢えて言えば一日でも早く国民の税負担率を上げることが最も未来ある選択だと思います。この辺はまた別に記事を書いて細かく解説してもいいのですが、このように一年や二年先の経済政策や状況を訴えるくらいなら、こうした議論を何故してくれないのかが私は不満だとこの連載で言いたかったわけです。
2009年8月23日日曜日
目指すべき国家モデルの類型~その四、福祉税率編
今日紹介する国家モデルも現在の日本において議論が必要な話題で、本来なら政治家が争点にしなければならないのですがいくつかここで私が分類を出しておくことにします。今回の国家モデルの分類に当たって着目する点は福祉と税率で、そんなに難しくないので早速分類を紹介します。
1、高福祉高税率(北欧諸国)
2、低福祉低税率(アメリカ)
3、中福祉低税率(現在の日本)
見てわかるとおりに福祉政策と税率を上中下に分けてはいるのですが、何故だかそれぞれが対応しない妙な組み合わせを三つだけ載せています。何故こんな組み合わせを三つだけ紹介しているのかというと、ちょっと今の日本の状況と今後の行く末を合わせて解説するために敢えてこの三つに分類いたしました。
まず一番目の高福祉高税率モデルについてですが、これはスウェーデンを初めとする北欧諸国で現実に実施されている政策モデルです。これらの国は国民の税負担率が日本などの先進国と比べると極端に高いものの生活費から教育費まで何から何まで国が出してくれるので、日本人のひきこもりが生活費などを親に依存するのに対して、スウェーデンのひきこもりはそれを国家に依存して生きているそうです。
こうした北欧諸国に対して日本の福祉税率モデルは私の見るところ巷では二番目の低福祉低税率モデルだと思われている方が多いように思えるのですが、私は日本の現況は実際には三番目の中福祉低税率モデルだと考えております。
これは何も私自身が編み出した考え方ではなくどこかの評論で見たのですが、医療費が完全自己負担のアメリカに対して日本は国民皆保険制度や失業保険があり、現実的には今でも立派な中福祉国家であってそれをアメリカに次ぐ世界的にも低い国民税負担率で実現しているという指摘がありました。この指摘については私も同意見で、何故日本が低税率でありながら中福祉を実現しているのかといえばひとえにこれまで高い経済力があったことに尽きると思います。
しかし現在の日本では社会的セーフティネットが崩壊していると各所で言われるだけでなく、年金問題でも未だ収拾の目処がつきません。この様に日本の福祉政策に綻びが見えるようになったのは何故かというと、これまでの日本の政策決定者が日本経済が高成長を維持し続けることを前提に福祉政策を作ってきたためだと断言できます。言ってしまえば仮に20年前、大目に見ても15前の段階で低成長を見越した政策路線に変更していれば福祉政策はおろか、財政状況も今の日本とは段違いに見栄えがいいものになっていたと思います。
では今から、たとえ経済一等国の名を捨てることになってでも、そのような低成長路線で国を維持させられる方向に舵を切るべきなのかですが、残念ながらすでにこれは手遅れだと先ほどの中福祉低税率の指摘をした評論家の方が述べていました。日本がそのような低成長路線に舵を切るにはすでに財政は火の車で、なおかつ少子高齢化の進行のためこれからの日本の老人を養うためには高成長を維持しなければならないそうです。無論、維持できなければそれまでということです。
ついでに書いておけば、一番最初の高福祉高税率モデルも日本で実現するのは不可能だと言われております。何故かというと日本は北欧諸国と比べて段違いに人口が多いため(日本:約1億2700万人、スウェーデン:約1000万人)、これで高福祉を実現するとなると財政が回らなくなるのは目に見えております。
じゃあどうすればいいかですが、敢えて私の意見をここで述べると内容が内容なのでぼかして言いますが、誰か一人が大久保利通のよう殺される必要があるのではないかと考えているわけです。
1、高福祉高税率(北欧諸国)
2、低福祉低税率(アメリカ)
3、中福祉低税率(現在の日本)
見てわかるとおりに福祉政策と税率を上中下に分けてはいるのですが、何故だかそれぞれが対応しない妙な組み合わせを三つだけ載せています。何故こんな組み合わせを三つだけ紹介しているのかというと、ちょっと今の日本の状況と今後の行く末を合わせて解説するために敢えてこの三つに分類いたしました。
まず一番目の高福祉高税率モデルについてですが、これはスウェーデンを初めとする北欧諸国で現実に実施されている政策モデルです。これらの国は国民の税負担率が日本などの先進国と比べると極端に高いものの生活費から教育費まで何から何まで国が出してくれるので、日本人のひきこもりが生活費などを親に依存するのに対して、スウェーデンのひきこもりはそれを国家に依存して生きているそうです。
こうした北欧諸国に対して日本の福祉税率モデルは私の見るところ巷では二番目の低福祉低税率モデルだと思われている方が多いように思えるのですが、私は日本の現況は実際には三番目の中福祉低税率モデルだと考えております。
これは何も私自身が編み出した考え方ではなくどこかの評論で見たのですが、医療費が完全自己負担のアメリカに対して日本は国民皆保険制度や失業保険があり、現実的には今でも立派な中福祉国家であってそれをアメリカに次ぐ世界的にも低い国民税負担率で実現しているという指摘がありました。この指摘については私も同意見で、何故日本が低税率でありながら中福祉を実現しているのかといえばひとえにこれまで高い経済力があったことに尽きると思います。
しかし現在の日本では社会的セーフティネットが崩壊していると各所で言われるだけでなく、年金問題でも未だ収拾の目処がつきません。この様に日本の福祉政策に綻びが見えるようになったのは何故かというと、これまでの日本の政策決定者が日本経済が高成長を維持し続けることを前提に福祉政策を作ってきたためだと断言できます。言ってしまえば仮に20年前、大目に見ても15前の段階で低成長を見越した政策路線に変更していれば福祉政策はおろか、財政状況も今の日本とは段違いに見栄えがいいものになっていたと思います。
では今から、たとえ経済一等国の名を捨てることになってでも、そのような低成長路線で国を維持させられる方向に舵を切るべきなのかですが、残念ながらすでにこれは手遅れだと先ほどの中福祉低税率の指摘をした評論家の方が述べていました。日本がそのような低成長路線に舵を切るにはすでに財政は火の車で、なおかつ少子高齢化の進行のためこれからの日本の老人を養うためには高成長を維持しなければならないそうです。無論、維持できなければそれまでということです。
ついでに書いておけば、一番最初の高福祉高税率モデルも日本で実現するのは不可能だと言われております。何故かというと日本は北欧諸国と比べて段違いに人口が多いため(日本:約1億2700万人、スウェーデン:約1000万人)、これで高福祉を実現するとなると財政が回らなくなるのは目に見えております。
じゃあどうすればいいかですが、敢えて私の意見をここで述べると内容が内容なのでぼかして言いますが、誰か一人が大久保利通のよう殺される必要があるのではないかと考えているわけです。
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